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自分が大阪市に住んでいたころの小学校の先生は「歴史の学習内容は全て間違っている可能性が高いから、あくまで将来の受験に備えた勉強用として学んでくださいね、歴史は教科書の中にはないから」って教えてくれた。今、思えば本当にまともな先生だったんだなあとつくづく思います。
立派な先生ですね。
すばらしい先生だ。
そうだったんだ⁉️自分の感性(真実を見抜く力)が邪魔して歴史の授業内容がサッパリ頭に入らなかった道理が解明した‼️😊(苦笑)
@@k8a8z8 わかる俺も宇宙人だから、高校の化学と物理の程度が低すぎて眠くてしょうがなかった。
めちゃくちゃいい先生だな
非常に納得しました
熊本県民です。基本的に先生の説に賛成。邪馬台国奈良説は国策ですね。国の始まりを3世紀に統一したい、その場所も奈良盆地にまとめたい。邪馬台国も倭の五王も初期ヤマト王権も全て国策として統一したいから。そのために毎年莫大な国の発掘予算で奈良盆地を発掘している。何か出るとマスコミを使って大々的に報道する方針。そこには北部九州説とか四国説とかあり得ない。宮内庁もそれに従い重要な古墳の発掘をさせない。何か奈良説にまずい物が出てくると困るからね。魏志には書いてある。邪馬台国の東の海の向こうにも別種の倭人の国々があると。は?奈良盆地の東は海がなく鈴鹿山地。南には対立戦争した狗奴国があると。は?奈良盆地の南は吉野熊野の険しい山間地では。卑弥呼の墓は円墳と書いてあるのに奈良盆地の箸墓古墳は前方後円墳では?朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで12000里と書いてあるが北部九州の奴国までに既に10000里、とても畿内奈良まで届かない。九州に収まる範囲では。邪馬台国は筑後川流域にあったはず。その連合国は東の宇佐地方まで支配していた。南の狗奴国はまさに熊本の菊池川流域にあり、その中心は山鹿の方保田東原遺跡群だったはず。豊かな砂鉄と稲作があった所。奈良盆地の遺跡群は邪馬台国と同時代に存在した東の海の向こうの別種の倭人の国々。鉄ではなく銅鐸文化の牧歌的な国々だった。故に後年、九州勢力が東征した際割と容易く征服された。倭の五王たちの初期ヤマト王権が樹立されたのだ。間違いない。
長浜先生の解説は説得力があります。これで合点がいきました。
いろんな書籍や動画を見たけど、この番組でやっと納得できる説明に巡り合いました。長浜先生の年表を画面コピーしてプリントしました。こういうのが欲しかったのです。ありがとうございます。
長浜先生のレクチャーで邪馬台国論争をすっきり終わらせ、納得することができました。ありがとうございます。
既存政党には一切期待しませんが、いつか保守政党が政権を握った場合は、古代から現代まで日本史全体を根本的に見直さないといけないですね。
極論を言うようだけど、日本が歴史を全て取り戻すにはもう一回アメリカと戦争をして今度は勝つしかないです。それくらい戦後の日本は絶望的な状況です。
@@user-mx5qx5oj9c 悔しいけどたしかに
邪馬台国、筑後川近くはイメージに持ってた九州で安心しました。(過信は行けないので自分でも調べて最終的な考えを模索します)勝手に頭で想像したのを歴史にするのは万死に値するくらい許せませんね……
古代における正しい歴史を知るには、あらゆる学問からそして多方から、論理的かつ合理的に合致するか見なきゃいけない。それを放棄している学者の意見より、それを成している学者の意見の方が尊重できるのは必然。
この三橋とかいうやつはネト、ウヨだぞ
西村博之 思考停止が口にする単語発するのやめろや
みやま市出身者です。魏志倭人伝を読んで、現地の地形や伝説、遺跡から我が故郷が邪馬台国だと思っています。
みやま市の女山神籠石を訪れて、私もそう確信しています。
ユーチューブに幾つもUPされている福永晋三さんの講演が、多角的な視点から論理的に解説されていて面白いですよ。
凄い納得。一番合理的な邪馬台国の位置特定だと思います。
方角がまるで違うのは何故か長年疑問でしたが、夏は日が真東より23度北から上るという分析に納得。
魏志倭人伝の邪馬台国は明らかに九州にあった国のことを指していることは間違いない。しかし、同時に現在の奈良県に強大な国があったことも間違いないはず。
まさにそれは魏志に書いてある、邪馬台国の東の海の向こうに別種の倭人の国々があると。それも鉄文化の北部九州とは違い、銅鐸文化の牧歌的な国々だった。故に後年、倭の五王たちが東征した際、奈良盆地は割と容易く征服され初期のヤマト王権が樹立されたのだ。
この通りです。”真・日本の歴史”さんのご研究と全く同じですね。「魏志倭人伝を素直に読みましょう」という事に尽きます。またコメントに〝へんしゅうちょー”さんが言われているように、歴史は変わるんですよね。特に時の権力者(考古学で第一人者であると言われる学者の保守的なアタマの人)が近畿説が正しいと言うと、みんながそれを信じて行く。
邪馬台国が旧山門郡(みやま市から女山)当たりだとすると「卑弥呼」が誰であったかを教えて欲しい。30国余の邪馬台国連合国を左右する権力を持っていた女王が居を構えるところが邪馬台国であったとするとその人物が相当の力量を有していたか日巫女であったと思います。田油津姫は山門郡の土蜘蛛の巫女女王であったが神功皇后に滅ぼされたと言われるし時代が100年以上違うと考えます。
真実を学ぶには税金で運営されてる組織なんかには頼っちゃだめだって事か
聞くたびそいつら学者らは知識を持つ人間なのか?と思う
騎馬民族征服説を称えたえがみなみおせんせいは
古代の河川海岸線、山地の地形図と周辺の遺跡、官道を示してくれるとなおわかりやすいですね
倭人伝の中に道について書かれてあったと思う。かなり貧弱であったことを考えると河川利用の水運が便利だったのでは?と思う。伊都国が外交窓口の国際都市だったのでは?とも予想。そこを抑えるのは、奈良では遠すぎる。背振山地を挟んで南の筑紫平野なら動きやすい。伊都国~背振山地~筑紫平野という狼煙の連絡網が有ったかも。後の白村江の戦い・元寇で、大宰府の北側が最終防衛線だったと思う(水城跡)。筑後川上流には、鉄鏡が出土した地域も。
賛成です、当然です。👏👏👏
過去の流れは、全てを忘れさせて、現在の行いは全て悪だと反省させる。反省は現在ではなく、過去の流れを省みる事なのにな。現在に対して反省したら、何も出来なくなる。
長浜氏の説は、正しいと思います。この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。関心があれば、誰読んで下さい
ニッポン人の誇りを再考させられる素晴らしい話が今までの緊縮財政という怒りを見事に払拭してくれた。よいお年を!
題はうろ覚えなのですが、昔江戸時代の邪馬台国論争について書いた本を読んだことがあって、新井白石が出した結論が長浜浩明の述べていることとほとんど一緒だったのを思い出しました。
関西人なので個人的に畿内説を信じたいと思ってましたがこれを見るとどう考えても九州ですね。ずいぶん前ですが邪馬台国をずっと研究してると言ってた上岡龍太郎が「九州説を主張する人はバカです」とテレビで言ってましたがそれこそがバカで妄信だったのかと。
魏志倭人伝には女王国では鉄のやじりが使われていたとあります。一方で日本書紀には安康天皇の時代(天皇の位につく前)にはじめて軽矢(鉄製鏃)が作られたとあります。邪馬台国と大和が同じ国なら安康天皇よりも前の時代に鉄製鏃が作られていないとおかしいです。別々の国だったとしても鉄製鏃の作成が大和で遅れた理由がわかりません。誰か詳しい人教えていただけたら幸いです。
そのようなところが盲点になるのですな
日本では、鉄鉱石は取れません。新羅からの「輸入品」です。中国がレアメタルの輸出を日本にしなかったら、明日から自動車もスマホも「万歳倒産」です。
戦後はアメリカの占領下にあったから、GHQの命令で日本の歴史を否定されたかもしれないが今は完全独立国だからきちんと日本の歴史を教えるべきだと思う。変な歴史家なんかに邪魔されないように。
箸墓古墳には槨があるから卑弥呼の墓とは関係ない。魏志倭人伝の記述と一致しない遺跡がどんなに出ようとそれは邪馬台国とは関係ない王朝だ。
史学部希望なのですが、そのような学者が多いなら、史学部は絶望的でしょうか?
17:33 ”船で小さい浅い川を遡上できる筈が無い” という説を聞きますが、外洋を渡るに使ってきた漕ぎ手両舷で20余名とかの大型船を使わなくても、竹竿で押して進む小型の船で良いわけで。小回りも利くし。2回乗り換えれば良いだけの話。御笠川と宝満川の距離も4キロに満たないし。
古文書も含め、古代書籍も思想・願望を交えず、素直にあらゆる科学的知見にて検証を重ねながら読み解き研究しないと日本のありよう未来めでも見失う。
皆さんは知らないと思うが菊池市の松野家から松野連系図と云われる古書が出てきて、それに卑弥呼や倭の五王と思われる人物が載っている(景行天皇や日本武尊に征伐された土蜘蛛や熊襲の人物も載っている)ので、邪馬台国は菊池市でほぼ間違いないだろう。距離的にも太宰府から1,300里(約90Km)で魏志倭人伝の記述に合う。ちなみに、松野家の開祖は中国の秦の前、周王朝の王らしい。
osamakeikoさん 松野連系図に書かれていることが本当なのかを示す物証などは見つかってないと思いますが、邪馬台国が菊池市であるとすると狗奴国はどこですか?三世紀という邪馬台国の時代に纏向で発祥したヤマト王権とどうつながるのかが分かりますか?
邪馬臺国は阿波だった
邪馬台国の住民は、貝を食べていると書かれているけど、多分、有明海の事だと思うので、畿内ではないと思う。
沖縄
西都原古墳瓊瓊杵尊と木花開耶姫が眠っていますよ!霧島山の高千穂峰には天の逆鉾天孫降臨の記しです。日本列島を作った時にかき混ぜたとされる天の逆鉾です。宮崎はパワースポットの宝庫です。
11:30 水行20日って書いてるんだろw 自分も妄想入ってるじゃん
邪馬台国がどこにあったかについては諸説あります。なぜか?決定的な証拠となる文書なり遺跡が見つかっていないからです。とんでもない説でなければ、何を言ってもいいわけです。長浜先生の説は最もらしい気はしますが、あくまで仮説にすぎないことをきちんと言うべきです。
各経由地での歓迎会のために日程が長くなる理屈は、他の旅程の記述にも適用されるのかな。そうでなければ恣意的に思えて納得しにくいです。
ほぼ同意。機内説なら、西日本(南九州を除く)を支配していないと、伊都国支配は無理。それほど広大な地域を支配できていたかは疑問。纏向遺跡が~という人がいるだろうが、魏が知る倭国とは別物だと思う。TVを見てて、もしかして筑紫平野を含めた有明海連合だったかもと感じた。個人的には、筑紫平野を中心とした佐賀・福岡に渡る地域に思えるが。
名前が邪馬台国と大和の読みが似てるのも、変に解釈してしまった原因かもしれませんね。
それで問題ない。邪馬台=ヤマトで正解。
@@usa7006 inoues.net/yamahonpen2.html
考古学と歴史学は別モノで別れてしまってますから、両者を結び付けて語ることには極めて慎重・無難な姿勢。なので遺跡の発掘調査説明会は、何が出土したとか幅何センチとかデータを淡々と語るのがメインで基本的につまらない。例外的に纏向遺跡を発掘した素人あがりの人が、わが手で卑弥呼の宮殿を掘り当てたぞと喜んで居られたけど、断定できないことを断定しちゃって良いの?と驚きました。纏向がヤマタイコクなら=大和朝廷になってしまう。近くの黒塚古墳から卑弥呼が魏から貰ったとされる三角縁神獣鏡が出たことや、箸墓古墳も根拠だったかな。たぶん根拠として弱いと思いますが。 纏向の2つの宮跡は少し山際のほうに石碑が建っているけど、纏向の大型遺跡が出たのは平地部分。纏向も毎回発掘の現地説明会行ってますが、儀式用の桃の種が大量に出土したとされてるけど、後世に地形が削られたか流された感じで失われて、本当は多分もうちょっと有ったらしいです。現場で見聞きした細かい話。
我田引水の議論。不誠実さは、これまでとまったく同じ。
自分の理解として、単純に大和朝廷が奈良近辺にあったからそこに合わせて邪馬台国を考えたのだろうなどと思っていました。つまり邪馬台国を北部九州の一部として理解し、国の規模を今の県単位として捉えようとするからイメージが変わるということだろうと思います。国とは市町村程度の単位であったのでしょう。このあたりの認識は日本の成立に重要な影響を与えるので慎重に検討すべきだとは思いました。ただ、個人的にはチャイナの文献に書かれている内容自体どこまで信用できるかという根本的な問題もあると思います。
アカデミックの場では、ほぼ纏向遺跡のところが邪馬台国で決着がついている。でも、在野の歴史愛好家の間では、いまだに邪馬台国九州説の人気がある。
@@usa7006 アカデミックのいい加減さと、戦後の偏向言論の強制。そういう立場のエセ学者については身元を洗い出してから検証する必要があるのではないか?
@@usa7006 アカデミックwww長浜さん曰く、公開討論に応じない、質問に一切答えない人達のことですね。書籍の中でことごとく矛盾を指摘され、論破されていましたね。
帯方郡から投馬国まで水行20日、帯方郡から邪馬台国まで水行10日と陸行一月。それぞれ独立した別記事であり、投馬国から邪馬台国への旅程の記事ではない。これは魏志倭人伝にはないが魏志には載っている「又」という一文字が解読のカギとなる。
長浜さんは、放射能の安全性についてもお話しされてるので、ぜひそれを取り上げてほしい。竹田恒泰や武田邦彦、小林よしのりなど愛国者ぶってる奴らが、でたらめを言い危険をあおるせいで、被災者は帰れず死んでいる。人災ですよ
実際、放射能が体に悪いなら、広島の原爆の被害者はどうなるのか?更には、太陽光線と宇宙放射能による地球全体の影響などまだまだ未知なことだらけです。自分の憶測ですが太陽が活発(黒点が多い)と地球の気候が安定する傾向。太陽が宇宙放射能から守っている。太陽活動低下(黒点なし)になると、太陽よりエネルギーがある宇宙放射能により地球の内部に刺激が加わり、地震、火山 台風など自然災害が多発しているのではないかと推測してます。更には生物学的にも進化のきっかけを与えているかもしれません。
好古都國(hog kag tag=博多)
九州説が濃厚だ。宮崎県の高千穂峰も解明されたし。
丹
方角の解釈が「進行方向に向かって」とねじ曲がったり、日数の解釈が「歓待を受けてゆっくり進む」とねじ曲がったり、九州説に無理があることがよくわかりました。魏志倭人伝にはたくさんの描写があり、そのひとつひとつを検証してはじめて証明したと言えるはず。その地に丹があるか?も含めて。出身地を身びいきする気持ちはわかりますが、本解説を「なるほど!」と聞いている三橋貴明さん、がっかりです。
宴云々からはファンタジー。そもそもなぜ、ここから短里で話すのかを解説してほしかった。
これ見たら今までの学者がいかに偏っているかわかる比較検証ばかりの説とは異なり科学的根拠があるruclips.net/video/63bNv7RmHHc/видео.html&feature=share
陸行一月っていうのが気になったけど、昔の道ならそんなもんなのかな。間違いない、卑弥呼の墓を探すべきだ。
対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里は同じ距離なのでわかるが松浦までは半分の距離、五百里位では?同じ距離千里なら宗像大社や宮地岳神社、古墳群のある宗像では?壱岐から海の正倉院、沖ノ島を通り三女神の宗像が末盧国では⁉️
その意見に賛成ですね。昔読んだ高木彬光さんの「邪馬台国の秘密」は説得力がありました。今回の先生の場所だと 東に海が無いです。
@@原平次基 詳しくは私よりも豊の国古代史研究会、福永晋三先生のRUclipsを見られて下さい。私はこれを見て全部は納得していませんが真実もあると思い広めたいと思っています。
@@ひひ-k9m さん、ありがとうございます。福永先生、当時の海面の高さとか史跡や海流も検討して、魏使は宗像神湊上陸。納得です。
@@原平次基 ご丁寧に、ありがとうございます。
倭国、和国。色んな字をあてるからこんがらがる。
邪馬台国=ヤマト国?和国が周囲の国を集約して大が付いて大和?
渡部昇一先生しか信じない。。という気持ちが強い
お話にならない😂
沖縄県です。古代ピラミッドが与那国島の海底にあります。
沖縄と台湾のことだが 関係ない仮想国として 起源の地 とした
初めて興味持って調べています。壱岐から千里って結構あるし、あえて南と書いていないんだよね。次は陸路で東南500里だからね。太陽見てたら方角間違わんでしょ?また、100里単位で国が書かれているのもポイントかと。女王の国そんなに大きくないんじゃない。末盧ー福岡の海岸の何処かからの距離を計算すると、人口抱えられそうなところは熊本市、大分市あたり。東に海であれば、豊前豊後が女王の連合国じゃないかな。宗像も近いし。鮑潜ってたらしい。宇佐も、日本書紀に載せない意味もありそうだし。
みなさん、スタートが間違っています。倭人伝の「女王国」は卑弥呼が女王の倭国を意味していますが、邪馬台国はそこらは離れた別の地域にありました。卑弥呼とは別の女王が都していたのが邪馬台国です。
出発する方向?後は自由てことでしょうか?全行程もそれでいいのでしょう九州とか畿内とか言えないと思いますけど?
長浜説は納得できない。魏志倭人伝の不彌国以降の旅程の記述以外はあらゆる点で邪馬台国が北九州(おそらく菊池市辺り)にあったことを示唆しているが、長浜さんの不彌国以降の旅程の解釈はやはりこじつけだ。おそらくオリジナルの魏志倭人伝は投馬国も邪馬台国も距離で書いてあったと思うが、後年に大和朝廷からの使者が来て機内のことを言うので後の人が書き換えたのだろう。大和朝廷も邪馬台国が朝貢していたことは知っていたが、自分が滅した国のことは記紀に書けなかったと思う。
osamakeikoさん 長浜さんも、多くの研究者は先に自分の思う場所があり、それになるようにこじつけ解釈するので、万人が認めることにならなかったのですよ(@_@)基本はどうにでも解釈できる文献を頼り過ぎないことですね(^_-)-☆ですから、逆にというか正しい方法は、考古学や民俗学の成果から仮説を立てて様々な検証を行って科学的に推理する方法しかないのですよ。その過程で文献の内容のどこがウソなのかもわかりますよ。ですから、あなたがそういう仮説を立てたのならばいろいろと検証してみるとその仮説が真相を明らかにしたものかが分かります。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」を参照ください。お邪魔しました(*^▽^*)
「邪馬台国」??魏志倭人伝に書かれてるのは「邪馬壹国(やまとこく)」でしょ??
で?
当時の地形や土壌を考慮した食料自給率の推測が抜け落ちてますね。邪馬台国はそれなりに国力があったはずですから。
神輿の様な物に乗って移動してたなんて記述はどこかにあるのだろうか?そもそもそんな時代にそんな文化が存在していたのだろうか?文化人類学的に…との事だが…
自国建て通貨が発行できてかつ、変動相場制を採用している場合、北朝鮮ウォンのような弱小通貨でもデフォルトは起こらないのですか?誰でもいいので教えてください!!
債務不履行は起こりません。が、国内に供給能力がないため、北朝鮮が通貨を増やすとすぐにハイパーインフレになります。
佐賀大和説はないんか?
今に伝わる魏志倭人伝の写本になぜ矛盾した表記があるのかについて井上悦文さんという書家の方が書家ならではの鋭い視点で論じられていますのでご興味があればぜひご覧ください。ruclips.net/video/U1D0EURZBpY/видео.html邪馬臺国と邪馬壹国、一支国と一大国など地名にまつわる謎についても解明のヒントを示されています。
科学的批判は重要だが侮辱はだめ。大学権威には弊害はあるが作家という立場も学術的批判にさらされないユルさがあるからだめ。考古学者が文献を無視するのは当然。歴史家が恐れるのが考古学者の実証精神。
宮脇淳子氏もたしかフィクション説とってたような。ま、彼女は旦那さんからの受け売りなんだろうけど。どっちの見解が正しいかは私は分からないけど、否定派は読んでない人って決めつけはフェアじゃないね。
ですよね。勿論、読んだ上で否定されているのでしょう。否定派は読んでいないなんて言い切るのは誤りだと思いますね。
最近は四国説が有力になってきた
本当は四国です
中国人に読ませるのだから、このくらいでもいいと思って書いた。陳寿。285年頃書いた。 張政が行ったのは、240年頃。45年前のことを聞き捨てに書いた。地理距離方角覚えてる? 張政は、何回ソコへ行ったのだろう??
地球 月 金星 水星 太陽 火星 木星 土星 この順番は地動説の図を用いても完璧には理解と説明が出来ない。天動説の図があって初めてスッキリ理解できる。倭人伝の文書を、最初から最後まで現代の正確な地図にあてはめるのは、天動説の文書を地動説の図にあてはめるようなものだと思います。
そもそも、卑弥呼を女王に立てたのはそれぞれの君(王)たちの和議によるところが主になると思いますので必ずしも最大勢力の国家である必要が無いのでは?自分は宇佐が女王卑弥呼の故郷で国の政庁は日田市に在ったと思います!!!
東遷はしただろ。問題はタイミングがいつだったかっていうだけで。従来の歴史学者が信じられないのは同意だが、0/1で物を語る人たちも信用できないよね。東遷を否定するなら京都は存在せず福岡あたりに首都が会ったはずだろ?
邪馬台国は滅んだんだよ。大和朝廷に滅ぼされた。邪馬台国が今につながる皇室の祖先と言う頭を捨てる必要がある。
邪馬台国=大和朝廷。
三橋TVの別の動画で長浜さんが神武東征の解説してる動画があってそこで北部九州の邪馬台国が大和王朝の前身で東遷した説はありえないと筋道正しく解説してらっしゃるから見てみるといいよ。
東遷とは呼べないかもしれませんが北部九州の勢力が吉備経由でヤマトに入植したのは 間違いないと思います。根拠は地名の移動です。笠置山、田原、住吉神社、三輪、朝倉 等 北東部九州の地名がヤマトに移動しています。配置も似通っています。ただ卑弥呼の邪馬台国ではないと思います。あるとすれば 後継の「トヨ」の勢力の一部が合流している可能性があります。山門の卑弥呼と 豊の国(豊前、もしくは豊後) のトヨに血縁は無いと考えます。
長浜浩明は全然ダメ
これは本当だよー近くには有明海があって昔は貝拾いに行っていたよーまた山川みかんや高菜やアスパラなどが作られていてとても有名なところだよーまた京都の清水寺の本寺という清水寺もあるねーみやま道の駅があって店員さんも良い人たちだよ。
いきなり都合良く東南の方角を捻じ曲げてるのワロタ。当時そっちが東南だった記録他にもあるのかね?古代人はそんなにあほじゃないと思うよ。
末盧国が呼子辺りだと東南になるけどな
三橋氏の主張は個人的うらみが垣間見えるからウケる🤣
長浜先生は神武東征はあったと言ってんだろ。何故九州なんだよ。桂川光和先生に教えを乞いなさい。
神武東征と「女性がシャーマンの卑弥呼の国邪馬台国」が同じと「日本列島全国民」は、ゴッチャになっている。
邪馬台国が、二つ在るように思えるのは、東征する前の九州の邪馬台国と東征して新しい場所の邪馬台国が混在するからでは?九州から奈良まで、遷都するには時間かかるのでは?
いや、同時期の纏向と吉野ヶ里を比べると、纏向の方が進んでる。近畿が逆に九州を滅ぼし統一したと考えた方が自然でしょ。吉野ヶ里は竪穴式住居だし。
魏志倭人伝に信憑性ある??うのみにするとこういう説になる。
7万戸の人口は奈良盆地くらいでしか養えないんだけどねぇ……本に書いてあることだけだと曲解しないと辿り着けないんだから、結局は物理的な証拠が無いとダメなんだよ。史実を書く努力をしている魏史ならともかく、神話なんて証拠になるわけがない。そして、物理的に現在最有力なのは纏向。山門郡からデカい遺跡が出れば別だが……
質問させて下さいっす!!!!奈良説の人でも対馬と壱岐は比定地として認めている思っておりますが、対馬壱岐のそれぞれ数千戸はありえて、福岡本土の数万戸はありえないということでしょうか?何が言いたいかというと、戸数は正しいと仮定すると、離島の人口がものすごくなる(インフラの整った現代の対馬・壱岐の人口の二分の一、三分の一に迫る巨大な人口が当時いるはずがないという意味)、ということになります。魏志倭人伝には、これらの離島は、碌な田畑が無いので本土へ食料を貰いに行くという記述があるにも関わらず、です。逆に、離島でもそこまでの人数を養えるのであれば、本土がそれの十数倍程度でも問題無いでしょう。(参考までに、現代の福岡の離島と本土では人口が数百倍のオーダーで違います。)邪馬台国系動画のコメントを見ると、追い詰められた(😱)奈良派の人の最後の武器が戸数問題のようですが離島の人口に目を向けると、その握った剣はボロリと崩れ去ると思われます!!!!自分のように理系であれば、数学的な感覚で、当然そこに気付くのですが…。な~んて考えているんですけど、どうでしょう^^;奈良説の最終防衛ラインを突破してしまっていたら、ごめんなさい^^;
@@pocapamas そう思うなら査読の通る論文を書くか、九州に発掘に行けばいいのでは?数々の研究者が色んな論文を書いた結果奈良説が優勢になっているのに、在野の人間が学術的に認められない形態で主張しても何の意味もありませんよ。追い詰められたって言うけど、学術的に奈良説が優勢なのに追い詰められてるわけがない。例え7万戸が盛った数だとしたら、九州説最大の根拠である全行程1万2000里の信憑性も薄れるよ?自分も7万戸とか適当に言ったけど、でも史書の内容だけじゃ何も分からないからね。今考えたこじつけだけど、例えば「1万里までは船で1日進んだ距離を100里に設定してるけど、使者は一大卒までしか行ってないからそこからは普通の一里400m以上の測り方で倭人が測定した距離だから、邪馬台国は奈良」みたいな言い方もできるわけで……結局はブツが出ないとどうにもならないのよ。纏向はかなり広いのにまだ5%くらいしか発掘できてないくらい広大で、しかも稲作村ではなく純粋な都市機能があったと考えられているから優勢なんだよね。決定的な証拠はまだないけど。
@@腋ノ下腋乃わきのん >学術的云々長浜さん曰く、公開討論に応じてくれないようです(笑)まあ末代までの恥ですからね長浜さんの本を読むと、たくさんの奈良派論破集が載っているので、オススメですよ奈良にもっていきたいから都合によって方角をあちこち入れ替える論文(笑)査読(笑)ちゃんちゃらおかしい(笑)在野の人間に秒で論破され、逃げ回っている、村社会の田舎学会を権威として崇め奉る時点で終わっています現代の最新技術をもってさえ、〇ロナに関して学者同士の意見が食い違っていること考えましょう政府お抱えの学者が〇ロナに関して予想を外しまくっており8割おじさんが「俺は日本国において〇ロナの最高権威だから、絶対的に正しい!」と強弁をしても「まーた言ってるよw」とせせら笑われるばかりです>1万2000里の信憑性も薄れる薄れない何故なら比率が正しいからデタラメを書いていたら、帯方郡:狗邪韓国:対馬:壱岐:唐津の距離の比が7:1:1:1と現代の地図と照らし合わせてほぼ一致していることはありえない里は何mか?の絶対値問題に関しては、比定出来る都市間の距離で、解決出来た戸数問題も、同様に、絶対値を推定するしかない場合、カギの一つに比率がある離島と本土の比率を考えれば、九州説を否定する根拠には、全くならないしかし、何千年も変化しない都市間の距離と違って、人口は、変動が大きい要素こういうのも、ある程度の偏差値以上の理系なら分かるんだけどなあ…ていうか、一辺の長さと二つの角度が分かってれば、三角形を再現出来る、みたいな中学生でも出来なければいけないことですよ?>ブツこれも魏志倭人伝に書かれている特徴のものやチャイナ由来のものは九州が圧倒的ですねちなみに奈良の遺跡は大和王権の遺跡ですし、いくら大きかろうが、証拠にはなりませんだって、千里の東の海の先にも倭人がいるという記述は、九州から海を隔てた本州もしくは四国にも倭人がいるようだ、ということを示しており奈良なんてのは、魏志倭人伝で語られている話の範疇外なのですから・・・この当時は、邪馬台国はまだ併呑されておらず、大和王権と併存していたということです九州邪馬台国と大和王権の関係は、長浜先生は記紀を読み解いて、それを解説しております
@@腋ノ下腋乃わきのん さん 邪馬台国纏向説は纏向遺跡を掘った専門家も否定しているのご存知ですか?邪馬台国の時代に大陸・半島への玄関口である北部九州の人が纏向遺跡に来ていないことは、三世紀前半の纏向遺跡の外来土器から分かっています。纏向での祭祀も共にしていないということですから、北部九州の倭国勢力とヤマト王権発祥の地纏向の勢力は敵対していたと考えられます。魏志倭人伝の女王ともとより和せずとされた狗奴国である可能性が高いということです。書かれていることが真実かどうかは考古学や民俗学などの成果で検証しないといけないのに、先に文献が正しいという前提だからいつまでたっても決着しなかったのですよ。それに気づいたので、科学的に仮説を検証してヤマト王権成立を解明しました。仮説構築の過程で邪馬台国も卑弥呼の墓も見つけました。よろしければ拙ブログ「古代史の謎を推理する」を参照ください(*^▽^*)
四国説は??ww
末廬国から伊都国までの方角が東南を太陽の昇る方角で説明したのはまだ良いです。でもその後山を歩いてるうちに方角がわからなくなっちゃうはちょっと説明としていい加減過ぎでは?しかもその次、伊都国から奴国へも東南ってなってるのにそれはスルーで東に行っちゃってるのは何故ですか?色んな説があって良いと思うからこれも一説です。でも他の学者さん達を否定するような発言してる割にはこの方も答えありきで曲解してるようにしか聞こえない…結構突っ込みどころ満載です!
魏志倭人伝は3世紀の倭国のことが書かれた貴重な文献です。しかし、書かれていることが正しければ誰でもが同じ答えにならないとおかしいのですが、そうはなっていません。長浜氏は最初に御自分が提示した古代の解明手法の4にマッチしていないことすら気づかないようです。多くの研究者も邪馬台国への行程記事を正しく解釈すれば正しい答えが得られるはずだと考えているようですが、それが間違いだと気付かないようです。魏志倭人伝は千七百年後の日本人のために編纂されたものではなく、当時の西晋の朝廷の人たちのために書かれた政治文書だという当たり前のことに気付くと正解に近づくことが出来ます。これは現存する日本最古の正史や歴史書についても当てはまります。考古学者が日本書紀に書かれていることを信じないというのは当然で、考古学の成果と矛盾する内容だからです。書かれていることが正しくないなら、書いた人物(当時の権力者)の政治的な意図を読んで、考古学などの成果から推理する以外に真相にたどり着けないということに気付くと解明できます。詳しくは拙ブログ「古代史を推理する」をご参照ください。邪馬台国の場所も卑弥呼の墓も、3世紀のヤマト王権成立の過程なども解明していますので、よろしければどうぞ。お邪魔しました。
そもそも当時の九州と中部では状況が違い中部は平定された土地、九州は戦国の世だったけど中部と北九州で邪馬台国でいいのでは?魏志倭人伝に限らず歴史書は基本都合よく改ざんされるし現代人が都合よく解釈するのも自由です。
東夷伝の文献的解釈はたった一文字でひっくり返る。距離について一例を挙げよう。邪馬台国に至るについては国名があげられていても地域的な行政区分があげられているわけではない。したがってある国の範囲がどうだったのが考慮されていないことになる。例えば『従郡至倭、循海岸水行、歴韓国』の部分と『自郡至女王国萬二千餘里』の部分とでは同一の文字でも誤字もしくは書き間違いがあると見られる。細かい論証はここでは避けるが、注目すべき文字は『郡』である。前者の『郡』は帯方郡でいいだろうが、後者の『郡』は国から国への表記だから『郡』ではなく『都』の誤字もしくは書き間違いであろう。つまり後者の『郡』は魏の『都』洛陽と思われる。この点があるため以前から帯方郡から南へ『萬二千餘里』も行けば九州をはみ出してしまうとか混乱の基になっている。前漢の頃から洛陽~郡までの距離はおよそ五千里と目処がついていた。(『唐書東夷伝』に去京師萬四千里とある。長安は洛陽の西、二千里と見ている)
邪馬台国といったところでそんな漢字の固有名があったわけじゃない。あくまでも音声で呼ばれていたものへの漢字での「あて字」だ。すると、音声でいえば「やまたいこく」だ。これは「やまとこく」(大和国)と似たような音標だから、じっさいには「大和の国」も「邪馬台国」も、おなじ音声で語られていた可能性がある。決して同じだというわけじゃなく、こんなものわかりゃしねえよっての。^^
なんか、四国説の方が説得力あるなぁ。
普通に考えれば動力のない時代に人力で日本の川を船で遡上することはありえないですね。
これは論争になりますね。違うと思います。
邪馬台国の九州説って、後に、首都が京都に移るわけなのですが、どうして、間の四国や本州の中国地方の話しが無いのでしょうね?
邪馬台国と大和王権は同時期に存在した別々の勢力だからです。邪馬台国が奈良に遷都したのではなく、大和王権に滅ぼされたのです。同じ三橋TVの神武東征の回を見ると理解出来ると思います。
@@pocapamas それでは、どうして四国や中国地方の事に着いては何も記載はないのですか?仮に既に同盟国ならどこでどのようにして同盟を組んだのですか?四国には、空海が御遍路さんを作りまして、寺などをたくさん建てました。それはどうしてでしょうか?後、徳島県の市内には、象徴となる眉山があります。そこに、神武天皇と明治天皇の銅像があります。それはどうしてなのでしょうか?質問ばかりですみません。もし、よろしければ解答を願います。
@@東雲暁人 ご返信ありがとうございます。>四国や中国地方の事に着いては何も記載はないのですか魏は北部九州を治めていた邪馬台国とは交易しておりましたが、それより先の倭の国々について詳しく知らなかったからです。この時の「倭」とは日本列島にある倭人種の国々をまとめて指す概念だと思います。邪馬台国は中国との交易は独占したいと思っていたと思います。中国の進んだ技術が隣国に流出したら、脅威でしょうし、そもそも魏とは子分になるからケツ持ちしてくれという関係です。>既に同盟国ならどこでどのようにして同盟を組んだのですか?えーと、ちょっと主語が書かれていないので、よくわからないのですが、大和王権と邪馬台国は友好関係ではなく、敵対関係でしょう。長浜さんの神武東征回を見ると分かりますが、大和王権は中国に奴隷を朝貢する邪馬台国を受け入れられなかったはずとおっしゃっていたような。>空海が御遍路さんを作りまして、寺などをたくさん建てました。それはどうしてでしょうか?すいません、わかりません^^;
@@pocapamas すみません。ではもっとシンプルに。では、当時、四国や中国地方はどのような立場だったのでしょうか?いえいえ。こちらこそ。返信をありがとうございます。
@@東雲暁人 >当時、四国や中国地方はどのような立場だったのでしょうか?長浜さんの書籍からお答えしますと、3世紀前半、開化天皇の御世に山陽道は大和に服属したそうです。四国については明記されていないですが、まあ同じような時代に大和王権の隷下に入ったのではないかと思っております。(よく分かっていないです。すみません。)そして、垂仁天皇・景行天皇の御世に、邪馬台国を併呑したと解釈出来る記述が記紀に書いてあるという内容が長浜さんの書籍には書かれております。
(最もらしい事を述べるな!お前の説が納得出来るのか?あなたの説は、他説の批判に基づいている。始めから、邪馬台国の位置を、確定して、話を進めている事。)は言い過ぎているので削除致します。
投馬国は出雲国のことだよ。この時代、大陸・半島から大和へ使節を派遣する場合、日本海航路がメイン航路だった。
邪馬台国は大和じゃないからで終わり。
トウマは琉球語(日本古語)で平地の事。イズモは水の湧く濡れた土地。干潟の事。現在の出雲市の地図見ると当時は汽水域の干潟だったのが分かりますね。
魏の使者が唐津付近?に降りたった時点で、理論上、(邪馬台国から見れば)そこが一番安全で近い港でしょwwwだから邪馬台国は【九州北部で一番安全で近い港を唐津に持つ、海に面していない場所】しかありえないwだから、伊都国や奴国が海沿いもありえないwわざわざ唐津付近に上陸する意味がないw伊都国や奴国を無理やり北東に解釈してるが、倭人伝に書いてある通り、東南に向かって歩いて行くはずで、吉野ヶ里遺跡が伊都国でしょw現在だって、外交官は成田か羽田に到着して、大使館は東京にあるよね?
それよりも、今も残る地名(末盧=松浦、伊都=糸島)とバッチリ符号すること、奴国に比定された地域から奴国の金印が出た事実の方が信憑性あると自分は考えるンゴwww
伊都(いち)は沖縄弁で干潟。奴(ヌー)は船道の事。松盧(まちら)が断崖。単純に魏の大船を接岸できる港が松浦郡にしかなかったのでしょう。博多湾も遠浅なんで。
でたらめ
九州説が正しいとなると、卑弥呼は大和政権に滅ぼされた熊襲か土蜘蛛の勢力ということになる。それもどうかなあ。
自分が大阪市に住んでいたころの小学校の先生は「歴史の学習内容は全て間違っている可能性が高いから、あくまで将来の受験に備えた勉強用として学んでくださいね、歴史は教科書の中にはないから」って教えてくれた。今、思えば本当にまともな先生だったんだなあとつくづく思います。
立派な先生ですね。
すばらしい先生だ。
そうだったんだ⁉️自分の感性(真実を見抜く力)が邪魔して歴史の授業内容がサッパリ頭に入らなかった道理が解明した‼️😊(苦笑)
@@k8a8z8 わかる俺も宇宙人だから、高校の化学と物理の程度が低すぎて眠くてしょうがなかった。
めちゃくちゃいい先生だな
非常に納得しました
熊本県民です。基本的に先生の説に賛成。邪馬台国奈良説は国策ですね。国の始まりを3世紀に統一したい、その場所も奈良盆地にまとめたい。邪馬台国も倭の五王も初期ヤマト王権も全て国策として統一したいから。そのために毎年莫大な国の発掘予算で奈良盆地を発掘している。何か出るとマスコミを使って大々的に報道する方針。そこには北部九州説とか四国説とかあり得ない。宮内庁もそれに従い重要な古墳の発掘をさせない。何か奈良説にまずい物が出てくると困るからね。魏志には書いてある。邪馬台国の東の海の向こうにも別種の倭人の国々があると。は?奈良盆地の東は海がなく鈴鹿山地。南には対立戦争した狗奴国があると。は?奈良盆地の南は吉野熊野の険しい山間地では。卑弥呼の墓は円墳と書いてあるのに奈良盆地の箸墓古墳は前方後円墳では?朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国まで12000里と書いてあるが北部九州の奴国までに既に10000里、とても畿内奈良まで届かない。九州に収まる範囲では。邪馬台国は筑後川流域にあったはず。その連合国は東の宇佐地方まで支配していた。南の狗奴国はまさに熊本の菊池川流域にあり、その中心は山鹿の方保田東原遺跡群だったはず。豊かな砂鉄と稲作があった所。奈良盆地の遺跡群は邪馬台国と同時代に存在した東の海の向こうの別種の倭人の国々。鉄ではなく銅鐸文化の牧歌的な国々だった。故に後年、九州勢力が東征した際割と容易く征服された。倭の五王たちの初期ヤマト王権が樹立されたのだ。間違いない。
長浜先生の解説は説得力があります。これで合点がいきました。
いろんな書籍や動画を見たけど、この番組でやっと納得できる説明に巡り合いました。
長浜先生の年表を画面コピーしてプリントしました。こういうのが欲しかったのです。
ありがとうございます。
長浜先生のレクチャーで邪馬台国論争をすっきり終わらせ、納得することができました。ありがとうございます。
既存政党には一切期待しませんが、
いつか保守政党が政権を握った場合は、古代から現代まで日本史全体を根本的に見直さないといけないですね。
極論を言うようだけど、日本が歴史を全て取り戻すにはもう一回アメリカと戦争をして今度は勝つしかないです。それくらい戦後の日本は絶望的な状況です。
@@user-mx5qx5oj9c 悔しいけどたしかに
邪馬台国、筑後川近くは
イメージに持ってた九州で安心しました。(過信は行けないので自分でも調べて最終的な考えを模索します)
勝手に頭で想像したのを歴史にするのは万死に値するくらい許せませんね……
古代における正しい歴史を知るには、あらゆる学問からそして多方から、論理的かつ合理的に合致するか見なきゃいけない。
それを放棄している学者の意見より、それを成している学者の意見の方が尊重できるのは必然。
この三橋とかいうやつはネト、ウヨだぞ
西村博之
思考停止が口にする単語発するのやめろや
みやま市出身者です。魏志倭人伝を読んで、現地の地形や伝説、遺跡から我が故郷が邪馬台国だと思っています。
みやま市の女山神籠石を訪れて、私もそう確信しています。
ユーチューブに幾つもUPされている福永晋三さんの講演が、多角的な視点から論理的に解説されていて面白いですよ。
凄い納得。一番合理的な邪馬台国の位置特定だと思います。
方角がまるで違うのは何故か長年疑問でしたが、夏は日が真東より23度北から上るという分析に納得。
魏志倭人伝の邪馬台国は明らかに九州にあった国のことを指していることは間違いない。
しかし、同時に現在の奈良県に強大な国があったことも間違いないはず。
まさにそれは魏志に書いてある、邪馬台国の東の海の向こうに別種の倭人の国々があると。それも鉄文化の北部九州とは違い、銅鐸文化の牧歌的な国々だった。故に後年、倭の五王たちが東征した際、奈良盆地は割と容易く征服され初期のヤマト王権が樹立されたのだ。
この通りです。”真・日本の歴史”さんのご研究と全く同じですね。「魏志倭人伝を素直に読みましょう」という事に尽きます。
またコメントに〝へんしゅうちょー”さんが言われているように、歴史は変わるんですよね。特に時の権力者(考古学で第一人者であると言われる学者の保守的なアタマの人)が近畿説が正しいと言うと、みんながそれを信じて行く。
邪馬台国が旧山門郡(みやま市から女山)当たりだとすると「卑弥呼」が誰であったかを教えて欲しい。
30国余の邪馬台国連合国を左右する権力を持っていた女王が居を構えるところが邪馬台国であったとするとその人物が相当の力量を有していたか
日巫女であったと思います。田油津姫は山門郡の土蜘蛛の巫女女王であったが神功皇后に滅ぼされたと言われるし時代が100年以上違うと考えます。
真実を学ぶには税金で運営されてる組織なんかには頼っちゃだめだって事か
聞くたびそいつら学者らは知識を持つ人間なのか?と思う
騎馬民族征服説を称えたえがみなみおせんせいは
古代の河川海岸線、山地の地形図と周辺の遺跡、官道を示してくれるとなおわかりやすいですね
倭人伝の中に道について書かれてあったと思う。かなり貧弱であったことを考えると河川利用の水運が便利だったのでは?と思う。伊都国が外交窓口の国際都市だったのでは?とも予想。そこを抑えるのは、奈良では遠すぎる。背振山地を挟んで南の筑紫平野なら動きやすい。伊都国~背振山地~筑紫平野という狼煙の連絡網が有ったかも。後の白村江の戦い・元寇で、大宰府の北側が最終防衛線だったと思う(水城跡)。筑後川上流には、鉄鏡が出土した地域も。
賛成です、当然です。👏👏👏
過去の流れは、全てを忘れさせて、
現在の行いは全て悪だと反省させる。
反省は現在ではなく、
過去の流れを省みる事なのにな。
現在に対して反省したら、
何も出来なくなる。
長浜氏の説は、正しいと思います。この度キンドル版、誰も書かなかった邪馬台国探しを出版しました。関心があれば、誰読んで下さい
ニッポン人の誇りを再考させられる素晴らしい話が今までの緊縮財政という怒りを見事に払拭してくれた。よいお年を!
題はうろ覚えなのですが、昔江戸時代の邪馬台国論争について書いた本を読んだことがあって、新井白石が出した結論が長浜浩明の述べていることとほとんど一緒だったのを思い出しました。
関西人なので個人的に畿内説を信じたいと思ってましたがこれを見るとどう考えても九州ですね。
ずいぶん前ですが邪馬台国をずっと研究してると言ってた上岡龍太郎が「九州説を主張する人はバカです」
とテレビで言ってましたがそれこそがバカで妄信だったのかと。
魏志倭人伝には女王国では鉄のやじりが使われていたとあります。一方で
日本書紀には安康天皇の時代(天皇の位につく前)にはじめて軽矢(鉄製鏃)が作られたとあります。
邪馬台国と大和が同じ国なら安康天皇よりも前の時代に鉄製鏃が作られていないとおかしいです。
別々の国だったとしても鉄製鏃の作成が大和で遅れた理由がわかりません。
誰か詳しい人教えていただけたら幸いです。
そのようなところが盲点になるのですな
日本では、鉄鉱石は取れません。新羅からの「輸入品」です。中国がレアメタルの輸出を日本にしなかったら、明日から自動車もスマホも「万歳倒産」です。
戦後はアメリカの占領下にあったから、GHQの命令で日本の歴史を否定されたかもしれないが
今は完全独立国だからきちんと日本の歴史を教えるべきだと思う。変な歴史家なんかに邪魔されないように。
箸墓古墳には槨があるから卑弥呼の墓とは関係ない。魏志倭人伝の記述と一致しない遺跡がどんなに出ようとそれは邪馬台国とは関係ない王朝だ。
史学部希望なのですが、そのような学者が多いなら、史学部は絶望的でしょうか?
17:33 ”船で小さい浅い川を遡上できる筈が無い” という説を聞きますが、外洋を渡るに使ってきた漕ぎ手両舷で20余名とかの大型船を使わなくても、竹竿で押して進む小型の船で良いわけで。小回りも利くし。2回乗り換えれば良いだけの話。御笠川と宝満川の距離も4キロに満たないし。
古文書も含め、古代書籍も思想・願望を交えず、素直にあらゆる科学的知見にて検証を重ねながら読み解き研究しないと日本のありよう未来めでも見失う。
皆さんは知らないと思うが菊池市の松野家から松野連系図と云われる古書が出てきて、それに卑弥呼や倭の五王と思われる人物が載っている(景行天皇や日本武尊に征伐された土蜘蛛や熊襲の人物も載っている)ので、邪馬台国は菊池市でほぼ間違いないだろう。距離的にも太宰府から1,300里(約90Km)で魏志倭人伝の記述に合う。
ちなみに、松野家の開祖は中国の秦の前、周王朝の王らしい。
osamakeikoさん 松野連系図に書かれていることが本当なのかを示す物証などは見つかってないと思いますが、邪馬台国が菊池市であるとすると狗奴国はどこですか?三世紀という邪馬台国の時代に纏向で発祥したヤマト王権とどうつながるのかが分かりますか?
邪馬臺国は阿波だった
邪馬台国の住民は、貝を食べていると書かれているけど、多分、有明海の事だと思うので、畿内ではないと思う。
沖縄
西都原古墳瓊瓊杵尊と木花開耶姫が眠っていますよ!
霧島山の高千穂峰には天の逆鉾天孫降臨の記しです。
日本列島を作った時にかき混ぜたとされる天の逆鉾です。
宮崎はパワースポットの宝庫です。
11:30 水行20日って書いてるんだろw 自分も妄想入ってるじゃん
邪馬台国がどこにあったかについては諸説あります。なぜか?決定的な証拠となる文書なり遺跡が見つかっていないからです。とんでもない説でなければ、何を言ってもいいわけです。長浜先生の説は最もらしい気はしますが、あくまで仮説にすぎないことをきちんと言うべきです。
各経由地での歓迎会のために日程が長くなる理屈は、他の旅程の記述にも適用されるのかな。そうでなければ恣意的に思えて納得しにくいです。
ほぼ同意。機内説なら、西日本(南九州を除く)を支配していないと、伊都国支配は無理。それほど広大な地域を支配できていたかは疑問。纏向遺跡が~という人がいるだろうが、魏が知る倭国とは別物だと思う。TVを見てて、もしかして筑紫平野を含めた有明海連合だったかもと感じた。個人的には、筑紫平野を中心とした佐賀・福岡に渡る地域に思えるが。
名前が邪馬台国と大和の読みが似てるのも、変に解釈してしまった原因かもしれませんね。
それで問題ない。邪馬台=ヤマトで正解。
@@usa7006 inoues.net/yamahonpen2.html
考古学と歴史学は別モノで別れてしまってますから、両者を結び付けて語ることには極めて慎重・無難な姿勢。なので遺跡の発掘調査説明会は、何が出土したとか幅何センチとかデータを淡々と語るのがメインで基本的につまらない。例外的に纏向遺跡を発掘した素人あがりの人が、わが手で卑弥呼の宮殿を掘り当てたぞと喜んで居られたけど、断定できないことを断定しちゃって良いの?と驚きました。纏向がヤマタイコクなら=大和朝廷になってしまう。近くの黒塚古墳から卑弥呼が魏から貰ったとされる三角縁神獣鏡が出たことや、箸墓古墳も根拠だったかな。たぶん根拠として弱いと思いますが。 纏向の2つの宮跡は少し山際のほうに石碑が建っているけど、纏向の大型遺跡が出たのは平地部分。纏向も毎回発掘の現地説明会行ってますが、儀式用の桃の種が大量に出土したとされてるけど、後世に地形が削られたか流された感じで失われて、本当は多分もうちょっと有ったらしいです。現場で見聞きした細かい話。
我田引水の議論。不誠実さは、これまでとまったく同じ。
自分の理解として、単純に大和朝廷が奈良近辺にあったからそこに合わせて邪馬台国を考えたのだろうなどと思っていました。
つまり邪馬台国を北部九州の一部として理解し、国の規模を今の県単位として捉えようとするからイメージが変わるということだろうと思います。
国とは市町村程度の単位であったのでしょう。
このあたりの認識は日本の成立に重要な影響を与えるので慎重に検討すべきだとは思いました。
ただ、個人的にはチャイナの文献に書かれている内容自体どこまで信用できるかという根本的な問題もあると思います。
アカデミックの場では、ほぼ纏向遺跡のところが邪馬台国で決着がついている。でも、在野の歴史愛好家の間では、いまだに邪馬台国九州説の人気がある。
@@usa7006
アカデミックのいい加減さと、戦後の偏向言論の強制。そういう立場のエセ学者については身元を洗い出してから検証する必要があるのではないか?
@@usa7006 アカデミックwww
長浜さん曰く、公開討論に応じない、質問に一切答えない人達のことですね。
書籍の中でことごとく矛盾を指摘され、論破されていましたね。
帯方郡から投馬国まで水行20日、帯方郡から邪馬台国まで水行10日と陸行一月。それぞれ独立した別記事であり、投馬国から邪馬台国への旅程の記事ではない。これは魏志倭人伝にはないが魏志には載っている「又」という一文字が解読のカギとなる。
長浜さんは、放射能の安全性についてもお話しされてるので、ぜひそれを取り上げてほしい。竹田恒泰や武田邦彦、小林よしのりなど愛国者ぶってる奴らが、でたらめを言い危険をあおるせいで、被災者は帰れず死んでいる。人災ですよ
実際、放射能が体に悪いなら、広島の原爆の被害者はどうなるのか?
更には、太陽光線と宇宙放射能による地球全体の影響などまだまだ未知なことだらけです。
自分の憶測ですが太陽が活発(黒点が多い)と地球の気候が安定する傾向。太陽が宇宙放射能から守っている。
太陽活動低下(黒点なし)になると、太陽よりエネルギーがある宇宙放射能により地球の内部に刺激が加わり、地震、火山 台風など自然災害が多発しているのではないかと推測してます。
更には生物学的にも進化のきっかけを与えているかもしれません。
好古都國(hog kag tag=博多)
九州説が濃厚だ。宮崎県の高千穂峰も解明されたし。
丹
方角の解釈が「進行方向に向かって」とねじ曲がったり、日数の解釈が「歓待を受けてゆっくり進む」とねじ曲がったり、九州説に無理があることがよくわかりました。
魏志倭人伝にはたくさんの描写があり、そのひとつひとつを検証してはじめて証明したと言えるはず。その地に丹があるか?も含めて。出身地を身びいきする気持ちはわかりますが、本解説を「なるほど!」と聞いている三橋貴明さん、がっかりです。
宴云々からはファンタジー。そもそもなぜ、ここから短里で話すのかを解説してほしかった。
これ見たら今までの学者がいかに偏っているかわかる
比較検証ばかりの説とは異なり科学的根拠がある
ruclips.net/video/63bNv7RmHHc/видео.html&feature=share
陸行一月っていうのが気になったけど、昔の道ならそんなもんなのかな。間違いない、卑弥呼の墓を探すべきだ。
対馬まで千里、対馬から壱岐まで千里は同じ距離なのでわかるが松浦までは半分の距離、五百里位では?
同じ距離千里なら宗像大社や宮地岳神社、古墳群のある宗像では?壱岐から海の正倉院、沖ノ島を通り三女神の宗像が末盧国では⁉️
その意見に賛成ですね。昔読んだ高木彬光さんの「邪馬台国の秘密」は説得力がありました。今回の先生の場所だと 東に海が無いです。
@@原平次基 詳しくは私よりも豊の国古代史研究会、福永晋三先生のRUclipsを見られて下さい。
私はこれを見て全部は納得していませんが真実もあると思い広めたいと思っています。
@@ひひ-k9m さん、ありがとうございます。福永先生、当時の海面の高さとか史跡や海流も検討して、魏使は宗像神湊上陸。納得です。
@@原平次基 ご丁寧に、ありがとうございます。
倭国、和国。色んな字をあてるからこんがらがる。
邪馬台国=ヤマト国?
和国が周囲の国を集約して大が付いて大和?
渡部昇一先生しか信じない。。という気持ちが強い
お話にならない😂
沖縄県です。古代ピラミッドが与那国島の海底にあります。
沖縄と台湾のことだが 関係ない仮想国として 起源の地 とした
初めて興味持って調べています。壱岐から千里って結構あるし、あえて南と書いていないんだよね。次は陸路で東南500里だからね。太陽見てたら方角間違わんでしょ?また、100里単位で国が書かれているのもポイントかと。女王の国そんなに大きくないんじゃない。末盧ー福岡の海岸の何処かからの距離を計算すると、人口抱えられそうなところは熊本市、大分市あたり。東に海であれば、豊前豊後が女王の連合国じゃないかな。宗像も近いし。鮑潜ってたらしい。宇佐も、日本書紀に載せない意味もありそうだし。
みなさん、スタートが間違っています。
倭人伝の「女王国」は卑弥呼が女王の倭国を意味していますが、邪馬台国はそこらは離れた別の地域にありました。卑弥呼とは別の女王が都していたのが邪馬台国です。
出発する方向?
後は自由てことでしょうか?
全行程もそれでいいのでしょう
九州とか畿内とか言えないと思いますけど?
長浜説は納得できない。魏志倭人伝の不彌国以降の旅程の記述以外はあらゆる点で邪馬台国が北九州(おそらく菊池市辺り)にあったことを示唆しているが、長浜さんの不彌国以降の旅程の解釈はやはりこじつけだ。おそらくオリジナルの魏志倭人伝は投馬国も邪馬台国も距離で書いてあったと思うが、後年に大和朝廷からの使者が来て機内のことを言うので後の人が書き換えたのだろう。大和朝廷も邪馬台国が朝貢していたことは知っていたが、自分が滅した国のことは記紀に書けなかったと思う。
osamakeikoさん 長浜さんも、多くの研究者は先に自分の思う場所があり、それになるようにこじつけ解釈するので、万人が認めることにならなかったのですよ(@_@)
基本はどうにでも解釈できる文献を頼り過ぎないことですね(^_-)-☆
ですから、逆にというか正しい方法は、考古学や民俗学の成果から仮説を立てて様々な検証を行って科学的に推理する方法しかないのですよ。その過程で文献の内容のどこがウソなのかもわかりますよ。ですから、あなたがそういう仮説を立てたのならばいろいろと検証してみるとその仮説が真相を明らかにしたものかが分かります。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」を参照ください。お邪魔しました(*^▽^*)
「邪馬台国」??魏志倭人伝に書かれてるのは「邪馬壹国(やまとこく)」でしょ??
で?
当時の地形や土壌を考慮した食料自給率の推測が抜け落ちてますね。
邪馬台国はそれなりに国力があったはずですから。
神輿の様な物に乗って移動してたなんて記述はどこかにあるのだろうか?
そもそもそんな時代にそんな文化が存在していたのだろうか?文化人類学的に…との事だが…
自国建て通貨が発行できてかつ、変動相場制を採用している場合、北朝鮮ウォンのような弱小通貨でもデフォルトは起こらないのですか?
誰でもいいので教えてください!!
債務不履行は起こりません。が、国内に供給能力がないため、北朝鮮が通貨を増やすとすぐにハイパーインフレになります。
佐賀大和説はないんか?
今に伝わる魏志倭人伝の写本になぜ矛盾した表記があるのかについて井上悦文さんという書家の方が書家ならではの鋭い視点で論じられていますのでご興味があればぜひご覧ください。
ruclips.net/video/U1D0EURZBpY/видео.html
邪馬臺国と邪馬壹国、一支国と一大国など地名にまつわる謎についても解明のヒントを示されています。
科学的批判は重要だが侮辱はだめ。大学権威には弊害はあるが作家という立場も学術的批判にさらされないユルさがあるからだめ。考古学者が文献を無視するのは当然。歴史家が恐れるのが考古学者の実証精神。
宮脇淳子氏もたしかフィクション説とってたような。ま、彼女は旦那さんからの受け売りなんだろうけど。どっちの見解が正しいかは私は分からないけど、否定派は読んでない人って決めつけはフェアじゃないね。
ですよね。
勿論、読んだ上で否定されているのでしょう。
否定派は読んでいないなんて言い切るのは誤りだと思いますね。
最近は四国説が有力になってきた
本当は四国です
中国人に読ませるのだから、このくらいでもいいと思って書いた。陳寿。285年頃書いた。
張政が行ったのは、240年頃。45年前のことを聞き捨てに書いた。地理距離方角覚えてる?
張政は、何回ソコへ行ったのだろう??
地球 月 金星 水星 太陽 火星 木星 土星 この順番は地動説の図を用いても完璧には理解と説明が出来ない。天動説の図があって初めてスッキリ理解できる。
倭人伝の文書を、最初から最後まで現代の正確な地図にあてはめるのは、天動説の文書を地動説の図にあてはめるようなものだと思います。
そもそも、卑弥呼を女王に立てたのはそれぞれの君(王)たちの和議によるところが主になると思いますので必ずしも最大勢力の国家である必要が無いのでは?自分は宇佐が女王卑弥呼の故郷で国の政庁は日田市に在ったと思います!!!
東遷はしただろ。問題はタイミングがいつだったかっていうだけで。従来の歴史学者が信じられないのは同意だが、0/1で物を語る人たちも信用できないよね。東遷を否定するなら京都は存在せず福岡あたりに首都が会ったはずだろ?
邪馬台国は滅んだんだよ。大和朝廷に滅ぼされた。邪馬台国が今につながる皇室の祖先と言う頭を捨てる必要がある。
邪馬台国=大和朝廷。
三橋TVの別の動画で長浜さんが神武東征の解説してる動画があって
そこで北部九州の邪馬台国が大和王朝の前身で東遷した説はありえないと筋道正しく解説してらっしゃるから見てみるといいよ。
東遷とは呼べないかもしれませんが
北部九州の勢力が吉備経由でヤマトに入植したのは 間違いないと思います。
根拠は地名の移動です。
笠置山、田原、住吉神社、三輪、朝倉 等 北東部九州の地名がヤマトに移動しています。
配置も似通っています。
ただ卑弥呼の邪馬台国ではないと思います。
あるとすれば 後継の「トヨ」の勢力の一部が合流している可能性があります。
山門の卑弥呼と 豊の国(豊前、もしくは豊後) のトヨに血縁は無いと考えます。
長浜浩明は全然ダメ
これは本当だよー近くには有明海があって昔は貝拾いに行っていたよーまた山川みかんや高菜やアスパラなどが作られていてとても有名なところだよーまた京都の清水寺の本寺という清水寺もあるねーみやま道の駅があって店員さんも良い人たちだよ。
いきなり都合良く東南の方角を捻じ曲げてるのワロタ。当時そっちが東南だった記録他にもあるのかね?古代人はそんなにあほじゃないと思うよ。
末盧国が呼子辺りだと東南になるけどな
三橋氏の主張は個人的うらみが垣間見えるからウケる🤣
長浜先生は神武東征はあったと言ってんだろ。何故九州なんだよ。桂川光和先生に教えを乞いなさい。
神武東征と「女性がシャーマンの卑弥呼の国邪馬台国」が同じと「日本列島全国民」は、ゴッチャになっている。
邪馬台国が、二つ在るように思えるのは、東征する前の九州の邪馬台国と東征して新しい場所の邪馬台国が混在するからでは?
九州から奈良まで、遷都するには時間かかるのでは?
いや、同時期の纏向と吉野ヶ里を比べると、纏向の方が進んでる。近畿が逆に九州を滅ぼし統一したと考えた方が自然でしょ。
吉野ヶ里は竪穴式住居だし。
魏志倭人伝に信憑性ある??
うのみにするとこういう説になる。
7万戸の人口は奈良盆地くらいでしか養えないんだけどねぇ……本に書いてあることだけだと曲解しないと辿り着けないんだから、結局は物理的な証拠が無いとダメなんだよ。史実を書く努力をしている魏史ならともかく、神話なんて証拠になるわけがない。そして、物理的に現在最有力なのは纏向。山門郡からデカい遺跡が出れば別だが……
質問させて下さいっす!!!!
奈良説の人でも対馬と壱岐は比定地として認めている思っておりますが、対馬壱岐のそれぞれ数千戸はありえて、福岡本土の数万戸はありえない
ということでしょうか?
何が言いたいかというと、戸数は正しいと仮定すると、離島の人口がものすごくなる(インフラの整った現代の対馬・壱岐の人口の
二分の一、三分の一に迫る巨大な人口が当時いるはずがないという意味)、ということになります。
魏志倭人伝には、これらの離島は、碌な田畑が無いので本土へ食料を貰いに行くという記述があるにも関わらず、です。
逆に、離島でもそこまでの人数を養えるのであれば、本土がそれの十数倍程度でも問題無いでしょう。
(参考までに、現代の福岡の離島と本土では人口が数百倍のオーダーで違います。)
邪馬台国系動画のコメントを見ると、追い詰められた(😱)奈良派の人の最後の武器が戸数問題のようですが
離島の人口に目を向けると、その握った剣はボロリと崩れ去ると思われます!!!!
自分のように理系であれば、数学的な感覚で、当然そこに気付くのですが…。
な~んて考えているんですけど、どうでしょう^^;
奈良説の最終防衛ラインを突破してしまっていたら、ごめんなさい^^;
@@pocapamas そう思うなら査読の通る論文を書くか、九州に発掘に行けばいいのでは?数々の研究者が色んな論文を書いた結果奈良説が優勢になっているのに、在野の人間が学術的に認められない形態で主張しても何の意味もありませんよ。追い詰められたって言うけど、学術的に奈良説が優勢なのに追い詰められてるわけがない。例え7万戸が盛った数だとしたら、九州説最大の根拠である全行程1万2000里の信憑性も薄れるよ?自分も7万戸とか適当に言ったけど、でも史書の内容だけじゃ何も分からないからね。今考えたこじつけだけど、例えば「1万里までは船で1日進んだ距離を100里に設定してるけど、使者は一大卒までしか行ってないからそこからは普通の一里400m以上の測り方で倭人が測定した距離だから、邪馬台国は奈良」みたいな言い方もできるわけで……結局はブツが出ないとどうにもならないのよ。纏向はかなり広いのにまだ5%くらいしか発掘できてないくらい広大で、しかも稲作村ではなく純粋な都市機能があったと考えられているから優勢なんだよね。決定的な証拠はまだないけど。
@@腋ノ下腋乃わきのん
>学術的云々
長浜さん曰く、公開討論に応じてくれないようです(笑)まあ末代までの恥ですからね
長浜さんの本を読むと、たくさんの奈良派論破集が載っているので、オススメですよ
奈良にもっていきたいから都合によって方角をあちこち入れ替える論文(笑)査読(笑)ちゃんちゃらおかしい(笑)
在野の人間に秒で論破され、逃げ回っている、村社会の田舎学会を権威として崇め奉る時点で終わっています
現代の最新技術をもってさえ、〇ロナに関して学者同士の意見が食い違っていること考えましょう
政府お抱えの学者が〇ロナに関して予想を外しまくっており
8割おじさんが「俺は日本国において〇ロナの最高権威だから、絶対的に正しい!」と強弁をしても
「まーた言ってるよw」とせせら笑われるばかりです
>1万2000里の信憑性も薄れる
薄れない
何故なら比率が正しいから
デタラメを書いていたら、帯方郡:狗邪韓国:対馬:壱岐:唐津の距離の比が7:1:1:1
と現代の地図と照らし合わせてほぼ一致していることはありえない
里は何mか?の絶対値問題に関しては、比定出来る都市間の距離で、解決出来た
戸数問題も、同様に、絶対値を推定するしかない場合、カギの一つに比率がある
離島と本土の比率を考えれば、九州説を否定する根拠には、全くならない
しかし、何千年も変化しない都市間の距離と違って、人口は、変動が大きい要素
こういうのも、ある程度の偏差値以上の理系なら分かるんだけどなあ…
ていうか、一辺の長さと二つの角度が分かってれば、三角形を再現出来る、みたいな中学生でも出来なければいけないことですよ?
>ブツ
これも魏志倭人伝に書かれている特徴のものやチャイナ由来のものは九州が圧倒的ですね
ちなみに奈良の遺跡は大和王権の遺跡ですし、いくら大きかろうが、証拠にはなりません
だって、千里の東の海の先にも倭人がいるという記述は、九州から海を隔てた本州もしくは四国にも倭人がいるようだ、ということを示しており
奈良なんてのは、魏志倭人伝で語られている話の範疇外なのですから・・・
この当時は、邪馬台国はまだ併呑されておらず、大和王権と併存していたということです
九州邪馬台国と大和王権の関係は、長浜先生は記紀を読み解いて、それを解説しております
@@腋ノ下腋乃わきのん さん 邪馬台国纏向説は纏向遺跡を掘った専門家も否定しているのご存知ですか?邪馬台国の時代に大陸・半島への玄関口である北部九州の人が纏向遺跡に来ていないことは、三世紀前半の纏向遺跡の外来土器から分かっています。纏向での祭祀も共にしていないということですから、北部九州の倭国勢力とヤマト王権発祥の地纏向の勢力は敵対していたと考えられます。魏志倭人伝の女王ともとより和せずとされた狗奴国である可能性が高いということです。書かれていることが真実かどうかは考古学や民俗学などの成果で検証しないといけないのに、先に文献が正しいという前提だからいつまでたっても決着しなかったのですよ。それに気づいたので、科学的に仮説を検証してヤマト王権成立を解明しました。仮説構築の過程で邪馬台国も卑弥呼の墓も見つけました。よろしければ拙ブログ「古代史の謎を推理する」を参照ください(*^▽^*)
四国説は??ww
末廬国から伊都国までの方角が東南を太陽の昇る方角で説明したのはまだ良いです。
でもその後山を歩いてるうちに方角がわからなくなっちゃうはちょっと説明としていい加減過ぎでは?
しかもその次、伊都国から奴国へも東南ってなってるのにそれはスルーで東に行っちゃってるのは何故ですか?
色んな説があって良いと思うからこれも一説です。
でも他の学者さん達を否定するような発言してる割にはこの方も答えありきで曲解してるようにしか聞こえない…
結構突っ込みどころ満載です!
魏志倭人伝は3世紀の倭国のことが書かれた貴重な文献です。しかし、書かれていることが正しければ誰でもが同じ答えにならないとおかしいのですが、そうはなっていません。長浜氏は最初に御自分が提示した古代の解明手法の4にマッチしていないことすら気づかないようです。多くの研究者も邪馬台国への行程記事を正しく解釈すれば正しい答えが得られるはずだと考えているようですが、それが間違いだと気付かないようです。
魏志倭人伝は千七百年後の日本人のために編纂されたものではなく、当時の西晋の朝廷の人たちのために書かれた政治文書だという当たり前のことに気付くと正解に近づくことが出来ます。これは現存する日本最古の正史や歴史書についても当てはまります。考古学者が日本書紀に書かれていることを信じないというのは当然で、考古学の成果と矛盾する内容だからです。書かれていることが正しくないなら、書いた人物(当時の権力者)の政治的な意図を読んで、考古学などの成果から推理する以外に真相にたどり着けないということに気付くと解明できます。詳しくは拙ブログ「古代史を推理する」をご参照ください。邪馬台国の場所も卑弥呼の墓も、3世紀のヤマト王権成立の過程なども解明していますので、よろしければどうぞ。お邪魔しました。
そもそも当時の九州と中部では状況が違い
中部は平定された土地、九州は戦国の世だったけど
中部と北九州で邪馬台国でいいのでは?
魏志倭人伝に限らず歴史書は基本都合よく改ざんされるし
現代人が都合よく解釈するのも自由です。
東夷伝の文献的解釈はたった一文字でひっくり返る。距離について一例を挙げよう。邪馬台国に至るについては国名があげられていても地域的な行政区分があげられているわけではない。したがってある国の範囲がどうだったのが考慮されていないことになる。例えば『従郡至倭、循海岸水行、歴韓国』の部分と『自郡至女王国萬二千餘里』の部分とでは同一の文字でも誤字もしくは書き間違いがあると見られる。細かい論証はここでは避けるが、注目すべき文字は『郡』である。前者の『郡』は帯方郡でいいだろうが、後者の『郡』は国から国への表記だから『郡』ではなく『都』の誤字もしくは書き間違いであろう。つまり後者の『郡』は魏の『都』洛陽と思われる。この点があるため以前から帯方郡から南へ『萬二千餘里』も行けば九州をはみ出してしまうとか混乱の基になっている。前漢の頃から洛陽~郡までの距離はおよそ五千里と目処がついていた。(『唐書東夷伝』に去京師萬四千里とある。長安は洛陽の西、二千里と見ている)
邪馬台国といったところでそんな漢字の固有名があったわけじゃない。あくまでも音声で呼ばれていたものへの漢字での「あて字」だ。すると、音声でいえば「やまたいこく」だ。これは「やまとこく」(大和国)と似たような音標だから、じっさいには「大和の国」も「邪馬台国」も、おなじ音声で語られていた可能性がある。決して同じだというわけじゃなく、こんなものわかりゃしねえよっての。^^
なんか、四国説の方が説得力あるなぁ。
普通に考えれば動力のない時代に人力で日本の川を船で遡上することはありえないですね。
これは論争になりますね。違うと思います。
邪馬台国の九州説って、後に、首都が京都に移るわけなのですが、どうして、間の四国や本州の中国地方の話しが無いのでしょうね?
邪馬台国と大和王権は同時期に存在した別々の勢力だからです。
邪馬台国が奈良に遷都したのではなく、大和王権に滅ぼされたのです。
同じ三橋TVの神武東征の回を見ると理解出来ると思います。
@@pocapamas それでは、どうして四国や中国地方の事に着いては何も記載はないのですか?
仮に既に同盟国ならどこでどのようにして同盟を組んだのですか?
四国には、空海が御遍路さんを作りまして、寺などをたくさん建てました。それはどうしてでしょうか?
後、徳島県の市内には、象徴となる眉山があります。そこに、神武天皇と明治天皇の銅像があります。それはどうしてなのでしょうか?
質問ばかりですみません。もし、よろしければ解答を願います。
@@東雲暁人 ご返信ありがとうございます。
>四国や中国地方の事に着いては何も記載はないのですか
魏は北部九州を治めていた邪馬台国とは交易しておりましたが、それより先の倭の国々について詳しく知らなかったからです。
この時の「倭」とは日本列島にある倭人種の国々をまとめて指す概念だと思います。
邪馬台国は中国との交易は独占したいと思っていたと思います。中国の進んだ技術が隣国に流出したら、脅威でしょうし、そもそも魏とは子分になるからケツ持ちしてくれという関係です。
>既に同盟国ならどこでどのようにして同盟を組んだのですか?
えーと、ちょっと主語が書かれていないので、よくわからないのですが、大和王権と邪馬台国は友好関係ではなく、敵対関係でしょう。
長浜さんの神武東征回を見ると分かりますが、大和王権は中国に奴隷を朝貢する邪馬台国を受け入れられなかったはずとおっしゃっていたような。
>空海が御遍路さんを作りまして、寺などをたくさん建てました。それはどうしてでしょうか?
すいません、わかりません^^;
@@pocapamas
すみません。ではもっとシンプルに。では、当時、四国や中国地方はどのような立場だったのでしょうか?
いえいえ。こちらこそ。返信をありがとうございます。
@@東雲暁人
>当時、四国や中国地方はどのような立場だったのでしょうか?
長浜さんの書籍からお答えしますと、3世紀前半、開化天皇の御世に山陽道は大和に服属したそうです。
四国については明記されていないですが、まあ同じような時代に大和王権の隷下に入ったのではないかと思っております。(よく分かっていないです。すみません。)
そして、垂仁天皇・景行天皇の御世に、邪馬台国を併呑したと解釈出来る記述が記紀に書いてあるという内容が長浜さんの書籍には書かれております。
(最もらしい事を述べるな!お前の説が納得出来るのか?あなたの説は、他説の批判に基づいている。始めから、邪馬台国の位置を、確定して、話を進めている事。)は言い過ぎているので削除致します。
投馬国は出雲国のことだよ。この時代、大陸・半島から大和へ使節を派遣する場合、日本海航路がメイン航路だった。
邪馬台国は大和じゃないからで終わり。
トウマは琉球語(日本古語)で平地の事。イズモは水の湧く濡れた土地。干潟の事。現在の出雲市の地図見ると当時は汽水域の干潟だったのが分かりますね。
魏の使者が唐津付近?に降りたった時点で、理論上、(邪馬台国から見れば)そこが一番安全で近い港でしょwww
だから邪馬台国は【九州北部で一番安全で近い港を唐津に持つ、海に面していない場所】しかありえないw
だから、伊都国や奴国が海沿いもありえないw
わざわざ唐津付近に上陸する意味がないw
伊都国や奴国を無理やり北東に解釈してるが、倭人伝に書いてある通り、東南に向かって歩いて行くはずで、吉野ヶ里遺跡が伊都国でしょw
現在だって、外交官は成田か羽田に到着して、大使館は東京にあるよね?
それよりも、今も残る地名(末盧=松浦、伊都=糸島)とバッチリ符号すること、奴国に比定された地域から奴国の金印が出た事実の方が信憑性あると自分は考えるンゴwww
伊都(いち)は沖縄弁で干潟。奴(ヌー)は船道の事。松盧(まちら)が断崖。単純に魏の大船を接岸できる港が松浦郡にしかなかったのでしょう。博多湾も遠浅なんで。
でたらめ
九州説が正しいとなると、卑弥呼は大和政権に滅ぼされた熊襲か土蜘蛛の勢力ということになる。それもどうかなあ。