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日本の天井川の40%を占める滋賀県の中でも一番長い天井川部分が占めてる姉川での戦いなのでお互いに相手の動きが見えにくいのを利用して迂回して横から攻めるのは結構有効でしょうね。
同盟国を通過させておいて挟撃するのは流石に当時でも許されなさそうなのにあんまり批判されないのも七不思議のひとつ。
学芸員から聞きました。「小谷城」は「こたにじょう」では無くて「おだにじょう」だそうです。
本多忠勝、ここまで無茶しても無傷なのかw
オダニ城です
朝倉へ上洛要請は出されていません。恐らく、既に敵対関係であったと思われます。(反幕府勢力へは上洛要請は出されていなかったので)
この戦いって一級資料の信長公記には四者ぶつかった後に織田徳川が勝った、くらいにあっさりとしか書いてないんだよね。動画にあるような戦いの様子は江戸時代に成立した資料によるもので、詳細については疑問が残る。
直接朝倉を攻めたわけでなく、若狭武藤氏を攻め落とした流れで越前を攻めたのではないか?
そうですよ。
大河ドラマ「麒麟が来る」では挟み撃ちに遭いそうになり、逃げ出した信長が悔し泣きするのが印象的。
浅井・朝倉の同盟があったかも不明です。
確か南に磯野さんがいませんでしたか?結構織田が危なかったような
12分の10のやつでしょ
まあ、もろ消耗戦→つまりほぼ互角だったということだが、信長方は横山城を確保できたな。家康方のブレーンは誰なのかな。現場で臨機応変の戦術をとれる(情報収集・分析・決断・実行 )のは大したものです。
姉川の戦いは手取川の戦いと並んで本当に激戦だったのかはわからないんだよね。兵数の誇張があったかもしれない。穀倉地帯が広がっているから広い平野部に見えるけど南に横山城、北に大依山、東に七尾山。更に姉川を挟んで布陣したとすれば浅井朝倉軍は背後に草野川を背負って背水の陣。横山城の後詰とはいえちょっと無理がある。それにこの戦いで大損害を受けていたら1月半後に再度大規模な挙兵で志賀の陣を起こすのは浅井朝倉の経済規模からみてきつい。浅井長政が一次資料でもあまり悪し様に記録されていないのはは徳川家光の生母崇源院が長政の娘だったからだろうね。
姉川の戦いの真相は戦の名前がポイントかも知れません。織田・浅井は野村合戦(浅井は国衆の野村氏の城館を本陣としました)、朝倉は三田村合戦(朝倉は国衆の三田村氏の城館を本陣としました・野村と三田村当人は横山城に籠城しています)、徳川は姉川合戦(三田村城対岸の姉川の断崖に陣取ったようです)と記録しました。軍記物であれば姉川の戦いは浅井が渡河して織田諸将の陣を突き崩すのですが、信長公記によれば浅井の軍勢に向かったのは織田信長と美濃三人衆しかいません。横山城攻囲陣への早朝の奇襲を狙ったのに何故か織田の軍勢が対岸にいる現実は浅井の将兵の士気を挫き、織田勢は信長を先頭に浅井の先鋒を蹴散らしながら渡河して野村まで攻め込んだので、浅井は大きな損害を受ける前に撤退したのでしょう。三田村方面では同じく奇襲する予定だった朝倉と徳川が姉川を挟んで睨み合いをしていましたが、浅井の追撃をしなかった織田が軍記物と違って三田村の朝倉を側面から攻め、徳川も便乗して姉川を渡河、戦場で孤立し不利を悟った朝倉が城館を放棄して撤退したのでしょう。この合戦で美濃三人衆の手勢にいた竹中久作(竹中半兵衛の弟)が遠藤直経を始め浅井朝倉の名だたる諸将の首を挙げているのですが、軍記物の展開では浅井の将の分しか獲れないので、信長公記で見る限りでは軍記物と逆に織田が浅井・朝倉を連続して破ったのでしょう。
浅井長政の虚名は偉大な娘達が居たからこそ。実際は織田の血が尊いんだけど。
争ってるのは土地ではなく縄張りみかじめ料を誰が取るか若狭から琵琶湖は首都高だから料金所を誰が管理するかは重要
川越手取川と並ぶ日本三大実は無かった合戦が姉川まあ実際「合戦」は歴史学では扱えないサムシング姉川は合戦の影響が何も無いから本当に小競り合いがあったかどうかというレベルで1番好きな合戦
以前、長浜に住んでました。姉川の野村橋にも行きました。で、あの辺は冗談抜きで、出ます。
『あさい』じゃなく『あざい』です
ちな、浅井氏の菩提寺には、「あさい」「あざい」両方の記載があるぞ
利用例は両方ありますよ
ツッコもうと思ったけどあさいもOKということをコメントで初めて知った。まあ一般にあざい読みが多い気もするが、ゆっくり制作の手間もあるし多少はね?
日本の天井川の40%を占める滋賀県の中でも一番長い天井川部分が占めてる姉川での戦いなのでお互いに相手の動きが見えにくいのを利用して迂回して横から攻めるのは結構有効でしょうね。
同盟国を通過させておいて挟撃するのは流石に当時でも許されなさそうなのにあんまり批判されないのも七不思議のひとつ。
学芸員から聞きました。
「小谷城」は「こたにじょう」では無くて「おだにじょう」だそうです。
本多忠勝、ここまで無茶しても無傷なのかw
オダニ城です
朝倉へ上洛要請は出されていません。
恐らく、既に敵対関係であったと思われます。(反幕府勢力へは上洛要請は出されていなかったので)
この戦いって一級資料の信長公記には四者ぶつかった後に織田徳川が勝った、くらいにあっさりとしか書いてないんだよね。
動画にあるような戦いの様子は江戸時代に成立した資料によるもので、詳細については疑問が残る。
直接朝倉を攻めたわけでなく、若狭武藤氏を攻め落とした流れで越前を攻めたのではないか?
そうですよ。
大河ドラマ「麒麟が来る」では挟み撃ちに遭いそうになり、逃げ出した信長が悔し泣きするのが印象的。
浅井・朝倉の同盟があったかも不明です。
確か南に磯野さんがいませんでしたか?
結構織田が危なかったような
12分の10のやつでしょ
まあ、もろ消耗戦→つまりほぼ互角だったということだが、信長方は横山城を確保できたな。家康方のブレーンは誰なのかな。現場で臨機応変の戦術をとれる(情報収集・分析・決断・実行 )のは大したものです。
姉川の戦いは手取川の戦いと並んで本当に激戦だったのかはわからないんだよね。兵数の誇張があったかもしれない。穀倉地帯が広がっているから広い平野部に見えるけど南に横山城、北に大依山、東に七尾山。更に姉川を挟んで布陣したとすれば浅井朝倉軍は背後に草野川を背負って背水の陣。横山城の後詰とはいえちょっと無理がある。それにこの戦いで大損害を受けていたら1月半後に再度大規模な挙兵で志賀の陣を起こすのは浅井朝倉の経済規模からみてきつい。
浅井長政が一次資料でもあまり悪し様に記録されていないのはは徳川家光の生母崇源院が長政の娘だったからだろうね。
姉川の戦いの真相は戦の名前がポイントかも知れません。
織田・浅井は野村合戦(浅井は国衆の野村氏の城館を本陣としました)、朝倉は三田村合戦(朝倉は国衆の三田村氏の城館を本陣としました・野村と三田村当人は横山城に籠城しています)、徳川は姉川合戦(三田村城対岸の姉川の断崖に陣取ったようです)と記録しました。
軍記物であれば姉川の戦いは浅井が渡河して織田諸将の陣を突き崩すのですが、信長公記によれば浅井の軍勢に向かったのは織田信長と美濃三人衆しかいません。
横山城攻囲陣への早朝の奇襲を狙ったのに何故か織田の軍勢が対岸にいる現実は浅井の将兵の士気を挫き、織田勢は信長を先頭に浅井の先鋒を蹴散らしながら渡河して野村まで攻め込んだので、浅井は大きな損害を受ける前に撤退したのでしょう。
三田村方面では同じく奇襲する予定だった朝倉と徳川が姉川を挟んで睨み合いをしていましたが、浅井の追撃をしなかった織田が軍記物と違って三田村の朝倉を側面から攻め、徳川も便乗して姉川を渡河、戦場で孤立し不利を悟った朝倉が城館を放棄して撤退したのでしょう。
この合戦で美濃三人衆の手勢にいた竹中久作(竹中半兵衛の弟)が遠藤直経を始め浅井朝倉の名だたる諸将の首を挙げているのですが、軍記物の展開では浅井の将の分しか獲れないので、信長公記で見る限りでは軍記物と逆に織田が浅井・朝倉を連続して破ったのでしょう。
浅井長政の虚名は偉大な娘達が
居たからこそ。実際は織田の血が尊いんだけど。
争ってるのは
土地ではなく縄張り
みかじめ料を誰が取るか
若狭から琵琶湖は首都高だから
料金所を誰が管理するかは重要
川越手取川と並ぶ
日本三大実は無かった合戦が姉川
まあ実際「合戦」は歴史学では
扱えないサムシング
姉川は合戦の影響が何も無いから
本当に小競り合いがあったかどうかというレベルで1番好きな合戦
以前、長浜に住んでました。姉川の野村橋にも行きました。で、あの辺は冗談抜きで、出ます。
『あさい』じゃなく『あざい』です
ちな、浅井氏の菩提寺には、「あさい」「あざい」両方の記載があるぞ
利用例は両方ありますよ
ツッコもうと思ったけどあさいもOKということをコメントで初めて知った。まあ一般にあざい読みが多い気もするが、ゆっくり制作の手間もあるし多少はね?