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とてもわかり易くて面白いです。今後も期待しています。
今ちょうど信長のシェフが本能寺の変に差し掛かってるところですがあのストーリーも有力な説のうちのひとつなんでしょうか?
筒井とまさかまさか細川が味方してくれないとは思ってたかっただろうな
信長が討たれた事より信忠が討たれた事の方が痛かったんじゃないかなぁ…
生き残った次男三男は有能ではなかったから利用されるだけされて捨てられましたしね。信長自身油断や慢心もあったのでしょうね。
というか二人同時に殺さないと成立しないんで… 次男三男に至っては別のところに養子入り済だから相続の牡丹餅が落ちてくること自体が予想外だし
信忠は逃げようと思えば逃げれたんよね明智は誠仁親王を逃がすために攻撃遅らせたしその間に逃げるか戦うかを家臣と話してる間に逃げそこなってしまった
@@もふもふ-x4pそこが信長と信忠の力量の違いやと思う信長が信忠の立場なら先ずは逃げてたと思う
光秀は京都を封鎖せずに本能寺の変を起こしたので、信忠を捕殺する算段は立てていなかったと思われます。ただ信忠が遁走せず二条城に立て籠もったので討ってなし崩し的に天下人になろうとしたように見えますので、怨恨もしくは突発的犯行説に有利な傍証ですね。
17:46 切腹を進言したのは織田有楽斎では。そして進言した有楽斎自体はしれっと逃げて生き残った
何なら信忠の介錯を行った人ですらしれっとこの戦闘で生き残っていますからね。
だから有楽斎は豊臣政権で生き残ったんだな😏大坂の陣でも逃げたけど😜本能寺の首謀者が秀吉サイドであった動かぬ証拠の一つですね😉
変発生当初から斎藤利三と明智秀満本人は妙覚寺を伺っていた感じの位置だし、「周囲が明智系列の領地で唯一開いてる場所からは敵が迫っている状況でかつ味方は少数で敵は多数」だと突破は極めて絶望的よね…→信忠視点 有楽は単にターゲットでも交渉材料にすらならんから見逃してもらったようなもんだし似たようなケースだと永正の錯乱かな→最初に義父の細川政元が暗殺+次に暫定の後継者だった細川澄元が襲撃される こっちは三好之長の奮戦でなんとか近江に逃れたが…
実際、摂津には弟信孝や丹羽長秀の部隊がいたので1日守り抜けば後詰が到着する可能性はあったので敢えて突破するより籠城の方が勝機があったという点も。
「信長と信忠の2人が同時に在京している」とういう状況が重要で、光秀が謀反を決意する直接的なきっかけになったと思う。「天が自分に謀反を促している、このように思ったかもしれない」と光秀の心境を評する研究家もいるほど、絶好のチャンスだった。当初、家康と堺に行く予定だった信忠が信長を出迎えるため在京することに予定変更したが、それが運命の分かれ道だったか。個人的には、甲州征伐の時のように信忠を総大将に配下武将たちを先に出陣させ、信長は後から情勢を見ながらゆっくりと出陣すれば良かったように思う。信長は西国平定を迅速に行いたかったのかもしれないが、わずかな手勢で本能寺に宿泊したり、些か軽率な面があるのは否めない。それが足元をすくわれることにつながった感じがするな。
そのような絶好の好機をお膳立てした何者かがいてその者が本能寺の真の首謀者ということになります。朝廷が絡んでいるのは言わずもがなですが、黒田官兵衛の智謀ならそれくらいのことは充分画策できたと言うことができます😈秀吉軍だけがまるで本能寺が起きることを知っていたかのように、帰り道の兵糧駅伝を周到に準備していたのはそういうことです🏃🏻♂️🏃🏻♂️
真の首謀者と言ったら状況証拠的に織田信長本人しか考えられないんだよな…
@@もっちー-c4z そして何故か信長の躯が見当たらない・・・とあれ、これって・・・?
妙覚寺の公家を逃がす交渉をせず、見捨ててとっとと逃げていれば、信忠は脱出できたのではないかとも言われてますね上手い事、信長と家督相続してる信忠を、ぶっ殺せる状況が整ってしまった。ただ思ってた以上に戦後処理が上手く行かなかった
真相を知りたいような、永遠に謎であって欲しいような…
信忠が、河内の信孝の下に脱出するという機転が利いていたら…秀吉や家康の天下は、無かったかも?
知れば知るほど光秀の有能さを痛感するが信長も油断しすぎでは?
「是非に及ばず」は有名な言葉ですが本能寺で誰が生き残って太田牛一(「信長公記」作者)に伝えたのでしょうか?
実は非戦闘員であるお坊さんや女性の使用人は脱出しているので割と本能寺の変に遭遇して生き残っている人が多くいます。牛一もその人たちに直接話を伺ったんじゃないでしょうか。信長の側近であった牛一なら本能寺の変に遭遇した女性の知己が複数いたと推測できますし。
14:28 この当時は、下々のものが喧騒を起こすということが珍しくなかったのかな
その声が聞こえるようなところで寝ているのは自分も下々のものとたいしてかわらないということに気づいていなかったということになるのでは?
信忠は生存ルートもあったんだけどなぁ
川角太閤記の記述からは明智を悪者に仕立てようとするニュアンスを感じる。もしそうなら、秀吉が黒幕?
川角太閤記は、資料とは、言えない。物語。小説。
惟任(これとう)を「のぶにん?」
龍造寺氏とは通じているのでしょうか。私は、通じてはいないけど、羽柴秀吉とは文書を交わしているので、認識としてはあったので、もし信長が本能寺を逃れて九州を平定するとき、すぐに従ったのだと思います。どうか質問に答えてくれれば幸いです。よろしくお願いいたします。
光秀が鳥羽に控えてたのが本当だとしたら、そこからも光秀の切れ者ぶりが伺えますね信長・信忠討つにはそれほどまでに周到な計画立てないと無理だと言うのも伝わってくるしかし、細川たちに加勢を断られたのはなんだったんだろう?やはり黒幕がいて根回ししされてたのか?タイムスクープハンター教えてくれ〜!🥺
私の説が真相になります🕵🏻♂️
光秀も本気で謀反起こすなら細川とか筒井に根回ししとくのでは?突発的犯行なのかな
本人の意思ではなかったと考えるのが自然です。首謀者に祭り上げられたと考えるべきでしょう。(光秀の辞世の句を見れば合点がいくと思います。)
謀反の動機は家康接待に難癖をつけられ役を解かれたとか所領を奪われ家臣を養えなくなったとか敵方領主と光秀の母との人質交換を拒否されたとか諸説あるが真相はわからない。ただ火のない所に煙は立たないと言われるとおり信長は合わせるのが難しい主君であり短気で苛烈な仕打ちも少なくないので多かれ少なかれ多方面から恨みを買っていたと思われ、光秀に限らず彼を討つ可能性はあったと考えられる。
お疲れ様です。本能寺の変における兵の配置などを見ても光秀はご用心深い性格のようですが、変後の光秀の動向と較べると少し落差が大きく感じます。変前にもっと地ならし調整を行い変後に備えるのではないのかと。もっとも信長の生命を奪うことだけが目的であったならその限りではないですが。
光秀のような緻密な男が事前調略なしに事に及ぶなど考えられないですよね🤔つまり本能寺の首謀者は別にいるということです😈
返信ありがとうございます🙇 日本史上最大の謎とも言えるにも関わらず真実を探求することに熱心ではないところがあるのかもしれませんね😃もちろん本能寺の変だけではないでしょうが😊
5:00 24時間闘ってその結果30年足踏みしてましたってんだから面白いよな
信長父子を討った後が光秀にしては計画が練られていない感じがする🤔朝廷から暗に『信長(政権)を討て』と仄めかされたのか他に協力者が居て討った後はその者(達❔)と協力していくつもりだったのか先行き不安で『やられる前にやった』だけなのかタイムマシーンで確認しない限り解明されないのかも😥
余りにも急激に本能寺襲撃という二度と無いほどの絶好のチャンスが訪れた事で十分な準備は不可能だったと思いますが・・・ただし、徳川家康とは連携できる状況にあったと思えますね徳川家康は穴山梅雪を葬り武田の旧領域を押さえた事でも・・・足利義明や毛利氏に秀吉軍の急反転を抑えて貰うことが出来なかった畿内の40万石クラスの織田筆頭重臣、佐久間盛信や林通勝の追放などその後を継いだ明智光秀には危機感があったように思えます息子信康や築山殿を殺された家康には十分な光秀との連携動機があるしね
1万3000人から裏切り者を出さなかった明智の実力
和歌の解釈ですが雨がした=天が下=天下しる=治る=治めるで「天下を治める」ですよ細かくてすみません
信忠が切腹したのはあかんかったねぇ
首が必要な時代に、火を放つ謎。当時の6/2は、夏至なので、京都はパニック状態。なのに伝承が少ない謎。もう少し京都の豪商達の伝承でも残ってても不思議じゃないよね。(笑)
朝廷自身が首謀者なので証拠を隠滅しているのです😈
隙があったから、信忠逃げることができた。
信長は飼い犬に手を嚙まれたどころじゃうありませんな。茶会ではしゃぎすぎて油断したな
光秀の裏切りに色々な説はあるが、その説 より事実の積み上げが全てで。計画的に裏切った。信長の首があったらと言うけど、仮にあっても秀吉は戦うだろうし、光秀以外の方面軍が数万いる状態で信長だけを倒すのが目的なら自軍に引き入れ策も必死にしないから、ナンバー2の俺が信長討ったからついてくれるやろ的に想いの誤算あってすぐに夢敗れた。そこ考えたらほんまに賢かったのか謎になる。
未だに光秀がやったって信じれない😢
細かい所ですが森おらん殿は蘭丸ではなく「乱」ですね。二条城へ入った織田信忠一向が何故逃げようとしなかったのは謎、としか言いようがありません。優秀な人物と目される信忠ですが、そこで迷わず逃げるという決断が出来なかったのが限界なのでしょうかね。光秀の方は瀬田橋を焼き払った山岡を始め、細川や筒井を事前の相談も無しに抱き込めると思っていたのが甘い目論見でした。
逃げるといっても本拠地である美濃に戻るには光秀の本拠地である近江坂本の近くを通らなければいけない(なんなら近江の国衆の何割か実際に光秀に味方していた)し、実際光秀はその道路はすでに封鎖しているだろうし、大和方面は光秀の与力の筒井の勢力なのであまり安全ではない。可能性があるのは摂津方面へ脱出して信孝たちと合流するか二条城に籠城して信孝の援軍を待つかというだけしか信忠側から与えられた情報から導き出される結論はそれしかなかった。
日付が旧暦であることは、前提としね解説すべきだよ。14.15日は満月、1,2は新月、その辺りを知らないとなぁ。6月の日照時間も言及してほしいというか。
信長は一番の側近に裏切られたわけですね。ところで、本能寺にいた信長の小姓衆は全員死亡してますからその時起こったことを語れる人は本当は一人もいないはずです。
弟の有楽斎は割と途中まで見てるよなだから誰が攻めてきたのかとかは知ってるはず
@@もふもふ-x4pどちらにせよ明智の旗を見て「明智謀叛」としか思われてなかっただろう。他に黒幕がいたにせよ。
女中達は信長が逃がしており、黒人小姓の彌介も二条御所が落ちた後も南蛮寺に身柄を渡されて生き延びている。
信長の小姓衆は全員死亡 ⇠ その時起こったこととして伝わっていることが事実として認識されてきたなら『小姓衆は全員死亡』は相対的な意味なのでは?使者が戦場から帰って来て『全員死亡しました!』という感じで。明智の兵を倒して武具を奪って着替えて逃げた人もいるかもしれないし。
小姓衆だけでなく、女性の使用人だったり本能寺のお坊さんが本能寺内にいたので実は脱出できた人が多かった。
日本史最大のクーデター
本能寺の変自体は信長が仕組んだ事。本当は家康を茶会の名目で本能寺に招待して、援軍の名目で待機させていた明智軍に襲わせる計画だった。光秀の謀反に都合が良過ぎる当時の状況は、偶然などではなく、全て信長自身が意図的に整えたものだったが、光秀はそれを乗っ取って信長を討った。ミステリー小説でも「殺された被害者の方がトリックを仕掛けており、犯人はそれを利用した」という話があるが、同じ事が本能寺の変でも起きていた。
エイブラムスが有れば!
ブラック過ぎてハゲそう!
光秀が鳥羽に居たんなら本能寺の直後で混乱してるであろう。信孝と長秀の軍勢を叩きに行かんかった事も謎やし。本能寺の変の後は勢力の安定化や拡大をする軍事的な行動せず京都で無駄な時間を過ごしてた事も謎なんですよね
乱の直後光秀は近江方面の制圧(軍事行動)を行っていた。ぶっちゃけると近江を平定した京に戻った翌日に秀吉軍が接近しているという報告を受け取っている。ちなみに信孝と長秀の軍勢は本能寺の変の知らせが来た後消滅+内ゲバでごたごたしていたので後回しにされていた。
@@マスター刑事 近江に光秀自身は行って無いんじゃなかったっけ?光秀自身は京に居たって説も有るし堺の軍勢の兵が逃げてても信長の息子が居る訳やから仇討ちの旗頭に使われるのは分かってる事やのに、そこを抑えに行かんかった事が不思議なんですよね歴史もしは禁物ですけど堺を抑えてたら津田信澄の軍勢を吸収出来たかもと思ってしまうんよね
光秀には信長に対する敵意も織田家に対する敵意もなかったということ。その後織田の血筋や柴田や池田などの織田重臣を巧妙に殺害していった秀吉には敵意と野心があったということ😈
敵意があったから殺害したんでしょ???
これだけの激務で光秀いつ寝てたんでしょうなぁ
光秀が寝不足のせいで判断力や仕事のスピードが遅くなって秀吉にまにあわなかったのは科学的分析として理にかなっていますね
明智光秀過労で死んじゃう・・・
だから、明智光秀じゃない。あれはO型の奴
自分が明智軍だったらいくら光秀の命だからって織田軍トップの信長を討とうとするかなあ。「信長様の天下の為に命を懸けます」って人が織田軍なのだと思ってたけど一枚岩ではなかったってことなのかな?不可解です
実はそのあたりの研究が割と進んでいて地域に土着していた土豪が信長の政治体制に反発していたという研究が出ている(実際に小川祐忠、阿閉貞征、後藤高治、武田元明のように光秀と関係が今まで深くないのに変後光秀に積極的に味方した元信長家臣が近江、若狭を中心に多かった)のでぶっちゃけ一枚岩ではないです。
いえ、光秀の軍勢は鳥羽で信長と合流するために信長を迎えに本能寺に向かったのです。その時すでに本能寺に異変があり、信長はすでに討たれて遺体もなかったというのが新しい最新の通説になります。光秀は首謀者ではなく、首謀者に祭り上げられるように巧妙に画策されていたのです😈
光秀、魔が差しただけじゃないの?それで討たれた信長はお気の毒だけどね。
全国に散らばった重臣が弔い合戦に来ることが容易に想像できるのに、光秀が一歩間違えば全てを失う謀反を魔が差した程度でする人とは思えないけどなぁ。それなりの理由と目的はあったと思いますけど。
@@さんどのかたなでもつじつまが一番合うのは、いけそうだからやった説になると言う
私も意外にそれあるんじゃないかと思ってました、No.2になったが故に一時の隙に目が眩んだのではないかと。動機は日頃から何かしら合わないところがあり悶々としていたとか、あとは謀反後は自分に従う者が多数いると高を括っており結果それが慢心となっていて身を滅ぼすことに繋がったのかと思います。
主君殺しを考えるくらい、家康に出した料理でトラブル起こしたことって当時では相当ヤバかったのかね
Oh
本能寺が光秀の謀略というのはありえんわ😅明智の軍は鳥羽で信長と合流する予定で本隊は鳥羽に駐留していたのであり、早朝信長を迎えに上がった斎藤利三らが本能寺の異変に気付いて駆けつけた時、すでに門が開け放たれて誰もいなかったのはすでに別の者の襲撃を受けた後だったからというのが新しい通説となっています。朝廷と結託し信長に怨みのある浪人や忍者衆を使って本能寺を襲撃させたのは秀吉方の黒田官兵衛と律令制を守り通して自分たちの利権を守り通したい公家どもによる共犯であったことはすでに明々白々🕵🏻♂️光秀が事後調略に失敗して細川や筒井に断られたのは事前に何も準備せず自分が謀叛の首謀者に突然祭り上げられた証拠であり、辞世の句にも「言いたい奴は勝手に言え」という内容のことが詠まれています。(「雨が下しる〜」なんて稚拙な句は光秀は詠まない😅秀吉サイドの創作です😂)おそらく秀吉にすら無断で本能寺を決行した黒田官兵衛を秀吉は恐れ、疎んじて中央政権から遠ざけたと考えられます。官兵衛は信長に信頼されず自分が荒木に幽閉されていた時に人質の長政を殺されそうになっていますからね😰信長に対する怨恨説が成立するのは黒田官兵衛と言うことができます😈光秀は丹波平定にも苦労しており、後年語られているような戦上手ではないと思いますよ?だから最前線の司令官に任命されていなかったのであり、むしろ村井貞勝同様内向きの政務官の色が強い武将だったと思われます。比叡山の焼き討ちにも最も賛同して積極的に腐敗坊主を殺戮した光秀はむしろ信長の先進性を最も理解する良き理解者であったと私は明智光秀という武将の真の姿をそのように見ております😊
オレ的の考えだが、信忠があっさり逃げて、助かった時に万が一父信長が1%の確率で生きていたら、信忠は父親に合わせる顔がなかったはず、あの時(逃げるか戦うか)はまだ信長が確実に死んだと言う情報がなかったから、ひょっとして万が一万が一生きていたら、そりゃ逃げて切腹より、応援にいくでしょうに、家督はついでも、名ばかりだから、実際家督を次ぐ前に総大将にて武田勝頼に父親の命令を無視して合戦をして一回負けているからねその際には命令無視からの敗北に切腹覚悟していたからね、織田家当主でも多大な実権は父親信長だったからね
理にかなっている👍
ぼくへのコメント募集
とてもわかり易くて面白いです。
今後も期待しています。
今ちょうど信長のシェフが本能寺の変に差し掛かってるところですが
あのストーリーも有力な説のうちのひとつなんでしょうか?
筒井とまさかまさか細川が味方してくれないとは思ってたかっただろうな
信長が討たれた事より信忠が討たれた事の方が痛かったんじゃないかなぁ…
生き残った次男三男は有能ではなかったから利用されるだけされて捨てられましたしね。信長自身油断や慢心もあったのでしょうね。
というか二人同時に殺さないと成立しないんで… 次男三男に至っては別のところに養子入り済だから相続の牡丹餅が落ちてくること自体が予想外だし
信忠は逃げようと思えば逃げれたんよね
明智は誠仁親王を逃がすために攻撃遅らせたし
その間に逃げるか戦うかを家臣と話してる間に逃げそこなってしまった
@@もふもふ-x4pそこが信長と信忠の力量の違いやと思う
信長が信忠の立場なら先ずは逃げてたと思う
光秀は京都を封鎖せずに本能寺の変を起こしたので、信忠を捕殺する算段は立てていなかったと思われます。ただ信忠が遁走せず二条城に立て籠もったので討ってなし崩し的に天下人になろうとしたように見えますので、怨恨もしくは突発的犯行説に有利な傍証ですね。
17:46 切腹を進言したのは織田有楽斎では。そして進言した有楽斎自体はしれっと逃げて生き残った
何なら信忠の介錯を行った人ですらしれっとこの戦闘で生き残っていますからね。
だから有楽斎は豊臣政権で生き残ったんだな😏大坂の陣でも逃げたけど😜
本能寺の首謀者が秀吉サイドであった動かぬ証拠の一つですね😉
変発生当初から斎藤利三と明智秀満本人は妙覚寺を伺っていた感じの位置だし、「周囲が明智系列の領地で唯一開いてる場所からは敵が迫っている状況でかつ味方は少数で敵は多数」だと突破は極めて絶望的よね…→信忠視点 有楽は単にターゲットでも交渉材料にすらならんから見逃してもらったようなもんだし
似たようなケースだと永正の錯乱かな→最初に義父の細川政元が暗殺+次に暫定の後継者だった細川澄元が襲撃される こっちは三好之長の奮戦でなんとか近江に逃れたが…
実際、摂津には弟信孝や丹羽長秀の部隊がいたので1日守り抜けば後詰が到着する可能性はあったので敢えて突破するより籠城の方が勝機があったという点も。
「信長と信忠の2人が同時に在京している」とういう状況が重要で、光秀が謀反を決意する直接的なきっかけになったと思う。「天が自分に謀反を促している、このように思ったかもしれない」と光秀の心境を評する研究家もいるほど、絶好のチャンスだった。当初、家康と堺に行く予定だった信忠が信長を出迎えるため在京することに予定変更したが、それが運命の分かれ道だったか。
個人的には、甲州征伐の時のように信忠を総大将に配下武将たちを先に出陣させ、信長は後から情勢を見ながらゆっくりと出陣すれば良かったように思う。信長は西国平定を迅速に行いたかったのかもしれないが、わずかな手勢で本能寺に宿泊したり、些か軽率な面があるのは否めない。それが足元をすくわれることにつながった感じがするな。
そのような絶好の好機をお膳立てした何者かがいてその者が本能寺の真の首謀者ということになります。朝廷が絡んでいるのは言わずもがなですが、黒田官兵衛の智謀ならそれくらいのことは充分画策できたと言うことができます😈
秀吉軍だけがまるで本能寺が起きることを知っていたかのように、帰り道の兵糧駅伝を周到に準備していたのはそういうことです🏃🏻♂️🏃🏻♂️
真の首謀者と言ったら状況証拠的に織田信長本人しか考えられないんだよな…
@@もっちー-c4z そして何故か信長の躯が見当たらない・・・と
あれ、これって・・・?
妙覚寺の公家を逃がす交渉をせず、見捨ててとっとと逃げていれば、信忠は脱出できたのではないかとも言われてますね
上手い事、信長と家督相続してる信忠を、ぶっ殺せる状況が整ってしまった。ただ思ってた以上に戦後処理が上手く行かなかった
真相を知りたいような、永遠に謎であって欲しいような…
信忠が、河内の信孝の下に脱出するという機転が利いていたら…
秀吉や家康の天下は、無かったかも?
知れば知るほど光秀の有能さを痛感するが信長も油断しすぎでは?
「是非に及ばず」は有名な言葉ですが本能寺で誰が生き残って太田牛一(「信長公記」作者)に伝えたのでしょうか?
実は非戦闘員であるお坊さんや女性の使用人は脱出しているので割と本能寺の変に遭遇して生き残っている人が多くいます。牛一もその人たちに直接話を伺ったんじゃないでしょうか。信長の側近であった牛一なら本能寺の変に遭遇した女性の知己が複数いたと推測できますし。
14:28 この当時は、下々のものが喧騒を起こすということが珍しくなかったのかな
その声が聞こえるようなところで寝ているのは自分も下々のものとたいしてかわらないということに気づいていなかったということになるのでは?
信忠は生存ルートもあったんだけどなぁ
川角太閤記の記述からは明智を悪者に仕立てようとするニュアンスを感じる。もしそうなら、秀吉が黒幕?
川角太閤記は、資料とは、言えない。物語。小説。
惟任(これとう)を「のぶにん?」
龍造寺氏とは通じているのでしょうか。私は、通じてはいないけど、羽柴秀吉とは文書を交わしているので、認識としてはあったので、もし信長が本能寺を逃れて九州を平定するとき、すぐに従ったのだと思います。どうか質問に答えてくれれば幸いです。よろしくお願いいたします。
光秀が鳥羽に控えてたのが本当だとしたら、
そこからも光秀の切れ者ぶりが伺えますね
信長・信忠討つにはそれほどまでに周到な計画立てないと無理だと言うのも伝わってくる
しかし、細川たちに加勢を断られたのはなんだったんだろう?
やはり黒幕がいて根回ししされてたのか?
タイムスクープハンター教えてくれ〜!🥺
私の説が真相になります🕵🏻♂️
光秀も本気で謀反起こすなら細川とか筒井に根回ししとくのでは?突発的犯行なのかな
本人の意思ではなかったと考えるのが自然です。首謀者に祭り上げられたと考えるべきでしょう。(光秀の辞世の句を見れば合点がいくと思います。)
謀反の動機は家康接待に難癖をつけられ役を解かれた
とか所領を奪われ家臣を養えなくなったとか敵方領主
と光秀の母との人質交換を拒否されたとか諸説あるが
真相はわからない。ただ火のない所に煙は立たないと
言われるとおり信長は合わせるのが難しい主君であり
短気で苛烈な仕打ちも少なくないので多かれ少なかれ
多方面から恨みを買っていたと思われ、光秀に限らず
彼を討つ可能性はあったと考えられる。
お疲れ様です。本能寺の変における兵の配置などを見ても光秀はご用心深い性格のようですが、変後の光秀の動向と較べると少し落差が大きく感じます。変前にもっと地ならし調整を行い変後に備えるのではないのかと。もっとも信長の生命を奪うことだけが目的であったならその限りではないですが。
光秀のような緻密な男が事前調略なしに事に及ぶなど考えられないですよね🤔
つまり本能寺の首謀者は別にいるということです😈
返信ありがとうございます🙇 日本史上最大の謎とも言えるにも関わらず真実を探求することに熱心ではないところがあるのかもしれませんね😃もちろん本能寺の変だけではないでしょうが😊
5:00 24時間闘ってその結果30年足踏みしてましたってんだから面白いよな
信長父子を討った後が光秀にしては計画が練られていない感じがする🤔
朝廷から暗に『信長(政権)を討て』と仄めかされたのか
他に協力者が居て討った後はその者(達❔)と協力していくつもりだったのか
先行き不安で『やられる前にやった』だけなのか
タイムマシーンで確認しない限り解明されないのかも😥
余りにも急激に本能寺襲撃という二度と無いほどの絶好のチャンスが訪れた事で十分な準備は不可能だったと思いますが・・・
ただし、徳川家康とは連携できる状況にあったと思えますね
徳川家康は穴山梅雪を葬り武田の旧領域を押さえた事でも・・・
足利義明や毛利氏に秀吉軍の急反転を抑えて貰うことが出来なかった
畿内の40万石クラスの織田筆頭重臣、佐久間盛信や林通勝の追放などその後を継いだ明智光秀には危機感があったように思えます
息子信康や築山殿を殺された家康には十分な光秀との連携動機があるしね
1万3000人から裏切り者を出さなかった明智の実力
和歌の解釈ですが
雨がした=天が下=天下
しる=治る=治める
で「天下を治める」ですよ
細かくてすみません
信忠が切腹したのはあかんかったねぇ
首が必要な時代に、火を放つ謎。
当時の6/2は、夏至なので、京都はパニック状態。なのに伝承が少ない謎。
もう少し京都の豪商達の伝承でも残ってても不思議じゃないよね。(笑)
朝廷自身が首謀者なので証拠を隠滅しているのです😈
隙があったから、信忠逃げることができた。
信長は飼い犬に手を嚙まれたどころじゃうありませんな。茶会ではしゃぎすぎて油断したな
光秀の裏切りに色々な説はあるが、その説 より事実の積み上げが全てで。計画的に裏切った。信長の首があったらと言うけど、仮にあっても秀吉は戦うだろうし、光秀以外の方面軍が数万いる状態で信長だけを倒すのが目的なら自軍に引き入れ策も必死にしないから、ナンバー2の俺が信長討ったからついてくれるやろ的に想いの誤算あってすぐに夢敗れた。そこ考えたらほんまに賢かったのか謎になる。
未だに光秀がやったって信じれない😢
細かい所ですが森おらん殿は蘭丸ではなく「乱」ですね。
二条城へ入った織田信忠一向が何故逃げようとしなかったのは謎、としか言いようがありません。
優秀な人物と目される信忠ですが、そこで迷わず逃げるという決断が出来なかったのが限界なのでしょうかね。
光秀の方は瀬田橋を焼き払った山岡を始め、細川や筒井を事前の相談も無しに抱き込めると思っていたのが甘い目論見でした。
逃げるといっても本拠地である美濃に戻るには光秀の本拠地である近江坂本の近くを通らなければいけない(なんなら近江の国衆の何割か実際に光秀に味方していた)し、実際光秀はその道路はすでに封鎖しているだろうし、大和方面は光秀の与力の筒井の勢力なのであまり安全ではない。可能性があるのは摂津方面へ脱出して信孝たちと合流するか二条城に籠城して信孝の援軍を待つかというだけしか信忠側から与えられた情報から導き出される結論はそれしかなかった。
日付が旧暦であることは、前提としね解説すべきだよ。
14.15日は満月、1,2は新月、その辺りを知らないとなぁ。
6月の日照時間も言及してほしいというか。
信長は一番の側近に裏切られたわけですね。
ところで、本能寺にいた信長の小姓衆は全員死亡してますから
その時起こったことを語れる人は本当は一人もいないはずです。
弟の有楽斎は割と途中まで見てるよな
だから誰が攻めてきたのかとかは知ってるはず
@@もふもふ-x4pどちらにせよ明智の旗を見て「明智謀叛」としか思われてなかっただろう。他に黒幕がいたにせよ。
女中達は信長が逃がしており、黒人小姓の彌介も二条御所が落ちた後も南蛮寺に身柄を渡されて生き延びている。
信長の小姓衆は全員死亡 ⇠ その時起こったこととして伝わっていることが事実として認識されてきたなら『小姓衆は全員死亡』は相対的な意味なのでは?
使者が戦場から帰って来て『全員死亡しました!』という感じで。
明智の兵を倒して武具を奪って着替えて逃げた人もいるかもしれないし。
小姓衆だけでなく、女性の使用人だったり本能寺のお坊さんが本能寺内にいたので実は脱出できた人が多かった。
日本史最大のクーデター
本能寺の変自体は信長が仕組んだ事。本当は家康を茶会の名目で本能寺に招待して、援軍の名目で待機させていた明智軍に襲わせる計画だった。光秀の謀反に都合が良過ぎる当時の状況は、偶然などではなく、全て信長自身が意図的に整えたものだったが、光秀はそれを乗っ取って信長を討った。ミステリー小説でも「殺された被害者の方がトリックを仕掛けており、犯人はそれを利用した」という話があるが、同じ事が本能寺の変でも起きていた。
エイブラムスが有れば!
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光秀が鳥羽に居たんなら本能寺の直後で混乱してるであろう。信孝と長秀の軍勢を叩きに行かんかった事も謎やし。本能寺の変の後は勢力の安定化や拡大をする軍事的な行動せず京都で無駄な時間を過ごしてた事も謎なんですよね
乱の直後光秀は近江方面の制圧(軍事行動)を行っていた。ぶっちゃけると近江を平定した京に戻った翌日に秀吉軍が接近しているという報告を受け取っている。ちなみに信孝と長秀の軍勢は本能寺の変の知らせが来た後消滅+内ゲバでごたごたしていたので後回しにされていた。
@@マスター刑事 近江に光秀自身は行って無いんじゃなかったっけ?
光秀自身は京に居たって説も有るし
堺の軍勢の兵が逃げてても信長の息子が居る訳やから仇討ちの旗頭に使われるのは分かってる事やのに、そこを抑えに行かんかった事が不思議なんですよね
歴史もしは禁物ですけど堺を抑えてたら津田信澄の軍勢を吸収出来たかもと思ってしまうんよね
光秀には信長に対する敵意も織田家に対する敵意もなかったということ。その後織田の血筋や柴田や池田などの織田重臣を巧妙に殺害していった秀吉には敵意と野心があったということ😈
敵意があったから殺害したんでしょ???
これだけの激務で光秀いつ寝てたんでしょうなぁ
光秀が寝不足のせいで判断力や仕事のスピードが遅くなって秀吉にまにあわなかったのは科学的分析として理にかなっていますね
明智光秀過労で死んじゃう・・・
だから、明智光秀じゃない。
あれはO型の奴
自分が明智軍だったらいくら光秀の命だからって織田軍トップの信長を討とうとするかなあ。
「信長様の天下の為に命を懸けます」って人が織田軍なのだと思ってたけど一枚岩ではなかったってことなのかな?
不可解です
実はそのあたりの研究が割と進んでいて地域に土着していた土豪が信長の政治体制に反発していたという研究が出ている(実際に小川祐忠、阿閉貞征、後藤高治、武田元明のように光秀と関係が今まで深くないのに変後光秀に積極的に味方した元信長家臣が近江、若狭を中心に多かった)のでぶっちゃけ一枚岩ではないです。
いえ、光秀の軍勢は鳥羽で信長と合流するために信長を迎えに本能寺に向かったのです。その時すでに本能寺に異変があり、信長はすでに討たれて遺体もなかったというのが新しい最新の通説になります。
光秀は首謀者ではなく、首謀者に祭り上げられるように巧妙に画策されていたのです😈
光秀、魔が差しただけじゃないの?それで討たれた信長はお気の毒だけどね。
全国に散らばった重臣が弔い合戦に来ることが容易に想像できるのに、光秀が一歩間違えば全てを失う謀反を魔が差した程度でする人とは思えないけどなぁ。それなりの理由と目的はあったと思いますけど。
@@さんどのかたなでもつじつまが一番合うのは、いけそうだからやった説になると言う
私も意外にそれあるんじゃないかと思ってました、No.2になったが故に一時の隙に目が眩んだのではないかと。動機は日頃から何かしら合わないところがあり悶々としていたとか、あとは謀反後は自分に従う者が多数いると高を括っており結果それが慢心となっていて身を滅ぼすことに繋がったのかと思います。
主君殺しを考えるくらい、家康に出した料理でトラブル起こしたことって当時では相当ヤバかったのかね
Oh
本能寺が光秀の謀略というのはありえんわ😅明智の軍は鳥羽で信長と合流する予定で本隊は鳥羽に駐留していたのであり、早朝信長を迎えに上がった斎藤利三らが本能寺の異変に気付いて駆けつけた時、すでに門が開け放たれて誰もいなかったのはすでに別の者の襲撃を受けた後だったからというのが新しい通説となっています。
朝廷と結託し信長に怨みのある浪人や忍者衆を使って本能寺を襲撃させたのは秀吉方の黒田官兵衛と律令制を守り通して自分たちの利権を守り通したい公家どもによる共犯であったことはすでに明々白々🕵🏻♂️光秀が事後調略に失敗して細川や筒井に断られたのは事前に何も準備せず自分が謀叛の首謀者に突然祭り上げられた証拠であり、辞世の句にも「言いたい奴は勝手に言え」という内容のことが詠まれています。(「雨が下しる〜」なんて稚拙な句は光秀は詠まない😅秀吉サイドの創作です😂)
おそらく秀吉にすら無断で本能寺を決行した黒田官兵衛を秀吉は恐れ、疎んじて中央政権から遠ざけたと考えられます。官兵衛は信長に信頼されず自分が荒木に幽閉されていた時に人質の長政を殺されそうになっていますからね😰信長に対する怨恨説が成立するのは黒田官兵衛と言うことができます😈
光秀は丹波平定にも苦労しており、後年語られているような戦上手ではないと思いますよ?だから最前線の司令官に任命されていなかったのであり、むしろ村井貞勝同様内向きの政務官の色が強い武将だったと思われます。比叡山の焼き討ちにも最も賛同して積極的に腐敗坊主を殺戮した光秀はむしろ信長の先進性を最も理解する良き理解者であったと私は明智光秀という武将の真の姿をそのように見ております😊
オレ的の考えだが、信忠が
あっさり逃げて、助かった時に
万が一父信長が1%の確率で生きて
いたら、信忠は父親に合わせる顔が
なかったはず、
あの時(逃げるか戦うか)は
まだ信長が確実に死んだと言う情報がなかったから、ひょっとして万が一万が一生きていたら、そりゃ逃げて切腹より、応援にいくでしょうに、家督はついでも、名ばかりだから、実際家督を次ぐ前に総大将にて武田勝頼に父親の命令を無視して合戦をして一回負けているからね
その際には命令無視からの敗北に切腹覚悟していたからね、
織田家当主でも多大な実権は父親信長だったからね
理にかなっている👍
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