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信長は「武力のない寺社」は保護したけど、武力介入してくる寺社には容赦しなかった。そもそも、寺が別の寺を焼き討ちしていた時代で、それを終わらせたのが信長。
天台宗(延暦寺)も本願寺(浄土真宗)も禁教とはしてません。後の秀吉・家康もそうですが、この時代に於いて日本の政教分離が確立されたというべきかも知れません😁
今の日本人からすると宗教と政治は分離すべきと考えてるし、政教分離のラインも他国に比べてかなり高い(正直、批判の多い統一教会の件も他国なら全然セーフライン)そんな価値観の前提はこの辺の時代で出来てますよねそれまでは軍事も政治も経済もバリバリ宗教が主役の立場、文化芸術は言うに及ばずで日本人は無宗教の国と歴史的には言い切れない感じだったし
伊賀に住んでいた事がありました。地元の年表には1854年の地震とこの伊賀攻めで今まで2度壊滅したと書いてありました。しかし、この時は攻めて来る前に京都や滋賀などに結構逃げていた人がいたみたいで、終わってから戻ってきてまた住んでいるようです。服部や藤林という苗字は普通に残っています。
当時の織田信長の天下統一事業では、他の地域の問題が山積していて、伊賀に関わっている暇はなかった。伊賀は戦略上それほど重要ではなく、伊賀攻めの優先順位はかなり低かった。なのに信雄は功名心から自分勝手に、中途半端な伊賀攻めを始めてしまった。案の定、信雄は惨敗し、織田の名を汚してしまった。このままでは織田軍がなめられると危惧した信長は、仕方なく、本腰を入れて伊賀攻めを行った。やるとなったら徹底的にやる信長ですから、大軍勢で伊賀に侵攻、戦闘員・非戦闘員の区別なく、非情な殺戮を行います。伊賀衆が果敢に巧妙に戦った分、織田軍は徹底的に、残忍に殺戮しました。勝敗が決まった後も、残党の討伐も苛烈を極めたようです。中途半端に伊賀攻めを行った信雄の罪は重いですね。
ほほう
藪をつついて蛇を出しちゃったかー
覇者に逆らう伊賀も情報弱者過ぎる。
@@sarutahikoEX 信長は覇者じゃないけど…中二病患者ですか?
そんなやり方でしかメンツや威厳を保てないと思いこむ信長は天下取りの器ではなかったと言うことだなそれが家康との差
ゲリラ戦術を用いると討伐側は全敵殲滅せざるをえないのがまた…そういう意味でもゲリラは最後の手段なんですよねえ…
ところが忍者の戦闘術はゲリラ戦がデフォなんだから、国対国で対立してしまったら、容赦できなくなってしまう訳だ。
まぁ時代も背景も違うがベトナム戦争においてもジャングルでゲリラ戦を行う北ベトナムに対してナパームやら枯葉剤やら撒いていたし現代においても殲滅戦しかないんだろうなぁ。
だからゲリラ戦は禁じ手なんだよね。正規軍同士の戦いなら民衆は非戦闘員として手を出される可能性は低くなるが、ゲリラ戦をやってしまうと殺し尽くされてしまう。やられる方は殺し尽くすしか方法が無くなる。現代でも同じこと。
ゲリラで負けたアメリカのベトナム戦争もある。
とは言っても攻めてきた奴らが「ゲリラをやられたら皆殺しにしないといけないからやめろ」と言っても、侵略者の勝手な理屈としか守る側としては思えんでしょう。
@user-rb5mf6wq5t 非戦闘員からして侵略者に対して従う気が無い(勝つか死ぬか)の同意が取れていればゲリラもありかと。残っている人は全員戦闘員と思ってもらって構わないという姿勢なら。そういう場合は非戦闘員の避難がすべて完了している場合だけどな。「支配者のいる領民」なら支配者が変わるだけだが、伊賀国の場合は「自治」していたため、自分の国という意識が強かったんだろうな。というわけで、現代の「国民国家」は総力戦になるしゲリラ戦への誘惑も強い。ウクライナの民間人が戦闘しないのは忍耐強いと思うし、逆にそれをするとロシアに大量破壊兵器使用の口実を作ってしまうことになる。
ベトナム戦争では民間人?が殺されまくってるけどな。だけど「虐殺」として非難されてない。北ベトナムは国民皆兵だったわけだから兵士が戦場で死ぬのは当然と。その結果米国の肩入れする南ベトナムは負けた。
@@本間新一-r9rだからこその戦闘服、目印ですよ末期の日本軍もチャイナ便衣兵もベトミンもスペイン人もそのあたりを曖昧にするから根こそぎやられてまう
柘植口で織田軍と戦ったらしい者の末裔です。こうやってわかりやすく地元の歴史を紹介していただくと嬉しいですね。伊賀のいわゆる忍びというのは、今でいう特殊戦と諜報得意とする傭兵みたいなものですかね。土豪がたくさんいて、それぞれの支配域の農民が副業で各地に派遣されてたと。で、地域の土豪の代表者が中忍、それを束ねていた藤林、服部、百地の三家が上忍という位置づけでいいと思います。うちの実家のあたりの土豪は、織田軍侵攻開始と同時に寝返って先導していた裏切り者でした笑 城跡もそこそこ整備されていて残ってます。
裏切り者と言わなくても良いですよ今で言う転職と同じですからw
それが戦国の世の習いです
柘植でんな。
裏切りとも言えるが先見の明があるとも言える。すなわち勝つ方に就いたら生き残る可能性が高い。サバイバル戦略。
@@745yop6 おおっ、こんな前のコメントに返信が!その土豪なんですが、乱のあと地元民の恨みがすごくて耐えられずに逃げていったようです。地元の図書館とかでもそこそこ調べましたがその後の足取りは追えず…
いつも面白く観させてもらってます。これからも是非頑張ってください!
伊賀攻めの話だと和田竜の「忍びの国」は漫画や実写化もしてるし好き金で誰にでも靡くし帰属意識の薄い土豪達と考えると最初に相撲大会( )開いてあげるべきだったんだろうなぁ
相撲大会・・・(あっ察し)
山内一豊「何の事ですかね?え?相撲大会なのになんで火縄の匂いがするかって?気のせいですよ!」
信雄の失態の尻拭いを信長がしたらこうなった。
金子?
信長を本気(マジ)にさせると、ヤバい。
解りやすいし面白かったよ
名張の赤目の方には、百地姓の方がたくさんいらっしゃいます赤目の山奥まで逃げ切れた人たちも相当数いたようですね
拙者、本籍は伊賀の者祖父の家の近所に百地三太夫のご子孫がいらっしゃいましたが天正伊賀の乱であまりに血が流れたため「ち」の音を避けて「ももじ」と読むそうです。悲惨な戦いだったんですね
百地三太夫は架空の人物でおらんはずやのにご子孫がおるん?
@@eaglebox4 当時の百地党の頭ってことだと思います。勝手に三太夫だと思ってましたが、架空なんですね。紛らわしくて失礼しましたm(__)m
偶然徳川家に仕えていた半蔵の縁で伊賀衆との繋がりができ、それがあの無謀な伊賀越えを成功に導いたのは歴史の面白さがありますね
半蔵さんが徳川に仕えていたのは偶然ではありませんw
@@十七夜月探幽忍者だった先代が足利幕府に仕えてたけど見切りつけて家康の祖父清康に仕えたのが始まりだよね、たまたま、息子の正成は伊賀にルーツがある人間だし!伊賀ものの面倒見ろ!って命令されただけ。
@@十七夜月探幽250年前から勤めてたよね!!
伊賀忍者が中心となった伊賀越えの成功は、伊賀側の史料によるもので、実は甲賀の力が主だった。と甲賀忍の末裔の人が、怒ってユーチュウブで流してはったわ。マ段々研究も進んで行くと思いますので、動向を注視したいと思います。😅
@@ツカちゃん-e6w 後醍醐天皇の時の生まれの自分とこと徳川が仲良かってん自分とこの護衛が鉄砲で忍者に殺されてん弟が兄の命狙って雇ったのが忍者やった(1500年に鉄砲入って来たゆーてるけど、年代はその前から)徳川が貴族裁く連中の事聞いてきてこの話した(貴族裁く連中は八咫烏だった)弟は裁かれて飛ばされて領地与えられた(駅名になってる)で殺された一族が自分とこに勤めるほど強くないからって徳川に行ったらその忍者雇ってた
武将をいただかぬ寡兵でここまでの踏ん張りを見せる忍軍の怖ろしさよ後顧の憂いを断つには根絶やししか無かったか
動画をありがとうございます。今回も面白かったです。😀
一向一揆でもそうだが「一揆」と言ってもいわゆる百姓一揆の類ではなく住民が団結して自治している「共和制」のニュアンスなんだな。
ワイ伊賀民、泣く
ちょうど、明日に伊賀を訪れる予定を立ててたからタイムリー!
天正伊賀の乱は誰がどう考えても信雄君が考え無しのアホだったからだよな伊賀忍軍なんだから『利』と『理』を説いて雇ったり召し抱えたりとやりようはあったのに、修築で挑発した挙げ句勝手に戦を引き起こしてボロ負け信長も織田家の面子の為に許すわけにはいかなかったんだろうな
まあこの手の独立精神の強い国人勢力とかは仮に従わせても時世によってはまた別の勢力についたり裏切ったりしそうなんで“掃除”しておくというのは悪くないじわじわと乗っ取っていくのも時間かかるしねま、それで失敗しちゃ世話ないんだけどね!
当時ゲリラ戦のできる集団なんて貴重だよね。私が武田勝頼なら絶対に自軍の戦力に取り込むな。
武田軍も諸国に忍びいたけど、金が無くなって諜報どころじゃなくなったとか
信玄は忍者を警戒して○したりしていたから。
自分は京都ですが、父は伊賀出身です。戸籍を遡り、郷土史、国会図書館デジタルコレクションなどで確認した所、「祖父、伊賀者(無足人)/祖母、伊勢源氏」の家系。祖母の家系は、無足人家へ養子や、無足人家に嫁入が殆どです。祖父の家系は、天正伊賀の乱の戦記の中に出てきます。SNSで知り合った伊賀の方から…大体伊賀では町内の財閥、旧津藩士、庄屋、無足人、郷士など家柄を見ながら通婚するので大体親戚の名前をみたらどのくらいの家かすぐわかるようになってます。とのことでした。戸籍を見てなるほどなと…
忍者ってやっぱ強い影響力を持ってたんだなあ
天正伊賀の乱を分かり易く説明頂きありがとうございます。伊賀衆が一枚岩でなかった部分もありますね。それも生き残るために、やむを得なかった。 ただ、柏原城への伊賀衆約1万6千は、1千6百人の誤りでは。また城兵(非戦闘員を含む)の助命を条件に開城した筈。その約定を破り、投降した城兵等を悉く殺めた史書の記録はありますか??城外で抵抗していた残党は殺めらたかもしれませんが・・。
徳川頼宣が紀州拝領したとき和歌山城下は殺し尽くされ無人地帯で江戸期を通じて人手不足と聞きました。
徳川家康の伊賀越えの史実には歴史の綾を感じてしまう計算では繰り出せないその数奇な運命は日本の歴史となる
知り合いに伊賀市友田、先祖は忍者その人は世間では信長は英雄でも伊賀では悪魔って言ってた
なので、忍者の地として有名なこの地域に残る建造物や文化遺産は伊賀の乱の後なってから作られたものがほとんどで、戦国時代以前から連なるものはほぼゼロ、という状態になっているそうです。ていうかハッキリ言って忍者のあの装束や屋敷に忍び込む姿も眉唾モノ、あんな服装で外を歩けば自分から名乗っているようなものだし他人の屋敷に忍び込むなんていったい誰が何のためにやらせるの? って考えたら真実の姿はもっと地味だったと思われます。
伊賀も早いうちに、せめて第一次直後に頭を下げれば信長は意外と寛容なので受け入れただろう。ただ一揆のデメリットとして寡頭制なので降伏するという選択が取れないんだよね。決定する主君がいないから。
物語では伊賀衆のリーダーとして描かれることが多い百地三太夫のモデルである百地丹波(どうする家康にも登場)は、実際には伊賀の乱の頃はまだ20代の若さで、その後も江戸時代まで生き延びて徳川家光の代に85歳まで長生きした。また、柘植保重を討ち取った植田光次も三河に逃げたことから家康に匿われてちゃっかり生き残っている。
歴史学者の磯田道史氏の祖先が伊賀攻めで結構なことをしたらしく、平和な時代になってから寝所で首を切られていたらしい。伊賀の生き残りにやられたと伝わってるとのこと。
へぇ~、なんて本に出てた?教えて下さい。
烈火の炎で忍者の里に織田軍が攻め込んでくる話あったけど天正伊賀の乱参考にしたのかな
第二次伊賀攻め……すげぇメンツだ
上様恐ろしやぁ…
神君伊賀越えの成功にはこうした伏線があったのですね('ω')本能寺の変の前年まで伊賀って織田領ではなかったのは逆に凄いなって思います('ω')広大な織田領の中で穴があいたような自治領は多大な犠牲を出してでも攻略する程のうま味のある土地ではなかったのかもしれませんが('ω')
伊賀の隣の甲賀は、薬品製造会社が何社かあるから、忍者が薬を扱った事と関連しているね。
すごくわかりやすかったです。こう見ると、家康は天下を取るべくして取った感じがします。信長の器には天下は入りきらなかったのでしょうね。。。
そんで結局得をしたのは家康なのかよおいしいところ全部持っていくじゃん
伊賀 ハットリくん 良い側甲賀 ケムマキくん 悪い側某アニメのイメージで(笑)
バジリスク甲賀忍法帖では甲賀 良い側伊賀(天膳、春日局) 悪い側一番の悪は大御所徳川家康
第二次天正伊賀の乱の際には、甲賀者も織田方についてたからね。😢ソンな事もあるのかな?
1960年代は実写ドラマでした。ハットリカンゾウ君とケムマキケンゾウ君でしたか?
人口の3分の1が犠牲者とはかなり多いな。時代が違うけど、沖縄戦では人口の4分の1が死亡した。
長島一向一揆でも一揆側の人間は1/3ほど亡くなったようだ。戦闘員・非戦闘員区別無く殲滅しようとするとそのくらい亡くなるのか?
長島の一向一揆は中州やし、完全包囲の上、騙しで殺戮。更に全部焼殺虐殺されたとモノの本に出てたと思うけど?
柏原城には16000人では無く、1600人立て籠もったはずです。小さい城ですので、16000人はとても無理。1600人でも結構ぎゅうぎゅうだったのかと。
7:50 藤村じゃなくて藤林ですよ。
甲賀弾正とお幻の確執の原因ですな。
現地で 解りやすく解説してくれる ツアーつくってよ いきたい
伊賀残党、武田残党とコッソリ手に入れた狸凄
歴史小説のせいで「忍者」という存在は、何か特別な能力─超能力─を持っているかの様に想像されてしまうのは、フィクションとはいえ歴史専門家の立場では脱力してしまうでしょうね。峻嶮な山岳地帯に集う彼等(彼女等)は、厳しい生活を通して鍛えられているだろうから、中世スイス傭兵や現在の特殊部隊隊員に擬えれると思います。・・・しかし、戦国期に保持していた自治権を失った身分が低い存在である彼等(彼女等)は...江戸幕府に仕えることになっても─天下泰平の時代故に─江戸城内の女房衆にも蔑まれるほど日陰者として軽く見られ細々と生きていたと云う。
いや実際、脱魂や催眠術の技法があったとか。東大寺ノ荘園の地でしょ。空海と東大寺は昵懇、要は密教の方便ノ技術。空海も手妻、催眠術を会得していたと見られる記述はある。赤目の修行院は有名ジャン。虚実織り混ぜて布教に繫げるのは常道。実際に印度チベットの 行者さんの
忍者のルーツ知ってはる?密教行者デっせ。伊賀は東大寺の荘園。東大寺と空海はガチガチの結び付きがあったんやで。名張の赤目48院には密教の修行場があってな。マァエエわ。六神通取得やら武術やらホンマに修行しとったんや。空海も様々、催眠術やら手妻をマスターしてたのは間違いない。実際に今も脱魂やら透視やら出来る行者さんはいる。 インドやチベットの、本物の行者さんやら坊さんに触れたら判る。その特殊技術を、世俗的な要望に応じた外道の末枝の一部が忍者や。虚実織り混ぜて布教に繋げるのは常道。体術、異才異能を使う衆それは底辺。本当の上忍は戦略や権謀術数にも長けていると云う事らしい。そういう人に触れ合って、世話になった事もあるで。世界は広大無辺。そんな人達もおんねんで。言うとくわ。
信雄の無謀さのおかげで家康は天下を取れたということか…
藤林家ではなく、藤村家なんだ?昔、上忍3家の一つとして、藤林と聞いていたので、びっくりです。ちなみに、伊賀忍術に関する貴重な資料「万川集海」を編纂したのが藤林家です。
昔の文献なんて草書体だろうから林と村の違いが分かりにくかったんでしょうね
@@awsenm この場合は素で運営の読み間違いやろ
伊賀城代、藤堂采女(元千賀地服部家の一族)の右筆に藤林ってひといたな。
SFCの伊忍道や花の慶次でちょっと触れてたから名前は知ってたけど動画を見て凄まじい戦いだったんだと改めて思いました。ちなみに私も藤林家と聞いていたんですか藤村家なんですね…
40000人虐殺とかえげつなさすぎる
高屋城の戦い見たいです。
隠密だと響きが良い✨
忍びの者…ニンジャかかっこいいな😎私はバイクのニンジャが好き❤️
やるかやられるかの戦場だ。敵に同情して味方が死んだら本末転倒。
書き込み遅くなりましたw少し前に調べてみたら、私の一族と私の隣家の一族は本能寺で側近として信長公と運命を共にしておりました。歴史は俯瞰してみると、意外な繋がりが見えてきます。特にこの天正伊賀の乱では信長公の命運が左右されたのではないかとすら思えます。歴史は勝者によって常に書き換えられてきました。ですから、疑問・興味をもって調べてみると面白い事実がたくさん出てきますwww
乱波衆って要は現代の特殊部隊のハシリみたいな人達だよね
交通の要所で自治運営してるから交渉では埒が開かんために信長するしか打つ手なかったんや
優先順位はさておき、いずれにしても信長は伊賀を攻めたと思う。伊賀衆も、それがわかっていたからこそ、反抗したんでしょう。
信雄のくそムーブ被害者の会を立ち上げるべき
甲賀は滋賀県甲賀市の軍団で、某ゲームのモデルの村雨城をもっていた。
バジリスクの信長が伊賀を云々てほんとだったんだ
まさにサーチ&デストロイ
天正伊賀の乱を題材にして、ゴーストオブツシマのようなゲームを作って欲しい。
うちの近所のおじさんの祖先はこの戦いで戦った氏族だけど、忍者ではなく地頭だったみたい、
伊賀の人は忍者の子孫やなんて言わんな。あくまで武士やな〜んちゅっとったわ。😅
徹底的に建物なんかも潰してしまったから何も残ってないんだよね。建物だけでも残してくれてたら、世界的にも人気観光地になってウハウハだったのにね。忍者は世界的にも人気あるからね。
やられる側からみると雇われテロリストだわな
これ映画化されて、嵐の大野智さんやHey!Say!JUMPの知念侑李さんが出てましたね。
鏖殺令というやつですね。動いているものは全て殺せ。
13:18焼け石に水てぇいい方はおかしい、多勢に無勢だろ。
信雄が伊勢国北畠を乗っ取り欲出し無断で伊賀国丸山に築城仕掛けるが怒る伊賀衆 夜明前奇襲を掛けると、職人土木工共々 正午には伊勢に逃げ帰った
藤村家ではなく、藤林ですな。
俺の父は伊賀母は甲賀の出身生まれは甲賀だが育ちは伊賀そして苗字が服部生粋の伊賀原産の忍🥷時代が時代なら織田に殺されな...
信長 伊賀🥷に京で討たれる
まぁ伊賀の忍びは今も存命してるからね逃げるが勝ちよ
百地って百地三太夫!?
地元民おれ、大河内(おかわち)城をゆっくりが正しく読み上げたくて狂喜。
これは映画にしたら名作の予感
なお伊賀越えからの伏見城の戦い
信楽のタヌキの中に隠れるのが得意技だったとか
藤林家、では?
大野智くんの「忍びの国」を思い出します。伊賀者と織田家、一体どちらが悪なんでしょうね?
烈火の炎のモデルになってる歴史上の事件
三重県伊賀市は歴史的背景があるから役人嫌いが多いそうです😅
仮に天膳殿がいてもどうにかできただろうか…という可能性ががが(甲賀忍法帖並感)
実際は忍者より侍の方が強いよな
天文法華の乱や、この伊賀の乱。 大虐殺なのに日本史で教えないのはナゼ😮
第2次は甲賀口から攻め込まれたのが原因で、その後に伊賀甲賀は仲が悪くなったんだっけ?
確かに多羅尾・山岡いう有力忍家の名があったな。他に滝川も。
伊賀抵抗勢力側に織田に寝返ったのが居たのだろ。ネイティブアメリカンにもそういうのが居た。負けるのは必ず「裏切者」がいるから。米日戦争でも日本側には相当米軍に情報提供するのが、日本軍側にいたらしい。
非戦闘員のふりして戦うから当然こうなります。ベトナム戦争と同じです。信長が非人道的なのではなく、伊賀国人のせいなのです。自業自得です。
禁じ手を使ったのは信長より伊賀の方ですね。非戦闘員までゲリラ化すれば殲滅せざるを得ない。雜賀のように妥協してスキルを売り込めば、情報収集力を重宝されたのでは。
軍人同士が殴り合うのが戦争のルールだからね一線を越えてしまえば、徹底的に叩かれるのは仕方のない事
信長が伊賀攻めせず没していたら、秀吉が攻めていたと思える。
逆に信雄が馬鹿のふりをあえてしていた説は無いんですかね笑 ピリピリしていた時期だからこそ狙われないようにしてた的な
やっぱり信長は恐ろしい((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
伊勢長島で苦労したから皆殺ししたんだろうな
知らなかった😮 そんな話あったんだ😮
この史実を元ネタにした、忍者版ゴーストオブツシマのようなゲームを日本のゲームメーカーさん作ってよ
この戦いがバジリスク甲賀忍法帖の元ネタ。
面白い
便衣兵みたいな相手なら、これが正攻法かなぁと思いますね♪
まあ、伊賀甲賀はすこいからね
お父さんはりきっちゃったかあ…
情報『網』を築いてたんやろうな😊中国のは何となくそれっぽい活動が小説内では色々あるけど、日本の忍者が何をしていたのかが一切出てこないから変な感じやな、忍術を使っていたというけどそれは武術だし忍者である必要性とは関係ないしな そうそう一揆って別に農民が主導してないから毛利元就も国人衆で吉川家とかと一揆勢として徒党を組んで大内と戦ってたわけだから、まあ尼子の後ろ盾と言うか先方として使われただけでそこで両方から無理難題を知略で乗り切ったから畏怖された毛利家も世鬼衆というらっぱ、草、忍者、間者、地方で呼び方違うし知らんけど、を使っていたと、有名大名は絶対使ってるはずだが、織田家は聞かないなこの辺から察するにやっぱりただの情報網なんだろう
忍者の祖先は角小役🤔徳川家康公の家来一人(徳川十六神将)は服部半蔵🤣江戸城の半蔵門🤔
役小角ですよ
ZENKIで有名になったえんのおづぬ だっけ前鬼 後鬼ヴァジュラ・オン・アーク!
信長は「武力のない寺社」は保護したけど、
武力介入してくる寺社には容赦しなかった。
そもそも、寺が別の寺を焼き討ちしていた時代で、それを終わらせたのが信長。
天台宗(延暦寺)も本願寺(浄土真宗)も禁教とはしてません。
後の秀吉・家康もそうですが、この時代に於いて日本の政教分離が確立されたというべきかも知れません😁
今の日本人からすると宗教と政治は分離すべきと考えてるし、政教分離のラインも他国に比べてかなり高い
(正直、批判の多い統一教会の件も他国なら全然セーフライン)
そんな価値観の前提はこの辺の時代で出来てますよね
それまでは軍事も政治も経済もバリバリ宗教が主役の立場、文化芸術は言うに及ばずで
日本人は無宗教の国と歴史的には言い切れない感じだったし
伊賀に住んでいた事がありました。
地元の年表には1854年の地震とこの伊賀攻めで今まで2度壊滅したと書いてありました。
しかし、この時は攻めて来る前に京都や滋賀などに結構逃げていた人がいたみたいで、終わってから戻ってきてまた住んでいるようです。服部や藤林という苗字は普通に残っています。
当時の織田信長の天下統一事業では、他の地域の問題が山積していて、伊賀に関わっている暇はなかった。伊賀は戦略上それほど重要ではなく、伊賀攻めの優先順位はかなり低かった。なのに信雄は功名心から自分勝手に、中途半端な伊賀攻めを始めてしまった。案の定、信雄は惨敗し、織田の名を汚してしまった。このままでは織田軍がなめられると危惧した信長は、仕方なく、本腰を入れて伊賀攻めを行った。やるとなったら徹底的にやる信長ですから、大軍勢で伊賀に侵攻、戦闘員・非戦闘員の区別なく、非情な殺戮を行います。伊賀衆が果敢に巧妙に戦った分、織田軍は徹底的に、残忍に殺戮しました。勝敗が決まった後も、残党の討伐も苛烈を極めたようです。中途半端に伊賀攻めを行った信雄の罪は重いですね。
ほほう
藪をつついて蛇を出しちゃったかー
覇者に逆らう伊賀も情報弱者過ぎる。
@@sarutahikoEX 信長は覇者じゃないけど…中二病患者ですか?
そんなやり方でしかメンツや威厳を保てないと思いこむ信長は天下取りの器ではなかったと言うことだな
それが家康との差
ゲリラ戦術を用いると討伐側は全敵殲滅せざるをえないのがまた…
そういう意味でもゲリラは最後の手段なんですよねえ…
ところが忍者の戦闘術はゲリラ戦がデフォなんだから、国対国で対立してしまったら、容赦できなくなってしまう訳だ。
まぁ時代も背景も違うがベトナム戦争においてもジャングルでゲリラ戦を行う北ベトナムに対してナパームやら枯葉剤やら撒いていたし現代においても殲滅戦しかないんだろうなぁ。
だからゲリラ戦は禁じ手なんだよね。正規軍同士の戦いなら民衆は非戦闘員として手を出される可能性は低くなるが、ゲリラ戦をやってしまうと殺し尽くされてしまう。やられる方は殺し尽くすしか方法が無くなる。現代でも同じこと。
ゲリラで負けたアメリカのベトナム戦争もある。
とは言っても攻めてきた奴らが「ゲリラをやられたら皆殺しにしないといけないからやめろ」と言っても、侵略者の勝手な理屈としか守る側としては思えんでしょう。
@user-rb5mf6wq5t 非戦闘員からして侵略者に対して従う気が無い(勝つか死ぬか)の同意が取れていればゲリラもありかと。残っている人は全員戦闘員と思ってもらって構わないという姿勢なら。そういう場合は非戦闘員の避難がすべて完了している場合だけどな。
「支配者のいる領民」なら支配者が変わるだけだが、伊賀国の場合は「自治」していたため、自分の国という意識が強かったんだろうな。
というわけで、現代の「国民国家」は総力戦になるしゲリラ戦への誘惑も強い。ウクライナの民間人が戦闘しないのは忍耐強いと思うし、逆にそれをするとロシアに大量破壊兵器使用の口実を作ってしまうことになる。
ベトナム戦争では民間人?が殺されまくってるけどな。だけど「虐殺」として非難されてない。北ベトナムは国民皆兵だったわけだから兵士が戦場で死ぬのは当然と。その結果米国の肩入れする南ベトナムは負けた。
@@本間新一-r9r
だからこその戦闘服、目印ですよ
末期の日本軍もチャイナ便衣兵もベトミンもスペイン人もそのあたりを曖昧にするから根こそぎやられてまう
柘植口で織田軍と戦ったらしい者の末裔です。こうやってわかりやすく地元の歴史を紹介していただくと嬉しいですね。
伊賀のいわゆる忍びというのは、今でいう特殊戦と諜報得意とする傭兵みたいなものですかね。
土豪がたくさんいて、それぞれの支配域の農民が副業で各地に派遣されてたと。
で、地域の土豪の代表者が中忍、それを束ねていた藤林、服部、百地の三家が上忍という位置づけでいいと思います。
うちの実家のあたりの土豪は、織田軍侵攻開始と同時に寝返って先導していた裏切り者でした笑 城跡もそこそこ整備されていて残ってます。
裏切り者と言わなくても良いですよ
今で言う転職と同じですからw
それが戦国の世の習いです
柘植でんな。
裏切りとも言えるが先見の明があるとも言える。すなわち勝つ方に就いたら生き残る可能性が高い。サバイバル戦略。
@@745yop6 おおっ、こんな前のコメントに返信が!
その土豪なんですが、乱のあと地元民の恨みがすごくて耐えられずに逃げていったようです。地元の図書館とかでもそこそこ調べましたがその後の足取りは追えず…
いつも面白く観させてもらってます。
これからも是非頑張ってください!
伊賀攻めの話だと和田竜の「忍びの国」は漫画や実写化もしてるし好き
金で誰にでも靡くし帰属意識の薄い土豪達と考えると
最初に相撲大会( )開いてあげるべきだったんだろうなぁ
相撲大会・・・(あっ察し)
山内一豊「何の事ですかね?え?相撲大会なのになんで火縄の匂いがするかって?気のせいですよ!」
信雄の失態の尻拭いを信長がしたらこうなった。
金子?
信長を本気(マジ)にさせると、ヤバい。
解りやすいし面白かったよ
名張の赤目の方には、百地姓の方がたくさんいらっしゃいます
赤目の山奥まで逃げ切れた人たちも相当数いたようですね
拙者、本籍は伊賀の者
祖父の家の近所に百地三太夫のご子孫がいらっしゃいましたが
天正伊賀の乱であまりに血が流れたため
「ち」の音を避けて「ももじ」と読むそうです。
悲惨な戦いだったんですね
百地三太夫は架空の人物でおらんはずやのにご子孫がおるん?
@@eaglebox4 当時の百地党の頭ってことだと思います。勝手に三太夫だと思ってましたが、架空なんですね。紛らわしくて失礼しましたm(__)m
偶然徳川家に仕えていた半蔵の縁で伊賀衆との繋がりができ、それがあの無謀な伊賀越えを成功に導いたのは歴史の面白さがありますね
半蔵さんが徳川に仕えていたのは偶然ではありませんw
@@十七夜月探幽忍者だった先代が足利幕府に仕えてたけど見切りつけて家康の祖父清康に仕えたのが始まりだよね、
たまたま、息子の正成は伊賀にルーツがある人間だし!伊賀ものの面倒見ろ!って命令されただけ。
@@十七夜月探幽
250年前から勤めてたよね!!
伊賀忍者が中心となった伊賀越えの成功は、伊賀側の史料によるもので、実は甲賀の力が主だった。と甲賀忍の末裔の人が、怒ってユーチュウブで流してはったわ。マ段々研究も進んで行くと思いますので、動向を注視したいと思います。😅
@@ツカちゃん-e6w
後醍醐天皇の時の生まれの自分とこと徳川が仲良かってん
自分とこの護衛が鉄砲で忍者に殺されてん
弟が兄の命狙って雇ったのが忍者やった(1500年に鉄砲入って来たゆーてるけど、年代はその前から)
徳川が貴族裁く連中の事聞いてきて
この話した(貴族裁く連中は八咫烏だった)
弟は裁かれて飛ばされて領地与えられた(駅名になってる)
で殺された一族が自分とこに勤めるほど強くないからって徳川に行ったら
その忍者雇ってた
武将をいただかぬ寡兵でここまでの踏ん張りを見せる忍軍の怖ろしさよ
後顧の憂いを断つには根絶やししか無かったか
動画をありがとうございます。今回も面白かったです。😀
一向一揆でもそうだが「一揆」と言ってもいわゆる百姓一揆の類ではなく
住民が団結して自治している「共和制」のニュアンスなんだな。
ワイ伊賀民、泣く
ちょうど、明日に伊賀を訪れる予定を立ててたからタイムリー!
天正伊賀の乱は誰がどう考えても信雄君が考え無しのアホだったからだよな
伊賀忍軍なんだから『利』と『理』を説いて雇ったり召し抱えたりとやりようはあったのに、修築で挑発した挙げ句勝手に戦を引き起こしてボロ負け
信長も織田家の面子の為に許すわけにはいかなかったんだろうな
まあこの手の独立精神の強い国人勢力とかは
仮に従わせても時世によってはまた別の勢力についたり裏切ったりしそうなんで
“掃除”しておくというのは悪くない
じわじわと乗っ取っていくのも時間かかるしね
ま、それで失敗しちゃ世話ないんだけどね!
当時ゲリラ戦のできる集団なんて貴重だよね。私が武田勝頼なら絶対に自軍の戦力に取り込むな。
武田軍も諸国に忍びいたけど、金が無くなって諜報どころじゃなくなったとか
信玄は忍者を警戒して○したりしていたから。
自分は京都ですが、父は伊賀出身です。戸籍を遡り、郷土史、国会図書館デジタルコレクションなどで確認した所、「祖父、伊賀者(無足人)/祖母、伊勢源氏」の家系。祖母の家系
は、無足人家へ養子や、無足人家に嫁入が殆どです。祖父の家系は、天正伊賀の乱の戦記の中に出てきます。
SNSで知り合った伊賀の方から…
大体伊賀では町内の財閥、旧津藩士、庄屋、無足人、郷士など家柄を見ながら通婚するので大体親戚の名前をみたらどのくらいの家かすぐわかるようになってます。
とのことでした。
戸籍を見てなるほどなと…
忍者ってやっぱ強い影響力を持ってたんだなあ
天正伊賀の乱を分かり易く説明頂きありがとうございます。伊賀衆が一枚岩でなかった部分もありますね。それも生き残るために、やむを得なかった。 ただ、柏原城への伊賀衆約1万6千は、1千6百人の誤りでは。また城兵(非戦闘員を含む)の助命を条件に開城した筈。その約定を破り、投降した城兵等を悉く殺めた史書の記録はありますか??城外で抵抗していた残党は殺めらたかもしれませんが・・。
徳川頼宣が紀州拝領したとき和歌山城下は殺し尽くされ無人地帯で江戸期を通じて人手不足と聞きました。
徳川家康の伊賀越えの史実には歴史の綾を感じてしまう
計算では繰り出せないその数奇な運命は日本の歴史となる
知り合いに伊賀市友田、先祖は忍者その人は世間では信長は英雄でも伊賀では悪魔って言ってた
なので、忍者の地として有名なこの地域に残る建造物や文化遺産は伊賀の乱の後なってから作られたものがほとんどで、
戦国時代以前から連なるものはほぼゼロ、という状態になっているそうです。
ていうかハッキリ言って忍者のあの装束や屋敷に忍び込む姿も眉唾モノ、あんな服装で外を歩けば自分から名乗っているようなものだし
他人の屋敷に忍び込むなんていったい誰が何のためにやらせるの? って考えたら真実の姿はもっと地味だったと思われます。
伊賀も早いうちに、せめて第一次直後に頭を下げれば信長は意外と寛容なので受け入れただろう。ただ一揆のデメリットとして
寡頭制なので降伏するという選択が取れないんだよね。決定する主君がいないから。
物語では伊賀衆のリーダーとして描かれることが多い百地三太夫のモデルである百地丹波(どうする家康にも登場)は、実際には伊賀の乱の頃はまだ20代の若さで、その後も江戸時代まで生き延びて徳川家光の代に85歳まで長生きした。また、柘植保重を討ち取った植田光次も三河に逃げたことから家康に匿われてちゃっかり生き残っている。
歴史学者の磯田道史氏の祖先が伊賀攻めで結構なことをしたらしく、平和な時代になってから寝所で首を切られていたらしい。伊賀の生き残りにやられたと伝わってるとのこと。
へぇ~、なんて本に出てた?教えて下さい。
烈火の炎で忍者の里に織田軍が攻め込んでくる話あったけど天正伊賀の乱参考にしたのかな
第二次伊賀攻め……すげぇメンツだ
上様恐ろしやぁ…
神君伊賀越えの成功にはこうした伏線があったのですね('ω')
本能寺の変の前年まで伊賀って織田領ではなかったのは逆に凄いなって思います('ω')
広大な織田領の中で穴があいたような自治領は多大な犠牲を出してでも攻略する
程のうま味のある土地ではなかったのかもしれませんが('ω')
伊賀の隣の甲賀は、薬品製造会社が何社かあるから、忍者が薬を扱った事と関連しているね。
すごくわかりやすかったです。
こう見ると、家康は天下を取るべくして取った感じがします。
信長の器には天下は入りきらなかったのでしょうね。。。
そんで結局得をしたのは家康なのかよ
おいしいところ全部持っていくじゃん
伊賀 ハットリくん 良い側
甲賀 ケムマキくん 悪い側
某アニメのイメージで(笑)
バジリスク甲賀忍法帖では
甲賀 良い側
伊賀(天膳、春日局) 悪い側
一番の悪は大御所徳川家康
第二次天正伊賀の乱の際には、甲賀者も織田方についてたからね。😢ソンな事もあるのかな?
1960年代は実写ドラマでした。
ハットリカンゾウ君とケムマキケンゾウ君でしたか?
人口の3分の1が犠牲者とはかなり多いな。
時代が違うけど、沖縄戦では人口の4分の1が死亡した。
長島一向一揆でも一揆側の人間は1/3ほど亡くなったようだ。戦闘員・非戦闘員区別無く殲滅しようとするとそのくらい亡くなるのか?
長島の一向一揆は中州やし、完全包囲の上、騙しで殺戮。更に全部焼殺虐殺されたとモノの本に出てたと思うけど?
柏原城には16000人では無く、1600人立て籠もったはずです。小さい城ですので、16000人はとても無理。1600人でも結構ぎゅうぎゅうだったのかと。
7:50 藤村じゃなくて藤林ですよ。
甲賀弾正とお幻の確執の原因ですな。
現地で 解りやすく解説してくれる ツアーつくってよ いきたい
伊賀残党、武田残党とコッソリ手に入れた狸凄
歴史小説のせいで「忍者」という存在は、何か特別な能力─超能力─を持っているかの様に想像されてしまうのは、フィクションとはいえ歴史専門家の立場では脱力してしまうでしょうね。峻嶮な山岳地帯に集う彼等(彼女等)は、厳しい生活を通して鍛えられているだろうから、中世スイス傭兵や現在の特殊部隊隊員に擬えれると思います。
・・・しかし、戦国期に保持していた自治権を失った身分が低い存在である彼等(彼女等)は...
江戸幕府に仕えることになっても─天下泰平の時代故に─江戸城内の女房衆にも蔑まれるほど日陰者として軽く見られ細々と生きていたと云う。
いや実際、脱魂や催眠術の技法があったとか。東大寺ノ荘園の地でしょ。空海と東大寺は昵懇、要は密教の方便ノ技術。空海も手妻、催眠術を会得していたと見られる記述はある。赤目の修行院は有名ジャン。虚実織り混ぜて布教に繫げるのは常道。実際に印度チベットの 行者さんの
忍者のルーツ知ってはる?密教行者デっせ。伊賀は東大寺の荘園。東大寺と空海はガチガチの結び付きがあったんやで。名張の赤目48院には密教の修行場があってな。マァエエわ。六神通取得やら武術やらホンマに修行しとったんや。空海も様々、催眠術やら手妻をマスターしてたのは間違いない。実際に今も脱魂やら透視やら出来る行者さんはいる。 インドやチベットの、本物の行者さんやら坊さんに触れたら判る。その特殊技術を、世俗的な要望に応じた外道の末枝の一部が忍者や。虚実織り混ぜて布教に繋げるのは常道。体術、異才異能を使う衆それは底辺。本当の上忍は戦略や権謀術数にも長けていると云う事らしい。そういう人に触れ合って、世話になった事もあるで。世界は広大無辺。そんな人達もおんねんで。言うとくわ。
信雄の無謀さのおかげで家康は天下を取れたということか…
藤林家ではなく、藤村家なんだ?
昔、上忍3家の一つとして、藤林と聞いていたので、びっくりです。
ちなみに、伊賀忍術に関する貴重な資料「万川集海」を編纂したのが藤林家です。
昔の文献なんて草書体だろうから林と村の違いが分かりにくかったんでしょうね
@@awsenm この場合は素で運営の読み間違いやろ
伊賀城代、藤堂采女(元千賀地服部家の一族)の右筆に藤林ってひといたな。
SFCの伊忍道や花の慶次でちょっと触れてたから名前は知ってたけど動画を見て凄まじい戦いだったんだと改めて思いました。
ちなみに私も藤林家と聞いていたんですか藤村家なんですね…
40000人虐殺とかえげつなさすぎる
高屋城の戦い見たいです。
隠密だと響きが良い✨
忍びの者…ニンジャか
かっこいいな😎
私はバイクのニンジャが好き❤️
やるかやられるかの戦場だ。敵に同情して味方が死んだら本末転倒。
書き込み遅くなりましたw
少し前に調べてみたら、
私の一族と私の隣家の一族は本能寺で側近として信長公
と運命を共にしておりました。
歴史は俯瞰してみると、意外な繋がりが見えてきます。
特にこの天正伊賀の乱では信長公の命運が左右された
のではないかとすら思えます。
歴史は勝者によって常に書き換えられてきました。
ですから、疑問・興味をもって調べてみると面白い事実がたくさん出てきますwww
乱波衆って要は現代の特殊部隊のハシリみたいな人達だよね
交通の要所で自治運営してるから交渉では埒が開かんために信長するしか打つ手なかったんや
優先順位はさておき、いずれにしても信長は伊賀を攻めたと思う。伊賀衆も、それがわかっていたからこそ、反抗したんでしょう。
信雄のくそムーブ被害者の会を立ち上げるべき
甲賀は滋賀県甲賀市の軍団で、某ゲームのモデルの村雨城をもっていた。
バジリスクの信長が伊賀を云々てほんとだったんだ
まさにサーチ&デストロイ
天正伊賀の乱を題材にして、ゴーストオブツシマのようなゲームを作って欲しい。
うちの近所のおじさんの祖先はこの戦いで戦った氏族だけど、忍者ではなく地頭だったみたい、
伊賀の人は忍者の子孫やなんて言わんな。あくまで武士やな〜んちゅっとったわ。😅
徹底的に建物なんかも潰してしまったから何も残ってないんだよね。
建物だけでも残してくれてたら、世界的にも人気観光地になってウハウハだったのにね。忍者は世界的にも人気あるからね。
やられる側からみると雇われテロリストだわな
これ映画化されて、嵐の大野智さんやHey!Say!JUMPの知念侑李さんが出てましたね。
鏖殺令というやつですね。動いているものは全て殺せ。
13:18焼け石に水てぇいい方はおかしい、多勢に無勢だろ。
信雄が伊勢国北畠を乗っ取り欲出し無断で伊賀国丸山に築城仕掛けるが怒る伊賀衆 夜明前奇襲を掛けると、職人土木工共々 正午には伊勢に逃げ帰った
藤村家ではなく、藤林ですな。
俺の父は伊賀
母は甲賀の出身
生まれは甲賀だが育ちは伊賀
そして苗字が服部
生粋の伊賀原産の忍🥷
時代が時代なら織田に殺されな...
信長 伊賀🥷に京で討たれる
まぁ伊賀の忍びは今も存命してるからね
逃げるが勝ちよ
百地って百地三太夫!?
地元民おれ、大河内(おかわち)城をゆっくりが正しく読み上げたくて狂喜。
これは映画にしたら名作の予感
なお伊賀越えからの伏見城の戦い
信楽のタヌキの中に隠れるのが得意技だったとか
藤林家、では?
大野智くんの「忍びの国」を思い出します。
伊賀者と織田家、一体どちらが悪なんでしょうね?
烈火の炎のモデルになってる歴史上の事件
三重県伊賀市は歴史的背景があるから役人嫌いが多いそうです😅
仮に天膳殿がいてもどうにかできただろうか…という可能性ががが(甲賀忍法帖並感)
実際は忍者より侍の方が強いよな
天文法華の乱や、この伊賀の乱。
大虐殺なのに日本史で教えないのはナゼ😮
第2次は甲賀口から攻め込まれたのが原因で、その後に伊賀甲賀は仲が悪くなったんだっけ?
確かに多羅尾・山岡いう有力忍家の名があったな。他に滝川も。
伊賀抵抗勢力側に織田に寝返ったのが居たのだろ。
ネイティブアメリカンにもそういうのが居た。
負けるのは必ず「裏切者」がいるから。
米日戦争でも日本側には相当米軍に情報提供するのが、日本軍側にいたらしい。
非戦闘員のふりして戦うから当然こうなります。ベトナム戦争と同じです。信長が非人道的なのではなく、伊賀国人のせいなのです。自業自得です。
禁じ手を使ったのは信長より伊賀の方ですね。非戦闘員までゲリラ化すれば殲滅せざるを得ない。
雜賀のように妥協してスキルを売り込めば、情報収集力を重宝されたのでは。
軍人同士が殴り合うのが戦争のルールだからね
一線を越えてしまえば、徹底的に叩かれるのは仕方のない事
信長が伊賀攻めせず没していたら、秀吉が攻めていたと思える。
逆に信雄が馬鹿のふりをあえてしていた説は無いんですかね笑 ピリピリしていた時期だからこそ狙われないようにしてた的な
やっぱり信長は恐ろしい((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
伊勢長島で苦労したから皆殺ししたんだろうな
知らなかった😮 そんな話あったんだ😮
この史実を元ネタにした、忍者版ゴーストオブツシマのようなゲームを日本のゲームメーカーさん作ってよ
この戦いがバジリスク甲賀忍法帖の元ネタ。
面白い
便衣兵みたいな相手なら、これが正攻法かなぁと思いますね♪
まあ、伊賀甲賀はすこいからね
お父さんはりきっちゃったかあ…
情報『網』を築いてたんやろうな😊中国のは何となくそれっぽい活動が小説内では色々あるけど、日本の忍者が何をしていたのかが一切出てこないから変な感じやな、忍術を使っていたというけどそれは武術だし忍者である必要性とは関係ないしな
そうそう一揆って別に農民が主導してないから毛利元就も国人衆で吉川家とかと一揆勢として徒党を組んで大内と戦ってたわけだから、まあ尼子の後ろ盾と言うか先方として使われただけでそこで両方から無理難題を知略で乗り切ったから畏怖された毛利家も世鬼衆というらっぱ、草、忍者、間者、地方で呼び方違うし知らんけど、を使っていたと、有名大名は絶対使ってるはずだが、織田家は聞かないなこの辺から察するにやっぱりただの情報網なんだろう
忍者の祖先は角小役🤔
徳川家康公の家来一人(徳川十六神将)は服部半蔵🤣
江戸城の半蔵門🤔
役小角ですよ
ZENKIで有名になった
えんのおづぬ だっけ
前鬼 後鬼
ヴァジュラ・オン・アーク!