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「こんなんで足りるのか」と思われがちだが、実は献立だけ見てもわからないのが「量」だ。当時はデスクワーカーやサービス業で1日6合、肉体労働者は1日1升の米を食べていた。塩辛い少量のおかずで丼飯を平らげ、おかわりしたら漬物で2杯目を平らげて茶漬で〆る。これが普通。この食事傾向は食料供給が安定した江戸中期から、戦前までずっと続いている。長崎のキリシタン弾圧では捕らえた信者たちの食事量を「1日米1升から6合に減らしたら観念して棄教した」という記録があるし、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあるのは、現代人からすると「四合も食うのかよ」だが、昭和初頭の当時としてはこれが「少食アピール」なんですよ。
なお、戦時中は日に3合に改変されたアスリートでも日に3合だと足りないのよな個人的には山で8時間以上活動すると5合位は食えると普段は2合でも余ってたのに
1:03:10 1:03:11 1:03:11 !😅😅
最近知ったんですが、当時の米は現代の様な品種改良はされていないのでタンパク質の含有量がかなり多かったみたいですね。反面、栄養素のバランスが悪くて味は良くなかったみたいですが…そのご飯に豆料理や薬食い(猪とかの隠れ肉食)を加えると結構な高タンパクで肉体労働者は小柄でも結構ガチムチだったのかな?
@@dhkbeans327 小柄でもムキムキですよ中国戦線での日本軍の記録映像とかで観れますが、身体能力が凄かった。3mくらいの高さから飛び降りて難なく行軍してましま。
落語家の三遊亭柳昇氏が兵役で陸軍に入ったらご飯が多くて食べ切れないほどだったのが厳しい訓練が始まるとたっぷりのご飯を食べきりそれでも足りないくらいだったそうです。
江戸時代は識字率が高いから、レシピ本や飲食店のガイド本とか庶民の間でなにかとランキングが好まれた事もあり、出版物がめちゃめちゃ多くて、おかげで当時の庶民の暮らしがつぶさに分かるって凄い事だよね。本当に文化が豊かに育まれた時代!
再来年の大河ドラマは蔦屋さんの話なので、江戸時代の出版話がテーマになる見込み。めっちゃ楽しみ〜❤
茶屋の看板娘のランキングまであったみたいだから今で言うアイドルみたいな感覚だったんだろうな。
うまいものランキングもあるが、看板娘で売れると味も良くなるのと近くの店も繁盛すると
茶碗蒸しの原形と言われている、卵フワフワは其のレピシ本にも書かれているみたいです。江戸時代前の酒は濁酒だったが、江戸時代になって炭素の化学反応を利用して、清酒が生まれたのもこの頃。鰻屋に頼まれて平賀源内が決めた「土用の丑の日」当時の田んぼの用水路には、日本鰻が未だ沢山いただろう。
@@エンマンエンマン 江戸中期が、醤油と清酒の転換点で赤酢の寿司の発祥点だったのよな奇跡のはじまりみたいな
朝から炊きたてご飯、汁物、漬物だけでも自分から見たら豪華すぎる…。
今じゃ 吉野家 旅館の世界遺産
タイムスリップしてきたのかな?
すげえわかる。俺なんて食パン焼いてバター塗ったトースト2枚と牛乳だぞw
同じ!
@@gradiusvicviper492豪勢な食事だね
ご飯と飯(めし)は状態の違いを指しておりご飯とは、炊き立ての湯気が出ている状態飯(めし)とは、ご飯が冷めて湯気が出ていない状態、つまり冷や飯みたいなことを杉浦日名子さんが言ってた気がする
静岡県丸子の近くに住んでいます東海道五十三次にも描かれていたという丁子屋もすぐ傍ですなんだか誇らしいですね
日曜日の昼、視聴しながら居眠していた(笑)鰻をその場で焼いてくれたんだ。ウラヤマシイ🤤
食事場は時代だけでなく生活地域や流通によって違うというまとめも素晴らしいし、途中もいい質問しますね。卵が貴重な時代に天ぷらの衣は。なんて。とても勉強になります。
近所の農家の人の話を聞いていると、無農薬で作った野菜は自家消費、形が揃っていて見た目がきれいなのはJAへ出荷、余り物は近所に分配、って感じですけどね☺
え!安心安全な無農薬は自分で食ってて、市場に出してるのは毒かよ!ふざけんなよ!
つまり お腹がすく動画❤
上杉鷹山って「成せばなる」のくだりくらいしか知らなかった。これ程の功績を教えて頂きまして感謝致します。
為せば成る、為さねばならぬなる業は為らぬとすつる人の儚きだっけ?
江戸時代位から庶民にも玄米、雑穀米、麦から白米に変わった。蕎麦も団子状から麺状に変化、砂糖は未だ高価だったが、醤油、味噌、味醂も庶民にも届く。小松菜のお浸しは人気、大根の煮物、天麩羅、蕎麦、しじみ、魚の干物や酢じめコレらメニューは、今でも現代の日本人は好きだね
砂糖は薬屋扱いだったとか。
京都で『ぶぶづけ(お茶漬け)でもどうぞ』と言われたら、『早く帰れ』という意味らしいですが『おぶぶ』だけなら上がっても良いのかな?3回断ってそれでもと言われてようやく上がらせて貰うとか、通路ですれ違うときも、3回譲り合うとか、まどろっこしい風習もいっぱいありますよね😅
幼い頃 隣の同級生の家で夕方いつまでも帰らない私に お母さんが呼んでたよとおばちゃんに 言われて帰ったら そんな事はないって 遠回しって傷つくんだよね。夕方は お家にお帰りなさいと 言えば そうだなと わかる。ぶぶ漬けって聞いただけで やらしい
茶菓子や食事はすすめられて2回断り3回目に頂く、はこちらでも有りますよ。北関東の田舎、開拓農業地帯です。
❤気遣いと言う愛を感じて暮らすのでしょうが、関東人にはめんどくさい
@@ちゃんトト-z9b😮これさ、全員がいつもなのかな?人によるんじゃないのかな?よっぽどの時とか
それぞれの時代の食事事情は同時に政治とか輸送等の事情の浮き彫りな気もするので、興味深いです(あくまで気がするだけ)
1:58:00辺りからの出汁の話で濃口醤油を使ってるから塩分が強いって話してるけど、薄口醤油の方が塩分濃くて、濃口醤油の方が風味やコクがあります。なのでここについては逆の内容ですね。
うちの先祖も武士だったけど、農業もやっていたみたいまた普段は粗末な服装だったけど、『道中着』といって立派な着物も用意していたとか。
江戸詰め屋敷内長屋に住まいの方達は庭に畑を作っておかずや家計のたしにしてたとか。
家庭菜園は当たり前だったようです。道中着(みちゆき)という文化は戦後までありました。東海道線では服が傷まないようにズボンを脱いでステテコになってから座ったそうです。長距離移動する人はそれが普通だったとか。
@@りか-d4hステテコに腹巻でカンカン帽ってのはそれだったのか確かに東京から帰るなら外見を気にしない人もいたのだろう
@@シュウ-y2p 今の価値に直すと背広は30万くらいしてたそうなので、貴重品だったのだと思います。傷まないようにする知恵だったんでしょうね。
もう何年も白米オンリーで食べてない玄米と雑穀が混ざってるのが好きなのでたまに誰かがご飯炊いてくれるんだけど、真っ白だとびっくりするようになってしまった
雑穀おいしいですよね?
私は玄米オンリーです。不思議な事に体調がよくなりました♪
@@nicholettis8989 おー!すばらしい!
私も玄米オンリーで行きたいのですが、苦手なのが居るんですよwなので、玄米を自分用に炊いて冷凍しておいたりしますプチプチ食感が大好物です🥰
@@gs9030 そしたら、アマランサスとかも、美味しいですよ?
55:10 そういえば、孤独のグルメの「がーんだな。出鼻をくじかれた」の店も、煮込みと小豆かんを一緒に売ってたなあ
日本人には炭水化物からタンパク質を合成する遺伝子が大活躍してたから米を一食で一升食べていた(飛脚)幕末に飛脚を撮影した写真みると恐ろしい程にガチムチな筋肉量で満足にタンパク質取れないのに何故筋肉維持できてたのか不思議に思われていた
🎉あぁ!ありがとうございます!やっぱり、そうなんですね?じゃなきゃ、できないですよね、あの体。
そんな遺伝子無いよ笑オカルト過ぎだろw
なんで無いって言い切れるの?研究者か何か?
@@通勤電車どっと混む実際そんな遺伝子無いもん。マイナスイオンとか水素水みたいな一時期流行ったオカルトやでそれ。穀物食からタンパク質合成するのは人間の遺伝子じゃなくて人間の腸内細菌のせいやし。むしろなんで人間の遺伝子でタンパク質合成できると思ってんの?草食動物も熱帯地域のほとんど植物食しかしてないのにムキムキな人らも独自の細菌叢でタンパク質合成してるって論文出てるのに。なんで日本人は人間の遺伝子の効果内で植物からタンパク質合成してるって言えるん?そんな論文1つも出てないのに。ついでに書くならそもそも江戸時代は結構タンパク質摂取してるよ。畜肉こそほとんど食べてないけど豆腐や魚は普通に食べてたし。
馬や鹿じゃあるまいし、そんな遺伝子は無い。
柿の木を植えておけば干し柿になりかなり凌げる
江戸のスイーツといえば、吉宗公の好物とされる安倍川餅を忘れてはならない。江戸の頃からあった安倍川餅の店、石部屋は今も健在。近所だから時々食べに行く。
「半農半漁」の暮らしも取り上げてほしいです。興味があります。
本当ですね。
薩摩の肉食といえばえのころ飯というワイルドな犬料理がありますね琉球でも犬は食べましたがヤギと同じように汁に仕立てるのが普通で、ポリネシアにみられるような丸焼きローストというのは非常に独自性が高いように思います
もし今の立場で江戸に生きていたなら女の私も6合くらい食べてたのかなぁ…でも朝から味噌汁作るなんて無理だし当たり前に家電なんてないのだから当時の庶民の人たちってすごいなぁ
父母の幼少は戦後だったが父は大きな農家だったので裕福なベジタリアン的な生活 母は温かいご飯は朝だけツグミを捕まえて食べたり夕飯は冷やご飯と祖父の行商の売れ残りだったそうだ
魔理沙、霊夢たくあんや漬物、イブリガッコの歴史をお願いします🙏
大根は詳しい話無いかも富士の東側ではよく育つと江戸時代には言われてる野沢菜だと、京都で修行した坊さんが帰るときに種を持ち帰ったが、株にはならず葉っぱばかりが繁ったと
博識だなぁ
暴れん坊将軍でさつまいもの話出てきてたの思い出した😊見てたの子供の頃だったからカライモって言ってましたねぇw
今は栄養が偏ってるが長生き 不思議だね😅✨
今の納豆は食べた人が醤油蔵や味噌蔵、酒蔵に入ると蔵の菌が納豆菌にやられるとか言われてるから、その当時から忌避されてることはなかったんですか?!今の菌が特別で強いからですかね?!
納豆菌 黄砂に乗って飛んで来てたの最近知った蒸れた足をムシロでくるんだ毎食一品世界の旅人が選ぶワースト飯不味い国○ンゴルの飯は全て獣くさいらしいUKはご馳走に思えるくらい日本カレーもUK経由だしカツカレーはバカウケらしいけど
普通にやられて破滅してた情報網もなければ検証する手段すらないから広まってなかっただけ
銀の匙でも出てただろチーズ製造で納豆食うなともやしもんでも発酵蔵に入るときは納豆を食べないようにねと教授が言ってる
今では特別天然記念物に指定されて食べることは出来ませんが、鶴は美味しかったという言い伝えが残っていますね。食べてはいけない事は理解できても美味しかったと言われると、どんな味だったのだろうと興味が尽きません。
武士の献立という映画に鶴もどきなるものが登場します。映画の舞台でもある金沢に実在するそうで、いなだ(ぶり)の塩干しを昆布出汁などであつものにしたものです。現在も食べられるそうですよ。
別の動画では鶴は不味かったと紹介されています。どちらが本当なんでしょうね?
味は料理人の腕前次第かも。
飽食になったからなんだろうけど…お米、売れない。。。白米は美味しいのになぁ。。。食べられるようになるまで手間がかかる主食なんだけど、手間をかけてでも食べる価値あるよ?少しでも若者に美味しいお米食べてほしいなぁ。。。
美味しいお米は買うと高い…😭 ホームセンターの安い米は、自分は不味すぎて食べられず9kg以上捨てた事がある。実家が米農家でラッキーだった
@@スズにゃんママ さん、田んぼから自分で造ろう(๑•̀ㅂ•́)و✧!(笑)
@@とらうとサーモン 実家の米作り、手伝わされてますよ。報酬は現物支給の美味しいお米😄
@@スズにゃんママ さん、ウムウム😄それが1番お米の有り難さを感じられるですね(*^^*)採れたて新米は採った人にしか味わえないですからねヽ(=´▽`=)ノ
本当に美味しいお米はおかずなくてもいいぐらい美味しいもんね。
天麩羅は寺の坊主が精進料理として食べていたのを当時日本に来ていた外国人が口にしてこれは旨い!と絶賛し寺=temple(テンプル)で作るからテンプル→テンプラに天麩羅の漢字をあてた説
3食も食べてないし、ほぼ一種類の食事の現代の私より農民のがいい食事しててわろた。
江戸近郊の農家は、野菜とかを産直みたいに売ってたから、結構裕福だったらしい。
賄い付きの仕事とかあるよ?乾杯ワークも悪くないよ?
上方の「始末」で思い出したけど、当時大阪に本社を置いていたドーナツチェーンでバイトしていた時、先輩から休憩時に賄いとして食べられるドーナツやドリンク(商品として出せるものはもちろん、本来は高価格で賄いの対象外だけど品質基準外で売り物にならないものも食べられた)を頂くことを「昔は“ご供養”って呼んでいたんだよ」と教わったことがある今では社員すら教わらないことだと思うけど、「始末」と同じように食材となった命への感謝、無駄にしない気持ちを込めてそう呼んでいたのかなといまだにふざけて頂き物とか飲み会等での大皿料理に「あ、じゃあ最後の一個は私がご供養させていただこうかな」と言ったりすると周りから「何すかそれw」と笑われたりするみんな遠慮し合ってなかなか皿が片付かない時など、エレガントに最後の一個を取りやすくなる便利な言葉よその会社で社員となって働いた後、転職して今は別の会社に勤めているけどお客様に対する心構えや数値管理など、実務的なものから心の在り方まで今の仕事でも役に立つ事をたくさん教わった
お櫃に入れて暗所としても良く真夏の昼過ぎに白米が食えたよなぁ
当時は今ほど暑くないし、家屋が夏の暑さをしのぐ構造だったから。鉄筋コンクリート造りは本来暑い日本に不向き。土壁こそが湿度調整、断熱効果あったからジメジメすることもない。風の通りも良かったからね。蚊帳が無い場合どうやって安眠得ていたか気になる
@@nabesen 江戸庶民の長屋って入り口が一つ(2軒背中合わせが複数並ぶ)なので風通しはよろしくないのでは?ボロなので隙間風はあったかも…?笑 湿度だとお櫃の除湿作用も重要かもですねー
@@もさ-h2eそれより、虫とのたたかい
一回炊いたご飯を3食使うとか、町民の食事って今流行りのキャンプ飯で使えるよね。
昭和の頃保温ジャー出るまでは江戸時代と同じだったよ。お昼ご飯は飯と味噌汁とお新香だけ!因みに炊き立ての温かいのをご飯(ごはん)と言い、冷めたのを飯(メシ)と区別。定食屋も普通に冷えた飯を客に出すのが当たり前だった。だからこそ、飯に味噌汁掛けて飯を温めて食べる方法があった
@@nabesenそうだったねチャーハンや雑炊にしてもらってたわ❤
@@nabesenお味噌汁をかけたご飯に、そんな歴史が😲今ではちょっとお行儀が悪いからと言われちゃう食べ方だけど、あれ結構好きなんだよね。特に、熱々のご飯を卵かけにして そこに熱々のお汁を注いだやつ。ご飯とお汁の熱でいい感じに卵に火が通って、塩気も口当たりもまろやかになって旨いんだ。
ご飯🍚はいいね👍😊
江戸時代の夏は 現代と比べて幾分 涼しかったにしても、朝に炊いたご飯が傷んだりしなかったのだろうか??って思います😅
ちょっと傷んだくらいならザルにあげて水をかけて臭みと滑りを取って食べてましたよー味噌汁ぶっかけて食べたら気にならないですし独身男ならメシは朝昼で食べ尽くして、夕餉は酒で済ますのも一般的でした
現代日本が海上封鎖で食料が輸入できなくなったら、3食全部さつまいもになるよ。(ㆁωㆁ)高い栄養価、食物繊維、日持ちするし、腹持ちもする。さつまいも、偉大だな。
農協はきちんと指定した農薬を使わないと出荷とかさせないとか嫌がりますよ。品質に保証出来ないから
でも、使用薬物は自己申告制ですよね。
@@tukaikasumi4223抜き取り検査はしてますよ。茄子農家に手伝いに行ったけど、JAは厳しいから、収穫の2~4割は出荷出来ないよ。産直に出したり、近くのスーパーと契約して卸したりしてたよ。充分食べられるのに廃棄なんてもったい無いよね。
❤幅広い情報あっての事なんでしょ
カズノコの歴史について動画作って欲しいです。足利義輝や足利義昭がカズノコが好物だったらしいですが、足利時代や徳川時代に、どうやって薄茶色のニシンの卵を黄金色に変えていたのか、カズノコの漂白の歴史について知りたいです。現在のやり方は企業秘密らしいですが。
町廻り同心は大名屋敷から付け届けもあり極貧では無いようですが現代に直しても年収150万円くらいと言われています
9:07 丸亀城の天守閣(香川県)です… 🏯
さつま揚げが食べたいな
ペリーは、饗応で出された食事の内容はともかく、出されたその「量」に不満だったようですね。お腹を満たせなかったのかな?(笑)
多分、魚中心で、食べ付けてないので、不満を言ったかも⁉️。
本格的な本膳料理で、鯛のお頭付き塩焼きを一人2尾ずつ(300人分)出したのに「めっちゃ質素」と書き残してるwまあ、本膳なので品数は凄かったでしょうが、食べられない物も多かった模様です。刺身や魚のワタや海藻の佃煮等の珍味は今でも海外の方には微妙ですし。
ペリーをマタギの村に案内する程の柔軟性が有れば、「その時歴史は変わった」になってたかも?
江戸時代の人達は、現在の日本の食事に驚くと思う。
初めまして🔰霊夢さんと魔理沙さんのやり取りが面白かったです❤将軍の食事マナーを初めて知りました😊果物が置いてあるのに食べてはいけないとか、甘党の私にとってはきついなと思いました🥲
最初は「うちはつなぎに小麦粉使ってますぜ」の宣伝で二八蕎麦の旗とか出してたんでしたっけ、世界的に貧民の食べ物ソバやし
ソバはそれだけでこねてもボソボソしてますよ
😂チャングムの誓い😂
4足獣を禁止されてたのは江戸市中だけで 他藩市外にでれば取れれば食されてたのになんで日本は獣を食べなかったなってるんだろ?養殖もない時代に放牧だけで頻繁に肉食ってたほうが不思議だぜ
675年、天武天皇が牛・馬・犬・猿・鶏を食べることを禁じて以来それは解除されずに来た。だがそれでは持たないので「滋養の薬」として肉を食べる文化があった。たまには精をつけるってやつです。肉は特別薬扱いなんですよ。他藩でも常食はしてなかったようですよ。
両国橋超えると
大陸から文明を与えらるまではドングリを拾って食べるしかなかった日本で、こうした文化が生まれたのは本当に嬉しいです。
人間が食べるにはドングリって手間かかるんだが。
身分制度ではなくて役割分担だったのだそうです。
日本の食は世界一!ご先祖様に頭が上がりません。
😅玄米、黒米、野生米ミックスを冷凍して食べています。結果真っ暗いご飯。
おでんが🍢入ってないぞ。砂場、伊東にあるぞ。
イボ鯛ってエボ鯛のことだろうか。私が訛ってるのかな?
越後人には不明ですね
ヒとシが入れ替わったりイがエに訛ったりするのは東京方言の特徴です
ウナギも江戸時代からあったんだ‼️
井伊の薬喰いって味噌漬けの牛肉の事?
塩分凄そう。いや、稽古で汗かくからいいのかな?野鳥は今の生息数と全然違うから貴重かどうかはわかんないよ。コウノトリはどこにでもいたそうだし
😂信玄餅 GODIVAのチョコレート リキュール
寿司の一貫は現在の2個分。食べにくいから半分に切った。元祖ファーストフード。銭湯前に出店していた。だから一貫で2個なの。いまもJRに入っているの立ち食い寿司も2個ずつ頼まなければいけないのはその名残。
農民でも庄屋とかいいもの食ってそうなんだよな。なんせ戦時中でもコメとか食ってたんだぞ。「昔はお菓子なんかなくてねえ。果物ぐらいしかなくてねえ。」・・・戦時中だよね?
ちなみに実話。なんせうちの父と母がそう。なんせド田舎だったから。(だからって戦争と無関係ではなかったが。)
庭があれば 大概 果物の木は 植えてるからね。
栗は普通に山にクルミも川に行くとと本当は食物を見つけられる観察能力なのよな
お米🍚は江戸時代から食べられていたんだ‼️
剣客商売の受け売りだが、江戸時代の鰻の屋台、ぶつ切りの鰻を串刺しで、溜まり醤油や味噌つけて焼いて食べたっての、いっぺん食べて見たい。
😂😂丸亀製麺 天婦羅食べ放題 紅葉の天婦羅 飯蛸のおでん 紅生姜の天婦羅
😂😂千歳空港にもめんよう最中売っているらしい!ブルーシールアイス
さつま揚げではなくてんぷらと呼んでました
様々な食材売り惣菜売り細分化されて皆仕事にはありつけてたわけだ。初期の鰻は味噌ダレとか、醤油が広まるまで
江戸時代は、歩いていける所までが商圏魚は悪くなる前に売り切らないとだからよりシビア
豪華な食事を食べてたと言われる大名や将軍は味噌汁もお吸い物も含めて温かい物は食べれなかった。暗殺を防ぐために同じメニューを三食かそこら作りランダムに毒見役が試食してから届けられるから冷めてからしか食えなかった。そのへんは町民のほうが恵まれていた
将軍はともかく大名でそこまでしてたのは上半分くらいですわ江戸後期の下半分は赤字でヒィヒィ言うてたので『出されたモン食え』って感じです皿数は従来通りでも食べちゃいけない料理があったとか(次の食事に出すので)
😂😂肉吸い うどん ニシンそば北海道 鰊の甘露をのせて食べるのよニシンそば
戊辰戦争の怨み、忘れまじ。
アレ、当時公家って結構貧乏で天皇家ですらその権威を利用してる幕府から援助は有れど飯は結構貧相じゃなかったっけ?流石に庶民よりはいいけどちょっと裕福な江戸住みの町民にすら劣る食事で、勅使とかは毎年年賀挨拶で受けれる幕府の饗応が何よりの楽しみって聞いたけども
私、ウツで引きこもりの58歳一日一食と言うか食べなくても平気汗
そうですか 私もそんな感じ 食べると 元気出る じっとしていても 最低1日1食はしないと きつい図書館なら 黙っていても適した所。涼しい 閉館前の1時間から冷房切るから 情けない。また明日で買い物して帰ります
確か? 大火事が有ると大工さんや左官屋を地方から大量に呼び出しんたんだよな
江戸時代は刀⚔を使ってたよね😐😐
😂時そば?😂
江戸時代のロマンは異常
40:56【ソバ(蕎麦)】より…一説に,寛永年間(1624‐44)奈良の東大寺に来た朝鮮の客僧元珍が小麦粉の使用を教えたというが,それを裏づける史料は見当たらず,実際に小麦粉をつなぎに使うようになったのは,早くても元禄(1688‐1704)末期以後であろう。要するに,そば切りがつくられてから100年ほどの間,そば切りはそば粉だけの〈生(き)そば〉であった。朝鮮半島から~に関して証拠がない事が多いですね。
😂鴨南そば😂
😂野火止 札幌の大通り公園 大友亀太郎 創成川 小田原藩士
ただ江戸の町民でも商家は質素な食事で身体を使う大工とかの肉体労働者のほうが魚等のタンパク質を多く食べてた。やはり食うもの食わんと体力が続かん
11:37歌川国芳画「誠忠義心傳ヨリ 斧寺重内之妻」
納豆ご飯😊
😂😂首里 日本のお城と違うけど 韓国と似たお城 韓国に近い沖縄 台湾に近い 小琉球 台湾 大琉球 沖縄 琉球藩廃止 沖縄県を置く 北海道にも函館県 札幌県あったん だけどなくなった😂
さつまいも=唐芋 隣の おばあさんが薩摩芋を「といも」と呼んでたのはこれだったのか
享保ってキョッホー!な時代だったのですね。
おやこんなところに木久扇さんが
😂sssサイズとLLLサイズは農民がSMLのサイズしか見栄えが悪くてとか言われて買ってくれない農協が😂
よく「焼き魚を少し」とか「魚の煮付けを少し」とか言われますが、少しってのは例えば干物を半身だけ、とかいう風に、家族でわけわけしていたんでしょうか。それとも小さいお魚の、例えばめざしの焼いたのとかハゼの煮付けとかってことでしょうか。他の文献でもこの「魚を少し」って書き方が多いんですよね。
😊牽制して居るのさ。豪遊してないよ?って。慎ましやかにくらしてますって。
御家人斬九郎の母君 まさじょ殿のお取り寄せせんりつ主水のご飯 屋台のそば鬼平のねこ殿の賄い、船宿での小鍋 紋次郎の麦とろカッコミ座頭市の宿場のめしやで勝新太郎の めし丼にめざしと漬物と汁をぶっかけてかっ込む食べ方がお行儀の悪い見本のような食べ方がカッコ良かったあさりどぜうきそばうんどん牛豚鶏がなくて卵牛乳すら食べれない飛脚の肉食実験での結果が宇宙人
😂😂和歌山県 鯨漁😂さんま寿司😂
😂商家の娘?吉本せいの生活が😂
😂柿の葉寿司 手鞠寿司
徳川家康も天ぷらを食ったらしいからぷらっと来た天竺浪人説は違うと思う。
農村や漁村に、城下町等で、違うからね。
某美食家「なにっ!!つぐみだと?」
😂白くまアイス美味しい😂 沖縄ぜんざいは氷小豆だよ キンキンに冷えたぜんざいが沖縄
沖縄ブルーシールアイス 琉球コーラー ちんびん ひらやち ルートビア A&wの さんぴん茶 あまがし くんぺん
ウナギを1本そのまま丸焼きって・・・血はどうしていたんですかね。
頭落として、残りは火を通せば無害
お米はお百姓さんの財宝。とにかく、御上に年貢なんて出したくないわね。食べたきゃ自分で作れ、よ。
😂岐阜県大垣市の水まんじゅう 滋賀県の乳母が餅 伊勢神宮 名古屋市の赤福 ういろう 北海道のまりも羊羮 丁稚羊羮 北海道士別市めんよう最中
士農工商は元々中国の言葉で士は武士じゃなくて士大夫だしね。
「こんなんで足りるのか」と思われがちだが、実は献立だけ見てもわからないのが「量」だ。当時はデスクワーカーやサービス業で1日6合、肉体労働者は1日1升の米を食べていた。塩辛い少量のおかずで丼飯を平らげ、おかわりしたら漬物で2杯目を平らげて茶漬で〆る。これが普通。この食事傾向は食料供給が安定した江戸中期から、戦前までずっと続いている。長崎のキリシタン弾圧では捕らえた信者たちの食事量を「1日米1升から6合に減らしたら観念して棄教した」という記録があるし、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」とあるのは、現代人からすると「四合も食うのかよ」だが、昭和初頭の当時としてはこれが「少食アピール」なんですよ。
なお、戦時中は日に3合に改変された
アスリートでも日に3合だと足りないのよな
個人的には山で8時間以上活動すると5合位は食えると
普段は2合でも余ってたのに
1:03:10 1:03:11 1:03:11 !😅😅
最近知ったんですが、当時の米は現代の様な品種改良はされていないのでタンパク質の含有量がかなり多かったみたいですね。反面、栄養素のバランスが悪くて味は良くなかったみたいですが…そのご飯に豆料理や薬食い(猪とかの隠れ肉食)を加えると結構な高タンパクで肉体労働者は小柄でも結構ガチムチだったのかな?
@@dhkbeans327
小柄でもムキムキですよ
中国戦線での日本軍の記録映像とかで観れますが、身体能力が凄かった。
3mくらいの高さから飛び降りて難なく行軍してましま。
落語家の三遊亭柳昇氏が兵役で陸軍に入ったらご飯が多くて食べ切れないほどだったのが厳しい訓練が始まるとたっぷりのご飯を食べきりそれでも足りないくらいだったそうです。
江戸時代は識字率が高いから、レシピ本や飲食店のガイド本とか庶民の間でなにかとランキングが好まれた事もあり、出版物がめちゃめちゃ多くて、おかげで当時の庶民の暮らしがつぶさに分かるって凄い事だよね。本当に文化が豊かに育まれた時代!
再来年の大河ドラマは蔦屋さんの話なので、江戸時代の出版話がテーマになる見込み。
めっちゃ楽しみ〜❤
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うまいものランキングもあるが、看板娘で売れると味も良くなるのと
近くの店も繁盛すると
茶碗蒸しの原形と言われている、卵フワフワは其のレピシ本にも書かれているみたいです。
江戸時代前の酒は濁酒だったが、江戸時代になって炭素の化学反応を利用して、清酒が生まれたのもこの頃。
鰻屋に頼まれて平賀源内が決めた「土用の丑の日」当時の田んぼの用水路には、日本鰻が未だ沢山いただろう。
@@エンマンエンマン 江戸中期が、醤油と清酒の転換点で
赤酢の寿司の発祥点だったのよな
奇跡のはじまりみたいな
朝から炊きたてご飯、汁物、漬物だけでも自分から見たら豪華すぎる…。
今じゃ 吉野家 旅館の世界遺産
タイムスリップしてきたのかな?
すげえわかる。俺なんて食パン焼いてバター塗ったトースト2枚と牛乳だぞw
同じ!
@@gradiusvicviper492
豪勢な食事だね
ご飯と飯(めし)は状態の違いを指しており
ご飯とは、炊き立ての湯気が出ている状態
飯(めし)とは、ご飯が冷めて湯気が出ていない状態、つまり冷や飯
みたいなことを杉浦日名子さんが言ってた気がする
静岡県丸子の近くに住んでいます
東海道五十三次にも描かれていたという丁子屋もすぐ傍です
なんだか誇らしいですね
日曜日の昼、視聴しながら居眠していた(笑)
鰻をその場で焼いてくれたんだ。ウラヤマシイ🤤
食事場は時代だけでなく生活地域や流通によって違うというまとめも素晴らしいし、途中もいい質問しますね。卵が貴重な時代に天ぷらの衣は。なんて。とても勉強になります。
近所の農家の人の話を聞いていると、無農薬で作った野菜は自家消費、形が揃っていて見た目がきれいなのはJAへ出荷、余り物は近所に分配、って感じですけどね☺
え!
安心安全な無農薬は自分で食ってて、市場に出してるのは毒かよ!
ふざけんなよ!
つまり お腹がすく動画❤
上杉鷹山って「成せばなる」のくだりくらいしか知らなかった。
これ程の功績を教えて頂きまして感謝致します。
為せば成る、為さねばならぬ
なる業は
為らぬとすつる人の儚き
だっけ?
江戸時代位から庶民にも玄米、雑穀米、麦から白米に変わった。蕎麦も団子状から麺状に変化、砂糖は未だ高価だったが、醤油、味噌、味醂
も庶民にも届く。小松菜のお浸しは人気、大根の煮物、天麩羅、蕎麦、しじみ、魚の干物や酢じめコレらメニューは、今でも現代の日本人は好きだね
砂糖は薬屋扱いだったとか。
京都で『ぶぶづけ(お茶漬け)でもどうぞ』と言われたら、『早く帰れ』という意味らしいですが『おぶぶ』だけなら上がっても良いのかな?
3回断ってそれでもと言われてようやく上がらせて貰うとか、通路ですれ違うときも、3回譲り合うとか、まどろっこしい風習もいっぱいありますよね😅
幼い頃 隣の同級生の家で夕方いつまでも帰らない私に お母さんが呼んでたよとおばちゃんに 言われて帰ったら そんな事はないって 遠回しって傷つくんだよね。夕方は お家にお帰りなさいと 言えば そうだなと わかる。ぶぶ漬けって聞いただけで やらしい
茶菓子や食事はすすめられて2回断り3回目に頂く、はこちらでも有りますよ。北関東の田舎、開拓農業地帯です。
❤気遣いと言う愛を感じて暮らすのでしょうが、関東人にはめんどくさい
@@ちゃんトト-z9b😮これさ、全員がいつもなのかな?人によるんじゃないのかな?よっぽどの時とか
それぞれの時代の食事事情は同時に政治とか輸送等の事情の浮き彫りな気もするので、興味深いです(あくまで気がするだけ)
1:58:00辺りからの出汁の話で濃口醤油を使ってるから塩分が強いって話してるけど、薄口醤油の方が塩分濃くて、濃口醤油の方が風味やコクがあります。
なのでここについては逆の内容ですね。
うちの先祖も武士だったけど、農業もやっていたみたい
また普段は粗末な服装だったけど、『道中着』といって立派な着物も用意していたとか。
江戸詰め屋敷内長屋に住まいの方達は庭に畑を作っておかずや家計のたしにしてたとか。
家庭菜園は当たり前だったようです。道中着(みちゆき)という文化は戦後までありました。
東海道線では服が傷まないようにズボンを脱いでステテコになってから座ったそうです。長距離移動する人はそれが普通だったとか。
@@りか-d4hステテコに腹巻でカンカン帽ってのはそれだったのか
確かに東京から帰るなら外見を気にしない人もいたのだろう
@@シュウ-y2p
今の価値に直すと背広は30万くらいしてたそうなので、貴重品だったのだと思います。
傷まないようにする知恵だったんでしょうね。
もう何年も白米オンリーで食べてない
玄米と雑穀が混ざってるのが好きなので
たまに誰かがご飯炊いてくれるんだけど、真っ白だとびっくりするようになってしまった
雑穀おいしいですよね?
私は玄米オンリーです。不思議な事に体調がよくなりました♪
@@nicholettis8989 おー!すばらしい!
私も玄米オンリーで行きたいのですが、苦手なのが居るんですよw
なので、玄米を自分用に炊いて冷凍しておいたりします
プチプチ食感が大好物です🥰
@@gs9030 そしたら、アマランサスとかも、美味しいですよ?
55:10 そういえば、孤独のグルメの「がーんだな。出鼻をくじかれた」の店も、煮込みと小豆かんを一緒に売ってたなあ
日本人には炭水化物からタンパク質を合成する遺伝子が大活躍してたから米を一食で一升食べていた(飛脚)
幕末に飛脚を撮影した写真みると恐ろしい程にガチムチな筋肉量で満足にタンパク質取れないのに何故筋肉維持できてたのか不思議に思われていた
🎉あぁ!ありがとうございます!やっぱり、そうなんですね?じゃなきゃ、できないですよね、あの体。
そんな遺伝子無いよ笑
オカルト過ぎだろw
なんで無いって言い切れるの?研究者か何か?
@@通勤電車どっと混む実際そんな遺伝子無いもん。
マイナスイオンとか水素水みたいな一時期流行ったオカルトやでそれ。
穀物食からタンパク質合成するのは人間の遺伝子じゃなくて人間の腸内細菌のせいやし。
むしろなんで人間の遺伝子でタンパク質合成できると思ってんの?
草食動物も熱帯地域のほとんど植物食しかしてないのにムキムキな人らも独自の細菌叢でタンパク質合成してるって論文出てるのに。
なんで日本人は人間の遺伝子の効果内で植物からタンパク質合成してるって言えるん?そんな論文1つも出てないのに。
ついでに書くならそもそも江戸時代は結構タンパク質摂取してるよ。畜肉こそほとんど食べてないけど豆腐や魚は普通に食べてたし。
馬や鹿じゃあるまいし、そんな遺伝子は無い。
柿の木を植えておけば干し柿になりかなり凌げる
江戸のスイーツといえば、吉宗公の好物とされる安倍川餅を忘れてはならない。
江戸の頃からあった安倍川餅の店、石部屋は今も健在。
近所だから時々食べに行く。
「半農半漁」の暮らしも取り上げてほしいです。興味があります。
本当ですね。
薩摩の肉食といえばえのころ飯というワイルドな犬料理がありますね
琉球でも犬は食べましたがヤギと同じように汁に仕立てるのが普通で、ポリネシアにみられるような丸焼きローストというのは非常に独自性が高いように思います
もし今の立場で江戸に生きていたなら女の私も6合くらい食べてたのかなぁ…でも朝から味噌汁作るなんて無理だし当たり前に家電なんてないのだから当時の庶民の人たちってすごいなぁ
父母の幼少は戦後だったが
父は大きな農家だったので
裕福なベジタリアン的な生活
母は温かいご飯は朝だけ
ツグミを捕まえて食べたり
夕飯は冷やご飯と祖父の行商の売れ残りだったそうだ
魔理沙、霊夢
たくあんや漬物、イブリガッコの歴史をお願いします🙏
大根は詳しい話無いかも
富士の東側ではよく育つと江戸時代には言われてる
野沢菜だと、京都で修行した坊さんが帰るときに種を持ち帰ったが、株にはならず葉っぱばかりが繁ったと
博識だなぁ
暴れん坊将軍でさつまいもの話出てきてたの思い出した😊
見てたの子供の頃だったからカライモって言ってましたねぇw
今は栄養が偏ってるが長生き
不思議だね😅✨
今の納豆は食べた人が醤油蔵や味噌蔵、酒蔵に入ると蔵の菌が納豆菌にやられるとか言われてるから、その当時から忌避されてることはなかったんですか?!今の菌が特別で強いからですかね?!
納豆菌 黄砂に乗って飛んで来てたの
最近知った
蒸れた足をムシロでくるんだ
毎食一品
世界の旅人が選ぶワースト飯不味い国
○ンゴルの飯は全て獣くさいらしい
UKはご馳走に思えるくらい
日本カレーもUK経由だし
カツカレーはバカウケらしいけど
普通にやられて破滅してた
情報網もなければ検証する手段すら
ないから広まってなかっただけ
銀の匙でも出てただろ
チーズ製造で納豆食うなと
もやしもんでも発酵蔵に入るときは納豆を食べないようにねと教授が言ってる
今では特別天然記念物に指定されて食べることは出来ませんが、鶴は美味しかったという言い伝えが残っていますね。
食べてはいけない事は理解できても美味しかったと言われると、どんな味だったのだろうと興味が尽きません。
武士の献立という映画に鶴もどきなるものが登場します。映画の舞台でもある金沢に実在するそうで、いなだ(ぶり)の塩干しを昆布出汁などであつものにしたものです。現在も食べられるそうですよ。
別の動画では鶴は不味かったと紹介されています。どちらが本当なんでしょうね?
味は料理人の腕前次第かも。
飽食になったからなんだろうけど…お米、売れない。。。
白米は美味しいのになぁ。。。
食べられるようになるまで手間がかかる主食なんだけど、手間をかけてでも食べる価値あるよ?
少しでも若者に美味しいお米食べてほしいなぁ。。。
美味しいお米は買うと高い…😭 ホームセンターの安い米は、自分は不味すぎて食べられず9kg以上捨てた事がある。実家が米農家でラッキーだった
@@スズにゃんママ さん、田んぼから自分で造ろう(๑•̀ㅂ•́)و✧!(笑)
@@とらうとサーモン 実家の米作り、手伝わされてますよ。報酬は現物支給の美味しいお米😄
@@スズにゃんママ さん、ウムウム😄
それが1番お米の有り難さを感じられるですね(*^^*)
採れたて新米は採った人にしか味わえないですからねヽ(=´▽`=)ノ
本当に美味しいお米はおかずなくてもいいぐらい美味しいもんね。
天麩羅は寺の坊主が精進料理として
食べていたのを当時日本に来ていた
外国人が口にしてこれは旨い!と絶賛し
寺=temple(テンプル)で作るから
テンプル→テンプラに天麩羅の漢字をあてた説
3食も食べてないし、ほぼ一種類の食事の現代の私より農民のがいい食事しててわろた。
江戸近郊の農家は、野菜とかを産直みたいに売ってたから、結構裕福だったらしい。
賄い付きの仕事とかあるよ?乾杯ワークも悪くないよ?
上方の「始末」で思い出したけど、当時大阪に本社を置いていたドーナツチェーンでバイトしていた時、先輩から休憩時に賄いとして食べられるドーナツやドリンク(商品として出せるものはもちろん、本来は高価格で賄いの対象外だけど品質基準外で売り物にならないものも食べられた)を頂くことを「昔は“ご供養”って呼んでいたんだよ」と教わったことがある
今では社員すら教わらないことだと思うけど、「始末」と同じように食材となった命への感謝、無駄にしない気持ちを込めてそう呼んでいたのかなと
いまだにふざけて頂き物とか飲み会等での大皿料理に「あ、じゃあ最後の一個は私がご供養させていただこうかな」と言ったりすると周りから「何すかそれw」と笑われたりする
みんな遠慮し合ってなかなか皿が片付かない時など、エレガントに最後の一個を取りやすくなる便利な言葉よ
その会社で社員となって働いた後、転職して今は別の会社に勤めているけどお客様に対する心構えや数値管理など、実務的なものから心の在り方まで今の仕事でも役に立つ事をたくさん教わった
お櫃に入れて暗所としても良く真夏の昼過ぎに白米が食えたよなぁ
当時は今ほど暑くないし、家屋が夏の暑さをしのぐ構造だったから。鉄筋コンクリート造りは本来暑い日本に不向き。土壁こそが湿度調整、断熱効果あったからジメジメすることもない。風の通りも良かったからね。蚊帳が無い場合どうやって安眠得ていたか気になる
@@nabesen 江戸庶民の長屋って入り口が一つ(2軒背中合わせが複数並ぶ)なので風通しはよろしくないのでは?ボロなので隙間風はあったかも…?笑 湿度だとお櫃の除湿作用も重要かもですねー
@@もさ-h2eそれより、虫とのたたかい
一回炊いたご飯を3食使うとか、町民の食事って今流行りのキャンプ飯で使えるよね。
昭和の頃保温ジャー出るまでは江戸時代と同じだったよ。お昼ご飯は飯と味噌汁とお新香だけ!因みに炊き立ての温かいのをご飯(ごはん)と言い、冷めたのを飯(メシ)と区別。定食屋も普通に冷えた飯を客に出すのが当たり前だった。だからこそ、飯に味噌汁掛けて飯を温めて食べる方法があった
@@nabesenそうだったねチャーハンや雑炊にしてもらってたわ❤
@@nabesenお味噌汁をかけたご飯に、そんな歴史が😲
今ではちょっとお行儀が悪いからと言われちゃう食べ方だけど、あれ結構好きなんだよね。特に、熱々のご飯を卵かけにして そこに熱々のお汁を注いだやつ。ご飯とお汁の熱でいい感じに卵に火が通って、塩気も口当たりもまろやかになって旨いんだ。
ご飯🍚はいいね👍😊
江戸時代の夏は 現代と比べて幾分 涼しかったにしても、朝に炊いたご飯が傷んだりしなかったのだろうか??って思います😅
ちょっと傷んだくらいならザルにあげて水をかけて臭みと滑りを取って食べてましたよー
味噌汁ぶっかけて食べたら気にならないですし
独身男ならメシは朝昼で食べ尽くして、夕餉は酒で済ますのも一般的でした
現代日本が海上封鎖で食料が輸入できなくなったら、3食全部さつまいもになるよ。(ㆁωㆁ)高い栄養価、食物繊維、日持ちするし、腹持ちもする。さつまいも、偉大だな。
農協はきちんと指定した農薬を使わないと出荷とかさせないとか嫌がりますよ。品質に保証出来ないから
でも、使用薬物は自己申告制ですよね。
@@tukaikasumi4223抜き取り検査はしてますよ。茄子農家に手伝いに行ったけど、JAは厳しいから、収穫の2~4割は出荷出来ないよ。産直に出したり、近くのスーパーと契約して卸したりしてたよ。充分食べられるのに廃棄なんてもったい無いよね。
❤幅広い情報あっての事なんでしょ
❤幅広い情報あっての事なんでしょ
カズノコの歴史について動画作って欲しいです。
足利義輝や足利義昭がカズノコが好物だったらしいですが、足利時代や徳川時代に、どうやって薄茶色のニシンの卵を黄金色に変えていたのか、カズノコの漂白の歴史について知りたいです。
現在のやり方は企業秘密らしいですが。
町廻り同心は大名屋敷から付け届けもあり極貧では無いようですが現代に直しても年収150万円くらいと言われています
9:07 丸亀城の天守閣(香川県)です… 🏯
さつま揚げが食べたいな
ペリーは、饗応で出された食事の内容はともかく、出されたその「量」に不満だったようですね。お腹を満たせなかったのかな?(笑)
多分、魚中心で、食べ付けてないので、不満を言ったかも⁉️。
本格的な本膳料理で、鯛のお頭付き塩焼きを一人2尾ずつ(300人分)出したのに「めっちゃ質素」と書き残してるw
まあ、本膳なので品数は凄かったでしょうが、食べられない物も多かった模様です。刺身や魚のワタや海藻の佃煮等の珍味は今でも海外の方には微妙ですし。
ペリーをマタギの村に案内する程の柔軟性が有れば、「その時歴史は変わった」になってたかも?
江戸時代の人達は、現在の日本の食事に驚くと思う。
初めまして🔰
霊夢さんと魔理沙さんのやり取りが面白かったです❤
将軍の食事マナーを初めて知りました😊
果物が置いてあるのに食べてはいけないとか、甘党の私にとってはきついなと思いました🥲
最初は「うちはつなぎに小麦粉使ってますぜ」の宣伝で二八蕎麦の旗とか出してたんでしたっけ、世界的に貧民の食べ物ソバやし
ソバはそれだけでこねてもボソボソしてますよ
😂チャングムの誓い😂
4足獣を禁止されてたのは江戸市中だけで 他藩市外にでれば取れれば食されてたのになんで日本は獣を食べなかったなってるんだろ?養殖もない時代に放牧だけで頻繁に肉食ってたほうが不思議だぜ
675年、天武天皇が牛・馬・犬・猿・鶏を食べることを禁じて以来それは解除されずに来た。だがそれでは持たないので「滋養の薬」として肉を食べる文化があった。たまには精をつけるってやつです。肉は特別薬扱いなんですよ。他藩でも常食はしてなかったようですよ。
両国橋超えると
大陸から文明を与えらるまではドングリを拾って食べるしかなかった日本で、こうした文化が生まれたのは本当に嬉しいです。
人間が食べるにはドングリって手間かかるんだが。
身分制度ではなくて役割分担だったのだそうです。
日本の食は世界一!
ご先祖様に頭が上がりません。
😅玄米、黒米、野生米ミックスを冷凍して食べています。結果真っ暗いご飯。
おでんが🍢入ってないぞ。砂場、伊東にあるぞ。
イボ鯛ってエボ鯛のことだろうか。私が訛ってるのかな?
越後人には不明ですね
ヒとシが入れ替わったりイがエに訛ったりするのは東京方言の特徴です
ウナギも江戸時代からあったんだ‼️
井伊の薬喰いって味噌漬けの牛肉の事?
塩分凄そう。いや、稽古で汗かくからいいのかな?
野鳥は今の生息数と全然違うから貴重かどうかはわかんないよ。
コウノトリはどこにでもいたそうだし
😂信玄餅 GODIVAのチョコレート リキュール
寿司の一貫は現在の2個分。食べにくいから半分に切った。元祖ファーストフード。銭湯前に出店していた。
だから一貫で2個なの。いまもJRに入っているの立ち食い寿司も2個ずつ頼まなければいけないのはその名残。
農民でも庄屋とかいいもの食ってそうなんだよな。なんせ戦時中でもコメとか食ってたんだぞ。「昔はお菓子なんかなくてねえ。果物ぐらいしかなくてねえ。」・・・戦時中だよね?
ちなみに実話。なんせうちの父と母がそう。なんせド田舎だったから。(だからって戦争と無関係ではなかったが。)
庭があれば 大概 果物の木は 植えてるからね。
栗は普通に山に
クルミも川に行くとと
本当は食物を見つけられる観察能力なのよな
お米🍚は江戸時代から食べられていたんだ‼️
剣客商売の受け売りだが、江戸時代の鰻の屋台、ぶつ切りの鰻を串刺しで、溜まり醤油や味噌つけて焼いて食べたっての、いっぺん食べて見たい。
😂😂丸亀製麺 天婦羅食べ放題 紅葉の天婦羅
飯蛸のおでん 紅生姜の天婦羅
😂😂千歳空港にもめんよう最中売っているらしい!ブルーシールアイス
さつま揚げではなくてんぷらと呼んでました
様々な食材売り惣菜売り細分化されて皆仕事にはありつけてたわけだ。初期の鰻は味噌ダレとか、醤油が広まるまで
江戸時代は、歩いていける所までが商圏
魚は悪くなる前に売り切らないとだからよりシビア
豪華な食事を食べてたと言われる大名や将軍は味噌汁もお吸い物も含めて温かい物は食べれなかった。暗殺を防ぐために同じメニューを三食かそこら作りランダムに毒見役が試食してから届けられるから冷めてからしか食えなかった。そのへんは町民のほうが恵まれていた
将軍はともかく大名でそこまでしてたのは上半分くらいですわ
江戸後期の下半分は赤字でヒィヒィ言うてたので『出されたモン食え』って感じです
皿数は従来通りでも食べちゃいけない料理があったとか(次の食事に出すので)
😂😂肉吸い うどん ニシンそば北海道 鰊の甘露をのせて食べるのよニシンそば
戊辰戦争の怨み、忘れまじ。
アレ、当時公家って結構貧乏で天皇家ですらその権威を利用してる幕府から援助は有れど飯は結構貧相じゃなかったっけ?
流石に庶民よりはいいけどちょっと裕福な江戸住みの町民にすら劣る食事で、勅使とかは毎年年賀挨拶で受けれる幕府の饗応が何よりの楽しみって聞いたけども
私、ウツで引きこもりの58歳
一日一食と言うか食べなくても平気汗
そうですか 私もそんな感じ 食べると 元気出る じっとしていても 最低1日1食はしないと きつい
図書館なら 黙っていても適した所。涼しい 閉館前の1時間から冷房切るから 情けない。また明日で買い物して帰ります
確か? 大火事が有ると
大工さんや左官屋を地方から大量に呼び出しんたんだよな
江戸時代は刀⚔を使ってたよね😐😐
😂時そば?😂
江戸時代のロマンは異常
40:56
【ソバ(蕎麦)】より
…一説に,寛永年間(1624‐44)奈良の東大寺に来た朝鮮の客僧元珍が小麦粉の使用を教えたというが,
それを裏づける史料は見当たらず,実際に小麦粉をつなぎに使うようになったのは,
早くても元禄(1688‐1704)末期以後であろう。要するに,そば切りがつくられてから100年ほどの間,
そば切りはそば粉だけの〈生(き)そば〉であった。
朝鮮半島から~に関して証拠がない事が多いですね。
😂鴨南そば😂
😂野火止 札幌の大通り公園 大友亀太郎 創成川 小田原藩士
ただ江戸の町民でも商家は質素な食事で身体を使う大工とかの肉体労働者のほうが魚等のタンパク質を多く食べてた。やはり食うもの食わんと体力が続かん
11:37
歌川国芳画「誠忠義心傳ヨリ 斧寺重内之妻」
納豆ご飯😊
😂😂首里 日本のお城と違うけど 韓国と似たお城 韓国に近い沖縄 台湾に近い 小琉球 台湾 大琉球 沖縄 琉球藩廃止 沖縄県を置く
北海道にも函館県 札幌県あったん だけどなくなった😂
さつまいも=唐芋
隣の おばあさんが薩摩芋を「といも」と呼んでたのはこれだったのか
享保ってキョッホー!な時代だったのですね。
おやこんなところに木久扇さんが
😂sssサイズとLLLサイズは農民がSMLのサイズしか見栄えが悪くてとか言われて買ってくれない農協が😂
よく「焼き魚を少し」とか「魚の煮付けを少し」とか言われますが、少しってのは例えば干物を半身だけ、とかいう風に、家族でわけわけしていたんでしょうか。それとも小さいお魚の、例えばめざしの焼いたのとかハゼの煮付けとかってことでしょうか。他の文献でもこの「魚を少し」って書き方が多いんですよね。
😊牽制して居るのさ。豪遊してないよ?って。慎ましやかにくらしてますって。
御家人斬九郎の母君 まさじょ殿のお取り寄せ
せんりつ主水のご飯 屋台のそば
鬼平のねこ殿の賄い、船宿での小鍋
紋次郎の麦とろカッコミ
座頭市の宿場のめしやで
勝新太郎の めし丼にめざしと漬物と
汁をぶっかけてかっ込む食べ方が
お行儀の悪い見本のような
食べ方がカッコ良かった
あさりどぜうきそばうんどん
牛豚鶏がなくて卵牛乳すら食べれない
飛脚の肉食実験での結果が宇宙人
😂😂和歌山県 鯨漁😂さんま寿司😂
😂商家の娘?吉本せいの生活が😂
😂柿の葉寿司 手鞠寿司
徳川家康も天ぷらを食ったらしいから
ぷらっと来た天竺浪人説は違うと思う。
農村や漁村に、城下町等で、違うからね。
某美食家「なにっ!!つぐみだと?」
😂白くまアイス美味しい😂 沖縄ぜんざいは氷小豆だよ キンキンに冷えたぜんざいが沖縄
沖縄ブルーシールアイス 琉球コーラー ちんびん ひらやち ルートビア A&wの さんぴん茶 あまがし くんぺん
ウナギを1本そのまま丸焼きって・・・血はどうしていたんですかね。
頭落として、残りは火を通せば無害
お米はお百姓さんの財宝。とにかく、御上に年貢なんて出したくないわね。食べたきゃ自分で作れ、よ。
😂岐阜県大垣市の水まんじゅう 滋賀県の乳母が餅 伊勢神宮 名古屋市の赤福 ういろう 北海道のまりも羊羮 丁稚羊羮 北海道士別市めんよう最中
士農工商は元々中国の言葉で士は武士じゃなくて士大夫だしね。