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土讃線・高知駅で、旧客の普通列車を引っ張る姿を見ました。西鹿児島まで行っていた寝台特急「富士」の大分以南の牽引とか、華やかな運用もありましたっけ。
C57より少し性能が低いくらいなら十分成功と言えたのでは?当時は無煙化が大前提で早く置き換える事優先で細かい性能は二の次です。重連総括出来るし。まだ直流電気機関車にディーゼル発電機載せたレベルですから。元々地方幹線向けで作られたので役割はしっかり果たしたのかなと。今はパワーエレクトロニクスの進化でDF200とか作れますが。四国に最後まで残ったのは使い勝手とパワーのバランスが丁度良かったのでしょう。
DF50の最大の功績は客車編成の急行旅客列車の無煙化。貨物列車はまだ蒸機でも何とかなる。でも冷房がごく限られた存在だった当時、特ロですら非冷房だった時代、夏場殊にトンネルの多い区間では難行苦行だった。旅客列車だけでも無煙化したい、特に優等列車は無煙化したい、それに答えたカマだと愚考する。非力な所は重連総括制御で乗務員も一組=当時は[列車]には助士が必ず乗務する必要があった。殊に単線区間では通表閉塞式が殆どでタブレットの授受に助士の乗務は必要不可欠だった=で済むのもありがたかった。やがて幹線系は電化され電機に後を託し、当面非電化の路線も輸送量の多い路線はDD51に後を託し亜幹線や支線区を主に担当するようになった。集中配置されたく所が少なくないのは車種を統一した方がMaintenanceに有利だから。山陰本線でDF50牽引客レ、そしてオハ36のTopNumberオハ363(改造車ゆえに歯抜け附番)で益田~萩間乗ったのはもう半世紀前。アラカンオジンが田舎の中坊だった頃の思い出(^^);
あのレッドベアことDF200のご先祖さまでもある名機
総出力600kw(800馬力)じゃね。『富士』を牽引しながらの宗太郎越えでは 30km/h台まで速度低下してしまったとか。当時もっと軽量で高出力な エンジン・発電機・モーターがあって DF50が成功していたら日本のDLは 海外のように『電気式』で発展したかもしれませんね。最後の扇形に整列する『タラコ軍団』は 壮観です。
馬力だけで言えば、DD16とほぼ同じ。
亀山のDF50は、自宅から近かったので、よく追いかけました。さよなら運転機に抜擢された57号機とお召し機26号機(お召し機のため白線がシルバーラインになっている)重連を撮影出来たのは良かったです。
DF50は、なんだか素朴なデザインが良いです。好きな車両に入るので、Nゲージで買おうかと思ったら、パーツが多くて、ナンバーがインレタ作業というのが、あって、購入を見送ったことがあります。それでも、なんか、かわいい機関車って感じます。
無煙化、特に山間部では本当に切羽詰っていたんですよ。今でこそSLはノスタルジーの対象ですが、現場や客には相当嫌われてましたから。
酸欠で殉職したり定年退職を待たずに呼吸器疾患で落命した乗務員も少なくないですからね
うちの知り合いの話も汽車は着物が汚れるし中々落ちない、沿線火災の原因と散々でした。旅客列車から早急に無煙化が進むのはある意味当然の話でしたね。
昔の駅のホームには蛇口が何個も並んだ大きな流しがあって汽車を降りた客が顔を洗っていました。
新潟信越本線沿線民、子供の頃電化前遊んでいて蒸機が来ると暗黙の了解で石炭ガラの落下を避けて軒下避難。蒸機が遠ざかると遊び再開。まだ見ぬFE58が憧れだった!DF50は低速走行でも機関をかなり回してたので何でだろうと思ってた!😮
@@gambasuki様大阪駅のホームにもありました。1985年頃から駅の改装であちこちのホーム洗面所がなくなっていったように感じます。車内よりも広くて綺麗なので、座席夜行から降りたときなどホームで洗面と歯磨きしてましたね。
このコの失敗?で電気式DLは一回消える訳ですが…でも、時代に技術が追いきれなかっただけで、間違った方法じゃなかったのは後で産まれたDF200が証明したと思いますぅ。
内燃機関はアイドリング中でも出力が発生しているので、機械式や液体式では回転を遮断するクラッチなどの設置が必要とされる電気式は発電機を回転させることで間接的に駆動力を伝達する方式なので、停止中でも回転を遮断する装置が必要ないというメリットがあるまた、電動機から発生した電力で発電機を回し、エンジンに負荷をかけて減速するダイナミックブレーキの使用が可能なので、高速走行にも適していたこのようなメリットから海外では主流となったが、日本ではあくまでも軸重15トン以下の亜幹線向けでしかなく、諸外国と比較してもかなりの制限が加わっていたDF200は国産機関車としては初の特甲線向けの電気式なので、軸重が16・8tまで拡大されていたこれは日本ではこれまで本格的な本線用のディーゼル機関車の製造経験がなく、ハイテク機器のスピンオフが可能ということで電気式となった
1:56 迫真の製造会社アピールのDD50くんすこ
DF50は単機で8620並みの性能を目指した設計ですから 所定出力は出ていたんですが いかんせんこの当時の舶来物の常で ブラックボックス部分があったのが(これは後のDD54まで足を引きずる)痛い+この当時の現場は新機軸を習得するより自分たちの安寧にこしつ(固執 最近のATOKは変換する)してしまった部分があり…。宮崎のハコは富士も牽引していました。
1962年11月29日。国鉄羽越本線 羽越本荘〜羽後岩谷にてD51 637とDF50 548(貨車21両編成) が正面衝突したそうです。悲しい出来事ですよね(泣)
DF50はそこそこ粘りもあり山岳地帯で重連で客レや貨物を引いたり、補機として活躍しました。やはりあの独特のエンジン音がいいですね。無煙化に貢献したものの、C57を淘汰するのは厳しい😂ですね。C57も3、4次系になるとそこそこ強かったので残念ですがDF50は煙が出ないというアドバンテージだけかもしれませんね。個人的には好きな機関車ですが。
ワタシが小学校高学年頃にケイブンシャやコロタン文庫といった、鉄道ムック本で知った頃は西日本の数ケ所だけになっていましたね。しかしかつては北陸本線〜奥羽本線といった日本海縦貫線や長野付近など、かなり広い地域で使われたこともそこそこオッサンになってから知りました。北陸トンネル以前の杉津旧線、親不知の断崖を走る姿、秋田青森県境の矢立峠で補機に従事する姿…えっ?という記録がWeb上でも公開されています。主役にはなれなくても何かと使われていたんですね。
非力ですが、空転することはほとんど無かった…らしいです🎵1976年、山陰本線の保津峡を旧形客車でたどったのが、唯一の思い出です😃 懐かしいです❤️
コメントしてる人達の…平均年齢、かなり高いですよね
@@いいでしょなんでも-o3x それがどーした😀
彗星に限らず24系25形になった富士も担当していましたDF200よりコッチがすこw
DD54と異なり長く活躍した機関車でしたね。日豊本線での存在感は特別のものがありました。
軸重制限が厳しい日本では、重量が重い電気式は向いていなかった。
これが全てですね。日本とドイツを除く先進国では本線用ディーゼル機関車は電気式がずっと主流でした。パワーエレクトロニクスやエンジンそのものの進歩で軽量化が進んだことで日本でも電気式が使えるようになった流れです。
北海道では無縁の形式ですが、スタイルは好きな車両ですね。唯一北海道で試験された一両は冷却系の不凍液としてアルコールを入れたため、試運転で運転士が酔っぱらったと言う話もあるとか。
最後の生産年がDD51の生産開始と重なっていたのは恐らくですが海外製エンジン調達契約期間の都合だったのではないかと。電気式ディーゼル動力車が近年まで日本で普及できなかったのは狭軌(1067㎜)用の車体サイズに収める事が当時の技術で製造できた機材では困難だったのかなぁ?
DD51は1号機が登り勾配での牽き出し試験で800tまでしか牽けなかったので、翌1963年に増加試作機の2〜4号機が製造され、1270t牽き出しに成功。そのデータを元に1964年から量産が始まった。
他のコメントにあるように、サイズというより重さの問題が大きかったと言われています。JR(旧国鉄)在来線の車両限界は欧州の標準軌在来線と比べて長さを除けば特に小さいわけではありません(狭軌としてはかなり大きい部類)。
ドイツの技術力は世界一ィィィ???
ひんじゃく、ひんじゃくぅー‼︎
DLイチカッコいい
彗星とか紀伊なんかを思い出すよね〜
ディーゼル王国の四国で、DL全廃の意外性
後の「ななつぼし」牽引機の雛形である
ド51って読むたびに笑ってしまうw
うーん、やっぱりテールランプがやたら下の方にあるのが残念だ!
1983年は、昭和58年ですな。
何故か、北海道には配置されなかったんですよね。
小学生のこれ、よく亀山機関区に写真を撮りに行きましたね。 笑
0:11「オ...オレ、受け入れられてないのかなぁ~....😅」
まもなく新山口〜
結局マン社の500番台は1両も保存されず...
最後の扇は厚狭?
新山口かと
ズルツァー?スルザー?
余談ですが、DF50の0番代(スルザー)は三菱電機と三菱重工が共同制作していた縁なのか、DF200の試作車と0番代のMTUエンジンは北海道三菱ふそうが検査と修理を担当しているそうです
nゲーし
土讃線・高知駅で、旧客の普通列車を引っ張る姿を見ました。西鹿児島まで行っていた寝台特急「富士」の大分以南の牽引とか、華やかな運用もありましたっけ。
C57より少し性能が低いくらいなら十分成功と言えたのでは?
当時は無煙化が大前提で早く置き換える事優先で細かい性能は二の次です。重連総括出来るし。
まだ直流電気機関車にディーゼル発電機載せたレベルですから。
元々地方幹線向けで作られたので役割はしっかり果たしたのかなと。
今はパワーエレクトロニクスの進化でDF200とか作れますが。
四国に最後まで残ったのは使い勝手とパワーのバランスが丁度良かったのでしょう。
DF50の最大の功績は客車編成の急行旅客列車の無煙化。貨物列車はまだ蒸機でも何とかなる。でも冷房がごく限られた存在だった当時、特ロですら非冷房だった時代、夏場殊にトンネルの多い区間では難行苦行だった。旅客列車だけでも無煙化したい、特に優等列車は無煙化したい、それに答えたカマだと愚考する。非力な所は重連総括制御で乗務員も一組=当時は[列車]には助士が必ず乗務する必要があった。殊に単線区間では通表閉塞式が殆どでタブレットの授受に助士の乗務は必要不可欠だった=で済むのもありがたかった。やがて幹線系は電化され電機に後を託し、当面非電化の路線も輸送量の多い路線はDD51に後を託し亜幹線や支線区を主に担当するようになった。集中配置されたく所が少なくないのは車種を統一した方がMaintenanceに有利だから。
山陰本線でDF50牽引客レ、そしてオハ36のTopNumberオハ363(改造車ゆえに歯抜け附番)で益田~萩間乗ったのはもう半世紀前。アラカンオジンが田舎の中坊だった頃の思い出(^^);
あのレッドベアことDF200のご先祖さまでもある名機
総出力600kw(800馬力)じゃね。
『富士』を牽引しながらの宗太郎越えでは 30km/h台まで速度低下してしまったとか。
当時もっと軽量で高出力な エンジン・発電機・モーターがあって DF50が成功していたら
日本のDLは 海外のように『電気式』で発展したかもしれませんね。
最後の扇形に整列する『タラコ軍団』は 壮観です。
馬力だけで言えば、DD16とほぼ同じ。
亀山のDF50は、自宅から近かったので、よく追いかけました。
さよなら運転機に抜擢された57号機とお召し機26号機(お召し機のため白線がシルバーラインになっている)重連を撮影出来たのは良かったです。
DF50は、なんだか素朴なデザインが良いです。
好きな車両に入るので、Nゲージで買おうかと思ったら、パーツが多くて、ナンバーがインレタ作業というのが、あって、購入を見送ったことがあります。
それでも、なんか、かわいい機関車って感じます。
無煙化、特に山間部では本当に切羽詰っていたんですよ。今でこそSLはノスタルジーの対象ですが、現場や客には相当嫌われてましたから。
酸欠で殉職したり定年退職を待たずに呼吸器疾患で落命した乗務員も少なくないですからね
うちの知り合いの話も汽車は着物が汚れるし中々落ちない、沿線火災の原因と散々でした。旅客列車から早急に無煙化が進むのはある意味当然の話でしたね。
昔の駅のホームには蛇口が何個も並んだ大きな流しがあって汽車を降りた客が顔を洗っていました。
新潟信越本線沿線民、子供の頃電化前遊んでいて蒸機が来ると暗黙の了解で石炭ガラの落下を避けて軒下避難。蒸機が遠ざかると遊び再開。まだ見ぬFE58が憧れだった!
DF50は低速走行でも機関をかなり回してたので何でだろうと思ってた!😮
@@gambasuki様
大阪駅のホームにもありました。
1985年頃から駅の改装であちこちのホーム洗面所がなくなっていったように感じます。
車内よりも広くて綺麗なので、座席夜行から降りたときなどホームで洗面と歯磨きしてましたね。
このコの失敗?で電気式DLは一回消える訳ですが…でも、時代に技術が追いきれなかっただけで、間違った方法じゃなかったのは後で産まれたDF200が証明したと思いますぅ。
内燃機関はアイドリング中でも出力が発生しているので、機械式や液体式では回転を遮断するクラッチなどの設置が必要とされる
電気式は発電機を回転させることで間接的に駆動力を伝達する方式なので、停止中でも回転を遮断する装置が必要ないというメリットがある
また、電動機から発生した電力で発電機を回し、エンジンに負荷をかけて減速するダイナミックブレーキの使用が可能なので、高速走行にも適していた
このようなメリットから海外では主流となったが、日本ではあくまでも軸重15トン以下の亜幹線向けでしかなく、諸外国と比較してもかなりの制限が加わっていた
DF200は国産機関車としては初の特甲線向けの電気式なので、軸重が16・8tまで拡大されていた
これは日本ではこれまで本格的な本線用のディーゼル機関車の製造経験がなく、ハイテク機器のスピンオフが可能ということで電気式となった
1:56 迫真の製造会社アピールのDD50くんすこ
DF50は単機で8620並みの性能を目指した設計ですから 所定出力は出ていたんですが いかんせんこの当時の舶来物の常で ブラックボックス部分があったのが(これは後のDD54まで足を引きずる)痛い+この当時の現場は新機軸を習得するより自分たちの安寧にこしつ(固執 最近のATOKは変換する)してしまった部分があり…。宮崎のハコは富士も牽引していました。
1962年11月29日。国鉄羽越本線 羽越本荘〜羽後岩谷にてD51 637とDF50 548(貨車21両編成) が正面衝突したそうです。悲しい出来事ですよね(泣)
DF50はそこそこ粘りもあり山岳地帯で重連で客レや貨物を引いたり、補機として活躍しました。やはりあの独特のエンジン音がいいですね。無煙化に貢献したものの、C57を淘汰するのは厳しい😂ですね。C57も3、4次系になるとそこそこ強かったので残念ですがDF50は煙が出ないというアドバンテージだけかもしれませんね。個人的には好きな機関車ですが。
ワタシが小学校高学年頃にケイブンシャやコロタン文庫といった、鉄道ムック本で知った頃は西日本の数ケ所だけになっていましたね。
しかしかつては北陸本線〜奥羽本線といった日本海縦貫線や長野付近など、かなり広い地域で使われたこともそこそこオッサンになってから知りました。
北陸トンネル以前の杉津旧線、親不知の断崖を走る姿、秋田青森県境の矢立峠で補機に従事する姿…えっ?という記録がWeb上でも公開されています。
主役にはなれなくても何かと使われていたんですね。
非力ですが、空転することはほとんど無かった…らしいです🎵
1976年、山陰本線の保津峡を旧形客車でたどったのが、唯一の思い出です😃 懐かしいです❤️
コメントしてる人達の…
平均年齢、かなり高いですよね
@@いいでしょなんでも-o3x それがどーした😀
彗星に限らず24系25形になった富士も担当していました
DF200よりコッチがすこw
DD54と異なり長く活躍した機関車でしたね。日豊本線での存在感は特別のものがありました。
軸重制限が厳しい日本では、重量が重い電気式は向いていなかった。
これが全てですね。日本とドイツを除く先進国では本線用ディーゼル機関車は電気式がずっと主流でした。パワーエレクトロニクスやエンジンそのものの進歩で軽量化が進んだことで日本でも電気式が使えるようになった流れです。
北海道では無縁の形式ですが、スタイルは好きな車両ですね。
唯一北海道で試験された一両は冷却系の不凍液としてアルコールを入れたため、試運転で運転士が酔っぱらったと言う話もあるとか。
最後の生産年がDD51の生産開始と重なっていたのは恐らくですが海外製エンジン調達契約期間の都合だったのではないかと。
電気式ディーゼル動力車が近年まで日本で普及できなかったのは狭軌(1067㎜)用の車体サイズに収める事が当時の技術で製造できた機材では困難だったのかなぁ?
DD51は1号機が登り勾配での牽き出し試験で800tまでしか牽けなかったので、翌1963年に増加試作機の2〜4号機が製造され、1270t牽き出しに成功。
そのデータを元に1964年から量産が始まった。
他のコメントにあるように、サイズというより重さの問題が大きかったと言われています。JR(旧国鉄)在来線の車両限界は欧州の標準軌在来線と比べて長さを除けば特に小さいわけではありません(狭軌としてはかなり大きい部類)。
ドイツの技術力は世界一ィィィ???
ひんじゃく、ひんじゃくぅー‼︎
DLイチカッコいい
彗星とか紀伊なんかを思い出すよね〜
ディーゼル王国の四国で、DL全廃の意外性
後の「ななつぼし」牽引機の雛形である
ド51って読むたびに笑ってしまうw
うーん、やっぱりテールランプがやたら下の方にあるのが残念だ!
1983年は、昭和58年ですな。
何故か、北海道には配置されなかったんですよね。
小学生のこれ、よく亀山機関区に写真を撮りに行きましたね。 笑
0:11
「オ...オレ、受け入れられてないのかなぁ~....😅」
まもなく新山口〜
結局マン社の500番台は1両も保存されず...
最後の扇は厚狭?
新山口かと
ズルツァー?
スルザー?
余談ですが、DF50の0番代(スルザー)は三菱電機と三菱重工が共同制作していた縁なのか、DF200の試作車と0番代のMTUエンジンは北海道三菱ふそうが検査と修理を担当しているそうです
nゲーし