@@rossmary50650 I dare not refer to several descriptions recorded in ”Nihon Shoki(일본서기)" or "Kojiki (고사기)" here, for you Koreans obstinately reject to accept thoseones. Thence, I'm gonna take up one of the history books of China ("The Book of Sui (隋書)"),and the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図)" below:As for Silla and Baekje that had existed in the Korean peninsula: these kingdoms had been usually subordinate to Japan in ancient times.1. "The Book of Sui, " Vol. 81, Dongyi-zhuan 46 (隋書 東夷伝 第八十一巻 列伝四十六) saysas follows:"Both Silla and Baekje admired WA as a great nation with a plenty of things rare and precious.Therefore, they would often send their envoys to WA respectively."(新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來)2. According to the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図, Zhigongtu)"found in 2011, Silla had been subjugated not only to proto-Han (韓), but also to ancient Japancalled WA (倭): "Salo (斯羅) was originally a tiny state located in Jinhan (辰韓, 진한), Dongyi (東夷, 동이). This state was called Silla (新羅) during the time of Wei (魏), or called Salo (斯羅) in the reign of the Song dynasty (宋朝). These two states were identical. King of this state could not send his envoys to anywhere at his own will. It is because this state belonged to Han (韓) in one period, but was subjugated to WA in another." (斯羅國,本東夷辰韓之小國也. 魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也. 或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘.),.,:;
I dare not refer to several descriptions recorded in ”Nihon Shoki(일본서기)" or "Kojiki (고사기)" here, for you Koreans obstinately reject to accept thoseones. Thence, I'm gonna take up one of the history books of China ("The Book of Sui (隋書)"),and the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図)" below:As for Silla and Baekje that had existed in the Korean peninsula: these kingdoms had been usually subordinate to Japan in ancient times.1. "The Book of Sui, " Vol. 81, Dongyi-zhuan 46 (隋書 東夷伝 第八十一巻 列伝四十六) saysas follows:"Both Silla and Baekje admired WA as a great nation with a plenty of things rare and precious.Therefore, they would often send their envoys to WA respectively."(新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來)2. According to the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図, Zhigongtu)"found in 2011, Silla had been subjugated not only to proto-Han (韓), but also to ancient Japancalled WA (倭): "Salo (斯羅) was originally a tiny state located in Jinhan (辰韓, 진한), Dongyi (東夷, 동이). This state was called Silla (新羅) during the time of Wei (魏), or called Salo (斯羅) in the reign of the Song dynasty (宋朝). These two states were identical. King of this state could not send his envoys to anywhere at his own will. It is because this state belonged to Han (韓) in one period, but was subjugated to WA in another." (斯羅國,本東夷辰韓之小國也. 魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也. 或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘.)
歴史面白すぎる、日本史選択してよかった
白村江の戦いって日本史がわからなくなる一つ山場、こういう動画をみれる今の時代とうp主さんに感謝‼
東北大の先生が蘇我氏は新羅でユダヤ人って話してるな。
こうして見ると、秀吉の文禄・慶長の役と背景も目的も、全く違うというのが良く分かる。
いやー、面白い動画、ありがとうございました。他の動画も見させて頂きます。
豊璋か。
一部では豊璋と鎌足は同一人物と言う説が絶えないようで。
近年それを取り上げた書籍を読んで衝撃を受けた。
@@豊城之宣 百済王室と倭王室は一家ですからね
わかりやすいですありがとうございました😊
なぜ唐と新羅は攻めて来なかったんだろう??
面白い回でした!
結論から言えば唐と新羅は仲違いをするからだよ。
新羅は唐の属国化して同盟を結び、平壌より北は唐が、平壌より南は新羅が領有する約束だったが、半島が統一されると
「あー、おい新羅!お前のものはオレ様のものだよな⁉︎あぁん⁉︎属国の分際でなんか文句あるんか?」
てな感じで半島全域を自分達のものとして唐が振る舞い始めたから新羅が反抗し始めた。
結局、他国頼みの、特に強大国頼みの国防には常に危うさが付き纏う良い事例。自国は自国民が犠牲を払って守る覚悟の上での同盟が必要だと歴史が教えてくれている。
@@こうのあき-b8r とてもお詳しい解説くださりありがとうございました!なるほど、強国の論理と、共通の敵がいなくなったあとの争い、歴史は繰り返すって感じました。勉強になりました!
百済と高句麗を滅ぼした後、唐が半島の統治権を握ろうとしたので新羅と唐との戦争が起こります。戦争が終わったあとも百済と高句麗の残党勢力の問題もありますし、新羅の王権が強かった時期は短く地方豪族によって王が次々と交代させられることもあり領土の拡大に目を向ける暇がなかったと思います。
新羅は唐との戦争で勝利したと主張したものの、協力して滅ぼしたはずの高句麗の領土の殆どを唐に渡してしまったので、領土の拡大に目を向ける余裕があったとしてもまずは高句麗の地を取り戻すのが先だったかも知れないと個人的に思います。渤海という国ができたのでこれも叶わなかったですね。
限界灘を越えて継続的に戦うのは難しい
というか近代以前では成功した試しがない
元寇も朝鮮出兵も上手くいかなった
小学校二年生です。白村江の戦いがあるなら外国の話の動画も作ってください。
西暦512年でしたか、任那3県を日本から百済に割譲して、さらに新羅に滅ぼされても、百済を助けるという考えを納得しました(任那日本府はなかったという説もありますけんど)。日本が初めて国際紛争に関わった歴史ですね。
当時は今の日本国韓国とは違う海を渡る古代人たちの密接な運命共同体があったと思う
日本を作ったのは百済人
倭の五王は百宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。
安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。
安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。
上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。
河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。
瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。
私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。
*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。
宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名
「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]
「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]
「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]
「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]
「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)
・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。
「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)済王
@@rossmary50650 I dare not refer to several descriptions recorded in ”Nihon Shoki(일본서기)" or "Kojiki (고사기)" here, for you Koreans obstinately reject to accept thoseones. Thence, I'm gonna take up one of the history books of China ("The Book of Sui (隋書)"),and the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図)" below:As for Silla and Baekje that had existed in the Korean peninsula: these kingdoms had been usually subordinate to Japan in ancient times.1. "The Book of Sui, " Vol. 81, Dongyi-zhuan 46 (隋書 東夷伝 第八十一巻 列伝四十六) saysas follows:"Both Silla and Baekje admired WA as a great nation with a plenty of things rare and precious.Therefore, they would often send their envoys to WA respectively."(新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來)2. According to the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図, Zhigongtu)"found in 2011, Silla had been subjugated not only to proto-Han (韓), but also to ancient Japancalled WA (倭): "Salo (斯羅) was originally a tiny state located in Jinhan (辰韓, 진한), Dongyi (東夷, 동이). This state was called Silla (新羅) during the time of Wei (魏), or called Salo (斯羅) in the reign of the Song dynasty (宋朝). These two states were identical. King of this state could not send his envoys to anywhere at his own will. It is because this state belonged to Han (韓) in one period, but was subjugated to WA in another." (斯羅國,本東夷辰韓之小國也. 魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也. 或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘.),.,:;
唐の武則天って煬帝すら無理だった、打倒高句麗を果たした所か
百済もついでに滅ぼして援軍の日本軍も倒すとか凄い女傑だよね。
唐高宗時期消滅高句麗和武則天沒什麼關係
天智天皇46歳の若さで崩御してたんだ。もっと長生きなイメージだった。
今の46歳と飛鳥時代の46歳を同じと思ってはいけません!
白村江の戦いと日清戦争の目的は同じだと思う。朝鮮半島を緩衝地帯にするための自衛の意味が強い。
唐と戦って、何事もなかったように遣唐使をやれるのはどういう仕組みかな
実際には唐によって今のアメリカ軍みたいに九州に軍隊を置かれていたとする説もある
それに遣唐使ってのは言葉を変えただけの朝貢だから、軍門に下るのなら基本中国は寛大だしね
@@ゴリゴリ-k1l 最近の研究だと新羅、百済の援軍に唐、日本は兵を出したが当事者はさっぱり戦わないで自分たちに押し付けてくるのですでに日唐で休戦になっていて、日本引き上げ時に新羅、百済のどちらかが戦闘を起こして混乱したのがこの戦い。
@@00kumakuma
その研究ってどこで見れますか? 面白そうで気になります
百済だけに「下らない」戦争に首を突っ込んでしまった。
くだらないとは新羅つな……
百済のようにはなるなよという意味でしたか
それでも日本は唐に降らない
日本軍しっかりと大敗してて草
まぁ伝説の武士とか言ってるのはネトウヨだけだしなwvあー迷惑w
下らない語源は百済ない、百済ないものじゃないとつまらないとか面白くないという意味
そうなのか…。
白村江の戦い、実は福岡に地名が残っている戦いのです、一つは大野城市、基山町、これは、お城に関係あった
もう一つは白木原(大野城市)、水城(大野城市、太宰府市)原田(筑紫野市)?です
なぜ日本に百済の王子豊璋が人質でいたのでしょうか?
百済が属国だったから。
@@天子-y7i 개소리하네 ㅋㅋㅋ
違う人質じゃなくて派遣、武寧王の弟が継体天皇で豊章は後に藤原鎌足になる
倭の五王である讃、珍、済、興、武全部百済王、だから天皇の祖先は百済王になる訳
@@rossmary50650 백제가 속국이였다는 역사적 근거를 말해봐라 ㅋㅋ 말할수 있겠니?ㅋㅋ 말못할걸? ㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋ
騎馬が無いってキツイな
高句麗は動かなかったのですが!
听不懂,但基本看的懂
百済王室と倭王室は一家なので助けに行くのは当然なこと
唐と新羅の関係性が真逆です!
この頃はやっぱり50歳前後で亡くなってしまうものなのか
50歳前後でもかなり長生きだと思います。
何で出向いたのか・・・?
迎え入れた方が有利かと思うが・・・?
船が難破する事もあったろうに・・・?
中大兄皇子好きだわ
白村江(ハクスキノエ)👏
読み方は色々あるらしいです。
新羅はやってることが金日成と同じだな
😄
豊しょうの弟の、百済の第6王子の扶余善光は、善光寺開祖の本田善光だって説もあるっけど本当なんでしょうか?
白村江 私らははくすきのえと習ったが最近ははくそんこうと呼んでいる。何故?
宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋・南宋・南斉の首都・建康(南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。
安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。
安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。
上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。
河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。
瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。
私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。双方の資料に集中して分析してみました。
*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。
宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名
「賛」→須=(餘・須・第14代・近仇首王):[貴須王]
「珍」→余映=(餘映・第18代腆支王):[直支王]
「済」→餘慶=(餘慶・第21代・蓋鹵王):[加須利君]
「興」→牟都=(餘都・第22代・文周王):[汶洲王]
「武」→牟太=(牟大・第24代・東城王):[末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)
・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。
「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
筑紫ってつくしじゃないのか
日本史のタブーなのであまり詳しくは話しませんが…なぜ大和朝廷は関係のない朝鮮半島の情勢に首をつっこんだのか?なぜ白村江の戦いにおいて九州の筑紫君磐井は大和朝廷軍の進行を邪魔したのか?(磐井の乱)
実は、天皇や大和朝廷というものを作ったのは、当時、朝鮮半島南部から渡来してきた人々であったからなのです。(当時の朝鮮半島南部には任那日本府があり、前方後円墳も多数出土しています。)また、これには九州王朝説も絡んでいて、結論から言うと、九州と本州の渡来人は全くの別物なのです。本州の渡来人が2世紀〜3世紀頃、朝鮮半島南部の任那、伽耶と呼ばれる国々から滅亡して近畿や山陰地方へ渡ってきて天皇を作った人々なのに対して、九州の渡来人は紀元前3世紀〜紀元前2世紀頃、春秋戦国時代の呉越という楊子江沿いにあった国が滅亡した際、舟で有明海や博多湾へ渡ってきた人々のことなのです。
九州の筑紫君磐井が唐・新羅軍と手を組み、大和朝廷軍の進行を邪魔したのはこのためです。(磐井の乱)
なお、九州へ渡来した人々と紀元前3世紀〜2世紀、春秋戦国時代に長江下流の呉越から亡命した人々とを結びつける考古的理由は以下になります。
1.佐賀県三津永田遺跡と山口県土井ヶ浜遺跡から出土した弥生人の人骨と長江北岸の揚州市の前漢墓から発掘された13体の人骨の内、2体の個体とミトコンドリアDNA及び頭蓋骨の数値が一致したこと。
2.吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かったこと。(当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であった。)
3.吉野ヶ里遺跡で出土した墳丘墓の土塁構築技術、木製の農具(杵)が、中国江南越王陵から出土した類と同じ作りであったこと。
ここから推測するに、当時邪馬台国があったのは、近畿ではなく、中国との結びつきがあった北部九州王朝ということになります。
磐井の乱 527年
白村江の戦い 663年
斉明天皇も崩御しているのに百済なんか助けるべきではなかった。助ける根拠の解析が甘い。
再名天皇が崩御してたから到着が遅れたってきいてたんですけど違いましたっけ
そりゃ天皇家も日本も百済人を含む渡来人がつくったんだから故郷みたいなもんだろ、助けに行って当然
👀
현 영국과 미국처럼 고대 백제 일본 혈맹 형제국 일본의 어원 태양이 밝다제
I dare not refer to several descriptions recorded in ”Nihon Shoki(일본서기)" or "Kojiki (고사기)" here, for you Koreans obstinately reject to accept thoseones. Thence, I'm gonna take up one of the history books of China ("The Book of Sui (隋書)"),and the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図)" below:As for Silla and Baekje that had existed in the Korean peninsula: these kingdoms had been usually subordinate to Japan in ancient times.1. "The Book of Sui, " Vol. 81, Dongyi-zhuan 46 (隋書 東夷伝 第八十一巻 列伝四十六) saysas follows:"Both Silla and Baekje admired WA as a great nation with a plenty of things rare and precious.Therefore, they would often send their envoys to WA respectively."(新羅百濟皆以倭為大國 多珍物並敬仰之 恒通使往來)2. According to the cutline of "The Portraits of Periodical Offering (梁職貢図, Zhigongtu)"found in 2011, Silla had been subjugated not only to proto-Han (韓), but also to ancient Japancalled WA (倭): "Salo (斯羅) was originally a tiny state located in Jinhan (辰韓, 진한), Dongyi (東夷, 동이). This state was called Silla (新羅) during the time of Wei (魏), or called Salo (斯羅) in the reign of the Song dynasty (宋朝). These two states were identical. King of this state could not send his envoys to anywhere at his own will. It is because this state belonged to Han (韓) in one period, but was subjugated to WA in another." (斯羅國,本東夷辰韓之小國也. 魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也. 或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘.)
大学受験のためにはこの内容でいいと思いますが、実際はこうです。中国南朝系とずっと付き合っていた九州にあった倭国(倭の五王を輩出)は北方系の隋、唐を下賤な出自とみなして正当な王朝として認めていませんでした。そして唐・新羅連合軍と戦い敗れ、唐の軍隊に駐留されてしまいます。奈良にあった推古天皇等の王朝は唐と遣唐使で国交があったので、白村江の戦いで事実上滅亡した九州の倭国にとってかわって日本列島の盟主となります。そして唐の援助を受けながら日本を中国風にしていくのです。
・九州倭国を建国したのは句呉の王族。(中国史書に記載あり)
・九州倭国の王族の末裔は諏訪氏。(古事記での天皇家との対比的な記載、続日本記にある「須羽国」と坂上田村麻呂伝説。)加えて、日本書記に記されてる安曇氏や物部氏などと関係が深い(例えば白村江で活躍した安曇比羅夫や、倭国の大豪族だった物部守屋。)※松野蓮は恐らくスケープゴートとして利用する為に「創作」された氏族。
・諏訪大社の建造年月日を証明する「元諏訪社」が阿波にあるのに日本書記や古事記は無視してる。ちなみに推古天皇が科野の諏訪神社に使者を送ったと記載されてるけど、この時期「科野」に諏訪神社はひとつもない。
※流山市の諏訪神社が大ヒント。ネットで得られる情報はネトウヨに手が加えられてる可能性大。
・奈良時代、山上憶良が「貧窮問答歌」を書くくらい当時の日本の食料自給率は低いのに人口が増えてるという記載あり。(日本書記か続日本記か忘れたけど。)
他にも調べればまだまだ出てきますよ。現皇室の初代は光仁天皇でしょうね。そして、志貴皇子=夫余豊璋では?倭国と百済は昔から民の移動が頻繁に起こってる記載がいろんなところにあります。例えば菅野氏も百済人だし、和氏も百済人。阿花王も若い頃は倭国にいたらしいです。
藤原氏の先祖はそんな百済から倭国に移住した百済の元貴族か元王族の一族だったのではないでしょうか?倭国に亡命して来た百済の最後の王子(志貴皇子=夫余豊璋)を擁立する為に暗躍した可能性が高いです(藤原京での高市天皇暗殺→元々小国だった日本が倭国を吸収by中国史書。いわゆる「天武系」は井上内親王を最後に滅亡→日本王族の滅亡。倭国の元王族の嫡流で日本国では貴族化してた橘家から嵯峨天皇の妃へ→現在...)
長くなりましたが、中国史書との整合性を考えたら、こうゆう話になります。
@@鼻毛-b8q
とても詳しい返信ありがとうございます。参考にさせていただきます。
二三コメントしますが、
・句呉の王族とは元周族の太伯のことでしょうか?出典の中国史書が知りたいです。
・諏訪地方については出雲系の人々がまず勢力を伸ばした認識をしてます。その後海洋系の安曇氏や物部氏も影響を及ぼしたでしょう。
・阿波の文献は宝亀十年でしょうか。勧請としてはよいですが創建とみるには新しすぎます。各地の神社の由来をみると文字でわかるのはだいたい八世紀前半までです。しかし社が建てられる前から縄文人は山や森に神聖なものを感じ祀っていたと思われます。その流れでの御柱祭りです。
・天武の正体は天智の実の弟ではない仮定で研究をすすめていますがなかなか答えが出ません。
鼻毛さんのコメントはとても助かりました。ありがとうございました。
@@kenn8438
私も調べていたのが5年以上前なのでうろ覚えですが、確か「魏志倭人伝」に「倭国の人達は自分達の事を太伯と虞仲の苗裔であると名乗った」と書かれています。
すいません、ここは後で調べますね。
神社の歴史が新し過ぎるのでしたら、古事記なんて書かれたのは室町時代ですよ?写本だなんて言われてますが、元本が無い以上、写本が一番古いって事になります。
そしてなぜ、諏訪氏=九州倭国の王族の末裔である、という結論に至ったかと言うと
①元諏訪神社(タケミナトミ神社)の存在。諏訪大社は779年にこの元諏訪神社から遷宮されたと書かれている事。※ちなみに672年に建てられたとされる諏訪神社が北信州にはあります。奇しくも天武天皇が都を築こうとした伝承がある地です。
②諏訪円忠が書いた諏訪大明神画詞には「応神天皇が生まれるのと同時に建御名方が生まれた」という記載があり、東北では八幡神=建御名方と同じ神であると見做して祀られていた事
③流山市の諏訪神社の伝承では「高市皇子の末裔が科野の諏訪大社から805年に分祠した」とあります。諏訪大社創建が779年です。
④建御名方の妻は八坂姫で、信州では八坂姫は穂高神の娘とされていて、その穂高神社の祀っている人物こそ白村江で活躍した「安曇比羅夫」で、しかも安曇野は「安曇氏終焉の地」とか言われてます。ちなみに「続日本記」には「諏訪国」なる国があったんだそうです。しかも地元の伝承で「八面大王」なるものがあります
@@鼻毛-b8q
とてもお詳しいので参考になります。
神社の歴史が新しすぎる件ですが、元々山岳信仰や磐座、ミシャグジや瀬織津姫を調べていたので天武朝の宗教改革(各地の祭神書き換え)後の記録は新しく感じてしまいました。
三輪山はご神体が山そのもの、ミシャグジは諏訪地方にも多く見られる石神信仰ですね。
諏訪氏についてはまたあらためて調べたいと思います。
ご指南ありがとうございました。
妄想ですね
from very old time japan was looking foward to invading the mainland and expanding
新羅と百済の間には伽耶諸国あったやん。忘れちゃダメよ。
562年 伽耶諸国滅亡
663年 白村江の戦い
지금의 한국어는 신라어의 연속. 그 때 백제가 통일했으면 아마 지금의 일본어와 더 비슷하지 않았을까?
백제는 일본의 친구