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そういえば、子供の頃は食堂車からの放送がありました、懐かしい。今考えると食堂車って豪華な設備ですよね。今はスピードだけは早くなったけど、効率優先で食堂車どころか車内販売もなくなってしまいました。世の中の余力がなくなってしまい、この頃よりもずっと貧しくなってしまったのかもしれないですね。
帝国ホテル、今でも日本一!外資系には負けないで😊
懐かしい! ちょうど国鉄最後の年に帝国ホテル列車食堂でバイトしてました。バイトなので車内販売だけでしたけど、色々細かく注意されてたのを思い出します
うちの嫁も列車食堂の21組で働いてましたよ。
@@waverheat8164 そうなんですか。何組とか全然覚えてないんですよね。博多往復と岡山往復をしてたって事くらいで。。。 泊まりだと少しは観光とかできるのかと思っていたら、会社のバスで街から離れた宿に連れていかれたから、外出なんて全くできなかったんですよね( ´∀` )。あと、女性は上下関係が中学の部活かって感じに厳しかったのも記憶にあります。
@@emic1497 上下関係が厳しいのはどの世界でも一緒たね、と酔っ払い嫁が言ってます😅うちの嫁はそこんとこ要領が良すぎたのか、結構観光してましたよ🤣
まさかの黛チャイムwwしかも綺麗な高音質で60年代後半から70年代ごろですね。
昭和48年の夏休み大学一年生の時に、新幹線の車内販売のバイトしていました。自分は、日本食堂、当時は、岡山まで、青春の思い出です。
私も日本食堂で車内販売のバイトしてました。昭和50年代でしたが。新大阪を基準に東京や福岡に行ってました。
@@ぺんぎん-h5z 自分は、東京でした。まだ福岡まで開通してませんでした。新大阪の日本食堂の寮に宿泊してました。
初めて新幹線に乗ったとき、食堂車でカレーライスを食べました。それからは100系新幹線食堂車が廃止されるまで必ず食堂車でカレーライスを食べました。それと車内販売もよく利用させてもらいました。新幹線のコーヒーは高いけど、美味しいですね。
違う会社で車内販売をやったことがあります。これは流石に帝国ホテルですね。丁寧で驚きです。
貴重すぎて拍手しかないです。
6:04 貴重な黛チャイム!
私の亡くなった父親が帝国ホテルの食堂車で働いていました。当時は151系はとで岡山、広島方面まで乗車してたそうです。新幹線勤務はしてませんでした。
これは素晴らしい❗️大変貴重なものをありがとうございます。
小学生の時はじめて0系新幹線に乗ってサンドイッチ買ってもらって食べた。今のコンビニの物と比べれば味は劣っていたと思うけどおいしかった記憶しかない。思い出に勝るもんないな。
よくこの様な貴重かつ珍しい映像がアップされましたね。最初の女性が可愛いです。
これは中々貴重な映像はめったに見られない程であります、ビュッフェの仕事と車内販売をされていたのがあの有名な帝国ホテルの従業員だったのに驚いてます、余談ですが私が子供のときは亡くなった父親にビュッフェに行きたいとお強請りして連れて行ってもらいカレーライスを食べた思い出があります、今のJRの新幹線はビュッフェがないのが残念でなりません、これぞ昭和だなと肌で感じました、貴重な映像を見せてくださいましてありがとうございます。
新幹線の食堂車・ビュッフェ営業が全て帝国ホテルだった訳ではなく、4つの業者に営業担当が割当てられていました。担当業者は以下の通り日本食堂・帝国ホテル・都ホテル・ビュッフェとうきょう尚、上越新幹線では日本食堂の他、在来線特急「とき」の食堂車営業担当の実績がある「聚楽」が一部列車のビュッフェ営業を担当していました(東北新幹線は日本食堂のみ)当時の時刻表の新幹線のページには各列車の時刻の下に食堂車・ビュッフェ担当業者が記載されておりお目当ての食堂車・ビュッフェ業者を選んで列車を決める利用者もいたようです。尚、「ひかり」の食堂車とビュッフェは同一業者が担当、食堂車とビュッフェ業者が同じ列車で異なるということはありませんでした。在来線の特急食堂車、急行ビュッフェは新幹線開業後、日本食堂が殆ど独占、一部に聚楽、鉄道公済会が営業担当する列車が見受けられました。
日本を出て30年ですが、今は食堂車が無いのですか……?信じられません。どうして?
@@MizuBangkok さん列車のスピード化と駅構内や周辺と全国各地にコンビニやファミレスが出来た為、車内での供食に必要性が無くなってしまったのが主な原因。従って、車内販売も風前の灯です。
@@uka_bluesさま、ありがとうございます! 食堂車で楽しむことができなくなったのは残念ですね、、。
車内ビュッフェ、懐かしいなぁ。子どもの時に乗ってワクワクした。
いやぁ本当に当時の新幹線のサービスは充実していたのですね。ビュッフェも車内販売も売店も華やかだったのですね。しかし、時代の変化が進むにつれて当時のようなサービスがもうなくなってしまいましたね。貴重な映像をありがとうございます!
ビュッフェという言葉、新幹線で教わったなぁ〜子供の頃家族でよく乗ってすぐビュッフェか食堂車に行っていた😊
冒頭の売り子?のお姉さんの笑顔が魅力的だったので、思わず観てしまいました。乗ったことはあるけど、ビュッフェに行ったこともないし、485のサシにも行ったことがないので、そんなに身近には感じられせんでした。そんなわけで、帝国ホテルはもちろん知らないけど、日本食堂ってのはなんとなく覚えてます。
接遇のマナーは大変勉強になります。
13:06三歩進んで二歩下がるぐらいが標準のワン・ツー パンチなのですそして何より汗かきべそかき歩くのが正しい歩き方なのです。
水前寺清子さんが歌う、365歩のマーチですね。
いつの時代も接客業は大変や🥺この接客教育は日本の誇り きめの細かい心配り 接客業の皆様これからも宜しくお願いします😀
この時代の頃は、飛行機や新幹線、特急や急行といった優等列車はセレブな人達向けの乗り物であり、その客層に合わせたサービスが求められました。帝国ホテルなみの接客サービスが当時は機内、車内で必要とされていました。(今だと、旅客機のファーストクラスの感覚かも)
こういうおもてなしの起源は確か韓国ですよね!日本は早く昔の罪を認めて独島の軍事制圧をやめて謝罪すれば今に韓国の高速鉄道にも追い付けると思います!
今一度思う。新幹線の食堂車復活してほしい。もしくは車内販売車両も。できるのに何故取っ払ってしまったのか。今現在でも「新幹線車内販売」の販売員に驚く諸外国人はとても多い。日本人では気付きにくい「日本らしいおもてなし」に感動している のが実情。
SessionClubJapanさん新幹線から食堂車やビュッフェが無くなったのは、飛行機の低料金化に伴う競争の激化や、コンビニの発達に伴う利用客の低迷が理由と言われていますね。
@@小川孝弘-g5w さんもう一つ、自由席混雑時に食堂車やビュッフェでビールやコーヒーだけを注文し居座る一部の非常識な利用者の為に回転率が悪く赤字に拍車をかけたというのもあるようです。
社会やモラルが
食堂車の廃止は毎年増加し続ける旅客数に対応する為赤字の食堂車を廃止してその分の座席数を確保する為でもありました。新幹線の食堂車は全廃される10年位前から帝国ホテルを最初に各業者の列車食堂からの撤退が始まっていました。
凄い昔の新幹線て帝国ホテルの社員がサービス提供してたのか今より高級感がありすぎる
帝国ホテル列車食堂のビーフシチュー ビーフカレー シャリアピンステーキ美味しかったです。サービスも他の三社より良かったし味も他の三社より美味しかったです。都ホテル列車食堂も美味しかったです。
@@ケンケン-t9x3t 食堂車サービス復活させたら今の時代なら目玉サービスになるはずでいいと思います 新幹線も昔とは違い北海道、九州まで距離伸びてるわけで
@@KeruskKu kero suke様確かに新幹線も東京~新大阪は時間が短くなったので食堂車は回転も悪くピュッフエ社内販売10人近くのスタッフを使うとなれば赤字になりますよ。昔はコーヒーは車中で買うしか有りませんでしたが今はコンビニで買えますからね。社内販売を使わなくてもコンビニで賄えますからね😓弁当も昔と違い色々な種類も買えますからね😢然し此れだけ食堂車の復活の声が有るなら帝国ホテル当りなら出来そうな気がしますけどJR東海は食堂車とビュッフェで2両も使うとその分売上も減るから今のJR東海はOKを出さないでしょう‼️大学次代帝国ホテル列車食堂では有りませんが新幹線の車中販売でバイトした事が有りました。
これは貴重な画像ですね。
タイムマシンがあったら乗ってみたい。でも、今のお札や硬貨は使えないのが残念。
今となってはビッフェで食べてみたい。
凄く丁寧で分かりやすい手引きですね。
車販の雑貨(コーヒー)ワゴンは折り返しの際に先頭のデッキに出ると必ず運転台のドアをノックして運転手にコーヒーをサービスすることになってました。運転手や車掌はいくら飲んでも無料なので、代わりに検食カードというものを書いてもらうのですが、気の利いた方は検食個数を3や4と書いてくれました。つまり、その分が浮くので結構なお小遣いになりました。列車食堂勤務の懐かしい思い出です。
国鉄と車内販売(日本食堂…等)の関係性は、遠い過去の、懐かしい現実。
東映の新幹線大爆破の映画作品でも、車内販売員の方が千葉真一さん演じる運転士にコーヒーの入ったカップを、渡すシーンが有ります!
貴重な映像ありがとうございます😊
とても興味深く見させて頂きました。言葉遣い、現代では多くの良い言葉が失われている事再認識します。
ブッフェ復活して欲しいです。
いやぁ とっても興味深く見入ってしまいました。面白い面白い。帝国ホテルさん以外にもこういうのがあったら見てみたいです。都ホテルとか日本食堂とか。あと、蛇足ですが、ワゴン販売の前列にある週刊誌、新潮・朝日・サンケイとかまんべんなく映してますねww
他の動画でもコメントしましたが、速度が上がったためにビュッフェ、社内販売が無くなりましたね。
コンビニやファーストフード店が普及したのも原因でしょうか?
親父が浜松のホンダで働いていたので年に数回 東京から母と兄弟で新幹線で会いに行っていました。食堂車も利用した事あるけどここまで教育が行き届いていなかったような気がするんだけどな。昭和50年前後の話ですが。
最初のBGMは花のサンフランシスコですよね
車内販売と言うと日本食堂さんだけの専売特許かと思ってましたが天下の帝国ホテルがビュフェを展開してたとは驚くばかり!!当時に戻って一度でいいから食べてみたかったなぁ!!
1973年4月号の鉄道ジャーナル誌をいまだに保存しております。東京駅から博多駅までに食堂車と車内販売さんを密着取材した泣き笑いのドキュメントです。タイトルは「花咲くみずほの乙女たち」若いピチピチの女性の本音が聞こえてその裏話に感動しました。「喫茶店持ちたいからこの仕事を選んだ」など。当時は夜行列車最盛期、一列車8人のクルーで回していました。博多の都ホテル営業所から始まる。点呼受け上りあさかぜから勤務開始~東京着いてその日は都ホテル宿泊施設で一泊する。下りあさかぜで博多に帰る。そして休日❤次の勤務は博多に着いたみずほから業務を引き継ぎ熊本へその日折り返しのみずほで東京へやはり都ホテル宿泊施設で一泊してみずほで博多へ、業務引き継ぎして営業所で点呼受ける。点呼はコック・ウェイトレスさんも制服のまま。そして休日❤その循環システム、彼女らは一航海と呼ぶ。「他の組には負けたくないから頑張る」との意見でした。なるほど博多営業所だけで4組40人程が必要な計算になる。皆、今は還暦迎えたか?お疲れさまでした。
素晴らしいの一言です
0系車両で、東京~新大阪間が3時間10分かかった時代。新幹線だけでなく在来線の特急、急行などの優等列車に食堂車やビュッフェがついていた時代。いま、50歳の私が小学校に入学する前のお話ですな。でも、1970年代は飛行機や新幹線を含めた優等列車は庶民には高嶺の花の乗り物で、新潟県の母に実家に帰省する時も上野からずっと新潟行きの鈍行に乗り通しでした。ごくたまに、特急や急行に乗れると嬉しかったですね。
この映像は素晴らしいですね。今食堂車があるのは近鉄特急しまかぜだけですからね。
サフィール踊り子もあるよ!
@@coziyftv78 さんおはようございます。サヒフィール踊り子にも食堂車があったんですか。私は知りませんでした。サヒフィール踊り子は狭軌用車両のブルーリボン賞候補ですよ。因みに標準軌用車両のブルーリボン賞候補はひのとりだと私は思っています。
当時の新幹線の客室ドアは手動式なんですね。
最初と最後と、12:16から1分半くらいの間の車内販売の女性、島崎遥香にものすごい似てる☆
サムネの女性、修学旅行の車内で代わる代わる写真を撮ってもらった方かも!(昭和57年)
この頃の「おもてなし」は、今とはレベルが違いますね
なんせ、帝国ホテルの正規従業員が乗車して指導にあたっておりますのでレベルが違います。1970年代くらいまでは、飛行機や新幹線、在来線の特急、急行といった優等列車などは社会的にステータスのある人達向けの乗り物であり、そういった人達に向けられたサービスが求められていました。一般庶民には高嶺の花だったのです。
その昔、大きなターミナル駅にあったレストランなどでも、労働者は職種を問わず正社員雇用でしたからね
勉強になりました。
東北新幹線で混雑しているときに、車内販売から釣り銭貰うときに「手出して」って言われたことあるよ。🍶東海道新幹線と違うね🤣
懐かしい‼当時バイトが平気で、運転席にあがってね☺新神戸からさきが一人乗務になったんでさ?だれも見てないからね。
ビッフェは1編成に2両あったのですね
急行「せっつ」「なにわ」「宮島」や特急「つばめ」「はと」と共通編成化される以前の「こだま」もビュッフェ2両連結でした。
キハ82の白鳥は食堂車が2両でしたな。
世界一と言われる日本のサービスの質の高さは成程と理解できます。培ってきた歴史の土台の重みが違う。ここまで徹底して、かつ懇切丁寧に社員を教育する事は、外国ではあり得ない。日本が世界に誇る文化です。
黛チャイム、この動画で初めて聴いた。地震速報かと思った。これじゃ乗客は何か不安になるわな。
4’53”あたりから流れる曲「♪ひとつぶの涙/フランク・プゥルセル・オーケストラ」突然始まってびっくりしました😅
見た目はビュッフェですが、提供されるお料理やサービスは、食堂車に近いですね。👀本当に素晴らしいです。おもてなしの心、というものは、日本の誇るべき伝統であることを、再認識させて頂きました。ありがとうございました。
昭和43年初めて乗ってビュッフェを利用しました。どのメニューも高くてカレーしか食えなかったw それに結構揺れるし狭いし、落ち着いて食べられない。何しろ時速200km近くで走っているから、揺れ方もゆったりでなく小刻みで早いんだよね。消化不良になりそうだった。
懐かしい。小学生一年で名古屋に単身赴任した父に会いに母とよく乗りました。新幹線で食堂車があると付加価値が着くのにコスパばかり求める日本の体質は寂しいですね。デフレが悪い❗️
写真に写っている従業員たちは、今は70を超える高齢者。それにしても車内販売、食堂車で働くお姉さんたちは この時点でまだ「生娘」か❓美人ばかり。
当時の国鉄はビッフェや車内販売を民間の帝国ホテルに委託していたんですね。
日本食堂・帝国ホテル・都ホテル・ビュッフェとうきょうの4社が担当。時刻表各列車下段にビュッフェ(食堂車)担当業者が記載されており、担当業者の好みで乗る列車を決める方もいたそうです。
今の新幹線の車内販売は、簡素化されていて、帝国ホテルの面影を感じない。もっとも、それ故に誰でも非常に気軽に利用できるという利点もあるのだが。500円札が現役だった頃に生まれていないから、どんな感じなのかわからないが、想像するだけで畏れ多い。
@@Monday1717 さん現在の社内販売は『こだま』『ひかり』(一部)→営業休止『のぞみ』『ひかり』→東京ー新大阪→『新幹線パッセンジャーズサービス(SPS)』新大阪ー博多→『JR西日本サービスネット』
上越線の特急や急行、その後の上越新幹線では聚楽による営業もありましたな。(*´・∀・)テーブルクロスがチェック柄だったりと、他社と差別化していたようです。
Imperial hotel Excellent‼️☺️
10:36 ☎「お客様、東京→大阪間、3分以内で400円でございます」って今でも高いと思うのに、当時の貨幣価値だとべらぼうな値段ですよ、これは。まぁ、当時の最近技術を駆使していたわけですからねぇ。
昭和22年、団塊の世代のうちの母は社員旅行で初めて新幹線を乗ることになった時、会社から「新幹線に乗るから、正装で来るように」と命じられたと言っていた。俺は用事で名古屋から新大阪まで乗った時、ジャージにサンダルでグリーン車に乗った。時代は変わるものだ。だから、そろそら黛チャイムを復活させよう。こだまでですか?いいえ、ひかりも、そしてのぞみも。
お釣の500円札(旧岩倉B号券)に、時代を感じる…
ばあちゃん家を立て替える時に蔵から見つかったのですが虫食ってボロボロでした。
素晴らしい!帝国ホテルのサービスだったんですね。是非、今一度ここで使われてる日本語を参考にしたいですね。外資系航空会社の日本人乗務員へのサービスレッスンにも取り入れていただきたいです。
ブュッフェの復活を願うコメントが多数見られますが、残念ながらコンビニやファーストフード店が普及した現代では採算とれるはずがないですね。
仰る通りだと思います。まず、人材確保が難しいと思います、一列車辺りに食堂車と車内販売スタッフだけでも、調理師とサービス係を入れて7~8人は必要です。そして、普通の厨房と違い、狭く揺れる厨房での調理には、高い技術が要求されると訊きます。東海道・山陽新幹線やブルトレ全盛期だった頃までの在来線特急でも、一部のメニューを除いて、基本は車内厨房での手作りだったそうで、焼き物や揚げ物の肉の筋切りや海老のハラワタ取りと牡蠣の下拵えも全て揺れる厨房で、オーダーが通ってから行っていたそうです。ハンバーグステーキは、セントラルキッチンでタネだけは作り、厨房ではオーダーが通るとパットに入ったタネを冷蔵庫から取り出し、ハンバーグ一人前を手に取り、形を整えてからフライパンで表面を焼き、更にオーブンで火が通るまできちんと焼いたあと、ソースで味を付けるという丁寧な仕事をしていました。今、このような仕事を求めれば、かなり高額な商品提供になるでしょう手作りのハンバーグステーキセットなんて最低でも3000円くらいになってしまうかも知れませんね。
いつ急停車するかわからない、揺れる車内で揚げ物を作るのは嫌ですな。((( ;゚Д゚)))
この動画の記録は帝国ホテルさんのものだったかw新幹線の食堂車・ビュッフェ・車内販売の業者さん、「帝国ホテル」「ビュフェ東京」「日本食堂」および「都ホテル」の4社で鎬を削り合いながら切磋琢磨に励んでいたもんなんですよね😁😁
上越新幹線でもビッフェは営業していたんだな!距離が短くても!
それに加えて、上越新幹線は日本食堂の他、聚楽がビュッフェと車内販売を担当する列車がありました。在来線特急「とき」の一部列車の食堂車・車内販売担当の実績があった為だと思います。在来線食堂車担当の時代は、中華料理が人気メニュー(ラーメン類はなし)で、これは日本食堂にはない聚楽オリジナルでした。
@@uka_blues さん聚楽は、群馬県水上温泉・新潟県越後湯沢に、系列ホテルがありましたからね。
かっこいい
スーツの喋り方みたい
それな
www
N700A各編成,N700Sの2車両[❽号車・❾号車]を食堂車,愛称は“ダイニング700”改装希望
サムネの女の人は現代的な外見だな。榮倉奈々に似てる。
多少高くてもいいから、せめて東北北海道新幹線には食堂車置いてほしい。そしてこの時代のような教育の行き届いたサービスで外国人観光客をもてなしてほしい。
[A]カロハネロハシユ二テフ24さんJR北海道が、車販を廃止したので、それは無理でしょうね。
電子レンジで温めるだけなら、食堂車は要りません。やはり、オーダーが来てから煮たり、焼いたり、揚げたりでないと。東海道・山陽新幹線の食堂車はオーダーが通ってからの調理が基本でした。カレーやシチューはセントラルキッチンで調理したソースを鍋で温め、オーダーが入るとレシピに従った肉や野菜を焼いてからソースに加えていたそうですし、ハンバーグステーキもセントラルキッチンでタネまで仕込んだ物を冷蔵庫に入れておき、やはりオーダーが通るとタネからハンバーグ一人前の大きさに取り、手で形を整えてから、フライパンで表面を軽く焼き、オーブンでしっかり焼いてから提供していたそうです。またステーキ、揚げ物等の肉の筋切りやサラダやサンドイッチも揺れる厨房での手作業でした。今、このような手間隙のかかる調理を食堂車厨房で出来るだけの人材がどれだけいるかが一番の問題ではないでしょうか?ちなみに一つの列車に食堂車だけでも7~8人のスタッフが必要です。揺れる厨房では、包丁使い等に技術を要すると訊いたことがあります。現実的には人件費や食材費等を加味すると厳しいのではないでしょうか?
黛チャイムはいいと思います。昔は5号車と9号車の2両。それだけ需要があったんだ。 ナレーションの声が押坂忍さんっぽい。
やっぱりたぶんそうですよね? ナレ=押坂忍さん
4:38 品川から乗っていた?Jダイナーの寮が大森駅の近くで東京駅から遠かったのはそのためか
東京駅品川口かと思います。当時は品川に新幹線駅はありません。
東海道新幹線の開業当初は現在の品川インターシティがある場所に車両基地がありましたなので出庫する列車の場合はそこから乗り込んだということです
@@hime2518さま日本食堂が門司にあった古くからの職員の話だとクルーも車両基地まで乗りぱなしとかあったみたいですね。車販バイトのとき後の九州鉄道記念館副館長さんが向日町や野洲に行ったことを話してました。
@@marinek0 最近ではトワイライトエクスプレスを担当する大阪のクルーは札幌に到着するとそのまま回送列車で手稲の車両基地まで行ってました。折返し時間が数時間しかないのでクルーに割り当ての寝台で爆睡していたそうです。宇都宮氏と一緒にお仕事されたことがあるのですね羨ましい
宇都宮照信さんです。私がバイト在籍中は在来線専業から新幹線のクルーに移られて主にビュフェ売店の調理と店長をされていました。現役時代から写真、執筆活動をされ九州の鉄道趣味界の代表者、鉄道文化人ですね。
『ぎふはしま』ではなく『ぎふはじま』と読んでいたのですね....
ナレーターは押坂忍さんでしょうか?
6:26「びてい」とは「微亭」でしょうか
サムネの女性、ウルトラマンレオの隊員さんにそっくり
昔の新幹線🚅は食堂車、ビュッフェが主流だったが、今の新幹線🚄は駅弁が主流です。
6:39一番前の人の髪がドングリみたいに尖ってる!流行ったなー🌰栗ガシラ先生?
後ろの方のスーツと被っているのでは?見間違えだろう!
このような食堂車が新幹線から姿を消した背景には、新幹線を運行するJR会社が相次いで株式を上場させて完全民営化を達成させて以降、東急・阪急を範とした経営改革に踏み切ったのも影響しており、何よりホテルや大型駅ビルでのレストランを直営したり、あるいは駅構内のコンビニを充実させたことが大きい。新幹線駅のコンビニでお茶や名産品の販売を充実させた結果が、食堂車や車内販売の廃止につながった。JR東海・西日本・九州はいずれも、主要な新幹線停車駅に、この列車食堂の運営にあたった帝国ホテル並みの品格を持ったシティホテルを直営するようになった。これも東急・阪急を意識したものである。
全室ビュッフェを現役時代に見たことが無い知っているのは、半室ビュッフェだけでお弁当販売ていどの営業だった。
食堂車がない時代ですね
全室ビュッフェという車両は新幹線・在来線含めて国鉄(JR)には存在しません、食堂車の間違いでは?ビュッフェは半室食堂車ですよ。
@@uka_blues 全室ビッフェ車は、京都鉄道博物館に保存車両が展示されています。食堂車の登場は、博多延伸時に投入されたそうです。
車内で調理された食事ができたのも100系まででしたね。
@@fuka1965 さん失礼しました、全室ビュッフェ車がJR西日本に晩年存在していました。
品川、新富士、新掛川、三河安城がない時代。
三島すらなかった。
ひかり号は東京の次の停車駅は必ず名古屋駅の時代でした。横浜の方も、名古屋以遠に向かう時には東京駅まで戻ってから乗車してた時代です。
山陽新幹線もまだなかったですね。
新幹線からの電話は酷かったからなあっ 何も聞こえない1978年だったね アホくさくて今でも忘れないよ
ばっちり昭和だなぁ〜笑
昭和の右肩上がり真っ最中。昭和49年春に上京して新幹線ビュッフェ・食堂車は何度か利用しました。昭和世代の非日常での憧れの瞬間です。寝台特急の食堂車案内放送は印象に残っています。「食堂のご案内をいたします…直、食堂利用の際には浴衣や下着姿でのお越しはご遠慮下さる様お願いします」(苦笑)わざわざと放送の文言でお願いするのは実際にステテコなどでいらっしゃったお客さんがいたからこそのセリフでしょうね。田舎育ちのお父ちゃんが自分の家庭でゆっくり晩酌するお気持ちかな?非日常での旅行で緊張が解け気分が緩んだのかな?忘れ得ぬ放送です。在来線特急食堂車も含めて昭和の就職先の受け皿の役割も果たしたは間違いない。揺れる車内でメイド風ユニの蝶々が舞うが如しの立振舞を見ているだけでビール🍺をおかわりした(笑)お世話になりました。食堂車内で撮影した日食上野営業所のお嬢さんの写真はいまだに保存していますよ。若い女性が今は還暦迎えたかな?昭和人にはかけがえのない旅には欠かせない演出でした(懐)
いゃあ懐かしい…帝国ホテル列車食堂より…申し上げます 車内販売と致しまして お弁当にお茶 コーヒーにサンドイッチ アイスクリーム 各地の名産品をお持ち致しまして皆様の座席までご案内申し上げます ご利用下さいませ。 あの放送が聞こえて来そうです。
接遇が流石帝国ホテルという感じだ。列車電話代が高くてびっくり3分400円って…
高いってあなた、列車から電話が出来るってだけでも凄い事だったんだからw
いや帝国ホテルとかは関係ない。今も新幹線の公衆電話から3分かけたらそんなもんじゃないかな。
飛行機電話を使ったことがあるけど、1分あまりで50度数のテレホンカードがなくなってしまった。
1990年頃だけれど、地方と東京を公衆電話で5000円で買える540度のテレホンカードが平日の昼間に仕事とかで1時間くらい通話すると残り0で追加投入が必要だったよ。運が悪いと保留音を聞かされている間でもカウントがドンドン減った。1965年くらいから携帯電話が広く普及する2000年頃まで、通話代は本当に高かったし、その頃の通話代を考えると全社員に携帯電話を配っている今の方が経費での通信費は安い。パソコンがなければ当然メールもないしPDFファイルもない。あるのはせいぜいでモノクロのFAXくらい。もっといえば、クロネコとか佐川が今ほど普及していなくて、郵便の速達か飛行場に持ち込みの航空便くらいしか早く送る手段がなかった。もちろん高かった。
@@TwilightExp 小生が最初に携帯電話(ツーカーセルラー)を持った1995年は、1分100円位でしたね。
三田村邦彦さんは指定席取らずに自由席で、食堂車🍴🚄にずっといたとか。
三田村さんの話は、あまり褒められた話ではないんです。一部の利用者が食堂車を長時間占拠した為に、回転率が下がり、売上が落ちたのも食堂車廃止に至る原因の一つで、自由席が確保出来なかった乗客が食堂車やビュッフェに流れて、コーヒーやビールだけで長時間居座るのが問題になっていたんです。
これ開業した頃?
ラーマ奥様インタビューの人?何て方でしたっけぇ〜?
押阪忍さん?
昔、日本食堂で車販のアルバイトをやっていた経験があるんだけど、男子アルバイトのことを、正社員の人が無理にも「バイト君」と呼ぼうとするのには困惑した。…「バイト君」って、いしいひさいち氏の4コマ漫画のタイトル名ではないか😬
売り子の女性が可愛い😍ナンパしてまいそうだw
「昔は、自由席の切符で食堂車さえ乗ってしまえば安上がりだった。」と親父が言っていたなあ。
他の方が書いておられましたが、そのために長時間食堂車やビュッフェに居座るお客様が出て回転率が落ちてしまい食堂車の廃止に繋がったと聞いたことがあります。
S54~S57まで帝国ホテルで勤務していましたが、夕方東京発の列車はそんな客ばかりで苦労しました。食堂車をまるで自分の席のように占領されるので、全く回転しなくて本当にお食事をしたくても出来ないお客様が多数居ました。新幹線の食堂車は限られた時間内での勝負なので、居座る客は迷惑この上ない存在でした。全く動く気配がない時などは大きな声で、『食堂車ご利用のため並んで待っているお客様が多数おられます。お食事が終了されましたお客様は、座席に戻られまして他のお客様にお席を譲られますようお願いいたします』と。それでも大半の客は、聞く耳持たずでしたがね・・・。
@@パンダウサギ-r4w 特にサラリーマンで酒🍺飲んでる奴は東京から新大阪まで居酒屋みたいに居座るオッサンが居た😠
すみません、タイトルのブッフェを当時の呼び名のビュッフェに変えてください。
水沢アキが車内販売してるようだ。
アイライン アイシャドウがダメならほとんどスッピン!びっくりしました(^^;)
静止画のシーン ボラギノールのCMみたい
新横浜「あれ」
当たり前やで(笑)
三島駅が無い時代
この時代はひかり号は東京の次の停車駅は必ず名古屋だったので、名古屋以遠に向かう場合、横浜在住の方でも東京駅まで戻る形でひかり号に乗車してました。
皆様~ こちらは~ ビュフェ東京でございま~す
6:04 黛チャイム♪───O(≧∇≦)O────♪
日常生活であまり使わない言葉だよね「ビュッフェ」ときいて当時の人は意味分かったんだろうか。
看護婦みたい
入院中にはお世話になりました。感謝申し上げます。列車食堂車のウェイトレスさんの制服は時代を反映して変化して行きます。寝台特急で日食はえんじ色に髪にピアラのメイドさん風。都ホテルはベージュ色にバスガイドさん風の帽子など会社により個性がありました。平成元年に乗った寝台特急みずほは日食上野営業所の方達でした。頭に紺色の丸い小さな帽子、上下紺色のワンピースに白い大きなエプロン、帯は上はたすき掛け、腰は蝶結び、二つの大きめのポケットにボールペン。紺色の襟に水色のネクタイ。時代の流れからメイド風から客室乗務員風に様変わりしました。やはりメイド風が懐かしい(笑)
電話代3分以内で400円って高いな。
まあ、列車無線を介した通話だから高いよ...
車内販売が次々減少により、外国人から見ればサービスが悪くなったと不満をもたらしておる!
記念碑
そういえば、子供の頃は食堂車からの放送がありました、懐かしい。
今考えると食堂車って豪華な設備ですよね。今はスピードだけは早くなったけど、効率優先で食堂車どころか車内販売もなくなってしまいました。世の中の余力がなくなってしまい、この頃よりもずっと貧しくなってしまったのかもしれないですね。
帝国ホテル、今でも日本一!
外資系には負けないで😊
懐かしい! ちょうど国鉄最後の年に帝国ホテル列車食堂でバイトしてました。
バイトなので車内販売だけでしたけど、色々細かく注意されてたのを思い出します
うちの嫁も列車食堂の21組で働いてましたよ。
@@waverheat8164 そうなんですか。何組とか全然覚えてないんですよね。博多往復と岡山往復をしてたって事くらいで。。。 泊まりだと少しは観光とかできるのかと思っていたら、会社のバスで街から離れた宿に連れていかれたから、外出なんて全くできなかったんですよね( ´∀` )。あと、女性は上下関係が中学の部活かって感じに厳しかったのも記憶にあります。
@@emic1497
上下関係が厳しいのはどの世界でも一緒たね、と酔っ払い嫁が言ってます😅
うちの嫁はそこんとこ要領が良すぎたのか、結構観光してましたよ🤣
まさかの黛チャイムwwしかも綺麗な高音質で
60年代後半から70年代ごろですね。
昭和48年の夏休み大学一年生の時に、新幹線の車内販売のバイトしていました。自分は、日本食堂、当時は、岡山まで、青春の思い出です。
私も日本食堂で車内販売のバイトしてました。昭和50年代でしたが。
新大阪を基準に東京や福岡に行ってました。
@@ぺんぎん-h5z 自分は、東京でした。まだ福岡まで開通してませんでした。新大阪の日本食堂の寮に宿泊してました。
初めて新幹線に乗ったとき、食堂車でカレーライスを食べました。それからは100系新幹線食堂車が廃止されるまで
必ず食堂車でカレーライスを食べました。それと車内販売もよく利用させてもらいました。新幹線のコーヒーは高い
けど、美味しいですね。
違う会社で車内販売をやったことがあります。
これは流石に帝国ホテルですね。丁寧で驚きです。
貴重すぎて拍手しかないです。
6:04 貴重な黛チャイム!
私の亡くなった父親が帝国ホテルの食堂車で働いていました。当時は151系はとで岡山、広島方面まで乗車してたそうです。新幹線勤務はしてませんでした。
これは素晴らしい❗️大変貴重なものをありがとうございます。
小学生の時はじめて0系新幹線に乗ってサンドイッチ買ってもらって食べた。今のコンビニの物と比べれば味は劣っていたと思うけどおいしかった記憶しかない。思い出に勝るもんないな。
よくこの様な貴重かつ珍しい映像がアップされましたね。
最初の女性が可愛いです。
これは中々貴重な映像はめったに見られない程であります、ビュッフェの仕事と車内販売をされていたのがあの有名な帝国ホテルの従業員だったのに驚いてます、余談ですが私が子供のときは亡くなった父親にビュッフェに行きたいとお強請りして連れて行ってもらいカレーライスを食べた思い出があります、今のJRの新幹線はビュッフェがないのが残念でなりません、これぞ昭和だなと肌で感じました、貴重な映像を見せてくださいましてありがとうございます。
新幹線の食堂車・ビュッフェ営業が全て帝国ホテルだった訳ではなく、4つの業者に営業担当が割当てられていました。
担当業者は以下の通り
日本食堂・帝国ホテル・都ホテル・ビュッフェとうきょう
尚、上越新幹線では日本食堂の他、在来線特急「とき」の食堂車営業担当の実績がある「聚楽」が一部列車のビュッフェ営業を担当していました(東北新幹線は日本食堂のみ)
当時の時刻表の新幹線のページには各列車の時刻の下に食堂車・ビュッフェ担当業者が記載されておりお目当ての食堂車・ビュッフェ業者を選んで列車を決める利用者もいたようです。
尚、「ひかり」の食堂車とビュッフェは同一業者が担当、食堂車とビュッフェ業者が同じ列車で異なるということはありませんでした。
在来線の特急食堂車、急行ビュッフェは新幹線開業後、日本食堂が殆ど独占、一部に聚楽、鉄道公済会が営業担当する列車が見受けられました。
日本を出て30年ですが、今は食堂車が無いのですか……?
信じられません。どうして?
@@MizuBangkok さん
列車のスピード化と駅構内や周辺と全国各地にコンビニやファミレスが出来た為、車内での供食に必要性が無くなってしまったのが主な原因。
従って、車内販売も風前の灯です。
@@uka_bluesさま、ありがとうございます! 食堂車で楽しむことができなくなったのは残念ですね、、。
車内ビュッフェ、懐かしいなぁ。子どもの時に乗ってワクワクした。
いやぁ本当に当時の新幹線のサービスは充実していたのですね。ビュッフェも車内販売も売店も華やかだったのですね。しかし、時代の変化が進むにつれて当時のようなサービスがもうなくなってしまいましたね。貴重な映像をありがとうございます!
ビュッフェという言葉、新幹線で教わったなぁ〜
子供の頃家族でよく乗ってすぐビュッフェか食堂車に行っていた😊
冒頭の売り子?のお姉さんの笑顔が魅力的だったので、思わず観てしまいました。乗ったことはあるけど、ビュッフェに行ったこともないし、485のサシにも行ったことがないので、そんなに身近には感じられせんでした。そんなわけで、帝国ホテルはもちろん知らないけど、日本食堂ってのはなんとなく覚えてます。
接遇のマナーは大変勉強になります。
13:06
三歩進んで二歩下がるぐらいが
標準のワン・ツー パンチなのです
そして何より汗かきべそかき歩くのが
正しい歩き方なのです。
水前寺清子さんが歌う、365歩のマーチですね。
いつの時代も接客業は大変や🥺
この接客教育は日本の誇り きめの細かい心配り
接客業の皆様これからも宜しくお願いします😀
この時代の頃は、飛行機や新幹線、特急や急行といった優等列車はセレブな人達向けの乗り物であり、その客層に合わせたサービスが求められました。
帝国ホテルなみの接客サービスが当時は機内、車内で必要とされていました。(今だと、旅客機のファーストクラスの感覚かも)
こういうおもてなしの起源は確か韓国ですよね!
日本は早く昔の罪を認めて独島の軍事制圧をやめて謝罪すれば今に韓国の高速鉄道にも追い付けると思います!
今一度思う。新幹線の食堂車復活してほしい。もしくは車内販売車両も。できるのに何故取っ払ってしまったのか。
今現在でも「新幹線車内販売」の販売員に驚く諸外国人はとても多い。日本人では気付きにくい「日本らしいおもてなし」に感動している のが実情。
SessionClubJapanさん
新幹線から食堂車やビュッフェが無くなったのは、飛行機の低料金化に伴う競争の激化や、コンビニの発達に伴う利用客の低迷が理由と言われていますね。
@@小川孝弘-g5w さん
もう一つ、自由席混雑時に食堂車やビュッフェでビールやコーヒーだけを注文し居座る一部の非常識な利用者の為に回転率が悪く赤字に拍車をかけたというのもあるようです。
社会やモラルが
食堂車の廃止は毎年増加し続ける旅客数に対応する為赤字の食堂車を廃止してその分の座席数を確保する為でもありました。新幹線の食堂車は全廃される10年位前から帝国ホテルを最初に各業者の列車食堂からの撤退が始まっていました。
凄い
昔の新幹線て帝国ホテルの社員がサービス提供してたのか
今より高級感がありすぎる
帝国ホテル列車食堂のビーフシチュー ビーフカレー シャリアピンステーキ美味しかったです。サービスも他の三社より良かったし味も他の三社より美味しかったです。都ホテル列車食堂も美味しかったです。
@@ケンケン-t9x3t 食堂車サービス復活させたら今の時代なら目玉サービスになるはずでいいと思います 新幹線も昔とは違い北海道、九州まで距離伸びてるわけで
@@KeruskKu kero suke様
確かに新幹線も東京~新大阪は時間が短くなったので食堂車は回転も悪くピュッフエ社内販売10人近くのスタッフを使うとなれば赤字になりますよ。昔はコーヒーは車中で買うしか有りませんでしたが今はコンビニで買えますからね。社内販売を使わなくてもコンビニで賄えますからね😓弁当も昔と違い色々な種類も買えますからね😢然し此れだけ食堂車の復活の声が有るなら帝国ホテル当りなら出来そうな気がしますけどJR東海は食堂車とビュッフェで2両も使うとその分売上も減るから今のJR東海はOKを出さないでしょう‼️大学次代帝国ホテル列車食堂では有りませんが新幹線の車中販売でバイトした事が有りました。
これは貴重な画像ですね。
タイムマシンがあったら乗ってみたい。
でも、今のお札や硬貨は使えないのが残念。
今となってはビッフェで食べてみたい。
凄く丁寧で分かりやすい手引きですね。
車販の雑貨(コーヒー)ワゴンは折り返しの際に先頭のデッキに出ると必ず運転台のドアをノックして運転手にコーヒーをサービスすることになってました。
運転手や車掌はいくら飲んでも無料なので、代わりに検食カードというものを書いてもらうのですが、気の利いた方は検食個数を3や4と書いてくれました。
つまり、その分が浮くので結構なお小遣いになりました。列車食堂勤務の懐かしい思い出です。
国鉄と車内販売(日本食堂…等)の関係性は、
遠い過去の、懐かしい現実。
東映の新幹線大爆破の映画作品でも、車内販売員の方が千葉真一さん演じる運転士にコーヒーの入ったカップを、渡すシーンが有ります!
貴重な映像ありがとうございます😊
とても興味深く見させて頂きました。言葉遣い、現代では多くの良い言葉が失われている事再認識します。
ブッフェ復活して欲しいです。
いやぁ とっても興味深く見入ってしまいました。面白い面白い。
帝国ホテルさん以外にもこういうのがあったら見てみたいです。都ホテルとか日本食堂とか。
あと、蛇足ですが、ワゴン販売の前列にある週刊誌、新潮・朝日・サンケイとかまんべんなく映してますねww
他の動画でもコメントしましたが、速度が上がったためにビュッフェ、社内販売が無くなりましたね。
コンビニやファーストフード店が普及したのも原因でしょうか?
親父が浜松のホンダで働いていたので
年に数回 東京から母と兄弟で新幹線で会いに行っていました。
食堂車も利用した事あるけど
ここまで教育が行き届いていなかった
ような気がするんだけどな。
昭和50年前後の話ですが。
最初のBGMは花のサンフランシスコですよね
車内販売と言うと
日本食堂さんだけの
専売特許かと思ってましたが
天下の帝国ホテルがビュフェを
展開してたとは驚くばかり!!
当時に戻って一度でいいから
食べてみたかったなぁ!!
1973年4月号の鉄道ジャーナル誌をいまだに保存しております。
東京駅から博多駅までに食堂車と車内販売さんを密着取材した泣き笑いのドキュメントです。
タイトルは「花咲くみずほの乙女たち」若いピチピチの女性の本音が聞こえてその裏話に感動しました。「喫茶店持ちたいからこの仕事を選んだ」など。
当時は夜行列車最盛期、一列車8人のクルーで回していました。
博多の都ホテル営業所から始まる。点呼受け上りあさかぜから勤務開始~東京着いてその日は都ホテル宿泊施設で一泊する。下りあさかぜで博多に帰る。そして休日❤
次の勤務は博多に着いたみずほから業務を引き継ぎ熊本へその日折り返しのみずほで東京へやはり都ホテル宿泊施設で一泊してみずほで博多へ、業務引き継ぎして営業所で点呼受ける。点呼はコック・ウェイトレスさんも制服のまま。そして休日❤
その循環システム、彼女らは一航海と呼ぶ。「他の組には負けたくないから頑張る」との意見でした。なるほど博多営業所だけで4組40人程が必要な計算になる。
皆、今は還暦迎えたか?お疲れさまでした。
素晴らしいの一言です
0系車両で、東京~新大阪間が3時間10分かかった時代。新幹線だけでなく在来線の特急、急行などの優等列車に食堂車やビュッフェがついていた時代。いま、50歳の私が小学校に入学する前のお話ですな。でも、1970年代は飛行機や新幹線を含めた優等列車は庶民には高嶺の花の乗り物で、新潟県の母に実家に帰省する時も上野からずっと新潟行きの鈍行に乗り通しでした。ごくたまに、特急や急行に乗れると嬉しかったですね。
この映像は素晴らしいですね。今食堂車があるのは近鉄特急しまかぜだけですからね。
サフィール踊り子もあるよ!
@@coziyftv78 さんおはようございます。サヒフィール踊り子にも食堂車があったんですか。私は知りませんでした。サヒフィール踊り子は狭軌用車両のブルーリボン賞候補ですよ。因みに標準軌用車両のブルーリボン賞候補はひのとりだと私は思っています。
当時の新幹線の客室ドアは手動式なんですね。
最初と最後と、12:16から1分半くらいの間の車内販売の女性、島崎遥香にものすごい似てる☆
サムネの女性、修学旅行の車内で代わる代わる写真を撮ってもらった方かも!(昭和57年)
この頃の「おもてなし」は、今とはレベルが違いますね
なんせ、帝国ホテルの正規従業員が乗車して指導にあたっておりますのでレベルが違います。1970年代くらいまでは、飛行機や新幹線、在来線の特急、急行といった優等列車などは社会的にステータスのある人達向けの乗り物であり、そういった人達に向けられたサービスが求められていました。一般庶民には高嶺の花だったのです。
その昔、大きなターミナル駅にあったレストランなどでも、労働者は職種を問わず正社員雇用でしたからね
勉強になりました。
東北新幹線で混雑しているときに、車内販売から釣り銭貰うときに「手出して」って言われたことあるよ。🍶
東海道新幹線と違うね🤣
懐かしい‼当時バイトが平気で、運転席にあがってね☺新神戸からさきが一人乗務になったんでさ?だれも見てないからね。
ビッフェは1編成に2両あったのですね
急行「せっつ」「なにわ」「宮島」や特急「つばめ」「はと」と共通編成化される以前の「こだま」もビュッフェ2両連結でした。
キハ82の白鳥は食堂車が2両でしたな。
世界一と言われる日本のサービスの質の高さは成程と理解できます。
培ってきた歴史の土台の重みが違う。
ここまで徹底して、かつ懇切丁寧に社員を教育する事は、外国ではあり得ない。
日本が世界に誇る文化です。
黛チャイム、この動画で初めて聴いた。地震速報かと思った。これじゃ乗客は何か不安になるわな。
4’53”あたりから流れる曲「♪ひとつぶの涙/フランク・プゥルセル・オーケストラ」突然始まってびっくりしました😅
見た目はビュッフェですが、提供されるお料理やサービスは、食堂車に近いですね。👀
本当に素晴らしいです。
おもてなしの心、というものは、日本の誇るべき伝統であることを、再認識させて頂きました。
ありがとうございました。
昭和43年初めて乗ってビュッフェを利用しました。どのメニューも高くてカレーしか食えなかったw それに結構揺れるし狭いし、落ち着いて食べられない。何しろ時速200km近くで走っているから、揺れ方もゆったりでなく小刻みで早いんだよね。消化不良になりそうだった。
懐かしい。小学生一年で名古屋に単身赴任した父に会いに母とよく乗りました。新幹線で食堂車があると付加価値が着くのにコスパばかり求める日本の体質は寂しいですね。デフレが悪い❗️
写真に写っている従業員たちは、今は70を超える高齢者。それにしても車内販売、食堂車で働くお姉さんたちは この時点でまだ「生娘」か❓美人ばかり。
当時の国鉄はビッフェや車内販売を民間の帝国ホテルに委託していたんですね。
日本食堂・帝国ホテル・都ホテル・ビュッフェとうきょうの4社が担当。
時刻表各列車下段にビュッフェ(食堂車)担当業者が記載されており、担当業者の好みで乗る列車を決める方もいたそうです。
今の新幹線の車内販売は、簡素化されていて、帝国ホテルの面影を感じない。
もっとも、それ故に誰でも非常に気軽に利用できるという利点もあるのだが。
500円札が現役だった頃に生まれていないから、どんな感じなのかわからないが、想像するだけで畏れ多い。
@@Monday1717 さん
現在の社内販売は
『こだま』『ひかり』(一部)→営業休止
『のぞみ』『ひかり』→
東京ー新大阪→『新幹線パッセンジャーズサービス(SPS)』
新大阪ー博多→『JR西日本サービスネット』
上越線の特急や急行、その後の上越新幹線では聚楽による営業もありましたな。(*´・∀・)テーブルクロスがチェック柄だったりと、他社と差別化していたようです。
Imperial hotel Excellent‼️☺️
10:36 ☎「お客様、東京→大阪間、3分以内で400円でございます」って今でも高いと思うのに、当時の貨幣価値だとべらぼうな値段ですよ、これは。まぁ、当時の最近技術を駆使していたわけですからねぇ。
昭和22年、団塊の世代のうちの母は社員旅行で初めて新幹線を乗ることになった時、会社から
「新幹線に乗るから、正装で来るように」
と命じられたと言っていた。
俺は用事で名古屋から新大阪まで乗った時、ジャージにサンダルでグリーン車に乗った。
時代は変わるものだ。だから、そろそら黛チャイムを復活させよう。
こだまでですか?
いいえ、ひかりも、そしてのぞみも。
お釣の500円札(旧岩倉B号券)に、時代を感じる…
ばあちゃん家を立て替える時に蔵から見つかったのですが虫食ってボロボロでした。
素晴らしい!帝国ホテルのサービスだったんですね。
是非、今一度ここで使われてる日本語を参考にしたいですね。
外資系航空会社の日本人乗務員へのサービスレッスンにも取り入れていただきたいです。
ブュッフェの復活を願うコメントが多数見られますが、残念ながらコンビニやファーストフード店が普及した現代では採算とれるはずがないですね。
仰る通りだと思います。
まず、人材確保が難しいと思います、一列車辺りに食堂車と車内販売スタッフだけでも、調理師とサービス係を入れて7~8人は必要です。
そして、普通の厨房と違い、狭く揺れる厨房での調理には、高い技術が要求されると訊きます。
東海道・山陽新幹線やブルトレ全盛期だった頃までの在来線特急でも、一部のメニューを除いて、基本は車内厨房での手作りだったそうで、焼き物や揚げ物の肉の筋切りや海老のハラワタ取りと牡蠣の下拵えも全て揺れる厨房で、オーダーが通ってから行っていたそうです。
ハンバーグステーキは、セントラルキッチンでタネだけは作り、厨房ではオーダーが通るとパットに入ったタネを冷蔵庫から取り出し、ハンバーグ一人前を手に取り、形を整えてからフライパンで表面を焼き、更にオーブンで火が通るまできちんと焼いたあと、ソースで味を付けるという丁寧な仕事をしていました。
今、このような仕事を求めれば、かなり高額な商品提供になるでしょう
手作りのハンバーグステーキセットなんて最低でも3000円くらいになってしまうかも知れませんね。
いつ急停車するかわからない、揺れる車内で揚げ物を作るのは嫌ですな。((( ;゚Д゚)))
この動画の記録は帝国ホテルさんのものだったかw
新幹線の食堂車・ビュッフェ・車内販売の業者さん、「帝国ホテル」「ビュフェ東京」「日本食堂」および「都ホテル」の4社で鎬を削り合いながら切磋琢磨に励んでいたもんなんですよね😁😁
上越新幹線でもビッフェは営業していたんだな!距離が短くても!
それに加えて、上越新幹線は日本食堂の他、聚楽がビュッフェと車内販売を担当する列車がありました。
在来線特急「とき」の一部列車の食堂車・車内販売担当の実績があった為だと思います。
在来線食堂車担当の時代は、中華料理が人気メニュー(ラーメン類はなし)で、これは日本食堂にはない聚楽オリジナルでした。
@@uka_blues さん
聚楽は、群馬県水上温泉・新潟県越後湯沢に、系列ホテルがありましたからね。
かっこいい
スーツの喋り方みたい
それな
www
N700A各編成,N700Sの2車両[❽号車・❾号車]を
食堂車,愛称は“ダイニング700”改装希望
サムネの女の人は現代的な外見だな。榮倉奈々に似てる。
多少高くてもいいから、せめて東北北海道新幹線には食堂車置いてほしい。
そしてこの時代のような教育の行き届いたサービスで外国人観光客をもてなしてほしい。
[A]カロハネロハシユ二テフ24さん
JR北海道が、車販を廃止したので、それは無理でしょうね。
電子レンジで温めるだけなら、食堂車は要りません。
やはり、オーダーが来てから煮たり、焼いたり、揚げたりでないと。
東海道・山陽新幹線の食堂車はオーダーが通ってからの調理が基本でした。
カレーやシチューはセントラルキッチンで調理したソースを鍋で温め、オーダーが入るとレシピに従った肉や野菜を焼いてからソースに加えていたそうですし、ハンバーグステーキもセントラルキッチンでタネまで仕込んだ物を冷蔵庫に入れておき、やはりオーダーが通るとタネからハンバーグ一人前の大きさに取り、手で形を整えてから、フライパンで表面を軽く焼き、オーブンでしっかり焼いてから提供していたそうです。
またステーキ、揚げ物等の肉の筋切りやサラダやサンドイッチも揺れる厨房での手作業でした。
今、このような手間隙のかかる調理を食堂車厨房で出来るだけの人材がどれだけいるかが一番の問題ではないでしょうか?ちなみに一つの列車に食堂車だけでも7~8人のスタッフが必要です。
揺れる厨房では、包丁使い等に技術を要すると訊いたことがあります。
現実的には人件費や食材費等を加味すると厳しいのではないでしょうか?
黛チャイムはいいと思います。昔は5号車と9号車の2両。それだけ需要があったんだ。
ナレーションの声が押坂忍さんっぽい。
やっぱりたぶんそうですよね? ナレ=押坂忍さん
4:38 品川から乗っていた?Jダイナーの寮が大森駅の近くで東京駅から遠かったのはそのためか
東京駅品川口かと思います。当時は品川に新幹線駅はありません。
東海道新幹線の開業当初は現在の品川インターシティがある場所に車両基地がありました
なので出庫する列車の場合はそこから乗り込んだということです
@@hime2518さま
日本食堂が門司にあった古くからの職員の話だとクルーも車両基地まで乗りぱなしとかあったみたいですね。
車販バイトのとき後の九州鉄道記念館副館長さんが向日町や野洲に行ったことを話してました。
@@marinek0
最近ではトワイライトエクスプレスを担当する大阪のクルーは札幌に到着するとそのまま回送列車で手稲の車両基地まで行ってました。
折返し時間が数時間しかないのでクルーに割り当ての寝台で爆睡していたそうです。
宇都宮氏と一緒にお仕事されたことがあるのですね
羨ましい
宇都宮照信さんです。私がバイト在籍中は在来線専業から新幹線のクルーに移られて
主にビュフェ売店の調理と店長をされていました。
現役時代から写真、執筆活動をされ九州の鉄道趣味界の代表者、鉄道文化人ですね。
『ぎふはしま』ではなく『ぎふはじま』と読んでいたのですね....
ナレーターは押坂忍さんでしょうか?
6:26「びてい」とは「微亭」でしょうか
サムネの女性、ウルトラマンレオの隊員さんにそっくり
昔の新幹線🚅は食堂車、ビュッフェが主流だったが、今の新幹線🚄は駅弁が主流です。
6:39
一番前の人の髪がドングリみたいに尖ってる!
流行ったなー🌰
栗ガシラ先生?
後ろの方のスーツと被っているのでは?見間違えだろう!
このような食堂車が新幹線から姿を消した背景には、新幹線を運行するJR会社が相次いで株式を上場させて完全民営化を達成させて以降、東急・阪急を範とした経営改革に踏み切ったのも影響しており、何よりホテルや大型駅ビルでのレストランを直営したり、あるいは駅構内のコンビニを充実させたことが大きい。新幹線駅のコンビニでお茶や名産品の販売を充実させた結果が、食堂車や車内販売の廃止につながった。
JR東海・西日本・九州はいずれも、主要な新幹線停車駅に、この列車食堂の運営にあたった帝国ホテル並みの品格を持ったシティホテルを直営するようになった。これも東急・阪急を意識したものである。
全室ビュッフェを現役時代に見たことが無い
知っているのは、半室ビュッフェだけでお弁
当販売ていどの営業だった。
食堂車がない時代ですね
全室ビュッフェという車両は新幹線・在来線含めて国鉄(JR)には存在しません、食堂車の間違いでは?
ビュッフェは半室食堂車ですよ。
@@uka_blues 全室ビッフェ車は、京都鉄道博物館に保存車両が展示されています。
食堂車の登場は、博多延伸時に投入されたそうです。
車内で調理された食事ができたのも100系まででしたね。
@@fuka1965 さん
失礼しました、全室ビュッフェ車がJR西日本に晩年存在していました。
品川、新富士、新掛川、三河安城がない時代。
三島すらなかった。
ひかり号は東京の次の停車駅は必ず名古屋駅の時代でした。横浜の方も、名古屋以遠に向かう時には東京駅まで戻ってから乗車してた時代です。
山陽新幹線もまだなかったですね。
新幹線からの電話は酷かったからなあっ 何も聞こえない
1978年だったね アホくさくて今でも忘れないよ
ばっちり昭和だなぁ〜笑
昭和の右肩上がり真っ最中。
昭和49年春に上京して新幹線ビュッフェ・食堂車は何度か利用しました。
昭和世代の非日常での憧れの瞬間です。
寝台特急の食堂車案内放送は印象に残っています。「食堂のご案内をいたします…直、食堂利用の際には浴衣や下着姿でのお越しはご遠慮下さる様お願いします」(苦笑)
わざわざと放送の文言でお願いするのは実際にステテコなどでいらっしゃったお客さんがいたからこそのセリフでしょうね。
田舎育ちのお父ちゃんが自分の家庭でゆっくり晩酌するお気持ちかな?非日常での旅行で緊張が解け気分が緩んだのかな?
忘れ得ぬ放送です。
在来線特急食堂車も含めて昭和の就職先の受け皿の役割も果たしたは間違いない。
揺れる車内でメイド風ユニの蝶々が舞うが如しの立振舞を見ているだけでビール🍺をおかわりした(笑)お世話になりました。
食堂車内で撮影した日食上野営業所のお嬢さんの写真はいまだに保存していますよ。若い女性が今は還暦迎えたかな?
昭和人にはかけがえのない旅には欠かせない演出でした(懐)
いゃあ懐かしい…帝国ホテル列車食堂より…申し上げます 車内販売と致しまして お弁当にお茶 コーヒーにサンドイッチ アイスクリーム 各地の名産品をお持ち致しまして皆様の座席までご案内申し上げます ご利用下さいませ。 あの放送が聞こえて来そうです。
接遇が流石帝国ホテルという感じだ。列車電話代が高くてびっくり3分400円って…
高いってあなた、列車から電話が出来るってだけでも凄い事だったんだからw
いや帝国ホテルとかは関係ない。
今も新幹線の公衆電話から3分かけたらそんなもんじゃないかな。
飛行機電話を使ったことがあるけど、1分あまりで50度数のテレホンカードがなくなってしまった。
1990年頃だけれど、地方と東京を公衆電話で5000円で買える540度のテレホンカードが
平日の昼間に仕事とかで1時間くらい通話すると残り0で追加投入が必要だったよ。
運が悪いと保留音を聞かされている間でもカウントがドンドン減った。
1965年くらいから携帯電話が広く普及する2000年頃まで、通話代は本当に高かったし、
その頃の通話代を考えると全社員に携帯電話を配っている今の方が経費での通信費は安い。
パソコンがなければ当然メールもないしPDFファイルもない。
あるのはせいぜいでモノクロのFAXくらい。
もっといえば、クロネコとか佐川が今ほど普及していなくて、郵便の速達か
飛行場に持ち込みの航空便くらいしか早く送る手段がなかった。もちろん高かった。
@@TwilightExp 小生が最初に携帯電話(ツーカーセルラー)を持った1995年は、1分100円位でしたね。
三田村邦彦さんは指定席取らずに自由席で、食堂車🍴🚄にずっといたとか。
三田村さんの話は、あまり褒められた話ではないんです。
一部の利用者が食堂車を長時間占拠した為に、回転率が下がり、売上が落ちたのも食堂車廃止に至る原因の一つで、自由席が確保出来なかった乗客が食堂車やビュッフェに流れて、コーヒーやビールだけで長時間居座るのが問題になっていたんです。
これ開業した頃?
ラーマ奥様インタビューの人?何て方でしたっけぇ〜?
押阪忍さん?
昔、日本食堂で車販のアルバイトをやっていた経験があるんだけど、男子アルバイトのことを、
正社員の人が無理にも「バイト君」と呼ぼうとするのには困惑した。
…「バイト君」って、いしいひさいち氏の4コマ漫画のタイトル名ではないか😬
売り子の女性が可愛い😍
ナンパしてまいそうだw
「昔は、自由席の切符で食堂車さえ乗ってしまえば安上がりだった。」と親父が言っていたなあ。
他の方が書いておられましたが、そのために長時間食堂車やビュッフェに居座るお客様が出て回転率が落ちてしまい食堂車の廃止に繋がったと
聞いたことがあります。
S54~S57まで帝国ホテルで勤務していましたが、夕方東京発の列車はそんな客ばかりで苦労しました。食堂車をまるで自分の席のように占領されるので、全く回転しなくて本当にお食事をしたくても出来ないお客様が多数居ました。新幹線の食堂車は限られた時間内での勝負なので、居座る客は迷惑この上ない存在でした。全く動く気配がない時などは大きな声で、『食堂車ご利用のため並んで待っているお客様が多数おられます。お食事が終了されましたお客様は、座席に戻られまして他のお客様にお席を譲られますようお願いいたします』と。
それでも大半の客は、聞く耳持たずでしたがね・・・。
@@パンダウサギ-r4w
特にサラリーマンで酒🍺飲んでる奴は東京から新大阪まで居酒屋みたいに居座るオッサンが居た😠
すみません、タイトルのブッフェを当時の呼び名のビュッフェに変えてください。
水沢アキが車内販売してるようだ。
アイライン アイシャドウがダメなら
ほとんどスッピン!
びっくりしました(^^;)
静止画のシーン ボラギノールのCMみたい
新横浜「あれ」
当たり前やで(笑)
三島駅が無い時代
この時代はひかり号は東京の次の停車駅は必ず名古屋だったので、名古屋以遠に向かう場合、横浜在住の方でも東京駅まで戻る形でひかり号に乗車してました。
皆様~ こちらは~ ビュフェ東京でございま~す
6:04 黛チャイム♪───O(≧∇≦)O────♪
日常生活であまり使わない言葉だよね「ビュッフェ」ときいて当時の人は意味分かったんだろうか。
看護婦みたい
入院中にはお世話になりました。感謝申し上げます。
列車食堂車のウェイトレスさんの制服は時代を反映して変化して行きます。寝台特急で日食はえんじ色に髪にピアラのメイドさん風。都ホテルはベージュ色にバスガイドさん風の帽子など会社により個性がありました。
平成元年に乗った寝台特急みずほは日食上野営業所の方達でした。
頭に紺色の丸い小さな帽子、上下紺色のワンピースに白い大きなエプロン、帯は上はたすき掛け、腰は蝶結び、二つの大きめのポケットにボールペン。紺色の襟に水色のネクタイ。
時代の流れからメイド風から客室乗務員風に様変わりしました。
やはりメイド風が懐かしい(笑)
電話代3分以内で400円って高いな。
まあ、列車無線を介した通話だから高いよ...
車内販売が次々減少により、外国人から見ればサービスが悪くなったと不満をもたらしておる!
記念碑