物部氏の祖「饒速日」はやはり「徐福」なのか、星神信仰からの物部の正体に迫る

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  • Опубликовано: 3 фев 2025

Комментарии • 43

  • @遠矢光美
    @遠矢光美 3 месяца назад +2

    ブラボーな動画 ありがとうございます。
    実家が岡山市北区なのに、こんな凄い いわれのある神社があるのを全く知りませんでした。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      確か吉備の中山近くにも縁があった方でしたよね
      コメントありがとうございます
      「ブラボーな動画」の表現良いですね、頂きました
      ここ、星神社は最高ですよ
      単なる展望台とは訳が違う、伝説ロマンと確固たる歴史がある
      それも深いです、物部、徐福、饒速日、初代天皇、物が違う一級品です
      世界に誇れます
      日本の始まりは吉備王国だったとの説もあるようですし掘れば掘るほど面白いです
      私もまだまだ掘って見ますのでよろしくお願いします

  • @サイノカミ
    @サイノカミ 10 дней назад

    タカミムスビノ神は徐福が佐賀県に一緒に連れて来た母・高木タクハタチヂ姫で高木ノ神とも言われる。第二次物部東征で、瀬戸内海・吉備に勢力を張る吉備王国軍との8年間に渡る戦いだった。制圧した物部勢が夜に山に登って星神を拝んだのでしょう。小さく有名で無い神社や磐坐にも古代の歴史が沢山褄ってますね。体力も必要ですが今後も配信頑張って下さい。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  9 дней назад

      ありがとうございます
      磐座、巨樹、滝、泉、元々の神様の拠り所、そんな神社がたまらなく好きで
      気になったら行って見ないと気が済まない困った性格です
      応援のお言葉をありがとうございます
      これからも飛び回りますので
      よろしくお願いします

  • @めい-q7k9h
    @めい-q7k9h 3 месяца назад +3

    ここすごくいいところですよね‼️県外からもたくさん来られています。ここは空気が違う。磐座も凄くいい‼️ここは行かないとわからないくらいいいです❣️最近思うのですが、物部は乗っ取りもしていると思います。岡山の石上布都御霊神社で感じるのは元は和邇氏春日氏だったのではないかと。星は海人族のシンボルで、天香香青男とかの方がピッタリと来る。饒速日って隕石のことですよね。物部は何種類もあり、なかなか難しい氏族だと思います。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      確かに、その地域ならではの層のように積み重なる歴史レイヤーが神社には見えますよね
      まさに地域の人々の営み、それが歴史ですもんね
      そしてここ星神社にはそんな歴史ロマンと古代信仰、神であり生活が有るので
      いろんなエッセンスが背景となってここの景色がある種独特の感動の景色となるんでしょうね
      神社の周りの広い範囲の木を切った方々の発想も良かったと思いますし、大変なご苦労だったと思います
      物部についてはかなり複雑ですが、私が考察の元にしている出雲王家の口伝では徐福が元ですので
      かなりスッキリ整理出来ます、更に実在した人間が死後神として祀られ、そして○○神社となって今に残っている
      という流れですので私のように神社から歴史考察する人間にはとても有難いです
      次回から、交野市の岩船神社からいよいよ石上神宮元宮など本丸に入って行きますので
      またよろしくお願いします
      コメントありがとうございました

  • @rikko116
    @rikko116 3 месяца назад

    今回も素晴らしい神社のご紹介をありがとうございます。神社の階段登りはしんどいですが、ここは是非行って登ってみたいと思いました。上の広いところは今で言うヘリポートのようで、近代的にも見えます。この高いところは星の観測に良かったのでしょうね。岡山に行った際、特産の船の帆布をよくみかけました。色々繋がって面白いです。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      コメントありがとうございます
      ここは狭く急な道路をこわごわ上って行くと
      突然ここの開けた所の一番下に出ます
      最初に見えるのがこの石段ですから、
      年甲斐もなく悲鳴のような絶叫です
      全くの別世界の始まりです、凄いです
      と思いながら押し寄せて欲しく無いのでなるべく人に教えたく無い
      気持ちもありますけど
      でも、このチャンネルの影響力から行けば全く心配無いとも
      残念ながら思ったりします
      是非訪ねて見てください
      コメントありがとうございました

  • @mayumi3300
    @mayumi3300 3 месяца назад +7

    素晴らしいです✨
    いつも目のつけどころが
    凄いですね。
    徐福がやって来る
    遥か以前から、
    日本列島では日も月も星も
    全部お祀りされています。
    特に星については、
    海洋民族であったら必須です。
    縄文人が海を渡り、
    世界中に航海をしていたお話は、
    縄文土器があちこちから出てくることで
    以前から言われていたことですが、
    近年、ペトログラフ研究家の
    武内一忠先生の
    日本列島に拠点をおいた
    海洋民族であるラピュタ人が
    世界中を航海し、
    巨石文化を作っていった
    という研究が注目され、
    科学的考古学的観点から
    その実証がされつつあります。
    世界の巨石や磐座、
    そこに刻まれた文字や印を調べることで
    世界の文明は繋がっており、
    元々、ひとつであったという
    【エンシェント・ワンワールド】が
    提唱されており、
    その中心に日本列島があるのです。
    縄文人がポリネシアや
    アメリカ大陸まで
    海流に乗って行っていたことは、
    以前から言われていましたが、
    縄文海進の頃は海面の上昇で、
    北極海航路が開けており、
    北欧はすぐ側であり、
    欧州や中近東までも
    航海していたようです。
    このラピュタ人というか
    縄文人たちは、
    航海に必要な【水】を求め、
    腐らない綺麗な水を
    上陸した各地で探し、
    その水の湧き出るところに
    磐座を作り祀ったといいます。
    航海に必要な水を運ぶのに
    土器が必要になります。
    土器を持つ人たちであった
    ということです。
    広大な海原を渡るためには、
    星読みが必須です。
    海洋民族は星信仰なのです。
    それは北極星のみではなく、
    夜空の天体の動きが
    時間と方角を表すため、
    その基準となる目立つ星は
    全て重要であったと思います。
    水も星も
    航海に出る人たちにとっては
    命に直結する問題です。
    縄文時代には
    星神社の麓まで
    かなり海が入り組んでいたでしょうね。
    天空全体が見渡せる
    素晴らしいロケーションです。
    海まで観えていたと思いますし、
    海からも目印として
    キャッチできたと思います。
    世界中に広がった縄文人は
    寒冷化で北極海が閉鎖されると、
    行き来出来なくなり、
    各地で子孫を残し、
    色んな文明を作ってゆきますが、
    先祖の伝承や遺伝子の記憶に、
    【東からやって来た】という意識が
    伝えられてゆき、
    【東へ帰ろう】という行動が、
    永い歴史の中で幾度もおこり、
    実際に日本列島へ
    さざなみのように押し寄せている
    渡来人の多くが、
    出戻りだと言われています。
    この都市伝説と見なされていたお話が
    世界中の研究によって
    立証されつつあるのです。
    出雲族も徐福族も
    そのひとつであって、
    グルグルと回っている
    循環の渦の中にいます。
    縄文時代は
    【磐と水の文化】でした。
    見せていただいた
    【高龗神社】や【亥子社】は
    正に縄文の水の祭祀を
    表しています。
    【亥】とは猪🐗ですが、
    子沢山の子孫繁栄とともに、
    【ゐ・ヰ】という音♪が
    【井戸】つまり
    水源を表します。
    磐と水源の
    密接な繋がりです。
    【甕・瓶】も【井】と
    同じ意味を持ちます。
    水の循環こそが、
    天と地を結び、
    新たな命を生み出すことであり、
    縄文から続く祭祀であったと思います。
    水神から日神へ
    その重要さが移るのは、
    農耕社会への移行が
    大きな原因であったと推察します。
    四季の巡りによって、
    いつ種を蒔き、収穫するか…
    これを共同作業として
    行ってゆくようになります。
    暦が更に重要になって
    ゆくわけですね。
    水田造りや水の管理、
    食料の保管など、
    集団的な行動が多くなり、
    集落から国へと発展していったのが
    弥生時代であり、
    山での水の文化から、
    平地に下りて農耕を始めた
    日の文化への
    移行であったと思います。
    勿論、農耕にも
    水が必要なことは変わりなく、
    日の神と水の神は
    表裏一体であり、
    水の祭祀は続けられてゆきます。
    天照大神の荒御魂が
    瀬織津姫というのは
    その本質を表しています。
    出雲王国ができたのは、
    弥生時代に入ってからです。
    太陽中心の祭祀が
    既に社会を形成し、
    それで王国が出来上がったと思います。
    出雲族も、
    山の中での水の祭祀を
    行っていたことは
    各地に残されている多くの磐座からも
    推測できます。
    出雲族は、
    彼らが渡来する以前から
    日も月も星も読みながら
    磐座を造っていた縄文人と、
    2000年のときをかけて、
    じっくり融合同化してゆきます。
    徐福族が海を渡って来たのは、
    ちょうどその頃です。
    海人族を引き連れて、
    海を渡って来た徐福族は
    当然、星読みが生活の中で、
    重要な位置を示していたと思います。
    その徐福族も、
    それ以前から日本に住んでいた
    縄文人たちと混血しながら、
    融合してゆき、
    日本の文化が培われてゆきます。
    正史とされている日本の歴史は、
    天皇家の始まるこの時が
    基準点となっているのですね。
    それ以前は
    文字で記録されていなかったので、
    残されていないからです。
    しかし、
    文字がなくても意識が伝わり、
    文字は必要なかっただけで、
    磐座をみれば、
    そこにどれほど永い年月の
    人々の生きた証しがあるか、
    伝わって来ますね。
    物部の星信仰と言いますが、
    それ以前の人々の意識の上に
    乗っかって
    融合していったに過ぎないのです。
    後に言われる
    妙見信仰もしかりです。
    太古からずっと
    重なっているのです。

    • @mayumi3300
      @mayumi3300 3 месяца назад +2

      出雲口伝には、
      いくつも宗教争いが
      記されていますが、
      ひとつは
      先に争いがあって、
      その旗印にされたとき。
      これは第二次東征ですね。
      先に東征するという意志があって、
      その正当性のために
      神さまを旗印としたわけです。
      イクメ王が狭穂姫を妃にしたように
      別に月神でなくても良かったのです。
      もう一つは、
      相手を服従させようと
      自分たちのやり方を
      強制しようとした場合、
      争いになります。
      出雲に移住した徐福族が
      星神を拝む分には、
      普通に共生できたでしょう。
      ですが、
      出雲族が信仰している
      御神木の藁蛇を斬ったり、
      後にヤマトへ入っても、
      銅鐸を壊したりするから、
      争いになったのです。
      日本では
      相手を尊重すれば、
      その人が何を信仰しようと、
      別に問題視されません。
      むしろ
      一緒に融合してゆきます。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад +2

      いつも壮大な世界観からの歴史観、大変勉強になります
      ありがとうございます
      私は、超初歩的な疑問で申し訳ないのですが
      縄文時代の海洋族が世界中を航海していた
      と言われますが、例えば海の向こうに何が有るかわからない時代に
      海に向かってその向こうに何があるか分からない時代に
      船を出す事は自殺行為だろうと思います
      私なら絶対しないだろうと、昔から馬鹿なことまみれの私でも嫌です
      幾ら海洋民族だからといっても生きていればこそでしょうし
      現実的に食糧危機で次の場所に移動する事はあるでしょうけど
      日本からの海流なら太平洋は東には行けても西には帰れないでしょうし
      日本近海から離れる事は現実として考えられない
      と、その辺の知識の浅い私は思います
      日本の歴史でもよく淀川を船で上ってとか、熊野川を上ってとか
      ありますが、あの時代エンジンのない船でどうやって川が上れるのか
      歴史考察で私には考えられないような事が出て来ます
      その辺が名前の知れた方々のご考察論文には机上での資料の積み重ねにしか思えない
      素直さのない性格の私には初歩的な違和感を感じてしまいます
      とは言いながらいつも有り難く勉強させていただいています
      ありがとうございます

    • @mayumi3300
      @mayumi3300 3 месяца назад +1

      ​​@@kanji-kun1280さま
      それはやっぱり
      反対なんではないでしょうか?!
      机上で考えたら
      思いもつかないお話が
      浮上して来ているのは、
      実際に【物】が
      そこで見つかるからでしょう。
      何処か遠い地域の石であったり、
      土器であったり、
      そっくりな土人形であったり、
      建築物であったり、
      磐に刻まれる文字や記号であったり…
      同じ文化を持った人たちが
      持って来たと思わせる
      物質的証拠が
      続々と発見され、
      そのようなお説が語られるように
      なって来たのだと思います。
      日本がその中継地であろうと
      言われて有名になったのは、
      海外なのだそうです。
      日本ではほとんど、
      その研究はなされておらず、
      むしろタブー扱いのようで、
      数多くの磐座や
      ペトログラフを
      敢えて表に出したくないという
      雰囲気さえあったようです。
      磐座の多くが、
      レイラインに沿って配置されたり、
      天空の星の配置に置かれていたり、
      特別な日の特別な時間に、
      ある点を光が射すように
      設計されていたりと、
      どう見ても、
      人工的に造られたものが多く、
      太陽や星の動きを周知の上で、
      トキを測るように
      造られていたりします。
      多くの磐に刻まれた盃状穴には
      月が映ったかも
      知れないですね。
      似たようなものが
      世界中に造られています。
      人々が海へ繰り出したのは、
      その必然性があったからだと思います。
      遥か昔、氷河期には
      タイからインドシナ半島一体が
      スンダランドという大陸になっており、
      そこに住んでいた人たちが、
      海面上昇とともに海に沈んだ大陸から、
      海へ進出し、
      新しい住処を探して移動したと
      想像されています。
      マオリ族が麻布を帆として使う
      帆船を発明し、
      その技術を得たラピュタ族は
      遠洋航海が可能になっただろうと。
      逆流であっても、
      帆があれば風によって
      進むことが出来るということです。
      又、沖縄方面から
      黒潮に乗って東へ進めますが、
      2〜3年前、
      伊豆諸島で噴火した噴出物が、
      数日かけて沖縄まで
      流れついたニュースがありました。
      海流は回っており、
      その流れを読むことができれば、
      行って帰ることも
      普通に出来るようになります。
      ニュージーランドのワイタハ族の
      首長さんは、
      ずっと古代から、
      ニュージーランドと日本を
      往復していたと伝えられて来た
      と言います。
      7300年前には
      鬼界カルデラの噴火があり、
      九州は勿論、
      西日本は人が住めない状態でした。
      多くの縄文人たちが
      海を渡って、
      新天地を求めたと思われます。
      縄文時代は
      1万4000年ほど続きましたが、
      徐福が渡来したのは2000年前。
      昨日のことですね。
      更に、
      神津島産黒曜石は
      後期旧石器時代初頭
      (約38,000年前)まで
      遡ることが明らかとなり、
      これは人類史上最古の
      往復航海の証拠であり、
      国際的にも注目が集まっています。
      3万8000年前って、
      縄文時代が2回繰り返されるほど
      昔です。
      それを
      食べ物をとるわけでもなく、
      石をとるために
      海を渡っています。
      海の向こうへ行ってみたい…
      という欲求は
      案外、普通にあったかも知れません。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      おっしゃられる事全てその通りだろうと思います
      理解は出来ますが、何処となく納得しにくい部分もあります
      どこが?て言われもそれがよくわからない、ですが勉強になります
      ありがとうございます

    • @石井健次-h1n
      @石井健次-h1n 3 месяца назад +1

      @@mayumi3300
        mayumi先生、リアル棟梁、海洋民族は知っていた⁇?
         だから船を出せた⁇? もしかして猿人の時から船を使っていたかも⁇? アヌさん達の介入で猿人の知恵ってのが莫大に膨れ上がって技術が進歩した⁇? すみませんm(_ _)m ロマンの部類です♪

  • @fujioka78
    @fujioka78 2 месяца назад

    神社の紹介ありがとうございます。
    今縁あって(?)狼信仰の神社を調べ始めているのですが、色々と発散しては収束しての繰り返しです。。
    こちらの動画も狼信仰と妙見信仰の繋がりからふと拝見させていただきました。
    高龗神が狼の姿として信仰されている地域もあるという話もあり、こちらの神社に興味が湧きました。遠方なのでいずれ参拝してみようと強く思いました。
    景色はカメラ越しでは1割も表現できないですよね…。見晴らしの良い景色をスマホで収めてもつまらなく感じてしまいます。こちらの神社の景色を目に写しにいけるのを楽しみにしておきます。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  2 месяца назад

      狼ですか、信仰ですか
      奇抜と言っては失礼でしょうが、全くの不意打ち?
      と言うかタイムリーと言うか
      ちょっと話し長くなりますが、ある事から中国の古代信仰について調べています
      きっかけは、鳥見山の霊畤(レイジ)、要するに祀りの庭ですが
      それが何処から来たのか調べて行くうちに
      古代中国の斉国のあった山東半島の、八神信仰から来ていて
      そこは中国の東の果てですが、西の果ての山岳の古代信仰
      もある事が分かってついでに調べていたら
      西王母なる半獣半神がいて人間の形で虎の尾を持つ神信仰があったようです
      何故そこに反応したかと言うと、神武東征神話で吉野から宇陀に入る時に
      不思議な土着人達に出会うのですがその一つの部族が
      やはり尻尾がある人間達だったと、確か日本書紀にも書かれているそうで
      それが何を意味しているのか、とかを考えていた所の話です
      狼を擬人化すれば尻尾は残ると思えば共通点はありそうですよね
      その狼信仰は元々何処から来たものか
      直接でなくても何処かで繋がることもありますので頭の隅っこに
      置いてて頂き何か分かったらまた教えて頂けないでしょうか
      よろしくお願いします
      コメントありがとうございました

    • @fujioka78
      @fujioka78 2 месяца назад +1

      ご返信ありがとうございます。
      神武東征の宇陀の話は初めて知りました。調べ始めたばかりで記紀もあまり読み込めていませんが、尻尾のある人間(少し調べたらゐひか様?)の話はとても興味深いですね。
      狼信仰は秦氏が鍛治製鉄のヴォータン神の眷属である狼をあやかって連れてきた話(考察)もあるので、私はこの話を結構気に入っています。
      この話は神武東征の時代とは合わなそうですが、原初の頃から土着神に自然霊としての狼を祀ることは十分ありえそうなのでどこかでクロスオーバーする手掛かりがないか探ってみようと思います。
      新しい視点をありがとうございました。

  • @ロハン-q2v
    @ロハン-q2v 3 месяца назад +1

    大和神社よく奈良に住んでいた時に行っていたので懐かしいです。
    高龗神社見覚えがあったので、見た瞬間「お~!」ってなりました。取り上げる人ほぼいないですから😀😀😀
    先日、サムハラ神社(朝日みて)から鬼ノ城に回った時に、ちょうど中山神社と猿神社、
    星神社も予告されていたのでいれさせていただきました。
    猿神社は阿須伎神社の摂社の三歳社に配置がそっくりだなと思います。三歳社のほうが断然、川と山と岩山に囲まれ自然の中心の感じがしますが、昔の人たちはそういうところに作ったんだろうと感慨深かったです。
    途中、石上布都御魂神社に行きましたがここも磐座が凄かったですね。
    星神社は現地で見た感動が凄かったです。再度今回の動画で観れて有難さをかみしめました!
    鬼ノ城には行けなかったのですが、先の岩屋寺周辺の磐座が規格外で、鬼の差し上げ岩だけ見て帰るつもりが、
    1つ1つの磐座が普通では極上なのに、それが何十とあり、感動しました。
    予定変更してかなり回りました。
    きっと色々な信仰や祀り、松果体を拓いたり色々していたに違いないと、
    舞い上がって瞑想して帰りました。
    きっと鬼の城は、ここを隠すためか、守るためにあったのでしょうね!!
    ここが昔のこの辺の中心であったのは間違いなさそうで、星神社や石上ともつながるなあと思います。
    岡山のこの縦ラインすごく楽しめました。いつも動画ありがとうございます!!

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      岩屋寺って鬼ノ城の駐車場から更に奥に入って行き止まりの所ですよね
      あそこまで行きましたか
      数軒の民家があってメチャクチャいい雰囲気ですよね
      私は残念ながら時間が無く行き止まりの駐車場迄で、後は後日にしようと思って帰って来ました
      確かに、鬼の棲家はここでは無いかとGoogle map見て思いました
      あそこ迄行かれたの凄いですね、脱帽です
      あと石上布津魂神社さん、奈良天理の石上神宮の元宮説もある様です
      理由は、その布津魂の剣は元々、その赤磐市のそこから向こうに行ったとの記録が両方にあるみたいです、面白いですよね
      どの様に考察したら良いのか、また楽しみが増えました
      いろいろありがとうございました
      またコメントよろしくお願いします

    • @ロハン-q2v
      @ロハン-q2v 3 месяца назад

      石上と大神神社が大好きですので、
      よく言っていますが、
      元宮説も行けばうなづけます。
      呼ばれないといけない神社がありますが、
      石上布津魂神社さんのほうが
      呼ばれないといけない気がします。
      サムハラ神社まで行くと、そばが賀茂神社などもあって、造化三神と味鋤高彦根で出雲っぽいですが、その下は物部系かなというところも面白いです。
      岩屋は鏡岩を完全に超えていますので、
      ぜひ回ってみてください。安全ですし。4,50分かかります。
      レーラインとかいろいろひいて関係性を調べてみようと思いました。
      コメント参考になります。ありがとうございます。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад +1

      @@ロハン-q2v様
      確かに石上布津魂神社さんはまだまだ色んな角度からの切り口がある様に思いますし
      相当な魅力の広がりもあるだろうと思っています
      いずれリアル神社チャンネルでも再度の登場もあろうかと思います
      岩屋寺さん周辺の巨岩巡りもいずれ行こうと思っています
      それにしても吉備は思いのほか面白い事が最近分かりましたので
      いろいろと攻めて見たいと思っています
      ので、情報よろしくお願いします
      ありがとうございました

  • @奥野信子
    @奥野信子 3 месяца назад

    初見です。ありがとうございます。
    是非お願いしたいのですが、行きたくても車の運転もできず、また
    このように、歴史や神社仏閣に興味がある友人もまわりにおず、いつもツワーを探すのですが、慌ただしいツワーとか、なので、少し足が痛いので、行けない事が多いです。是非、ツワーを、企画して下さい。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      コロナ禍前までは特に神社巡りでは無かったですが
      ゆったりしたマニアックのツアーもやってました
      コロナで全てがすっかり変わってしまいましたが
      リアル神社チャンネルで紹介した神社巡りも
      勿論考えてはいます
      旅行代理店登録を持っている強みを生かす事は常に
      頭にはありますが、今の所まだまだ力不足ですので
      頑張りたいと思っています
      奥野様の様なご要望頂き大変嬉しく励みになります
      その節はよろしくお願いします

  • @satokatsuUT
    @satokatsuUT 3 месяца назад

    これはぜひこの目で見てみたい!岡山に行く機会があったら寄ってみます😊

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад +1

      ありがとうございます
      是非行ってみて下さい、嬉しいです

  • @石井健次-h1n
    @石井健次-h1n 3 месяца назад

    お早う御座います♪ 観光業だだたんですね〜 大工さんの棟梁かと思っていました〜😂 水神竜神これが引っ掛かりますね。徐福は出雲藁蛇を破壊して自分達の星信仰を広めようとしてましたから。徐福や物部連中は色々盗んであたかも自分達の先祖は凄い的な 今で言うマウントを取るみたいな感じ。何だか徐福達の星信仰もあやしいぅて😮思っています。徐福、物部連中は一本筋の通った信仰が無いのが怪し過ぎます。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад +1

      徐福の信仰というより当時の中国の信仰が多種多様だったのでは無いですかね
      信仰と言うより生活様式とかしきたりとか今で言えばルーティンに近いような物だったのでは無いですかね
      中国も広いし民族も、少数民族含めれば無数のいたのでは無いですかね?
      私にはその時代の事よく分かりませんが
      因みに大工の棟梁というのは良いですね
      今度からそれで行きましょうかね

  • @TK-bm6cu
    @TK-bm6cu 3 месяца назад

    いろんな神社を紹介していただき、関東の人間にとっては、いつも楽しみに見ております。物部は奥が深く想像は無限大だと思います。関先生論では、物部は吉備(瀬戸内海水運族の中心豪族か?)と断言しています。記紀では出雲は神話に記されましたが、ヤマト建国の確実に中心であった物部が隠されたのは、何か理由があったのではと謎をさぐる鍵ではと勝手に思っております。今は関先生論と出雲口伝からの筋立てを試行錯誤していて思考中で、頭の中はごちゃごちゃです笑。一口に物部といっても、広範囲のため難しいが、勢力拡大・分派・内紛・出雲との協調・対立があってヤマトに収斂していったことは想像できるくらいにはきました。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад +1

      いつも見て頂きありがとうございます
      物部は日本の歴史から徐福を完全に隠す為に極力表から
      消されたのだと思います
      一番消したかったのは丹波のカゴヤマ、
      海部氏達で初代大王の天の村雲でしょう
      要するに、カゴヤマは五十猛であり、出雲ではホアカリと名乗った
      徐福の子です、
      日本の初代天皇とした神武天皇が村雲でそのじいちゃんが徐福だと
      天皇の祖が徐福となるのが最も消さなければならない事で
      その続きで同じく徐福の子からの物部も極力表に出したく無い
      出雲口伝ではそのようです
      私もそこは基本の考察にしています
      何故ならシンプルでスッキリするからです
      出雲口伝は実在の人間の話で亡くなってから神として神社に祀った
      その神社が○○です、と言う流れですので神社から歴史考察するタイプの
      私には大変有難いです
      長くなりましたが、参考になりましたでしょうか
      これからもよろしくお願いします
      コメントありがとうございました

  • @drk671FUJIsun
    @drk671FUJIsun 3 месяца назад

    星神社の紹介ありがとうございます。いいところだというのは十分に伝わってきました。物部氏は星信仰ですよね。でしたら、夜景の動画があるともっといいのではないでしょうか?山の上に木をあえて伐採して作ったというのは今でいう天文台を兼ねているわけですよね。特に南に開けた木を伐採しているということは南の星座に関係してくるかもしれません。天文学に強い方がいれば創建当時の星空どこまでの星が観測可能だったのか推定できます。おそらく、南への関心が深い人たちだったのでしょう。
    それから質問です。出雲の口伝によれば、物部氏の祖先は徐福が2度目に渡来した時にニギハヤヒとなのり、その子孫が物部氏ということでよろしいのでしょうか?天孫族であるのは徐福一行ですよね。その中に案内人として海部族がいたということでしょうか?それとも、すでに南方から渡ってきて自由に航海できる人々が九州北部にいたということでしょうか?
    次回の奈良も楽しみにしています。

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад +1

      素晴らしさを感じて頂き嬉しいです
      ありがとうございます
      星信仰もなかなか言葉は単純ですが、
      信仰となると実態を知るには、
      そして決めつけるのは難しい感じですね
      同じく、海洋族も更に難しいと思います
      海部族は私の区分けでは海洋民族の海人族とは違って
      丹波のカゴヤマ(出雲五十猛系で徐福の子)の事を指しています
      葛城に進出して、初代大王、天の村雲系です
      で、海洋民族は世界中にいたでしょうから徐福の渡海に関しては
      本に書いてないので分かりません
      徐福は出雲上陸が2度目となっていますが、私はそこが1度目で良いように思います
      で、出雲王国の主王と副王の拉致監禁殺害事件で徐福が疑われた
      中国へ逃げて一旦帰り、その後約10年後に再び筑紫へ上陸、今度は
      たくさんの人を連れて来て一代勢力を作ります
      そして彼は饒速日を名乗ります
      その徐福の子、ヒココホデミが物部の祖となっていますので
      物部の祖はヒココホデミであり饒速日と言えるわけですが
      天孫族とかのしんわの話ではなく実在の人間の話です
      勿論出雲口伝の話ですが
      私はスッキリしてますので、考察の基本線にさせて頂いています
      そのような事でよろしくお願いします
      コメントありがとうございました

  • @北浦浩二
    @北浦浩二 3 месяца назад

    物部氏はアマテラス族の一員ではありますがニギハヤヒの子孫ではありませんニギハヤヒは北部九州から河内に、入植した弱小勢力です

    • @kanji-kun1280
      @kanji-kun1280  3 месяца назад

      私にはアマテラス族と言う括りがよく分かりませんが
      「そうなんですか」
      としか私にはお答えしようが無いですね
      コメントありがとうございました