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奇襲のところばかり取りざたされるが、実際には今川軍進出経路にある城をいくつか囮にして今川軍を分散させつつ誘引し、本陣が入り組んだ地形のところで手薄になるのをじっくり待っていた。単に大将首を取るだけだと報復で殲滅される恐れがあるが、今川軍は補給線を絶たれることを警戒して撤退した。地の利を十分に活かしたよく練られた戦術・戦略で、狂気や閃きでやったものではない。
織田の兵が統一戦争を経て精鋭化してたのも正面攻撃が成功した要因の一つとしてありそう
信長公記にも書いてある通り、桶狭間は地形が入り組んだ湿地。孫氏の兵法では大軍が近付いてはいけない場所である。小さな部隊に分散して着陣せざるを得ず、信長軍が近付くのが見えても本陣へは遠回りになる。また信長が攻めてきたことを知らない部隊もいたはずで、主君が討ちとられたことを後で知ることになる。
桶狭間の戦いは近年では義元を誘き出す為に信長が仕掛けた壮大な誘導作戦だったとされてますね大高城の救援が義元の目的だったとされてます
うぽつです。水野信元は信長とは同盟関係であって家臣ではないですよ。
今川本陣は高い場所にありしかも織田軍は兵力に劣るから正面突破などという馬鹿な戦いはしまいと義元は油断しておりその馬鹿な戦い方によって義元は討ち死にという信長のセンスが光っている。
もっと絶望的な状況で戦った武将がいます。毛利元就とかいう武将が…。
今川軍の総数2万5000の大軍だったと言うが、大高城に行った部隊や後詰め部隊など複数の部隊が展開してたから、本陣周辺には5000程しかいなかったので織田軍と大差ないくらいの兵差だったと言う説がありますね…
その内から、前衛に兵を割いていたから本隊は兵数的に変わらなかったと言われてますね。
これと似たようなことが1800年前に起きている。キングダムの信が楚の項燕に負ける状況と同じで、勝利に浮かれて油断した軍は大軍でも奇襲に弱い。信は討ち取られずに済んだが優秀な部下を多く失った。この後の信長は王翦のように大軍を使うようになるけど信長は史記でも読んでたのかな?
こことジャンルが同じYUKIMURA CHANNELの主人公格は信長はじめ家康、北条氏康といい古典読みの勉強家ぞろいだったなあ。あれは史実準拠なのか・・・
兵力差を逆転したってこともでも十分イカレているが それ以上にイカレているのが 史上唯一の戦国大名の本隊同士の戦いという
総大将討死した戦って桶狭間と沖田畷の2ヶしか無いし同時に小が大を倒した戦いでもありかなり珍しい(小が大を倒す戦は他にも有る)
武田さんも入れてあげてください。
@@しくじり大名を紹介チャンネルゆっ 武田元繁ね。
上杉定正「許された!!!」
信長は家督相続して五から六年は経っていた。義元に至っては1558年あたりで家督を氏真に譲り隠居している。本能寺も信長は6年前には隠居しており、信忠が当主だった。まあ、二人とも隠居をしても共同統治みたいな状態だったようだが。沖田畷の龍造寺隆信も討ち死にした時は息子に家督を譲り隠居していた。隆信も義元も自分が元気なうちに息子に家督を譲り後見し、息子の政権を安定させる計画だった。本能寺の前の武田討伐は信忠が総大将だったようで、信長はほぼ勝ちが決まってから甲斐に向かっている。誤算だったのは安全圏であった京都に信長だけでなく信忠までがいたことながら、人数は少なくても手練れを連れて宿泊していたことだけは確かなようだ。
実は暑すぎてヒョウが降っていた説があるで。ヒョウは猛暑にたまに降る氷の事や。
22:20 家康って十分サイコパスだよね。 人の命などなんとも思ってない。
別働隊でスピーディーに動いたのが効いたね
アレ?前田犬千代が首を持ってきたのは、信長公が「首実験はしないから、討ち捨てにせよ」と命令してる途中という、最悪のタイミングじゃなかったっけ? 信長公は犬千代を無視して、3度繰り返して「討ち捨て」を徹底するように言い含めた。今川が崩れた要因の一つは↓であろうかと「なんで倒した相手の首を持って帰ろうとしない?コイツら褒美が欲しくないんか?」「やばい!こいつら殺人鬼にちがいない!!うわああああ!」
今川の新喜劇義元新喜劇つくつてくれないかな
祖父の義忠も一揆勢相手に討ち死にしてるし、今川当主は油断しがちなのかもね義元も沓掛城に留まって指揮してれば良かったのに距離1.5km 徒歩1時間の距離の桶狭間で討たれるとは
教訓「調子に乗ってはいけない」
初コメです信長の奇襲はない可能性が高いですよね
ああ…少なくとも、旧来の大胆に迂回しての奇襲はないが半ば定説となってますからねぇ。(先発隊を囮にし、本隊が今川本陣を迂回襲撃説までは否定していない)
油断だと思う🤔国力差でも兵力差でも圧倒してたし、今川は点の制圧から面の制圧にも移れてたから。情報や諜報を担当してた手下の忍者部隊の手柄でしょう
いやあの…正面だろうが側面だろうが風雨を利用して寡兵で奇襲(強襲)したって事に何の変りもないですやんw
死者数3743人って確認されてる数字なの?
NHK歴史探偵では、奇襲ではなかった。尾張の石高は高く信長は小大名ではなかった。対今川に際し六角氏、浅井氏と3国同盟を結んでいた。って言ってましたね。
ご視聴ありがとうございます!なるほどですね!日本史はいろんな通説があると思いますので、こういう話もあるという目線で楽しんでもらえれば幸いです!
浅井と六角と結んでいたとすれば、この両者の信長への援助とは美濃と伊勢を牽制する事でしょうか?そうすれば信長が対今川に投入できる兵力は増えますし、浅井、六角はあわよくば国境付近の領土を増やせますし。
@@my-eg8ge さん歴史探偵ではそこまでは深くはやりませんでしたが、思惑はあったと思います。3国同盟については六角氏所蔵の書簡に記されているとの事でしたので実際にあったと思われます。
例え10倍の戦力差があっても信長には始めから勝算があったからこそに義元を駿河から誘い出した
優れた弓取りだったとかいう根拠で名将扱いされるとは、笑えますね。知恵が足りない。当時の人は騙されやすかったのでしょうね。
桶狭間は信長が自殺しようとした説があるな
水野信元。 石川数政。の働きは 初めて聞きました。有難う御座いました。家康も 義元が暗殺された時の 適確な行動は さすがでしたね。 本当に、、鳴くまで待とう時鳥 でしたね。。。。。。笑い。。。これからも、よろしくお願いします。
耳悪く、ものすごい聞きづらいけど
奇襲のところばかり取りざたされるが、実際には今川軍進出経路にある城をいくつか囮にして今川軍を分散させつつ誘引し、本陣が入り組んだ地形のところで手薄になるのをじっくり待っていた。
単に大将首を取るだけだと報復で殲滅される恐れがあるが、今川軍は補給線を絶たれることを警戒して撤退した。地の利を十分に活かしたよく練られた戦術・戦略で、狂気や閃きでやったものではない。
織田の兵が統一戦争を経て精鋭化してたのも正面攻撃が成功した要因の一つとしてありそう
信長公記にも書いてある通り、桶狭間は地形が入り組んだ湿地。
孫氏の兵法では大軍が近付いてはいけない場所である。
小さな部隊に分散して着陣せざるを得ず、信長軍が近付くのが見えても本陣へは遠回りになる。
また信長が攻めてきたことを知らない部隊もいたはずで、主君が討ちとられたことを後で知ることになる。
桶狭間の戦いは近年では義元を誘き出す為に信長が仕掛けた壮大な誘導作戦だったとされてますね
大高城の救援が義元の目的だったとされてます
うぽつです。水野信元は信長とは同盟関係であって家臣ではないですよ。
今川本陣は高い場所にありしかも織田軍は兵力に劣るから正面突破などという馬鹿な戦いはしまいと義元は油断しており
その馬鹿な戦い方によって義元は討ち死にという信長のセンスが光っている。
もっと絶望的な状況で戦った武将がいます。
毛利元就とかいう武将が…。
今川軍の総数2万5000の大軍だったと言うが、大高城に行った部隊や後詰め部隊など複数の部隊が展開してたから、本陣周辺には5000程しかいなかったので織田軍と大差ないくらいの兵差だったと言う説がありますね…
その内から、前衛に兵を割いていたから本隊は兵数的に変わらなかったと言われてますね。
これと似たようなことが1800年前に起きている。キングダムの信が楚の項燕に負ける状況と同じで、勝利に浮かれて油断した軍は大軍でも奇襲に弱い。信は討ち取られずに済んだが優秀な部下を多く失った。
この後の信長は王翦のように大軍を使うようになるけど信長は史記でも読んでたのかな?
こことジャンルが同じYUKIMURA CHANNELの主人公格は信長はじめ家康、北条氏康といい古典読みの勉強家ぞろいだったなあ。あれは史実準拠なのか・・・
兵力差を逆転したってこともでも十分
イカレているが それ以上にイカレて
いるのが 史上唯一の戦国大名の
本隊同士の戦いという
総大将討死した戦って
桶狭間と
沖田畷の
2ヶしか無いし
同時に
小が大を倒した戦いでもあり
かなり珍しい
(小が大を倒す戦は他にも有る)
武田さんも入れてあげてください。
@@しくじり大名を紹介チャンネルゆっ
武田元繁ね。
上杉定正「許された!!!」
信長は家督相続して五から六年は経っていた。義元に至っては1558年あたりで家督を氏真に譲り隠居している。
本能寺も信長は6年前には隠居しており、信忠が当主だった。
まあ、二人とも隠居をしても共同統治みたいな状態だったようだが。
沖田畷の龍造寺隆信も討ち死にした時は息子に家督を譲り隠居していた。
隆信も義元も自分が元気なうちに息子に家督を譲り後見し、息子の政権を安定させる計画だった。
本能寺の前の武田討伐は信忠が総大将だったようで、信長はほぼ勝ちが決まってから甲斐に向かっている。誤算だったのは安全圏であった京都に信長だけでなく信忠までがいたことながら、人数は少なくても手練れを連れて宿泊していたことだけは確かなようだ。
実は暑すぎてヒョウが降っていた説があるで。
ヒョウは猛暑にたまに降る氷の事や。
22:20 家康って十分サイコパスだよね。 人の命などなんとも思ってない。
別働隊でスピーディーに動いたのが効いたね
アレ?前田犬千代が首を持ってきたのは、信長公が「首実験はしないから、討ち捨てにせよ」と命令してる途中という、
最悪のタイミングじゃなかったっけ? 信長公は犬千代を無視して、3度繰り返して「討ち捨て」を徹底するように言い含めた。
今川が崩れた要因の一つは↓であろうかと
「なんで倒した相手の首を持って帰ろうとしない?コイツら褒美が欲しくないんか?」
「やばい!こいつら殺人鬼にちがいない!!うわああああ!」
今川の新喜劇義元新喜劇つくつてくれないかな
祖父の義忠も一揆勢相手に討ち死にしてるし、今川当主は油断しがちなのかもね
義元も沓掛城に留まって指揮してれば良かったのに
距離1.5km 徒歩1時間の距離の桶狭間で討たれるとは
教訓「調子に乗ってはいけない」
初コメです信長の奇襲はない可能性が高いですよね
ああ…少なくとも、旧来の大胆に迂回しての奇襲はないが半ば定説となってますからねぇ。
(先発隊を囮にし、本隊が今川本陣を迂回襲撃説までは否定していない)
油断だと思う🤔
国力差でも兵力差でも圧倒してたし、今川は点の制圧から面の制圧にも移れてたから。
情報や諜報を担当してた手下の忍者部隊の手柄でしょう
いやあの…正面だろうが側面だろうが風雨を利用して寡兵で奇襲(強襲)したって事に何の変りもないですやんw
死者数3743人って確認されてる数字なの?
NHK歴史探偵では、奇襲ではなかった。尾張の石高は高く信長は小大名ではなかった。対今川に際し六角氏、浅井氏と3国同盟を結んでいた。って言ってましたね。
ご視聴ありがとうございます!
なるほどですね!日本史はいろんな通説があると思いますので、こういう話もあるという目線で楽しんでもらえれば幸いです!
浅井と六角と結んでいたとすれば、この両者の信長への援助とは美濃と伊勢を牽制する事でしょうか?そうすれば信長が対今川に投入できる兵力は増えますし、浅井、六角はあわよくば国境付近の領土を増やせますし。
@@my-eg8ge さん
歴史探偵ではそこまでは深くはやりませんでしたが、思惑はあったと思います。3国同盟については六角氏所蔵の書簡に記されているとの事でしたので実際にあったと思われます。
例え10倍の戦力差があっても信長には始めから勝算があったからこそに義元を駿河から誘い出した
優れた弓取りだったとかいう根拠で名将扱いされるとは、笑えますね。
知恵が足りない。
当時の人は騙されやすかったのでしょうね。
桶狭間は信長が自殺しようとした説があるな
水野信元。 石川数政。の働きは 初めて聞きました。有難う御座いました。家康も 義元が暗殺された時の 適確な行動は さすがでしたね。 本当に、、鳴くまで待とう時鳥 でしたね。。。。。。笑い。。。これからも、よろしくお願いします。
耳悪く、ものすごい聞きづらいけど