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「どうする家康」の予習でもあり、「麒麟がくる」の復習でもあるw
愛知県人です。いつも拝聴しております。三河安城に一度も停車したことがないとのことですが、一度お立ち寄りいただいてぜひとも安城城址や刈谷城址にお立ち寄りください。安城城址は鍋之介忠勝の父親の「音に聞こえた勇士」本田忠高終焉の地碑などがあります。刈谷城址は家康の生母「於大の方」の生誕地です。
於大の方の生誕地は、刈谷の隣りの東浦町緒川城です。
最期だけで義元が無能扱いされてるのは可哀想だなといつも思います...功績ももっと日の目を浴びるといいですね...
まあ、確かに信長が義元を討ち取ったのは全くの運ですからね信長公記によると朝は天気がよかったのに「俄かに急雨、石氷を投げ打つ様に」と雹まじりの突然の豪雨「敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」と強風が伴い、今川には向かい風、織田軍には追い風。「沓掛の到下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。」しかも楠の巨木が倒れるほどの強風(現在の推測では風速45m以上)。豪雨で100m先も見えない状態で織田軍は追い風でどんどん進みますが、今川は視界が効かず織田軍の接近は感知できません(こんな気象条件で織田軍が進軍してるとも思わない)。にわかに強風を伴う豪雨’が止んで視界がよくなった時には、義元の本陣は目の前で、突風の影響で、武器や旗指物、義元の塗輿などが散乱した状態。信長にすれば超ラッキー。天候の急変がなければ普通に今川が勝利していたでしょうが、運も強さと考えれば、やはり信長の方が強かったということでしょうか。
今回も解りやすい歴史解説で、今川義元の天下取りに関する話が俗説と聞かされてびっくりしました。私にとってミスター武士道さんの解説は大河ドラマ鑑賞の善きお供となりました。
こんにちは。今日からの松潤家康、たいへん楽しみです。1日楽しむなら本よ読み、1年楽しむなら大河を観ることです。1年間よろしくお願いします。
三河の住人です安城城とは呼ばず安祥城(あんしょうじょう)と言ってます今は安祥城址に安城歴史博物館が建ってますよ三河安城駅はちょっと遠いなっていうのが地元民の僕の印象です安城市を紹介して下さったのはとても嬉しかったです(*^^*)追記どうやら今の学説では戦国期は安城城と言われていたと言うのが主流になっているようです歴史は変化するんですね
いいスタートが切れそうな予習動画ありがとうございます!
武士道さんの実に分かり易い動画解説で、本日初回の「どうする家康」を見るのが非常に楽しみになってきました。今年も戦国バナシを視聴させて頂きます。
毎回めっちゃ面白いですね。丁寧で知らなかった解説もいっぱいです
いよいよ今日からですね〜解説も楽しみにしております😃
大河ドラマを観てこのRUclips観てます(笑)解説分かりやすくて助かります!!戦国時代、面白い!
大河では1話で今川が討ち取られ、もう少し尾張、三河、駿河の関係とかやってほしかったなっと思っていましたので、良かったです。勉強になりました🙇
尾張の民なので序盤は知ってる地名が多そうで楽しみです~今年の大河の宜しくお願い致します!
どうする家康が今日始まる楽しみですねぶしどうさん
「家康が織田家に人質になった過程」がこれまでの「今川家に人質に出す予定が移動中に家臣が裏切って織田家に走った」という定説が不自然だと考えていたのですがこの説なら納得です。
麒麟がくるの時の記憶が呼び起こされる解説ですねえ😊登場人物も麒麟キャストで蘇ります
「戦国時代の武士が皆天下を目指していたわけではない」。自分も長年そういう誤解を持ったままでした。近年では『真田丸』の真田昌幸が自分の両道をなるべく守りたい、多少は増やしたいという風に描かれていたので、ずいぶんその誤解からも解放されていました。今回の今川義元もまたそう思っていたとすると、ずいぶん戦国時代を見る目も変わってくるものです。桶狭間の戦いの背景もこうやってみると、上洛戦ではなかったのかもしれませんね。いつも詳しい背景説明、ありがとうございます。
「守山崩れ」については多数の一次資料に記載があり、松平清康が家臣に斬られたことはほぼ確定と言われています。松平広忠についても家臣に襲撃されたことは確実視されていますが、そのときは致命傷に至らず後に病死との見方が主流。大河ドラマ「葵徳川三代」では広忠についても(よりドラマティックな)「家臣による斬殺説」を採っており、「猜疑心の強い家康像」の根拠としていました。
なるほど今日のどうする家康だと人質時代すっ飛ばされてたのでその時代のこともあってわかりやすかったです
10分50秒でなんでジャギ?って思いましたが、信長=ジャギ説ってことなのかw爆笑しました。たしかに「俺の名を言ってみろ」って言いそうw
小学生の頃、今川義元はダメダメ武将だと思ってた矢先、スーファミの信長の野望 武将風雲録で「政治87」「戦闘79」…?まぁまぁ強えぇじゃん!と思った記憶。
家康日記と併せて、大河の前に楽しませてもらってます☺️
こちらの動画では、まだ鼻声ですが、呉座先生のチャンネルでは元気なお姿拝見!ちょっと緊張されてたかな。 年末は公私ともに多忙極まりなかったようで様子、どうぞ体調管理気を付けてくださいね。どうする予習! いい響きですねぇ。おかげさまで、大河視聴前の下地ができました。今回の予習から、遠い記憶が蘇り、アニメ徳川家康少年時代を見て、度々、涙していたなぁと思いだしました。
明けましておめでとうございます。学生時代は歴史なんて昔の授業は大嫌いでしたが、ネットが発達した現代になって面白さが分かって大河ドラマを毎週必ず見てます。テレビだけでは理解出来ない部分を動画解説を見てからテレビを見るようにすると歴史の面白さが分かります。( 歳のせいかも知れませんがね ) 今年一年も宜しくお願いいたします。
いよいよ、今日から大河ドラマスタートですね!!
いつも通りわかりやすい説明ありがとうございます。第一級資料である信長公記をきちんと解読すると、桶狭間の戦いは奇襲ですらなかったという説も有力らしいですね。それとおっしゃる通り今川義元が上洛を見据えての行動というのも資料が無いので否定されてますよね。。。現実ってそんなにドラマチックでは無いんですよね。。。江戸時代の庶民が作った講談話しがいかにも本当の歴史かのように語られてしまってるんですよね司馬遼太郎とか池波正太郎とか素晴らしい書き手によって。。。
(当時の海岸線で)伊勢湾岸に近い今川方の「大高城」の兵站を遮断する目的で築かれた織田方の丸根砦と鷲津砦を攻略するために義元が出陣し、松平元康は大高城に兵糧を運び入れる役目を命令されたとの説があります。
実は対岸の蟹江長島をおさえていた服部氏が今川方だったりします信長を海上封鎖する形で侵攻を進めてるんですよね
小和田先生監修の「戦国史」にも「義元は今川軍が丸根砦、鷲津砦を落とした後、大高城に向かったとみられ、その途中の桶狭間で休息を取った」と書いてあります。
義元が優秀な武将であったことは疑いの余地はないです。周りがさらに化け物だらけだっただけのこと。
麒麟がくるの序盤を見返すのもいいですね。😊
10:55 ジャギ様降臨ww
兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!まさか信長がジャギ様だったとは…
いつもわかりやすい解説で楽しんでます。安城市出身ですが、地元で安城のお城は安祥城と習っていた覚えがあります。
『安祥城』、『安城城』どちらも間違っていません。史跡では前者ですけど。古地図でも『安城』という表記が残っています。武士道さんは歴史ビギナーに向けてイメージが湧きやすいようあえて『三河安城城』としてると思います。こんな表現、今まで私も聞かなかったです😅ちなみに私も三河出身です。
名鉄豊田駅から、バスで、松平の祖-松平郷に、去年-秋に行きました!
丁寧に解説していただけるのは非常にありがたいのですが、これから『太原雪斎』は『バトル坊主』としか読めなくなりそうです…
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。っていうか、鼻声ですな〜。お身体御大切に。😢 野村萬斎さんの今川義元、かっこよかったですネ。麒麟がくる とか 直虎 の設定と比較しながら解説していただけると 色々腑に落ちると思いますので、よろしくお願いしてもいいですか…⁈😅
桶狭間の戦い、何故起きたか?の解説、有り難うございます『麒麟がくる』でも、この戦いは描かれましたが、この時の主人公は明智光秀だったから、私自身よく理解出来てませんでしたが…今回は徳川家康が主人公で、今川方の人質になっているので武士道さんの解説で、よく理解できました 今川義元は、デブデブで馬に股がれないと私も最初は思っていました なるほど!過去の通説が覆りそうですね今夜からスタートするから楽しみです
清康の仇を取らない広忠優しい
最近の今川義元は片岡愛之助さんや、谷原章介さんや、野村萬斎さんみたいにイケおじの人が演じますね
尾張国境の確保が本線だとは思いますが、うまくすれば尾張併呑。そこまでいけば上洛も見えて来る。ということで、すごーく広く長い意味では、上洛戦の第一歩といえなくないと思います。
今までメディアで描かれてきた義元公の人物像・野心と、伝聞などによる周囲からの評価や逸話に若干の違和感を覚えていたので、今回の動画を見て日頃のモヤモヤが晴れた気がしました
麒麟では竹千代が信長に、今川は敵です、とハッキリ言っていましたし母上は❤だけど父上は好きではないとも言っていました幼いながらも大人の事情がわかっていたのでしょう末森城の信秀、信勝、土田御前…麒麟が蘇りますね
麒麟がくるで広忠が暗殺されたり、人質交換の話がありましたね。思い出してきました。麒麟がくるを見ていたのでそこら辺の話も面白そうですね😄
山口氏の惨殺のエピソード確か直虎でやってたような🤔
山口氏に限らず本国に呼び寄せての謀殺は義元の時代かなりの頻度で行われてました、要は今川家では疑わしきは罰するを常に行い不安を解消すると言う政策が行われていました。氏真、寿桂尼の代になるとそういう苛烈な政策が国人衆の不満を呼び謀反が増えるに従い謀殺の数も更に増えて行きます。
@@m.i.9104 確か氏真も相当数の惨殺をやっていたとどこかで聞いたけど詳しくは覚えてないけど😅
@@亮白鳥 直虎で言う所の直親殺害が遠州錯乱の始まりですね、そこから謀反、粛正が繰り広げられる感じです。
今川の静岡県は平地が少ない、石高が見込める濃尾平野が目的だと思います。
今川義元の上洛理由が、よく分かりました。竹千代が今川方の人質だったことはよく知られてますが、その前に織田方にも人質だったことは、知りませんでした。なぜ今川義元は戦を起こすまでして、竹千代を奪還したのでしょうか?松平家を支援すると誓っていたからということですが、当時の戦国大名同士の同盟関係は、情勢変化によってすぐ変わるので、その点が少し不思議に感じました。
刈谷市出身です。於大の方生誕地は、刈谷城址(亀城公園)から歩いて5分くらいで行けます。お立ち寄りください!
於大の方の生誕地は、緒川城です。
「安城城」、大阪人が犬の話をしてるのを思い出しました。「これチャウチャウちゃうん?」「ちゃうちゃう、チャウチャウちゃう!」『どうする家康』のドラマ内で一番気になったのはMJと我らが有村架純ちゃんがkissシーン(寸止め)接吻って戦国時代からあったのですかね⁉️時代考証の先生がOK出してるから、戦国時代も接吻してたんでしょうね⁉️『どうする家康』と題してますが、戦国武将じゃなくても人間誰しも「人生の岐路」ってありますよね⁉️徳川家康って、とりわけ岐路が多いんでしょうか⁉️⁉️
一説には今川那古野氏が築城した那古野城が織田信秀に騙し討ち同然に占領されたので旧領奪還と言う名目もあったらしいですね。実際は熱田神宮の利権が目的だったとも。
太原雪斎を「バトルボーズ(坊主)」と言ったミスター武士道さんに座布団1枚!中国でいう「軍師」っぽい人だったんですよね。
いつも楽しく拝見しています。歴史のチャンネルなので、敢えて重箱の隅をつつかして下さい。松平氏の読み方は"ま→つだいら"ではなくて、"ま↑つだいら"です。発音を文字に起こすのは難しいのですが、、、
いつも拝見しております。お風邪ですかね?いつもより鼻声😅ご自愛ください!
この図で見ると広忠が三河方面にいるイメージだけど、岡崎城意外と近いんだよな。矢作川越えたらすぐだからな。オマケに属国の水野氏とかいるから織田信秀の実質の勢力領域も狭いし、反広忠勢力に竹千代さらわれるし、複雑だな。
時系列がわからなくなったのですが、鳴海城の周りに信長が築いたいくつかの砦は味方である鳴海城を今川から守るために築かれたものということなんですかね、、、今川方の鳴海城を落とすためではなくて。既に今川方になった鳴海城を信長が砦で取り囲んだので、鳴海城界隈の支配を磐石なものにするためその砦を排除しに向かった?
雪斎がいれば・・・
居ても結果は同じ。
でも雪斎が居たから武田や北条とも盟約を結べたし花倉の乱も雪斎が居たから勝てた
太原雪斎=バトル坊主😆
呉座先生とのコラボ動画見ました。呉座先生のような高学歴で社会的地位のある人物にVIP待遇を受けた気分はどうですか。春木先生も呉座先生も本当に良い人ですよね。
桶狭間の戦いの根拠がわかったのびっくりですね😊前座として織田家の内紛の話ししてますけどそちらの解決が分からないまま桶狭間になってたので内紛はもちろん信長が治めたのは分かるんですがそこも説明してもらいたかったです
結論だけ言いますと、信長は仮病を使い、弟を見舞いに来させてその場で殺して終わりです。怖っ!!!
広忠さん確か家臣の人に暗殺されましたね…って自分は他のRUclipsの人ので聞きました‼️
今川氏親が三河や尾張を統治しようとした事もあり今川家では東海道の制圧が大願だったのかもしれませんね。俗説かもしれませんが兄である玄広恵探の忠告を聞いていれば…。
桶狭間戦いは歴史で習った。大河ドラマでも観たし、戦国時代大好きな私はわくわくするよ‼️信長さんが有名なった戦いだよ
今川氏親が1521年に尾張に那古野城を築城し一族の今川氏豊を城主していたので、義元は尾張侵攻を旧領回復程度の意識で行ったのだと思います。
元々は行きがかり上尾張の東部知多半島の半分くらいまでが今川領だったわけですよね。信長の家督相続の混乱期に乗じての今川家当主の歴代の成果と言いますか・・・。元をたどれば尾張守護の斯波氏と今川氏は犬猿の仲で(二代前の当主の義忠が討ち死にして伊勢新九郎の台頭のきっかけを作ったってのもありますし)まあいつかは起こる決戦だったと
👍👍👍
きっかけそんな単純なのか。それにしては軍勢が多いような。かなり前から用意してたのかな。
守山崩れは父親が謀反で殺されたと勘違いした家臣が敵討ちした事件です。
松平家の家督争いは、清康の父親を松平一門で隠居させたときに清康の祖父に溺愛されている息子の桜井松平信定が跡を継げなかったので刈谷の水野氏や勝幡織田信秀と松平宗家乗っ取りを企んだことが始まり。
それを知った松平清康は勝幡織田信秀と織田家の主導権争いをしている小田井織田寬故と組んで勝幡織田信秀が美濃の斎藤道三と戦っているすきに守山城まで侵攻したら阿部定吉が謀反しているという敵方からの嘘の情報がでまわったので、阿部定吉を翌日尋問することになった。
尋問の日に清康の陣中付近で大きな音がしたので息子の阿部正豊が父親が殺されたと勘違いして主君松平清康を暗殺した。
清康が息子によって暗殺されたと知った阿部定吉は清康の息子をつれて伊勢に逃れた。その隙に桜井松平信定が松平宗家と岡崎城を乗っ取り勝幡織田信秀と同盟を結んだ。
その事に怒った松平一門と家臣は今川義元や太原雪斎の協力で岡崎城から桜井松平信定を追い出し松平広忠と阿部定吉を帰還させた。
桶狭間については小和田先生のチャンネルの「【講演】松平元康と桶狭間の戦い【一般公開】」ruclips.net/video/fOFGQdJUY68/видео.htmlが詳しいですねこの動画で更に詳しい事を知りたい方は覗いてみてもいいかもしれません
ありがとうございます。デブデブ上洛説をずっと信じていました。
13:38
「駿河と遠江を『守護』する」という言い方はやめたほうがいい。
守護職は足利家の役職やし今で言う県知事みたいな肩書やし
なぜ今川義元は松平家を滅ぼして自分が三河を支配しなかったのでしょうか?
松平氏も複数あるし、家康母の実家の水野信元とか知多半島を治めて斎藤や織田と同盟組んだりするし国衆と一向衆の魔窟でもあり、今川の主家筋である吉良氏とも縁の深い土地で三河吉良氏もいるし、元康(家康)を旗頭に段階的に三河統治の旗頭にしたかったのかなと思う 祖父の清康は吉良氏の血統に対抗して世良田の新田源氏を名乗ったし吉良氏は雪斎が吉良宛の手紙で殿の義元差し置いて「御屋形様(一国の守護レベルの人間への敬語)」表記で書面上は今川は吉良の家臣、雪斎は陪臣として接さないとダメなくらい家格圧倒的に上で扱いに困ってた
信玄ならそうしたかもね。でも普通は国境の豪族には親族を下賜して守らせるケースが多い。 実際、木曽に勝頼の妹を下賜した信玄は後に大失敗した。いつも通り一族皆殺しにして直属の家臣に守らせた方が良かったよね
松平なんて大きな家を滅ぼすなんてそんな簡単な話じゃないんで。
@@rousiitubisi5294 👍そんな面倒くさい統治なんてやってられなすもんね
寺に本願寺が混じっとるからかなぁ?東海は三河あたりまで門徒がいたはず
日本の近世は桶狭間から始まった。
バトル坊主w
近年の研究で今川方が7千から8千織田方は六角勢2千の援軍と3千で5千程度の軍勢が有力
国力基準だと思ったより戦力差がないんだね。兵数盛りすぎ問題。
義元は桶狭間の戦いで死んだのではなく生き延びて94さいまでいきていた、という説を書いた「桶狭間の戦いの真実(梅垣 牧)」が出版されていますが、この節どうでしょうか。
なんだかねえ、今年の見なくても麒麟がくるで分かるんだよなあ。大体は。
こういう人に社会科の先生やってもらいたかった!中学も高校も黒板を板書してー、あとは無言が多かったからマジでつまらなかった
寝返った山口を殺害したのは失敗でしょう。
この頃の上洛って、上洛したら地元を部下に奪われる危険性が高くて、上洛したくない大名ばかりだったとか?
「上洛したくない」というより「上洛するメリットが無い」と言いますか。 いや、上杉謙信は将軍様に挨拶するために上洛してますし、織田信長も尾張一国を平定した段階で将軍様に挨拶しに行ってますね。自分が切り従えた領域を支配する正当性、いわゆる「お墨付き」を将軍様におねだりに行く、ってことはよくある事だったかもしれません。
戦国さん、ちゃんとイントネーションを直されたのかな?今回は「三河」「松平」「安城」が強弱ない平坦な発音で聞きやすかった。耳障りで試聴をやめようと思っていたので良かったです。ありがとうございます。ぜひ平坦な発音を続けてください。
義元自身が動いたのは、尾張の織田を倒して、斯波氏を解放すること。武家の都はこの時代でも鎌倉。だから上洛する必要はない。今川も義家の子孫だから、将軍になる権利がある。そのためには、細川氏と同じ管領家である斯波氏が必要だった。「天下を獲る」イコール「京に行く」ではない。鎌倉を抑える方が重要。今川・北条・武田に斯波が加われば、足利氏に代わって将軍になれる。たかが一つの城を獲るために義元が動くわけがない。斯波氏を今川の配下におくためには、義元がいなければいけない。
「どうする家康」の予習でもあり、
「麒麟がくる」の復習でもあるw
愛知県人です。いつも拝聴しております。三河安城に一度も停車したことがないとのことですが、一度お立ち寄りいただいてぜひとも安城城址や刈谷城址にお立ち寄りください。安城城址は鍋之介忠勝の父親の「音に聞こえた勇士」本田忠高終焉の地碑などがあります。刈谷城址は家康の生母「於大の方」の生誕地です。
於大の方の生誕地は、刈谷の隣りの東浦町緒川城です。
最期だけで義元が無能扱いされてるのは可哀想だなといつも思います...
功績ももっと日の目を浴びるといいですね...
まあ、確かに信長が義元を討ち取ったのは全くの運ですからね
信長公記によると
朝は天気がよかったのに「俄かに急雨、石氷を投げ打つ様に」と雹まじりの突然の豪雨
「敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」と強風が伴い、今川には向かい風、織田軍には追い風。
「沓掛の到下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。」しかも楠の巨木が倒れるほどの強風(現在の推測では風速45m以上)。
豪雨で100m先も見えない状態で織田軍は追い風でどんどん進みますが、今川は視界が効かず織田軍の接近は感知できません(こんな気象条件で織田軍が進軍してるとも思わない)。
にわかに強風を伴う豪雨’が止んで視界がよくなった時には、義元の本陣は目の前で、突風の影響で、武器や旗指物、義元の塗輿などが散乱した状態。信長にすれば超ラッキー。
天候の急変がなければ普通に今川が勝利していたでしょうが、運も強さと考えれば、やはり信長の方が強かったということでしょうか。
今回も解りやすい歴史解説で、今川義元の天下取りに関する話が俗説と聞かされてびっくりしました。
私にとってミスター武士道さんの解説は大河ドラマ鑑賞の善きお供となりました。
こんにちは。
今日からの松潤家康、たいへん楽しみです。
1日楽しむなら本よ読み、1年楽しむなら大河を観ることです。
1年間よろしくお願いします。
三河の住人です
安城城とは呼ばず安祥城(あんしょうじょう)と言ってます
今は安祥城址に安城歴史博物館が建ってますよ
三河安城駅はちょっと遠いなっていうのが地元民の僕の印象です
安城市を紹介して下さったのはとても嬉しかったです(*^^*)
追記
どうやら今の学説では戦国期は安城城と言われていたと言うのが主流になっているようです
歴史は変化するんですね
いいスタートが切れそうな予習動画ありがとうございます!
武士道さんの実に分かり易い動画解説で、本日初回の「どうする家康」を見るのが非常に楽しみになってきました。今年も戦国バナシを視聴させて頂きます。
毎回めっちゃ面白いですね。丁寧で知らなかった解説もいっぱいです
いよいよ今日からですね〜
解説も楽しみにしております😃
大河ドラマを観てこのRUclips観てます(笑)解説分かりやすくて助かります!!戦国時代、面白い!
大河では1話で今川が討ち取られ、もう少し尾張、三河、駿河の関係とかやってほしかったなっと思っていましたので、良かったです。
勉強になりました🙇
尾張の民なので序盤は知ってる地名が多そうで楽しみです~今年の大河の宜しくお願い致します!
どうする家康が今日始まる楽しみですねぶしどうさん
「家康が織田家に人質になった過程」がこれまでの「今川家に人質に出す予定が移動中に家臣が裏切って織田家に走った」という定説が不自然だと考えていたのですがこの説なら納得です。
麒麟がくるの時の記憶が呼び起こされる解説ですねえ😊
登場人物も麒麟キャストで蘇ります
「戦国時代の武士が皆天下を目指していたわけではない」。自分も長年そういう誤解を持ったままでした。近年では『真田丸』の真田昌幸が自分の両道をなるべく守りたい、多少は増やしたいという風に描かれていたので、ずいぶんその誤解からも解放されていました。
今回の今川義元もまたそう思っていたとすると、ずいぶん戦国時代を見る目も変わってくるものです。桶狭間の戦いの背景もこうやってみると、上洛戦ではなかったのかもしれませんね。
いつも詳しい背景説明、ありがとうございます。
「守山崩れ」については多数の一次資料に記載があり、松平清康が家臣に斬られたことはほぼ確定と言われています。松平広忠についても家臣に襲撃されたことは確実視されていますが、そのときは致命傷に至らず後に病死との見方が主流。大河ドラマ「葵徳川三代」では広忠についても(よりドラマティックな)「家臣による斬殺説」を採っており、「猜疑心の強い家康像」の根拠としていました。
なるほど今日のどうする家康だと人質時代すっ飛ばされてたのでその時代のこともあってわかりやすかったです
10分50秒でなんでジャギ?って思いましたが、信長=ジャギ説ってことなのかw爆笑しました。たしかに「俺の名を言ってみろ」って言いそうw
小学生の頃、今川義元はダメダメ武将だと思ってた矢先、スーファミの信長の野望 武将風雲録で「政治87」「戦闘79」…?まぁまぁ強えぇじゃん!と思った記憶。
家康日記と併せて、大河の前に楽しませてもらってます☺️
こちらの動画では、まだ鼻声ですが、呉座先生のチャンネルでは元気なお姿拝見!ちょっと緊張されてたかな。 年末は公私ともに多忙極まりなかったようで様子、どうぞ体調管理気を付けてくださいね。
どうする予習! いい響きですねぇ。おかげさまで、大河視聴前の下地ができました。今回の予習から、遠い記憶が蘇り、アニメ徳川家康少年時代を見て、度々、涙していたなぁと思いだしました。
明けましておめでとうございます。
学生時代は歴史なんて昔の授業は大嫌いでしたが、ネットが発達した現代になって面白さが
分かって大河ドラマを毎週必ず見てます。テレビだけでは理解出来ない部分を動画解説を見てからテレビを見るようにすると歴史の面白さが分かります。( 歳のせいかも知れませんがね ) 今年一年も宜しくお願いいたします。
いよいよ、今日から大河ドラマスタートですね!!
いつも通りわかりやすい説明ありがとうございます。
第一級資料である信長公記をきちんと解読すると、桶狭間の戦いは奇襲ですらなかったという説も有力らしいですね。
それとおっしゃる通り今川義元が上洛を見据えての行動というのも資料が無いので否定されてますよね。。。
現実ってそんなにドラマチックでは無いんですよね。。。江戸時代の庶民が作った講談話しがいかにも本当の歴史かのように語られてしまってるんですよね
司馬遼太郎とか池波正太郎とか素晴らしい書き手によって。。。
(当時の海岸線で)伊勢湾岸に近い今川方の「大高城」の兵站を遮断する目的で築かれた織田方の丸根砦と鷲津砦を攻略するために義元が出陣し、松平元康は大高城に兵糧を運び入れる役目を命令されたとの説があります。
実は対岸の蟹江長島をおさえていた服部氏が今川方だったりします
信長を海上封鎖する形で侵攻を進めてるんですよね
小和田先生監修の「戦国史」にも「義元は今川軍が丸根砦、鷲津砦を落とした後、大高城に向かったとみられ、その途中の桶狭間で休息を取った」と書いてあります。
義元が優秀な武将であったことは疑いの余地はないです。
周りがさらに化け物だらけだっただけのこと。
麒麟がくるの序盤を見返すのもいいですね。😊
10:55 ジャギ様降臨ww
兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!
まさか信長がジャギ様だったとは…
いつもわかりやすい解説で楽しんでます。
安城市出身ですが、地元で安城のお城は安祥城と習っていた覚えがあります。
『安祥城』、『安城城』どちらも間違っていません。史跡では前者ですけど。
古地図でも『安城』という表記が残っています。
武士道さんは歴史ビギナーに向けてイメージが湧きやすいようあえて『三河安城城』としてると思います。
こんな表現、今まで私も聞かなかったです😅
ちなみに私も三河出身です。
名鉄豊田駅から、バスで、松平の祖-松平郷に、去年-秋に行きました!
丁寧に解説していただけるのは非常にありがたいのですが、これから『太原雪斎』は『バトル坊主』としか読めなくなりそうです…
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。っていうか、鼻声ですな〜。お身体御大切に。😢 野村萬斎さんの今川義元、かっこよかったですネ。麒麟がくる とか 直虎 の設定と比較しながら解説していただけると 色々腑に落ちると思いますので、よろしくお願いしてもいいですか…⁈😅
桶狭間の戦い、何故起きたか?の解説、有り難うございます
『麒麟がくる』でも、この戦いは描かれましたが、この時の主人公は明智光秀だったから、私自身よく理解出来てませんでしたが…今回は徳川家康が主人公で、今川方の人質になっているので
武士道さんの解説で、よく理解できました
今川義元は、デブデブで馬に股がれないと私も最初は思っていました なるほど!過去の通説が覆りそうですね
今夜からスタートするから楽しみです
清康の仇を取らない広忠優しい
最近の今川義元は片岡愛之助さんや、谷原章介さんや、野村萬斎さんみたいにイケおじの人が演じますね
尾張国境の確保が本線だとは思いますが、うまくすれば尾張併呑。そこまでいけば上洛も見えて来る。ということで、すごーく広く長い意味では、上洛戦の第一歩といえなくないと思います。
今までメディアで描かれてきた義元公の人物像・野心と、伝聞などによる周囲からの評価や逸話に若干の違和感を覚えていたので、今回の動画を見て日頃のモヤモヤが晴れた気がしました
麒麟では竹千代が信長に、今川は敵です、とハッキリ言っていましたし母上は❤だけど父上は好きではないとも言っていました
幼いながらも大人の事情がわかっていたのでしょう
末森城の信秀、信勝、土田御前…
麒麟が蘇りますね
麒麟がくるで広忠が暗殺されたり、人質交換の話がありましたね。思い出してきました。麒麟がくるを見ていたのでそこら辺の話も面白そうですね😄
山口氏の惨殺のエピソード確か直虎でやってたような🤔
山口氏に限らず本国に呼び寄せての謀殺は義元の時代かなりの頻度で行われてました、要は今川家では疑わしきは罰するを常に行い不安を解消すると言う政策が行われていました。
氏真、寿桂尼の代になるとそういう苛烈な政策が国人衆の不満を呼び謀反が増えるに従い謀殺の数も更に増えて行きます。
@@m.i.9104 確か氏真も相当数の惨殺をやっていたとどこかで聞いたけど詳しくは覚えてないけど😅
@@亮白鳥
直虎で言う所の直親殺害が遠州錯乱の始まりですね、そこから謀反、粛正が繰り広げられる感じです。
今川の静岡県は平地が少ない、石高が見込める濃尾平野が目的だと思います。
今川義元の上洛理由が、よく分かりました。竹千代が今川方の人質だったことはよく知られてますが、その前に織田方にも人質だったことは、知りませんでした。なぜ今川義元は戦を起こすまでして、竹千代を奪還したのでしょうか?松平家を支援すると誓っていたからということですが、当時の戦国大名同士の同盟関係は、情勢変化によってすぐ変わるので、その点が少し不思議に感じました。
刈谷市出身です。於大の方生誕地は、刈谷城址(亀城公園)から歩いて5分くらいで行けます。お立ち寄りください!
於大の方の生誕地は、緒川城です。
「安城城」、大阪人が犬の話をしてるのを思い出しました。
「これチャウチャウちゃうん?」「ちゃうちゃう、チャウチャウちゃう!」
『どうする家康』のドラマ内で一番気になったのはMJと我らが有村架純ちゃんがkissシーン(寸止め)
接吻って戦国時代からあったのですかね⁉️時代考証の先生がOK出してるから、戦国時代も接吻してたんでしょうね⁉️
『どうする家康』と題してますが、戦国武将じゃなくても人間誰しも「人生の岐路」ってありますよね⁉️徳川家康って、とりわけ岐路が多いんでしょうか⁉️⁉️
一説には今川那古野氏が築城した那古野城が織田信秀に騙し討ち同然に占領されたので旧領奪還と言う名目もあったらしいですね。
実際は熱田神宮の利権が目的だったとも。
太原雪斎を「バトルボーズ(坊主)」と言ったミスター武士道さんに座布団1枚!中国でいう「軍師」っぽい人だったんですよね。
いつも楽しく拝見しています。歴史のチャンネルなので、敢えて重箱の隅をつつかして下さい。松平氏の読み方は"ま→つだいら"ではなくて、"ま↑つだいら"です。発音を文字に起こすのは難しいのですが、、、
いつも拝見しております。
お風邪ですかね?いつもより鼻声😅ご自愛ください!
この図で見ると広忠が三河方面にいるイメージだけど、岡崎城意外と近いんだよな。矢作川越えたらすぐだからな。オマケに属国の水野氏とかいるから織田信秀の実質の勢力領域も狭いし、
反広忠勢力に竹千代さらわれるし、複雑だな。
時系列がわからなくなったのですが、鳴海城の周りに信長が築いたいくつかの砦は味方である鳴海城を今川から守るために築かれたものということなんですかね、、、今川方の鳴海城を落とすためではなくて。
既に今川方になった鳴海城を信長が砦で取り囲んだので、鳴海城界隈の支配を磐石なものにするためその砦を排除しに向かった?
雪斎がいれば・・・
居ても結果は同じ。
でも雪斎が居たから武田や北条とも盟約を結べたし花倉の乱も雪斎が居たから勝てた
太原雪斎=バトル坊主😆
呉座先生とのコラボ動画見ました。
呉座先生のような高学歴で社会的地位のある人物にVIP待遇を受けた気分はどうですか。
春木先生も呉座先生も本当に良い人ですよね。
桶狭間の戦いの根拠がわかったのびっくりですね😊
前座として織田家の内紛の話ししてますけどそちらの解決が分からないまま桶狭間になってたので内紛はもちろん信長が治めたのは分かるんですがそこも説明してもらいたかったです
結論だけ言いますと、信長は仮病を使い、弟を見舞いに来させてその場で殺して終わりです。
怖っ!!!
広忠さん確か家臣の人に暗殺されましたね…って自分は他のRUclipsの人ので聞きました‼️
今川氏親が三河や尾張を統治しようとした事もあり今川家では東海道の制圧が大願だったのかもしれませんね。
俗説かもしれませんが兄である玄広恵探の忠告を聞いていれば…。
桶狭間戦いは歴史で習った。大河ドラマでも観たし、戦国時代大好きな私はわくわくするよ‼️信長さんが有名なった戦いだよ
今川氏親が1521年に尾張に那古野城を築城し一族の今川氏豊を城主していたので、義元は尾張侵攻を旧領回復程度の意識で行ったのだと思います。
元々は行きがかり上尾張の東部知多半島の半分くらいまでが今川領だったわけですよね。信長の家督相続の混乱期に乗じての今川家当主の歴代の成果と言いますか・・・。元をたどれば尾張守護の斯波氏と今川氏は犬猿の仲で(二代前の当主の義忠が討ち死にして伊勢新九郎の台頭のきっかけを作ったってのもありますし)まあいつかは起こる決戦だったと
👍👍👍
きっかけそんな単純なのか。それにしては軍勢が多いような。かなり前から用意してたのかな。
守山崩れは父親が謀反で殺されたと勘違いした家臣が敵討ちした事件です。
松平家の家督争いは、清康の父親を松平一門で隠居させたときに清康の祖父に溺愛されている息子の桜井松平信定が跡を継げなかったので刈谷の水野氏や勝幡織田信秀と松平宗家乗っ取りを企んだことが始まり。
それを知った松平清康は勝幡織田信秀と織田家の主導権争いをしている小田井織田寬故と組んで勝幡織田信秀が美濃の斎藤道三と戦っているすきに守山城まで侵攻したら阿部定吉が謀反しているという敵方からの嘘の情報がでまわったので、阿部定吉を翌日尋問することになった。
尋問の日に清康の陣中付近で大きな音がしたので息子の阿部正豊が父親が殺されたと勘違いして主君松平清康を暗殺した。
清康が息子によって暗殺されたと知った阿部定吉は清康の息子をつれて伊勢に逃れた。その隙に桜井松平信定が松平宗家と岡崎城を乗っ取り勝幡織田信秀と同盟を結んだ。
その事に怒った松平一門と家臣は今川義元や太原雪斎の協力で岡崎城から桜井松平信定を追い出し松平広忠と阿部定吉を帰還させた。
桶狭間については小和田先生のチャンネルの「【講演】松平元康と桶狭間の戦い【一般公開】」
ruclips.net/video/fOFGQdJUY68/видео.html
が詳しいですね
この動画で更に詳しい事を知りたい方は覗いてみてもいいかもしれません
ありがとうございます。
デブデブ上洛説をずっと信じていました。
13:38
「駿河と遠江を『守護』する」
という言い方はやめたほうがいい。
守護職は足利家の役職やし
今で言う県知事みたいな肩書やし
なぜ今川義元は松平家を滅ぼして自分が三河を支配しなかったのでしょうか?
松平氏も複数あるし、家康母の実家の水野信元とか知多半島を治めて斎藤や織田と同盟組んだりするし国衆と一向衆の魔窟でもあり、今川の主家筋である吉良氏とも縁の深い土地で三河吉良氏もいるし、元康(家康)を旗頭に段階的に三河統治の旗頭にしたかったのかなと思う 祖父の清康は吉良氏の血統に対抗して世良田の新田源氏を名乗ったし
吉良氏は雪斎が吉良宛の手紙で殿の義元差し置いて「御屋形様(一国の守護レベルの人間への敬語)」表記で書面上は今川は吉良の家臣、雪斎は陪臣として接さないとダメなくらい家格圧倒的に上で扱いに困ってた
信玄ならそうしたかもね。でも普通は国境の豪族には親族を下賜して守らせるケースが多い。 実際、木曽に勝頼の妹を下賜した信玄は後に大失敗した。いつも通り一族皆殺しにして直属の家臣に守らせた方が良かったよね
松平なんて大きな家を滅ぼすなんてそんな簡単な話じゃないんで。
@@rousiitubisi5294 👍そんな面倒くさい統治なんてやってられなすもんね
寺に本願寺が混じっとるからかなぁ?
東海は三河あたりまで門徒がいたはず
日本の近世は桶狭間から始まった。
バトル坊主w
近年の研究で今川方が7千から8千
織田方は六角勢2千の援軍と3千で
5千程度の軍勢が有力
国力基準だと思ったより戦力差がないんだね。
兵数盛りすぎ問題。
義元は桶狭間の戦いで死んだのではなく生き延びて94さいまでいきていた、という説を書いた「桶狭間の戦いの真実(梅垣 牧)」が出版されていますが、この節どうでしょうか。
なんだかねえ、今年の見なくても麒麟がくるで分かるんだよなあ。大体は。
こういう人に社会科の先生やってもらいたかった!
中学も高校も黒板を板書してー、あとは無言が多かったからマジでつまらなかった
寝返った山口を殺害したのは失敗でしょう。
この頃の上洛って、上洛したら地元を部下に奪われる危険性が高くて、上洛したくない大名ばかりだったとか?
「上洛したくない」というより「上洛するメリットが無い」と言いますか。
いや、上杉謙信は将軍様に挨拶するために上洛してますし、織田信長も尾張一国を平定した段階で将軍様に挨拶しに行ってますね。自分が切り従えた領域を支配する正当性、いわゆる「お墨付き」を将軍様におねだりに行く、ってことはよくある事だったかもしれません。
戦国さん、ちゃんとイントネーションを直されたのかな?今回は「三河」「松平」「安城」が強弱ない平坦な発音で聞きやすかった。耳障りで試聴をやめようと思っていたので良かったです。ありがとうございます。ぜひ平坦な発音を続けてください。
義元自身が動いたのは、尾張の織田を倒して、斯波氏を解放すること。
武家の都はこの時代でも鎌倉。
だから上洛する必要はない。
今川も義家の子孫だから、将軍になる権利がある。
そのためには、細川氏と同じ管領家である斯波氏が必要だった。
「天下を獲る」イコール「京に行く」ではない。
鎌倉を抑える方が重要。
今川・北条・武田に斯波が加われば、足利氏に代わって将軍になれる。
たかが一つの城を獲るために義元が動くわけがない。
斯波氏を今川の配下におくためには、義元がいなければいけない。