桶狭間の戦い 信長軍の進路を探る!
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- Опубликовано: 15 сен 2024
- 今回は、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間の戦いにおける織田信長の進軍路、中島砦から桶狭間まで「どの道を通ったのか?」を中心にお話しいたします。
また、桶狭間の戦い絡みですが、今年(2021年)3月に出ました『歴史研究』689号において、愛知県大府市在住で「とよあけ桶狭間ガイドボランティア」理事の太田輝夫さんが「桶狭間合戦 今川史料の発見」を寄稿されましたので、その紹介もいたします。
#桶狭間の戦い
#織田信長
#今川義元
すごく興味があって小和田先生にもっと桶狭間について語ってほしいです。チャンネルでは持論も話せますし、楽しみにしてます。
先日現地に行ってきましたが、二つの説がある桶狭間の古戦場跡地はとても近い距離にありますよね
実際見に行って感じたのはおけはざま山で休息を取っていた時に信長軍に奇襲された場所が緑区の古戦場で、東の沓掛城に逃げる途中に首を捕られたのが豊明市の古戦場だと勝手に予想します。
おけはざま山の西側には今でも大きな池があるように当時は豪雨の影響もあり足場が悪く大高城方面へは退却は無理だったと思います。
細井平洲の生まれ育ちは桶狭間からさほど遠くない場所だったので
桶狭間の戦いの伝承は生で伝え聞いていたのではないかと思います。
信長は尾張を統一したのでしょ。
その翌年の保有兵力が2000?とは。
どの程度の兵力があれば尾張を統一できるのか。
信長の父親の信秀は5000の兵を動かせたという話も。
本当ですか?
尾張国内で信長と敵対していた勢力の保有兵力は?
信長の尾張統一過程で
どの程度の兵力を保有していたのか?
どのように増えていったのか。
教えて下さい。
参謀本部の資料等は全く当てにならない。杜撰な作戦の連発でしたから。
観光客誘致の為なのか古戦場の本家争いって醜いですね
先生の言う様に広い地域なんでしょうね、砲撃戦ではないので当然戦場は移動のしますからね