長篠・設楽原の戦い―信長の勝因とは―

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  • Опубликовано: 6 ноя 2024

Комментарии • 48

  • @multiHB-e4n
    @multiHB-e4n Месяц назад

    非常に面白いです。勝頼が血気盛んだとか、三千挺が一斉に騎馬隊に襲いかかったとか、そんなイメージが植え付けられてきましたが、真実はそれよりも深い、より現実的な部分にありそうな事が感じられました!ありがとうございます。

  • @yamabiko8015
    @yamabiko8015 3 года назад +5

    NHKの特集番組でやってましたね。武田方の銃弾には銭をとかした銅製の弾が使われていたとか。

  • @杉J
    @杉J 2 года назад +2

    鉛までも輸入だったんですね。
    鉄砲を武田軍っも所持してたとは。

  • @tokotoko57
    @tokotoko57 3 года назад +3

    いつも勉強させて頂きありがとうございます。今回の解説は特に新鮮でした!

  • @zunbero8070
    @zunbero8070 2 года назад +13

    小和田さん、歴史研究の後輩にあたる平山さんの意見もしっかり受け入れていてご立派ですね。

  • @obunowagaseha
    @obunowagaseha 3 года назад +6

    先日NHKの番組で三河に鉛の鉱山が存在していたという研究成果も提示されてましたね
    江戸時代もそうですが戦国時代も一次産業の構造が明らかになるにつれこれまでの通説が変わってきますね。

  • @本間美津子-o9o
    @本間美津子-o9o 3 года назад +6

    長篠、設楽原合戦の解説ありがとうございます。
    以前の文献では武田軍が馬房柵に向かって突進したとあり、多少無理が有るのではと思っていましたが、鉛、硝石が手に入らず敗戦になったとは、、!
    平山優先生の武田歴史書は勉強になります。

  • @toshikun-maron
    @toshikun-maron 3 года назад +7

    化学分析、大事ですよね。先生から合戦の解説がきけて、とても幸せです。

  • @北原義明
    @北原義明 2 года назад +5

    昔硝石、今半導体…
    人間のすることっていつになっても変わらないんだなぁ…

  • @dodomelon
    @dodomelon 3 года назад +5

    面白いですね。以前NHKの番組で、鉛だったか硝石だったかがタイのものと化学的に合致したというのを観た記憶があります。

  • @はりきたかし
    @はりきたかし Год назад +2

    歴史は、過去の偏った説から、科学的な分析から、新たな事が、分かり、説が、変わってきますネェ~固定観念をもっていたら、ダメですネ😮😮

  • @chishiba4594
    @chishiba4594 Год назад +1

    馬を音で威嚇、混乱させる効果があったかもね

  • @トカゲの尻尾-i7x
    @トカゲの尻尾-i7x Год назад +4

    設楽が原の戦いは、大規模な野戦築城が行われている織田・徳川方の陣地に攻めかかったっていうのは事実だったと思います。

  • @kawasakikr-1s315
    @kawasakikr-1s315 Год назад +3

    つーか、 鉄砲&野戦築城による塹壕(防柵陣地・前に空堀)って次の世の中(日露戦争・WW1)での「鉄板戦術」ですよね、 野戦だと思っていたところに、いきなり「城が出来ていた」ら、そりゃ力押しでは勝てない
    武田の騎馬軍団というのも、後の世の馬と違って日本馬は小さいので騎馬の突進力・打撃力はそんなに大きくない と思うのです、あるとすれば「棒道(軍事道路)と馬による進撃速度(機動力)の高さ」が武田騎馬軍団の真骨頂なのでは? と思うのです、 そうすると野戦築城で機動力が無くなった時点で無敵の武田騎馬軍団というメリットは生かされなくなったとか・・・

  • @福田秀光-c7e
    @福田秀光-c7e 2 года назад +4

    小和田先生、いつも歴史のミステリーを解説興味深く拝聴させて戴いてます。
    根本は鉄砲が1000発射撃しているところに武田軍が敢えて突っ込み自殺するかと言う話ですよね?
    なので武田勝頼が大敗したのは、別なところにあることを早く気づかなければなりませんね。

  • @勝司堀川
    @勝司堀川 Год назад +1

    弾薬や鉛を独占的に輸入していた信長ですが、更に他国に比べ精度の高い弾丸も作らせてましたから、いかに鉄砲が重要か熟知していたんですね。やはり鉄砲vs騎馬隊の構図は変わらないのかな😮

  • @浅田育正
    @浅田育正 Год назад

    長篠の戦いで、 鉄砲3段銃で 武田軍を破った信長、家康軍という噂から 設楽原の戦い。酒井忠次に 後で この奇襲戦法で 戦え。と指示した事。 等々 小和田先生の解説は 非常に快適でした。 これからも、どうする家康の補足説明に期待してます。

  • @高田健一-l7l
    @高田健一-l7l Год назад +3

    物量豊富な織田軍の縦深陣地に突撃したのが一番の原因。
    最初から勝てるような状況ではなかった。
    多くの武将が勝頼に失望して離れて行った。
    信長や謙信なら一瞥してサッと撤退したはずである。

  • @pipik216
    @pipik216 3 года назад +9

    現地に行けばわかるけど馬防柵と傾斜があったことで
    野戦ではなく武田側の織田徳川への砦攻めの形になった時点で
    兵数に劣る武田側に勝ち目は無かったように思う

  • @いいんちょう-s1z
    @いいんちょう-s1z 3 года назад +9

    現在復元されている設楽原の馬防柵は、すぐ横を流れる連吾川から丁度50メートルくらいの所に設置されれいるんですよね。
    これは連吾川を渡河してきて動きが鈍くなった武田軍に、集中砲火を加えられる絶妙な位置だと思うんです。
    馬防柵を前面に構えた徳川、織田連合軍陣地を野戦陣地と考えれば、勝頼は自らの陣地群を放棄して、わざわざ敵の城に強襲をかけてしまった訳で、これは戦術的な大失態だと思っています。
    もし勝頼が陣地群から撃って出ずに連合軍を迎え撃っていたら、また違った結果になったのではと妄想しています。

    • @とんび-b5o
      @とんび-b5o 3 года назад +2

      3倍もの兵力差がある相手の攻撃を
      なすがままに受け流すというのはあまり現実的ではない気も

  • @archioaw7978
    @archioaw7978 3 года назад +14

    信長と闘うことになったら、武田の領地深く誘き寄せ、そこで決戦せよ というような遺言を信玄は発していたそうで、それが正解だったのでは と思う私です。

    • @Katiyori
      @Katiyori 2 года назад +2

      それって、本当ですか?

    • @archioaw7978
      @archioaw7978 2 года назад +2

      @@Katiyori 本当ですよ!☺

  • @desiguma
    @desiguma 3 года назад +1

    輸入してたんですね…武田の騎馬隊はなかったって話もありますが
    海外との交易とかでいうと織田の方がどう考えても有利ですしリアルに明暗を分けたのかもしれませんね…
    あんまり海外との交流がどれほど影響してるのかって気にしないできましたし割と盲点でした

  • @明智実光秀嫡流と作-t9d
    @明智実光秀嫡流と作-t9d 2 года назад +1

    かき集めれた鉄砲の数は1000挺程でしょう。敵である石山本願寺が天王寺郊外の闘いで鉄砲を数す千丁集めた、らしい、信長公記にある、これが最大数である。2022年3月26日。

  • @葛飾瑠璃
    @葛飾瑠璃 3 года назад +2

    商人に対して圧力をかけて経済制裁していたのでしょうか?
    織田と武田の経済力の違いの比較も楽しそうですね

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 2 года назад +1

      段違い。
      織田→関所ゼロ。武田→短い距離で6箇所。
      商人であればどちらが商売しやすいか、一目瞭然。
      勝頼は信長に続こうとして、その関所廃止をしようとしたが、古参の配下がその収入源に頼っていたので、反対が多く、出来なかった。
      その古参の配下の大量処分が「長篠戦い」であった、とすれば勝頼が突撃に拘ったのがよく分かる。
      関所は利権であった。その利権に拘るあまりに、信長の敵対勢力は敗北した、と考えた方がいいだろう。
      過料制度とは、今の「消費税」に近い、無用な税制度だったのだ。

  • @リエ-l3f
    @リエ-l3f Год назад

    武田は鉄砲はあったけど、玉が織田よりも無かった。手に入らなかった、と何かで読んだ。そうだったと思うよ。

  • @船木祥啓
    @船木祥啓 3 года назад +2

    信長は、信玄と謙信の第四次川中島の戦いをよく研究してきてると思う。
    そのうえで、両軍勢を倒す算段をたててきている感じがする。
    そして、信玄でも謙信でも長篠合戦は回避するだろうし、特に謙信は敵が構えてるところに飛び込むようなことをせずに
    油断し崩れているところを突いてくる戦法をとる。特に、謙信は局地戦において敵情収集に重きを置いているので
    信長は謙信を崩すにはどうすべきか?苦慮していただろう。
    ただ、信長が謙信を倒すとしたら、大規模鉄砲隊の伏兵を狭地に配置し誘い込み、混乱はという事を考えたのではないだろうか?

  • @hakucyanKK
    @hakucyanKK 3 года назад +1

    長篠合戦の勝敗のファクターに鉄砲がどの程度の影響を与えていたと考えるのか、その度合いによって受け止め方が大きく変わってきそうな感じですかね。
    そもそも武田軍がこれまでの織田・徳川との合戦経験から、今回のいわゆる長篠合戦でも鉄砲の影響力を大きく考えていなかったとすれば、弾薬の多い少ないはさして気にしていなかった、とも想像できてしまう。
    連合軍の着陣前に長篠城を陥落させて、後顧の憂いを無くすことができていたとするならば果たして合戦の行方はどうなっていたのでしょう。想像する楽しみが尽きない合戦の一つです。

    • @Katiyori
      @Katiyori 2 года назад

      武田軍は、鉄砲の影響力を大きく考えていますし、弾薬の多い少ないも気にしていますよ、ちゃんと調べてから、コメントした方がいいと思いますよ

    • @hakucyanKK
      @hakucyanKK 2 года назад

      @@Katiyori
      なるほど。例えばそれは何で把握することが出来ますか?差し支えなければご教授いただきたく。

    • @hakucyanKK
      @hakucyanKK 2 года назад

      @@Katiyori
      性能の優劣はあれど、鉄砲なんてものは長篠合戦当時、さして珍しい武器でも無かったわけです。
      結果的に武田は長篠で大敗しましたが、あなたの指摘する「武田軍は、鉄砲の影響力を大きく考えていますし、弾薬の多い少ないも気にしていますよ」はその結果、合戦の勝敗にどのような影響をもたらしていたのか、合戦の結果からはそのことの関連性も想像ができません。
      せっかくのご指摘なので、是非ともご意見の理由をご教授いただきたく。

    • @Katiyori
      @Katiyori 2 года назад +2

      @@hakucyanKK さん、長篠の戦いが始まった時は、鉄砲の打ち合いから始まり、鉄砲の援護を受けながら、織田、徳川の足軽とたたかっていました。しかし、堺を抑えている信長に鉄砲の弾数が、かなうはずもありません。そして、足軽、鉄砲隊が次々に倒れていくなか、騎馬隊が突入しました。馬場信春、山県昌景隊が、馬防作を、打ち破りましたが、結局、兵数で負けてる武田軍は、勝てるはずもなく、そのまま負けてしまった。ということです

    • @Katiyori
      @Katiyori 2 года назад +1

      @@hakucyanKK さんのコメントを見た時、自分は勝頼が大好きなので、何も知らないくせに。と思って、不適切な言葉を使ってしまいました。申し訳ございません

  • @面迫良二
    @面迫良二 3 года назад +2

    角川春樹監督作品『天と地と』での川中島の戦いでも武田軍に鉄砲隊が出ていましたからね。

  • @kirinaayato
    @kirinaayato 2 года назад +1

    人馬一隊(一体)になって敵兵が目前に殺到してくる状況だったでしょう。
    火縄銃は装填に手間と時間が掛かります。
    いくら、このような馬防柵
    があるとは言え、冷静沈着に再装填→照準→射撃→再装填…を繰り返すのは大変だったと思います。

    • @kasinsatoru
      @kasinsatoru 2 года назад +1

      いくら時間が掛かる、といっても訓練を施せば、刀、槍、弓矢でなくても人差し指1本でその達人を一瞬で消し去れるのが、鉄砲である。
      秀吉はともかく、信長、家康とされる現存する鎧、兜を観察すると被弾傾斜を考えた形式となっており、それだけ脅威だったのだろう。
      家康もだが、信長は散々狙撃されている事が記録されており、信長が一番早く鉄砲を重要視。
      堺や名産地を抑えて、独占化する。
      鉄砲をどう活用するかが、天下統一に近づく道のひとつであった。
      畿内を制圧した信長は、その最先端を進んでおり、毛利や上杉、武田、島津、伊達、にいくら強くても鉄砲を準備、配備される事が出来なければ天下なぞ、夢のまた夢であったのだ。(一向宗?の根来、雑賀衆は鉄砲を活用して、織田軍を悩ませている。)

  • @hokohoko5711
    @hokohoko5711 3 года назад +1

    以前ヨーロッパの合戦の映画を見た時、騎馬隊のスピードと威力のすさまじさに驚きました。
    あの破壊力に、当時の鉄砲の能力で太刀打ちできるのかと思うほどでしたが、
    日本の馬だとまた駆動力も違うのかもしれないし、まだまだ素人には、なかなかピンと来ない長篠・設楽原の合戦です。

  • @佐藤h-n3l
    @佐藤h-n3l 2 года назад +2

    こんなにも不利な条件でもいくさをしてしまう時点で勝頼の大局的見方のできなさが顕著にあらわれていると思う。信玄ならこんな馬鹿げた戦いは決してしなかっただろうし、織田徳川と戦う時は万全の備えをしてのぞんだと思う。

    • @Katiyori
      @Katiyori 2 года назад +3

      長篠城には、鉄砲の弾を作るための資源があり、弾不足の武田は喉から手が出るほど欲しかったでしょうね。さらに、信玄の遺言から、勝頼は後継人という言い方をされ、特に武田四天王から見下されていたようです。そんなとき、信長と徳川が現れた。もし、ここで信長徳川を倒せたら、家臣らが見直すと思いませんか?だから長篠の戦いに挑んだのです。

    • @Katiyori
      @Katiyori 2 года назад +3

      個人的に勝頼好きなので、侮辱するのはやめて下さい

    • @峻-k5k
      @峻-k5k Год назад

      @@Katiyori
      多分、ここで撤退していたら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げた」と信長や家康に喧伝されて三河や遠江の国衆達の離反が更に加速していたと私は思います。
      甲斐や信濃の国衆達も、信虎や信玄の時代からの重税で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しの撤退じゃ恩賞が貰えないし、戦の為に出した費用を人売りや乱取りで補填できない。
      お金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わった家臣達が不満を抱いて何をしでかすか分からないと思います。
      仮に撤退して国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は開く一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げ、国力をつけた織田が今以上の兵力で徳川の後詰めに来るかもしれない。
      それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻して来るからもう打つ手は無い。
      浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧され、武田と対織田で連携できる相手がいなくなり、織田に経済封鎖されていると言ってもいい状況を打開するにはまだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない今のうちにわざわざ出てきた信長や家康を討ち取る、討ち取れなくても痛手を与えて信長や家康の権威を失墜させなければならない、そしてそうできるのは今しかない、これが最初で最後の機会かもしれないと判断したのだと思います。

  • @坂本竜馬-e1f
    @坂本竜馬-e1f 2 года назад +2

    鉄砲隊の質量共に優れて居た以外に、長篠・設楽原の戦いで、織田・徳川連合軍の勝因を、思い付く限り列挙してみました。
    ①徳川家康の重臣酒井忠次に依る献策として、武田勝頼の布陣の背後の手薄な重要拠点で在る、鳶ヶ巣山砦の奇襲が成功した事
    ②その後、長篠城を取り囲んで居た武田軍を、城内の味方と共に殲滅した事
    ③此の知らせを知った勝頼側としては、背後を断たれた為に、正面の織田・徳川連合軍と、鉄砲隊の玉薬が尽きた状態で、全面的な総力戦・人海線に持ち込まざるを得なく成った事
    ④対して織田・徳川連合軍は、何重にも張り巡らされた馬防柵に護られた上に、潤沢な装備の大量の鉄砲隊・弓隊・長槍隊・予備隊に依って、個の戦闘力が強靱な武田軍に依る、織田・徳川連合軍の陣地内への侵入を阻んで居た事で、武田軍としては多大な消耗戦を強いられてしまった事
    ⑤抑、織田・徳川連合軍との兵力差が大きかった事と、
    ⑥長篠・設楽原の戦いの開戦前迄に、長篠城を陥落させて居なかった事
    ⑦決戦当日雨が上がり、織田軍の優位性としての大量の鉄砲隊を運用出来た事
    ⑧最後に、織田軍の岡崎城への到着した時点で、兵力差を鑑みて不利と観て、勝頼が本国へ一旦、退却して出直す決断をしなかった事

    • @坂本竜馬-e1f
      @坂本竜馬-e1f 2 года назад +1

      抑、鉄砲・鉛・硝石は、堺を直轄領とした織田信長による寡占化されて居ただけではなく、勝頼側としても大量の鉄砲隊を組織運用しようとする重要性に気がついて居たかどうか?
      仮に、気がついて居たとしても、大量の鉄砲隊の創設導入に必須の、莫大な資金力が勝頼に有ったのかどうか?その辺りですかね。
      然も、武田領として交易に良好な港を領有して居たのか問題が、何処までも付き纏いますよね。
      資金力が、仮に有ったとしても、大量の鉄砲と其の周辺の軍事物資の搬入に苦労するのは明白。

    • @坂本竜馬-e1f
      @坂本竜馬-e1f 2 года назад +1

      20年以上前になると思いますが、NHKが織田軍鉄砲隊三千丁による、玉込めなど準備の為の交代による、一斉射撃の三段撃ちを、テレビで盛んに放送遣ってましたよね。
      実に懐かしいです。
      今となっては、完全に黒歴史です。
      当時、歴史学者では無かったですが、織田軍の鉄砲隊による設楽原の戦いについて、単発銃である三千丁の交代による一斉射撃の三段撃ちについて、現実的に不可能で在る事を、合理的な理由を詳細に挙げて説明されて居ました。
      然し、長きに渡ってNHKは、頑なに三千丁の交代による一斉射撃に拘って居ました。然も、何時の間にかシレッと今迄の自説を曲げて、初めから、武田の騎馬軍団は無かったとか、設楽原の三千丁の交代による一斉射撃は、無かった等と、当時のNHKが自局のアナウンサーを使って電波で流して居た自説ですよ。未だに誤り訂正をして居ませんよね。
      其の理由として、
      多分、プロパガンダとしての影響力の低下を恐れて居るのでしょうか?