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戦国史上最大の謀反が起こった年に生まれているところは歴史の皮肉…
歴史に悪意を以て弄ばれた感が凄いですね……
本当に歴史に翻弄された人だったんだな…見方が全く変わってしまった実に興味深い動画でした
@@凪るみの 悪意を疑いたくなるレベルで翻弄されていますね……
昔は「裏切るなんて酷い奴だサイテー」とか思ってたけどこの動画を見た後だと…「是非もなし」
豊富の闇をありったけ背負った結果豊臣を滅ぼす厄災となった男
@@ILoveWaddleDee-x3v ファンタジーものに出てきそうな表現ですね……
財務省、テレビ局の闇を浴び続けた人が、令和最大の裏切りをすることを期待
関ヶ原の戦いの裏切りの印象が強くて長い間、悪く言われていたけど、関ヶ原の戦いの前を見ることで、東軍に寝返る気持ちも分からなくは無いなって思った。だから歴史って面白い。
というか、秀吉が死んだ時点でもう西軍に付く義理はほぼないと思う。秀吉は死に、徳川には恩があり、三成には怨しかない。現在では最初から西軍だった説まであるし、もしこちらの説が定着していたら、大戦を終結させた決定打となった武将という名誉が残ったかも。
ねねは子供に恵まれなかったこともあり、秀秋のことは我が子同然に可愛がっていた為、秀頼に乗り換えて秀秋を世継ぎから除名したことを、ねねは秀吉にはこの件に関しては心底激怒してたみたいですね。
@user-vq7bm9hl7j最初から"東"軍だった説、ではないでしょうか。
@@キサラギ-y1s関ヶ原から2年程で早死にしたのが一番不味かったですかね?
@@dai-mf5qcミスってました東軍ですね。失礼しました。
小早川秀秋は関ケ原の戦い以前から東軍側に付いていたと言う説もあります。実際に大谷吉継は小早川秀秋が裏切るのは織り込みで十分に認識していたみたいで実際に大谷吉継軍側の迎撃により身動きがとれなかったらしいです。大谷吉継側にとって最大の誤算は四人の武将の軍側の裏切りにより大谷吉継軍側が総崩れになったのが真相だったらしいみたいです
これ見たら納得しかない
戦国の歴史を学べば学ぶほど不憫に思えてくる武将。関ヶ原にしたって徳川家康が59歳で石田三成が41歳。他の武将も東西問わず百戦錬磨の猛者ばかり。こんな状況でやたら兵力だけ持たされた19歳の若造に正常な判断ができるかって話よ。
これにアル中が加わっていた訳ですからね……。何かを判断出来ただけでも凄いとすら思えてきます……
当時の価値観では当たり前でも、いくら元服してるからって10歳にも満たない子どもに酒飲ませるなよ…
西軍の祟りだと好き勝手言っておいて多分自分達が飲ませた酒で死んだのは全く省みないのだろうなと思うと不憫でならない
@@ILoveWaddleDee-x3v奴らこそ祟られれば良いのに……、って、そう都合よく物事が成されれば苦労はないですよね……
下剋上の世の中なのに、裏切り者と言われるのは、悲しいですよね。
お疲れ様でした。今でも謎とされている関ヶ原の決着の早さ。確かにこれに関わっている事は間違いなさそうだけど、立役者か裏切り者扱いでは天と地です。後々に創作の余地を残してしまったのも残念。日本史上最高とされる戦いで、一番手柄とされてもおかしく無い功績を秀秋としたくない悪意が働いている可能性もあり得る話ですからね。
昔の番組で小早川が裏切らなかったらどうなるかを検証したらたいして変わらないってのがあって余計に不憫
西軍が善戦して膠着した後、黒田孝高がどうしたかが気になる。毛利が秀頼を担いで出てきた時、福島ら豊臣恩顧の武将がどうしたか、正直わからん。東軍は引き分けに近い負けになる可能性も大いにあるよ
小早川が裏切らなくても戦局は変わらないが吉川広家が裏切りを中止したら毛利・長宗我部軍2万5千が家康本陣を急襲するため戦局に大きく影響する
吉川も小早川も徳川家康を攻めても徳川家康が勝つねぇ^^;。兵の質、練度がダンチ。この時代、マスケット銃(火縄銃)だと内線有利も普通にあり得る世界。ナポレオン戦争みればわかる。そして、この時の火縄銃は下手するとヨーロッパのソレよりも命中精度が高い(鉛玉の場合)。だから、現代戦を見て包囲殲滅で勝てると思いきや・・・。まぁそもそも野戦と疾風迅雷、機動戦術が得意な家康がここに出てきたということは、まず勝利を知ってから戦場に出てきた。愚将、凡将は戦ってのちに勝利を求める。
あの舐めまくりで裏切り前提の東軍の配置だと裏切らなかったら家康に強襲でワンチャン西軍勝ちそうだけどな。
@@WearstFaker家康の本隊は雑兵で構成されてたそうですよ。徳川精鋭はほとんど秀忠隊に加わってたらしい。
乱世の振る舞いとしては正しいが、マジで土壇場で裏切った前田家が誠実扱いなの見ると金吾殿の一番の不運はその後イメージ改善する前に亡くなったことなんだろうな…生きてさえいれば時間はいくらでも味方してくれたのに
歴史はどこまでが事実なのかこの裏切りは徳川のでっち上げではないかと展開がうますぎるもの
12:20 実際、大谷吉継が自害する際に「金吾(秀秋)め、人面獣心なり。三年の間に祟りを成さん」と呪いの言葉を吐いた、なんて話が残るくらいでしたもんなぁ。あと、秀秋の死因としてそこいらの農民に玉を蹴られて死んだって俗説が語られたとか。
大谷隊は壊滅なのに何で吉継の最後の言葉が伝わっているのか?
何とも可哀想な生涯ですね…三成も何故仲間になって戦ってくれると思ったのやらですが。もし長生きしていたならどうなったのか豊臣一門ですから何処かで改易されたのか命脈が保たれたのか。
人道面についてはよく分からないけど、少なくとも愚将や暗君の類ではなかったと思う
彼の治めていた地域で一揆など統治上の問題が起こった記録はない。秀頼は幕府がサポートしなければまったく大阪の統治を回せなかったことも踏まえると、秀秋は重度のアル中ではあっても只の暗愚ではなかったのでしょう。
本能寺の変の年に生まれた男が、戦国末期の雌雄を決する戰を担ったというのはなんというか皮肉だ
12歳でアル中とは・・・オレの親父より酒豪で草
通説だと日和見していた事になってるけど最近では開戦と同時に大谷勢に攻め掛かっていた事になってるのね
小早川秀秋が関ヶ原の合戦の時は18歳だったのか判断難しかっただろうな
最近だとハナから東軍側だった説が濃厚みたいですね。大谷の陣も最初から小早川に向けて敷かれていたらしいとわかったとか。
最初 松尾山には三成が入るつもりだったが秀秋が 強引に居座ったと見られてますね
@@MUSASI40 戦の前からずっと怪しいと思われてたらしいですよね。最初から西軍戦力として入れられてないどころか敵として数に入れられてるまでありますよね。
最近の研究では関ケ原の前に既に東軍についていたらしく、松尾山への布陣も元々松尾山にいた西軍の武将を追い出して布陣しているから大谷吉継も小早川秀秋の方に陣を向けていたらしいですね
秀秋がなくなったあと小早川家は改易で領地没収になりその家臣たちは再就職先がなかなか決まらなかったそう、、、
戦国時代は本当に裏切り者がかなり多いけど、それ程悲惨な時代だと分かる
動画ありがとうございます。小早川の寝返りで、というのはストーリー的に面白いですけど、毛利一族の吉川広家が家康に内応していたり、当初西軍だった京極高知が東軍についたりと、すでに勝敗は決していたのではというのが個人的な見解です。小早川家への養子ですが、五大老(上杉景勝の前は小早川隆景が五大老の一人)の家に養子に出ているので必ずしも冷遇とまでは言えないでしょうね。
明智光秀「裏切りなんて武士としては最低だ!。」松永久秀「武士の恥晒しめ!」荒木村重「よくも のうのうと生きてられるな。」宇喜多直家「恩を忘れるなんて武士失格だ!!。」
おまゆう😅
直家なんか戦よりも暗殺成り上がりのクズだから弟からも警戒されていた。
斎藤道三、松永久秀や宇喜多直家は闇討ちや毒殺で寝首をかいて主君やライバルを謀殺してのしあがった大悪党ですからね。それに比べれば明智光秀や小早川秀秋は上司からの理不尽なパワハラで気を病んで反逆した可哀想な人なので全然タイプが違いますね。
明智光秀と荒木村重は別として、松永久秀や宇喜多直家(斎藤道三とかも)は謀殺で主君やその一族、武士の権威の象徴である将軍(足利義輝)を抹殺してのし上がった下剋上の大悪党なので、流石、秀秋と一緒にするのはかわいそう(笑)
そんな宇喜多直家の本拠(備前國)に封ぜられる小早川秀秋であった…
秀秋の今までの理不尽な仕打ちを考えたら石田三成を裏切るのは仕方ないかなぁ…それに幼い頃からアルコール漬けだったからそのダメージが凄まじく寿命を縮めたんだよね本当に産まれてから可哀想な人生ですね秀次もそうだけど、この人も秀吉の甥でなければまだマシな人生が送れたのではないかなと思えてしまう。それだけ秀吉がしでかした仕打ちは因果となって何も罪もない秀頼に返ってしまったのだから
最近の研究だと関ヶ原までの行軍速度が異常に遅く裏切る気マンマンだったし迷いなんてなかったって話脇坂らの寝返り組は領地没収されたり悲惨な目に合ってるけど石高増えたのは家康と事前に内通してたからだろうし
小早川家も毛利の子供に継がれたり秀吉の養子に継がれたり大変な家だな。
しかもどちらも小早川の血筋では無い。一応隆景の正室は小早川本家の姫で養子の秀包は母親が小早川分家の娘だったから一応血筋だったけど。
裏切りではなく復讐劇として見るなら関ヶ原はこれ以上ない好機ですよね。もちろん代償は大きいんだけど、それを払うに値するだけの猛烈な恨みがあったとしたら…。
後継者としてチヤホヤしておいて、用が無くなったらポイ捨てからの領地没収・・・それは確かにアル中になるかもそして前回は「シンプルに三成が嫌いなので!」で今回は「っていうか三成が憎いのに!」という三成のヘイトっぷりがすごい
自分は山形の人間なので羽柴秀吉は嫌いでなくとも豊臣秀吉は大嫌いです
同じ考察の方は多いですよ~😊
@@和-n2d 🥺
羽柴時代でも白石長久が羽柴秀吉を取次先に最上差し置いて出羽守になろうとした遺恨もあったとかどうとか…→最上は徳川を窓口に出羽守就任を交渉してた駒姫以前に上杉景勝+本庄繁長らの庄内掠め取りという名胡桃事件みたいな惣無事令違反も揉み消されたし(上杉は先に臣従してたから違反しても何も言われなかった感)
近年の夭逝の原因が幼年期からの飲酒でのアル中説は驚いたな
確か大谷吉継は秀秋の裏切りを警戒して布陣したが秀秋の他に裏切った隊がいて受け止められなかった為に破れたんだったかな?
実際に 4隊が 小早川勢の側面をついていたら あっさり 崩壊したのではないかと言われていますね 最近の検証では4隊の 寝返り こそが 西軍にとって 致命傷になったのではと言う説が有力です
@@MUSASI40でもその4大名の内事前に寝返りを家康に伝えていた脇坂は領地は安堵だったけど、事前通達が無かった朽木は領地を減らされて小川と赤座は改易。
裏切るにしても戦闘が始まった戦場で裏切るんじゃなければここまで非難されなかったと思う
小早川隆景に拾われるところまではまだ恵まれてたな
元々は毛利家に養子に出されるところを、アル中が当主になっては困ると、家臣の隆景が引き取ったという見方もあります…
@@ricken_620 結果的には輝元でも…って結末でしたね💦
近年は若い上にアルコール中毒で判断力が低下していた秀秋は家中で発言力があまりなく裏切りは稲葉正成・平岡頼勝ら家老が決定したとされるし、実際には吉川広家の裏切りの方が東軍勝利にかなり貢献した模様…
毛利三本の矢毛利本家→大阪城に引きこもり吉川家→傍観小早川家→裏切りみごとに関ヶ原を引っ掻き回しましたね
@@ricken_620 名目上とはいえ西軍の総大将&その身内なのに何故か故意に家康を勝利させた結果、御家を衰退させるという意味不明な行為をした三家…
@@山城弾正 輝元に実子誕生して養子の秀元の処遇どうする問題で滅茶苦茶揉めてたんですよね… 三成案で広家は小早川遺領に国替え、秀元は秀吉の遺言の「石見・出雲」じゃなく「出雲・隠岐・伯耆」と数万石ケチった裁定で二人を怒らせた 家康は三成失脚後に秀元の希望だった長州+安芸・備後等に点在した実父・元清の遺領、広家の国替え令を解除して輝元に隆景の隠居領の返還で手打ちして秀元と広家は家康に深く感謝、輝元は本家主導でやれなかった恨みで家康を恨む形になるけど…戦後は広家と秀元の長府毛利家が両川になるけど広家は「このままでは鍋島に乗っ取られた龍造寺になる」と手紙を送って秀元を中傷するわ出奔計画立てようとするわとしばらくギッスギスになるという…
小早川は裏切り者扱いされているけれども、戦の前から徳川と通じていたのだから立派な戦略の一つだと思う。小早川に便乗して戦の最中に心変わりした脇坂とか小川のがよっぽど裏切り者だろう
脇坂は事前に寝返りを伝えていた。だから領地は安堵された。他は領地を減らされたり改易になった。
@@yh6146 すみません。記憶違いでした。赤座、朽木、小川と脇坂では対応が違いますね
@@仮アカ4朽木は長男の家系が交代寄合として明治まで続き、三男は分家して旗本になった後に三代将軍家光に大名に取り立てられた。だから本家は交代寄合の旗本で分家が大名。
とりあえず秀秋が裏切らなかったら陣地的に有利で日和見的な諸将の為に数で劣っていたにも関わらず押し気味に戦っていた西軍が家康を打ち取るまではないまでも家康を江戸まで押し返し大坂の陣ならぬ江戸征伐があったかもしれないね
小さい頃は、小早川秀秋は「最低な裏切り武将」と軽蔑していました・・・🧐しかし、近年の資料や今回の番組を視ると、彼は人生を含めて周りに翻弄され過ぎてしまいましたね・・・🤔
関ヶ原で寝返った豊臣恩顧の大名の多くが早期に取り潰されているのに石田三成は徳川家にも血筋が、どうする家康で唯一評価出来るのは朝鮮出兵時には家康と三成の仲が悪くない事かも。
臆病者のイメージが強い秀秋ですが、実際は勇猛かつ粗暴で、ねねですら手を焼く程だった様です。恐らくはこれもアルコールによるものかと思われます。
関ヶ原、地味に小早川だけが悪いみたいになってるけど、吉川もなかなかだったと思う。
秀秋も大変な人生やな
「人面獣心なり!3年の間に祟りをなさん」アル中が原因とはいえ、実際3年以内に亡くなってるし、多少は大谷殿の呪いが働いたのではないかと想像するとワクワクする
大谷隊は壊滅したのに何故吉継が自害前の呪いの言葉が伝わっているのかな?
秀秋は神童。15歳であのオールスター軍の総大将、更に現地で仲間を何度も救う大活躍。そして18歳で天下分け目の戦いで自分に仇をなした石田を撃った。
戦国の碇シンジ
マジで秀吉の負の遺産が原因すぎ
アル中によって寿命縮めた(史実より生きれても30代から40代)
秀秋の領地替えは慶長の役にて秀秋の領地は交通の要所だったから理由を付けて直轄領にしたかったという説もあります。
早逝した上に、家が存続しなかったせいで、悪評盛られまくった感があるんですよね…。無嗣断絶の先例のために、本多正信・正純が色々と手を回した、という話もあるようで…。
信長の逸話集やって欲しいです!
秀次事件の連座で丹波10万石を失ったと動画ではされているが、実際は小早川隆景の九州の所領を継承するためのものであったらしいですよ。(神屋文書)(石田三成書状)朝鮮での失態も近年ではその時期には朝鮮には渡っておらず、なので失態による減封でなく、朝鮮出兵のため博多を豊臣家直轄の前線基地にするための処置だったとされています。(中野2016)(堀越2016)越前への減封も、秀秋が復帰した後に入る青木が石高20万石あり、越前には筑前国人衆達は連れて来てないうえ、山口などの家臣が加賀おいて所領(独立)がある点からも、それほど大きな減封でなかったとも(光成2019)また家康のおかげで領地を取り戻したって動画では言ってるけど、実際は秀吉の遺言によって復帰は決まっていたものですよ、(毛利家文書)参考文献中野等 石田三成伝光成準治 小早川隆景・秀秋堀越祐一 豊臣政権の権力構造
まぁ毛利に縁がある武将は裏切る気だったから西軍は勝ち目ないね
後継者という概念が重要すぎるが故に、子供に過剰な期待やプレッシャーがかかるのが戦国の世の常ですね。12歳でアル中とは...酒を飲み始める年齢が早すぎるとも言えるけど、凄く辛い中生きてたんだろうな。
小早川秀秋は関ヶ原の戦いから僅か2年で亡くなった為、動画中で言われたタタリの他にも色々噂がたったようです。曰く「家臣に無理難題を何回も言ったので逆上した家臣に斬られた」「領地を巡回中に苛斂誅求を恨む農民に殺された」「農民に睾丸を蹴られて殺された」で、江戸幕府にバレると取り潰しになるので家中で隠したとなるのですが、流石に実際にありえないでしょうし哀れすぎます…(特に最後)
松尾山の西軍追い出して布陣した説あるし裏切りと言うよりそもそも東軍だった可能性あるけどね、秀秋ばかり言われてるけど脇坂赤座朽木小川も裏切り者なのになんも言われないな
最近、名前だけは知ってた武将とかに興味持ち始めて動画見てるけど、これ意外と最近の動画やったんや。チャンネル登録しました。
裏切り者の代名詞にも、少しは理があるという事ですね。秀秋さんも喜んでくれますよ。
幼少から酒を飲んでいたといえば、福沢諭吉も幼少から酒を飲んでいた。
マジですか?一万円札に描かれる程の偉人なのに。
@@hide9079 後、師匠の緒方先生の奥さんに呼ばれた時に全裸で泥酔していたから全裸をさらした。
最近だと【花の慶次 かぶき旅】でかっこよく扱われていましたね
お、リメイク版は少し新説に沿ったのか
聚楽第行幸の際に諸大名の出した誓紙の受取人が僅か6歳くらいの金吾だった点を鑑みるに、羽柴秀勝亡き後しばらくの間は、血縁者の秀次を差し置いて秀秋が秀吉の後継者候補っぽいところあったから秀秋が秀次枠になり得てた可能性もあるんだよな…更に言うなら毛利輝元と三成との密約も三成が預かってた秀秋の筑前を毛利に、小早川旧臣を三成にというトレードで合力が成立という(秀秋の放免復帰で立ち消えになったが)
秀頼に万一の事があったら豊臣家を継げるのは小早川秀秋か宇喜多秀家の2人でしたねそのためこの2人は豊臣姓を与えられていました
今だと新説とかもたくさんあるんですよね。このチャンネルは通説ベースが多いですか新説バージョンとかも見てみたいですね。
秀秋も苦汁を飲む思いだったと思います。秀吉への恩とこれからの日本のためという2つの壁にはさまれかなり悩んだと思います。徳川は小早川がいなければ勝てなかったことを思うともっと関ヶ原の後大切にしてあげるべきだったと思います😊
木村重成お願いします
どうする家康の小早川秀秋😍👍元々徳川家康と内通してた❤説👍
秀秋が「盾裏の反逆」で非難されるのなら、賤ヶ岳の戦いの前田利家も同様に非難されるべき。それで豊臣政権の五大老にのうのうと居座ってるのだから、相当な面の皮ですね。さすが「加賀の盾裏百万石」
秀吉はねねと結婚して木下藤吉郎になった説と、最初から木下姓だった説がある。正史で秀秋は秀吉と血縁がないが、実際には血縁があるのかも知れない
小早川隆景は実子がなくて、父元就の子(腹違いの年齢の離れた弟)を養子にしたこともあったと思います。秀秋の死後、お家断絶の憂き目に合ってしまいます。
この弟は秀秋が小早川を継いだ後に別に13万石の大名になったけど、関ヶ原で西軍だったから改易になった。その後本家の毛利から領地を与えられた際に毛利に名字を戻した。これが無かったら秀秋が亡くなっても小早川は残った。
ありがとうございます〜〜〜〜〜〜〜〜😢
なんでよりによって秀秋にこんな大軍が預けられてしまったのか
豊臣秀吉被害者カップ・セミファイナリスト小早川秀秋。なお優勝は秀次の模様。
石田三成についていたら歴史は大きくかわっていたかもしられませんね。
英秋享年21は若すぎだよォ…!コミュニティでも見たけど英秋が裏切らなかったら西軍の勝ちだったのかな、?後徳永サトシさんってほんと凄いから学校でも流してくれたんだよね☺️
信長の野望シリーズでは武将として登場するが寿命も短いし、能力も悪い
実態としては関ケ原に布陣してたっていうより撤退中に背後を突かれて総崩れって感じだしな~
正直、豊臣家に対しては愛憎渦巻く心境だったという事が本音だったかもしれませんねえ。もしかしたら後半の愚挙も「老い」故にと割り切っていたところもあったのかも。ただ行動を見る限り、やはり初めから東軍と決めていたわけではない感もあります。また西軍が勝てば、確実に秀頼の後見人クラスのポジが手に入るような履歴ですし、せいぜい一大名としての評価しか得られない東軍での立場を考えると悩むところもあったのではないでしょうか。酒におぼれているような記録もありますし、何かしらの強い意志があればまた違ったのかもしれませんが、悩み苦しんだ一生だったのでしょうね・・・
裏切ったけど婆娑羅大名の末裔として奮戦して周りをあっと言わせた京極家や豊臣恩顧で唯一太閤と険悪な状態で徳川家に寝返った水野家が許されてるから長生きしてれば秀秋も汚名返上の機会があるかも知れないが早死したのが残念だな。
むしろめちゃくちゃに好きになった
家康の事だ形成不利なら後日やり直しの戦を行うやりそうや
結局秀秋も秀吉(と三成)に振り回された犠牲者だったというわけかそら裏切るのもしゃーないと思えてしまう
個人的には本当はもっとしたたかな人な気がする😂
正直裏切り者のイメージがあんま無いですね、徳川につくのは無理もないですね。しかしほんとに秀頼は秀吉の子なのかね····
大野治長の子でしょう(笑)サルと呼ばれるほどチビだった秀吉から秀頼みたいな身長197cmで体重161kgの巨漢の大男が遺伝的にできるわけがない(笑)
12:46 今日の格言
裏切り者卑怯者と侮蔑されることもある武将だけど、戦国時代版の大人の都合に振り回された可哀想な子供が小早川秀秋だと思う。どこかで本当に美味い酒が飲めてるといいけどなぁ。
流れで石田三成に入っているから、決断力が弱かっただろうな
アルコール依存症の影響で奇妙な行動が目立つようになり関ヶ原の時点での小早川勢は完全に稲葉正成・平岡頼勝ら家老たちの主導で動いていたそうです。
そもそも東軍に味方するつもりだったが戦役が始まったときに周りが西軍ばかりだったので西軍のふりをした説。
12:46 締めの格言
まぁ小早川の裏切りを非難するなら、福島正則や加藤清正はなんやねんって話もあるのだが、後年軒並改易と言う生き地獄を味わってる所を見ると、早死にして徳川の世に寄与したことを最低限に留めた小早川はある意味幸せだったのかもしれない。
彼だけが特別じゃないけど時代に翻弄された人生だったかなと。せめて10年ほど早く生まれていれば全く違った人生があったのかもしれない。
むしろこの人で映画を作りたい
最近BSの歴史検証番組で、別の説が出てましたよ。そちらもご参考に。
英雄たちの選択かな?秀秋の話をやっていた。今までの定説とは違う説が出ていた。
トップになるにはものすごく繊細でナイーブな人だったんだね
童門冬二氏の歴史小説では、秀吉の義兄の子供達は一国の主となるには厳しい能力の持ち主ばかりとされていたそれでも秀吉は元就や信長が行った、子供を養子に出すことでその家を乗っ取る計画は有効だと考えていたそこで嫡男秀頼が生まれた秀吉は、ちょうどいいとばかりに秀秋を毛利家に養子に出そうとしていたらしいそれに驚いた小早川隆景が「(あんな不出来な子供に毛利を乗っ取られてたまるものか)ぜひ秀秋様を我が小早川家に下さい」と秀吉に願い出て、養子にもらうことになったとか隆景は小早川家を犠牲にしてでも、毛利本家を守ったという流れだったそこまでボンクラ扱いされる秀秋も可哀想に
実際は秀頼が生まれる前に毛利の後継ぎは秀元になっているから、秀吉は秀秋を毛利に押し付け様とした話はあり得ないという説もある。
家康「どうせ小早川は長続きせんじゃろ。毛利本家さえ残してやれば義理は果たせるし」と気前よく55万石与えて、すぐ断絶・取り潰しした家康さんがやばいな。小早川軍の進軍経路みてると、東軍に合流しようとしてるとしか思えないもの。
7歳に酒を飲ませちゃいかんでしょうよ(そこか
島津も東軍につこうとしたのに、行きがかりで西軍につく羽目になったし
秀秋君は最初から徳川方だったという説もあるけど、どっちの説でも三成を潰したかったのでしょうね。
石田三成に問題があったというか秀吉の大陸出兵にも問題があったというか・・・歴史は連鎖がだからなかなか難しい
最近の研究では裏切りではなく最初から東軍だったとも言われている
「小早川秀秋が裏切らなかったら西軍が勝ってた。」←それはない。吉川も、小早川も徳川家康を攻めても徳川家康が勝つねぇ^^;。兵の質、練度がダンチ。この時代、マスケット銃(火縄銃)だと内線有利も普通にあり得る世界。ナポレオン戦争みればわかる。そして、この時の火縄銃は下手するとヨーロッパのソレよりも命中精度が高い(鉛玉の場合)。だから、現代戦を見て包囲殲滅で勝てると思いきや・・・。まぁそもそも野戦と疾風迅雷、機動戦術が得意な家康がここに出てきたということは、まず勝利を確信して出てきた。石田三成は何がなんだかわからないうちに負けたと思うよ。
戦国史上最大の謀反が起こった年に生まれているところは歴史の皮肉…
歴史に悪意を以て弄ばれた感が凄いですね……
本当に歴史に翻弄された人だったんだな…
見方が全く変わってしまった
実に興味深い動画でした
@@凪るみの
悪意を疑いたくなるレベルで翻弄されていますね……
昔は「裏切るなんて酷い奴だサイテー」とか思ってたけどこの動画を見た後だと…「是非もなし」
豊富の闇をありったけ背負った結果豊臣を滅ぼす厄災となった男
@@ILoveWaddleDee-x3v
ファンタジーものに出てきそうな表現ですね……
財務省、テレビ局の闇を浴び続けた人が、令和最大の裏切りをすることを期待
関ヶ原の戦いの裏切りの印象が強くて長い間、悪く言われていたけど、関ヶ原の戦いの前を見ることで、東軍に寝返る気持ちも分からなくは無いなって思った。だから歴史って面白い。
というか、秀吉が死んだ時点でもう西軍に付く義理はほぼないと思う。秀吉は死に、徳川には恩があり、三成には怨しかない。
現在では最初から西軍だった説まであるし、もしこちらの説が定着していたら、大戦を終結させた決定打となった武将という名誉が残ったかも。
ねねは子供に恵まれなかったこともあり、秀秋のことは我が子同然に可愛がっていた為、秀頼に乗り換えて秀秋を世継ぎから除名したことを、ねねは秀吉にはこの件に関しては心底激怒してたみたいですね。
@user-vq7bm9hl7j
最初から"東"軍だった説、ではないでしょうか。
@@キサラギ-y1s
関ヶ原から2年程で早死にしたのが一番不味かったですかね?
@@dai-mf5qc
ミスってました東軍ですね。失礼しました。
小早川秀秋は関ケ原の戦い以前から東軍側に付いていたと言う説もあります。
実際に大谷吉継は小早川秀秋が裏切るのは織り込みで十分に認識していたみたいで実際に大谷吉継軍側の迎撃により
身動きがとれなかったらしいです。
大谷吉継側にとって最大の誤算は四人の武将の軍側の裏切りにより大谷吉継軍側が総崩れになったのが
真相だったらしいみたいです
これ見たら納得しかない
戦国の歴史を学べば学ぶほど不憫に思えてくる武将。
関ヶ原にしたって徳川家康が59歳で石田三成が41歳。他の武将も東西問わず百戦錬磨の猛者ばかり。
こんな状況でやたら兵力だけ持たされた19歳の若造に正常な判断ができるかって話よ。
これにアル中が加わっていた訳ですからね……。何かを判断出来ただけでも凄いとすら思えてきます……
当時の価値観では当たり前でも、いくら元服してるからって10歳にも満たない子どもに酒飲ませるなよ…
西軍の祟りだと好き勝手言っておいて多分自分達が飲ませた酒で死んだのは全く省みないのだろうなと思うと不憫でならない
@@ILoveWaddleDee-x3v
奴らこそ祟られれば良いのに……、
って、そう都合よく物事が成されれば苦労はないですよね……
下剋上の世の中なのに、裏切り者と言われるのは、悲しいですよね。
お疲れ様でした。今でも謎とされている関ヶ原の決着の早さ。確かにこれに関わっている事は間違いなさそうだけど、立役者か裏切り者扱いでは天と地です。後々に創作の余地を残してしまったのも残念。日本史上最高とされる戦いで、一番手柄とされてもおかしく無い功績を秀秋としたくない悪意が働いている可能性もあり得る話ですからね。
昔の番組で小早川が裏切らなかったらどうなるかを検証したらたいして変わらないってのがあって余計に不憫
西軍が善戦して膠着した後、黒田孝高がどうしたかが気になる。毛利が秀頼を担いで出てきた時、福島ら豊臣恩顧の武将がどうしたか、正直わからん。東軍は引き分けに近い負けになる可能性も大いにあるよ
小早川が裏切らなくても戦局は変わらないが吉川広家が裏切りを中止したら毛利・長宗我部軍2万5千が家康本陣を急襲するため戦局に大きく影響する
吉川も小早川も徳川家康を攻めても徳川家康が勝つねぇ^^;。
兵の質、練度がダンチ。この時代、マスケット銃(火縄銃)だと内線有利も普通にあり得る世界。ナポレオン戦争みればわかる。そして、この時の火縄銃は下手するとヨーロッパのソレよりも命中精度が高い(鉛玉の場合)。
だから、現代戦を見て包囲殲滅で勝てると思いきや・・・。
まぁそもそも野戦と疾風迅雷、機動戦術が得意な家康がここに出てきたということは、まず勝利を知ってから戦場に出てきた。
愚将、凡将は戦ってのちに勝利を求める。
あの舐めまくりで裏切り前提の東軍の配置だと裏切らなかったら家康に強襲でワンチャン西軍勝ちそうだけどな。
@@WearstFaker家康の本隊は雑兵で構成されてたそうですよ。徳川精鋭はほとんど秀忠隊に加わってたらしい。
乱世の振る舞いとしては正しいが、マジで土壇場で裏切った前田家が誠実扱いなの見ると
金吾殿の一番の不運はその後イメージ改善する前に亡くなったことなんだろうな…
生きてさえいれば時間はいくらでも味方してくれたのに
歴史はどこまでが事実なのかこの裏切りは徳川のでっち上げではないかと展開がうますぎるもの
12:20 実際、大谷吉継が自害する際に「金吾(秀秋)め、人面獣心なり。三年の間に祟りを成さん」と呪いの言葉を吐いた、なんて話が残るくらいでしたもんなぁ。
あと、秀秋の死因としてそこいらの農民に玉を蹴られて死んだって俗説が語られたとか。
大谷隊は壊滅なのに何で吉継の最後の言葉が伝わっているのか?
何とも可哀想な生涯ですね…
三成も何故仲間になって戦ってくれると思ったのやらですが。
もし長生きしていたならどうなったのか豊臣一門ですから何処かで改易されたのか命脈が保たれたのか。
人道面についてはよく分からないけど、少なくとも愚将や暗君の類ではなかったと思う
彼の治めていた地域で一揆など統治上の問題が起こった記録はない。
秀頼は幕府がサポートしなければまったく大阪の統治を回せなかったことも踏まえると、秀秋は重度のアル中ではあっても只の暗愚ではなかったのでしょう。
本能寺の変の年に生まれた男が、戦国末期の雌雄を決する戰を担ったというのはなんというか皮肉だ
12歳でアル中とは・・・オレの親父より酒豪で草
通説だと日和見していた事になってるけど最近では開戦と同時に大谷勢に攻め掛かっていた事になってるのね
小早川秀秋が関ヶ原の合戦の時は18歳だったのか判断難しかっただろうな
最近だとハナから東軍側だった説が濃厚みたいですね。
大谷の陣も最初から小早川に向けて敷かれていたらしいとわかったとか。
最初 松尾山には三成が入るつもりだったが秀秋が 強引に居座ったと見られてますね
@@MUSASI40 戦の前からずっと怪しいと思われてたらしいですよね。最初から西軍戦力として入れられてないどころか敵として数に入れられてるまでありますよね。
最近の研究では関ケ原の前に既に東軍についていたらしく、松尾山への布陣も元々松尾山にいた西軍の武将を追い出して布陣しているから大谷吉継も小早川秀秋の方に陣を向けていたらしいですね
秀秋がなくなったあと小早川家は改易で領地没収になりその家臣たちは再就職先がなかなか決まらなかったそう、、、
戦国時代は本当に裏切り者がかなり多いけど、それ程悲惨な時代だと分かる
動画ありがとうございます。
小早川の寝返りで、というのはストーリー的に面白いですけど、毛利一族の吉川広家が家康に内応していたり、当初西軍だった京極高知が東軍についたりと、すでに勝敗は決していたのではというのが個人的な見解です。
小早川家への養子ですが、五大老(上杉景勝の前は小早川隆景が五大老の一人)の家に養子に出ているので必ずしも冷遇とまでは言えないでしょうね。
明智光秀「裏切りなんて武士としては最低だ!。」松永久秀「武士の恥晒しめ!」荒木村重「よくも のうのうと生きてられるな。」
宇喜多直家「恩を忘れるなんて武士失格だ!!。」
おまゆう😅
直家なんか戦よりも暗殺成り上がりのクズだから弟からも警戒されていた。
斎藤道三、松永久秀や宇喜多直家は闇討ちや毒殺で寝首をかいて主君やライバルを謀殺してのしあがった大悪党ですからね。それに比べれば明智光秀や小早川秀秋は上司からの理不尽なパワハラで気を病んで反逆した可哀想な人なので全然タイプが違いますね。
明智光秀と荒木村重は別として、松永久秀や宇喜多直家(斎藤道三とかも)は謀殺で主君やその一族、武士の権威の象徴である将軍(足利義輝)を抹殺してのし上がった下剋上の大悪党なので、流石、秀秋と一緒にするのはかわいそう(笑)
そんな宇喜多直家の本拠(備前國)に封ぜられる小早川秀秋であった…
秀秋の今までの理不尽な仕打ちを考えたら
石田三成を裏切るのは仕方ないかなぁ…
それに幼い頃からアルコール漬けだったから
そのダメージが凄まじく
寿命を縮めたんだよね
本当に産まれてから可哀想な人生ですね
秀次もそうだけど、この人も
秀吉の甥でなければ
まだマシな人生が送れたのではないかなと思えてしまう。
それだけ秀吉がしでかした仕打ちは
因果となって何も罪もない秀頼に返ってしまったのだから
最近の研究だと関ヶ原までの行軍速度が異常に遅く裏切る気マンマンだったし迷いなんてなかったって話
脇坂らの寝返り組は領地没収されたり悲惨な目に合ってるけど石高増えたのは家康と事前に内通してたからだろうし
小早川家も毛利の子供に継がれたり秀吉の養子に継がれたり大変な家だな。
しかもどちらも小早川の血筋では無い。一応隆景の正室は小早川本家の姫で養子の秀包は母親が小早川分家の娘だったから一応血筋だったけど。
裏切りではなく復讐劇として見るなら関ヶ原はこれ以上ない好機ですよね。もちろん代償は大きいんだけど、それを払うに値するだけの猛烈な恨みがあったとしたら…。
後継者としてチヤホヤしておいて、用が無くなったらポイ捨てからの領地没収・・・それは確かにアル中になるかも
そして前回は「シンプルに三成が嫌いなので!」で今回は「っていうか三成が憎いのに!」という三成のヘイトっぷりがすごい
自分は山形の人間なので
羽柴秀吉は嫌いでなくとも
豊臣秀吉は大嫌いです
同じ考察の方は多いですよ~😊
@@和-n2d 🥺
羽柴時代でも白石長久が羽柴秀吉を取次先に最上差し置いて出羽守になろうとした遺恨もあったとかどうとか…→最上は徳川を窓口に出羽守就任を交渉してた
駒姫以前に上杉景勝+本庄繁長らの庄内掠め取りという名胡桃事件みたいな惣無事令違反も揉み消されたし(上杉は先に臣従してたから違反しても何も言われなかった感)
近年の夭逝の原因が幼年期からの飲酒でのアル中説は驚いたな
確か大谷吉継は秀秋の裏切りを警戒して布陣したが秀秋の他に裏切った隊がいて受け止められなかった為に破れたんだったかな?
実際に 4隊が 小早川勢の側面をついていたら あっさり 崩壊したのではないかと言われていますね 最近の検証では
4隊の 寝返り こそが 西軍にとって 致命傷になったのではと言う説が有力です
@@MUSASI40でもその4大名の内事前に寝返りを家康に伝えていた脇坂は領地は安堵だったけど、事前通達が無かった朽木は領地を減らされて小川と赤座は改易。
裏切るにしても戦闘が始まった戦場で裏切るんじゃなければ
ここまで非難されなかったと思う
小早川隆景に拾われるところまではまだ恵まれてたな
元々は毛利家に養子に出されるところを、アル中が当主になっては困ると、家臣の隆景が引き取ったという見方もあります…
@@ricken_620 結果的には輝元でも…って結末でしたね💦
近年は若い上にアルコール中毒で判断力が低下していた秀秋は家中で発言力があまりなく裏切りは稲葉正成・平岡頼勝ら家老が決定したとされるし、実際には吉川広家の裏切りの方が東軍勝利にかなり貢献した模様…
毛利三本の矢
毛利本家→大阪城に引きこもり
吉川家→傍観
小早川家→裏切り
みごとに関ヶ原を引っ掻き回しましたね
@@ricken_620
名目上とはいえ西軍の総大将&その身内なのに何故か故意に家康を勝利させた結果、御家を衰退させるという意味不明な行為をした三家…
@@山城弾正 輝元に実子誕生して養子の秀元の処遇どうする問題で滅茶苦茶揉めてたんですよね… 三成案で広家は小早川遺領に国替え、秀元は秀吉の遺言の「石見・出雲」じゃなく「出雲・隠岐・伯耆」と数万石ケチった裁定で二人を怒らせた 家康は三成失脚後に秀元の希望だった長州+安芸・備後等に点在した実父・元清の遺領、広家の国替え令を解除して輝元に隆景の隠居領の返還で手打ちして秀元と広家は家康に深く感謝、輝元は本家主導でやれなかった恨みで家康を恨む形になるけど…
戦後は広家と秀元の長府毛利家が両川になるけど広家は「このままでは鍋島に乗っ取られた龍造寺になる」と手紙を送って秀元を中傷するわ出奔計画立てようとするわとしばらくギッスギスになるという…
小早川は裏切り者扱いされているけれども、戦の前から徳川と通じていたのだから立派な戦略の一つだと思う。小早川に便乗して戦の最中に心変わりした脇坂とか小川のがよっぽど裏切り者だろう
脇坂は事前に寝返りを伝えていた。だから領地は安堵された。他は領地を減らされたり改易になった。
@@yh6146 すみません。記憶違いでした。赤座、朽木、小川と脇坂では対応が違いますね
@@仮アカ4朽木は長男の家系が交代寄合として明治まで続き、三男は分家して旗本になった後に三代将軍家光に大名に取り立てられた。だから本家は交代寄合の旗本で分家が大名。
とりあえず秀秋が裏切らなかったら陣地的に有利で
日和見的な諸将の為に数で劣っていたにも関わらず押し気味に戦っていた西軍が
家康を打ち取るまではないまでも家康を江戸まで押し返し
大坂の陣ならぬ江戸征伐があったかもしれないね
小さい頃は、小早川秀秋は「最低な裏切り武将」と軽蔑していました・・・🧐
しかし、近年の資料や今回の番組を視ると、彼は人生を含めて周りに翻弄され過ぎてしまいましたね・・・🤔
関ヶ原で寝返った豊臣恩顧の大名の多くが早期に取り潰されているのに石田三成は徳川家にも血筋が、どうする家康で唯一評価出来るのは朝鮮出兵時には家康と三成の仲が悪くない事かも。
臆病者のイメージが強い秀秋ですが、実際は勇猛かつ粗暴で、ねねですら手を焼く程だった様です。恐らくはこれもアルコールによるものかと思われます。
関ヶ原、地味に小早川だけが悪いみたいになってるけど、吉川もなかなかだったと思う。
秀秋も大変な人生やな
「人面獣心なり!3年の間に祟りをなさん」
アル中が原因とはいえ、実際3年以内に亡くなってるし、多少は大谷殿の呪いが働いたのではないかと想像するとワクワクする
大谷隊は壊滅したのに何故吉継が自害前の呪いの言葉が伝わっているのかな?
秀秋は神童。
15歳であのオールスター軍の総大将、更に現地で仲間を何度も救う大活躍。
そして18歳で天下分け目の戦いで自分に仇をなした石田を撃った。
戦国の碇シンジ
マジで秀吉の負の遺産が原因すぎ
アル中によって寿命縮めた(史実より生きれても30代から40代)
秀秋の領地替えは慶長の役にて秀秋の領地は交通の要所だったから理由を付けて直轄領にしたかったという説もあります。
早逝した上に、家が存続しなかったせいで、悪評盛られまくった感があるんですよね…。
無嗣断絶の先例のために、本多正信・正純が色々と手を回した、という話もあるようで…。
信長の逸話集やって欲しいです!
秀次事件の連座で丹波10万石を失ったと動画ではされているが、実際は小早川隆景の九州の所領を継承するためのものであったらしいですよ。(神屋文書)(石田三成書状)
朝鮮での失態も近年ではその時期には朝鮮には渡っておらず、なので失態による減封でなく、朝鮮出兵のため博多を豊臣家直轄の前線基地にするための処置だったとされています。(中野2016)(堀越2016)
越前への減封も、秀秋が復帰した後に入る青木が石高20万石あり、越前には筑前国人衆達は連れて来てないうえ、山口などの家臣が加賀おいて所領(独立)がある点からも、それほど大きな減封でなかったとも(光成2019)
また家康のおかげで領地を取り戻したって動画では言ってるけど、実際は秀吉の遺言によって復帰は決まっていたものですよ、(毛利家文書)
参考文献
中野等 石田三成伝
光成準治 小早川隆景・秀秋
堀越祐一 豊臣政権の権力構造
まぁ毛利に縁がある武将は裏切る気だったから西軍は勝ち目ないね
後継者という概念が重要すぎるが故に、子供に過剰な期待やプレッシャーがかかるのが戦国の世の常ですね。12歳でアル中とは...酒を飲み始める年齢が早すぎるとも言えるけど、凄く辛い中生きてたんだろうな。
小早川秀秋は関ヶ原の戦いから僅か2年で亡くなった為、動画中で言われたタタリの他にも色々噂がたったようです。曰く「家臣に無理難題を何回も言ったので逆上した家臣に斬られた」「領地を巡回中に苛斂誅求を恨む農民に殺された」「農民に睾丸を蹴られて殺された」で、江戸幕府にバレると取り潰しになるので家中で隠したとなるのですが、流石に実際にありえないでしょうし哀れすぎます…(特に最後)
松尾山の西軍追い出して布陣した説あるし裏切りと言うよりそもそも東軍だった可能性あるけどね、秀秋ばかり言われてるけど脇坂赤座朽木小川も裏切り者なのになんも言われないな
最近、名前だけは知ってた武将とかに興味持ち始めて動画見てるけど、これ意外と最近の動画やったんや。チャンネル登録しました。
裏切り者の代名詞にも、少しは理があるという事ですね。秀秋さんも喜んでくれますよ。
幼少から酒を飲んでいたといえば、福沢諭吉も幼少から酒を飲んでいた。
マジですか?一万円札に描かれる程の偉人なのに。
@@hide9079 後、師匠の緒方先生の奥さんに呼ばれた時に全裸で泥酔していたから全裸をさらした。
最近だと
【花の慶次 かぶき旅】でかっこよく扱われていましたね
お、リメイク版は少し新説に沿ったのか
聚楽第行幸の際に諸大名の出した誓紙の受取人が僅か6歳くらいの金吾だった点を鑑みるに、羽柴秀勝亡き後しばらくの間は、血縁者の秀次を差し置いて秀秋が秀吉の後継者候補っぽいところあったから秀秋が秀次枠になり得てた可能性もあるんだよな…
更に言うなら毛利輝元と三成との密約も三成が預かってた秀秋の筑前を毛利に、小早川旧臣を三成にというトレードで合力が成立という(秀秋の放免復帰で立ち消えになったが)
秀頼に万一の事があったら
豊臣家を継げるのは小早川秀秋か宇喜多秀家の2人でしたね
そのためこの2人は豊臣姓を与えられていました
今だと新説とかもたくさんあるんですよね。
このチャンネルは通説ベースが多いですか新説バージョンとかも見てみたいですね。
秀秋も苦汁を飲む思いだったと思います。秀吉への恩とこれからの日本のためという2つの壁にはさまれかなり悩んだと思います。徳川は小早川がいなければ勝てなかったことを思うともっと関ヶ原の後大切にしてあげるべきだったと思います😊
木村重成お願いします
どうする家康の小早川秀秋😍👍元々徳川家康と内通してた❤説👍
秀秋が「盾裏の反逆」で非難されるのなら、賤ヶ岳の戦いの前田利家も同様に非難されるべき。それで豊臣政権の五大老にのうのうと居座ってるのだから、相当な面の皮ですね。さすが「加賀の盾裏百万石」
秀吉はねねと結婚して木下藤吉郎になった説と、最初から木下姓だった説がある。正史で秀秋は秀吉と血縁がないが、実際には血縁があるのかも知れない
小早川隆景は実子がなくて、父元就の子(腹違いの年齢の離れた弟)を養子にしたこともあったと思います。秀秋の死後、お家断絶の憂き目に合ってしまいます。
この弟は秀秋が小早川を継いだ後に別に13万石の大名になったけど、関ヶ原で西軍だったから改易になった。その後本家の毛利から領地を与えられた際に毛利に名字を戻した。これが無かったら秀秋が亡くなっても小早川は残った。
ありがとうございます〜〜〜〜〜〜〜〜😢
なんでよりによって秀秋にこんな大軍が預けられてしまったのか
豊臣秀吉被害者カップ・セミファイナリスト小早川秀秋。なお優勝は秀次の模様。
石田三成についていたら歴史は大きくかわっていたかもしられませんね。
英秋享年21は若すぎだよォ…!
コミュニティでも見たけど英秋が裏切らなかったら西軍の勝ちだったのかな、?後徳永サトシさんってほんと凄いから学校でも流してくれたんだよね☺️
信長の野望シリーズでは武将として登場するが寿命も短いし、能力も悪い
実態としては関ケ原に布陣してたっていうより撤退中に背後を突かれて総崩れって感じだしな~
正直、豊臣家に対しては愛憎渦巻く心境だったという事が本音だったかもしれませんねえ。もしかしたら後半の愚挙も「老い」故にと割り切っていたところもあったのかも。
ただ行動を見る限り、やはり初めから東軍と決めていたわけではない感もあります。また西軍が勝てば、確実に秀頼の後見人クラスのポジが手に入るような履歴ですし、
せいぜい一大名としての評価しか得られない東軍での立場を考えると悩むところもあったのではないでしょうか。
酒におぼれているような記録もありますし、何かしらの強い意志があればまた違ったのかもしれませんが、悩み苦しんだ一生だったのでしょうね・・・
裏切ったけど婆娑羅大名の末裔として奮戦して周りをあっと言わせた京極家や豊臣恩顧で唯一太閤と険悪な状態で徳川家に寝返った水野家が許されてるから長生きしてれば秀秋も汚名返上の機会があるかも知れないが早死したのが残念だな。
むしろめちゃくちゃに好きになった
家康の事だ形成不利なら後日やり直しの戦を行うやりそうや
結局秀秋も秀吉(と三成)に振り回された犠牲者だったというわけか
そら裏切るのもしゃーないと思えてしまう
個人的には本当はもっとしたたかな人な気がする😂
正直裏切り者のイメージがあんま無いですね、徳川につくのは無理もないですね。
しかしほんとに秀頼は秀吉の子なのかね····
大野治長の子でしょう(笑)
サルと呼ばれるほどチビだった秀吉から秀頼みたいな身長197cmで体重161kgの巨漢の大男が遺伝的にできるわけがない(笑)
12:46 今日の格言
裏切り者卑怯者と侮蔑されることもある武将だけど、戦国時代版の大人の都合に振り回された可哀想な子供が小早川秀秋だと思う。どこかで本当に美味い酒が飲めてるといいけどなぁ。
流れで石田三成に入っているから、決断力が弱かっただろうな
アルコール依存症の影響で奇妙な行動が目立つようになり関ヶ原の時点での小早川勢は完全に稲葉正成・平岡頼勝ら家老たちの主導で動いていたそうです。
そもそも東軍に味方するつもりだったが戦役が始まったときに周りが西軍ばかりだったので西軍のふりをした説。
12:46 締めの格言
まぁ小早川の裏切りを非難するなら、福島正則や加藤清正はなんやねんって話もあるのだが、後年軒並改易と言う生き地獄を味わってる所を見ると、早死にして徳川の世に寄与したことを最低限に留めた小早川はある意味幸せだったのかもしれない。
彼だけが特別じゃないけど時代に翻弄された人生だったかなと。
せめて10年ほど早く生まれていれば全く違った人生があったのかもしれない。
むしろこの人で映画を作りたい
最近BSの歴史検証番組で、別の説が出てましたよ。そちらもご参考に。
英雄たちの選択かな?秀秋の話をやっていた。今までの定説とは違う説が出ていた。
トップになるにはものすごく繊細でナイーブな人だったんだね
童門冬二氏の歴史小説では、秀吉の義兄の子供達は一国の主となるには厳しい能力の持ち主ばかりとされていた
それでも秀吉は元就や信長が行った、子供を養子に出すことでその家を乗っ取る計画は有効だと考えていた
そこで嫡男秀頼が生まれた秀吉は、ちょうどいいとばかりに秀秋を毛利家に養子に出そうとしていたらしい
それに驚いた小早川隆景が「(あんな不出来な子供に毛利を乗っ取られてたまるものか)ぜひ秀秋様を我が小早川家に下さい」と秀吉に願い出て、養子にもらうことになったとか
隆景は小早川家を犠牲にしてでも、毛利本家を守ったという流れだった
そこまでボンクラ扱いされる秀秋も可哀想に
実際は秀頼が生まれる前に毛利の後継ぎは秀元になっているから、秀吉は秀秋を毛利に押し付け様とした話はあり得ないという説もある。
家康「どうせ小早川は長続きせんじゃろ。毛利本家さえ残してやれば義理は果たせるし」
と気前よく55万石与えて、すぐ断絶・取り潰しした家康さんがやばいな。
小早川軍の進軍経路みてると、東軍に合流しようとしてるとしか思えないもの。
7歳に酒を飲ませちゃいかんでしょうよ(そこか
島津も東軍につこうとしたのに、行きがかりで西軍につく羽目になったし
秀秋君は最初から徳川方だったという説もあるけど、どっちの説でも三成を潰したかったのでしょうね。
石田三成に問題があったというか秀吉の大陸出兵にも問題があったというか・・・歴史は連鎖がだからなかなか難しい
最近の研究では裏切りではなく最初から東軍だったとも言われている
「小早川秀秋が裏切らなかったら西軍が勝ってた。」←それはない。
吉川も、小早川も徳川家康を攻めても徳川家康が勝つねぇ^^;。
兵の質、練度がダンチ。この時代、マスケット銃(火縄銃)だと内線有利も普通にあり得る世界。ナポレオン戦争みればわかる。そして、この時の火縄銃は下手するとヨーロッパのソレよりも命中精度が高い(鉛玉の場合)。
だから、現代戦を見て包囲殲滅で勝てると思いきや・・・。
まぁそもそも野戦と疾風迅雷、機動戦術が得意な家康がここに出てきたということは、まず勝利を確信して出てきた。
石田三成は何がなんだかわからないうちに負けたと思うよ。