Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
伊東義祐は栄枯盛衰を現す人生だけど70歳以上生きた途中で切腹しそうになっても諦めず進み続け最終的に息子が大名となり藩主となった苦難に満ちた人生だけど戦国の世で家を没落させず存続させたのは本当のことそれだけで十分だと思う
最期は事故みたいなもん。島津に負けても諦めずに豊後まで逃げて、大友が大敗した後も死なずに頑張ったから旧領に復帰して家名も残せたと考えたら潔く死なずに生きていくって大事。
自家の最盛期を迎えさせたが故に調子に乗って人の言うこと聞かなくなった義祐の末路を見て、成功を手にしてからもちゃんと家臣を大切にして話に耳を傾けることを怠っちゃいけないんだなと思った。
嫡男の義益の早死が痛過ぎたねぇ優秀で人望もあって贅沢なりつつあった親父を諌めてたのに
絵が大好きですほんとにかわいいし表情豊かで味わい深いと思います自分が好きな歴史モノを取り扱ってくださるのも嬉しいです🎉これからも楽しみにしてます!
「木崎原の戦い」の戦いで鬼島津(島津義弘)の「釣り野伏せ」を食らって敗走、その後大友家に落ち延びた所までは知っていたんですが、こんなに波乱万丈の人生だったとは。あと、戦国時代の死亡フラグを立てすぎ(京風を好む、佞臣ばかりになる)。同じパターンの朝倉義景と大内義隆を思い出しました。
義祐さん自身は悲惨ではありますが、一族としては秀吉配下となって島津にも一矢報い大名にも復帰して関ケ原も東軍で参戦。完全に滅びてしまった一族から見れば伊東家は勝ち組と言えなくもないですね。
新聞にあった宮崎県の観光のパンフレットでは、飫肥藩の礎を築いた伊東祐兵が大々的に取り上げられ、英雄視されてますね
同じく島津家から独立して戦国大名になった肝付家も、結局大名の地位を失って再度島津家の家臣に戻ってしまいましたしね。大名として存続出来ただけまだマシ(まあ、その末裔は明治に出世して男爵になったり、イヤミで4号なドラキュラの6浪したホラーな金持ち少年等で知られる大声優がいますが😊)ついでに日向には、衰退大名仲間として筑前から飛ばされた秋月家も居ますし。
鎌倉時代に日向国に下向して始まった伊東氏が、戦国時代には領地を失うも九州征伐後に旧領に復帰して幕末までずっと続くから凄い名家ではあるんだよね
残念ながら時は戦国時代なので名家とか関係なく力のない者は淘汰されていくんだな。
旧領。飫肥は豊州島津氏の土地なんだけどね。島津氏から飫肥を奪い取ったから少しは溜飲が下がったのでしょうか。本貫地の佐土原なくしたけど😅
最期孤独4じゃなかったのがいくらか報われたか…イエスマンばかりを側近にして古参の配下の苦言に耳を貸さなかったことが落ちぶれた原因とはいえ、その配下たちが最初に自分ではなく弟を担いだエピソードを聞くと一方的に責められない気もする
大内氏といい伊東氏といい、領地を小京都にするとロクなことはないな
今川もその口かな。
朝倉
@@tee5813 確かにここも小京都にしてた
中国の騎馬民族が漢の文化に取り込まれて最終的に没落していく感じ
領地の繁栄は領主として当然のことなんだけどな変にかぶれるから悪いのか
後に飫肥藩の伊東家は善政を敷くけど この人の 振る舞いが 反面教師になったところも大きいのだろうね
動画で見た感じだと、この地域は島津家から奪取して10数年しか治めてないから、名君だった頃は現地の統治には細心の注意を払っていたのではないかと。復帰後も先祖伝来の領地というわけでは無く、依然として島津家の脅威もあったので豊臣政権や徳川幕府の支援があったのかも。
忠臣の言葉に耳を傾けていれば...義祐哀れなり
野垂れ死に同然の死に様は無様だが、子孫が領主に返り咲けただけたとえば天目山で散った武田勝頼よりは大分ましではないだろうか。
家康の五男で、折角武田宗家を継いだ(母が信玄の娘?)松平忠吉も早逝しちゃいましたしね。一応分家の分家である柳沢吉保が甲斐の大半を治めた甲府藩の藩主でしたけど、息子の代で大和郡山に飛ばされちゃいましたし。
@@長野業正-j9lそれは「武田信吉」ですね。家康は当初は穴山梅雪未亡人・見性院(武田信玄の娘)の息子・勝千代に武田の名跡を継がせようとしたけど16歳で早世したので、見性院を後見人として自身の五男・万千代丸(後の武田信吉)に武田の名跡を継がせました。
動画ありがとうございます。他者の意見を聞かず、耳障りのいいことにだけ耳を傾けるというのは独裁政治を行う国の政治家や、腐敗した国の政治家にもあることであり、まさに現代にも通じることだなと改めて感じさせられました。
両親とも飫肥藩士ノ家系です。ありがとうございます。
肥溜めの家系?
お疲れ様でした。悲惨な最後と言えますが、身内に骨を拾って貰えたのは救いだったと思います。名を残す事も埋葬すらかなわず歴史に埋もれた戦国の世の人々は数えきれない程いた筈ですからね。
肝付兼続と伊東義祐は島津家と渡り合ったわけで、もっと評価されるべき武将だよね
かなり昔、信長の野望の烈風伝か天翔記をプレイしてる時に何故か播磨か摂津あたりで仕官して来たので不思議に思ってました。その後に詳細を知って納得😅
僧籍から還俗して大名のケースは何故か悲惨な最期が多い。龍造寺隆信(戦死)今川義元(戦死)伊東義祐(野垂れ死)後、足利義教(家臣から斬殺)ついでに足利義昭は葬式の実行者がいなくて、細川幽斎(藤孝)が行った。
家督相続4年目だった息子義益の24歳の急逝による連携失敗が痛すぎた… この動揺で相良氏に何も言わずに撤退して相良氏の恨みを買い、肝付との信用も失ってしまった佐土原放棄後も伊藤旧臣が奮戦してたり木崎原以降も頑張ってたんだけどもね 三男の祐兵や山田宗昌ら旧臣の島津家久の撃退等の奮戦で故郷近くの飫肥に帰れたのは救い
御託長いな
小京都にすると碌なこと起きないってコメント確かにそうかもしれない笑
否定しようにも没落した大名の方が多い所為で😅ただ、隣の一条家の場合は全盛期を築いた当主が小京都化をしたのであって、家を滅ぼしたのは次か次の当主なので除外と言う事で。まあ、それに大内義隆も後継が戦死するまでは寧ろ名君だったらしいので、伊藤義祐にしても燃え尽き症候群とかそんな感じでは?他にも天下人三好長慶も、英邁な後継が亡くなったから一挙に気力を無くしたらしいし。
リクエストお願いします九戸政実お願いします🙇♂️
私の地元のお話しです。戦国時代の歴史に興味をもつきっかけでした。
バイキン扱いされたのは悲惨だけど、誰にも看取られない数多の独居者を思えば最期は後顧の憂いなく看取られたのだし似た境遇の朝倉義景や武田勝頼の末路と比べたら…
軍事的や政治的にも優秀でも何かしら失敗があると没落するとはな、しかも最期がかなり悲惨とか本当に可哀想な人だな
幕府御相伴衆で従三位って西国では大内義隆に次ぐ官位を誇っていたのになあ。
伊東さんちは幕末まで家門を保ち、戦後も事業で成功しているので勝組ですよ。義祐さんも、もう少し長生きできれば・・・
事業で成功してるんですか?戦後もお城は伊東家の私有とは母から聞きました。
周りにイエス・マンばかり置いたのが敗着なんだろう。至らないところが見えなくなる。
耳が痛くても諫言を言える人を置けるって大事自分に都合が悪い事を認めるのって凄く嫌だから
宮﨑に帰る時は木崎原の古戦場跡と近くの首塚にはお参りします。
波乱万丈
貴族や武士にとって最も大事なのは「家」の存続で個人は中継ぎ投手のようなもの。義佑個人は落剝しても息子が立派に家を継続させたわけですから役目は果たしたと言える人生でしょうね。
それを考えると息子が凄い前当主がやらかしても家を存続させたその手腕の良さよ
確か秀吉のお気に入りだった気が。他にも実家は滅んだけど、秀吉に仕えてお家再興をした大名の中には異色の経歴だと、名前を忘れたが下野の剣豪大名とかもいる。
伊東氏は確か、熱海の隣の伊東市の出だったはず。
日向伊東氏は曽我兄弟に殺された工藤祐経の子孫、ちなみに曽我兄弟の祖父で鎌倉殿の13人にも出た伊東祐親の子孫は尾張伊東氏に
@@youyah7440 ありがとうございます。
伊東家が日向国に戻れたのはよかった。
あの頃の島津の戦で恐ろしいのは相手を大敗させた上にに優秀な家臣を伊東、大友、龍造寺でも失わせることで家自体を急速に衰退させていることかな。
大敗後も結局上手く立ち回れて本領を死守できたのは、家宰的な立場にいた鍋島直茂親子が掌握した龍造寺だけと。大友の方は結局宗麟時代の負の遺産が最期まで足を引っ張って滅んだ(但し、分家の立花家や有力家臣だった高橋家はそれぞれ中小大名として存続した)。
とはいえ信長や秀吉より長生きなのである意味勝ち組では
義益の正室が側室の野村氏を⭕害したのを放置したり、福永家の嫡男の御目見得を許可せずに福永家の断絶を狙ったりした伊東家の暗部をスルーしてるな
こういう動画いっぱいみてきたけど加賀百万石の前田家ってすげえなあ😮
諸行無常、盛者必衰の言葉がこれほど似合う人はそうそういない…。
伊東氏四大家紋のひとつ十曜紋は元々九曜の紋だったが、細川氏に配慮して丸を一個増やしたらしいと、30年くらい前に飫肥城の資料館を取材したときに館長さんから聞きました。
豪奢に走ったり家臣の言うことを聞かなくなったりすると大方悲惨な末路になるわな…まさに諸行無常
どうかこの流れで26聖人紹介お願いします
信長の野望、マゾプレイではよく遊びました😂
飫肥はいい街だったよ子孫が日向に帰ってこれて良かったといえば良かった
この人鎌倉殿の伊東の爺さまと同じ一族なの最近知ってびっくりした笑
恐るべし島津。
同じ領土失った放浪大名でも最後には大名に復帰した立花宗茂と違い武勇に差がありましたね。
権力を手に入れてからの堕落っぷりが残念でならないです
九州の戦国大名ってみんな最盛期を迎えると調子に乗ったり贅沢したりと気が緩んでるような・・・そして島津四兄弟に潰されるとその中でも伊藤義祐の最後は相当悲惨ですね
龍造寺隆信よりかはましでは?
権力と強かさと実力と知謀と猛将この5つの条件を持たぬ者はいつの時代も淘汰されるそれは現代も同じ
知らぬとはいえ、ヤバイ人が島津トップになった時期に攻め込んじゃうとは・・・(汗)あと、浜に捨てちゃった船頭も悲惨な末路になりそうですね
没落大名にありがちシリーズ→京文化に憧れ、多額の献金、「〇〇の小京都」と呼ばれる都市を作る(土佐一条・越前朝倉など)
耳障りの良い話しかしない者を重用すると例外なくこうなるね耳の痛い話もしてくれる家臣は貴重大友宗麟も同じ事になりかけた所、道雪が叱ってくれて何とか持ち直した…が、道雪の進言を無視して軍を動かした途端、耳川の戦いで大敗し衰退するっていう
なまじ、能力と野心が多少なりともあったばかりに 今川氏真のように両方なければよい晩年を送れたかもしれないですね
こんにちは😃
政治基盤を固めるために朝廷や将軍家に接点を持ったのは間違いないだろうけど、佞臣を集めたとかいうのが事実なのかは実際のとこ解らないんだよなあ。木崎原の戦い(加久藤合戦)で力関係が逆転したあと、島津氏が伊東氏の支配下城主を切り崩すにあたって寝返りに抵抗感がないように流布した説明したのがもとになっているし。ただ、最後については同時代資料に出でくるから事実なんだろうな。
イエスマンばかりで、やっていくのは、悪い結果を招くのですね。😥伊東義祐は旅に出ず、三男の元におれば、悲惨な最後は回避できたのでは?
伊東家が都城を除く日向一国を支配したまま江戸時代も存続していたなら、秋月家の高鍋藩は存在せず、名君上杉治憲も誕生していなかったかもしれないので歴史のあやを感じます。
日清戦争時に連合艦隊司令長官だった伊東祐亨の一族。
木崎原の戦いでは島津義弘を伊東方の武将が討ち取ろうとしたときに馬がしゃがんで避けたって逸話も残るくらいだから島津もギリギリだったのかもしれないなぁ。とはいえ河越夜戦や桶狭間といい、兵力に劣る側に逆転されると後はジリ貧よなぁ…。
そういえば弟を頼って土地を捨てて秀吉に仕えた武士がいると聞いたことあるな。
従三位って地方大名としては、お金使い過ぎなんですよね。官位は三位以上と以下で全然格がちがいます。三位以上って簡単に言うと取締役「公卿」ですので同時代の武田とか今川とか北条とかの官位を見てみると良く分かりますが。当然大量の献金があったのでしょうが、慶長の検地で日向は12万石に過ぎません。そりゃあ、家臣の不満も溜まるよなと思う
三男が居たから伊東家は存続出来たが義祐自身は良く有る没落の仕方をしてしまった。
信長の野望で伊東が島津「貴久」に滅ぼされるの本当に勘弁して欲しい。早い時代のシナリオの島津は分裂した状態でスタートとかならないかなあ
割りと早い段階で滅ぼされちゃうしな…
義祐の父尹祐が寵愛している側室の子供に跡を継がせたい為に本当の長男を殺した結果、義祐の代にその影響が出たそうです。一旦は滅亡してどん底を味わったけど再興して家が大名として幕末まで続いたのは良かったですね
73年も生きりゃ大往生でしょ
義祐は出家したままでいた方が幸福だったかもしれませんね・・・・・能力の有無に関係なく、伊東家の家督を継いだのが全ての誤りの始まりだったように思う。
秀吉に仕官した息子がなんだかんだで、徳川から飫肥を安堵されて明治には華族になったのですな。
息子の祐兵はだいぶ優秀だったらしいね関ヶ原の戦いの際、島津義弘が西軍についてほしいと直談判に来たほど
伊藤も大友も、やはり驕ったり、家臣の諫言を聞かなかったりすると、滅びるという典型だと思う。中国の君主でも、家臣の諫言を聞く君主は名君とされ栄えるが、諫言した者を遠ざけたり罰した君主は滅びている。
僕は生まれも育ちも住んでいる場所も宮崎県の根っからの宮崎県人だから、地元の戦国武将を取り上げてくれて嬉しい!わ~い😂😂😂😂 🎉🎉わ~い😂😂😂😂🎉🎉🎉
でもこの人、宮崎の英雄か?
英雄じゃなくてもこうして動画にしてもらえるだけ良くね?東北とか伊達以外空気だからほぼほぼ見ない
ワイ、何の縁もゆかりも無いけど戦国シュミレーションをプレイする時は必ず伊東家から三強に揉まれながら九州統一するのが楽しいんよ🎉
今の日向市にある分家が治めてた日知屋城を騙し討ちで攻め滅ぼしてるんだよなー
大名なのに最後はきたねえじいさんはかわいそうですね
側近をイエスマンばかりで固めたために没落したというのは現代社会の企業においてもよく聞く話ですね
この人なぜか信長の野望で今でもやたら能力が低いです。島津貴久を圧倒してた時期があったのに忘れられてる…。大内義隆も北条氏政も今川義元も武田勝頼も今では見直されているのに。
伊東氏は島津家の噛ませ犬と言うイメージしかない。
あのー現在の宮崎県のえびの市は伊藤氏に統治された歴史はありません
70過ぎまでいきて悲惨かな
栄枯盛衰、奢れるもの久しからず 佐土原は、一時私の大好きな 島津家久、豊久の居城🏯だ!カムバックGJ
かなりうまく生きた生涯じゃ?
新生 信長の野望で評価低いすぎないか?
有り過ぎだろう?、兄弟間や、叔父方との、何方かと揉めるのは、まだしもだけれども、命だけでも有り、天寿を取り敢えずは全う出来ただけ増し、失って、のたれ死んだと聞くが、まぁ納得かも知れないけれど、頼った先を巻き添えたりしたんだな、
「エビちゃん」ことモデルの「蛯原友里」は、宮崎県佐土原町出身。(佐土原中学・佐土原高校)
奢れる平家はなんとやらってヤツやな。🤪
マンショの母親が伊東義祐の娘だから、孫にあたる訳だな。
兄貴も弟も若年で病死か…当時の医療って、あって無いようなモンだな…
滅ぶ家のテンプレ………😅
宮崎住んでるけど伊東は南の飫肥の地域では英雄扱いだが宮崎市とかだと佐土原藩(島津)って感じで北は高鍋藩(秋月)延岡藩(内藤)って感じかなぁ自分は佐土原方面に住んでるから、伊東?クソ雑魚じゃんって子供の頃は思ってたあと大分の大友は大敗してザマァと南以外の宮崎県民は思ってる
あ、こないだコメントしたやつやん。
そりゃあ諫言してくれる優秀な人らを遠ざけて島津から誘われない無能を重用してりゃあね😅
あとそのイエスマン達の中に敵の密偵とかも混じってるだろうから余計にな
唯一諫言してた息子の義益が早死にしたのが…
@@オーバー35Pたしかに裏切られた方が対処はしやすいよね
話に出てきた船頭はどうなった?長生きしなそうだけど?(´・ω・`)
最後はまぁ!悲惨なり(|| ゜Д゜)
野望とかなら弱小大名なのにね
なんか本人のやり方や行動だけでなく、人や環境に恵まれなかったというのも原因では?
今日の名言はそれ以外ないか( ̄▽ ̄;)いやもうこれは戦国大名落ちであって、戦国大名ではないねw次回……いつもより長そうだ。
73才で悲惨? 信長より長生きやん
なんか可哀想
まあ…酷く言えば自業自得の末路…だな
毛利元就のようだ
次回の天正遣欧少年使節は「戦国鍋TV」でメンツを覚えたが・・・悲惨だわぁ
伊東義祐は栄枯盛衰を現す人生だけど70歳以上生きた
途中で切腹しそうになっても諦めず進み続け最終的に息子が大名となり藩主となった
苦難に満ちた人生だけど戦国の世で家を没落させず存続させたのは本当のこと
それだけで十分だと思う
最期は事故みたいなもん。
島津に負けても諦めずに豊後まで逃げて、大友が大敗した後も死なずに頑張ったから旧領に復帰して家名も残せたと考えたら潔く死なずに生きていくって大事。
自家の最盛期を迎えさせたが故に調子に乗って人の言うこと聞かなくなった義祐の末路を見て、成功を手にしてからもちゃんと家臣を大切にして話に耳を傾けることを怠っちゃいけないんだなと思った。
嫡男の義益の早死が痛過ぎたねぇ
優秀で人望もあって贅沢なりつつあった親父を諌めてたのに
絵が大好きです
ほんとにかわいいし表情豊かで味わい深いと思います
自分が好きな歴史モノを取り扱ってくださるのも嬉しいです🎉
これからも楽しみにしてます!
「木崎原の戦い」の戦いで鬼島津(島津義弘)の「釣り野伏せ」を食らって敗走、その後大友家に落ち延びた所までは知っていたんですが、こんなに波乱万丈の人生だったとは。あと、戦国時代の死亡フラグを立てすぎ(京風を好む、佞臣ばかりになる)。同じパターンの朝倉義景と大内義隆を思い出しました。
義祐さん自身は悲惨ではありますが、一族としては秀吉配下となって島津にも一矢報い大名にも復帰して関ケ原も東軍で参戦。
完全に滅びてしまった一族から見れば伊東家は勝ち組と言えなくもないですね。
新聞にあった宮崎県の観光のパンフレットでは、飫肥藩の礎を築いた伊東祐兵が大々的に取り上げられ、英雄視されてますね
同じく島津家から独立して戦国大名になった肝付家も、結局大名の地位を失って再度島津家の家臣に戻ってしまいましたしね。
大名として存続出来ただけまだマシ(まあ、その末裔は明治に出世して男爵になったり、イヤミで4号なドラキュラの6浪したホラーな金持ち少年等で知られる大声優がいますが😊)
ついでに日向には、衰退大名仲間として筑前から飛ばされた秋月家も居ますし。
鎌倉時代に日向国に下向して始まった伊東氏が、戦国時代には領地を失うも九州征伐後に旧領に復帰して幕末までずっと続くから凄い名家ではあるんだよね
残念ながら時は戦国時代なので名家とか関係なく力のない者は淘汰されていくんだな。
旧領。飫肥は豊州島津氏の土地なんだけどね。
島津氏から飫肥を奪い取ったから少しは溜飲が下がったのでしょうか。
本貫地の佐土原なくしたけど😅
最期孤独4じゃなかったのがいくらか報われたか…
イエスマンばかりを側近にして古参の配下の苦言に耳を貸さなかったことが落ちぶれた原因とはいえ、その配下たちが最初に自分ではなく弟を担いだエピソードを聞くと一方的に責められない気もする
大内氏といい伊東氏といい、領地を小京都にするとロクなことはないな
今川もその口かな。
朝倉
@@tee5813 確かにここも小京都にしてた
中国の騎馬民族が漢の文化に取り込まれて最終的に没落していく感じ
領地の繁栄は領主として当然のことなんだけどな
変にかぶれるから悪いのか
後に飫肥藩の伊東家は善政を敷くけど この人の 振る舞いが 反面教師になったところも大きいのだろうね
動画で見た感じだと、この地域は島津家から奪取して10数年しか治めてないから、名君だった頃は現地の統治には細心の注意を払っていたのではないかと。
復帰後も先祖伝来の領地というわけでは無く、依然として島津家の脅威もあったので豊臣政権や徳川幕府の支援があったのかも。
忠臣の言葉に耳を傾けていれば...義祐哀れなり
野垂れ死に同然の死に様は無様だが、子孫が領主に返り咲けただけたとえば天目山で散った武田勝頼よりは大分ましではないだろうか。
家康の五男で、折角武田宗家を継いだ(母が信玄の娘?)松平忠吉も早逝しちゃいましたしね。
一応分家の分家である柳沢吉保が甲斐の大半を治めた甲府藩の藩主でしたけど、息子の代で大和郡山に飛ばされちゃいましたし。
@@長野業正-j9lそれは「武田信吉」ですね。
家康は当初は穴山梅雪未亡人・見性院(武田信玄の娘)の息子・勝千代に武田の名跡を継がせようとしたけど16歳で早世したので、見性院を後見人として自身の五男・万千代丸(後の武田信吉)に武田の名跡を継がせました。
動画ありがとうございます。
他者の意見を聞かず、耳障りのいいことにだけ耳を傾けるというのは独裁政治を行う国の政治家や、腐敗した国の政治家にもあることであり、まさに現代にも通じることだなと改めて感じさせられました。
両親とも飫肥藩士ノ家系です。ありがとうございます。
肥溜めの家系?
お疲れ様でした。悲惨な最後と言えますが、身内に骨を拾って貰えたのは救いだったと思います。名を残す事も埋葬すらかなわず歴史に埋もれた戦国の世の人々は数えきれない程いた筈ですからね。
肝付兼続と伊東義祐は島津家と渡り合ったわけで、もっと評価されるべき武将だよね
かなり昔、信長の野望の烈風伝か天翔記をプレイしてる時に何故か播磨か摂津あたりで仕官して来たので不思議に思ってました。その後に詳細を知って納得😅
僧籍から還俗して大名のケースは何故か悲惨な最期が多い。龍造寺隆信(戦死)今川義元(戦死)伊東義祐(野垂れ死)後、足利義教(家臣から斬殺)ついでに足利義昭は葬式の実行者がいなくて、細川幽斎(藤孝)が行った。
家督相続4年目だった息子義益の24歳の急逝による連携失敗が痛すぎた… この動揺で相良氏に何も言わずに撤退して相良氏の恨みを買い、肝付との信用も失ってしまった
佐土原放棄後も伊藤旧臣が奮戦してたり木崎原以降も頑張ってたんだけどもね 三男の祐兵や山田宗昌ら旧臣の島津家久の撃退等の奮戦で故郷近くの飫肥に帰れたのは救い
御託長いな
小京都にすると碌なこと起きないってコメント確かにそうかもしれない笑
否定しようにも没落した大名の方が多い所為で😅
ただ、隣の一条家の場合は全盛期を築いた当主が小京都化をしたのであって、家を滅ぼしたのは次か次の当主なので除外と言う事で。
まあ、それに大内義隆も後継が戦死するまでは寧ろ名君だったらしいので、伊藤義祐にしても燃え尽き症候群とかそんな感じでは?
他にも天下人三好長慶も、英邁な後継が亡くなったから一挙に気力を無くしたらしいし。
リクエストお願いします
九戸政実お願いします🙇♂️
私の地元のお話しです。戦国時代の歴史に興味をもつきっかけでした。
バイキン扱いされたのは悲惨だけど、
誰にも看取られない数多の独居者を思えば
最期は後顧の憂いなく看取られたのだし
似た境遇の朝倉義景や武田勝頼の末路と比べたら…
軍事的や政治的にも優秀でも何かしら失敗があると没落するとはな、しかも最期がかなり悲惨とか本当に可哀想な人だな
幕府御相伴衆で従三位って西国では大内義隆に次ぐ官位を誇っていたのになあ。
伊東さんちは幕末まで家門を保ち、戦後も事業で成功しているので勝組ですよ。
義祐さんも、もう少し長生きできれば・・・
事業で成功してるんですか?戦後もお城は伊東家の私有とは母から聞きました。
周りにイエス・マンばかり置いたのが敗着なんだろう。至らないところが見えなくなる。
耳が痛くても諫言を言える人を置けるって大事
自分に都合が悪い事を認めるのって凄く嫌だから
宮﨑に帰る時は木崎原の古戦場跡と近くの首塚にはお参りします。
波乱万丈
貴族や武士にとって最も大事なのは「家」の存続で個人は中継ぎ投手のようなもの。義佑個人は落剝しても息子が立派に家を継続させたわけですから役目は果たしたと言える人生でしょうね。
それを考えると息子が凄い
前当主がやらかしても家を存続させた
その手腕の良さよ
確か秀吉のお気に入りだった気が。
他にも実家は滅んだけど、秀吉に仕えてお家再興をした大名の中には異色の経歴だと、名前を忘れたが下野の剣豪大名とかもいる。
伊東氏は
確か、熱海の隣の伊東市の出だったはず。
日向伊東氏は曽我兄弟に殺された工藤祐経の子孫、ちなみに曽我兄弟の祖父で鎌倉殿の13人にも出た伊東祐親の子孫は尾張伊東氏に
@@youyah7440 ありがとうございます。
伊東家が日向国に戻れたのはよかった。
あの頃の島津の戦で恐ろしいのは相手を大敗させた上にに優秀な家臣を伊東、大友、龍造寺でも失わせることで家自体を急速に衰退させていることかな。
大敗後も結局上手く立ち回れて本領を死守できたのは、家宰的な立場にいた鍋島直茂親子が掌握した龍造寺だけと。
大友の方は結局宗麟時代の負の遺産が最期まで足を引っ張って滅んだ(但し、分家の立花家や有力家臣だった高橋家はそれぞれ中小大名として存続した)。
とはいえ信長や秀吉より長生きなのである意味勝ち組では
義益の正室が側室の野村氏を⭕害したのを放置したり、福永家の嫡男の御目見得を許可せずに福永家の断絶を狙ったりした伊東家の暗部をスルーしてるな
こういう動画いっぱいみてきたけど加賀百万石の前田家ってすげえなあ😮
諸行無常、盛者必衰の言葉がこれほど似合う人はそうそういない…。
伊東氏四大家紋のひとつ十曜紋は元々九曜の紋だったが、細川氏に配慮して丸を一個増やしたらしいと、30年くらい前に飫肥城の資料館を取材したときに館長さんから聞きました。
豪奢に走ったり家臣の言うことを聞かなくなったりすると大方悲惨な末路になるわな…
まさに諸行無常
どうかこの流れで26聖人紹介お願いします
信長の野望、マゾプレイではよく遊びました😂
飫肥はいい街だったよ
子孫が日向に帰ってこれて良かったといえば良かった
この人鎌倉殿の伊東の爺さまと同じ一族なの最近知ってびっくりした笑
恐るべし島津。
同じ領土失った放浪大名でも最後には大名に復帰した立花宗茂と違い武勇に差がありましたね。
権力を手に入れてからの堕落っぷりが残念でならないです
九州の戦国大名ってみんな最盛期を迎えると調子に乗ったり贅沢したりと気が緩んでるような・・・そして島津四兄弟に潰されると
その中でも伊藤義祐の最後は相当悲惨ですね
龍造寺隆信よりかはましでは?
権力と強かさと実力と知謀と猛将この5つの条件を持たぬ者はいつの時代も淘汰される
それは現代も同じ
知らぬとはいえ、ヤバイ人が島津トップになった時期に攻め込んじゃうとは・・・(汗)
あと、浜に捨てちゃった船頭も悲惨な末路になりそうですね
没落大名にありがちシリーズ→京文化に憧れ、多額の献金、「〇〇の小京都」と呼ばれる都市を作る(土佐一条・越前朝倉など)
耳障りの良い話しかしない者を重用すると例外なくこうなるね
耳の痛い話もしてくれる家臣は貴重
大友宗麟も同じ事になりかけた所、道雪が叱ってくれて何とか持ち直した…が、道雪の進言を無視して軍を動かした途端、耳川の戦いで大敗し衰退するっていう
なまじ、能力と野心が多少なりともあったばかりに
今川氏真のように両方なければよい晩年を送れたかもしれないですね
こんにちは😃
政治基盤を固めるために朝廷や将軍家に接点を持ったのは間違いないだろうけど、佞臣を集めたとかいうのが事実なのかは実際のとこ解らないんだよなあ。
木崎原の戦い(加久藤合戦)で力関係が逆転したあと、島津氏が伊東氏の支配下城主を切り崩すにあたって寝返りに抵抗感がないように流布した説明したのがもとになっているし。
ただ、最後については同時代資料に出でくるから事実なんだろうな。
イエスマンばかりで、やっていくのは、悪い結果を招くのですね。😥伊東義祐は旅に出ず、三男の元におれば、悲惨な最後は回避できたのでは?
伊東家が都城を除く日向一国を支配したまま江戸時代も存続していたなら、秋月家の高鍋藩は存在せず、名君上杉治憲も誕生していなかったかもしれないので歴史のあやを感じます。
日清戦争時に連合艦隊司令長官だった伊東祐亨の一族。
木崎原の戦いでは島津義弘を伊東方の武将が討ち取ろうとしたときに馬がしゃがんで避けたって逸話も残るくらいだから島津もギリギリだったのかもしれないなぁ。
とはいえ河越夜戦や桶狭間といい、兵力に劣る側に逆転されると後はジリ貧よなぁ…。
そういえば弟を頼って土地を捨てて秀吉に仕えた武士がいると聞いたことあるな。
従三位って地方大名としては、お金使い過ぎなんですよね。官位は三位以上と以下で全然格がちがいます。三位以上って簡単に言うと取締役「公卿」ですので
同時代の武田とか今川とか北条とかの官位を見てみると良く分かりますが。
当然大量の献金があったのでしょうが、慶長の検地で日向は12万石に過ぎません。
そりゃあ、家臣の不満も溜まるよなと思う
三男が居たから伊東家は存続出来たが義祐自身は良く有る没落の仕方をしてしまった。
信長の野望で伊東が島津「貴久」に滅ぼされるの本当に勘弁して欲しい。早い時代のシナリオの島津は分裂した状態でスタートとかならないかなあ
割りと早い段階で滅ぼされちゃうしな…
義祐の父尹祐が寵愛している側室の子供に跡を継がせたい為に本当の長男を殺した結果、義祐の代にその影響が出たそうです。
一旦は滅亡してどん底を味わったけど再興して家が大名として幕末まで続いたのは良かったですね
73年も生きりゃ大往生でしょ
義祐は出家したままでいた方が幸福だったかもしれませんね・・・・・
能力の有無に関係なく、伊東家の家督を継いだのが全ての誤りの始まりだったように思う。
秀吉に仕官した息子がなんだかんだで、徳川から飫肥を安堵されて明治には華族になったのですな。
息子の祐兵はだいぶ優秀だったらしいね
関ヶ原の戦いの際、島津義弘が西軍についてほしいと直談判に来たほど
伊藤も大友も、やはり驕ったり、家臣の諫言を聞かなかったりすると、滅びるという典型だと思う。
中国の君主でも、家臣の諫言を聞く君主は名君とされ栄えるが、諫言した者を遠ざけたり罰した君主は滅びている。
僕は生まれも育ちも住んでいる場所も宮崎県の根っからの宮崎県人だから、地元の戦国武将を取り上げてくれて嬉しい!
わ~い😂😂😂😂 🎉🎉
わ~い😂😂😂😂🎉🎉🎉
でもこの人、宮崎の英雄か?
英雄じゃなくてもこうして動画にしてもらえるだけ良くね?
東北とか伊達以外空気だからほぼほぼ見ない
ワイ、何の縁もゆかりも無いけど戦国シュミレーションをプレイする時は必ず伊東家から
三強に揉まれながら九州統一するのが楽しいんよ🎉
今の日向市にある分家が治めてた日知屋城を騙し討ちで攻め滅ぼしてるんだよなー
大名なのに最後はきたねえじいさんはかわいそうですね
側近をイエスマンばかりで固めたために没落したというのは
現代社会の企業においてもよく聞く話ですね
この人なぜか信長の野望で今でもやたら能力が低いです。島津貴久を圧倒してた時期があったのに忘れられてる…。
大内義隆も北条氏政も今川義元も武田勝頼も今では見直されているのに。
伊東氏は島津家の噛ませ犬と言うイメージしかない。
あのー現在の宮崎県のえびの市は
伊藤氏に統治された歴史はありません
70過ぎまでいきて悲惨かな
栄枯盛衰、奢れるもの久しからず 佐土原は、一時私の大好きな 島津家久、豊久の居城🏯だ!
カムバックGJ
かなりうまく生きた生涯じゃ?
新生 信長の野望で評価低いすぎないか?
有り過ぎだろう?、兄弟間や、叔父方との、何方かと揉めるのは、まだしもだけれども、命だけでも有り、天寿を取り敢えずは全う出来ただけ増し、失って、のたれ死んだと聞くが、まぁ納得かも知れないけれど、頼った先を巻き添えたりしたんだな、
「エビちゃん」こと
モデルの「蛯原友里」は、
宮崎県佐土原町出身。
(佐土原中学・佐土原高校)
奢れる平家はなんとやらってヤツやな。🤪
マンショの母親が伊東義祐の娘だから、孫にあたる訳だな。
兄貴も弟も若年で病死か…
当時の医療って、
あって無いようなモンだな…
滅ぶ家のテンプレ………😅
宮崎住んでるけど伊東は南の飫肥の地域では英雄扱いだが宮崎市とかだと佐土原藩(島津)って感じで北は高鍋藩(秋月)延岡藩(内藤)って感じかなぁ
自分は佐土原方面に住んでるから、伊東?クソ雑魚じゃんって子供の頃は思ってた
あと大分の大友は大敗してザマァと南以外の宮崎県民は思ってる
あ、こないだコメントしたやつやん。
そりゃあ諫言してくれる優秀な人らを遠ざけて島津から誘われない無能を重用してりゃあね😅
あとそのイエスマン達の中に敵の密偵とかも混じってるだろうから余計にな
唯一諫言してた息子の義益が早死にしたのが…
@@オーバー35P
たしかに裏切られた方が対処はしやすいよね
話に出てきた
船頭はどうなった?
長生きしなそうだけど?(´・ω・`)
最後はまぁ!悲惨なり(|| ゜Д゜)
野望とかなら弱小大名なのにね
なんか本人のやり方や行動だけでなく、人や環境に恵まれなかったというのも原因では?
今日の名言はそれ以外ないか( ̄▽ ̄;)
いやもうこれは戦国大名落ちであって、戦国大名ではないねw
次回……いつもより長そうだ。
73才で悲惨? 信長より長生きやん
なんか可哀想
まあ…酷く言えば
自業自得の末路…だな
毛利元就のようだ
次回の天正遣欧少年使節は「戦国鍋TV」でメンツを覚えたが・・・悲惨だわぁ