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良い動画です。被差別地区についての興味本位の動画が目立つ中で、これは客観的にその歴史と生業について分かりやすく解説しており、とても勉強になりました。彼らは重要な役割を担ってきたのですね。今は差別が無くなっていることを願います。
古都京都観光で旧被差別特殊部落を見て回るのは有意義な教育・勉強です。
良い動画だと思います、NHKや民放では絶対に扱えない題材でしょうね。昨今TV離れと云われますが当たり前だと思います。
今回はすごく勉強になりました。市街地は近代化され昔の面影は全くありませんが、こんな歴史があったのですね。本当によく研究されておられるのですね。素晴らしかったです。次回作も期待しております。
貴重な動画だよね。何遍も京都に行ってるのに全然気がつかなかった。投稿してくれてありがとうございます。
高島屋の裏の駐車場のあたりは昭和50年代後半にお寺と墓地が立ち退きになってますね。それで今の立体駐車場が建てられました。石川五右衛門の墓が今のところではなく、ここにあったとか言うの、移転前のその石碑の前でコレやでって聞いた事ある。
本当に素晴らしい!いつも感心しています。よく調べていらっしゃる。興味深く拝見しております。
京阪三条近くのここら辺、繁華街が近いのになぜか暗い雰囲気のアパートが並んでるなぁ。と思ってましたが、そんな歴史があったんですね。勉強になりました。
三条裏と言ってよく知られたところですよ。同和利権で市バスの始発停留所・若松町があったりわざわざ市バスを花見小路経由にさせたりしていました。
学生時代は三条京阪駅を利用していましたが、こんな場所があるとは知りませんでした。職場は四条河原町ですがこの近辺も同様で京都は奥が深いですね、貴重な動画を有難う御座います。大変勉強になりました。
貴重な動画を拝見できて良かったです。京都府に12年住んでいますが関東出身なのでいろいろと勉強になります。被差別といえども、今で言うエッセンシャルワーカーなわけで、コロナの際にも複雑な思いを見かけ、土地こそ縛りがないけれど、担う人の扱いについては現代もあまり変わらないのかもしれません。誰かがやらねばならないことを担うわけで、職業に貴賎はなく、むしろありがたい存在でもあると学び直したいと思います。
何事にも歴史があるんですね、関東育ちなので、同和とか差別はこちらに来て初めて知りました。よい動画をありがとうございました😭
元部落地域や遊郭のあったところなど、今だに雰囲気がね、澱んでるというかスラム感が漂いますね。歴史て消されへんのやなー簡単には
関西人ですから子供の頃から同和教育受けてきました。家の近くの同和地区は知っていますが京都については知識ありませんでした。京都で何代も続く造園業の方に立派なお仕事ですねというと複雑な表情されました。まずいこと言ったのが今わかりました。同和問題は奥が深いです。
阪急沿線の造園業は問題無いと聞いた。太閤殿下のお墨付きなのだそうだ。造園業、屋根屋は農家からの転身もあるので。
武家政府から今日まで京都は終わってる観光に精をだしなはれいつまで都や日本の都は東京や!
普段京都で何気に通っていた三条京阪、東山三条、四条河原町等・・次は見方を変えて通ってみようかな?😃
今回も素晴らしい動画をありがとうございます。
動画を上げてくださり有り難う御座居ます。京阪電車が地上を走り、終点が三条駅だった頃からこの路線を利用していて、予備校もこの近くの学校に通っていたので、懐かしく拝見しました。先日、久し振りに京阪三条駅に行きましたが、駅の東側の市営住宅が新しく建て替えられ、見違える程綺麗になっていて驚きました。
生まれも育ちも関西で京都へは頻繁に行っておりましたが、こういう歴史のある場所とは知りませんでした。
療養型の病院⁈東山サナトリウムの近くは、確かに通り沿いにお地蔵さんも多く、あたり一面がお寺の様相を呈して、夜は怖いです。クルマも走っていないタイミングでは、本当のひとりぼっち感があります。
今京都で大学生やってますが、たしかに四条から上がっていくと三条も京極方面なら栄えていますが駅側に行ったらやけに物静かで暗い雰囲気だなと思っていました。こんな歴史があるとは。勉強になりました
私もその周辺に実家がありましたが、花見小路より向こうは行ったらアカンとよく言われました。三条裏の歴史はそんなに古いとは思いませんでした。勉強なりました!
市営のお風呂があるところはこの動画みたいな由来があるところだと言われました
京都の高野、熊野神社に住んでいた時があるのに何も知らなかったです。祇園で飲んで三条迄歩いている時に独特の雰囲気の場所があるように感じたことを思い出しました。
高野付近なら、左京区郵便局の北側に瓦のない白色の平屋がずらりと並び、熊野神社付近なら東へ行って南禅寺近くにも団地町があります。
三条裏は有名地区ですね。現代の造園業や花屋さんの職業も、当時のそういった職種の流れで今の時代も健在ですね。
それと、牛馬の皮革をなめすのも彼等の主な仕事だったんですよね。それと、粟田口、三条河原、六条河原は処刑場が有り、彼等は屍体を扱ったり処刑執行人としての仕事に従事していたのでしょうね。
「高山彦九郎像の前はな、通称土下座前って言って、昔の若者の待ち合わせの定番だったんだ、渋谷のハチ公前みたいなもんだなー」と、昭和世代の叔父から聞いたことがあります。
懐かしい😊笑笑
京阪三条駅つかうこと50回はあったはずだが今始めてグーグルマップで確認した。像があるのを知ったのは漫画「風雲児たち」だがまだ目視できていない。
昭和世代です。三条京阪で待ち合わせって言ってもちんぷんかんぷん?? 『土下座前で待ち合わせ』って言われた方がわかる世代(笑)ポケベルもガラケーもスマホもない時代だから待ち合わせ場所はかなり大事なのよ。だから大きくて目立つ土下座像が目印!
昔は京阪の大津線が路面だったから土下座像前は待ち合わせに良かった今はみんな地下になったから地上には用がないのが寂しい限り
木屋町ペコちゃん前、阪急世界地図前、三条京阪土下座前は待ち合わせの定番スポット
蹴上に住んでいました。市営団地にも行った事があります。「お風呂はないけど広いし(2DKか3DK 家賃2000〜4000円だったと思う)」 住人はとても自慢してたし私達も羨ましく思った記憶があります。50年位昔の話です。シェアさせて頂きました。
今や蹴上の団地も活気が乏しく、地区ならではの特有な侘しさが漂っていますね。
左京区の鹿ケ谷もその部落ですよ。
それを見て、ウチのオヤジなんかは「逆差別だ!」って憤慨していましたよ。
わたしが生まれ育った地域近くの大きな川沿いにも古くから皮革職人たちが居住する地区がありました。動画内でも紹介されていた同様の理由で長く被差別集落とされていたようです。地元ではそういった差別への啓蒙の意味を込めて制作された映画を小学校で上映しわたしも観た記憶があります。ちなみに、その映画には地元縁でもないかなり著名な俳優も主役級で出演していていま思うと、地元もかなり力を入れて制作されたものだったのだと思います。いまは地元を離れていますが、近所のスーパーでその故郷近くの皮革職人が作ったベルトを見つけ購入。長年愛用してきたためだいぶくたびれてきましたが、いまも使っています。
歴史的背景を持った土地に染み付いた暗い雰囲気はなかなか消えないのは実感としてありますよね。ただこういった土地に住み続けている、または引き付けられて住む人達がいて、いつまで経っても何か物騒な、近寄りがたい雰囲気がなくならないのは仕方がないことなのでしょうかね…歴史的背景も知れてとても勉強になりました👍
「こういう事は時とともに誰も知らなくなる気付かなくなるのが一番だ」と京都在住の年配の方が言っていましたが…
解放同盟や同和利権が未だに存在する限りは無くならないです。
歴史として、しっかり把握した方がいいと思います。それと差別は別のことです。
同和てがんそポリコレに近いよね
有済小学校は実家の近くでしたので、あの鐘楼はよく覚えています。実家は道路を二つ東山通り側にあったために小学校は、粟田小学校へ通っていました。粟田小と弥栄中はだいぶ前に廃校になりましたので、今は有りません寂しい限りです。出身の高校は今も存在してるので、それが私にとって唯一の母校と言えるものです。
三条京阪前に一軒だけ立ち退かない肉屋がありましたね。市立の浴場、ここはまだ営業してるんですね。他の市立の浴場は無くなりましたど。粟田口刑場近くの地名はチョット怖いですよ。ホッパラ町、御陵には血洗町があります。
昔父から、四条に遊びに行くたびに、三条の裏側は行ったらアカンで、と口酸っぱく言われましたわ😅💦。三条裏側って、どこやなぁと聞いても知らん方がエエからと教えてくれなかったけどね。市営団地も老朽化してきてるからね💦。取り壊しは必然かもね。いかにも、という雰囲気はありますね😫💦。
京津線が地上を走っていた頃は粟田口に簡単に行けたのですが… 何も知らなかったので、途中下車してまで行くことは無かったです。貴重な映像をありがとうございます。
つい最近、そういえば3条京阪の裏側の団地あたりはどうなったかな?暗い感じの場所だったのかな?と思い、歩いてみましたが団地は健在でした。宗仁地区が大学に変わりつつあって、もしかしてあそこもそういったところなのかなと感じていて、この動画を見てとても勉強になりました。被差別と言われますけど庭師、革製造などとても重要な仕事をしていたとは知りませんでした。
3条 ➡ 三条宗仁 ➡ 崇仁
粟田口は鎌倉時代から日本刀の製作地として有名で、「粟田口派」と呼ばれていてそうな。特に粟田口藤四郎吉光の作品はあの正宗と並ぶ名刀とのこと。刑場のことは今回知りました😱
いてそうな ➡ いたそうな
この前三条京阪行ったら、ずっと立ち退き拒否していた精肉店が無くなっていたな。約20年間頑張っていたな。あそこの大将、市役所の市長室まで怒鳴り込みに行ったって武勇伝語っていたな。。。
あそこ、なくなったんですね!以前、東山三条で学生時代に一人暮らししてたので、駅からよくこの辺り歩いて帰ってました。なんとなく雰囲気が違って、ひとけを感じない所で、あれ?と思ってたら、掲示板に差別のない世界を!とか、同和とか文字が入ったポスターが目に入り、あ、そういう地区なんだと理解しました。なにも知らずに地方から出てきて近所に住む事になったのが不思議な気持ちでした。動画ありがとうございます!
キヨタのオッちゃんやん😂
あそこのお肉は美味しかったのでとても残念な地元民です😢 あっという間に空き地になって、そのままなんですよね…
6:48あたりですね、お肉美味しかったので立ち寄ってました。立ち退きでしたか、ご高齢だったのでお元気にされてたらいいなあ。
解体される前のお肉がぶら下がってた記憶があります。怖いというより、新鮮で美味しそうだなと思い、何回か買ったことがあったな…なつかしい。いつのまにかなくなってて残念😢
私も京都にいましたが、行った処は少ないですね。勉強になりました。ありがとうございます。
コメントでも昔親に言われたとかある様に、あんなとこ行ったらあかんとか親に刷り込まれていき、そこの人かその人以外かみたいな価値観が根付いてる例割と多いです。昔から住んでて親が子にずっといい続けてるということは差別というか分別のようなものはずっとある状況だった訳です。あんな子と遊んだらいけない、あんな場所に行ってはいけない何故か分からないけど言われます。ですが、今知らずに来る海外の方、大学生の方、そもそも古い話なので親自体もしないといったことが増え、何かあるけど、何か暗い場所やけどアレ何なんやろ〜な位の認識に変わりつつあります。でも歴史は無かったことにはならないのは知ってますけど風化した方が良いこともあるんじゃないか?と思う時あります。あと、そういった方がくらされてた後に市営住宅が沢山たってますが別にその市営住宅の方全員がそういった方の末裔とかではないことは書いときたいです。抽選制ではありますのでここに住もうと思って住んでる訳じゃないって方もいると思うので。あと、忌み地はやっぱり忌み地だなとちょっと思いました。(京都人の方悪く思わないでくださいね。逃れられない業だなあとも思うので誰が悪いって訳では無い話です。)
おっしゃってる事おおむね同意 うちもそう
きゃー懐かしい。粟田口鍛冶町に住んでました。三条通りいつも通ってました。。土下座像前とか。。あの頃にもどりたい
友人のお祖父さんがそのまたお祖父さん(おそらく江戸末期)から聞いた話だそうですが、「三条河原に処刑を見物に行ったが人間というのはそんな簡単に切れるものではない」刀の質や手入れの差もあったと思いますが。
実はここ通ったことがあります。何故か、どこからか、誰かに見られてる感じがして、何となく怖かったです。後で、被差別部落だった事を知りました。なんの気配だったのか。古門前通へ、骨董を見に行くのに迷って、入り込んでしまいました。
三条通りで生まれました。もう生家はありませんが、家を出て花見小路をスグ右に曲がった所が映ってて懐かしかったです。「裏手は行ったらあかんよ!」とよく親に言われてましたが、中学になって意味がわかりました。本来なら有斉校に行く予定やったんですが、こう言った事情もあり小学校入学を期に京都から離れることになりました。
まったく知らなかった、とても興味深く、勉強になります❗
仕事で同和教育を受けましたが、皮革を扱う仕事は生き物の生死を扱う特殊な仕事として穢多の方々は畏敬の念で見られていたと習いました。非人もwikiで調べると色々と出てきますが、祇園祭など祭事の先頭を歩き魔除けとしての役割を担う人、今で言う芸人などもその分類だったようですね。こちらの動画はとてもよくお調べになっていて、興味深く見させていただきました。
本日放送のイッテQのVTRでモロッコの膠作業の風景流れてましたね。
後、京都市では市営住宅=部落の図式があるので結局部落解体には至っていないのが残念です
川沿いもさることながら、寺社仏閣に近い土地柄にも関係あるのかな?我が地元神戸も、長田神社近くに「例の界隈」がありますからね。
街道から都の入り口手前に刑場と晒し首があるのは、ウチの城下町も同じですね…⁉︎ メディアが無い時代ならではでしょう…⁉︎
へ~参考になりました。粟田口の処刑場ですけど付近の蹴上の地名の由来は ”死体が一杯転がっていて蹴り上げないと歩けない所から蹴上” となったと聞きました15000人の処刑された人がいるなら納得です
蹴上は別の説があって、それは義経に関係のある説です。
今日丁度この辺りに出かけて愛知県から散策してきました
昭和の時代くらいしか知りませんでしたが遠い昔を知るとほんと歴史を感じますね。😅
45年くらい前、中学生の頃、四条河原町の高島屋で買い物をした後、四条通りを八坂神社方面に歩き、三条京阪のバス停には、花見小路を上がったらええんちゃうかな?と歩いて行ったら、花見小路の終盤で、通りの両側の一軒家のカーテンから覗き見されたり、カーテンが音を立てて閉められたり、ちょっと怖くなって、脇道に入ったら、もっと怖くて、走って三条通りまでたどり着きました。帰宅して親父にその日の出来事を話すと、三条裏に行ったんか、もう二度と行ったらアカン、と言われました。もう少し年齢が上がってから、親父の言葉の意味が分かりました。
三条はそう言う地域、、知っていましたが、ここまで詳しく調べられてて勉強になりますね。率先してホルモンも仕入れできるようで、昔は新鮮なレバー刺しをここで仕入れたと言っていただきました。後にも先にも、、美味しかった。
地元では三条裏と言われてた在所、俗にいう部落や同和地区。今はかなり周りが綺麗になって誰もが気軽に通れる雰囲気になった。昔は東の鹿ヶ谷、少し北の田中もここ三条裏も入れる様な雰囲気ではなかった。
その地域の北側にある壇王寺について何かわかれば教えていただきたいです。
高島屋の南は今や店が建っているが昭和の頃は広大な墓地でした(四条あまべ)地図に三条あまべと書いてある場所にはずっと立ち退かない売店が二店舗ありました今はもう立ち退いていますが
京都は7口または6口とか言われてる出入りの街道があった、その要所に在所を置いて関所の役目を果たした。歩くしか移動手段がない時代。過酷な旅だから、その場に地蔵が置かれて六地蔵の地名が残る。古くは沼地を感慨してまた風水に倣って四神相応の造営がなされた。現在も香港あたりから風水師を呼べば出世稲荷周辺から竜道を言い当てる。その後町は東へ発展していった。四条河原は秀吉の寺町移設を経て繁華街へと発展していった。浪速からは一口の地名のように感染症対策も取られたようだ。
コメント失礼致します。詳しい歴史をありがとうございます。なるほど。六地蔵の地名の由来は、そういう事だったのですか。六地蔵の被差別と言われている大きな部落地区(多半が市営団地)は、今も健在ですね。
近頃では刀剣ブームで粟田口はファンの聖地となっております。
京都市民にとって部落の人種差別は令和の現代も昔話ではありません。京都駅の芸大が証明してます。あんな超一等地を誰も手を出さない。ビジネス目線では非常識を超えてますが部落だから仕方ないとなると京都市民は納得します。東京奠都と並ぶ黒歴史ですね。
超一等地を ➡ 超一等地に
流れてる音楽がオドオドしいというか、華やかな古都の片すみの影の街の雰囲気にあっていますね。差別され生きてきた人の怨念が 伝わってきます。
以前 京都新聞で 代々 染色を生業とした家系の方が 「京都の職人」としてインタビューを受けておられた時「私 どもの部落では この手法を用いて....」と おっしゃってましたので 昔は「部落」は「特殊な技術を持った人達の住む地域」くらいの意味なのかと思いました。
最近まで不良住宅あったあたりクリアランスされてるね。グーグルマップではその区画で一件だけ残ってる
京都は何も所縁がありませんが、京阪三条駅から京津線を乗り継ぎ滋賀県の膳所駅まで通った時期かありました。25年前です。
線路脇や駅前なんかも同和地区が多いんだよな。 今では電車になってトイレも線路に垂れ流しではなくなって綺麗になりましたが、機関車の煤も有り あまり近くには来て欲しいものではなかった。 貨物駅だった所やターミナル駅なんかでは朝鮮や同和の労働者も多くバラックを建てて住みつき居座る奴らも多かったと祖父から聞きました。しかも駅前はガラ悪く治安も良くなかった様ですね。
出町柳のあたりも茶山かあのあたりも被差別地域ですね昔は家畜のにおいがしたそうです
三条降りて一澤帆布に行くルートで通る。公衆浴場があるところですよね。
生まれてからずっと関西にいるので同和部落の話は嫌というほど聞かされてきたけど、不思議なのは遠い昔の先祖が肉屋・革屋だったり庭師だったりしたら差別されている?のに、現代の精肉店(あるいはスーパーの精肉コーナー)の人や革職人や庭師などを差別しているという話は聞いたことがないこと。むしろ職人として尊敬されている。(RUclipsでも、某肉磨きしてるチャンネルとか某ホルモン屋のチャンネルとか人気ですよね)…大っぴらに言ったら社会的に死にかねないからこんな場所での独り言としか言えないけど、所謂「同和利権」を擦り続けるために、わざわざ大昔の差別を維持しているだけなのではないでしょうか?有名なのはただ同然の家賃の市営住宅の入居権とか、あと関西の自治体の公務員にはそれの枠で入った特殊な公務員がおり、ほぼ仕事もせずに法外な給料を貰っているとか。(最近問題になって消えたらしい年収1000万円の京都市バスの運転手など)関東出身の友達は「同和部落?なにそれ?」状態ですし、関西でも差別がどうとか一切言わなくなったら、あっという間に忘れ去られるのではないでしょうか?
つくづく人間って残酷で冷酷な生き物だなとしか思えません。
8:52 京都市が運営する浴場なんてあるんですね・・・。
ここの市営住宅にはお風呂がなかったので住民の方々が主に使われていたと聞いたことがあります。
市営住宅の近くにはありますね。私は左京区住みですが、天王町や田中にも市営浴場は今もあります。
華々しい表の京都しか知らないので 動画は怖かったけど京都を旅行で歩くと ふと、雰囲気が違うと思う町があって空気感というか色も寒々しいのは 昔刑場だったのかもしれません。
そうとは限らないだろ、昔刑場でも今賑やかな場所はいくらでもある。大阪の千日前とかな。
歴史的背景が少しわかった気がします。有斉小の再利用は考えられていないのでしょうか。場所的には垂涎の地でもあると思います。
昔木屋町で勤めてた時に、職場のセンパイが良く、部落4,000年の轢死って言ったのを思い出しました。今でも田中や京都駅の東側にですが、元々人が生み出した物ですよ、そして京都は歴史的に見ても。争いと差別が頻繁に有った場所ですからね。建都1,200年と言ってるけど
線引きがなくなっていくのは嫌だな。差別といわれようがけっしてかかわりあいましてや血縁をもちたくない。
まさか祇園の近くに 地区 があるというのは、他府県のほとんどの人は知らないですからね京都駅付近の地区は全国的に知られている地域ですけど
あべま村 と読んでしまいました。
同じくw
今の京都駅北東側の京都市立芸術大学が移転してきた辺りも似たような感じの地域やな‼️
粟田口は昔鴨川で処刑された、人の首をさらした場所です、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、おさんと茂兵衛も、明智光秀と家老斎藤俊光も、父の首を見ていた女の子👧が憎し豊臣秀吉と思ったて、後の春日局になった話しは有名です、京都も大阪も繁華街は昔処刑場で、それ見たさに人が集まってきて、そこに物売りが商売を始めて賑やかになったのが、だから京都は鴨川沿い栄えたのです、大阪もテレビに出てくる、道頓堀も昔は処刑場でした。😮
❌ 話し (動詞・連用形)️⭕️ 話 (名詞)
です、➡ です。です、➡ です。です、➡ です。
川崎村は、今の出町柳のあたりですね。
エタ村って、そんなド直球な・・・。動画中でも触れられてるように、江戸時代まではそこまで激しい差別はなかったのかもなあ。
明治維新より50年くらい前、この地区の人々がこっそり伊勢参りの旅に出た。旅中には何事もなく目的を果たして帰ってきたが、その後伊勢参りに行ったことがばれ罰を受けたという事があったそうです。その人々だけでなく、旅先の旅籠もその人たちの食事に使った食器や竈、へっついなどをみんな打ち壊して土に埋めなければならなかったそうです。ひょっとしたら畳も変えたかもしれません。とんでもない話でしょ。
明治期から第二次世界大戦までが一番差別が明ら様だった時代ですね。江戸時代の差別から解放した新政府なんて喧伝してましたが、新政府の差別政策の方がアカラサマです。
15:20洋食屋キチキチ、ここにあったんですね
ほんの数百年前は竹林と針葉樹の森だった場所がいつの間にこんな風に…!?別の世界線ではまだふつうに田んぼなんだけど!?
いつも車でスーッと通ってしまう場所や、駅から反対側とかでたまにしか散策しない場所ばかりです。京都の歴史は深く、ミルフィーユのように時代ごとに層になって複雑に絡み合っています。緻密に取り上げて下さって有難うございました。治安維持の下支えも含む、重要な生業ばかりですね。鎧の皮革は当時第一の防命具だったでしょうし、罪を得て、どうせ斬首されるなら、腕の良い方が有難いと思います。勉強になりました。、
粟田まで出してくるとは。しかし粟田は京都では有名でしょ。
又次郎は初耳でした
いまになって思うのは北海道は蝦夷地って呼んでいたくらいだから北海道自体が野蛮な土地だったんだなぁと、元道民の私はこの動画を見て気づいた。
蝦夷地の範囲は時代によって変わるみたいで、平安時代初期は坂上田村麻呂の蝦夷東征では、今の宮城県や岩手県あたりを蝦夷と呼んでいたみたいですね。つまり天皇を中心とする中央政権の支配が及んでいない北方の地域をさげすんで呼んでいたのでしょう。
京都の人間と交流を持ってみると、老いも若いもこういった土地への偏見をナチュラルに口にするので、時に恐ろしくなる
三条京阪の大都会にあるあまべに行きましたが、なんか時代が止まった感じでした。 なんでこんなところにと言う感じ
ある時代から計画的に差別するようになったのならやるせないな
観光バスのガイドさんは、刑場のところを案内しますよ。
首領は弾左衛門?
三条裏であんぷらって言うと怒られます。どう言う意味でしょうか
あほんだら みたいな感じです
おどろおどろしい歴史の上にある京の都。戦乱は多々あり下の階級に落とされた話しを聞いたことがあります。同和のこともちらっと...でも場所は初めて知りました。上からの映像で粟田口を見るとなぜここかわかる気がします。勉強になりました。
@@yyyxxx543 だから?何?
三条界隈は激変したね
京都ベラミもありましたね
因みに蹴上の由来は粟田口刑場に向かう罪人の尻を蹴き上げていたからだそうです
見事に市営住宅になってますなあ
三条のとこに美味い和風中華ありますんねー
東京,江戸の渋谷川,古川の金杉橋の処刑場,橋場(今戸隣接)の処刑場(浅草と南千住の間の隅田川の沿川)に穢多非人部落が存在して居りました.都心部の浜松町の脇と,浅草の脇に穢多非人部落が存在して居りました.獄門台が設置されて獄門首(晒し首)の刑罰で三尺高い木の上と云われた獄門台です.
ラルーナのデザイン考えた人知ってます
ある特定の人達に優しい京都府
大変興味深く背景させて頂きましたが、漢字にフリガナをふっていただけると有難いです。特別な読みもあるようなので…
❌ 背景️⭕️ 拝見
貴方の目の前にある箱や板で調べることができるのですよggrks
ホッパラ町
動物搾取やめようよ!かわなくても、肉食べずも生きれるよ
出雲徐福系部落だよ
良い動画です。被差別地区についての興味本位の動画が目立つ中で、これは客観的にその歴史と生業について分かりやすく解説しており、とても勉強になりました。彼らは重要な役割を担ってきたのですね。今は差別が無くなっていることを願います。
古都京都観光で旧被差別特殊部落を見て回るのは有意義な教育・勉強です。
良い動画だと思います、NHKや民放では絶対に扱えない題材でしょうね。昨今TV離れと云われますが当たり前だと思います。
今回はすごく勉強になりました。市街地は近代化され昔の面影は全くありませんが、こんな歴史があったのですね。本当によく研究されておられるのですね。素晴らしかったです。次回作も期待しております。
貴重な動画だよね。
何遍も京都に行ってるのに全然気がつかなかった。
投稿してくれてありがとうございます。
高島屋の裏の駐車場のあたりは昭和50年代後半にお寺と墓地が立ち退きになってますね。それで今の立体駐車場が建てられました。
石川五右衛門の墓が今のところではなく、ここにあったとか言うの、移転前のその石碑の前でコレやでって聞いた事ある。
本当に素晴らしい!いつも感心しています。
よく調べていらっしゃる。
興味深く拝見しております。
京阪三条近くのここら辺、繁華街が近いのになぜか暗い雰囲気のアパートが並んでるなぁ。と思ってましたが、そんな歴史があったんですね。勉強になりました。
三条裏と言ってよく知られたところですよ。同和利権で市バスの始発停留所・若松町があったりわざわざ市バスを花見小路経由にさせたりしていました。
学生時代は三条京阪駅を利用していましたが、こんな場所があるとは知りませんでした。職場は四条河原町ですがこの近辺も同様で京都は奥が深いですね、貴重な動画を有難う御座います。大変勉強になりました。
貴重な動画を拝見できて良かったです。京都府に12年住んでいますが関東出身なのでいろいろと勉強になります。
被差別といえども、今で言うエッセンシャルワーカーなわけで、コロナの際にも複雑な思いを見かけ、土地こそ縛りがないけれど、担う人の扱いについては現代もあまり変わらないのかもしれません。誰かがやらねばならないことを担うわけで、職業に貴賎はなく、むしろありがたい存在でもあると学び直したいと思います。
何事にも歴史があるんですね、
関東育ちなので、同和とか差別はこちらに来て初めて知りました。
よい動画をありがとうございました😭
元部落地域や遊郭のあったところなど、今だに雰囲気がね、澱んでるというかスラム感が漂いますね。歴史て消されへんのやなー簡単には
関西人ですから子供の頃から同和教育受けてきました。家の近くの同和地区は知っていますが京都については知識ありませんでした。
京都で何代も続く造園業の方に立派なお仕事ですねというと複雑な表情されました。まずいこと言ったのが今わかりました。
同和問題は奥が深いです。
阪急沿線の造園業は問題無いと聞いた。太閤殿下のお墨付きなのだそうだ。
造園業、屋根屋は農家からの転身もあるので。
武家政府から今日まで京都は終わってる観光に精をだしなはれいつまで都や日本の都は東京や!
普段京都で何気に通っていた三条京阪、東山三条、四条河原町等・・次は見方を変えて通ってみようかな?😃
今回も素晴らしい動画をありがとうございます。
動画を上げてくださり有り難う御座居ます。京阪電車が地上を走り、終点が三条駅だった頃からこの路線を利用していて、予備校もこの近くの学校に通っていたので、懐かしく拝見しました。
先日、久し振りに京阪三条駅に行きましたが、駅の東側の市営住宅が新しく建て替えられ、見違える程綺麗になっていて驚きました。
生まれも育ちも関西で京都へは頻繁に行っておりましたが、こういう歴史のある場所とは知りませんでした。
療養型の病院⁈東山サナトリウムの近くは、確かに通り沿いにお地蔵さんも多く、あたり一面がお寺の様相を呈して、夜は怖いです。クルマも走っていないタイミングでは、本当のひとりぼっち感があります。
今京都で大学生やってますが、たしかに四条から上がっていくと三条も京極方面なら栄えていますが駅側に行ったらやけに物静かで暗い雰囲気だなと思っていました。こんな歴史があるとは。勉強になりました
私もその周辺に実家がありましたが、花見小路より向こうは行ったらアカンとよく言われました。三条裏の歴史はそんなに古いとは思いませんでした。勉強なりました!
市営のお風呂があるところはこの動画みたいな由来があるところだと言われました
京都の高野、熊野神社に住んでいた時があるのに何も知らなかったです。祇園で飲んで三条迄歩いている時に独特の雰囲気の場所があるように感じたことを思い出しました。
高野付近なら、左京区郵便局の北側に瓦のない白色の平屋がずらりと並び、熊野神社付近なら東へ行って南禅寺近くにも団地町があります。
三条裏は有名地区ですね。
現代の造園業や花屋さんの職業も、当時のそういった職種の流れで今の時代も健在ですね。
それと、牛馬の皮革をなめすのも彼等の主な仕事だったんですよね。それと、粟田口、三条河原、六条河原は処刑場が有り、彼等は屍体を扱ったり処刑執行人としての
仕事に従事していたのでしょうね。
「高山彦九郎像の前はな、通称土下座前って言って、昔の若者の待ち合わせの定番だったんだ、渋谷のハチ公前みたいなもんだなー」と、昭和世代の叔父から聞いたことがあります。
懐かしい😊笑笑
京阪三条駅つかうこと50回はあったはずだが今始めてグーグルマップで確認した。像があるのを知ったのは漫画「風雲児たち」だがまだ目視できていない。
昭和世代です。三条京阪で待ち合わせって言ってもちんぷんかんぷん?? 『土下座前で待ち合わせ』って言われた方がわかる世代(笑)
ポケベルもガラケーもスマホもない時代だから待ち合わせ場所はかなり大事なのよ。
だから大きくて目立つ土下座像が目印!
昔は京阪の大津線が路面だったから土下座像前は待ち合わせに良かった
今はみんな地下になったから地上には用がないのが寂しい限り
木屋町ペコちゃん前、阪急世界地図前、三条京阪土下座前は待ち合わせの定番スポット
蹴上に住んでいました。
市営団地にも行った事があります。
「お風呂はないけど広いし(2DKか3DK 家賃2000〜4000円だったと思う)」
住人はとても自慢してたし私達も羨ましく思った記憶があります。50年位昔の話です。
シェアさせて頂きました。
今や蹴上の団地も活気が乏しく、地区ならではの特有な侘しさが漂っていますね。
左京区の鹿ケ谷もその部落ですよ。
それを見て、ウチのオヤジなんかは「逆差別だ!」って憤慨していましたよ。
わたしが生まれ育った地域近くの大きな川沿いにも
古くから皮革職人たちが居住する地区がありました。
動画内でも紹介されていた同様の理由で
長く被差別集落とされていたようです。
地元ではそういった差別への啓蒙の意味を込めて制作された映画を小学校で上映し
わたしも観た記憶があります。
ちなみに、その映画には地元縁でもないかなり著名な俳優も主役級で出演していて
いま思うと、地元もかなり力を入れて制作されたものだったのだと思います。
いまは地元を離れていますが、近所のスーパーでその故郷近くの皮革職人が作ったベルトを見つけ購入。
長年愛用してきたためだいぶくたびれてきましたが、いまも使っています。
歴史的背景を持った土地に染み付いた暗い雰囲気はなかなか消えないのは実感としてありますよね。ただこういった土地に住み続けている、または引き付けられて住む人達がいて、いつまで経っても何か物騒な、近寄りがたい雰囲気がなくならないのは仕方がないことなのでしょうかね…歴史的背景も知れてとても勉強になりました👍
「こういう事は時とともに誰も知らなくなる気付かなくなるのが一番だ」と京都在住の年配の方が言っていましたが…
解放同盟や同和利権が未だに存在する限りは無くならないです。
歴史として、しっかり把握した方がいいと思います。それと差別は別のことです。
同和てがんそポリコレに近いよね
有済小学校は実家の近くでしたので、あの鐘楼はよく覚えています。実家は道路を二つ東山通り側にあったために小学校は、粟田小学校へ通っていました。粟田小と弥栄中はだいぶ前に廃校になりましたので、今は有りません寂しい限りです。出身の高校は今も存在してるので、それが私にとって唯一の母校と言えるものです。
三条京阪前に一軒だけ立ち退かない肉屋がありましたね。市立の浴場、ここはまだ営業してるんですね。他の市立の浴場は無くなりましたど。粟田口刑場近くの地名はチョット怖いですよ。ホッパラ町、御陵には血洗町があります。
昔父から、四条に遊びに行くたびに、三条の裏側は行ったらアカンで、と口酸っぱく言われましたわ😅💦。三条裏側って、どこやなぁと聞いても知らん方がエエからと教えてくれなかったけどね。市営団地も老朽化してきてるからね💦。取り壊しは必然かもね。いかにも、という雰囲気はありますね😫💦。
京津線が地上を走っていた頃は粟田口に簡単に行けたのですが… 何も知らなかったので、途中下車してまで行くことは無かったです。
貴重な映像をありがとうございます。
つい最近、そういえば3条京阪の裏側の団地あたりはどうなったかな?暗い感じの場所だったのかな?と思い、歩いてみましたが団地は健在でした。宗仁地区が大学に変わりつつあって、もしかしてあそこもそういったところなのかなと感じていて、この動画を見てとても勉強になりました。被差別と言われますけど庭師、革製造などとても重要な仕事をしていたとは知りませんでした。
3条 ➡ 三条
宗仁 ➡ 崇仁
粟田口は鎌倉時代から日本刀の製作地として有名で、「粟田口派」と呼ばれていてそうな。特に粟田口藤四郎吉光の作品はあの正宗と並ぶ名刀とのこと。刑場のことは今回知りました😱
いてそうな ➡ いたそうな
この前三条京阪行ったら、ずっと立ち退き拒否していた精肉店が無くなっていたな。約20年間頑張っていたな。
あそこの大将、市役所の市長室まで怒鳴り込みに行ったって武勇伝語っていたな。。。
あそこ、なくなったんですね!
以前、東山三条で学生時代に一人暮らししてたので、駅からよくこの辺り歩いて帰ってました。
なんとなく雰囲気が違って、ひとけを感じない所で、あれ?と思ってたら、掲示板に差別のない世界を!とか、同和とか文字が入ったポスターが目に入り、あ、そういう地区なんだと理解しました。
なにも知らずに地方から出てきて近所に住む事になったのが不思議な気持ちでした。
動画ありがとうございます!
キヨタのオッちゃんやん😂
あそこのお肉は美味しかったのでとても残念な地元民です😢 あっという間に空き地になって、そのままなんですよね…
6:48あたりですね、お肉美味しかったので立ち寄ってました。立ち退きでしたか、ご高齢だったのでお元気にされてたらいいなあ。
解体される前のお肉がぶら下がってた記憶があります。怖いというより、新鮮で美味しそうだなと思い、何回か買ったことがあったな…なつかしい。いつのまにかなくなってて残念😢
私も京都にいましたが、行った処は少ないですね。勉強になりました。ありがとうございます。
コメントでも昔親に言われたとかある様に、あんなとこ行ったらあかんとか親に刷り込まれていき、そこの人かその人以外かみたいな価値観が根付いてる例割と多いです。
昔から住んでて親が子にずっといい続けてるということは差別というか分別のようなものはずっとある状況だった訳です。
あんな子と遊んだらいけない、あんな場所に行ってはいけない
何故か分からないけど言われます。
ですが、今知らずに来る海外の方、大学生の方、そもそも古い話なので親自体もしないといったことが増え、何かあるけど、何か暗い場所やけどアレ何なんやろ〜な位の認識に変わりつつあります。
でも歴史は無かったことにはならないのは知ってますけど風化した方が良いこともあるんじゃないか?と思う時あります。
あと、そういった方がくらされてた後に市営住宅が沢山たってますが別にその市営住宅の方全員がそういった方の末裔とかではないことは書いときたいです。
抽選制ではありますのでここに住もうと思って住んでる訳じゃないって方もいると思うので。
あと、忌み地はやっぱり忌み地だなとちょっと思いました。
(京都人の方悪く思わないでくださいね。逃れられない業だなあとも思うので誰が悪いって訳では無い話です。)
おっしゃってる事おおむね同意 うちもそう
きゃー懐かしい。粟田口鍛冶町に住んでました。三条通りいつも通ってました。。土下座像前とか。。あの頃にもどりたい
友人のお祖父さんがそのまたお祖父さん(おそらく江戸末期)から聞いた話だそうですが、「三条河原に処刑を見物に行ったが人間というのはそんな簡単に切れるものではない」
刀の質や手入れの差もあったと思いますが。
実はここ通ったことがあります。何故か、どこからか、誰かに見られてる感じがして、何となく怖かったです。
後で、被差別部落だった事を知りました。なんの気配だったのか。古門前通へ、骨董を見に行くのに迷って、入り込んでしまいました。
三条通りで生まれました。もう生家はありませんが、家を出て花見小路をスグ右に曲がった所が映ってて懐かしかったです。「裏手は行ったらあかんよ!」とよく親に言われてましたが、中学になって意味がわかりました。本来なら有斉校に行く予定やったんですが、こう言った事情もあり小学校入学を期に京都から離れることになりました。
まったく知らなかった、とても興味深く、勉強になります❗
仕事で同和教育を受けましたが、皮革を扱う仕事は生き物の生死を扱う特殊な仕事として穢多の方々は畏敬の念で見られていたと習いました。非人もwikiで調べると色々と出てきますが、祇園祭など祭事の先頭を歩き魔除けとしての役割を担う人、今で言う芸人などもその分類だったようですね。こちらの動画はとてもよくお調べになっていて、興味深く見させていただきました。
本日放送のイッテQのVTRでモロッコの膠作業の風景流れてましたね。
後、京都市では市営住宅=部落の図式があるので結局部落解体には至っていないのが残念です
川沿いもさることながら、寺社仏閣に近い土地柄にも関係あるのかな?我が地元神戸も、長田神社近くに「例の界隈」がありますからね。
街道から都の入り口手前に刑場と晒し首があるのは、ウチの城下町も同じですね…⁉︎ メディアが無い時代ならではでしょう…⁉︎
へ~参考になりました。粟田口の処刑場ですけど付近の蹴上の地名の由来は ”死体が一杯転がっていて蹴り上げないと歩けない所から蹴上” となったと聞きました15000人の処刑された人がいるなら納得です
蹴上は別の説があって、それは義経に関係のある説です。
今日丁度この辺りに出かけて愛知県から散策してきました
昭和の時代くらいしか
知りませんでしたが
遠い昔を知るとほんと
歴史を感じますね。😅
45年くらい前、中学生の頃、四条河原町の高島屋で買い物をした後、四条通りを八坂神社方面に歩き、三条京阪のバス停には、花見小路を上がったらええんちゃうかな?と歩いて行ったら、花見小路の終盤で、通りの両側の一軒家のカーテンから覗き見されたり、カーテンが音を立てて閉められたり、ちょっと怖くなって、脇道に入ったら、もっと怖くて、走って三条通りまでたどり着きました。帰宅して親父にその日の出来事を話すと、三条裏に行ったんか、もう二度と行ったらアカン、と言われました。もう少し年齢が上がってから、親父の言葉の意味が分かりました。
三条はそう言う地域、、知っていましたが、ここまで詳しく調べられてて勉強になりますね。
率先してホルモンも仕入れできるようで、昔は新鮮なレバー刺しをここで仕入れたと言っていただきました。
後にも先にも、、美味しかった。
地元では三条裏と言われてた在所、俗にいう部落や同和地区。
今はかなり周りが綺麗になって誰もが気軽に通れる雰囲気になった。
昔は東の鹿ヶ谷、少し北の田中もここ三条裏も入れる様な雰囲気ではなかった。
その地域の北側にある壇王寺について何かわかれば教えていただきたいです。
高島屋の南は今や店が建っているが昭和の頃は広大な墓地でした(四条あまべ)
地図に三条あまべと書いてある場所にはずっと立ち退かない売店が二店舗ありました
今はもう立ち退いていますが
京都は7口または6口とか言われてる出入りの街道があった、その要所に在所を置いて関所の役目を果たした。歩くしか移動手段がない時代。過酷な旅だから、その場に地蔵が置かれて六地蔵の地名が残る。古くは沼地を感慨してまた風水に倣って四神相応の造営がなされた。現在も香港あたりから風水師を呼べば出世稲荷周辺から竜道を言い当てる。その後町は東へ発展していった。四条河原は秀吉の寺町移設を経て繁華街へと発展していった。浪速からは一口の地名のように感染症対策も取られたようだ。
コメント失礼致します。
詳しい歴史をありがとうございます。
なるほど。六地蔵の地名の由来は、そういう事だったのですか。
六地蔵の被差別と言われている大きな部落地区(多半が市営団地)は、今も健在ですね。
近頃では刀剣ブームで粟田口はファンの聖地となっております。
京都市民にとって部落の人種差別は令和の現代も昔話ではありません。京都駅の芸大が証明してます。あんな超一等地を誰も手を出さない。ビジネス目線では非常識を超えてますが部落だから仕方ないとなると京都市民は納得します。東京奠都と並ぶ黒歴史ですね。
超一等地を ➡ 超一等地に
流れてる音楽がオドオドしいというか、華やかな古都の片すみの影の街の雰囲気にあっていますね。差別され生きてきた人の怨念が 伝わってきます。
以前 京都新聞で 代々 染色を生業とした家系の方が 「京都の職人」としてインタビューを受けておられた時「私 どもの部落では この手法を用いて....」と おっしゃってましたので 昔は「部落」は「特殊な技術を持った人達の住む地域」くらいの意味なのかと思いました。
最近まで不良住宅あったあたりクリアランスされてるね。グーグルマップではその区画で一件だけ残ってる
京都は何も所縁がありませんが、京阪三条駅から京津線を乗り継ぎ滋賀県の膳所駅まで通った時期かありました。25年前です。
線路脇や駅前なんかも同和地区が多いんだよな。 今では電車になってトイレも線路に垂れ流しではなくなって綺麗になりましたが、機関車の煤も有り あまり近くには来て欲しいものではなかった。 貨物駅だった所やターミナル駅なんかでは朝鮮や同和の労働者も多くバラックを建てて住みつき居座る奴らも多かったと祖父から聞きました。しかも駅前はガラ悪く治安も良くなかった様ですね。
出町柳のあたりも茶山か
あのあたりも被差別地域ですね
昔は家畜のにおいがしたそうです
三条降りて一澤帆布に行くルートで通る。公衆浴場があるところですよね。
生まれてからずっと関西にいるので同和部落の話は嫌というほど聞かされてきたけど、不思議なのは遠い昔の先祖が肉屋・革屋だったり庭師だったりしたら差別されている?のに、現代の精肉店(あるいはスーパーの精肉コーナー)の人や革職人や庭師などを差別しているという話は聞いたことがないこと。むしろ職人として尊敬されている。(RUclipsでも、某肉磨きしてるチャンネルとか某ホルモン屋のチャンネルとか人気ですよね)
…大っぴらに言ったら社会的に死にかねないからこんな場所での独り言としか言えないけど、所謂「同和利権」を擦り続けるために、わざわざ大昔の差別を維持しているだけなのではないでしょうか?
有名なのはただ同然の家賃の市営住宅の入居権とか、あと関西の自治体の公務員にはそれの枠で入った特殊な公務員がおり、ほぼ仕事もせずに法外な給料を貰っているとか。(最近問題になって消えたらしい年収1000万円の京都市バスの運転手など)
関東出身の友達は「同和部落?なにそれ?」状態ですし、関西でも差別がどうとか一切言わなくなったら、あっという間に忘れ去られるのではないでしょうか?
つくづく人間って残酷で冷酷な生き物だなとしか思えません。
8:52 京都市が運営する浴場なんてあるんですね・・・。
ここの市営住宅にはお風呂がなかったので住民の方々が主に使われていたと聞いたことがあります。
市営住宅の近くにはありますね。私は左京区住みですが、天王町や田中にも市営浴場は今もあります。
華々しい表の京都しか知らないので 動画は怖かったけど
京都を旅行で歩くと ふと、雰囲気が違うと思う町があって
空気感というか色も寒々しいのは 昔刑場だったのかもしれません。
そうとは限らないだろ、昔刑場でも今賑やかな場所はいくらでもある。大阪の千日前とかな。
歴史的背景が少しわかった気がします。有斉小の再利用は考えられていないのでしょうか。
場所的には垂涎の地でもあると思います。
昔木屋町で勤めてた時に、職場のセンパイが良く、部落4,000年の轢死って言ったのを思い出しました。
今でも田中や京都駅の東側にですが、元々人が生み出した物ですよ、
そして京都は歴史的に見ても。争いと差別が頻繁に有った場所ですからね。
建都1,200年と言ってるけど
線引きがなくなっていくのは嫌だな。
差別といわれようがけっしてかかわりあいましてや血縁をもちたくない。
まさか祇園の近くに 地区 があるというのは、他府県のほとんどの人は知らないですからね
京都駅付近の地区は全国的に知られている地域ですけど
あべま村 と読んでしまいました。
同じくw
今の京都駅北東側の京都市立芸術大学が移転してきた辺りも似たような感じの地域やな‼️
粟田口は昔鴨川で処刑された、人の首をさらした場所です、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊、おさんと茂兵衛も、明智光秀と家老斎藤俊光も、父の首を見ていた女の子👧が憎し豊臣秀吉と思ったて、後の春日局になった話しは有名です、京都も大阪も繁華街は昔処刑場で、それ見たさに人が集まってきて、そこに物売りが商売を始めて賑やかになったのが、だから京都は鴨川沿い栄えたのです、大阪もテレビに出てくる、道頓堀も昔は処刑場でした。😮
❌ 話し (動詞・連用形)
️⭕️ 話 (名詞)
です、➡ です。
です、➡ です。
です、➡ です。
川崎村は、今の出町柳のあたりですね。
エタ村って、そんなド直球な・・・。
動画中でも触れられてるように、江戸時代まではそこまで激しい差別はなかったのかもなあ。
明治維新より50年くらい前、この地区の人々がこっそり伊勢参りの旅に出た。旅中には何事もなく目的を果たして帰ってきたが、その後伊勢参りに行ったことがばれ罰を受けたという事があったそうです。その人々だけでなく、旅先の旅籠もその人たちの食事に使った食器や竈、へっついなどをみんな打ち壊して土に埋めなければならなかったそうです。ひょっとしたら畳も変えたかもしれません。
とんでもない話でしょ。
明治期から第二次世界大戦までが一番差別が明ら様だった時代ですね。
江戸時代の差別から解放した新政府なんて喧伝してましたが、新政府の差別政策の方がアカラサマです。
15:20洋食屋キチキチ、ここにあったんですね
ほんの数百年前は竹林と針葉樹の森だった場所がいつの間にこんな風に…!?
別の世界線ではまだふつうに田んぼなんだけど!?
いつも車でスーッと通ってしまう場所や、駅から反対側とかでたまにしか散策しない場所ばかりです。京都の歴史は深く、ミルフィーユのように時代ごとに層になって複雑に絡み合っています。緻密に取り上げて下さって有難うございました。治安維持の下支えも含む、重要な生業ばかりですね。鎧の皮革は当時第一の防命具だったでしょうし、罪を得て、どうせ斬首されるなら、腕の良い方が有難いと思います。勉強になりました。、
粟田まで出してくるとは。しかし粟田は京都では有名でしょ。
又次郎は初耳でした
いまになって思うのは北海道は蝦夷地って呼んでいたくらいだから
北海道自体が野蛮な土地だったんだなぁと、元道民の私はこの動画を見て気づいた。
蝦夷地の範囲は時代によって変わるみたいで、平安時代初期は坂上田村麻呂の蝦夷東征では、今の宮城県や岩手県あたりを蝦夷と呼んでいたみたいですね。つまり天皇を中心とする中央政権の支配が及んでいない北方の地域をさげすんで呼んでいたのでしょう。
京都の人間と交流を持ってみると、老いも若いもこういった土地への偏見をナチュラルに口にするので、時に恐ろしくなる
三条京阪の大都会にあるあまべに行きましたが、なんか時代が止まった感じでした。 なんでこんなところにと言う感じ
ある時代から計画的に差別するようになったのならやるせないな
観光バスのガイドさんは、刑場のところを案内しますよ。
首領は弾左衛門?
三条裏で
あんぷらって言うと怒られます。
どう言う意味でしょうか
あほんだら みたいな感じです
おどろおどろしい歴史の上にある京の都。戦乱は多々あり下の階級に落とされた話しを聞いたことがあります。同和のこともちらっと...でも場所は初めて知りました。上からの映像で粟田口を見るとなぜここかわかる気がします。勉強になりました。
❌ 話し (動詞・連用形)
️⭕️ 話 (名詞)
@@yyyxxx543 だから?何?
三条界隈は激変したね
京都ベラミもありましたね
因みに蹴上の由来は粟田口刑場に向かう罪人の尻を蹴き上げていたから
だそうです
見事に市営住宅になってますなあ
三条のとこに美味い和風中華ありますんねー
東京,江戸の渋谷川,古川の金杉橋の処刑場,橋場(今戸隣接)の処刑場(浅草と南千住の間の隅田川の沿川)に穢多非人部落が存在して居りました.都心部の浜松町の脇と,浅草の脇に穢多非人部落が存在して居りました.獄門台が設置されて獄門首(晒し首)の刑罰で三尺高い木の上と云われた獄門台です.
ラルーナのデザイン考えた人知ってます
ある特定の人達に優しい京都府
大変興味深く背景させて頂きましたが、漢字にフリガナをふっていただけると有難いです。
特別な読みもあるようなので…
❌ 背景
️⭕️ 拝見
貴方の目の前にある
箱や板で調べることができるのですよ
ggrks
ホッパラ町
動物搾取やめようよ!かわなくても、肉食べずも生きれるよ
出雲徐福系部落だよ