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歴史って何があったのかを覚えるよりその背景で誰が(何が)誰に(何に)どのような影響を与えたかを考えて考察を深めると凄い面白いですよね
やっぱり劉備本隊は漢中攻略のダメージがデカかったんじゃないですかね。加えて徴兵先は獲ったばかりの巴蜀で、一歩間違えれば反乱が起こりかねなかったから再編に時間がかかったんじゃないでしょうか。呉への出兵に時間がかかったのもそれが原因かと。劉備は必要があれば劉封、孟達が増援に行ってくれると踏んでいたのだと思います
動画内でも紹介されていた蒼天航路では劉備の妻子と共に囚われていた関羽は曹操から勧誘を受けている内に意識が向上してしまい帰参して以降、三兄弟の仲がギクシャクし始めるという演出がありました私も上手いお話だなぁと感心したものです
某考察サイトで劉備と関羽の関係について考察されてたけどそれによると晩年の関羽の立ち位置は劉備の部下というより劉備と同等、言葉を変えるなら荊州の一部を支配する群雄的な立場だったとされてる樊城の戦い以前に孫権から縁談の申し込みがあったが、今後の劉備と孫権との関係を左右する重要な事にも関わらず、関羽は主君である劉備に相談せず自身で勝手に断っている晩年の関羽がやや暴君化したように感じるのは、荊州を劉備から任された時点で関羽が半独立状態になり、「劉備の家臣」の括りから抜け出した為同僚であった筈の劉封・孟達を見下し、彼らから反感を買ってしまったのでは?当時の関羽は連戦連勝、曹操に遷都を考えさせた程の快進撃を続けた関羽は自信を深めた筈「一人でもやっていける」と三國志演義の影響で義兄弟である劉備・関羽・張飛は仲が非常に良いという事になっている…が、晩年の劉備と関羽は初期の頃の関係では無く、むしろ劉備は関羽をもて余していたのではないか劉備も現代では義に厚い君主みたいになっているが、後漢末の戦国乱世を最後まで生き抜いた群雄である自分の部下の範疇を越えて自身の領土を持ち強大化しつつある関羽を見て劉備がどう思うか?現実の劉備は決して甘い人間では無いもし関羽が荊州で独立したら劉備は関羽をどう扱うのか…と、妄想が広がる(^-^)
同意です。私も関羽の最後は劉備と同格に近い独立勢力を持っていたと思います。それを助長させた要因の一つは、呉からの縁談です。呉の皇帝となる孫権が劉備の部下に縁談をすすめるだろうか?否です。当然、劉備とは固い関係を築きつつも、半独立勢力であったと感じています。考えてみれば、孫権からの縁談も劉備と関羽を仲違いさせる計略であったのかと。
関羽は独立勢力だった。そう考えると劉備と孫権は同盟を結んでいるけど独立勢力関羽と孫権は同盟を結んでいない(というか関羽が一方的に断っている)から呂蒙や陸遜の行動もよく理解できるんだよね。むしろ糜芳があっさり裏切った理由とかにも通じる気がする。諸葛亮とか張飛とかガンガンに漢中方面に行っていたのも関羽には従わないという意思表示だった可能性が高いのでは?
この時代の面倒臭さはZガンダムを彷彿とさせるな
関ヶ原の戦いと似たようなものですかね天下分けめ戦いと言ったりしますが実際は豊臣家の家臣同士の戦いでしたから
ちゃんと原史料に基づいて考察してて凄い‼
蒼天航路は本当にすごい漫画だった。呂布に関しても化け物ぶりに磨きがかかっていて、その死因も化け物であることがより納得できた。
とても深く面白い考察です荊州に関羽の上に外交に優れ高官に気を使える人間を置けたらどうなったか…もしくは漢中勝利直後に劉備が荊州に渡るとか…もしは尽きませんね
19:21 特に劉備が悪いことをするときによく出ますので読み返すときは注意してみてください
関羽が死んだときの劉備の行動について。漢中太守に任命された魏延が「曹操が来ても守って見せる」的な発言をして満足されてる。つまり劉備は漢中方面から攻める気なかった。益州取ったばかりだし、ほんとに内政に集中してたのでは?増えた家臣団の編成だけで大仕事。名士層のパワーバランス整えるのも大変だし蜀科整備もある。また、関羽の軍事行動は樊城の時だけ行われたわけではないし、いつもの侵攻って認識でほっといたんだと思う。本気でやばかったら東荊州取られた時みたいに前線に飛んでいくだろうし、破綻の情報が間に合わなかったんでしょう。
例え話が分かりやすく面白かったです。また三国志を見直した時には新たな視点で楽しめそうw
あらためて見ると矢張り戦国時代に似てるんだよな足利幕府の将軍、義昭は権限を持っているでも幕府はとっくの昔に形骸化してる「法の執行」どころの話じゃない義昭を擁立している信長はいわば「君側の奸」将軍のために回りの戦国大名は信長包囲網を作る(まぁ実際は義昭が裏で手を引いてたんだけど)・・・かなり強引だけどこんな感じだ。
なんならその将軍職ですら表向きは朝廷の下なんだから面白いw日本の歴史って実質的な権力者が案外高位に上がらないんですよねもちろん誰に権力が集まってるかは一目瞭然だし家臣としては上位だけど、あくまでも「家臣として」上位国ツ神を祭る朝廷の家臣の将軍の家臣の老中首位の参謀が事実上のトップとかこれもうわかんねぇな
似てるというか、中世~近世までは世界のどこも大体同じ政治体制だから、この時代はどこも戦国時代よ。その後、民主化や革命で皇帝への一極集中が無くなると、戦国時代のような内戦は減っていく。ただし、日本は未だに天皇が国の権威の中心にあり、他の総理大臣などは全て天皇の家臣に過ぎないので、似たような内乱勃発が近代まで続いているという
そもそも関羽は劉備の配下では無かったという説がありますね。同盟者のような存在だったのではないかという…その説だと、樊城どころかこれまでの関羽の疎外感にも納得がいくのですが。
桃園が演義導入部最大の演出と・・・・正史読んでないから正史に桃園が語られてるのか知らないのでなんとも・・・蒼天航路だと劉備と関羽は異なる侠客集団の頭目として描かれてたので、同じ目的で手を結んだだけってのはあるかも。
樊城の戦いが夏で関羽大敗で兵糧も食いつぶしてるならいったん本拠地戻って防衛からの立て直しで1年後仇討ちとかありそうだけど
③かな〜 関羽の動きは掌握しきれて無かったんじゃないかな〜 予想もしてなかったと思う。国力(動員力)で言えば蜀呉で魏を攻め滅ぼすのはこの時点では不可能、秦嶺山脈と長江で守るしかない。江陵を魏に取られたらこの二つの天嶮が死んじゃうから守るのが当然で攻め上がるのは考えてなかったと思う。少なくとも諸葛亮はそう考えてたと思う。攻め滅ぼせるなら天下を三分する必要なんて無いからね。
歴史背景は面白い。単純に年号と名前を覚えるだけの授業なんて覚えられなくて当然。こういう動画は大好きです。
関羽は漢中戦の事後支援くらいのつもりで出兵したら、洪水で上手く回っちゃって攻めすぎた。危なくなったら下がるくらいのつもりだったけど、すべてが上手く回りすぎて、警戒が緩んで前のめりに。蜀側は疲弊して準備がなかった、これうまくいくんじゃねみたいな話になってきたけど、降って湧いた話し過ぎたし、あまりにも優位なので焦ることもないと準備を急が(げ)なかった。だが、魏はラスボスだからあっという間に圧倒的国力で物凄いパンチで全てを刈り取られた。この辺は連絡取り合ってても、判断を誤るところだと思いますよ、強いて言うなら、魏の動員力をもっとよく探っておくべきだったかもと…。まあ、無線持ってた日本海軍ですら、後半なんかそんなんばっかりです。事故だったんじゃないですかねえ、劉邦は何ていうか、全部被らされたと言うか。余談ですが、曹叡の能力の見誤りとか、孟達死亡の経緯とかで、孔明も割とこの辺読み誤ってますよね。魏がチート過ぎるんだと思うけど。あと、劉備側って、曹魏に対して攻勢をかけた経験があんまり無いんですよね。いつもの後退戦なら行く先のことはよく見えるわけですが…
劉備から将軍の地位と軍事権をもらった直後に関羽は出陣しているから樊城攻めは劉備の命令である可能性は高いしかし劉備本軍となんの連携もしていないのは腑に落ちないたかが数万の関羽軍を支援もなしに暴れさせるのはさすがに孔明が承知しないだろうし本当に関羽の独断専行だったのか?侵攻の理由がよくわからない戦いだなあ
6:40 「一年の準備期間」1、劉備と孔明は実は慎重派で完勝派。やるからにか確実に勝つ所まで戦力充実。2、モンゴル軍のような矢文で高速に情報伝達。3、忠臣蔵の赤穂浪士じゃないけども、本気でやり通す所まで腹心達の腹が決まるまで時間が掛かった・・とか ?
①と④かなあ、漢中から撤退する時に曹操は武都や陰平の辺りからもまとめて住民を北方へ移住させているこれにより漢中周辺は生産力が大きく低下して駐屯地としての機能が低下している更に言うなら張コウが巴蜀に侵攻した時も多数の住民を北方に移住させている、北伐と言い張コウ先生良い仕事してますぜ
確かに演技では関羽が荊州から樊城へ侵攻したときは劉備もこれに呼応して長安方面へ向けて進撃する予定だったのに、実際は関羽が一人ですったもんだやってただけで劉備ら成都・漢中方面の人間は侵攻どころか挙兵すらしてないと言っていい。本当なら二方面作戦で関羽が樊城を攻めるなら、劉備は蜀から武都に進軍しなければならない。それなのに劉備が動いていないということは、完全に関羽の出兵は関羽の独断専行と言わざるを得ないんだよな。荊州都督という立ち位置の関羽だが、実際は本国や劉備との連絡はほとんど無く、関羽の荊州は事実上の独立国であり、まさしく荊王という称号の通りだったと仮定してもいいかもしれない。だから関羽は呉との外交も完全に独断で判断して拒絶してたし、劉備からすれば関羽は実は強力かつ厄介な爆弾であったと見ても問題は無いだろうな。
蒼天航路では確か関羽の晩年の軍事行動は完全に独断で少なくとも本国とのすり合わせをまったく行っていないという解釈をしていましたね……たしか(最後の方よく覚えてないw)
関羽の率いる蜀の東部軍…つまり関羽東部軍…略して関東軍…といえば、理解できるかもな。
危ないネタに走るな!
いやー今回はいつにもましてわかりやすい!!スリーキングダムでやたら劉備が「逆賊を撃つ」とか言って他勢力を攻撃してるけどそれは「これは国への反乱じゃないですよ。むしろクラスの悪い奴を攻撃してるんですよ」って建前アピールだったのね
劉備が悪事を働くときに漢帝国復興を使っていたということがよくわかりました
横山三国志42巻の終わりの始まり感は異常
小学生の頃げんなりして見る気失せながら図書室で読んだよ
①と④かなと思います。あと夷陵の戦いまでに時間がかかったのは戦争の準備もあるだろうし普通に高齢の劉備がショックで寝込んでたのかも。
三国志を関東に例えるとかそれなんて一騎当千ですかwww
結構な数の人が同時期にパタパタと死んでるし疫病がかなり大規模に流行って、軍事を活発にできる状態ではなかったとか?信心深い昔の時代だし疫病がそのまま関羽の呪いってことになった。って気はする。
実は樊城の洪水と同じ規模の洪水被害が漢中でも起きていて、魏も蜀も身動きが取れなくなっていたとか
③と④そもそも荊州を関羽に任せる以前に義兄弟の契りは喪失している。バンド解散の理由第一位の方向性の違いである。それでも関羽のソロ活動は続いてるわけで、劉備の心は千々に乱れていた。新メンバーの孔明もまた才能あふれる人材。バンドの未来も明るい。互いにテッペンとるというドリームは変わらない。さらば関羽。
それなら劉封は処刑されない
三国志関連で、詳しい考察動画は、意外に少ないので有難いです。とても、興味深く拝見させていただき、新しい発見がありました。早速、登録させていただきましたよ。漢室と諸軍閥の関係性についての考察は、UP主様に完全に同意いたします。この点を前提としないと、曹操、孫権、劉備……など、いずれが正当か?などという焦点がズレた議論に陥りかねないのですよね。当時は、天子の臣下である、いずれの群雄にも、彼らなりの大義名分があり、漢の天子の臣下という立場を取っている限り、皆、各々の解釈で多少、不穏当な行動をしても、辛うじて是認される風潮がありました。しかし、勝手に皇帝や王を名乗った群雄は、朝敵として、他の群雄から、寄ってたかって徹底的に征伐されてしまいます。劉備が関羽を見殺しにせざるを得なかった理由は、単純に関羽救援に割くリソースが不足していた為だと考えます。劉備と関羽に、実は軋轢があったという説は、斬新で想像力を掻き立てられ、面白いのですが、関羽が守っていた江陵は、北は襄陽、南陽を経由して三輔を睨み、南は荊南を抑える、地政学上、極めて重要な要衝です。劉表が長年かけて整備した、陸運、水運の集約する土地でもあり、劉備が実効支配する場所の中では、はっきり言って、漢中や西蜀など比較にならないほどの最重要拠点でした。ここを奪われる事は、実質、劉備が天下を狙える1チャンを諦めるに等しく、仮に劉備と関羽の間に、個人的な問題があったとしても、放置出来るはずもなかったでしょう。UP主様も、ご指摘の通り、漢中の攻防戦の後、劉備軍は、相当疲弊し、兵糧も足りず、法正、黄忠といった陣営を支える人材も相次いで失いました。即滅亡の可能性がある防衛戦ならば否応もなく援軍は送られたはずですが、劉備陣営が攻勢である侵攻戦に援軍を出すほどには、余裕はなかったと思います。また、劉備が関羽の弔い合戦と、荊州の拠点奪還を狙って、夷陵に出陣したのが時間が経ってからだったのも、同じ理由です。なぜ、劉備は軍を引き連れて成都に戻ったのか?という疑問は、単純明快です。兵達を地元に帰して農作業をさせる為です。当時、兵農分離は進んでいません。先駆的な曹操軍でさえ、末端の兵達に専従兵は少なかったですし……劉備軍なら、推して知るべしです。僻地のイメージがありますが、当時、成都や広漢の一帯は、漢でも屈指の大穀倉地帯だった為、漢中に出征した兵達を成都に戻し、農作業をさせる必要があったのです。兵達を本業の農作業で頑張ってもらい、少しでも収量を増やし、より多くの兵糧を確保して、再び漢中から三輔を狙う。これが劉備と諸葛亮の戦略でしょうね。成都に戻った劉備の本音は、こっちの準備が整うまで、関羽さん何とか頑張ってくれ、と祈るような気持ちだったのではないでしょうか。実際に、関羽軍は、益州の劉備本隊に匹敵するほどの強力な軍でしたし、その上に、曹操に反乱を起こした南陽の勢力と内外呼応した為、曹操が一時は遷都を考えるほどの、脅威を与えました。関羽が勝手に軍を進めた説は、可能だが、あり得ない、と思います。関羽は、節、を与えらており、関羽個人の裁量で、自由に軍を動かす権限がありました。ただし、事前に何の打ち合わせもなく、勝手に軍を動かしていた、という説は、軍事戦略上、あり得ない事だと思います。関羽は、劉備と諸葛亮から命令を受けていたか、少なくとも、事前に申し合わせをしていたでしょう。孫権の盟約違反により背後を脅かされた事で、最後は敗れますが、関羽は終始優位に攻めていた(劉備や諸葛亮には、そう見えた)為、結果として、援軍は送られなかったと考えます。仮に、関羽が南陽辺りまで制圧し、劉備が成都で再軍備を整えるまで保持出来ていれば、一転して、曹操は、両翼を半包囲される事態となり、劉備が天下を取る可能性が高まります。これは、諸葛亮が劉備に提示した、戦略の核心です。結論としては、劉備と関羽は、お互いに連携した上で、天下を取る戦略上、必要な方策を個別に行なっていた。しかし、劉備と諸葛亮は、この賭けに負け、失敗し、最も重要な荊州の橋頭堡と関羽を失った。因みに、関羽は当初、長江に沿って軍を配置し、孫権の裏切りにも万全に備えていましたが、陸遜が情報工作をして、その守備隊や兵糧も関羽は指揮下に呼び寄せてしまいます。このように、陸遜は、既に、裏で謀略を仕掛け暗躍しておりました。長文、乱筆、お許し下さい。これからも、動画をたのしみに拝見させていただきます。
三国志とか昔から色々読んで慣れ親しんでいるかと思いきや、「世界観が違う」という視点は盲点ですね。思えばそこが異世界感もあって良かったのかも。
劉備が動かなかったのは単に情報が伝わってなかったなんて可能性は無いですかね。蜀の桟道で伝令が転落死したせいで、劉備に情報が伝わらなかったなんてこともあったかも。写真を見ると手すりみたいなのがあるけど、あれなんか三国時代からあったの?なんて思います。
「蜀の桟道で伝令が転落死」可能性が高い低いはともかく、ちょっと笑ったわ。当時、どこまで整備されていたのかは分からんけど、確かに急げば急ぐだけ、あそこは危険ではあるな。
あとは当時の交通事情では、情報が蜀に伝わるまでかなりタイムラグがあったのではと思う
連動するつもりだったとは思いますけどね敗報が届いてから援軍を送るその暇もなく関羽が打ち取られちゃった気がしますね
漢中での消耗とかわいい法正が死んだ事と復興目指してた後漢が滅んだ事と孔明に呉と争ってる場合じゃねえと諫められ揉めてたこと 全ての併せ技で時間がかかったと予想
関羽と劉備で目標のズレが生じていたと考えます。劉備は漢中王を名乗った時点から献帝を擁立するのではなく自分が漢の皇帝になる事を第一に考えていたと思います。その場合曹家には帝位を簒奪してもらった方がやりやすいです。一方で関羽は禅譲を阻止しする方向で動いている様に思います。
劉備はすぐにでも報復したかったが蜀のブレインが猛反対したんじゃないかと
それもあり得る。漢中を平定したばかりで損耗が激しい時に荊州奪還なんて大規模な戦争、できるはずもない。そして劉備もすでに軍団長的な思想で動けないくらい国ができてしまっていたので、放置せざるを得なかった、か。まあ夷陵の戦いの関羽の仇討ちは口実で実際は荊州奪還が主な目的だというのは間違いない。
自分は①か②だと思うなぁ・・・だって多少動かせたら主が言ってたようにそのときの諸葛亮や将軍たちが情報集めを怠ってたとは思えないしな、仮に孔明が預かり知らないとこで関羽が独断で動いたとしても万全を期するために将軍の誰かしらを荊州本拠地に送るはず。それすらできなかったということは益州で何かしらの惨事があったんじゃないかなぁって思う。孔明地震が荊州は失ってはならないと言ってたくらいだしな関羽が樊城を攻めてるなら誰が防備に参加してるのかと思うだろうしそもそも荊州が守られていたのは関羽のこれまでの武功や今までの戦果による恐れの効果もあっただろうし
南蛮で反乱仕掛けられてた…とか?記録無しとは思うが、蜀だけの専売特許でもないし…。
後漢末は足利政権の枠で諸侯が戦っていた戦国日本って事では。
劉関張の三人は…破滅型の人間だったとか考えてしまうな。私は曹操派♪(*´-`)
呉との関係を考えて孔明あたりが止めてたとして樊城との共同作戦してないのがなーってか法正か孔明が荊州にいたらなー
そもそも移動手段も乏しい時代に成都に一度戻った劉備が援軍に行ったとしても間に合わないけどね。距離的にも時間的にもこの時代は確かに情報戦ではあるが、その情報自体結構前の情報になってしまい、本当にそうなのかを確認するにもまた時間がかかる為関羽が戦死した事も事実か確認するまで、かなり時代を必要とした事等がある。更に軍勢を移動しながら行軍しに行くのもこの時代ではかなり難しい。途中休みながら行くレベルでね。その為の兵量が必要な為着くまでにはかなり大変な事等考えると攻める方より待つ方が楽。何故なら着くまでに準備ができるから。
劉備が①援軍を出さなかった、また②弔い合戦を一年待った理由について私はこのように考察します。①関羽の快進撃からの敗走への展開があまりにも早く、到底対応しきれる時間的、戦略的余裕がなかった。また、仮に援軍を出しても最低限の戦果すら得られる公算がなかった。②弔い合戦は勿論大切だっただろうが、そんなこと(関羽一人の弔い)より荊州の支配権の奪取を確実に行いたいという、戦略的理由
樊城戦最初は関中争奪戦争の支援作戦だったけど巧く行き過ぎて曹仁を仕留めようと深追いした為ロジスティックス線伸びきってしまい補給が難しくなったのを呂蒙が見逃さなっかた。島津得意の吊り野伏を大係りにして変化させたパターンかなと思っていたりします。
この動画はレベル高い。
前回の動画では、劉備の漢中からの援軍を前提とした戦略を立てていたとの解説でしたが、今回の解説及び劉備陣営の実情を考えれば、上記の戦略は関羽の独断、つまり劉備は関羽に援軍を出せるほどの余裕はなく、関羽の軍事行動も決して自ら支援しようとは思ってなかったと考えて間違いないと思います。孫権の同盟もそもそもは劉備側から持ち出した話、なら漢中を獲得したばかりという状況で荊州を無理やり騒がせる関羽の行動は、戦略上はありでも、国という立場からは協力できないというのが国主・劉備の判断だったと思います。
妄想軍備が対曹操(北方、陸兵)に偏っていて、すぐには対孫権(南方、水兵)に転換できなかったのでは?益州では造船能力も限られているだろうし、寒い山ばっかの北と温暖な川ばっかの南では必要な装備、物資も大違い。物資も兵力も、漢中からまず永安あたりにもっていく必要があるし、そもそも輸送手段そのものも移動させなければならない。(両方面に輸送手段を常備していれば話は別だが、孔明が北伐の兵糧でいつも困っているあたりからして、そんな余裕があるとは思えない。)漢中戦での消耗うんぬん以前に、最低でもこれらの課題をクリアする必要がある。これらを考慮すると、荊州方面に使えそうな集団は最初から関羽軍しかいなかったのではないか?北の曹操向けに水軍が必要とは考えにくく、わざわざ荊州装備の部隊を益州に置く必要性は薄い。仮にいたとしても、曹仁と戦い始めれば、益州で遊ばせておくより、荊州に送るのが普通ではないか?
自分も現実的には1かね、損耗が大きく援軍で被害が拡大するのを恐れたとかね
劉備「わしが漢中王じゃぁ~」曹仁「じゃぁわしが皇帝じゃぁ~」
漢帝国と曹操孫権劉備や群雄の争いは室町幕府末期と戦国期のイメージ(天皇家はいるし幕府も形はあるけど戦国群雄が実戦力もって戦ってる)イメージでみてました
漢滅亡は、三国誌関係の物だと、あっ、そうって感じですけど、今回のものを拝見して、一大事ですね。
劉備の漢中王即位を聞いた関羽が、調子に乗って独断専行したとか
うp主の考察、面白い!無いとは言ってるけど、ありそう!
楽しく拝見させていただきました。劉備の動きについては、「関羽と劉備(というか諸葛亮)との関係の悪化」というのを疑ってしまいます(論拠の無いまったくの妄想ですが)。「スタンドプレイ大好きな古参の重鎮」と「規律で全体を統括する管理者」の間に、それなりの反目はあったんじゃないかな~、と。「人気者を表立って処罰するのも具合が悪いので、大きな失敗でもしてもらおう」ぐらいで静観していた、としたらどうでしょう。関羽亡き後の「仇討ち」は、70%ぐらいは本心で、30%ぐらいは良い口実…とかとか。
孫権の地位を認めることに関連して、「日本国王」の地位というのは、中華帝国からしたら日本を蛮族呼ばわりに変わりはないけど、相互不可侵関係の保証にはなるということですかね。
日本で言えば、室町時代後期かな
個人的にりゅうびとコウメイ仲違い説イリョウの戦いも馬良とかがいながらの惨敗なのも凄まじく違和感覚える普通リュウビが陣率いるならコウメイが付くじゃろ・・・
益州侵攻開始時もそうだったんですが本拠地の留守を守るのが孔明の仕事になってます一戦で壊滅したから援軍も呼べなかっただろうし
日本の戦国時代みたいなものか。大名は皆、将軍の臣下なわけだし
燓城から夷陵まで約1年半・・・服喪期間ですかね?漢代だと親の死に際して3年(足かけ)服喪してたようです。蒼天航路でも趙雲が母の死後に結構長い期間服喪してた様な事が描かれています。この時代は父母の死に際して子女(直系尊属)は3年服喪するそうです。劉備と関羽の関係は義兄弟なので3年て事は無いと思いますが、義理とは言え兄弟ですし、劉備軍閥にとっては旗本中の旗本、蜀漢建国となれば元勲中の元勲、初代皇帝が国父であると喩えるならば、両脇を固める関張は亜父と言っても良いくらいの人物。直系の父母ほどでは無いにしてもある程度の期間の服喪があるかなぁ・・・・と。
曹操、三月十五日なんだ。カエサルと同じだ。陰暦かな?
ナポレオンなら痔でアナルが痛かったからで説明がつけられて終わる話だな。
2に一票 ボケ始めると人の意見を聞かず、自分が言ったことも忘れて怒り出すようになったりします。私の親父もそれに近く、取引先の社長にも一人居ます。そう考えると劉備自体の劣化によってツンデレっぽくなったり、慢心や油断に至ったのでは?と思います。すなわち2によって3も4も起きたと言うことです。その後の敗北も劉備自体が劣化していれば考えやすい物です。
曹操が漢中から退いたのは219年の5月ですから、そんなにおかしくもないんじゃないでしょうか。劉備の侵攻開始は217年なので、実はかなりの長期戦ですし、益州を支配し始めて間もないタイミングですから、そうそう大きな軍事行動を連発できなかったのはむしろ自然かな、と。そもそも、別に曹操軍主力を壊滅させたわけでもないので。小説や漫画などではこの戦いが終わってから関羽が動き出したように思われがちですが、樊城の戦いの契機の一つである侯音の反乱は218年に始まってますし、そもそも荊州方面と同時進行していた事態だったのだと思われます。ただ、おっしゃるように、劉備もそこまでボロ負けするとは思ってなかったというのは大いにあると思います。
関羽が北上を開始した時期については、関羽の伝に「劉備が漢中王になって関羽が前将軍にと仮節鉞を与えられ、樊城の曹仁を攻撃した」とあるので、時系列的に見て樊城が漢中の後であると考えていいます。但し当然その前から関羽も準備はしていたでしょうし、当然劉備とも連携しての挙兵であるはずなのに、劉備が漢中から引き返したのが悪手というのは動画内でご説明した通りですね。ココだけは本当にわかりませんが、まあやはり慢心やミスの類だというのが自分の考えです。
水害については正史の武帝紀(曹操の伝)に「遣于禁助曹仁擊關羽。八月漢水溢、灌禁軍、軍沒、羽獲禁遂圍仁。」つまり219年の8月と明記されています。水害以外の天災については記載がないようですが、この頃は世界的な寒冷期で、慢性的な食糧不足だったという指摘は結構あります(そもそも漢が滅んだのもこのせいという説もあり)。ただ、この頃に限らず、兵糧が余るなんてことは通常ありません。特に侵攻側については、仮に兵糧が十分にあっても輸送ができない(運ぶのが大変)事が多いので。そういうのを計算に入れたうえで勝てる計画を立てるのが指揮官の仕事で、関羽クラスの方面軍指揮官になれば、自軍だけでなく本国の劉備軍の状況も把握して作戦を立てる必要があります。勝てる見込みを立ててから戦争始めるのが指揮官の責任なので、そういうところも含めて、樊城の敗因は関羽にあるというのが私の意見です。
正史にはあまり詳細な記述はないようですが、解説書等を読むと、関羽指揮下の荊州内であればその動員と指揮に関する権限を委任されていたようです。そして関羽が魏軍配下の樊城を攻撃したのはこの権限内に含まれるとの認識が一般的です。ただ動画内でもご説明しているとおり、権限を持っていることと軍事的な整合性は全く別です。
こういうのを見ると、実際にはどうだったのかをタイムスリップして見てみたくはなるな。もちろん、自分が死なない程度の準備ができるかだけど。まず、後漢時代の言葉を話せない、言葉が理解できない時点で、役人に捕まって「THE END」になってしまいそうな気がする・・・。
つまり孫権が森田健作で曹操が小池百合子ってことか・・・
ボナパルトした(お尻が痛い)かも
旧日本軍「俺達内閣の下についたのではなく天皇の下についただけだから、内閣の言うことなんてきーーーかない♥」
なお天皇の言うこともきいてなかった模様昭和4年(1929)昭和天皇28歳「将来陸軍軍人はかかる過ちを再びなさざるように」…張作霖爆殺のような事件の再発防止を訴えて。昭和7年(1932)31歳・「しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。」・「陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒なことになったのだ」(4月頃、国連脱退に関して)昭和8年(1933)32歳・「予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」昭和13年(1938)37歳・「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」
@@ええああ-t2u 戦前も戦後も古代の一時期を除いて天皇は実質ずっと象徴だから
あくまで状況的に見れば、ですが。①が可能性高いと思ってます。漢中もですが、それ以前の益州侵攻が思ったより長引いたので軍事的なダメージは少なくなかったのだと。また経済的にも益州本軍が動かせなかった(動員も出来なかった)とかでは無いでしょうか。でも、曹操の足元がゆらいでいるのは事実で攻め時には見える・・・よっしゃ関羽行って来い、とかw
2.26事件 5.15事件かな?
つ、ツンデレ通りこして…。
世襲と実力…どちらが正当か?大人であれば明白ですね。中原平定に他人(曹操)の力を借りた時点で終わっています。曹操は命懸けで戦っていた間、帝は許都で平穏に暮らしていた訳で。
関東軍じゃん
流石に仲違いなら自分が拠点に下がった時点で信頼厚い趙雲あたりを送るなりで対応してるだろうし諸葛あたりが、大勢を見れば戦略上の要になる場所を失う事を流石に良しとはしないだろうし損耗は大きそうだけど、何となくイメージで敗走側はほぼ丸損だけど勝利側は敗残、負傷、捕虜なんかで幾ばくかの戦力を特に中世時代は一般兵の精鋭だろうと旗本ほどでなければ忠誠心なんて知れてて助命の希望があれば将ですら降って損失埋めてる気がするし自分は実際は救助要請の伝達が寸断されて「書簡を受け渡しの経緯の何処かで差し替えられ、時に勝利が災いして勝利戦評報告に差し替えられるなど何処かの段階で行われ」守備側は敵援軍が到着するよりも早く自軍の援軍が到着様に手筈を成してたから敢えて空城離脱などせずに耐えたのだと思う、、、呉に更にその情報操作を通じてる背後が行なっていたなら、碌に抵抗をせずに(そもそも援軍を止めているから関羽軍を止めて挟撃する事だけに注力すれば良い状況が出来上がる等)開城した事にも頷けると考察してしまいます誤算は本来于吉の精鋭で逃げ場を無くすはずが捕虜になるって最悪の展開があった事で本来の包囲と違う形になった事と予想外に関羽が捕虜の扱いが良かった事かもしれない「辻褄合わせな考察ですが損耗の補充に吸収するつもりでいた事で最終的に足かせになった、、、ここは偶然の産物な気がします」
漢中王ってかっこよくねは草
「漢中王」は楚漢戦争の経緯から「かっこいい」って考えは間違ってない
千葉県や埼玉県が日本国から独立・・・・運転マナーの悪い地域、具体的には大阪、名古屋、松本、広島が日本から独立して、独自の道路交通法を制定している、というネタはあるよなぁ・・・・
劉備が病あるとか?だから後で死ぬ?
よく考えたら、千葉県と栃木県って、接してないよね。ということは、千葉県軍は茨城県を通過せざるを得ない。我が埼玉県は多分、茨城・栃木と連携して千葉の侵略を妨害するよね。出来たら東京とも密約しておきたい。神奈川とも組んで、この際千葉を孤立させるのもいいかも。…みたいなことを、突然考えてしまった。
関羽は独立を考えてたと思う。
そもそも関羽は独立した伝として立てられている。つまり、当時の人から見ても、関羽は独立勢力として見なされていた可能性が高い。
劉備がと言うより、孔明が関羽が嫌いと言うか、邪魔だったんやないの?で、殺したのも孔明の裏工作で、それを隠す為に、援軍出さなかったと、もう1人の邪魔な劉封をも抹殺したんだよ。
漢中は曹操が住民すら連れ去ったのですから、確保した後で兵糧の確保にも困ったはず。諸葛亮の南部平定だって、夷陵の戦いから3年も経っていますし、北伐はさらに3年後。蜀は物資の乏しい土地なのです。関羽は于禁ら数万人が投降したことで、呉から兵糧を奪うほどの食糧不足でしたから、荊州の兵糧も当てにできません。劉備が軍を出そうにも、どこにも兵糧がなかっただけだと思うのですが。そもそも大軍をすぐ動かせるほど、蜀の土地は劉備に心服していたのでしょうか。夷陵で劉備が動かした兵力は4万とも言われますが、人口は最大で100万ですから、4%は限界に近い動員だと思います。最大限努力して、急いで、夷陵の時期だったのでしょうし、漢帝国滅亡も真偽を確かめる必要があるので、軽々しく動けない理由としては十分でしょう。
日本の歴史は中国と比べて千年以上遅れているな
中国の歴史はリセットするから明治の頃には追い越した
蒼天航路の劉備はしゃべりすぎ正史と全然違うそれに強い曹操を主人公にしてるから話が糞つまらない
義兄弟を汚さないで。1〜4のそのどれでもありません。曹操は関羽を欲しがっていた。曹操は、手に入らないのならばいっそ…と思う人物でもあった。魏と呉がタッグで挟み撃ちしたら、いくら関羽でも…そんな中で、魏と呉の戦略の中では悔しいながらも…1年以上仇にかかったのは、蜀の国力が想像以上に疲弊しかけていたからできなかったからが正解なのでは??
疲弊しかけていたのなら、①漢中争奪戦による消耗、になるでしょう
歴史って何があったのかを覚えるよりその背景で誰が(何が)誰に(何に)どのような影響を与えたかを考えて考察を深めると凄い面白いですよね
やっぱり劉備本隊は漢中攻略のダメージがデカかったんじゃないですかね。
加えて徴兵先は獲ったばかりの巴蜀で、一歩間違えれば反乱が起こりかねなかったから
再編に時間がかかったんじゃないでしょうか。呉への出兵に時間がかかったのもそれが原因かと。
劉備は必要があれば劉封、孟達が増援に行ってくれると踏んでいたのだと思います
動画内でも紹介されていた蒼天航路では
劉備の妻子と共に囚われていた関羽は曹操から勧誘を受けている内に意識が向上してしまい
帰参して以降、三兄弟の仲がギクシャクし始めるという演出がありました
私も上手いお話だなぁと感心したものです
某考察サイトで劉備と関羽の関係について考察されてたけど
それによると晩年の関羽の立ち位置は劉備の部下というより劉備と同等、言葉を変えるなら荊州の一部を支配する群雄的な立場だったとされてる
樊城の戦い以前に孫権から縁談の申し込みがあったが、今後の劉備と孫権との関係を左右する重要な事にも関わらず、関羽は主君である劉備に相談せず自身で勝手に断っている
晩年の関羽がやや暴君化したように感じるのは、荊州を劉備から任された時点で関羽が半独立状態になり、「劉備の家臣」の括りから抜け出した為同僚であった筈の劉封・孟達を見下し、彼らから反感を買ってしまったのでは?
当時の関羽は連戦連勝、曹操に遷都を考えさせた程の快進撃を続けた関羽は自信を深めた筈
「一人でもやっていける」と
三國志演義の影響で義兄弟である劉備・関羽・張飛は仲が非常に良いという事になっている
…が、晩年の劉備と関羽は初期の頃の関係では無く、むしろ劉備は関羽をもて余していたのではないか
劉備も現代では義に厚い君主みたいになっているが、後漢末の戦国乱世を最後まで生き抜いた群雄である
自分の部下の範疇を越えて自身の領土を持ち強大化しつつある関羽を見て劉備がどう思うか?
現実の劉備は決して甘い人間では無い
もし関羽が荊州で独立したら劉備は関羽をどう扱うのか
…と、妄想が広がる(^-^)
同意です。
私も関羽の最後は劉備と同格に近い独立勢力を持っていたと思います。
それを助長させた要因の一つは、呉からの縁談です。
呉の皇帝となる孫権が劉備の部下に縁談をすすめるだろうか?否です。
当然、劉備とは固い関係を築きつつも、半独立勢力であったと感じています。
考えてみれば、孫権からの縁談も劉備と関羽を仲違いさせる計略であったのかと。
関羽は独立勢力だった。そう考えると劉備と孫権は同盟を結んでいるけど独立勢力関羽と孫権は同盟を結んでいない(というか関羽が一方的に断っている)から呂蒙や陸遜の行動もよく理解できるんだよね。
むしろ糜芳があっさり裏切った理由とかにも通じる気がする。
諸葛亮とか張飛とかガンガンに漢中方面に行っていたのも関羽には従わないという意思表示だった可能性が高いのでは?
この時代の面倒臭さはZガンダムを彷彿とさせるな
関ヶ原の戦いと似たようなものですかね
天下分けめ戦いと言ったりしますが実際は豊臣家の家臣同士の戦いでしたから
ちゃんと原史料に基づいて考察してて凄い‼
蒼天航路は本当にすごい漫画だった。
呂布に関しても化け物ぶりに磨きがかかっていて、その死因も化け物であることがより納得できた。
とても深く面白い考察です
荊州に関羽の上に外交に優れ高官に気を使える人間を置けたらどうなったか…もしくは漢中勝利直後に劉備が荊州に渡るとか…もしは尽きませんね
19:21 特に劉備が悪いことをするときによく出ますので読み返すときは注意してみてください
関羽が死んだときの劉備の行動について。漢中太守に任命された魏延が「曹操が来ても守って見せる」的な発言をして満足されてる。つまり劉備は漢中方面から攻める気なかった。益州取ったばかりだし、ほんとに内政に集中してたのでは?増えた家臣団の編成だけで大仕事。名士層のパワーバランス整えるのも大変だし蜀科整備もある。また、関羽の軍事行動は樊城の時だけ行われたわけではないし、いつもの侵攻って認識でほっといたんだと思う。本気でやばかったら東荊州取られた時みたいに前線に飛んでいくだろうし、破綻の情報が間に合わなかったんでしょう。
例え話が分かりやすく面白かったです。
また三国志を見直した時には新たな視点で楽しめそうw
あらためて見ると矢張り戦国時代に似てるんだよな
足利幕府の将軍、義昭は権限を持っている
でも幕府はとっくの昔に形骸化してる
「法の執行」どころの話じゃない
義昭を擁立している信長はいわば「君側の奸」
将軍のために回りの戦国大名は信長包囲網を作る
(まぁ実際は義昭が裏で手を引いてたんだけど)
・・・かなり強引だけどこんな感じだ。
なんならその将軍職ですら表向きは朝廷の下なんだから面白いw
日本の歴史って実質的な権力者が案外高位に上がらないんですよね
もちろん誰に権力が集まってるかは一目瞭然だし家臣としては上位だけど、あくまでも「家臣として」上位
国ツ神を祭る朝廷の家臣の将軍の家臣の老中首位の参謀が事実上のトップとかこれもうわかんねぇな
似てるというか、中世~近世までは世界のどこも大体同じ政治体制だから、この時代はどこも戦国時代よ。
その後、民主化や革命で皇帝への一極集中が無くなると、戦国時代のような内戦は減っていく。
ただし、日本は未だに天皇が国の権威の中心にあり、他の総理大臣などは全て天皇の家臣に過ぎないので、似たような内乱勃発が近代まで続いているという
そもそも関羽は劉備の配下では無かったという説がありますね。
同盟者のような存在だったのではないかという…
その説だと、樊城どころかこれまでの関羽の疎外感にも納得がいくのですが。
桃園が演義導入部最大の演出と・・・・
正史読んでないから正史に桃園が語られてるのか知らないのでなんとも・・・
蒼天航路だと劉備と関羽は異なる侠客集団の頭目として描かれてたので、
同じ目的で手を結んだだけってのはあるかも。
樊城の戦いが夏で関羽大敗で兵糧も食いつぶしてるならいったん本拠地戻って防衛からの立て直しで1年後仇討ちとかありそうだけど
③かな〜 関羽の動きは掌握しきれて無かったんじゃないかな〜 予想もしてなかったと思う。
国力(動員力)で言えば蜀呉で魏を攻め滅ぼすのはこの時点では不可能、秦嶺山脈と長江で守るしかない。
江陵を魏に取られたらこの二つの天嶮が死んじゃうから守るのが当然で攻め上がるのは考えてなかったと思う。
少なくとも諸葛亮はそう考えてたと思う。
攻め滅ぼせるなら天下を三分する必要なんて無いからね。
歴史背景は面白い。
単純に年号と名前を覚えるだけの授業なんて覚えられなくて当然。
こういう動画は大好きです。
関羽は漢中戦の事後支援くらいのつもりで出兵したら、洪水で上手く回っちゃって攻めすぎた。
危なくなったら下がるくらいのつもりだったけど、すべてが上手く回りすぎて、警戒が緩んで前のめりに。
蜀側は疲弊して準備がなかった、これうまくいくんじゃねみたいな話になってきたけど、降って湧いた話し過ぎたし、
あまりにも優位なので焦ることもないと準備を急が(げ)なかった。
だが、魏はラスボスだからあっという間に圧倒的国力で物凄いパンチで全てを刈り取られた。
この辺は連絡取り合ってても、判断を誤るところだと思いますよ、強いて言うなら、魏の動員力をもっとよく探っておくべきだったかもと…。
まあ、無線持ってた日本海軍ですら、後半なんかそんなんばっかりです。
事故だったんじゃないですかねえ、劉邦は何ていうか、全部被らされたと言うか。
余談ですが、曹叡の能力の見誤りとか、孟達死亡の経緯とかで、孔明も割とこの辺読み誤ってますよね。
魏がチート過ぎるんだと思うけど。
あと、劉備側って、曹魏に対して攻勢をかけた経験があんまり無いんですよね。
いつもの後退戦なら行く先のことはよく見えるわけですが…
劉備から将軍の地位と軍事権をもらった直後に関羽は出陣しているから樊城攻めは劉備の命令である可能性は高い
しかし劉備本軍となんの連携もしていないのは腑に落ちない
たかが数万の関羽軍を支援もなしに暴れさせるのはさすがに孔明が承知しないだろうし
本当に関羽の独断専行だったのか?侵攻の理由がよくわからない戦いだなあ
6:40 「一年の準備期間」1、劉備と孔明は実は慎重派で完勝派。やるからにか確実に勝つ所まで戦力充実。
2、モンゴル軍のような矢文で高速に情報伝達。3、忠臣蔵の赤穂浪士じゃないけども、本気でやり通す所まで腹心達の腹が決まるまで時間が掛かった・・とか ?
①と④かなあ、漢中から撤退する時に曹操は武都や陰平の辺りからもまとめて住民を北方へ移住させている
これにより漢中周辺は生産力が大きく低下して駐屯地としての機能が低下している
更に言うなら張コウが巴蜀に侵攻した時も多数の住民を北方に移住させている、北伐と言い張コウ先生良い仕事してますぜ
確かに演技では関羽が荊州から樊城へ侵攻したときは劉備もこれに呼応して長安方面へ向けて進撃する予定だったのに、実際は関羽が一人ですったもんだやってただけで劉備ら成都・漢中方面の人間は侵攻どころか挙兵すらしてないと言っていい。
本当なら二方面作戦で関羽が樊城を攻めるなら、劉備は蜀から武都に進軍しなければならない。それなのに劉備が動いていないということは、完全に関羽の出兵は関羽の独断専行と言わざるを得ないんだよな。
荊州都督という立ち位置の関羽だが、実際は本国や劉備との連絡はほとんど無く、関羽の荊州は事実上の独立国であり、まさしく荊王という称号の通りだったと仮定してもいいかもしれない。だから関羽は呉との外交も完全に独断で判断して拒絶してたし、劉備からすれば関羽は実は強力かつ厄介な爆弾であったと見ても問題は無いだろうな。
蒼天航路では確か関羽の晩年の軍事行動は完全に独断で
少なくとも本国とのすり合わせをまったく行っていないという解釈をしていましたね
……たしか(最後の方よく覚えてないw)
関羽の率いる蜀の東部軍…つまり関羽東部軍…略して関東軍…といえば、理解できるかもな。
危ないネタに走るな!
いやー今回はいつにもましてわかりやすい!!スリーキングダムでやたら劉備が「逆賊を撃つ」とか言って他勢力を攻撃してるけどそれは「これは国への反乱じゃないですよ。むしろクラスの悪い奴を攻撃してるんですよ」って建前アピールだったのね
劉備が悪事を働くときに漢帝国復興を使っていたということがよくわかりました
横山三国志42巻の終わりの始まり感は異常
小学生の頃げんなりして見る気失せながら図書室で読んだよ
①と④かなと思います。
あと夷陵の戦いまでに時間がかかったのは戦争の準備もあるだろうし
普通に高齢の劉備がショックで寝込んでたのかも。
三国志を関東に例えるとかそれなんて一騎当千ですかwww
結構な数の人が同時期にパタパタと死んでるし疫病がかなり大規模に流行って、軍事を活発にできる状態ではなかったとか?
信心深い昔の時代だし疫病がそのまま関羽の呪いってことになった。って気はする。
実は樊城の洪水と同じ規模の洪水被害が漢中でも起きていて、魏も蜀も身動きが取れなくなっていたとか
③と④
そもそも荊州を関羽に任せる以前に義兄弟の契りは喪失している。
バンド解散の理由第一位の方向性の違いである。
それでも関羽のソロ活動は続いてるわけで、劉備の心は千々に乱れていた。
新メンバーの孔明もまた才能あふれる人材。バンドの未来も明るい。
互いにテッペンとるというドリームは変わらない。
さらば関羽。
それなら劉封は処刑されない
三国志関連で、詳しい考察動画は、意外に少ないので有難いです。
とても、興味深く拝見させていただき、新しい発見がありました。
早速、登録させていただきましたよ。
漢室と諸軍閥の関係性についての考察は、UP主様に完全に同意いたします。
この点を前提としないと、曹操、孫権、劉備……など、いずれが正当か?
などという焦点がズレた議論に陥りかねないのですよね。
当時は、天子の臣下である、いずれの群雄にも、彼らなりの大義名分があり、漢の天子の臣下という立場を取っている限り、皆、各々の解釈で多少、不穏当な行動をしても、辛うじて是認される風潮がありました。
しかし、勝手に皇帝や王を名乗った群雄は、朝敵として、他の群雄から、寄ってたかって徹底的に征伐されてしまいます。
劉備が関羽を見殺しにせざるを得なかった理由は、単純に関羽救援に割くリソースが不足していた為だと考えます。
劉備と関羽に、実は軋轢があったという説は、斬新で想像力を掻き立てられ、面白いのですが、関羽が守っていた江陵は、北は襄陽、南陽を経由して三輔を睨み、南は荊南を抑える、地政学上、極めて重要な要衝です。
劉表が長年かけて整備した、陸運、水運の集約する土地でもあり、劉備が実効支配する場所の中では、はっきり言って、漢中や西蜀など比較にならないほどの最重要拠点でした。
ここを奪われる事は、実質、劉備が天下を狙える1チャンを諦めるに等しく、仮に劉備と関羽の間に、個人的な問題があったとしても、放置出来るはずもなかったでしょう。
UP主様も、ご指摘の通り、漢中の攻防戦の後、劉備軍は、相当疲弊し、兵糧も足りず、法正、黄忠といった陣営を支える人材も相次いで失いました。
即滅亡の可能性がある防衛戦ならば否応もなく援軍は送られたはずですが、劉備陣営が攻勢である侵攻戦に援軍を出すほどには、余裕はなかったと思います。
また、劉備が関羽の弔い合戦と、荊州の拠点奪還を狙って、夷陵に出陣したのが時間が経ってからだったのも、同じ理由です。
なぜ、劉備は軍を引き連れて成都に戻ったのか?
という疑問は、単純明快です。
兵達を地元に帰して農作業をさせる為です。
当時、兵農分離は進んでいません。
先駆的な曹操軍でさえ、末端の兵達に専従兵は少なかったですし……劉備軍なら、推して知るべしです。
僻地のイメージがありますが、当時、成都や広漢の一帯は、漢でも屈指の大穀倉地帯だった為、漢中に出征した兵達を成都に戻し、農作業をさせる必要があったのです。
兵達を本業の農作業で頑張ってもらい、少しでも収量を増やし、より多くの兵糧を確保して、再び漢中から三輔を狙う。
これが劉備と諸葛亮の戦略でしょうね。
成都に戻った劉備の本音は、こっちの準備が整うまで、関羽さん何とか頑張ってくれ、と祈るような気持ちだったのではないでしょうか。
実際に、関羽軍は、益州の劉備本隊に匹敵するほどの強力な軍でしたし、その上に、曹操に反乱を起こした南陽の勢力と内外呼応した為、曹操が一時は遷都を考えるほどの、脅威を与えました。
関羽が勝手に軍を進めた説は、可能だが、あり得ない、と思います。
関羽は、節、を与えらており、関羽個人の裁量で、自由に軍を動かす権限がありました。
ただし、事前に何の打ち合わせもなく、勝手に軍を動かしていた、という説は、軍事戦略上、あり得ない事だと思います。
関羽は、劉備と諸葛亮から命令を受けていたか、少なくとも、事前に申し合わせをしていたでしょう。
孫権の盟約違反により背後を脅かされた事で、最後は敗れますが、関羽は終始優位に攻めていた(劉備や諸葛亮には、そう見えた)為、結果として、援軍は送られなかったと考えます。
仮に、関羽が南陽辺りまで制圧し、劉備が成都で再軍備を整えるまで保持出来ていれば、一転して、曹操は、両翼を半包囲される事態となり、劉備が天下を取る可能性が高まります。
これは、諸葛亮が劉備に提示した、戦略の核心です。
結論としては、劉備と関羽は、お互いに連携した上で、天下を取る戦略上、必要な方策を個別に行なっていた。
しかし、劉備と諸葛亮は、この賭けに負け、失敗し、最も重要な荊州の橋頭堡と関羽を失った。
因みに、関羽は当初、長江に沿って軍を配置し、孫権の裏切りにも万全に備えていましたが、陸遜が情報工作をして、その守備隊や兵糧も関羽は指揮下に呼び寄せてしまいます。
このように、陸遜は、既に、裏で謀略を仕掛け暗躍しておりました。
長文、乱筆、お許し下さい。
これからも、動画をたのしみに拝見させていただきます。
三国志とか昔から色々読んで慣れ親しんでいるかと思いきや、「世界観が違う」という視点は盲点ですね。思えばそこが異世界感もあって良かったのかも。
劉備が動かなかったのは単に情報が伝わってなかったなんて可能性は無いですかね。
蜀の桟道で伝令が転落死したせいで、劉備に情報が伝わらなかったなんてこともあったかも。
写真を見ると手すりみたいなのがあるけど、あれなんか三国時代からあったの?なんて思います。
「蜀の桟道で伝令が転落死」可能性が高い低いはともかく、ちょっと笑ったわ。当時、どこまで整備されていたのかは分からんけど、確かに急げば急ぐだけ、あそこは危険ではあるな。
あとは当時の交通事情では、情報が蜀に伝わるまでかなりタイムラグがあったのではと思う
連動するつもりだったとは思いますけどね
敗報が届いてから援軍を送る
その暇もなく関羽が打ち取られちゃった気がしますね
漢中での消耗とかわいい法正が死んだ事と復興目指してた後漢が滅んだ事と孔明に呉と争ってる場合じゃねえと諫められ揉めてたこと 全ての併せ技で時間がかかったと予想
関羽と劉備で目標のズレが生じていたと考えます。
劉備は漢中王を名乗った時点から献帝を擁立するのではなく
自分が漢の皇帝になる事を第一に考えていたと思います。
その場合曹家には帝位を簒奪してもらった方がやりやすいです。
一方で関羽は禅譲を阻止しする方向で動いている様に思います。
劉備はすぐにでも報復したかったが蜀のブレインが猛反対したんじゃないかと
それもあり得る。漢中を平定したばかりで損耗が激しい時に荊州奪還なんて大規模な戦争、できるはずもない。そして劉備もすでに軍団長的な思想で動けないくらい国ができてしまっていたので、放置せざるを得なかった、か。まあ夷陵の戦いの関羽の仇討ちは口実で実際は荊州奪還が主な目的だというのは間違いない。
自分は①か②だと思うなぁ・・・だって多少動かせたら主が言ってたようにそのときの諸葛亮や将軍たちが情報集めを怠ってたとは思えないしな、仮に孔明が預かり知らないとこで関羽が独断で動いたとしても万全を期するために将軍の誰かしらを荊州本拠地に送るはず。
それすらできなかったということは益州で何かしらの惨事があったんじゃないかなぁって思う。
孔明地震が荊州は失ってはならないと言ってたくらいだしな関羽が樊城を攻めてるなら誰が防備に参加してるのかと思うだろうしそもそも荊州が守られていたのは関羽のこれまでの武功や今までの戦果による恐れの効果もあっただろうし
南蛮で反乱仕掛けられてた…とか?
記録無しとは思うが、蜀だけの専売特許でもないし…。
後漢末は足利政権の枠で諸侯が戦っていた戦国日本って事では。
劉関張の三人は…破滅型の人間だったとか考えてしまうな。
私は曹操派♪(*´-`)
呉との関係を考えて孔明あたりが止めてたとして
樊城との共同作戦してないのがなー
ってか法正か孔明が荊州にいたらなー
そもそも移動手段も乏しい時代に成都に一度戻った劉備が援軍に行ったとしても間に合わないけどね。距離的にも時間的にもこの時代は確かに情報戦ではあるが、その情報自体結構前の情報になってしまい、本当にそうなのかを確認するにもまた時間がかかる為関羽が戦死した事も事実か確認するまで、かなり時代を必要とした事等がある。
更に軍勢を移動しながら行軍しに行くのもこの時代ではかなり難しい。途中休みながら行くレベルでね。その為の兵量が必要な為着くまでにはかなり大変な事等考えると攻める方より待つ方が楽。何故なら着くまでに準備ができるから。
劉備が①援軍を出さなかった、また②弔い合戦を一年待った理由について私はこのように考察します。
①関羽の快進撃からの敗走への展開があまりにも早く、到底対応しきれる時間的、戦略的余裕がなかった。また、仮に援軍を出しても最低限の戦果すら得られる公算がなかった。
②弔い合戦は勿論大切だっただろうが、そんなこと(関羽一人の弔い)より荊州の支配権の奪取を確実に行いたいという、戦略的理由
樊城戦最初は関中争奪戦争の支援作戦だったけど巧く行き過ぎて曹仁を仕留めようと深追いした為ロジスティックス線伸びきってしまい補給が難しくなったのを呂蒙が見逃さなっかた。島津得意の吊り野伏を大係りにして変化させたパターンかなと思っていたりします。
この動画はレベル高い。
前回の動画では、劉備の漢中からの援軍を前提とした戦略を立てていたとの解説でしたが、今回の解説及び劉備陣営の実情を考えれば、上記の戦略は関羽の独断、つまり劉備は関羽に援軍を出せるほどの余裕はなく、関羽の軍事行動も決して自ら支援しようとは思ってなかったと考えて間違いないと思います。
孫権の同盟もそもそもは劉備側から持ち出した話、なら漢中を獲得したばかりという状況で荊州を無理やり騒がせる関羽の行動は、戦略上はありでも、国という立場からは協力できないというのが国主・劉備の判断だったと思います。
妄想
軍備が対曹操(北方、陸兵)に偏っていて、すぐには対孫権(南方、水兵)に転換できなかったのでは?
益州では造船能力も限られているだろうし、寒い山ばっかの北と温暖な川ばっかの南では必要な装備、物資も大違い。
物資も兵力も、漢中からまず永安あたりにもっていく必要があるし、そもそも輸送手段そのものも移動させなければならない。(両方面に輸送手段を常備していれば話は別だが、孔明が北伐の兵糧でいつも困っているあたりからして、そんな余裕があるとは思えない。)漢中戦での消耗うんぬん以前に、最低でもこれらの課題をクリアする必要がある。
これらを考慮すると、荊州方面に使えそうな集団は最初から関羽軍しかいなかったのではないか?
北の曹操向けに水軍が必要とは考えにくく、わざわざ荊州装備の部隊を益州に置く必要性は薄い。
仮にいたとしても、曹仁と戦い始めれば、益州で遊ばせておくより、荊州に送るのが普通ではないか?
自分も現実的には1かね、損耗が大きく援軍で被害が拡大するのを恐れたとかね
劉備「わしが漢中王じゃぁ~」
曹仁「じゃぁわしが皇帝じゃぁ~」
漢帝国と曹操孫権劉備や群雄の争いは室町幕府末期と戦国期のイメージ(天皇家はいるし幕府も形はあるけど戦国群雄が実戦力もって戦ってる)イメージでみてました
漢滅亡は、三国誌関係の物だと、あっ、そうって感じですけど、今回のものを拝見して、一大事ですね。
劉備の漢中王即位を聞いた関羽が、調子に乗って独断専行したとか
うp主の考察、面白い!
無いとは言ってるけど、ありそう!
楽しく拝見させていただきました。
劉備の動きについては、「関羽と劉備(というか諸葛亮)との関係の悪化」というのを疑ってしまいます(論拠の無いまったくの妄想ですが)。
「スタンドプレイ大好きな古参の重鎮」と「規律で全体を統括する管理者」の間に、それなりの反目はあったんじゃないかな~、と。
「人気者を表立って処罰するのも具合が悪いので、大きな失敗でもしてもらおう」ぐらいで静観していた、としたらどうでしょう。
関羽亡き後の「仇討ち」は、70%ぐらいは本心で、30%ぐらいは良い口実…とかとか。
孫権の地位を認めることに関連して、
「日本国王」の地位というのは、中華帝国からしたら日本を蛮族呼ばわりに変わりはないけど、
相互不可侵関係の保証にはなるということですかね。
日本で言えば、室町時代後期かな
個人的にりゅうびとコウメイ仲違い説
イリョウの戦いも馬良とかがいながらの惨敗なのも凄まじく違和感覚える
普通リュウビが陣率いるならコウメイが付くじゃろ・・・
益州侵攻開始時もそうだったんですが本拠地の留守を守るのが孔明の仕事になってます
一戦で壊滅したから援軍も呼べなかっただろうし
日本の戦国時代みたいなものか。大名は皆、将軍の臣下なわけだし
燓城から夷陵まで約1年半・・・服喪期間ですかね?
漢代だと親の死に際して3年(足かけ)服喪してたようです。
蒼天航路でも趙雲が母の死後に結構長い期間服喪してた様な事が描かれています。
この時代は父母の死に際して子女(直系尊属)は3年服喪するそうです。
劉備と関羽の関係は義兄弟なので3年て事は無いと思いますが、
義理とは言え兄弟ですし、
劉備軍閥にとっては旗本中の旗本、
蜀漢建国となれば元勲中の元勲、
初代皇帝が国父であると喩えるならば、
両脇を固める関張は亜父と言っても良いくらいの人物。
直系の父母ほどでは無いにしてもある程度の期間の服喪があるかなぁ・・・・と。
曹操、三月十五日なんだ。
カエサルと同じだ。陰暦かな?
ナポレオンなら痔でアナルが痛かったからで説明がつけられて終わる話だな。
2に一票 ボケ始めると人の意見を聞かず、自分が言ったことも忘れて怒り出すようになったりします。
私の親父もそれに近く、取引先の社長にも一人居ます。
そう考えると劉備自体の劣化によってツンデレっぽくなったり、慢心や油断に至ったのでは?と思います。
すなわち2によって3も4も起きたと言うことです。
その後の敗北も劉備自体が劣化していれば考えやすい物です。
曹操が漢中から退いたのは219年の5月ですから、そんなにおかしくもないんじゃないでしょうか。劉備の侵攻開始は217年なので、実はかなりの長期戦ですし、益州を支配し始めて間もないタイミングですから、そうそう大きな軍事行動を連発できなかったのはむしろ自然かな、と。そもそも、別に曹操軍主力を壊滅させたわけでもないので。
小説や漫画などではこの戦いが終わってから関羽が動き出したように思われがちですが、樊城の戦いの契機の一つである侯音の反乱は218年に始まってますし、そもそも荊州方面と同時進行していた事態だったのだと思われます。ただ、おっしゃるように、劉備もそこまでボロ負けするとは思ってなかったというのは大いにあると思います。
関羽が北上を開始した時期については、関羽の伝に「劉備が漢中王になって関羽が前将軍にと仮節鉞を与えられ、樊城の曹仁を攻撃した」とあるので、時系列的に見て樊城が漢中の後であると考えていいます。
但し当然その前から関羽も準備はしていたでしょうし、当然劉備とも連携しての挙兵であるはずなのに、劉備が漢中から引き返したのが悪手というのは動画内でご説明した通りですね。
ココだけは本当にわかりませんが、まあやはり慢心やミスの類だというのが自分の考えです。
水害については正史の武帝紀(曹操の伝)に「遣于禁助曹仁擊關羽。八月漢水溢、灌禁軍、軍沒、羽獲禁遂圍仁。」つまり219年の8月と明記されています。
水害以外の天災については記載がないようですが、この頃は世界的な寒冷期で、慢性的な食糧不足だったという指摘は結構あります(そもそも漢が滅んだのもこのせいという説もあり)。
ただ、この頃に限らず、兵糧が余るなんてことは通常ありません。特に侵攻側については、仮に兵糧が十分にあっても輸送ができない(運ぶのが大変)事が多いので。
そういうのを計算に入れたうえで勝てる計画を立てるのが指揮官の仕事で、関羽クラスの方面軍指揮官になれば、自軍だけでなく本国の劉備軍の状況も把握して作戦を立てる必要があります。
勝てる見込みを立ててから戦争始めるのが指揮官の責任なので、そういうところも含めて、樊城の敗因は関羽にあるというのが私の意見です。
正史にはあまり詳細な記述はないようですが、解説書等を読むと、関羽指揮下の荊州内であればその動員と指揮に関する権限を委任されていたようです。そして関羽が魏軍配下の樊城を攻撃したのはこの権限内に含まれるとの認識が一般的です。
ただ動画内でもご説明しているとおり、権限を持っていることと軍事的な整合性は全く別です。
こういうのを見ると、実際にはどうだったのかをタイムスリップして見てみたくはなるな。もちろん、自分が死なない程度の準備ができるかだけど。まず、後漢時代の言葉を話せない、言葉が理解できない時点で、役人に捕まって「THE END」になってしまいそうな気がする・・・。
つまり孫権が森田健作で曹操が小池百合子ってことか・・・
ボナパルトした(お尻が痛い)かも
旧日本軍「俺達内閣の下についたのではなく天皇の下についただけだから、内閣の言うことなんてきーーーかない♥」
なお天皇の言うこともきいてなかった模様
昭和4年(1929)昭和天皇28歳
「将来陸軍軍人はかかる過ちを再びなさざるように」…張作霖爆殺のような事件の再発防止を訴えて。
昭和7年(1932)31歳
・「しかるに軍の出先は、自分の命令もきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。」
・「陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒なことになったのだ」(4月頃、国連脱退に関して)
昭和8年(1933)32歳
・「予の条件を承(うけたまわ)りおきながら、勝手にこれを無視たる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも、穏当ならず」
昭和13年(1938)37歳
・「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条湖の場合といい、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじきような卑劣な方法を用いる様なこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う」
@@ええああ-t2u 戦前も戦後も古代の一時期を除いて天皇は実質ずっと象徴だから
あくまで状況的に見れば、ですが。①が可能性高いと思ってます。漢中もですが、それ以前の益州侵攻が思ったより長引いたので軍事的なダメージは少なくなかったのだと。また経済的にも益州本軍が動かせなかった(動員も出来なかった)とかでは無いでしょうか。でも、曹操の足元がゆらいでいるのは事実で攻め時には見える・・・よっしゃ関羽行って来い、とかw
2.26事件 5.15事件かな?
つ、ツンデレ通りこして…。
世襲と実力…どちらが正当か?大人であれば明白ですね。中原平定に他人(曹操)の力を借りた時点で終わっています。曹操は命懸けで戦っていた間、帝は許都で平穏に暮らしていた訳で。
関東軍じゃん
流石に仲違いなら自分が拠点に下がった時点で信頼厚い趙雲あたりを送るなりで対応してるだろうし諸葛あたりが、大勢を見れば戦略上の要になる場所を失う事を流石に良しとはしないだろうし
損耗は大きそうだけど、何となくイメージで敗走側はほぼ丸損だけど勝利側は敗残、負傷、捕虜なんかで幾ばくかの戦力を特に中世時代は一般兵の精鋭だろうと旗本ほどでなければ忠誠心なんて知れてて助命の希望があれば将ですら降って損失埋めてる気がするし
自分は実際は救助要請の伝達が寸断されて「書簡を受け渡しの経緯の何処かで差し替えられ、時に勝利が災いして勝利戦評報告に差し替えられるなど何処かの段階で行われ」守備側は敵援軍が到着するよりも早く自軍の援軍が到着様に手筈を成してたから敢えて空城離脱などせずに耐えたのだと思う、、、呉に更にその情報操作を通じてる背後が行なっていたなら、碌に抵抗をせずに(そもそも援軍を止めているから関羽軍を止めて挟撃する事だけに注力すれば良い状況が出来上がる等)開城した事にも頷けると考察してしまいます
誤算は本来于吉の精鋭で逃げ場を無くすはずが捕虜になるって最悪の展開があった事で本来の包囲と違う形になった事と予想外に関羽が捕虜の扱いが良かった事かもしれない
「辻褄合わせな考察ですが損耗の補充に吸収するつもりでいた事で最終的に足かせになった、、、ここは偶然の産物な気がします」
漢中王ってかっこよくねは草
「漢中王」は楚漢戦争の経緯から「かっこいい」って考えは間違ってない
千葉県や埼玉県が日本国から独立・・・・
運転マナーの悪い地域、具体的には大阪、名古屋、松本、広島が日本から独立して、独自の道路交通法を制定している、というネタはあるよなぁ・・・・
劉備が病あるとか?
だから後で死ぬ?
よく考えたら、千葉県と栃木県って、接してないよね。ということは、千葉県軍は茨城県を通過せざるを得ない。
我が埼玉県は多分、茨城・栃木と連携して千葉の侵略を妨害するよね。出来たら東京とも密約しておきたい。神奈川とも組んで、この際千葉を孤立させるのもいいかも。
…みたいなことを、突然考えてしまった。
関羽は独立を考えてたと思う。
そもそも関羽は独立した伝として立てられている。
つまり、当時の人から見ても、関羽は独立勢力として見なされていた可能性が高い。
劉備がと言うより、孔明が関羽が嫌いと言うか、邪魔だったんやないの?
で、殺したのも孔明の裏工作で、それを隠す為に、援軍出さなかったと、もう1人の邪魔な劉封をも抹殺したんだよ。
漢中は曹操が住民すら連れ去ったのですから、確保した後で兵糧の確保にも困ったはず。諸葛亮の南部平定だって、夷陵の戦いから3年も経っていますし、北伐はさらに3年後。蜀は物資の乏しい土地なのです。関羽は于禁ら数万人が投降したことで、呉から兵糧を奪うほどの食糧不足でしたから、荊州の兵糧も当てにできません。劉備が軍を出そうにも、どこにも兵糧がなかっただけだと思うのですが。そもそも大軍をすぐ動かせるほど、蜀の土地は劉備に心服していたのでしょうか。夷陵で劉備が動かした兵力は4万とも言われますが、人口は最大で100万ですから、4%は限界に近い動員だと思います。最大限努力して、急いで、夷陵の時期だったのでしょうし、漢帝国滅亡も真偽を確かめる必要があるので、軽々しく動けない理由としては十分でしょう。
日本の歴史は中国と比べて千年以上遅れているな
中国の歴史はリセットするから明治の頃には追い越した
蒼天航路の劉備はしゃべりすぎ
正史と全然違う
それに強い曹操を主人公にしてるから
話が糞つまらない
義兄弟を汚さないで。
1〜4のそのどれでもありません。
曹操は関羽を欲しがっていた。
曹操は、手に入らないのならばいっそ…と思う人物でもあった。
魏と呉がタッグで挟み撃ちしたら、いくら関羽でも…
そんな中で、魏と呉の戦略の中では悔しいながらも…1年以上仇にかかったのは、蜀の国力が想像以上に疲弊しかけていたからできなかったからが正解なのでは??
疲弊しかけていたのなら、①漢中争奪戦による消耗、になるでしょう
①と④かなと思います。
あと夷陵の戦いまでに時間がかかったのは戦争の準備もあるだろうし
普通に高齢の劉備がショックで寝込んでたのかも。