【植山古墳 ②】近鉄・近畿文化会 臨地講座 人気講師と行く飛鳥2

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  • Опубликовано: 7 сен 2024
  • 「近鉄・近畿文化会 臨地講座 人気講師と行く飛鳥」シーズン2の9回目は、植山古墳の第2弾をお届けします。植山古墳の墳丘の近くから、周囲に立てられた塀の柱列についてや、さすがと思わせるその立地を、超人気講師・来村多加史先生にじっくりとご解説いただきます。
    このシリーズは、近鉄の文化事業・近畿文化会からの講師派遣と企画協力により制作しております。
    近畿文化会は、文化冊子『近畿文化』を毎月発行し、専門の先生のご案内で社寺や史跡などを訪ねる現地見学会(臨地講座)を月に2回開催することを軸に活動しています。詳しい情報は下記のリンクからご覧ください。
    近畿文化会ホームページ
    www.kintetsu-g...
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Комментарии • 14

  • @user-qu3wo1hx4i
    @user-qu3wo1hx4i 7 месяцев назад +4

    梅の皇女 様 
    こんにちは。
    やっぱり古墳シリーズがいいですね〜
     
    今、歴代の天皇家の本を読み漁っていまして、悲劇的の皇子達の多さに驚いています。
    以前の動画を拝見していますと、益々面白くなります。
    飛鳥の土地勘もだいぶ増えました。
    次回も楽しみにしています。
    まだ、春遠しですね

    • @umemaeSakiko
      @umemaeSakiko  7 месяцев назад +2

      いつもご視聴ありがとうございます。飛鳥に詳しくなっていただいて、本当に嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします♪

  • @prince_ITOIGAWA
    @prince_ITOIGAWA 7 месяцев назад +2

    今回のお話で興味深かったのは立地、丘のてっぺんではなく斜面を削って区画しているというところ。
    素人考えですが、お話にあった高松塚やキトラにくわえ、牽牛子塚や野口王墓なども、墳丘規模に比べて“見栄え”がやたらと良い印象があります。(植山古墳だけ半世紀ほど離れてますが)
    古い時代より、古墳は外部に見せるものとして活用されていたのだと思いますので(たとえば河内湾に入港した船から超巨大古墳を見てハハーッ畏まるように)、終末期古墳でも「下から見上げたときの存在感」を意識してデザインしたのかなあと思いました。
    そうすると、背後の囲いも舞台装置の一部になったのかもしれませんね。柵を立てて飾り付けるだけでもなかなかのものになりそうです。あっさり撃沈した135度も、地形的に八角形は見えてきませんけど、意識的に135度にしたのでしょう。

    • @umemaeSakiko
      @umemaeSakiko  7 месяцев назад

      貴重なコメントありがとうございます。斜面を削って古墳を造るのは終末期古墳の特徴ですが、この古墳はその先駆けとなったようです。ただ、せっかく造った古墳を囲ってしまっては意味がないので、全体を囲ったとは考えにくい。そうなると、おっしゃる通り、舞台装置として機能したのかもしれません。のっぺりしていてはカッコ悪いので、ちょっと角度をつけたのかもしれませんね。

  • @kamekame_asuka
    @kamekame_asuka 7 месяцев назад +1

    地形のお話は興味深かったです。でも、ほんと見晴らしがいいですね。先日、丸山古墳に行ったとき、こちらにも来ようかと思ったのですが、この動画を見てからにしようと思ってたので、次回行くのが楽しみになりました😊

    • @umemaeSakiko
      @umemaeSakiko  7 месяцев назад +1

      ご視聴ありがとうございます。植山古墳は本当に見晴らしがいい古墳ですよね。我が子である竹田皇子の墓をそこに造ろうと思った推古天皇の思いがしのばれます。
      植山古墳、楽しまれてくださいね♪

  • @TARTARIAJAPAN
    @TARTARIAJAPAN 7 месяцев назад +1

    巨大な八角系の考察興味あります、古代の星型要塞をベースにしている可能性があります

    • @umemaeSakiko
      @umemaeSakiko  7 месяцев назад +2

      コメントありがとうございます。八角形というと、その後の天皇陵が八角形なので、その先駆けかと想像しました。さまざまな考えが出せるのが古代史の醍醐味ですよね♪

    • @perecame1
      @perecame1 7 месяцев назад +2

      中世西欧でも、八角型は特別な意味合いがあったようで、カール大帝の廟堂や南伊のデルモンテ城も八角型です🤔

  • @perecame1
    @perecame1 7 месяцев назад +2

    当時の一般庶民のお墓は、どんな具合だったのでしようか?

    • @umemaeSakiko
      @umemaeSakiko  7 месяцев назад +1

      おっしゃる通り、当時の庶民はどこに葬られていたのか、さらに、どこでどんな暮らしをしていたのか。詳細にはわかっていませんが、ある程度の権力者(邑長など)は、小規模ながら墳墓に葬られていた可能性がありますね。

  • @user-fo7bn8xj6r
    @user-fo7bn8xj6r 7 месяцев назад +2

    八角墳は天智・天武両天皇の嫡流をアピールする意思を持った墳丘という説に賛成しますので、時系列的に難しいかと思いますが、その一方で竹田皇子は敏達天皇(息長系)と推古天皇(蘇我系)の間に生まれた皇子という極めて微妙な立ち位置におられた方なので、もしかしたら・・・という可能性は排除しがたいものを感じます。

    • @umemaeSakiko
      @umemaeSakiko  7 месяцев назад

      おっしゃる通り、八角墳とは時系列的に離れているので直接結びつかないかと思いますが、それまでの前方後円墳と八角墳を結ぶ萌芽が、この時期に何らかあったのでは、とも考えられます。ご指摘のように、竹田皇子の血統を考えると、何か新たな墓制を創造しようとした可能性も捨てきれません。竹田皇子が早逝しなかったら、その後の流れは大きく変わっていたと思います。
      コメントを拝見し、いろいろなことを考えさせていただきました。ありがとうございます。

    • @user-fo7bn8xj6r
      @user-fo7bn8xj6r 7 месяцев назад

      @@umemaeSakiko
      竹田皇子が長生きしたら・・・もはや私の想像が及ばない世界です。
      古代はただでさえ血縁を主とした人間関係が微妙ですけど、この時代は殊更微妙だと思っています。
      そうなれば聖徳太子との関係も微妙かと思います。
      用明天皇と推古天皇はともに堅塩媛を母とする近しい間柄でも、穴穂部皇女と推古天皇はそれぞれ小姉君系と堅塩媛系という同じ蘇我でも微妙な距離感なことに加えて、太子もまた小姉君系と堅塩媛系いう両方の血統を受けたこれまた微妙な立ち位置。
      ところが、複雑に入り組む血縁を主とした人間関係の中でこの30年ほどの推古天皇の在位期間に日本の古代社会はこれといった内紛もなく飛躍的進化を遂げるのは日本史上で例が無いと思っていて、そこにはやはり俗人の領域に収まらない超越的な存在があったのだと思っています。
      私は聖徳太子実在説の積極的支持者です。