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交野市には物部氏と饒速日の伝承がたくさんあります。天の川流域にある天孫降臨の哮ノ峰、磐船神社、七夕伝承の機物神社・天田の宮・妙見神社など。妙見東住宅地には妙見山古墳という物部氏の首長を祀る4世紀中ごろに造られた円墳のレプリカがあります。饒速日のことを調べていて、このチャンネルに行き当たりましたが、丁寧に詳しく調べられていて、とても感動しました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。交野市は一度訪れたいと思ってます。妙見様との関わりが分かり興味深いところでね。
地元で暮らされているのは、古代を感じて来ますね⁉️日本の成り立ちのイザナギ、イザナミが作ったとされる日本列島ですが歴史が動いた所で 暮らされて古代遺物の神社に近いと神々降臨された所わくわくしますね。
ありがとうございました。参考にさせて頂きます。
コメントありがとうございます。参考になるようこれからも勉強を続けます。
こうした考察も貴重であると思います、そのうえで益々我が国の象徴であり権威である皇室と国民とが互いに御宝とする敬意の念が深まれば良いと願うのです。
コメありがとうございます。新しい國體の検討がタブーにならないことを祈ります。
素晴らしい動画です。ありがとうございました。
村雲はホアカリ(ニギハヤヒ)と出雲王家の娘との間に出来た五十猛の息子の名前ですね。
ニギハヤヒは十種神宝の天孫降臨されたミコト、ニニギの兄ですね、物部氏の祖になって行くんですね⁉️古事記では奈良を渡さない戦いありますが、戦いなどしてません、ナガツネ彦は自害し神武に渡しました。地元の人々は慕ってましたから名を隠し神社作りました
[ニギハヤヒ・饒速日]・・・徐福3度目来日の名・・・・そして物部氏の祖・・・この説、気に入ってます。
コメントありがとうございます。徐福についてはよく分からず、物部氏の祖であることはかなり確からしいですね。
ニギハヤヒは長髄彦の祀ってた神で天照大神じゃないのかなぁ。天火明って太陽だよね。十種の神宝とか三種の神器の元とか。ニギハヤヒが神なら持ってたのは長髄彦だよね。三種の神器が天皇に祟るのは戦利品とかだから。天叢雲の剣も八俣の大蛇のだったし。
コメントありがとうございます。おっしゃるとおりニギハヤヒはすべて神様とされていますね。本当の天照大神だといえるかも。
@@kumao01nigi 同じ太陽神だから合体させたかもしれん。天照大神と大日如来を神仏習合したみたいに。祖神でありながら、敵対した相手の神様。
ニギハヤヒ、天村雲命と繋がっているのですね。我が家のルーツ調べていて不思議な事柄、この動画を拝見して納得でます。苗字には地名が関係していることが多いとか。三輪山の近く崇神天皇陵の近くに地名を見つけたので行ってみました。系図では外宮と関係があるらしいけど、それには天村雲命が祖先神との記載。八岐大蛇から出た剣の神様?。だけど、出雲は遠いし、伊勢も遠いところ。どうして出雲、三輪、伊勢が繋がるのだろう・?これらの謎が解けた感じ。
ニギハヤヒ、大物主、ホアカリなどの関係をきちんと整理・理解するなら、ホツマツタエを学ぶべきです。
ホツマとの内容が違いますね。時代を考慮すると、ホツマの方が有りそうですが、、ホツマを本当とする根拠もない、、聖徳太子は、なぜ、焼いてしまったのでしょう。。仏教を根幹にするのに、なにが不都合だったのでしょうか。。
関祐ニ 封印された謎を解く が情報源でしょうか。 引用元は明記してビジネスしたがいい。
コメントありがとうございます。関裕二さんの参考文献は『古代日本神話の考古学』ですね。説明欄に参考書籍が載せてあります。とはいえ、関裕二さんはたくさん書籍を出されており、正確に参考図書としているのとは違ったりしますことはご容赦願います。
私が学校から来る教科書ではなく、町の書店から購入した、もう社会人になってましたが日本史として時系列が写真など載っているもので、飛鳥から平安期に藤原氏について述べてて月の欠けない満月と解説しているものあって天皇家の皇統維持出来る様に、娘を天皇に嫁がせて、蘇我氏がして来た事と同様な外戚からコントロールする影👤の支配者とありました。確実に、藤原氏の意図が古事記、また神社のご祭神隠しから大和朝廷を使って、伝承されて来た古史古伝を封印する意図は伝わりますよね⁉️先生方の研究から、様々な角度解釈から史実が浮かび上がります。だから私はとっても有難く思っています。小市民の一人として、ありがとうございます。
まあ、今の日本があるのも、藤原氏の存在なくしてありえないということは認めざるを得ないですね。
桜井茶臼山古墳の被葬者は第8代孝元天皇の皇子の大毘古命です。 大毘古命は紀元133年に生まれ206年に74歳で崩御されました。 大毘古命は第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として息子の建沼川命とともに東国に派遣されました。 二人が会津で再会したことが会津の語源です。
何故、同一人物にいくつも名前があるのでしょうか?
良く研究しています。神武天皇以前鵜葺草葺不合朝は1代ではなく、70数代続いています。いくらなんでも同時代に2人同時に存在は無理。
コメありがとうございます。神武以前に70数代いたのですか!!面白いです。
ムー大陸から飛騨地方に逃れたのが本当の天孫降臨で、その地に飛騨王朝(白山王朝←約3万年前)を、その後富士山麓に富士王朝(これが後の日髙見国)を、その頃、九州では宗像族や豊族、球磨族、大陸から徐福(饒速日?)、宇佐族(秦氏)が、そして磐余彦の一族の日向族が伊平屋島などからやってきて、九州物部・豊国連合(鵜芽葺不合王朝)が大和(前大和王権=出雲系長髄彦王権)へ東遷。が、一回目は磐余彦兄の五瀬が討たれ、随行した饒速日は長髄彦に感化され、恭順。二回目は同じく兄の宇摩志麻遅がやってきたが、長髄彦(建御名方)は既に東国(常陸国)に行っていた兄の建甕槌を頼って脱出、日髙見王国=日ノ本王朝を開いた。←このことは旧唐書に倭国は二つなりと書かれています。その後、磐余彦が大和に入り、饒速日は十種神宝を示して恭順、後大和朝が創基されますが、上手くいかず、磐余彦の娘・豊玉姫=卑弥呼(日御子)が女王として実質的にトップに。その後もその子の豊姫がやって来て、国を安定させた←このことも魏志倭人伝に書かれていますし、最近見つかった富雄丸山古墳から、魏が卑弥呼に送った銅鏡など、女性らしい大王の遺品が多数見つかっています。天照は卑弥呼、豊受大神は豊姫(伊勢外宮)です。女性がトップになると纏まるものです。ただ、饒速日の解釈は難しく、出雲国風土記によると、九州に来る前に出雲に火明と名乗ってきて、大国主の娘の高照姫との間に五十猛をもうけ、その子が叢雲として海部氏、そして磯城氏となり、大和に出雲王家を根付かせたとも書かれています。
何で神武さんはサルタ彦の言う事をころっと信じたのでしょうね(^ ^)
コメントありがとうございます。猿田彦自体が謎ですね。
猿田彦も神武天皇とそれはカラクリと出版れている上森三郎氏方がおっしゃっていました。
イワレって、ヘブライっていう意味だし、フヒトもヘブライ語で重要な意味があるらしい。つまり、ヘブライヒコが神武天皇になるよう、フヒトが改ざんしたのかなぁ。イワレビコは、和歌山の女首長を殺してバラバラにする性格だったのに、神武天皇はそのバラバラ遺体を探して頭、胴、脚の3つの神社を建立している。多分、ニギハヤヒが成り代わったのかな。同族だし、似通っていても不思議じゃないし。金鵄については、あれ、鏡の盾の反射光だよね。盾形銅鏡って、ごまかそうとしてるみたいだけど、ペルセウスの鏡の盾だね。真相を知るナガスネヒコは、アビヒコと名前を変えて、諏訪の方で出雲族の支援に向かわせたのかな。まぁ、妄想は尽きることがないけど、
なるほど、貴重な意見ありがとうございます。ヘブライが絡む話、大変興味深いです。
当時の実権握りたかった藤原不比等のもくろみも、時間が過ぎて研究者や先生らの疑問や熱意が不比等のもくろみが、暴かれました。日本を正しく知らない、特に先の大戦でアメリカに敗戦し左翼教育が始まりました。全然私も教科書で教わった事がない学校の先生たちからの授業も熱意がなかったし、古代史に触れる事なく終わった。正しい歴史を知りたいです。先生方の研究にかかっています。消された部分は必ず修復します。よろしくお願いいたします
コメントありがとうございます。真実かどうか、わからないことだらけだけど、沼の深みにはまって抜け出せないのも歴史学の面白いところです。
時間が解決します。嘘の上にまた嘘の化粧は、暴かれます。その真相に着くには全てが無理でも時間が解決してくれます。
原田常次氏 「古代日本正史」 ですね? 「東征」などという勇ましさより「御東遷」 婿入り の方が、よほど真実らしいです。 武力を伴う厳しい交渉もあったでしょうが、、 大和らしく 統べて行ったと思いたい。。
コメありがとうございます。原田常治氏の「古代日本正史」は参考になります。
スサノオの荒ぶり。天井から、馬の革を落とすなんて、馬を扱う事が出来たと云う事です。自分の中では、四国地方、吉備地方が、抜けています。何かあれば、ご紹介を~😅
コメントありがとうございます。四国特に阿波、吉備は今後広げていきたいテーマです。
ニギハヤヒは別名が大物主で、大物主はヤマトトトヒモモソヒメと夫婦であり、崇神天皇の時代てすから大体300年頃の人だと思われます。ニギハヤヒはその頃船に乗って畿内にやって来たようです。九州の邪馬台国の卑弥呼がなくなったのは250年頃で、その後邪馬台国は九州からいなくなりますからおそらく邪馬台国が九州から畿内に東遷したのがニギハヤヒではないでしょうか。つまりニギハヤヒとは邪馬台国の事ではないでしょうか。崇神天皇の前の開化天皇あたりが大物主ニギハヤヒではないでしょうか。
コメントありがとうございます。貴重な論説、参考にさせていただきます。
ニギハヤヒは紀元前に天竺から来ています。
大物主は蛇神だと言われているんですよ。ニギハヤヒが蛇神のはずがない。
パラレルワールドのようでとても面白い説だと思います。九州の邪馬台国が勢いが盛んな終盤の時期に大和へ東征したのが、神武さんではなく、それよりも前に大和を治めたとされているけど実は邪馬台国の饒速日さんだと予想される理由は何かあるのでしょうか?東征後の九州の邪馬台国はどうなったと思われますか?
大物主ニギハヤヒとはアジスキタカヒコネの事であり母は出雲系であるので蛇神ではないでしょうか。東征後の九州の邪馬台国ですが、南九州熊本の狗奴国の王の景行とその子の成務即ちヤマトタケルの武内宿禰が北九州の邪馬台国の残存勢力を討伐し九州を統一したのが熊襲征伐で、武内宿禰はその後三韓征伐してから畿内のヤマト朝廷のニギハヤヒの勢力を従えたのが応神東征で400年頃であり、応神天皇である武内宿禰が真の神武天皇ではないでしょうか。
ニギハヤヒは徐福ですよ。出雲の口伝をよんでください。ホアカリも徐福です
徐福ですか。。。徐福伝説、ユダヤ失われた十氏族の方が面白いかな。
徐福というのは大変興味のある説ですので、もっと勉強しないといけませんね。
徐福がニギハヤヒだって?そんなわけあるわけないよ。徐福が日本に渡ってきたのはBC210年代ですから、紀元後ではない。
交野市には物部氏と饒速日の伝承がたくさんあります。
天の川流域にある天孫降臨の哮ノ峰、磐船神社、七夕伝承の機物神社・天田の宮・妙見神社など。
妙見東住宅地には妙見山古墳という物部氏の首長を祀る4世紀中ごろに造られた円墳のレプリカがあります。饒速日のことを調べていて、このチャンネルに行き当たりましたが、丁寧に詳しく調べられていて、とても感動しました。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。交野市は一度訪れたいと思ってます。妙見様との関わりが分かり興味深いところでね。
地元で暮らされているのは、古代を感じて来ますね⁉️日本の成り立ちのイザナギ、イザナミが作ったとされる日本列島ですが歴史が動いた所で 暮らされて古代遺物の神社に近いと神々降臨された所わくわくしますね。
ありがとうございました。
参考にさせて頂きます。
コメントありがとうございます。参考になるようこれからも勉強を続けます。
こうした考察も貴重であると思います、そのうえで益々我が国の象徴であり権威である皇室と
国民とが互いに御宝とする敬意の念が深まれば良いと願うのです。
コメありがとうございます。新しい國體の検討がタブーにならないことを祈ります。
素晴らしい動画です。ありがとうございました。
村雲はホアカリ(ニギハヤヒ)と出雲王家の娘との間に出来た五十猛の息子の名前ですね。
ニギハヤヒは十種神宝の天孫降臨されたミコト、ニニギの兄ですね、物部氏の祖になって行くんですね⁉️
古事記では奈良を渡さない戦いありますが、戦いなどしてません、ナガツネ彦は自害し神武に渡しました。地元の人々は慕ってましたから名を隠し神社作りました
[ニギハヤヒ・饒速日]・・・徐福3度目来日の名・・・・そして物部氏の祖・・・この説、気に入ってます。
コメントありがとうございます。徐福についてはよく分からず、物部氏の祖であることはかなり確からしいですね。
ニギハヤヒは長髄彦の祀ってた神で天照大神じゃないのかなぁ。天火明って太陽だよね。十種の神宝とか三種の神器の元とか。ニギハヤヒが神なら持ってたのは長髄彦だよね。三種の神器が天皇に祟るのは戦利品とかだから。天叢雲の剣も八俣の大蛇のだったし。
コメントありがとうございます。おっしゃるとおりニギハヤヒはすべて神様とされていますね。本当の天照大神だといえるかも。
@@kumao01nigi 同じ太陽神だから合体させたかもしれん。天照大神と大日如来を神仏習合したみたいに。
祖神でありながら、敵対した相手の神様。
ニギハヤヒ、天村雲命と繋がっているのですね。
我が家のルーツ調べていて不思議な事柄、この動画を拝見して納得でます。
苗字には地名が関係していることが多いとか。
三輪山の近く崇神天皇陵の近くに地名を見つけたので行ってみました。
系図では外宮と関係があるらしいけど、それには天村雲命が祖先神との記載。
八岐大蛇から出た剣の神様?。だけど、出雲は遠いし、伊勢も遠いところ。
どうして出雲、三輪、伊勢が繋がるのだろう・?これらの謎が解けた感じ。
ニギハヤヒ、大物主、ホアカリなどの関係をきちんと整理・理解するなら、ホツマツタエを学ぶべきです。
ホツマとの内容が違いますね。
時代を考慮すると、ホツマの方が有りそうですが、、ホツマを本当とする根拠もない、、
聖徳太子は、なぜ、焼いてしまったのでしょう。。
仏教を根幹にするのに、なにが不都合だったのでしょうか。。
関祐ニ 封印された謎を解く が情報源でしょうか。 引用元は明記して
ビジネスしたがいい。
コメントありがとうございます。関裕二さんの参考文献は『古代日本神話の考古学』ですね。
説明欄に参考書籍が載せてあります。とはいえ、関裕二さんはたくさん書籍を出されており、正確に参考図書としているのとは違ったりしますことはご容赦願います。
私が学校から来る教科書ではなく、町の書店から購入した、もう社会人になってましたが日本史として時系列が写真など載っているもので、飛鳥から平安期に藤原氏について述べてて月の欠けない満月と解説しているものあって天皇家の皇統維持出来る様に、娘を天皇に嫁がせて、蘇我氏がして来た事と同様な外戚からコントロールする影👤の支配者とありました。
確実に、藤原氏の意図が古事記、また神社のご祭神隠しから大和朝廷を使って、伝承されて来た古史古伝を封印する意図は伝わりますよね⁉️
先生方の研究から、様々な角度解釈から史実が浮かび上がります。だから私はとっても有難く思っています。小市民の一人として、ありがとうございます。
まあ、今の日本があるのも、藤原氏の存在なくしてありえないということは認めざるを得ないですね。
桜井茶臼山古墳の被葬者は第8代孝元天皇の皇子の大毘古命です。
大毘古命は紀元133年に生まれ206年に74歳で崩御されました。
大毘古命は第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として息子の建沼川命とともに東国に派遣されました。 二人が会津で再会したことが会津の語源です。
何故、同一人物にいくつも名前があるのでしょうか?
良く研究しています。神武天皇以前鵜葺草葺不合朝は1代ではなく、70数代続いています。いくらなんでも同時代に2人同時に存在は無理。
コメありがとうございます。神武以前に70数代いたのですか!!面白いです。
ムー大陸から飛騨地方に逃れたのが本当の天孫降臨で、その地に飛騨王朝(白山王朝←約3万年前)を、その後富士山麓に富士王朝(これが後の日髙見国)を、その頃、九州では宗像族や豊族、球磨族、大陸から徐福(饒速日?)、宇佐族(秦氏)が、そして磐余彦の一族の日向族が伊平屋島などからやってきて、九州物部・豊国連合(鵜芽葺不合王朝)が大和(前大和王権=出雲系長髄彦王権)へ東遷。が、一回目は磐余彦兄の五瀬が討たれ、随行した饒速日は長髄彦に感化され、恭順。二回目は同じく兄の宇摩志麻遅がやってきたが、長髄彦(建御名方)は既に東国(常陸国)に行っていた兄の建甕槌を頼って脱出、日髙見王国=日ノ本王朝を開いた。←このことは旧唐書に倭国は二つなりと書かれています。その後、磐余彦が大和に入り、饒速日は十種神宝を示して恭順、後大和朝が創基されますが、上手くいかず、磐余彦の娘・豊玉姫=卑弥呼(日御子)が女王として実質的にトップに。その後もその子の豊姫がやって来て、国を安定させた←このことも魏志倭人伝に書かれていますし、最近見つかった富雄丸山古墳から、魏が卑弥呼に送った銅鏡など、女性らしい大王の遺品が多数見つかっています。天照は卑弥呼、豊受大神は豊姫(伊勢外宮)です。女性がトップになると纏まるものです。ただ、饒速日の解釈は難しく、出雲国風土記によると、九州に来る前に出雲に火明と名乗ってきて、大国主の娘の高照姫との間に五十猛をもうけ、その子が叢雲として海部氏、そして磯城氏となり、大和に出雲王家を根付かせたとも書かれています。
何で神武さんはサルタ彦の言う事をころっと信じたのでしょうね(^ ^)
コメントありがとうございます。猿田彦自体が謎ですね。
猿田彦も神武天皇とそれはカラクリと出版れている上森三郎氏方がおっしゃっていました。
イワレって、ヘブライっていう意味だし、フヒトもヘブライ語で重要な意味があるらしい。つまり、ヘブライヒコが神武天皇になるよう、フヒトが改ざんしたのかなぁ。
イワレビコは、和歌山の女首長を殺してバラバラにする性格だったのに、神武天皇はそのバラバラ遺体を探して頭、胴、脚の3つの神社を建立している。多分、ニギハヤヒが成り代わったのかな。同族だし、似通っていても不思議じゃないし。金鵄については、あれ、鏡の盾の反射光だよね。盾形銅鏡って、ごまかそうとしてるみたいだけど、ペルセウスの鏡の盾だね。
真相を知るナガスネヒコは、アビヒコと名前を変えて、諏訪の方で出雲族の支援に向かわせたのかな。まぁ、妄想は尽きることがないけど、
なるほど、貴重な意見ありがとうございます。
ヘブライが絡む話、大変興味深いです。
当時の実権握りたかった藤原不比等のもくろみも、時間が過ぎて研究者や先生らの疑問や熱意が不比等のもくろみが、暴かれました。日本を正しく知らない、特に先の大戦でアメリカに敗戦し左翼教育が始まりました。全然私も教科書で教わった事がない学校の先生たちからの授業も熱意がなかったし、古代史に触れる事なく終わった。正しい歴史を知りたいです。先生方の研究にかかっています。消された部分は必ず修復します。
よろしくお願いいたします
コメントありがとうございます。真実かどうか、わからないことだらけだけど、沼の深みにはまって抜け出せないのも歴史学の面白いところです。
時間が解決します。嘘の上にまた嘘の化粧は、暴かれます。
その真相に着くには全てが無理でも
時間が解決してくれます。
原田常次氏 「古代日本正史」 ですね?
「東征」などという勇ましさより「御東遷」 婿入り の方が、よほど真実らしいです。
武力を伴う厳しい交渉もあったでしょうが、、 大和らしく 統べて行ったと思いたい。。
コメありがとうございます。原田常治氏の「古代日本正史」は参考になります。
スサノオの荒ぶり。
天井から、馬の革を落とすなんて、馬を扱う事が出来たと云う事です。自分の中では、四国地方、吉備地方が、抜けています。何かあれば、ご紹介を~😅
コメントありがとうございます。四国特に阿波、吉備は今後広げていきたいテーマです。
ニギハヤヒは別名が大物主で、大物主はヤマトトトヒモモソヒメと夫婦であり、崇神天皇の時代てすから大体300年頃の人だと思われます。ニギハヤヒはその頃船に乗って畿内にやって来たようです。九州の邪馬台国の卑弥呼がなくなったのは250年頃で、その後邪馬台国は九州からいなくなりますからおそらく邪馬台国が九州から畿内に東遷したのがニギハヤヒではないでしょうか。つまりニギハヤヒとは邪馬台国の事ではないでしょうか。崇神天皇の前の開化天皇あたりが大物主ニギハヤヒではないでしょうか。
コメントありがとうございます。貴重な論説、参考にさせていただきます。
ニギハヤヒは紀元前に天竺から来ています。
大物主は蛇神だと言われているんですよ。ニギハヤヒが蛇神のはずがない。
パラレルワールドのようでとても面白い説だと思います。九州の邪馬台国が勢いが盛んな終盤の時期に大和へ東征したのが、神武さんではなく、それよりも前に大和を治めたとされているけど実は邪馬台国の饒速日さんだと予想される理由は何かあるのでしょうか?東征後の九州の邪馬台国はどうなったと思われますか?
大物主ニギハヤヒとはアジスキタカヒコネの事であり母は出雲系であるので蛇神ではないでしょうか。東征後の九州の邪馬台国ですが、南九州熊本の狗奴国の王の景行とその子の成務即ちヤマトタケルの武内宿禰が北九州の邪馬台国の残存勢力を討伐し九州を統一したのが熊襲征伐で、武内宿禰はその後三韓征伐してから畿内のヤマト朝廷のニギハヤヒの勢力を従えたのが応神東征で400年頃であり、応神天皇である武内宿禰が真の神武天皇ではないでしょうか。
ニギハヤヒは徐福ですよ。出雲の口伝をよんでください。ホアカリも徐福です
徐福ですか。。。徐福伝説、ユダヤ失われた十氏族の方が面白いかな。
徐福というのは大変興味のある説ですので、もっと勉強しないといけませんね。
徐福がニギハヤヒだって?そんなわけあるわけないよ。徐福が日本に渡ってきたのはBC210年代ですから、紀元後ではない。