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7:06自分の住んでたとこでもイナゴ食べてました幼少期の夕方に親父様とビニール袋持って近所の田んぼでイナゴ捕まえる→晩御飯に出てくるっていうムーブでしたねちなみにアラフォーです
里芋のつるを乾燥させた、ずいきは、結構いける。人参、大根、蕪の葉は、結構イケて酒のアテになる。辛味噌と和えたら絶品。
俺んちは代々農家で米だけで無く野菜から味噌醤油まで何でも作ってて戦中戦後食い物には困らなかったと言ってたなぁ。しかし、爺ちゃんが大のお人好しで戦中も戦後も自分らの分があれば十分と言って困ってた人がいるとわけてたらしい。だから食い物には困らなかったが貧乏だったと親父から聞いた事がある。
立派なお祖父さまですね😊素晴らしいです。
1970年生まれの自分にはカルチャーショックでしたね❗勉強になりました😅
サツマイモについては品種改良がされていたから不味かったという面があるようです。大正から昭和にかけての時代には食用のサツマイモの品種改良は未着手で(主食用は外地米の増加で需要が減っており、おやつ用途の改良は後回しだったので)、需要が増えていたエタノール用や工業用デンプン用の品種改良をやってました。その成果が出始めたところに食糧不足が来たんで、味については最初から考えてなかった品種が大々的に作られることになったということです。
ちなみに、米穀通帳が廃止されて米の販売・譲渡が自由化されたのは1982年1月15日からです。
小学生の頃、戦中の食事を聞いた時、祖母達にさつまいも粥蔓入作ってくれました。イナゴは採るとこらから煮て食べる迄やりました。お陰で昆虫食も平気です😸
イナゴ料理は「はだしのゲン」見て憧れました
・戦後の配給制度の時代、配給された米の量が少ないため、祖母は直接田舎に行って、自分の着物などを米と物々交換していたそうです。いわゆる闇米です。それを帯の下に巻いて、隠して持って帰ったそうです。見つかれば没収されるので。・母の話として、戦時中は芋の蔓の雑炊を食べていたそうです。・たしかに昭和30年代の給食には米(ご飯)はまったく出てきませんでしたね。コッペパンとおかずと脱脂粉乳でした。
警察の取締が厳しく、各地の駅に検問所があった。
母親が近年の健康食ブームで雑穀を食べるのを見て『昔は牛馬のエサだった物を今は人間が金を出して食う変な時代になった』と言っていた。
メリケン粉って子供の頃に聞いた覚えはあるけど確かに最近は聞きませんね
タレントの南明奈は、米のご飯と水はうざいと、言っていた。w
今でも大根や人参の皮はきんぴらにして食べるし旨いし❗
昔の脱脂粉乳は本当に不味かったと母親が言っていた。戦後しばらくは不衛生だから自分でケツに手を入れて寄生虫を引っこ抜いていたと言っていた。ウゲェ〜〜凄い時代
初期給食の脱脂粉乳のマズさは、第二次大戦の余りを冷蔵も無しでアメリカから持って来たってのも原因ぎょう虫がいるのは普通で、ボットン便所にうどんみたいにウヨウヨいたそう
最近とんと見なくなった「芋がらの煮もの」って時々食卓に出てた気がする。お城の畳床にも芋がらを使って籠城戦に備えていたんだとか。
記憶の底にあるのは、昭和40年代に米穀通帳を母が持って米屋に配達をたのみに行くのに連れていかれたこと。ただ、何回もと言うわけでもないし、麦飯の記憶も長いことではなかったから、米穀通帳も配給制度の名残だったんだろうな。戦中は薄味にせざるを得なかったんだよ。塩も作る人もいないし、輸送は悉く空襲で途絶える。味噌や醤油に必要な大豆も小麦も米も、全て食べるものであって。調味料に回すこと等考えも及ばなかったと祖母が話したくれた。
給食は、入学時(84年)はパンが多かったですが、余剰米(古米、古々米)のせいか3年生くらいからご飯が多くなりました給食センターではなく校内調理でしたが、普通の区立小学校なのであまり美味しくはなくデパートの食堂みたいな感じの味で、それがアルマイトやメラミン製の食器に盛られていて私は苦手でした病院食に近いかも今どきの小学校の給食はとても美味しいらしいです十数年前、姪っ子が小学生の時にちょうど有名な男性管理栄養士さんが赴任されていて、給食の写真を見せて貰ったらめちゃめちゃ美味しそうでした
料理に海水を使ったいう話を聞く。
お米が国で自給が出来るようになったのが昭和40年代。その間に、日本は世界有数の人口増加率の高い国だったそうです。1900年に約5000万人、百年後は1億2000万人。
この当時のサツマイモは、中国産みたいに甘みも何も無い、でんぷんの塊みたいな味だったんだろうな
米を食べるとバカになる。国の役人がガチでいっいた。
★質素過ぎるけど、健康にいいし、子沢山でアトピーとか食品アレルギーの人が少ないイメージやで~😃⤴️⤴️👍👍❤️❤️
こんな貧しい時代に活躍したプロ野球選手とかスゴいな。スタルヒン、川上哲治、藤村富美男、金田正一とかやはり今の選手とはハングリー精神が違うのかな
今や麦をはじめアワやヒエといった雑穀が健康食として白米より高価になっている有様で、豊かさって何なんだという感じですね。もっとも安価だった時代の麦は麦臭いという言葉があったように決して美味ではなかったし、当時のサツマイモを知る世代にしてみれば現代のサツマイモは砂糖菓子みたいなものだとか…。
自分の両親も昔はさつま芋は嫌いでした、今のさつまいもは無問題。田舎で自分たちで狩りしていたので「蜂の子」は好きでしたね。脱脂粉乳は芋より嫌いでしたよ。
江戸で白米ばっかり食べて脚気が流行った話とか触れないのね
朝ドラで闇市が違法という事を知りました。何年前だったかは忘れましたが
戦中の話ですが、学校の運動場を耕してサツマイモを作っていたそうです。(両親談
食料不足で学校どころか国会議事堂前が芋畑になっていたとか😊
私は昭和40年生まれだけど、給食は🥛🍞パンと牛乳におかず1品たまに🍊果物だった。🍛カレーライス等ご飯給食は年に3~4回位しかなかった。今の学校給食のメニューは豊富で子供達が羨ましい😋😋😋。但し学校の給食室調理ではなく、市町村毎の給食センター調理方式なのが残念(/。\)😭😭😭。
おじいちゃんが広島出身で原爆が落とされた2週間後の状況や、ボロボロの戦艦大和を見たことある人だけど、平和記念資料館や大和ミュージアム行きたがらない程当時は想像を絶する悲惨な状況だったと伺える。当時は給料の全部が食糧で無くなって、基本闇市でうどんや、蒸かした芋が多いみたい。現在90超えても普通に私生活を一人で出来る限り自分も長生きする可能性が高く、今ふるえてます
戦時中や戦後直後ちゃんとした食べ物自体が軍やGHQに徴用されて市井にほぼ品が無かったそうです闇市の食べ物とかヤバいのしかないその頃の先祖は戦時中は海産物会社やってて、お菓子など取引きあった海軍さんから分けて貰ったそうです
関東軍、陸軍兵長のじーちゃんから教わった事。「兎は野兎病に気をつけろ」「ネズミの骨は食うな」「真冬で本格的に食い物がない時は、松の葉っぱを食え」。私「松の葉っぱ食えるの❔」じーちゃん「まずい。まずいが、生きる為なら、食え」
無理に食べなくていい時代、そして地球史上初の肥満世界がやってくる
今は、生活保護受給者の方が裕福になってるんじゃないか!特に老人😡
本編から少しずれますが、イナゴ美味しいです!って思います。蜂の子は最高に美味しい!!
すいとんは年末に新潟の実家新潟市中央区相生町(下町)に帰省して、近所の⛩️金比羅神社に初詣に行くと無料で振る舞われているな😋😋😋。
じいちゃん、ばあちゃんに聞いた話では食べ物、栄養不足で粗食が原因で脚気、壊血病、くる病etc…色々あったとか。メリケン粉も懐かしい響き。小麦粉料理専門の食堂で「メリケン屋」てのがありましたね。
サザエさんでも鶏飼ってる話があったっけ。
_「貧乏人は麦を食え」by 池田勇人(大蔵大臣)_
今となっては麦が高級品とは…😅
こんにちは。その麦を食えコメントって、部数上げに狂った新聞社のガセだったらしいですよ。池田さんは普段から麦飯たべてて「貧乏人だから麦をくってる私は」と言っていたと。
パンは美味しい
岸田さんが言ったらどうなるのかな?
田舎育ちの両親は、空襲も食糧難もほとんど知らないそう。でも何十年も何もない貧しい時代だったそうだ。
戦後は農家の方が食料はあったみたいです。父親は半農の家だったらしいけど、祖父は戦地から帰って来て石灰工場で働いていたから、給金は良いし、半農だから米も食べられたみたい。でも茹でたじゃがいもは嫌いだって(蒸したジャガバターは大好きみたい)😅
革靴😮😮😮
そうだね!昭和ど真ん中の自分は、記憶を辿ると「むぐ飯・粟飯」食べていましたね。今、思い返して食べてみると「粟飯」の方が、美味しいような・・・五穀米より「粟飯」が美味しい。 さすが「昭和」人間ですね。
白米が食えないプロ野球チームが令和の時代にいる(笑)
「管理野球」を謳った広岡監督時代のヤクルトと西武がまさにそうでした。
俺は、昭和60年後半生まれで良かったと思う…普通に白米食べれたし、今みたいになんでも食べれた!祖母が、イナゴの佃煮を食卓にだしたから食べれるけど…
母方の田舎は、山奥の集落で、空襲もなく戦中戦後農作物には困らなかったみたいデスただ、蕎麦はそば粉にするのが簡単どが、小麦粉は粉にするのがムズくて、専門店に行かないと食べれず、それで作るうどんは贅沢的な食べ物だったらしいヨ😅
質素というより、欠乏では?
私の身長172センチ、父親156センチ、母親135センチ……ホント食べられなかったんだなぁ〜😂
現代日本人の摂取エネルギーは当然戦中戦後より多いのですが、唯一10代〜20代の女性だけは当時並みかそれ以下だそうです😅
6:31 痛めてるやん
うどん粉もメリケン粉もちびまる子ちゃんで知った。給食ってパンと牛乳で結局グルテンアレルギーやカゼインアレルギーの原因になった気がするね。
そいがいっちょんわからんばい。我が県も直正さん前までどぎゃんでん貧乏だったばってん。昭和の頃は米でんいもでん、むつごろうでん、いのししでん、小城の羊羹でんなんでんかでんあったばい。ばってんそぎゃん我が県、当時の肥料はの関係で平成も汲み取り式があったばい。悲しい さが ばい。
戦後の日本を、バカに、してるのかな
7:06
自分の住んでたとこでもイナゴ食べてました
幼少期の夕方に親父様とビニール袋持って近所の田んぼでイナゴ捕まえる→晩御飯に出てくるっていうムーブでしたね
ちなみにアラフォーです
里芋のつるを乾燥させた、ずいきは、結構いける。人参、大根、蕪の葉は、結構イケて酒のアテになる。辛味噌と和えたら絶品。
俺んちは代々農家で米だけで無く野菜から味噌醤油まで何でも作ってて戦中戦後食い物には困らなかったと言ってたなぁ。
しかし、爺ちゃんが大のお人好しで戦中も戦後も自分らの分があれば十分と言って困ってた人がいるとわけてたらしい。だから食い物には困らなかったが貧乏だったと親父から聞いた事がある。
立派なお祖父さまですね😊
素晴らしいです。
1970年生まれの自分にはカルチャーショックでしたね❗勉強になりました😅
サツマイモについては品種改良がされていたから不味かったという面があるようです。
大正から昭和にかけての時代には食用のサツマイモの品種改良は未着手で(主食用は外地米の増加で需要が減っており、おやつ用途の改良は後回しだったので)、需要が増えていたエタノール用や工業用デンプン用の品種改良をやってました。その成果が出始めたところに食糧不足が来たんで、味については最初から考えてなかった品種が大々的に作られることになったということです。
ちなみに、米穀通帳が廃止されて米の販売・譲渡が自由化されたのは1982年1月15日からです。
小学生の頃、戦中の食事を聞いた時、祖母達にさつまいも粥蔓入作ってくれました。イナゴは採るとこらから煮て食べる迄やりました。お陰で昆虫食も平気です😸
イナゴ料理は「はだしのゲン」見て憧れました
・戦後の配給制度の時代、配給された米の量が少ないため、祖母は直接田舎に行って、自分の着物などを米と物々交換していたそうです。いわゆる闇米です。それを帯の下に巻いて、隠して持って帰ったそうです。見つかれば没収されるので。
・母の話として、戦時中は芋の蔓の雑炊を食べていたそうです。
・たしかに昭和30年代の給食には米(ご飯)はまったく出てきませんでしたね。コッペパンとおかずと脱脂粉乳でした。
警察の取締が厳しく、各地の駅に検問所があった。
母親が近年の健康食ブームで雑穀を食べるのを見て
『昔は牛馬のエサだった物を今は人間が金を出して食う変な時代になった』
と言っていた。
メリケン粉って子供の頃に聞いた覚えはあるけど確かに最近は聞きませんね
タレントの南明奈は、米のご飯と水はうざいと、言っていた。w
今でも大根や人参の皮はきんぴらにして食べるし旨いし❗
昔の脱脂粉乳は本当に不味かったと母親が言っていた。
戦後しばらくは不衛生だから自分でケツに手を入れて寄生虫を引っこ抜いていたと言っていた。
ウゲェ〜〜凄い時代
初期給食の脱脂粉乳のマズさは、第二次大戦の余りを冷蔵も無しでアメリカから持って来たってのも原因
ぎょう虫がいるのは普通で、ボットン便所にうどんみたいにウヨウヨいたそう
最近とんと見なくなった「芋がらの煮もの」って時々食卓に出てた気がする。
お城の畳床にも芋がらを使って籠城戦に備えていたんだとか。
記憶の底にあるのは、昭和40年代に米穀通帳を母が持って米屋に配達をたのみに行くのに連れていかれたこと。ただ、何回もと言うわけでもないし、麦飯の記憶も長いことではなかったから、米穀通帳も配給制度の名残だったんだろうな。
戦中は薄味にせざるを得なかったんだよ。塩も作る人もいないし、輸送は悉く空襲で途絶える。味噌や醤油に必要な大豆も小麦も米も、全て食べるものであって。調味料に回すこと等考えも及ばなかったと祖母が話したくれた。
給食は、入学時(84年)はパンが多かったですが、余剰米(古米、古々米)のせいか3年生くらいからご飯が多くなりました
給食センターではなく校内調理でしたが、普通の区立小学校なのであまり美味しくはなくデパートの食堂みたいな感じの味で、それがアルマイトやメラミン製の食器に盛られていて私は苦手でした
病院食に近いかも
今どきの小学校の給食はとても美味しいらしいです
十数年前、姪っ子が小学生の時にちょうど有名な男性管理栄養士さんが赴任されていて、給食の写真を見せて貰ったらめちゃめちゃ美味しそうでした
料理に海水を使ったいう話を聞く。
お米が国で自給が出来るようになったのが昭和40年代。
その間に、日本は世界有数の人口増加率の高い国だったそうです。
1900年に約5000万人、百年後は1億2000万人。
この当時のサツマイモは、中国産みたいに甘みも何も無い、でんぷんの塊みたいな味だったんだろうな
米を食べるとバカになる。国の役人がガチでいっいた。
★質素過ぎるけど、健康にいいし、子沢山でアトピーとか食品アレルギーの人が少ないイメージやで~😃⤴️⤴️👍👍❤️❤️
こんな貧しい時代に活躍したプロ野球選手とかスゴいな。スタルヒン、川上哲治、藤村富美男、金田正一とか
やはり今の選手とはハングリー精神が違うのかな
今や麦をはじめアワやヒエといった雑穀が健康食として白米より高価になっている有様で、豊かさって何なんだという感じですね。もっとも安価だった時代の麦は麦臭いという言葉があったように決して美味ではなかったし、当時のサツマイモを知る世代にしてみれば現代のサツマイモは砂糖菓子みたいなものだとか…。
自分の両親も昔はさつま芋は嫌いでした、今のさつまいもは無問題。田舎で自分たちで狩りしていたので「蜂の子」は好きでしたね。脱脂粉乳は芋より嫌いでしたよ。
江戸で白米ばっかり食べて脚気が流行った話とか触れないのね
朝ドラで闇市が違法という事を知りました。何年前だったかは忘れましたが
戦中の話ですが、学校の運動場を耕してサツマイモを作っていたそうです。(両親談
食料不足で学校どころか国会議事堂前が芋畑になっていたとか😊
私は昭和40年生まれだけど、給食は🥛🍞パンと牛乳におかず1品たまに🍊果物だった。🍛カレーライス等ご飯給食は年に3~4回位しかなかった。今の学校給食のメニューは豊富で子供達が羨ましい😋😋😋。但し学校の給食室調理ではなく、市町村毎の給食センター調理方式なのが残念(/。\)😭😭😭。
おじいちゃんが広島出身で原爆が落とされた2週間後の状況や、ボロボロの戦艦大和を見たことある人だけど、平和記念資料館や大和ミュージアム行きたがらない程当時は想像を絶する悲惨な状況だったと伺える。
当時は給料の全部が食糧で無くなって、基本闇市でうどんや、蒸かした芋が多いみたい。
現在90超えても普通に私生活を一人で出来る限り自分も長生きする可能性が高く、今ふるえてます
戦時中や戦後直後ちゃんとした食べ物自体が軍やGHQに徴用されて市井にほぼ品が無かったそうです
闇市の食べ物とかヤバいのしかない
その頃の先祖は戦時中は海産物会社やってて、お菓子など取引きあった海軍さんから分けて貰ったそうです
関東軍、陸軍兵長のじーちゃんから教わった事。「兎は野兎病に気をつけろ」「ネズミの骨は食うな」「真冬で本格的に食い物がない時は、松の葉っぱを食え」。私「松の葉っぱ食えるの❔」じーちゃん「まずい。まずいが、生きる為なら、食え」
無理に食べなくていい時代、そして地球史上初の肥満世界がやってくる
今は、生活保護受給者の方が裕福になってるんじゃないか!
特に老人😡
本編から少しずれますが、イナゴ美味しいです!
って思います。
蜂の子は最高に美味しい!!
すいとんは年末に新潟の実家新潟市中央区相生町(下町)に帰省して、近所の⛩️金比羅神社に初詣に行くと無料で振る舞われているな😋😋😋。
じいちゃん、ばあちゃんに聞いた話では食べ物、栄養不足で粗食が原因で脚気、壊血病、くる病etc…色々あったとか。メリケン粉も懐かしい響き。小麦粉料理専門の食堂で「メリケン屋」てのがありましたね。
サザエさんでも鶏飼ってる話があったっけ。
_「貧乏人は麦を食え」by 池田勇人(大蔵大臣)_
今となっては麦が高級品とは…😅
こんにちは。その麦を食えコメントって、部数上げに狂った新聞社のガセだったらしいですよ。池田さんは普段から麦飯たべてて「貧乏人だから麦をくってる私は」と言っていたと。
パンは美味しい
岸田さんが言ったらどうなるのかな?
田舎育ちの両親は、空襲も食糧難もほとんど知らないそう。
でも何十年も何もない貧しい時代だったそうだ。
戦後は農家の方が食料はあったみたいです。父親は半農の家だったらしいけど、祖父は戦地から帰って来て石灰工場で働いていたから、給金は良いし、半農だから米も食べられたみたい。でも茹でたじゃがいもは嫌いだって(蒸したジャガバターは大好きみたい)😅
革靴😮😮😮
そうだね!昭和ど真ん中の自分は、記憶を辿ると「むぐ飯・粟飯」食べていましたね。
今、思い返して食べてみると「粟飯」の方が、美味しいような・・・
五穀米より「粟飯」が美味しい。 さすが「昭和」人間ですね。
白米が食えないプロ野球チームが令和の時代にいる(笑)
「管理野球」を謳った広岡監督時代のヤクルトと西武がまさにそうでした。
俺は、昭和60年後半生まれで良かったと思う…普通に白米食べれたし、今みたいになんでも食べれた!祖母が、イナゴの佃煮を食卓にだしたから食べれるけど…
母方の田舎は、山奥の集落で、空襲もなく戦中戦後農作物には困らなかったみたいデス
ただ、蕎麦はそば粉にするのが簡単どが、小麦粉は粉にするのがムズくて、専門店に行かないと食べれず、それで作るうどんは贅沢的な食べ物だったらしいヨ😅
質素というより、欠乏では?
私の身長172センチ、父親156センチ、母親135センチ……ホント食べられなかったんだなぁ〜😂
現代日本人の摂取エネルギーは当然戦中戦後より多いのですが、唯一10代〜20代の女性だけは当時並みかそれ以下だそうです😅
6:31 痛めてるやん
うどん粉もメリケン粉もちびまる子ちゃんで知った。
給食ってパンと牛乳で結局グルテンアレルギーやカゼインアレルギーの原因になった気がするね。
そいがいっちょんわからんばい。我が県も直正さん前までどぎゃんでん貧乏だったばってん。昭和の頃は米でんいもでん、むつごろうでん、いのししでん、小城の羊羹でんなんでんかでんあったばい。ばってんそぎゃん我が県、当時の肥料はの関係で平成も汲み取り式があったばい。
悲しい さが ばい。
戦後の日本を、バカに、してるのかな