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キルケゴールが言うように、自己に真理がなければ、夏目漱石のように座禅して真理を求めても、自己からは真理は得られませんね。座禅で悟ったとしても、キルケゴールから見たら悟りと真理は別物ですね。私は哲学者の中で、キルケゴールが一番共感持てますね。私は哲学を学問として考えているというより、私自身のために(個人的なものとして)哲学に興味を感じましたから。
キルケゴールの神はカントの物自体、ハイデカーの存在に当たりますか?
コメントありがとうございます。それぞれは違うと考えるのが一般的かと思われますが、むしろどのような点でそれぞれが共通・類似しているとお考えなのかを教えていただければ、もう少し答えられるかもしれません。
@@neomin 共通してるの、これ以上大きいのはないところ、人間の知性で答えがでないところ。違いはキルケゴールの神はキリスト教の神、カントの物自体は哲学の神の領域のこと、ハイデカーの存在は聖書(キリスト教)の神ではあるが、学問的に神といわず存在として探究してる。ユウミンさんはどう思う?
なるほど。知性での認識を超えているという点では共通点があるかもしれないですね。ただそれ以外はそれぞれ違いのほうが大きいように思われます。例えば物自体に人格はありませんし、ハイデガーの存在が神学とどのように関わるのかという話は、まだ私はあまり理解していません。(轟孝夫がそのような話をしていたかもしれません)
あえて中世哲学推しで「切り崩し改善」しようとする、壮大かつ困難な道を進む貴殿を称賛する。
ちくま新書の鈴木祐丞先生の本、素人からするとすごく勉強になりましたし、面白かったです。
ありがとうございます。機会を見つけて読んでみたいと思います。
マルクス楽しみ。
なぜかこの動画のおかけで、知性改善論のよくわからなかった部分が、熱したフライパンに落ちる雪のよう解けました。
コメントありがとうございます。そうなんですね。ちなみに知性改善論のどのあたりでしょうか。
@@neomin 年代も思想も違うので頓珍漢なことを申し上げていると思いますが、知性改善論の40から60ページ(岩波文庫)で虚偽やら虚構やら誤謬に対して、真の観念の話がでてくるのですがそれぞれの解釈の違いに悩んでおりました。注意書きに虚構とはそれ自体で見れば夢と大差がないと書かれている反面、真の観念とは?真とはそもそも?と疑問に思っているところへ、ネオさんの動画で「真理はわからない。わかりようがない」という言葉で腑に落ちた次第です。真の観念の定義もかちっとした説明はでてきませんので、真理同様、神のみぞ知ると解釈して読み進めようと思いました。
教えてくださってありがとうございました。確かに真の観念という話はきわめてわかりにくいものだったなと思い出しました。
@@neomin ありがとうございます。このあとエチカ、神学・政治論を読もうと思っていますが先が思いやられます。
真理は全てに宿るという見方もできますし、自己に宿るから真理を語ることができるとも言えますし、我思う故に我ありが示すようにもし人間に真理が宿るのだとすれば、それは、それはまさに自己があるということに尽きると思います。神にしか神を語ることはできない論についても、神を上にあるものだとすればいくらでも語れるわけですし、価値りつくせないから神であるという言い方もできますし、神を語る人を見上げれば神ですが、見下せる人からすれば全然神ではないわけですので、神は語れるということになりますよね。あとは神度の階層の設定だけです。
民以食為天
キルケゴールはウィトゲンシュタインやハイデガー、サルトルに繋がる宗教を哲学が批判出来るんだ、言っているように思えます。
著作内で女神に真理を語らせたパルメニデスや、普段から神として振る舞っていたエンペドクレスはやはり格が違うなと思いました
なるほど。神々との距離が違う感じがしますね。
今回の話を聞くと、神についていろいろ語ってそうなパウロは強メンタルの持ち主なんやろか・・?🤔などと、思ってしまいますね。☺
マスターについても匿名で哲学に語っているので、あ、キルケゴールと似ているや、と思いました。真理が自己に内在しないという説明は簡潔で良かったですよ。
私は単にリスク回避なんで似て非なるものです笑
キルケゴールが言うように、自己に真理がなければ、夏目漱石のように座禅して真理を求めても、自己からは真理は得られませんね。座禅で悟ったとしても、キルケゴールから見たら悟りと真理は別物ですね。
私は哲学者の中で、キルケゴールが一番共感持てますね。私は哲学を学問として考えているというより、私自身のために(個人的なものとして)哲学に興味を感じましたから。
キルケゴールの神はカントの物自体、ハイデカーの存在に当たりますか?
コメントありがとうございます。それぞれは違うと考えるのが一般的かと思われますが、むしろどのような点でそれぞれが共通・類似しているとお考えなのかを教えていただければ、もう少し答えられるかもしれません。
@@neomin 共通してるの、これ以上大きいのはないところ、人間の知性で答えがでないところ。違いはキルケゴールの神はキリスト教の神、カントの物自体は哲学の神の領域のこと、ハイデカーの存在は聖書(キリスト教)の神ではあるが、学問的に神といわず存在として探究してる。ユウミンさんはどう思う?
なるほど。知性での認識を超えているという点では共通点があるかもしれないですね。ただそれ以外はそれぞれ違いのほうが大きいように思われます。例えば物自体に人格はありませんし、ハイデガーの存在が神学とどのように関わるのかという話は、まだ私はあまり理解していません。(轟孝夫がそのような話をしていたかもしれません)
あえて中世哲学推しで「切り崩し改善」しようとする、
壮大かつ困難な道を進む貴殿を称賛する。
ちくま新書の鈴木祐丞先生の本、素人からするとすごく勉強になりましたし、面白かったです。
ありがとうございます。機会を見つけて読んでみたいと思います。
マルクス楽しみ。
なぜかこの動画のおかけで、知性改善論のよくわからなかった部分が、
熱したフライパンに落ちる雪のよう解けました。
コメントありがとうございます。そうなんですね。
ちなみに知性改善論のどのあたりでしょうか。
@@neomin 年代も思想も違うので頓珍漢なことを申し上げていると思いますが、知性改善論の40から60ページ(岩波文庫)で虚偽やら虚構やら誤謬に対して、真の観念の話がでてくるのですがそれぞれの解釈の違いに悩んでおりました。注意書きに虚構とはそれ自体で見れば夢と大差がないと書かれている反面、真の観念とは?真とはそもそも?と疑問に思っているところへ、ネオさんの動画で「真理はわからない。わかりようがない」という言葉で腑に落ちた次第です。真の観念の定義もかちっとした説明はでてきませんので、真理同様、神のみぞ知ると解釈して読み進めようと思いました。
教えてくださってありがとうございました。確かに真の観念という話はきわめてわかりにくいものだったなと思い出しました。
@@neomin ありがとうございます。
このあとエチカ、神学・政治論を読もうと思っていますが先が思いやられます。
真理は全てに宿るという見方もできますし、自己に宿るから真理を語ることができるとも言えますし、我思う故に我ありが示すようにもし人間に真理が宿るのだとすれば、それは、それはまさに自己があるということに尽きると思います。
神にしか神を語ることはできない論についても、神を上にあるものだとすればいくらでも語れるわけですし、価値りつくせないから神であるという言い方もできますし、神を語る人を見上げれば神ですが、見下せる人からすれば全然神ではないわけですので、神は語れるということになりますよね。あとは神度の階層の設定だけです。
民以食為天
キルケゴールはウィトゲンシュタインやハイデガー、サルトルに繋がる宗教を哲学が批判出来るんだ、言っているように思えます。
著作内で女神に真理を語らせたパルメニデスや、普段から神として振る舞っていたエンペドクレスはやはり格が違うなと思いました
なるほど。神々との距離が違う感じがしますね。
今回の話を聞くと、神についていろいろ語ってそうなパウロは強メンタルの持ち主なんやろか・・?🤔などと、思ってしまいますね。☺
マスターについても匿名で哲学に語っているので、あ、キルケゴールと似ているや、と思いました。真理が自己に内在しないという説明は簡潔で良かったですよ。
私は単にリスク回避なんで似て非なるものです笑