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以前RUclipsの動画(Hayashiさんという先生のチャンネルかな?)で銅鐸の事を検証していましたが、暦という説が凄く納得できるものでしたよ。上の部分の模様が日にちや月で丁度一年が数えられるようになっていて、夏至や冬至も分かる日時計的な役割もしていた、みたいな動画だったと思います。鐘だとは考えにくい理由もおっしゃっていましたが、その辺の内容は覚えてません。
銅剣のインゴット(原料)と考えるよりは、(戦争が終わって)いらなくなった両軍の銅剣を熔かして作った。のほうがまだ納得しやすいです。銅剣製作よりも高度な技術で、しかも時代によってだんだん大きくなってくるからです。描かれている絵がとても平和的な感じがします。いま思いついた考えです。
本当に大好きなチャンネルです。動画ありがとうございます。
いつも、楽しく拝見しています。私も、はやしひろし先生の説を信じてる一人です。楽器ではない、天体観測装置だ、という説です。上部の飾りにある、360本の線と春分秋分の日がわかるかのような欠け。太陽の昇る角度を確かめる物だという説です。そして、超古代の文明機器であり、新勢力の覇権により、要らなくなった….!!銅鐸の動画、嬉しかったです。
いつもご視聴いただきありがとうございます😊謎が解明されていない以上は様々な説があって然るべきですし、古代に思いを馳せつつ、それらを考察する事がロマンだと思います😀楽しんでいただけたなら動画作成冥利に尽きます!
間違いなく楽器だよ 口伝で
@@氷見修一 口伝?!があるのですね!存じませんでした。教えて頂き、ありがとうございます。いろんな見解を知る度々感心してしまいます(^_^;)ただ、すごくロマンを感じます!漫画『ヤマタイカ』では、興奮増幅装置として描かれていて、それもワクワクした記憶があります。
銅鐸のことはサッパリわからんけどこれだけはわかるスゴい技術で造られたんやろなって☺️
私もhayashiさんの天体観測装置説というのを以前youtubeで拝見したことがありますが、その表面の直線や小さくあけられた角孔から天体観測をしたとのことでした。画期的な説ですが、小さな銅鐸が時代を経て巨大化していった理由や扁平な釣鐘状になっている理由が判らないし、天体観測するには巨石や石積みのように動かない工夫が要りそうで、世界の古代天文台みたいなものはそうなっています。また観測装置がなぜあんなに沢山必要だったのかの理由も釈然としません。奇抜で興味深い説なので、その辺りがクリアできれば面白いですね。他に楽器や害獣や外敵を感知するトラップなど諸説ありますが、いったいどんな音がするのか、一度聴いてみたいですね。
現代において銅鐸はポケモンとなりました(14年前)
これだけの量の銅をどうやって採集していたのだろうか
神代日本~古代日本まで含めると、日本の歴は1万5千年~くらいになるそう.....日本を本当に研究したら世界の謎が解明されるのではと思ってる
コメントありがとうございます😊可能性は十分にありますよね!ハテナ見聞録もその観点から様々な日本の歴史をご紹介しています!
銅鐸カッコいいですよね!! 法九州に住んでいるので、うちの近所に落ちているといいです!
コメントありがとうございます😊歴史が多く眠る地はロマンがあって素敵ですよね✨
自分は銅鐸は実用的な鐘だと思いますね。山の頂上とかにあるのは、町の中心で1個だけ鳴らしたところで全体に聞こえないので、連携しながら複数の場所で鳴らして、定時連絡や緊急連絡などをしたのでしょう。横たわってみつかるのは、普段横たわって置いていたからでしょう。舌が一緒にみつからないのは、ぶら下げていた場合もあったでしょうけど、普段は鳴らす担当の人が持っていたからでしょう。紐が腐ってどっかいっちゃたりしたら大変ですから。そして舌を持つ人のステータスにもなっていたのではないかと。外を叩いた形跡がないのは、立派な模様があるんだから、中を叩けと言われていたからでしょう。でかいやつは、実用目的ではなく飾りだったのかと思います。あと急に廃れたように思われてますが、時代時代の地層で見つかるということは、時代時代で捨てられてきたことだと思います。弥生時代についても、時代という大きな枠でくくられてますが、これもただの一部地域の一文化なだけだったと思います。時代時代で作られて捨てられてきたものが、文化の衰退と共に消えたか形を変えたのかと思います。実用的な鐘に装飾はそう必要ないですし。
お疲れ様です。出雲地方から桁外れの銅鐸が出土。サナギ 再生 蛇信仰音響をもって神意を伝える神呪の料。蛇は尾が触れる物で別様の響きを出すと生態上いわれてます。毎回学ばせて頂いてます。益々楽しみです。
コメントありがとうございます😊そしてこちらこそいつも詳細かつためになるお話、勉強になります!
調べたところ、銅鐸の出土は日本の平均降水量の少ない地域に多くみられることがわかりました。(出雲は例外ですが)特に瀬戸内〜畿内〜三河〜東海。農耕祭祀に使ったのはほぼ間違いないので、となると私の推論で恐縮ですが、「ひでり」「干魃」などの気象条件からイネを守るため、銅鐸を鳴らし空気を震わせ、天に響かせ、神へ雨乞いを請うた、その道具だったとは考えています。そう銅鐸は、神と交流し雨乞いをするための祭器だった、と。しかしのちに激しい洪水と干害とが交互にやってくるようになり(古代寒冷期)、人々は雨乞いだけではダメだと気ずき、新たにヤマトへやってきた者たちの新しい神に傾倒していった、のではないかと考えています。
大国主命の国譲りと関係があったのではないかと思います。多くの地方勢力が銅鏡を大切にする新しい集団を選び、それまでの銅鐸を所持する事は危険な状況が生まれたのでしょう。旧勢力が回収して出雲に運び、再利用するため、銅鐸に宿った神が離れるのに必要な期間土に埋めた。その場所を知っていた人達に何かが起こり、そのまま放置された。諏訪地方へ行ったのかも知れません。
いい声‼️
近所に、かつての大規模銅鐸工場跡が出土したり、埴輪の大規模窯跡が出土しているので、考古学マニアとしてはたまりません(笑)ただ、どちらも有名な割に、博物館が小さい (住宅地の中にある為?出土品が少ない為?) のが物足りないです。
最初は連絡用だった物が、村と村の境界線に置かれるようになったのでは?
コメントありがとうございます😊確かにムラの境界線説もありますね!現状は答えを知る術はありませんがワクワクしますね!
違うよ 祭司に使っていた
@@氷見修一 かも
なら直接行って話した方がよっぽど早いんでねーですか?
ヤマトが、それまでの権威的なものを禁じたから無くなったと思うなぁ。古代では音と声は同じ意味と思うので、音を鳴らす事で祈りの声としたのではないか…と考えています。神社でも鳴らすでしょ?あの様に祈る時に鳴らす道具だと思う。
コメントありがとうございます😊古墳時代から銅鐸がパタリとなくなった事を考えるとその説が一番しっくりきますよね!諸説にもロマンがあってワクワクします!
動物に田畑を荒らされないように、縄を通して、その縄で田畑を囲って、動物が縄に引っ掛かると音が鳴って追い払う、説を提唱します。
稲作は縄文時代から盛んに行われていたようです。縄文期に渡来人が来てより、争いが増えたような話はよく聴きます。
中国三星推王国時代(まだ文字もなく奇妙な仮面の文化が栄えていた古代を題材にした漫画(諏訪緑先生作)があったのを思い出しました。その中の一つの王国が銅にょう(銅鐸にソックリ)を国の境界に埋めて国の守りとし、王様は銅にょうを不思議な力で響かせた。その音は巫女にしか聞こえないけど(土に埋めてるので😅)民を思う心でとても優しい音がした。なんかそんな話でした。
儀式と農耕習慣の説を推します。なぜ合金にしたのか。音、周波数と言い換えてもいいかもしれませんが、カミへの祈りを響かせて届けるべくより澄んだ材質を求めて合金比率を変えていったのではないか。そして祈りであると共に神託や洗礼、浄化的な意味でより広範囲に届けるべく大型化していったのではないかと。廃れた経緯については否定派による旧勢力の打倒説を推します。象徴であったなら壊すことがより効果的な手段であったのだろうと推測します
コメントありがとうございます😊時代背景からアニミズムをベースとして自然や神への感謝を表す為の銅鐸と考えるとしっくり来ますよね!
銅鐸。当時の正式な名称は神社他の名称にも成った「サナグ」(サナギの古語)また、単に「鈴(スズ)」とも呼んだ。(五十鈴は数多のサナグ(銅鐸)。五十鈴媛命、とは、数多のサナグを管掌なさる姫巫女さま。=祭主)、、、猿投(サナゲ。はサナグの変化したもの)、出雲王国が国教の「幸(サイ)の神信仰」のレガリアに紀元前3世紀に新たに採用した。来歴も明らかで、所謂、秦の始皇帝の不老不死の仙薬探索を名目に渡来した徐福が関係します徐福が出雲王国に渡来するに当り、その一年前に忠実なる配下の「ホヒ」とその子息の「ヒナドリ」らを事前工作、交渉に遣わして、数多の珍奇な宝物等を第8代出雲王(「オホナモチ」と言った)の八千矛命(古事記等では大国主命の別名として列記)に献上して歓心を惹き、渡来、上陸許可を得ようとした。(出雲王国は不審な漂着者は全て追い払う(排除する)様に出雲八重書きを発布していた)その献上品の中に古代中国の楽器で祭器の青銅製の扁鐘(ヘンショウ。カウベルの様な形状。最近人気の中国の古代時代劇に度々でてくる)が特に八千矛王の関心を引き、先遣のホヒは、王さまの御意のままに形状を改変する事も可能です云々。結局、出雲人のおおらかでで伸びやかな感性と、出雲王国の国教、幸の神信仰からサナグ(昆虫のサナギに似せた(再生と発展))の形状となり、国教の幸の神信仰の祭祀に採用された。容器形状は同信仰の女神、幸媛命(サイヒメ/サビメ)の形代。中に仕込まれた棒状の鳴らし棒?は主神、クナト大神の形代。サナグ/鈴を打ち鳴らす行為は男女の交合。素朴で清らかに鳴り響く音は、男女の交合の結果の御子神、サルタ彦大神(悪しきモノを遮り、払い退ける神)サナグ全体では子孫繁栄、殖産興業、発展発達などをあらわす。銅鐸にXが数多ある理由も男女の和合、交合をあらゆる物事の根本原理とする「幸の神信仰」を表現。顔が線刻されたモノは主神、クナト大神(後にはイザナギ)のお顔。
確かに素晴らしいのですが、胴部と底部の穴の意味については何か伝承に書かれている内容があれば教えてください。何らかの意味合いがあって開けられたものと思います。
鉄鐸との関連なんかも合わせた考察も期待。
コメントありがとうございます😊鉄鐸との関連…これは調べ甲斐がありそうです😀
銅鐸は本来は農耕時期を知るための正確な日時計(取手と上面の模様でカレンダーになる)。2本の棒と4つの穴は水平と方角をキャリブレートするため。遠くまで見渡せる必要があり丘陵や小山で使用。落雷を避けるため地中に埋めて保管。薄いから叩いたら凹むし,吊り下げたら縄が切れる。資料館にある叩ける鐘は現代のオマージュ作品。因みに縄文文明から農耕はあった。
つい最近旅行で古代出雲歴史博物館に行き、動画にあった銅鐸がズラーっと並んでいるのを見て感動したばかりです。銅鐸は出雲王権の祭具でご神体、以下のようなぶっとんだ妄想をしていました。・日本王権が現在の奈良県(出雲と交流のあった地域)を侵略したときは銅鐸文化は残した・吉備や出雲や倭国を侵略して国譲りさせたあとに支配地域の祭具がバラバラなので銅鏡で統一 (吉備の特殊器台はコスト安だが見栄えが微妙、出雲の銅鐸はかっこいいけどコスト高すぎ)・銅鐸いらないから破壊して溶かしてたら災いが起こったので山の上に埋めて祀った天文観測器とかまんま鐘として使ってたとかの方が現実的ですが、そんな便利な使い方をしていたなら使い続けると思うんですがどうでしょう。
祭器を埋納する風習は、大陸にもありますね
コメントありがとうございます😊確かに原稿作成時にその様な記述も確認しました!無論大陸との文化交流もあったでしょうし、何かしらの影響はあるのかもしれませんね😀
銅鐸は何なのかは、ずっとわからなかったが最近、発見された銅鐸の内部に舌があるのが確認され、銅鐸は鐘だったと特定されたまあ、もとから鐘との説が有力だったがな銅鐸が消えたのは二世紀後半から三世紀前半ごろ、銅鐸は消えて代わりに銅剣が広まった九州の神器であった銅剣が本州まで広がったのだから、それは神武の東征にあたる何かがあったのだろうな
元々は大陸から伝来した武器や鏡など実用性を持った道具が、いつしか権威を示す祭事器に変化したという事例がいくつもあります。銅鐸も本来は楽器でしたが、その神秘性から権威を示す道具に変じた可能性は高いでしょうね。そして国産化される過程で独特の意匠が加えられる反面、楽器としての実用性は失い、ますます謎めいた存在になってしまった感じでしょうか…。
銅鐸のルーツはカウベルと聞きますが、鹿の絵が模様されています。鹿島神宮や春日大社や厳島神社では鹿は神の使いであり、諏訪大社では鹿を捧げ物としていました。豊穣を感謝するような祭祀儀式に使われていたのかなと思います。
銅鐸の発見場所は明らかに出雲王朝の勢力圏ですね。銅鐸が消えた3世紀は第10代崇神天皇が四道将軍で勢力圏を広げ、西日本を統治した時期なので、全部古事記の記載と合致します。鳴らし方や鳴らすタイミングは分からんけど、銅鐸は出雲王朝文化で使用された祭器であるのは間違いないですね。構造が鈴に似てるのなら、現在の神社の鈴みたいな使い方だったのかもしれません。鈴は出雲系の文化ですからね。
コメントありがとうございます😊確かに出雲圏の出土も多く歴史の変遷とも一致する気がしますね!今後の解明に期待です!
いつも興味深い動画に感謝します。(-人-)✨11:54 古代ヤマト王権成立ヤマトに消された(?)民族が使っていたと思います。銅鐸の詳しい使い方は、はやし浩司先生が解明されて動画でアップされてますね。(とても古い動画です。)私はソレを支持したいと思います。(*^^*)
コメントありがとうございます😊私も後ほど覗いてみたいと思います!情報ありがとうございます✨
あの方の動画で初めて説得力を感じました目盛りのないものや数が違うものもあるようですがそれは私の気のせいですねたぶん
我々の住んでいた所では、照明やスピーカーとして使ってましたよ⁉️
農作物泥棒を見つけたりしたとき仲間を呼ぶのに鳴らしたんだと思う
なるほどなあ
最大の大きさの銅鐸が出土し、出土数も2番目に多い滋賀県野洲市。そのお隣の滋賀県守山市に卑弥呼が住んでいたとされる遺跡がありますね。距離的に10キロ圏内ですので野洲市の銅鐸と守山市の卑弥呼説に何らかの関係があるのでしょうかね。地元なので前から気になってました。
形状から見ると風鈴に似てますしそこから考えてみると米蔵や田畑の周りに設置して獣避けにしてたのかもしれませんね
私はつい最近 百年前的写真.タイとミャンマーの国境沿いに住んでいるシャン人の銅鐸を見ました. この銅鐸は牛の首の根付けと胴体の位置に立てたのです. 今のアジア奥地山岳地帯は牛に鈴をつけたのが常識、鈴と言っても四角い箱型が多いです. 百年前の銅鐸は牛の背中(首の部份)に立てています.両側に支柱のような桁で支えています。.それは虎の襲いを避ける仕掛けらしいです。虎の習性は動物の首を咬む技です.その銅鐸の型は偏平の鐘の型. 部もあまり厚くない 頭の部分に紐を通す耳のような場所(穴)いくつあります。それは銅鐸を吊す目的.(前に掛けられたのではなく).大きさは(長さ)は牛の 頭 位かやや小さい です 牛が前進の時 音が響き、虎 くまをおどかす目的です.例え虎が牛の首に 跳びつかまえてもその銅鐸が邪魔になって 咬む事が出来ません.山岳地の民は虎を山の悪神(山の神)とする.敬畏を持っています.この道具を避邪とも思います。 列島に入ってくる渡来人がこの大事な道具を一緒に持って来て.現実に 虎のような猛獣は 日本に居なかった。そして だんだん 廃れられました。
林浩司氏により天文装置及びカレンダーであると既に証明されている。
出雲は海運業も盛んだったはず、汽笛が灯台代わりとか?卑弥呼は大和の姫巫女で、大君(天皇陛下)と朝廷が九州に戻ったから隠す為、欠史8代にしたとか?色々考えてみると面白いよね。
コメントありがとうございます😊なるほど!その説は頭になくて目から鱗です!
@@hatena_discovery 旧唐書に、ヤマトから2つの使者がやって来て、天子の前で自分がヤマトの使者だと喧嘩した。と書かれているらしい。神武東征でも、東征だから東の地を平定してから、九州に帰ったかも知れないよね。江戸と京都の様に、近畿をまとめる大和と、朝廷のある九州の邪馬台国。台の元字「臺」うてなの意味の中に、朝廷のある所と言うのがあるそうです。
高度な天文計測じゃなく、日時計でたたいて音が出るとなると、単なる時計?でも、薄い金属を叩くと割れるので、音を出したのは使い方が解らなくなった人たちの行為かも音を出すなら円形の方が適しているので、変形なのはフーコーの振り子じゃないけれど振り子を利用して正確な方角を測ったのかもね、やがてもっと良いものが出来て最初は建設道具の一種だったけれど、やがて使い方のわからない人によって祭祀用になった?そらー必要なくなるよね
確かに銅鐸って不思議ですよね。
コメントありがとうございます😊諸説あって解明されていないものには惹かれてしまいますw
亡骸を埋葬後、月を経由してリゲルへ魂を送り出す交感の儀で使う。彼岸、夏至、冬至に魂を呼び、音を鳴らし交感する儀で使う。
台風が来た時に鳴らす巨大な風鈴だとは今更言えない
最初は敵の侵入を知らせる道具だったのが野畑を荒らす野獣の侵入を知らせる物になりその後お守りとしての役割になったから大型化したのだ。【日本語の隠された謎】という本を読めば納得できます。
@@gorilla8137 弥生時代にガンガンぶっ叩く機工は出来ません。綱に銅鐸を吊るして夜侵入するとき綱に引っ掛かり銅鐸がカランカランと鳴って知らせるのです。【日本語の隠された謎】という本を読めば納得できます。
一応は鐘としての機能も鳴らした痕跡もあるんですね?舌が一緒に見付かってないから鐘型の飾り?祭器?だと思ってました。舌の部分は土に還ったとかではない?海外にも同じ物が無いってのも知りませんでした。てっきり中国から銅鐸として伝わったとばかり。伝わった鋳造技術を使って鐘を作る発想が果たして当時の日本人にあったのか?それとも鐘その物は伝わったけど、日本独自のアレンジに変わったのか?代表的な出土品なのに謎だらけですね?
玄関の呼び鈴に銅鐸を使ってみては?
江戸時代と同じで時間を図るためな気がする
日時計として使われていたのではないでしょうか? 林ひろしさんをご参考に! 刀や鍬などに加工されたのでしょう。
そもそも音が出るんですかね?
まあ、動画主は、基本的に「銅鐸は鐘」という説を取るようだが、それは無いだろう。現在でも、古刹において修行僧への合図には木鐸が使われるが、そのように、役に立つものが一気に廃れることはない。3世紀初めに銅鐸が急に姿を消したのは、風呂を沸かす道具として用済みになったからだろう。つまり、その頃に日本では鉄製品が自ら作れるようになり、それによって「焚き口(鉄製)が付いた風呂」が登場し、銅鐸が必要でなくなったのと考えられるのである。
徐福 と関係ありそうですね。 古代イスラエルの民 21万人が日本に集団移住し同化したと伝えられている。
鋭いですね。3:32の写真が徐福が青銅技術者を連れて斉国から渡来した時に献上品として持って来た編鐘と呼ばれる銅鐸の元になったと今でも広く信じこまれている打楽器に形が近いです。でも送られた方の出雲王国は、当時最先端の科学技術の粋を集めた天文観測器兼カレンダー兼時計である銅鐸を既に開発し使っていたので、今更古典的な鐘🔔の打楽器を送られても、使い道もなく、形も気に入らなかったので、わざわざ鋳直して銅鐸にしたようです。ちなみに徐福は、道教を信仰し、日本に道教を広めるために来日しましたが出雲王国の人々に追い払われ何度も母国に逃げ帰っています。元々ペルシャ系のユダヤ人の血を引く様です。残念なことに、徐福達の図らいによって、日本はその後に結果的に白村江の戦いに敗れ、一時的にシナ国の奴隷国となってしまった様です。
@@myuichirou この場合はオリジナルを改良したのとは少し異なる様です。日本の銅鐸とシナの斉国の編鐘🔔とは元々道具として用途が違うので、鋳直したことからも、おそらく単に銅鐸の材料にしただけの様な気がします。銅鐸のオリジナルは編鐘🔔などではありません。まして銅鐸はシナから伝わったものではありません。また銅鐸が最も多く出土したのは出雲なので、弥生時代の象徴ではなく、縄文時代にタタラ製法で作られたものです。
こんにちは、銅鐸は、最初は、小さかったんですよねぇ、でも後から人が持ち上げられ無いほどになったって言いましたよねぇ、部族同士の力競べだったんじゃ有りませんか!?何処かの海外の島でも歩くモアイを矢張り力競べの為にどんどん作って最後は、木を切りすぎ為に滅亡した事例が有りましたよねぇ!?武器を使わずともそう言う道具が縄張り争いと言うかそう言う物の為に使われると言うのは、良く有る事です、まぁ今でも昔でも良く有るご近所トラブルだったのでしょう武器を使わずに金の音のなる道具でね、
田植えの時の太鼓のように使われてたんじゃないかな。恐らくは初期の稲作はムラの共同田圃で稲作を行ってたんだろう。先ずムラごとの貧富が生まれ、政治体の最大単位が大きくなり田圃は個人の所有になる。個人での貧富の差が生まれ身分差に直結、さらに最大単位は小国家になり伴って指導者の権威に合わせて銅鐸も巨大化。多数の人間が同時に他に入って田植えするのなら、横一列で太鼓の音に合わせて同じ速度で植えるのが一番無駄が少ない。使われなくなったのは単純に宗教としての信仰対象が変わったから。恐らく大和政権の統一事業の中でそれ迄の鬼道から神道に改宗させられたんじゃないかな、と思う。銅鐸の破壊は旧指導者に対する人心の表れじゃないかと。
銅鐸は人の魂を数えた物だと思います。子供が産まれたら一つ作る、もしくは、人が亡くなったら一つ作るといったように作られた物で舌がある物は本当に鐘として使われた物だと思います。大きさが色々あるのは、その時代にどれだけ世の中に貢献したかで大きさが決められ、埋葬した。もしくは役所のような場所に集められてた?僕はそう思います。
コメントありがとうございます😊それもまた興味深いですね!銅鐸ひとつとってもこれだけ沢山の考えや説があるのは興味深いです!古代日本ロマンに乾杯!w
古代日本ロマンに乾杯!w
紀元前2世紀〜紀元2世紀の間に作られ、その後は銅鐸から鏡の文化になったのではないてすか?音でしらせるより、太陽の光を反射させて信号を送った方が静かで速いですから。
音を鳴らしたかもしれない、と言うならその音を聞いてみないとサッパリ分らんね。
コメントありがとうございます😊RUclipsにも音色など色々な動画が上がっているようですね!
超兄貴の古代の神様がバズーカからぶっ放してんのが確か銅鐸でしたよ。昔の神様のやる事は、わからん………
古代日本の社会の変化には大陸からの移民の影響が大きいという説が説得力があるように思います。
時刻を知らせる鐘🔔
いわゆる大社系の神社に収められる注連縄にぶら下げられていたのだと思います。人々は舌から下げられた紐を揺らし参拝したに違いありません。
コメントありがとうございます😊やはり出雲がポイントかもしれませんね!
猟をする時、獲物を追い立てるためじゃないのかな?
私は三角測量の道具だと思います。
「鋼鉄ジーグ」で銅鐸を知った世代です。
コメントありがとうございます😊パーンサロイドとか胸が熱くなりますよね!w
科学と学習のふろくで知ったよ。
縄文時代は海外との交易も有ったと聞くから案外、海洋貿易中に亡くなった同胞の代わりに埋めていたのかもな、舌が無い方は子孫がその共同体に居ない状態で舌がある方はその共同体に子孫が居て今で言う御彼岸の様な祭事をしていたのかもな。
これ、権力者が鳴らすと、村人全員集まらないといけない決まりがあって、みんなが銅鐸を神聖視して崇め畏れてたから、そんなのは不条理だとみんな目を覚せと俺が怒って叩き割った。
春秋時代の越は滅亡の際、北陸(越前、越後)に移住。銅鐸の発祥は江南の越。ヤマト政権のルーツは呉なので呉と越の戦いになります。
風鈴ですね😅
そんなのが有るのかしらなかったです
MARUさんだー♪ (※ '・∀・)ノシ" ワシワシ!
ボクは、銅鐸は普通に時間を知らせたり、集合の合図に使ってたんじゃないかな?と思うけどね。(´・ω・`)
廃れた理由は、人気が無くなったってことじゃないかな? だっさwお前んとこ、まだ、銅鐸なんて鳴らしてんのかよwwみたいなね。昔の村落には手回しのサイレンがあったけど、それを墓には入れたりしないから、銅鐸の立ち位置は似たようなものだったんじゃなかろうか?
コメントありがとうございます😊なるほどそういう解釈もあるかもしれませんね!皆さんの色々な考えが聞けて楽しいです✨
@@hatena_discovery MARUさんへ>ハートマーク、一杯ありがとうございます!(※ ・'д・') キリッ
博多銅鐸
どんたく?
結局はなにも分からないということですか。まあ考古学はそんなものでしょう。古墳の中から発見されることがないというところにヒントがありそうです。
騒音の無い時代に過度に大きくする必要はないんじゃ?それに鈴みたいな痕跡あるならもう鈴でいいじゃん
大和民族に滅ぼされたのでは?でも銅鐸は何なのか謎ですね
畑に来る 鳥を追い払ってたのかな?
邪馬台国について書いてないのかな?
コメントありがとうございます😊今回は銅鐸に焦点をあてた内容で構成したので、邪馬台国はまた改めて投稿予定です!
仕事始めや仕事終了時などの時を知らせる鐘として使用したのではないかなぁ?
コメントありがとうございます😊やはり鐘説が一番説得力がありますよね!
全国で、大量生産されていた。てことは、交易していたし、生活に欠かせないものだった。んじゃないかな?やっぱ、時計じゃね?山や丘に心棒があって、銅鐸を寝かせて使った。心棒の影で時を、時期を知ったんじゃ? デカくなったのは、時だけじゃなく、時期を知るため。 突然作られなくなったのは、もっと機械的な時計や、高性能の暦ができたから。なんだよ。たぶん。
💘+Justice↑☮️
紀元前3世紀まで続いた弥生時代?紀元前3世紀から始まったの間違いでは?
ちょいちょい漢字の読みを間違えてる。読む人の為にルビを振ってあげてはどうでしょうか。
コメント&ご指摘ありがとうございます😊それは私のチェックが至らなかったようです💦以後気をつけますね!
我々の時代は社会の時間に、何でも祭壇に祀られた事で片付けられたような🤣笑
消えた理由はイズモが負けちゃったからだっぴ。
卑弥呼なんていなかった説を唱えたい
コメントありがとうございます😊その点に関しても非常に多くの諸説がありますよね!正直まとめられる自身がありませんw
弥生時代、存在しない
コメントありがとうございます😊そういう説もありますね。ただそういう話になると本題がぶれるので、便宜上現在の日本史にならったご紹介です。
いち!
いちコメありがとうございます😊
以前RUclipsの動画(Hayashiさんという先生のチャンネルかな?)で銅鐸の事を検証していましたが、暦という説が凄く納得できるものでしたよ。
上の部分の模様が日にちや月で丁度一年が数えられるようになっていて、夏至や冬至も分かる日時計的な役割もしていた、みたいな動画だったと思います。
鐘だとは考えにくい理由もおっしゃっていましたが、その辺の内容は覚えてません。
銅剣のインゴット(原料)と考えるよりは、(戦争が終わって)いらなくなった両軍の銅剣を熔かして作った。のほうがまだ納得しやすいです。銅剣製作よりも高度な技術で、しかも時代によってだんだん大きくなってくるからです。描かれている絵がとても平和的な感じがします。いま思いついた考えです。
本当に大好きなチャンネルです。動画ありがとうございます。
いつも、楽しく拝見しています。
私も、はやしひろし先生の説を信じてる一人です。楽器ではない、天体観測装置だ、という説です。
上部の飾りにある、360本の線と春分秋分の日がわかるかのような欠け。太陽の昇る角度を確かめる物だという説です。
そして、超古代の文明機器であり、新勢力の覇権により、要らなくなった….!!
銅鐸の動画、嬉しかったです。
いつもご視聴いただきありがとうございます😊
謎が解明されていない以上は様々な説があって然るべきですし、
古代に思いを馳せつつ、それらを考察する事がロマンだと思います😀
楽しんでいただけたなら動画作成冥利に尽きます!
間違いなく楽器だよ 口伝で
@@氷見修一 口伝?!があるのですね!存じませんでした。教えて頂き、ありがとうございます。
いろんな見解を知る度々感心してしまいます(^_^;)ただ、すごくロマンを感じます!
漫画『ヤマタイカ』では、興奮増幅装置として描かれていて、それもワクワクした記憶があります。
銅鐸のことはサッパリわからんけど
これだけはわかる
スゴい技術で造られたんやろなって☺️
私もhayashiさんの天体観測装置説というのを以前youtubeで拝見したことがありますが、その表面の直線や小さくあけられた角孔から
天体観測をしたとのことでした。画期的な説ですが、小さな銅鐸が時代を経て巨大化していった理由や扁平な釣鐘状になっている理由が
判らないし、天体観測するには巨石や石積みのように動かない工夫が要りそうで、世界の古代天文台みたいなものはそうなっています。
また観測装置がなぜあんなに沢山必要だったのかの理由も釈然としません。奇抜で興味深い説なので、その辺りがクリアできれば
面白いですね。他に楽器や害獣や外敵を感知するトラップなど諸説ありますが、いったいどんな音がするのか、一度聴いてみたいですね。
現代において銅鐸はポケモンとなりました(14年前)
これだけの量の銅をどうやって採集していたのだろうか
神代日本~古代日本まで含めると、日本の歴は1万5千年~くらいになるそう.....
日本を本当に研究したら世界の謎が解明されるのではと思ってる
コメントありがとうございます😊
可能性は十分にありますよね!ハテナ見聞録もその観点から様々な日本の歴史をご紹介しています!
銅鐸カッコいいですよね!!
法九州に住んでいるので、うちの近所に落ちているといいです!
コメントありがとうございます😊
歴史が多く眠る地はロマンがあって素敵ですよね✨
自分は銅鐸は実用的な鐘だと思いますね。山の頂上とかにあるのは、町の中心で1個だけ鳴らしたところで全体に聞こえないので、連携しながら複数の場所で鳴らして、定時連絡や緊急連絡などをしたのでしょう。横たわってみつかるのは、普段横たわって置いていたからでしょう。舌が一緒にみつからないのは、ぶら下げていた場合もあったでしょうけど、普段は鳴らす担当の人が持っていたからでしょう。紐が腐ってどっかいっちゃたりしたら大変ですから。そして舌を持つ人のステータスにもなっていたのではないかと。外を叩いた形跡がないのは、立派な模様があるんだから、中を叩けと言われていたからでしょう。でかいやつは、実用目的ではなく飾りだったのかと思います。
あと急に廃れたように思われてますが、時代時代の地層で見つかるということは、時代時代で捨てられてきたことだと思います。弥生時代についても、時代という大きな枠でくくられてますが、これもただの一部地域の一文化なだけだったと思います。時代時代で作られて捨てられてきたものが、文化の衰退と共に消えたか形を変えたのかと思います。実用的な鐘に装飾はそう必要ないですし。
お疲れ様です。
出雲地方から桁外れの
銅鐸が出土。
サナギ 再生 蛇信仰
音響をもって神意を伝える
神呪の料。
蛇は尾が触れる物で別様の響きを
出すと生態上いわれてます。
毎回学ばせて頂いてます。
益々楽しみです。
コメントありがとうございます😊
そしてこちらこそいつも詳細かつためになるお話、勉強になります!
調べたところ、銅鐸の出土は日本の平均降水量の少ない地域に多くみられることがわかりました。(出雲は例外ですが)特に瀬戸内〜畿内〜三河〜東海。農耕祭祀に使ったのはほぼ間違いないので、となると私の推論で恐縮ですが、「ひでり」「干魃」などの気象条件からイネを守るため、銅鐸を鳴らし空気を震わせ、天に響かせ、神へ雨乞いを請うた、その道具だったとは考えています。そう銅鐸は、神と交流し雨乞いをするための祭器だった、と。
しかしのちに激しい洪水と干害とが交互にやってくるようになり(古代寒冷期)、人々は雨乞いだけではダメだと気ずき、新たにヤマトへやってきた者たちの新しい神に傾倒していった、のではないかと考えています。
大国主命の国譲りと関係があったのではないかと思います。多くの地方勢力が銅鏡を大切にする新しい集団を選び、それまでの銅鐸を所持する事は危険な状況が生まれたのでしょう。旧勢力が回収して出雲に運び、再利用するため、銅鐸に宿った神が離れるのに必要な期間土に埋めた。その場所を知っていた人達に何かが起こり、そのまま放置された。諏訪地方へ行ったのかも知れません。
いい声‼️
近所に、かつての大規模銅鐸工場跡が出土したり、埴輪の大規模窯跡が出土しているので、考古学マニアとしてはたまりません(笑)
ただ、どちらも有名な割に、博物館が小さい (住宅地の中にある為?出土品が少ない為?) のが物足りないです。
最初は連絡用だった物が、村と村の境界線に置かれるようになったのでは?
コメントありがとうございます😊
確かにムラの境界線説もありますね!
現状は答えを知る術はありませんがワクワクしますね!
違うよ 祭司に使っていた
@@氷見修一 かも
なら直接行って話した方がよっぽど早いんでねーですか?
ヤマトが、それまでの権威的なものを禁じたから無くなったと思うなぁ。
古代では音と声は同じ意味と思うので、音を鳴らす事で祈りの声としたのではないか…と考えています。
神社でも鳴らすでしょ?
あの様に祈る時に鳴らす道具だと思う。
コメントありがとうございます😊
古墳時代から銅鐸がパタリとなくなった事を考えるとその説が一番しっくりきますよね!
諸説にもロマンがあってワクワクします!
動物に田畑を荒らされないように、縄を通して、その縄で田畑を囲って、動物が縄に引っ掛かると音が鳴って追い払う、説を提唱します。
稲作は縄文時代から盛んに行われていたようです。縄文期に渡来人が来てより、争いが増えたような話はよく聴きます。
中国三星推王国時代(まだ文字もなく奇妙な仮面の文化が栄えていた古代を題材にした漫画(諏訪緑先生作)があったのを思い出しました。その中の一つの王国が銅にょう(銅鐸にソックリ)を国の境界に埋めて国の守りとし、王様は銅にょうを不思議な力で響かせた。その音は巫女にしか聞こえないけど(土に埋めてるので😅)民を思う心でとても優しい音がした。なんかそんな話でした。
儀式と農耕習慣の説を推します。なぜ合金にしたのか。音、周波数と言い換えてもいいかもしれませんが、カミへの祈りを響かせて届けるべくより澄んだ材質を求めて合金比率を変えていったのではないか。そして祈りであると共に神託や洗礼、浄化的な意味でより広範囲に届けるべく大型化していったのではないかと。廃れた経緯については否定派による旧勢力の打倒説を推します。象徴であったなら壊すことがより効果的な手段であったのだろうと推測します
コメントありがとうございます😊
時代背景からアニミズムをベースとして
自然や神への感謝を表す為の銅鐸と考えるとしっくり来ますよね!
銅鐸。当時の正式な名称は神社他の名称にも成った「サナグ」(サナギの古語)
また、単に「鈴(スズ)」とも呼んだ。(五十鈴は数多のサナグ(銅鐸)。五十鈴媛命、とは、数多のサナグを管掌なさる姫巫女さま。=祭主)
、、、猿投(サナゲ。はサナグの変化したもの)、
出雲王国が国教の「幸(サイ)の神信仰」のレガリアに紀元前3世紀に新たに採用した。
来歴も明らかで、所謂、秦の始皇帝の不老不死の仙薬探索を名目に渡来した徐福が関係します
徐福が出雲王国に渡来するに当り、その一年前に忠実なる配下の「ホヒ」とその子息の「ヒナドリ」らを事前工作、交渉に遣わして、
数多の珍奇な宝物等を第8代出雲王(「オホナモチ」と言った)の八千矛命(古事記等では大国主命の別名として列記)に献上して歓心を惹き、渡来、上陸許可を得ようとした。
(出雲王国は不審な漂着者は全て追い払う(排除する)様に出雲八重書きを発布していた)
その献上品の中に古代中国の楽器で祭器の青銅製の扁鐘(ヘンショウ。カウベルの様な形状。最近人気の中国の古代時代劇に度々でてくる)
が特に八千矛王の関心を引き、
先遣のホヒは、王さまの御意のままに形状を改変する事も可能です云々。
結局、出雲人のおおらかでで伸びやかな感性と、出雲王国の国教、幸の神信仰から
サナグ(昆虫のサナギに似せた(再生と発展))の形状となり、
国教の幸の神信仰の祭祀に採用された。
容器形状は同信仰の女神、幸媛命(サイヒメ/サビメ)の形代。
中に仕込まれた棒状の鳴らし棒?は主神、クナト大神の形代。
サナグ/鈴を打ち鳴らす行為は男女の交合。
素朴で清らかに鳴り響く音は、男女の交合の結果の御子神、サルタ彦大神(悪しきモノを遮り、払い退ける神)
サナグ全体では子孫繁栄、殖産興業、発展発達などをあらわす。
銅鐸にXが数多ある理由も男女の和合、交合をあらゆる物事の根本原理とする「幸の神信仰」を表現。
顔が線刻されたモノは主神、クナト大神(後にはイザナギ)のお顔。
確かに素晴らしいのですが、胴部と底部の穴の意味については何か伝承に書かれている内容があれば教えてください。何らかの意味合いがあって開けられたものと思います。
鉄鐸との関連なんかも合わせた考察も期待。
コメントありがとうございます😊
鉄鐸との関連…これは調べ甲斐がありそうです😀
銅鐸は本来は農耕時期を知るための正確な日時計(取手と上面の模様でカレンダーになる)。2本の棒と4つの穴は水平と方角をキャリブレートするため。遠くまで見渡せる必要があり丘陵や小山で使用。落雷を避けるため地中に埋めて保管。薄いから叩いたら凹むし,吊り下げたら縄が切れる。資料館にある叩ける鐘は現代のオマージュ作品。
因みに縄文文明から農耕はあった。
つい最近旅行で古代出雲歴史博物館に行き、動画にあった銅鐸がズラーっと並んでいるのを見て感動したばかりです。
銅鐸は出雲王権の祭具でご神体、以下のようなぶっとんだ妄想をしていました。
・日本王権が現在の奈良県(出雲と交流のあった地域)を侵略したときは銅鐸文化は残した
・吉備や出雲や倭国を侵略して国譲りさせたあとに支配地域の祭具がバラバラなので銅鏡で統一
(吉備の特殊器台はコスト安だが見栄えが微妙、出雲の銅鐸はかっこいいけどコスト高すぎ)
・銅鐸いらないから破壊して溶かしてたら災いが起こったので山の上に埋めて祀った
天文観測器とかまんま鐘として使ってたとかの方が現実的ですが、
そんな便利な使い方をしていたなら使い続けると思うんですがどうでしょう。
祭器を埋納する風習は、大陸にもありますね
コメントありがとうございます😊
確かに原稿作成時にその様な記述も確認しました!
無論大陸との文化交流もあったでしょうし、
何かしらの影響はあるのかもしれませんね😀
銅鐸は何なのかは、ずっとわからなかったが
最近、発見された銅鐸の内部に舌があるのが確認され、銅鐸は鐘だったと特定された
まあ、もとから鐘との説が有力だったがな
銅鐸が消えたのは二世紀後半から三世紀前半ごろ、銅鐸は消えて代わりに銅剣が広まった
九州の神器であった銅剣が本州まで広がったのだから、それは神武の東征にあたる何かがあったのだろうな
元々は大陸から伝来した武器や鏡など実用性を持った道具が、いつしか権威を示す祭事器に変化したという事例がいくつもあります。銅鐸も本来は楽器でしたが、その神秘性から権威を示す道具に変じた可能性は高いでしょうね。そして国産化される過程で独特の意匠が加えられる反面、楽器としての実用性は失い、ますます謎めいた存在になってしまった感じでしょうか…。
銅鐸のルーツはカウベルと聞きますが、鹿の絵が模様されています。鹿島神宮や春日大社や厳島神社では鹿は神の使いであり、諏訪大社では鹿を捧げ物としていました。
豊穣を感謝するような祭祀儀式に使われていたのかなと思います。
銅鐸の発見場所は明らかに出雲王朝の勢力圏ですね。銅鐸が消えた3世紀は第10代崇神天皇が四道将軍で勢力圏を広げ、西日本を統治した時期なので、全部古事記の記載と合致します。鳴らし方や鳴らすタイミングは分からんけど、銅鐸は出雲王朝文化で使用された祭器であるのは間違いないですね。構造が鈴に似てるのなら、現在の神社の鈴みたいな使い方だったのかもしれません。鈴は出雲系の文化ですからね。
コメントありがとうございます😊
確かに出雲圏の出土も多く歴史の変遷とも一致する気がしますね!
今後の解明に期待です!
いつも興味深い動画に感謝します。(-人-)✨
11:54 古代ヤマト王権成立
ヤマトに消された(?)民族が使っていたと思います。
銅鐸の詳しい使い方は、はやし浩司先生が解明されて動画でアップされてますね。(とても古い動画です。)
私はソレを支持したいと思います。(*^^*)
コメントありがとうございます😊
私も後ほど覗いてみたいと思います!情報ありがとうございます✨
あの方の動画で初めて説得力を感じました
目盛りのないものや数が違うものもあるようですがそれは私の気のせいですねたぶん
我々の住んでいた所では、照明やスピーカーとして使ってましたよ⁉️
農作物泥棒を見つけたりしたとき仲間を呼ぶのに鳴らしたんだと思う
なるほどなあ
最大の大きさの銅鐸が出土し、出土数も2番目に多い滋賀県野洲市。そのお隣の滋賀県守山市に卑弥呼が住んでいたとされる遺跡がありますね。
距離的に10キロ圏内ですので野洲市の銅鐸と守山市の卑弥呼説に何らかの関係があるのでしょうかね。
地元なので前から気になってました。
形状から見ると風鈴に似てますしそこから考えてみると
米蔵や田畑の周りに設置して獣避けにしてたのかもしれませんね
私はつい最近 百年前的写真.タイとミャンマーの国境沿いに住んでいるシャン人の銅鐸を見ました. この銅鐸は牛の首の根付けと胴体の位置に立てたのです. 今のアジア奥地山岳地帯は牛に鈴をつけたのが常識、鈴と言っても四角い箱型が多いです. 百年前の銅鐸は牛の背中(首の部份)に立てています.両側に支柱のような桁で支えています。.それは虎の襲いを避ける仕掛けらしいです。虎の習性は動物の首を咬む技です.その銅鐸の型は偏平の鐘の型. 部もあまり厚くない 頭の部分に紐を通す耳のような場所(穴)いくつあります。それは銅鐸を吊す目的.(前に掛けられたのではなく).大きさは(長さ)は牛の 頭 位かやや小さい です 牛が前進の時 音が響き、虎 くまをおどかす目的です.例え虎が牛の首に 跳びつかまえてもその銅鐸が邪魔になって 咬む事が出来ません.山岳地の民は虎を山の悪神(山の神)とする.敬畏を持っています.この道具を避邪とも思います。 列島に入ってくる渡来人がこの大事な道具を一緒に持って来て.現実に 虎のような猛獣は 日本に居なかった。そして だんだん 廃れられました。
林浩司氏により天文装置及びカレンダーであると既に証明されている。
出雲は海運業も盛んだったはず、汽笛が灯台代わりとか?
卑弥呼は大和の姫巫女で、大君(天皇陛下)と朝廷が九州に戻ったから隠す為、欠史8代にしたとか?
色々考えてみると面白いよね。
コメントありがとうございます😊
なるほど!その説は頭になくて目から鱗です!
@@hatena_discovery
旧唐書に、ヤマトから2つの使者がやって来て、天子の前で自分がヤマトの使者だと喧嘩した。と書かれているらしい。
神武東征でも、東征だから東の地を平定してから、九州に帰ったかも知れないよね。
江戸と京都の様に、近畿をまとめる大和と、朝廷のある九州の邪馬台国。
台の元字「臺」うてなの意味の中に、朝廷のある所と言うのがあるそうです。
高度な天文計測じゃなく、日時計でたたいて音が出るとなると、単なる時計?
でも、薄い金属を叩くと割れるので、音を出したのは使い方が解らなくなった人たちの行為かも
音を出すなら円形の方が適しているので、変形なのはフーコーの振り子じゃないけれど
振り子を利用して正確な方角を測ったのかもね、やがてもっと良いものが出来て
最初は建設道具の一種だったけれど、やがて使い方のわからない人によって祭祀用になった?
そらー必要なくなるよね
確かに銅鐸って不思議ですよね。
コメントありがとうございます😊
諸説あって解明されていないものには惹かれてしまいますw
亡骸を埋葬後、月を経由してリゲルへ魂を送り出す交感の儀で使う。
彼岸、夏至、冬至に魂を呼び、音を鳴らし交感する儀で使う。
台風が来た時に鳴らす巨大な風鈴だとは今更言えない
最初は敵の侵入を知らせる道具だったのが野畑を荒らす野獣の侵入を知らせる物になりその後お守りとしての役割になったから大型化したのだ。【日本語の隠された謎】という本を読めば納得できます。
@@gorilla8137 弥生時代にガンガンぶっ叩く機工は出来ません。
綱に銅鐸を吊るして夜侵入するとき綱に引っ掛かり銅鐸がカランカランと鳴って知らせるのです。
【日本語の隠された謎】という本を読めば納得できます。
一応は鐘としての機能も鳴らした痕跡もあるんですね?
舌が一緒に見付かってないから鐘型の飾り?祭器?だと思ってました。
舌の部分は土に還ったとかではない?
海外にも同じ物が無いってのも知りませんでした。
てっきり中国から銅鐸として伝わったとばかり。
伝わった鋳造技術を使って鐘を作る発想が果たして当時の日本人にあったのか?
それとも鐘その物は伝わったけど、日本独自のアレンジに変わったのか?
代表的な出土品なのに謎だらけですね?
玄関の呼び鈴に銅鐸を使ってみては?
江戸時代と同じで時間を図るためな気がする
日時計として使われていたのではないでしょうか? 林ひろしさんをご参考に! 刀や鍬などに加工されたのでしょう。
そもそも音が出るんですかね?
まあ、動画主は、基本的に「銅鐸は鐘」という説を取るようだが、それは無いだろう。
現在でも、古刹において修行僧への合図には木鐸が使われるが、そのように、役に立つものが一気に廃れることはない。3世紀初めに銅鐸が急に姿を消したのは、風呂を沸かす道具として用済みになったからだろう。つまり、その頃に日本では鉄製品が自ら作れるようになり、それによって「焚き口(鉄製)が付いた風呂」が登場し、銅鐸が必要でなくなったのと考えられるのである。
徐福 と関係ありそうですね。 古代イスラエルの民 21万人が日本に集団移住し同化したと伝えられている。
鋭いですね。3:32の写真が徐福が青銅技術者を連れて斉国から渡来した時に献上品として持って来た編鐘と呼ばれる銅鐸の元になったと今でも広く信じこまれている打楽器に形が近いです。でも送られた方の出雲王国は、当時最先端の科学技術の粋を集めた天文観測器兼カレンダー兼時計である銅鐸を既に開発し使っていたので、今更古典的な鐘🔔の打楽器を送られても、使い道もなく、形も気に入らなかったので、わざわざ鋳直して銅鐸にしたようです。ちなみに徐福は、道教を信仰し、日本に道教を広めるために来日しましたが出雲王国の人々に追い払われ何度も母国に逃げ帰っています。元々ペルシャ系のユダヤ人の血を引く様です。残念なことに、徐福達の図らいによって、日本はその後に結果的に白村江の戦いに敗れ、一時的にシナ国の奴隷国となってしまった様です。
@@myuichirou この場合はオリジナルを改良したのとは少し異なる様です。日本の銅鐸とシナの斉国の編鐘🔔とは元々道具として用途が違うので、鋳直したことからも、おそらく単に銅鐸の材料にしただけの様な気がします。銅鐸のオリジナルは編鐘🔔などではありません。まして銅鐸はシナから伝わったものではありません。また銅鐸が最も多く出土したのは出雲なので、弥生時代の象徴ではなく、縄文時代にタタラ製法で作られたものです。
こんにちは、銅鐸は、最初は、小さかったんですよねぇ、でも後から人が持ち上げられ無いほどになったって言いましたよねぇ、部族同士の力競べだったんじゃ有りませんか!?何処かの海外の島でも歩くモアイを矢張り力競べの為にどんどん作って最後は、木を切りすぎ為に滅亡した事例が有りましたよねぇ!?武器を使わずともそう言う道具が縄張り争いと言うかそう言う物の為に使われると言うのは、良く有る事です、まぁ今でも昔でも良く有るご近所トラブルだったのでしょう武器を使わずに金の音のなる道具でね、
田植えの時の太鼓のように使われてたんじゃないかな。
恐らくは初期の稲作はムラの共同田圃で稲作を行ってたんだろう。先ずムラごとの貧富が生まれ、政治体の最大単位が大きくなり田圃は個人の所有になる。
個人での貧富の差が生まれ身分差に直結、さらに最大単位は小国家になり伴って指導者の権威に合わせて銅鐸も巨大化。
多数の人間が同時に他に入って田植えするのなら、横一列で太鼓の音に合わせて同じ速度で植えるのが一番無駄が少ない。
使われなくなったのは単純に宗教としての信仰対象が変わったから。恐らく大和政権の統一事業の中でそれ迄の鬼道から神道に改宗させられたんじゃないかな、と思う。
銅鐸の破壊は旧指導者に対する人心の表れじゃないかと。
銅鐸は人の魂を数えた物だと思います。子供が産まれたら一つ作る、もしくは、人が亡くなったら一つ作るといったように作られた物で舌がある物は本当に鐘として使われた物だと思います。大きさが色々あるのは、その時代にどれだけ世の中に貢献したかで大きさが決められ、埋葬した。もしくは役所のような場所に集められてた?
僕はそう思います。
コメントありがとうございます😊
それもまた興味深いですね!
銅鐸ひとつとってもこれだけ沢山の考えや説があるのは興味深いです!
古代日本ロマンに乾杯!w
古代日本ロマンに乾杯!w
紀元前2世紀〜紀元2世紀の間に作られ、その後は銅鐸から鏡の文化になったのではないてすか?
音でしらせるより、太陽の光を反射させて信号を送った方が静かで速いですから。
音を鳴らしたかもしれない、と言うならその音を聞いてみないとサッパリ分らんね。
コメントありがとうございます😊
RUclipsにも音色など色々な動画が上がっているようですね!
超兄貴の古代の神様がバズーカからぶっ放してんのが確か銅鐸でしたよ。
昔の神様のやる事は、わからん………
古代日本の社会の変化には大陸からの移民の影響が大きいという説が説得力があるように思います。
時刻を知らせる鐘🔔
いわゆる大社系の神社に収められる注連縄にぶら下げられていたのだと思います。人々は舌から下げられた紐を揺らし参拝したに違いありません。
コメントありがとうございます😊
やはり出雲がポイントかもしれませんね!
猟をする時、獲物を追い立てるためじゃないのかな?
私は三角測量の道具だと思います。
「鋼鉄ジーグ」で銅鐸を知った世代です。
コメントありがとうございます😊
パーンサロイドとか胸が熱くなりますよね!w
科学と学習のふろくで知ったよ。
縄文時代は海外との交易も有ったと聞くから案外、海洋貿易中に亡くなった同胞の代わりに埋めていたのかもな、舌が無い方は子孫がその共同体に居ない状態で舌がある方はその共同体に子孫が居て今で言う御彼岸の様な祭事をしていたのかもな。
これ、権力者が鳴らすと、村人全員集まらないといけない決まりがあって、みんなが銅鐸を神聖視して崇め畏れてたから、そんなのは不条理だとみんな目を覚せと俺が怒って叩き割った。
春秋時代の越は滅亡の際、北陸(越前、越後)に移住。銅鐸の発祥は江南の越。ヤマト政権のルーツは呉なので呉と越の戦いになります。
風鈴ですね😅
そんなのが有るのかしらなかったです
MARUさんだー♪ (※ '・∀・)ノシ" ワシワシ!
ボクは、銅鐸は普通に時間を知らせたり、集合の合図に使ってたんじゃないかな?と思うけどね。(´・ω・`)
廃れた理由は、人気が無くなったってことじゃないかな? だっさwお前んとこ、まだ、銅鐸なんて鳴らしてんのかよwwみたいなね。昔の村落には手回しのサイレンがあったけど、それを墓には入れたりしないから、銅鐸の立ち位置は似たようなものだったんじゃなかろうか?
コメントありがとうございます😊
なるほどそういう解釈もあるかもしれませんね!皆さんの色々な考えが聞けて楽しいです✨
@@hatena_discovery
MARUさんへ>
ハートマーク、一杯ありがとうございます!(※ ・'д・') キリッ
博多銅鐸
どんたく?
結局はなにも分からないということですか。まあ考古学はそんなものでしょう。古墳の中から発見されることがないというところにヒントがありそうです。
騒音の無い時代に過度に大きくする必要はないんじゃ?それに鈴みたいな痕跡あるならもう鈴でいいじゃん
大和民族に滅ぼされたのでは?でも銅鐸は何なのか謎ですね
畑に来る 鳥を追い払ってたのかな?
邪馬台国について書いてないのかな?
コメントありがとうございます😊
今回は銅鐸に焦点をあてた内容で構成したので、邪馬台国はまた改めて投稿予定です!
仕事始めや仕事終了時などの時を知らせる鐘として使用したのではないかなぁ?
コメントありがとうございます😊
やはり鐘説が一番説得力がありますよね!
全国で、大量生産されていた。
てことは、交易していたし、生活に欠かせないものだった。んじゃないかな?
やっぱ、時計じゃね?
山や丘に心棒があって、銅鐸を寝かせて使った。心棒の影で時を、時期を知ったんじゃ? デカくなったのは、時だけじゃなく、時期を知るため。
突然作られなくなったのは、もっと機械的な時計や、高性能の暦ができたから。なんだよ。たぶん。
💘+Justice↑☮️
紀元前3世紀まで続いた弥生時代?
紀元前3世紀から始まったの間違いでは?
ちょいちょい漢字の読みを間違えてる。読む人の為にルビを振ってあげてはどうでしょうか。
コメント&ご指摘ありがとうございます😊それは私のチェックが至らなかったようです💦以後気をつけますね!
我々の時代は社会の時間に、何でも祭壇に祀られた事で片付けられたような🤣笑
消えた理由はイズモが負けちゃったからだっぴ。
卑弥呼なんていなかった説を唱えたい
コメントありがとうございます😊
その点に関しても非常に多くの諸説がありますよね!
正直まとめられる自身がありませんw
弥生時代、存在しない
コメントありがとうございます😊
そういう説もありますね。
ただそういう話になると本題がぶれるので、便宜上現在の日本史にならったご紹介です。
いち!
いちコメありがとうございます😊