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大河の名前が変わる時って、ポケモンが進化するときのワクワク感ある
大河の北条時宗で平頼綱役の北村一輝の怪演ぶりが凄かった❕時宗亡き後の騒動を観たいと思いました。その先祖が鶴丸だったとは…
様々な歴史系ユーチューバーさんの動画の中で、武士道さんの平盛綱の解説が、一番分かりやすかったです。黒のお着物、とても似合っていらっしゃって、素敵です。
孤児が出世するって!夢があって良いね👍
この平盛綱の子孫が悪名高き長崎高資だったとは・・・・ドラマで寝転がりながら名前を考えてくれていた義時さんに優しさを感じましたね。後鳥羽上皇が実朝の名前を考える時といい、名前を与える際の「ノリ」みたいなのが軽すぎて面白いです。
このドラマでは、元服で名前を付ける際や改名する際の軽い「ノリ」が印象深いです。北条時連→時房、北条頼時→泰時も改名のきっかけが「ノリ」でしたね。「時連」の「連」が「貫=銭」を連想して賎しく思われるとか、「頼時」の「頼」が頼朝を連想するから頼家から「泰時」に改名するよう促されたとか、武士の改名はこんな軽い「ノリ」が昔から多かったのでしょうね。
それ思いました。ドラマならではで面白かったです。
尊卑分脉は室町時代成立ではないですかね。近年になって色々と言われてるようですが、承久の乱の時点で、兵衛尉で登場しているので、普通に盛綱も実忠も資盛の系統と考えるのがしっくりきます、、源氏に負けて土地はなかったけど、頼朝を助けた重盛の血統で要は血筋がよかったのではないですかね。
伊豆の長崎郷は北条郷に隣接しているけど、今はイチゴ農家とかあるけど、当時水田が一面に広がっていただけかも。台風が来ると床上浸水することが多くて、各家の軒には小舟がつるされて用意されていました。長崎は見学に行っても、とくになにもありませんですw
モブが大進化を遂げたと思ったらドラマは結構信憑性のある解釈だったんですね〜
他の方も言われている通り、平頼綱は北村一輝が狂気があるようなキャラを演じていて怖かった記憶(他のドラマでも北村一輝さんは狂気があるキャラを演じておられることも多かったですが、数年前にNHK朝ドラでダメ親父を演じていて、丸くなったなあ、と思った思い出w)安達泰盛のとの抜き差しならない確執がありましたが、最終回に北条時宗の命で両者和解したものの、ナレーションでその後にまた争いが起きて、両者滅んだことが語られていて悲しかった記憶・・・
教科書的には、御内人は北条得宗家の家来で、御内人の中には御家人身分の人もいたかもしれないということみたいですね。領地を持たなければ御家人とは言えないし、御内人が幕府の役職に就くのも変だということで、盛綱は謎多き人物のようですね。
大体、孤児の鶴丸を鎌倉に連れてきたのが八田知家ですから意味深なのですよね。八田知家の兄は宇都宮朝綱。宇都宮朝綱は平家滅亡後、平重盛の側近・平貞能(さだよし)を保護していた人物。平貞能は平資盛の後見人の立場でした。とすると、平資盛の遺児・鶴丸を平貞能が宇都宮朝綱に託し、宇都宮朝綱の弟・八田知家が鶴丸を鎌倉へ連れてきたという流れがドラマの中では想像されますよね。こういうストーリーをドラマに盛り込んでくる三谷幸喜氏という人は随分と歴史に精通しているのかな、とも思ってしまう。もし、こういうことが史実としてあったなら、どこかにそういう史料があったのでしょうか。何かの史料なり伝承などがあるのかもしれません。興味深いです。平盛綱は承久の乱の時点で「兵衛尉」の官位を持っているということは、北条得宗家の単なる被官(家臣)ではないような感じがするのですが。
善児に尾藤の名字が与えられると読んでいて大ハズシしたのは私です。あとね、系図は疑いまくっていいけど、どこかで繋がりを見つけるのが醍醐味です。
大河っぽい解釈になるけれど、自分や子供の股肱の臣とするため戦や政争で没落した家の才覚ある孤児を引き取ったのかなと。養子同然に実子と一緒に育てた結果、成長して期待に応える働きをしていたので時政や義時に気に入られて官位も与えられた。というのも自然です。古今東西世界中でよくある忠臣の作り方ですし、敵の多い北条には信頼できる身内は必須かと
2001年の大河「北条時宗」で、平頼綱がもともと「みなし子」で今大河の善児のようなアサシンをやっていたのを執権・時宗に気に入られて御内人・平盛綱の養子になる、というキャラクターでしたが、今回の鶴丸→平盛綱のキャラクター設定もそのオマージュである、と見ました。今大河「鎌倉殿の13人」は、鎌倉時代が舞台の大河「草燃える」「北条時宗」「太平記」のオマージュと言えるような演出があちこち散見されますね。
ドラマでは八重姫の遺児らかと生前は孤児院みたいな感じやし戦国時代やと家柄が良うない木下藤吉郎が従兄弟や再従姉妹回って即製家臣団こさえていたとか
ドラマ的には、善児に始末されたはずの静御前の子だったというのも面白かったと思うんだけどな。
いつもわかりやすい説明ありがとうございます。鎌倉殿の許されざる嘘の回で墨俣川で義円を討ち取ったのもタイラノモリツナだったとナレーションで流れてたのを記憶していてちょっと紛らわしいなと思ってたり( ´□`;)
ミスター武士道氏は平盛綱を「御家人」と言っているが、違うのではないか?御家人は鎌倉殿と「御恩と奉公」の関係で結ばれた武士であるが、領地のない盛綱には「御恩」がない。盛綱は義時・泰時の家来だから、鎌倉殿(実朝)の直臣ではなく陪臣にあたる。ドラマでも実朝が盛綱を御家人にすることを却下していた。
その通りだと思います。義時の時代にはまだ御家人が北条と主従関係を結んだ例はないと思います。御家人が困窮して、やむを得ず北条と主従関係を結び、北条の家人化してくるのは、もう少し後の時代だと思います。私もそこまで詳しくないのであったかもしれませんが、御家人とその他の武士とは、かなりの身分差があったはずです。
確かに御恩と奉公で言えばそうですね。しかし、盛綱は侍所所司、関東御使など北条被官のレベルを超えた幕臣としての働きがあります。なので、御家人と定義しました。(一応、ドラマで実朝が盛綱を御家人にすることを却下したのは、創作ですが、最終的に「その者を御家人に」と実朝が言ってました)
@@うさうさ-z7k 義時の時代(承久の乱時点で)に、御家人でありながら北条と主従を結んだと考えられる例はあります。南条時員です。南条氏に関しては、もともと主達(義時の郎党)だった考えられていたそうですが、近年では、本来は御家人だったことがわかっているようです。⇩南条氏についての論文ですwww.soka.ac.jp/files/ja/20170428_231410.pdf⇩被官化の時期についての考察soka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=36807&item_no=1&attribute_id=15&file_no=1
@@sengokubanashi とても勉強になりました。ありがとうございました。
@@うさうさ-z7k こちらこそ、ありがとうございました。ご指摘いただいたことで、御内人についてもっと詳しく学ばなくてはいかないなと思いました。
初出時の官職が、後で書き加えられた捏造ということあり得る解釈でしょうか?あるいは、源平合戦直後の感覚だと、平家ゆかりの血筋を名乗るのは憚られたという事情もあるのでしょうか
・官職が後で書き加えられるリアルタイムで書かれたモノでない限り絶対に無いとは言い切れません。ただし、それを言い出すとキリがなくなる(議論ができなくなる)ので、一応、吾妻鏡に書いてあることを信用して考察しています。・平家ゆかりの人間は頼朝時代からすで仕えている人がいますので、(平頼盛、平時家など)はばかる必要はそれほど無いのかなと思います。
以前、安達弥九郎が鶴丸を馬鹿にしていたことが、それぞれの孫である安達泰盛と平頼綱の霜月騒動の伏線だったのでしょうか。
「北条時宗」では安達泰盛を柳葉敏郎さんが、平頼綱を北村一輝さんが演じました。「北条時宗」での平頼綱は梶原善さんが演じた善児のようなエグいことをしていましたが、家に帰れば寺島しのぶさんが演じた奥方の尻に引かれている嬶天下でした。最終回では北条時宗が亡くなり、大泣きしているところへ奥方から「闘魂ビンタ」を食らわれるシーンもありました。
あのシーンはよく覚えています。確か鶴丸がみなし子であるのを弥九郎がからかって、金剛が鶴丸を庇ったから弥九郎と金剛で喧嘩になった、というあらすじでしたね。あの場面を観た際は「あの弥九郎が後に妻を源頼家に奪われたり、執権の北条経時・時頼兄弟の外祖父になる安達景盛か...」と思っていましたが、鶴丸→平盛綱となった瞬間「あの鶴丸をめぐる弥九郎と金剛の喧嘩は霜月騒動の伏線か!」と、三谷マジックの巧妙さに改めて感心しました。
自分は元から北条家の部下だった家の人間なのか北条家が出世していくにつれて部下も必要になってくるでしょうからそこで雇われた人間なのかなと思っています
大河ドラマでは子孫がフランキー堺になり緒形拳に嫌がらせをした。
うろ覚えだけど昔の北条時宗の時の頼綱も元はオリジナルキャラでなかったっけ?違ったかな。
盛綱は御家人になったの?
義時が直接上皇や高級公家に圧力を掛けただの家人である盛綱に官職を与えさせたのでは? 鎌倉幕府が始まってかなり時間が経っているはずで、公家たちもバカではないので もう将軍は名ばかりで実権を北条得宗家が握っている事は周知の事実のようなもので 北条側と京都側のどちらかからは分からないが官職を与える話しが自然の流れできて 何の抵抗もなく事が進んだのでは??? どこかの同時期の書物にも一切盛綱情報がないとすれば、北条のみならず京都側も盛綱の素性を明らかにしたくなかった何等かの理由があろう!! 盛綱の髪かなんか残っていてDNA鑑定したら清盛とつながっていたという否定された理窟が蘇ったりして!!!!
大河の名前が変わる時って、ポケモンが進化するときのワクワク感ある
大河の北条時宗で平頼綱役の北村一輝の怪演ぶりが凄かった❕時宗亡き後の騒動を観たいと思いました。その先祖が鶴丸だったとは…
様々な歴史系ユーチューバーさんの動画の中で、武士道さんの平盛綱の解説が、一番分かりやすかったです。黒のお着物、とても似合っていらっしゃって、素敵です。
孤児が出世するって!夢があって良いね👍
この平盛綱の子孫が悪名高き長崎高資だったとは・・・・
ドラマで寝転がりながら名前を考えてくれていた義時さんに優しさを感じましたね。
後鳥羽上皇が実朝の名前を考える時といい、名前を与える際の「ノリ」みたいなのが軽すぎて面白いです。
このドラマでは、元服で名前を付ける際や改名する際の軽い「ノリ」が印象深いです。
北条時連→時房、北条頼時→泰時も改名のきっかけが「ノリ」でしたね。「時連」の「連」が「貫=銭」を連想して賎しく思われるとか、「頼時」の「頼」が頼朝を連想するから頼家から「泰時」に改名するよう促されたとか、武士の改名はこんな軽い「ノリ」が昔から多かったのでしょうね。
それ思いました。ドラマならではで面白かったです。
尊卑分脉は室町時代成立ではないですかね。近年になって色々と言われてるようですが、承久の乱の時点で、兵衛尉で登場しているので、普通に盛綱も実忠も資盛の系統と考えるのがしっくりきます、、源氏に負けて土地はなかったけど、頼朝を助けた重盛の血統で要は血筋がよかったのではないですかね。
伊豆の長崎郷は北条郷に隣接しているけど、今はイチゴ農家とかあるけど、当時水田が一面に広がっていただけかも。台風が来ると床上浸水することが多くて、各家の軒には小舟がつるされて用意されていました。
長崎は見学に行っても、とくになにもありませんですw
モブが大進化を遂げたと思ったらドラマは結構信憑性のある解釈だったんですね〜
他の方も言われている通り、平頼綱は北村一輝が狂気があるようなキャラを演じていて怖かった記憶
(他のドラマでも北村一輝さんは狂気があるキャラを演じておられることも多かったですが、数年前にNHK朝ドラでダメ親父を演じていて、丸くなったなあ、と思った思い出w)
安達泰盛のとの抜き差しならない確執がありましたが、最終回に北条時宗の命で両者和解したものの、ナレーションでその後にまた争いが起きて、両者滅んだことが語られていて悲しかった記憶・・・
教科書的には、御内人は北条得宗家の家来で、御内人の中には御家人身分の人もいたかもしれないということみたいですね。領地を持たなければ御家人とは言えないし、御内人が幕府の役職に就くのも変だということで、盛綱は謎多き人物のようですね。
大体、孤児の鶴丸を鎌倉に連れてきたのが八田知家ですから意味深なのですよね。
八田知家の兄は宇都宮朝綱。宇都宮朝綱は平家滅亡後、平重盛の側近・平貞能(さだよし)を保護していた人物。
平貞能は平資盛の後見人の立場でした。とすると、平資盛の遺児・鶴丸を平貞能が宇都宮朝綱に託し、宇都宮朝綱の弟・八田知家が鶴丸を鎌倉へ連れてきたという流れがドラマの中では想像されますよね。
こういうストーリーをドラマに盛り込んでくる三谷幸喜氏という人は随分と歴史に精通しているのかな、とも思ってしまう。もし、こういうことが史実としてあったなら、どこかにそういう史料があったのでしょうか。何かの史料なり伝承などがあるのかもしれません。興味深いです。
平盛綱は承久の乱の時点で「兵衛尉」の官位を持っているということは、北条得宗家の単なる被官(家臣)ではないような感じがするのですが。
善児に尾藤の名字が与えられると読んでいて大ハズシしたのは私です。
あとね、系図は疑いまくっていいけど、どこかで繋がりを見つけるのが醍醐味です。
大河っぽい解釈になるけれど、自分や子供の股肱の臣とするため戦や政争で没落した家の才覚ある孤児を引き取ったのかなと。
養子同然に実子と一緒に育てた結果、成長して期待に応える働きをしていたので時政や義時に気に入られて官位も与えられた。
というのも自然です。古今東西世界中でよくある忠臣の作り方ですし、敵の多い北条には信頼できる身内は必須かと
2001年の大河「北条時宗」で、平頼綱がもともと「みなし子」で今大河の善児のようなアサシンをやっていたのを執権・時宗に気に入られて御内人・平盛綱の養子になる、というキャラクターでしたが、今回の鶴丸→平盛綱のキャラクター設定もそのオマージュである、と見ました。
今大河「鎌倉殿の13人」は、鎌倉時代が舞台の大河「草燃える」「北条時宗」「太平記」のオマージュと言えるような演出があちこち散見されますね。
ドラマでは八重姫の遺児らかと
生前は孤児院みたいな感じやし
戦国時代やと家柄が良うない木下藤吉郎が従兄弟や再従姉妹回って即製家臣団こさえていたとか
ドラマ的には、善児に始末されたはずの静御前の子だった
というのも面白かったと思うんだけどな。
いつもわかりやすい説明ありがとうございます。
鎌倉殿の許されざる嘘の回で
墨俣川で義円を討ち取ったのも
タイラノモリツナだったとナレーションで流れてたのを記憶していて
ちょっと紛らわしいなと思ってたり
( ´□`;)
ミスター武士道氏は平盛綱を「御家人」と言っているが、違うのではないか?
御家人は鎌倉殿と「御恩と奉公」の関係で結ばれた武士であるが、領地のない盛綱には「御恩」がない。
盛綱は義時・泰時の家来だから、鎌倉殿(実朝)の直臣ではなく陪臣にあたる。
ドラマでも実朝が盛綱を御家人にすることを却下していた。
その通りだと思います。義時の時代にはまだ御家人が北条と主従関係を結んだ例はないと思います。
御家人が困窮して、やむを得ず北条と主従関係を結び、北条の家人化してくるのは、もう少し後の時代だと思います。
私もそこまで詳しくないのであったかもしれませんが、御家人とその他の武士とは、かなりの身分差があったはずです。
確かに御恩と奉公で言えばそうですね。しかし、盛綱は侍所所司、関東御使など北条被官のレベルを超えた幕臣としての働きがあります。なので、御家人と定義しました。
(一応、ドラマで実朝が盛綱を御家人にすることを却下したのは、創作ですが、最終的に「その者を御家人に」と実朝が言ってました)
@@うさうさ-z7k 義時の時代(承久の乱時点で)に、御家人でありながら北条と主従を結んだと考えられる例はあります。
南条時員です。
南条氏に関しては、もともと主達(義時の郎党)だった考えられていたそうですが、近年では、本来は御家人だったことがわかっているようです。
⇩南条氏についての論文です
www.soka.ac.jp/files/ja/20170428_231410.pdf
⇩被官化の時期についての考察
soka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=36807&item_no=1&attribute_id=15&file_no=1
@@sengokubanashi とても勉強になりました。ありがとうございました。
@@うさうさ-z7k こちらこそ、ありがとうございました。ご指摘いただいたことで、御内人についてもっと詳しく学ばなくてはいかないなと思いました。
初出時の官職が、後で書き加えられた捏造ということあり得る解釈でしょうか?
あるいは、源平合戦直後の感覚だと、平家ゆかりの血筋を名乗るのは憚られたという事情もあるのでしょうか
・官職が後で書き加えられる
リアルタイムで書かれたモノでない限り絶対に無いとは言い切れません。ただし、それを言い出すとキリがなくなる(議論ができなくなる)ので、一応、吾妻鏡に書いてあることを信用して考察しています。
・平家ゆかりの人間は頼朝時代からすで仕えている人がいますので、(平頼盛、平時家など)はばかる必要はそれほど無いのかなと思います。
以前、安達弥九郎が鶴丸を馬鹿にしていたことが、それぞれの孫である安達泰盛と平頼綱の霜月騒動の伏線だったのでしょうか。
「北条時宗」では安達泰盛を柳葉敏郎さんが、平頼綱を北村一輝さんが演じました。
「北条時宗」での平頼綱は梶原善さんが演じた善児のようなエグいことをしていましたが、家に帰れば寺島しのぶさんが演じた奥方の尻に引かれている嬶天下でした。最終回では北条時宗が亡くなり、大泣きしているところへ奥方から「闘魂ビンタ」を食らわれるシーンもありました。
あのシーンはよく覚えています。
確か鶴丸がみなし子であるのを弥九郎がからかって、金剛が鶴丸を庇ったから弥九郎と金剛で喧嘩になった、というあらすじでしたね。
あの場面を観た際は「あの弥九郎が後に妻を源頼家に奪われたり、執権の北条経時・時頼兄弟の外祖父になる安達景盛か...」と思っていましたが、鶴丸→平盛綱となった瞬間「あの鶴丸をめぐる弥九郎と金剛の喧嘩は霜月騒動の伏線か!」と、三谷マジックの巧妙さに改めて感心しました。
自分は元から北条家の部下だった家の人間なのか北条家が出世していくにつれて部下も必要になってくるでしょうからそこで雇われた人間なのかなと思っています
大河ドラマでは子孫がフランキー堺になり緒形拳に嫌がらせをした。
うろ覚えだけど昔の北条時宗の時の頼綱も元はオリジナルキャラでなかったっけ?違ったかな。
盛綱は御家人になったの?
義時が直接上皇や高級公家に圧力を掛けただの家人である盛綱に官職を与えさせたのでは? 鎌倉幕府が始まってかなり時間が経っているはずで、公家たちもバカではないので
もう将軍は名ばかりで実権を北条得宗家が握っている事は周知の事実のようなもので
北条側と京都側のどちらかからは分からないが官職を与える話しが自然の流れできて
何の抵抗もなく事が進んだのでは??? どこかの同時期の書物にも一切盛綱情報が
ないとすれば、北条のみならず京都側も盛綱の素性を明らかにしたくなかった何等かの
理由があろう!! 盛綱の髪かなんか残っていてDNA鑑定したら清盛とつながっていた
という否定された理窟が蘇ったりして!!!!