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80年頃、鳥取から博多までまつかぜに乗りました。食堂車で焼肉定食を食べた
なかなか指定席の取れない特急でしたよ、盆正月は国鉄職員の知り合いが急行だいせんを取ってもらえたらラッキーだったほど、山陰本線のエース、憧れだった
窓口でまつかぜの特急券を買おうとすると「新幹線の方が速いですよw」「時間かかりますがいいですか?」と言われてしまうのが様式美。
@@user-mu5xc5wc8b さま。某鉄道雑誌で確か米原から近江八幡まで窓口で購入しようとしたら、やたら念を押されたエピがありましたヨ。「ホンマにええでんな?」
名鉄蒲郡~名古屋の利用といい、こういうエピソードは悲しいながらもちょっと好き
@@Karimia_cloverワイも、昭和の頃の家族外出で、町屋→京成津田沼→くぬぎ山を買おうとしたら、町屋→松戸→くぬぎ山を勧められてそっちに変更した😁
@@雅夫大場それて近江鉄道のことですか?
@@tinntetu さま。はい、おっしゃる通りであります。普通なら同区間は、鉄道なら否応無しでJRの(新快速)ほぼ一択ですし…あと、説明足らずでした、失礼しました。
廃止前の81年、鉄の友達と一緒に小倉から大阪まで上りまつかぜ4号に乗車しました。その当時でも登場当時そのままだった80系はかなりボロボロで、クッションがくたびれたリクライニングもついてないシートでよく耐えたものだと思います。ただ食堂車やグリーン車を組み込んだ編成で、車体ボロボロでも山陰路のエースとしての威厳は保っていました。今のモノクラス2~3両のスーパーまつかぜとは雲泥の差です(スピードも雲泥の差ですけど)早めの昼食を食堂車でとって、夕食は鳥取で買い込んだカニめし弁当を食べた記憶があります。乗り終えてからクタクタだったけど心地いい疲れでした。
幼少の頃に親父と大阪から博多まで乗りました。検札に来た車掌さんに「新幹線の方が早いのに」って言われ親父は「ほっといてくれ!好きで乗っとんのじゃ!」って会話が今でも忘れません(笑)
新幹線では旅情を嗜めないからね😊
@@hiroshia5789そかな?この列車の頃の新幹線🚅は食堂車🍽️&ビュッフェがあって楽しめたが😁
まっ…今の新幹線よりは旅情があったよね…この当時の新幹線の方が…ただ、本格的な旅情は、このまつかぜには到底及ばない✨️
まつかぜ懐かしい。まつかぜといえばキハ82。博多駅で見るまつかぜは風格があって格好良かった。
まつかぜには若かりし頃、京都から博多まで全区間乗車しました。当時から全区間乗る人は極めてまれでした。ちょうどその頃、藤圭子さんが歌う「京都から博多まで」がヒット中で、周りから冷やかされたことも今は懐かしい思い出です。二十歳の若さゆえに出来た旅路でした。気動車特急まつかぜ号十三時間半の旅でした。また、その時京都駅ホームには「まつかぜ」と「かもめ」が並んで出発時刻を待っていました。今は懐かしい思い出です。
1981年に北九州の黒崎から大阪まで「まつかぜ」に乗りましたよ。食堂車を2回利用したのがいい思い出です。しかも大阪からすぐに下り夜行「だいせん」に乗りかえて出雲市へ。さらに「さんべ」に乗って黒崎に帰ってくるなんて無茶なことやってた11歳の小学生でした。懐かしいです。
木次線沿線出身で日本真ん中県に在住ですが、大阪万博の翌年は伊丹に住んでおり、母親に頼んでその年の帰省の際に、あこがれの「まつかぜ」に大阪から乗せてもらいました。キロなのに結構乗車されてましたが、鳥取で多数、米子では殆んどの方が下車されてた記憶があります。その数年後(おき号が82系特急の頃です)小倉迄利用しましたが、キロは空気輸送とは行かない迄も、かなり空いてた感を覚えています。大人になって大型トラック運転手になり、割と加飾を施したその車両のフロントガラス下のあんどんに「まつかぜ」と入れてました。が、しかし、とある有名かぶきもの武将の名馬と(当時、流行りましたものね。パチンコ台にもやがてなる位)名前が被ってて、それを揶揄されて外しましたが。私にとって、それ程 思い入れのあるネーミングなのです。
45年位前に山口県の東萩から大阪に帰るのに乗りました。朝に乗車して昼ごはんと晩ご飯を食堂車で食べた記憶がある。余部鉄橋の高さに驚いたのも鮮明に覚えている。
ゆとりのあった時代でしたからね。半日列車に乗る事も珍しくなかったです。
系統分割が進んでしまったのはやむを得ないにしても、萩や長門市に行く特急がないというのはちょっと信じられないし、不便ですね。あのあたりはそんなに特急利用者が少なかったのでしょうか?
まつかぜ最終運転日に乗れた事が懐かしい。
某鉄道雑誌で、特急まつかぜの全区間乗車レビューの記事を読んだことがある。13時間、この古ぼけた車両、しかもリクライニングしないシートに座って乗り通すという経験自体は、今の私にとっては苦痛でしかないが、車窓を楽しむという点においては大変貴重な経験とも言えよう。宝塚までの賑やかな都市部、一転して鄙びた風景の山陰の農村漁村、時折ひらける雄大な日本海、鳥取•米子•松江といった山陰の一大ターミナル、宍道湖の広々とした水面、夕映えの長州路、そして関門トンネルの先でひた走る福岡の太くのびる鉄路…… それらすべてをこのたった一本の列車で乗り遂げて巡ってきた筆者に対して少しの羨ましさを覚えつつ、このレビュー記事を読み終えた……😌
グリーン車に乗っていた外国人観光客が「アッパークラスのくせにひどい設備だ、二度と乗らない」と愚痴ってた記事かな…
ソレ、鉄道ジャーナル社「季刊:旅と鉄道」('73秋)では?2人の記者が、片方は「まつかぜ」に、もう一方は824レを担当するエピです。なんでも「まつかぜ」担当は車内でオバタリアンに絡まれたのとか、ガラ悪のおっさんに怒鳴られた、となんか散々…824レの方は、さすがに生活列車で北九州で小串まで行く魚行商のおっさん、農家のおばさんたち、また、東萩から津和野へ向かう旅女子グループ(ディスカバー☆ジャパン?)と益田まで同席と…しかし、まあ、両方ゴールは福知山だったようだが、あれだけの長時間(まつかぜ:小倉0909から福知山1958但し30分遅れ、824レ:所要時間:18時間29分)、さぞかしケツが痛かったのだろう。
絶対に乗りたかったから親に無理言って博多から新大阪までまつかぜに乗って、帰りはみずほで帰ってきたなぁ…。あの頃にもう一度戻りたい😭
昭和50年4月29日に、特急まつかぜ1号に大阪から博多まで乗車しました。
逆だとなんだか集団就職の坊主頭が思い浮かぶ。
僕は1965年に京都から鳥取まで乗車しました。当時の特急列車には食堂車の営業があって当たり前で朝食を食べながら福知山線から武庫川の景色を楽しみました。一度は博多まで乗車したいと思いましたが、願いが叶わず残念でした。
君、団塊鉄道じいさん?(笑)
@@Dennis07021君、団塊鉄道じいさん?(笑)
すばらしいです
通しで乗ると 食堂車で3食(朝昼晩) 食べられたんですね
家の近所に福知山線の踏切があり、一時は「まつかぜ」と「やくも」が両方とも福知山線を通っている時期があって、しばしば友達と見に行った記憶があります。懐かしいです。
私も大阪万博の翌年に(小学校低学年)福知山線北伊丹駅より北側一本目の踏切にて列車を眺めてました。「まつかぜ」を見たい為に休日朝早くから踏切に立ってたかな。他にキハ58型急行やDF50牽引の普通列車も懐かしい思い出です。ひょっとしたら、どこかで会ってるかも知れませんね。
@@まつよし-j1z うちの近所の踏切は、今なら猪名寺駅のひとつ北側です。でも当時は猪名寺駅はなかったんですよねえ。
私は伊丹駅南側1本眼の踏切(古城の踏切、今は廃止され高架になってます。)で学校が終わってから毎日のようにやくも、白兎、D51、c57を見てました。まつかぜは朝早い時間帯だったのであまり見れなかったですね。
@@kiyo7751 コメント頂いたの気付きませんでした。失礼しました。観覧ポイント、近いですね。有岡城、あそこに黒田官兵衛が幽閉されたんでしたよね。城主が荒木村重で。
幼少の頃、家族旅行で両親に乗せてもらい、博多→東萩で乗りました。その翌日、運行を始めたばかりのSLやまぐち号で津和野→小郡にも乗ってました。
4:49 細かいですが、山陰本線上井駅の読みは、かみい駅では無くて「あげい」駅ですね。現在の倉吉駅です。私が時刻表を購入しだす頃には既に2往復体制になっていたディーゼル特急まつかぜ号。特にまつかぜ1号4号は大阪駅から博多駅までを往復する長大特急として憧れの存在でした。食堂車では寝台特急出雲号同様に宍道湖名物アマサギ(ワカサギのご当地名称)の南蛮漬け(唐揚げを甘く味付けされた黒酢で漬けた郷土料理)が提供されたようです。背もたれがリクライニングしない転換クロスシートで丸一日過ごすのは現在の感覚では辛そうですが、一度は体験してみたかった特急まつかぜ号の列車旅でしたね。
極上の御体験、大変素晴らしい!今やほぼ同経路でいけるのは「瑞風」くらい?
今では地元の人でさえ現倉吉駅がが上井あげいだった事を知る人が少なくなったと思われます、
いそかぜなら一応、全線乗ったのですが、まつかぜの頃は鉄道趣味に興味もなく。長距離昼行特急なら、動画でも紹介されていた「白鳥」は通し乗車しました。一般周遊券を使いました。🛤
キハ82まつかぜの13両編成は圧巻でした。大阪でまつかぜと寝台急行銀河が並んでる姿が懐かしい。
記憶に間違いなければ、下り「まつかぜ1号」13両編成は鳥取で切り離し、半分はそのまま博多行き、残り半分は上り「まつかぜ2号」として大阪に折り返していたのでは。
博多寄り7両は博多行で後6両が鳥取止まりでまつかぜかはまかぜで大阪に戻ってたと思います。
子供の頃、乗車して(通り抜けして)いち、にー、さん、しー…と数えて13両まであったのに感動を覚えたことを思い出します。
13輌編成は『まつかぜ』の全盛期でしたね!50・3以降、西日本エリアのキハ80系は『まつかぜ』と『くろしお(53・10迄)』のみ食堂車連結だった。この『まつかぜ』の付属編成の6輌が『あさしお』と『はまかぜ』の基本編成だった。
「需要があるから電化する」のだろうけど、非電化区間の多くは国鉄時代の方が恵まれてたよなあ。
青森〜大阪で白鳥に乗り、翌日大阪〜博多までまつかぜに乗った者はかなりの猛者
キシ80のいかにも大衆食堂な車内を思い出します。
国鉄山陰周遊券利用して下り出雲~山陰経由熊本へ帰省。帰りはまつかぜ~そして出雲で帰京。そのときの食堂車ウェイトレスさんは出雲・まつかぜともに同じ人だった。日本食堂米子営業所の方とは知っていましたがこんな偶然に唖然とした。お世話になりました。おかげさまで一生の思い出。忘れません。
まつかぜ食堂車の郷土料理で、大山おこわ定食を食べました😋山菜おこわに、割子蕎麦が着いた郷土色豊かな逸品でした🍚✨️
今、これに一番近いのは、スーパーおきの新山口-鳥取ですかね?当時、SLの客車列車が残っていた頃に、長編成で滑り込んでくるキハ82は美しかったのを憶えています。
新山口~鳥取なら、岡山で新幹線からスーパーいなばに乗り換えたほうが速いですからね。
「スーパーまつかぜ」で名称が復活したのはよかったと思う
速いし座席も進化したが、モノクラスでグリーン車はおろか食堂車もない。昔の特急は「特別急行」で急行でさえ電化区間を走る幹線列車は2等車や食堂車もあったりしたもので(例外もありましたが)、大衆化→格が落ちたようであります。
どうせなら、大阪⇔倉吉に「エーデル鳥取」が新設された時、この列車にこそ、「エーデルまつかぜ」の称号を与えて欲しかった…。
些細な事かもしれないが愛称に「スーパー」は要らない
「永久欠番」で良かったのに格が落ちて欠陥車両使用もありケチがついた
上越新幹線開業後、短い間でしたが上越線、羽越線、奥羽線経由で上野⇔青森間790kmを走破していた特急鳥海の事も忘れないであげてください。
この特急鳥海は改正前の特急いなほ3号4号が改称されただけですいなほ時代のほうがはるかに長い歴史があります。なにせヨンナナトウダイヤ改正からですから約10年です。いなほ自体はヨンヨントウダイヤ改正てキハ81型で誕生しています。特急つばさがキハ181系に置き換わったのでいなほに使用されました。だから秋田駅ではヨンサントウダイヤ改正からキハ81型はヨンナナトウダイヤ改正前日まで見れたことになります。
当初は宝塚、三田、篠山口、谷川、柏原、和田山、八鹿、江原、豊岡(下り)、城崎(上り)、香住、浜坂、岩美、安来、玉造温泉、宍道、石見江津、門司、黒崎などは通過でした。
ラジオ体操の時に向日町操車場からの13両編成の回送(新大阪から「まつかぜ」)をいつも見ていました。
40年ぐらい前に、大阪ー博多まで乗ったなぁー♪♪♪
まー、なんて羨まけしから…失礼!後半部分は無視して下さい。
博多から大阪まで2回乗り通しました。 大阪から夜行列車(北陸方面・東海道方面)の接続が良かったです。
上井は「かみい」ではなく「あげい」ですね。現在の倉吉駅です。その時は倉吉線の打吹駅が倉吉駅を名乗っていました。
両親の新婚旅行が上りまつかぜで小倉→松江で松江で一泊、翌日のまつかぜです大阪へ行ってそのまま転勤先の大阪へ移動というせっかちな工程だったのを聞いて全線乗り通しは無くともこんな使い方があるのかと思ったことがあります。斯くいう小生も大阪で生まれ小倉に同時に移動した親父に付き添い退院後直ぐに月光号で大阪小倉を移動しました
「月光」はじめ夜行列車は軒並み思い出。現在の「スーパーまつかぜ」はもはや別物…
大阪(新大阪)~鳥取は13両(または12両)編成でしたが大阪発車の時点ではいつも乗車率は良かったです。鳥取以西は6両または7両編制でしたが特に列車が少なくなる出雲市以西では島根県東部と西部を直通する関係で2両しかない自由席はいつも混んでいて立客さえいました。上りも下りもいつも鳥取駅の前後でよくキシ80で食事をしたのを覚えています(車販には元祖かに寿しがたくさん積んでありました)。
もう40年以上も前鳥取から宝塚迄乗りました。鳥取城崎豊岡福知山宝塚と停車駅が少なく今では考えられないほど混雑していました、指定席も自由席もとれないので立ち席でした。もうこんな長距離特急列車はないでしょうね?
1970年台に大阪から江津まで乗ったんですが、鳥取までは満員だったのがそこでかなりの客が降り、米子でまた乗ってって感じで、京阪神からなら倉吉まで、北九州からなら米子までの客が殆って状態にすでになってた感じはします。北九州工業地帯がまだまだ健在で西側に向かう客が多かったことを除くと、かなり早い時期にいまに近い人の動きになってたんでしょうね
ほぼ1日 乗ってみたい。
大阪~博多間のまつかぜは昼行特急としては走行時間、距離とも大阪~青森間の白鳥に並ぶスケールですね。これも米子での系統分割を経て国鉄最後のダイヤ改正の時に福知山線電化で北近畿に吸収されて愛称消滅したが2003年に2代目のまつかぜ(スーパーまつかぜ)が鳥取~米子、益田間で愛称復活していますね。
小学生の時、大阪→鳥取でこのまつかぜに乗ったことがあります。確かに大阪スタート段階では、13両編成で、ディーゼル特急としては異例のグリーン車2両に食堂車も付いた豪華な特急(鳥取か米子か忘れましたが、後ろ6両切り離しで、終点博多には7両で運転)でした。朝8時発でしたが、鳥取には12時過ぎ到着と、中々の長旅となりました。
@@まるかつ鉄道 当時の書籍を調べると博多まつかぜは大阪~鳥取間が13両で鳥取で6両切り離しになっていますね。この当時はスーパーはくとが運転されるずっと前で結構大回りだったので時間がかかってましたね。
個人的見解でありますが、現在のソレは「似て非なるモノ」。車両は速くなったかも、だが普通車2両単位でグリーン車も食堂車はおろかワゴンサービスも無し、ま、座席は進化しましたでしょうが…当時は特急だけでなく急行も、それなりの「格」がありました。現在のスーパーまつかぜは「特急」。往年の「まつかぜ」は「『特別』急行」列車。
@@雅夫大場 往年のまつかぜと比較すると味気ないですね。
まつかぜは高校生の時に大阪〜博多全区間乗り通しました。食堂車も乗りましたね
益田市は島根県じゃないのだろうか?
子供の頃、なぜ「まつかぜ」は大阪から福知山線経由だったのか不思議でした。そして特急「あさしお」が設定されるまでは、急行「丹後」や「白兎」が活躍していましたね。
急行だいせんも!
京都を出て、山陰本線のほとんどの区間を走り抜いた上で本州を飛び出して門司地区入り、それだけでは飽き足らず博多に侵入するの本当にかっこいい。キハ189系を使ってこういうアタオカ便設定してくれないかな…
名古屋・富山のT飛騨でもうんざりするのがわたしらシロウト。弁当食って同じ列車で2度ウンコできるT松風が凄過ぎ。
むしろクルーズトレインが、やがて来るであろうマンネリコースの打開策として会社の壁を乗り越えた相互乗り入れとしては魅力的かも。(ななつ星・トワイライト瑞風)
まつかぜほど威厳は無かったものの急行三瓶や普通824レなども有りました。
824レは宮脇俊三先生も著書「旅の終わりは個室寝台車(新潮文庫)」にもルポがあります。なんか後半は殆ど白河夜船だったみたいで…
まつかぜ1・4号の編成はキハ80系気動車✕9両(基本6両+附属3両)で基本編成の1ー6号車が新大阪・大阪ー博多間でグリーン車・食堂車が各1両連結されていました、付属編成の7ー9号車が途中の米子駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました。米子ー博多間は1号車ー6号車の基本編成6両でグリーン車・食堂車各1両が連結されていました。
それはキハ82系末期ですね!ヨンナナサンダイヤ改正からは13両編成で付属編成は3号2号で鳥取折返し運用でした。ただし3号2号の場合は号車番号を付け替えていました。またヨンナナサンまでは12両編成で7号車から12号車までは米子折返しでした。なお福知山線経由時代のやくもの基本編成は白鳥と共通運用でした。
1986年のまつかぜ廃止後、福知山線経由の大阪~鳥取間特急では「エーデル鳥取」が1989年には復活した。しかし1994年にスーパーはくとが誕生し、1時間以上も短縮。1999年に「エーデル鳥取」は廃止。
エーデル鳥取、何回か乗りました。海が見られるので、好きでした。
80系まつかぜの食堂車でコーヒーでも飲みながら山陰の日本海を眺めたかったな。スーパーまつかぜの先頭で前方を眺めながらの旅も悪くはなかったが。
高校の通学で博多駅で良く目撃してました。自分が乗ってる筑肥線と同じ気動車でも、風格がありましたね。やはりキハ30やキハユニ26では敵わない。
藤圭子さんの京都から博多までは瀬戸内沿いに走る列車の旅です。
1980年代大阪・博多間の「まつかぜ」を乗り通しかった。
大阪→松江までキハ80系[まつかぜ]を度々利用した。大阪,宝塚,福知山…に停車。🍴連結の殿様列車✌
上井は「あげい」だったような
伯備線の電化以前「やくも」にはキハ181系が使われていましたねえ。
この特急やくもの前身は特急おきで46年4月ダイヤ改正でそれまでの急行おきから格上げされて新大阪と出雲市を伯備線経由で結んでいました。だからやくもはおきを発展的に改称されたのです。
山陰特急のエースを君臨した名車1986年廃止してからははまかぜ、こうのとり(北近畿)、スーパーはくとが大阪山陰を走破
山陰本線京都駅🚉発着の特急あさしお号も取り上げて下さいお願いします。特急あさしお号の京都ー城崎間で運転区間が二種類あり、2往復の内1往復が山陰本線経由で残る1往復が綾部、西舞鶴、豊岡て3回進行方向が変わり舞鶴線ー宮津線経由で運転されていました。
まつかぜは山陰の老舗優等列車で、都市間特別急行として列車名を与えたからこれまたいい☺🚃
子供の頃に博多から東萩までよく利用してました😄懐かしい動画をありがとうございます😊
山陰特急「まつかぜ」大阪~博多間は2つに客層が分かれる。大阪~米子間は京阪神の利用者で福知山や城崎温泉、鳥取と現在の特急こうのとりと同じ。そして米子~博多は主に山口県や北部九州の利用者。益田、津和野、維新の街東萩、湯本温泉の長門市といった観光客の利用。大阪~博多間を乗り通す乗客は皆無に等しく、余程の物好きの乗り鉄しかいなかった。京阪神~博多間は山陽新幹線や関西ブルトレだった。1985年に山陰特急が米子を挟んで系統分離した。大阪~米子間はまつかぜを継承し、米子~博多間は「いそかぜ」を新設した。いそかぜはキハ181系3両でグリーン車はなかった。まだ萩観光の需要があったが、山陽新幹線のスピードアップや高速道路網の整備でマイカーやレンタカー、高速バスの進出。山陽新幹線を拠点とした新山口、広島、岡山といった陰陽連絡の充実。新山口は山口線の特急おきや萩行きのバス、広島は浜田行きの高速バス、そして岡山は伯備線経由の特急やくも単線で長い時間をかけて走る山陰特急は乗客が敬遠する要因になった。
母親の里帰りで、始めは、米子から夜行急行列車三瓶で小倉までだったが昼間特急まつかぜ松江小倉間に変わったお金がなかったので食堂車には行けず車内販売の駅弁カニずしをぱくつきながら日本海に沈む夕陽を見てた
益田駅は島根県
お疲れ様です❗️若い時に制覇しました❗️、帰りは寝台で帰ってきた。今なら無理ですね😃
スーパーまつかぜ には触れないのねw
この「まつかぜ」のキハ181の一番列車は、最後尾車両が故障し、キハ28を繋ぐという信じられない運転をしました。
石見江津ー現在の江津駅🚉、石見大田=現在の大田市駅🚉、石見益田=現在の益田駅🚉です。
たとえ高速振り子走行で際立つ存在とは言え、今では“スーパー細切れ”ですね…。京都発着の“あさしお”と違い、短縮されても名前が残っているだけ、“まつかぜ”は恵まれているのかも知れませんが。
113系福知山色?(乗った記憶無いですが…。確か、「サンパチくん」も似た塗装だった様な…。)
鳥取行くとき乗った記憶があります
我輩は、昭和58年の大晦日に大阪から小倉迄乗りました!嬉しかった(≧▽≦)この頃は、基本(食堂・グリーン1輌)6輌、付属(キハ)3輌の9輌編成でした。写真も撮りまくり、昼夜と食堂車へ2度行った事も、今となっては良い思い出です。追伸.『いそかぜ』は、いつの間にか小倉止まりになっていましたね!
まつかぜの初乗車は、昭和58年4月博多から島根県、石見大田まで乗車しました。
資料が凄いわ古い写真など お見事です!
長文になりますが昭和57年8月、私は、父親転勤に伴い松江から益田に引っ越し引っ越す前に父に連れられて松江から特急おき1号(キハ181系)で下見に行きその後に引っ越しの為に、祖母と妹と私の3人で益田に向かう時に松江から、急行さんべに乗車予定が10分程先発の広島行、急行ちどりに祖母が間違えて乗車宍道から、木次線に入り南宍道で間違いに気付き宍道まで戻り、普通列車、急行だいせん、さんべ特急おきをスルーしてキハ82の特急まつかぜ1号で益田に到着、キシ80で食事した。思い出は、忘れられない。ちなみに、祖母は、今で言う鉄子でした。
初めて乗った特急がまつかぜだった。さすがに博多まで乗り通す事なんて考えられなかったけど、長大編成の列車は格好良かった。途中で編成は切り落としてたかな?
益田って島根県じゃないんですか?
特急くらいのスピードが一番地方活性には良かったんだよなぁ朝一で東京大阪を出発して午後に各地方都市に到着夕方に各地方都市を出れば夜遅くに東京大阪に戻れるがキツいので各地方都市に一泊して翌朝各地方都市を出るビジネスマンが多いので地方経済が潤う今の新幹線だと速すぎて日帰りできてしまうので地方にお金がほとんど落ちないなので地方が衰退してしまっている
特別急行列車まつかぜ号。約半日の所要時間は現代視点では非現実的に見えるかもしれないが、全国的に特別急行列車が設定された3610改正では珍しいない存在。ただし他の路線が新幹線や航空網整備により区間短縮され整備されたが隘路である山陰本線は手付かずのまま放置されていた。山陽新幹線が博多まで延伸した時に京都から長崎へ行く特急かもめのように整理されると思いきや、それからさらに10年はそのまま。やくもが電車化され余剰になったキハ181が山陰特急に玉突きで導入されたが1・4号は食堂車付きで80系のままであった。食堂車付きのままキハ181へ置き換えて欲しかった。
上井(かみい)?ん?ひょっとして上井(あげい)のことかな?😓上井は今でいう倉吉駅です。
80系まつかぜ…高校時代の夏休みに餘部鉄橋に列車撮影しに行くのに、日帰りで行きは大阪から豊岡、帰りは浜坂から大阪まで乗って帰ったな☺️当時生まれて初めて食堂車🍴🚄付きの在来線特急に乗れてメッチャ嬉しかった😊✨️行きは早速食堂車に行き、まだ高校生だし朝早かったから、トーストとアイスコーヒー注文して過ごしたな🍞☕✨️当時のまつかぜは豊岡まででも片道三時間ほど懸かってたから食堂車で軽食食べるには充分だったし、あの80系普通車のお粗末なシートでずーっと過ごすにはキツかったから丁度良かった…(^-^;そして帰りは浜坂から乗って丁度夜だったので食堂車で「大山おこわ定食」を注文して夕食に食べた😋ぶっちゃけ…あの80系食堂車の椅子は…大衆食堂のようなパイプ椅子で、お世辞にもお洒落な内装とは言えなかったな…😅まっ、テーブルクロスが清潔そうな真っ白だったのが取り柄か…(^-^;💦さすがにあの博多まで全線乗り通すのは、お金も時間も許されない身分だったので本当はしたかったが出来ず終いだった…何れにせよ、もう二度と味わえない、贅沢な旅だった✊️✨️
山陰線の新線解説頼んだ
現在では特急が走らない区間は、山陰本線と言えどもJR西日本名物「必殺徐行」があるくらいですからね。時代が変わってしまったとしか、いいようがありません。
陰陽連絡特急の代表列車特急やくも号を取り上げて下さい❗お願いします。
もし、半世紀、50年前にタイムスリップできれば、乗ってみたかった特急は「まつかぜ」「白鳥」「あさかぜ」「日本海」。昭和50年頃城崎温泉に行った際、帰りに天橋立に寄った際「あさしお」に乗ったが、鉄道ファンに言わせれば、同じキハ80系でも「まつかぜ」の方が格調高いという意見もあった。そのくらいの名列車。鉄道ガイドで当時「富士」が、下関で機関車交換して関門トンネルに入る直前に「まつかぜ」と交換するというダイヤだったようです。
おお、四つとも乗ったなあ。今や、60過ぎたジーサンの若い頃の思い出です。極めつけは、博多からまつかぜ、大阪仮泊で、白鳥、おおぞらで札幌、という特急三昧を敢行したこと。キハ82は、早くはないけど風格があった。ちなみに、お年玉が数年分飛びました。
@@kiyotakainaba48 少し先輩ですね。小生はまだ児童から学生までのレベルだったので、バイトでカネを稼ぐ事は出来ない上、未成年だから一人で乗車は出来ませんでした。ですから今は年齢相応にNゲージで編成を作って走らせ、かつての郷愁にふけっています。
@@坂田庄司-g6n ちょうど、博多から札幌まで、キハ82三昧をやった頃に、カトー(と言っても、当時は関水金属) から、革命的なキハ82 が出たので、4 両編成を買って、遊んでました。とても、フル編成は買えませんでした。これと、同じ頃に出た DD13 はエポックメークでしたね。両方とも未だに持ってます。
スーパーはくとを米子まで運転すればいいと思うんだけどやくもを食ってしまうからやらないんだよな
JR西日本の運行区間が延びるので、車両使用料が跳ね上がるというのもあります。
益田市は、島根県。山口県ではない。
津和野も
令和5年7月現在まつかぜを復活させるべきです山陰は不便すぎ
現在のクルマ社会発達と地方の人口減少含め、多少割高でも快適に早く移動出来る新幹線🚄を選択するのはやむを得ないと思いますし、鉄道はファンだけの物ではないし、JRは株式会社でありボランティア組織ではないし、採算取れない地方路線廃止は仕方ないし今後も増えると思いますし…😑
脇役?自分から言わせれば憧れであり、エースである。
当時の向日町のキハ80系は、博多、大阪、青森、上野を行き来してたのでしょうか。
ヨンサントウの時点でキハ80系の向日町運転所では特急白鳥で青森、特急かもめで長崎と佐世保(佐世保編成は筑豊本線経由)なは・日向で西鹿児島と宮崎、まつかぜで博多、やくもで浜田まで運行していた。
大阪~博多を乗り通す客なんてまずいないですね。ゴウ・サン・トウで消えた名古屋~天王寺の「くろしお」も同様です。
今、観光列車として復活したら面白いが、採算合わない?
この頃が山陰本線が絶頂期だったのでしょうか?
末期は【いそかぜ】がキハ181系の3連で「小倉」まで乗り入れ。
そのいそかぜに乗りに行きましたよ。車内はだいぶくたびれていたけど、山陰本線の車窓は抜群でしたねぇ。
亜幹線だけに、「あかん」線だな
「まつかぜ」が走り続けられたのは、山陰本線経由だからですね。山陽本線なら速攻で廃止の対象。
昭和51年初の大阪駅、朝7時50分過ぎの、みどりの窓口にておっさん「あのタクシー運転手アホや!新大阪駅!言うとるのに、大阪駅に着けよった!おう、あんちゃん、博多まで一枚!一番早く出発するヤツで頼むわ!」新米窓口「一番早く出発、ですか?」お「そうや、グリーン車でも良いから、一番早くに出るヤツや!」窓「8時丁度のがありますが。グリーン車しか空いてないですね。」お「だから、グリーン車でもええ!言うとるやろ?娘が孫産気づいたんや!はよ行かなあかんのや!」窓「分かりました。では、博多まで特急グリーン車でお取りしま〜す。」お「ありがと。釣りはいらんで!あんたにも御祝儀や!」窓「いえいえ、そんな頂けませんよ。特急まつかぜ1号、博多行グリーン席でお取りしました。」お「流石、腐っても国鉄!仕事速いわ!餅屋は餅屋やな!」窓「お急ぎ下さい!発車時刻が近付いていますので〜」お「おおきに!博多行はここからも出るんやな~便利になったな〜!んじゃ、ど〜も!」窓「お気を付けて〜!」
「まつかぜ」は最初は京都発でしたよ。京都から大阪経由でしたよ。
今、逆にこのような列車を山陰本線に復活させることで山陰本線の活性化になんとかなりやしないであろうか? またこのやり方をささえるべく、かつてあったゾーン周遊きっぷや昔のオーダーメイド周遊券やレディーメイド周遊券、ミニ周遊券、ルート周遊券などの復活も考えてみたらどうであろうか? 私は実は乗り鉄のなんちゃって鉄道ファンですが、キハ181系(?)の「特急いそかぜ」の一部区間の体験のみです。 昔、山陰本線には夜行列車のキハ58系の夜行の「急行さんべ」もありました 皆さんも山陰本線の活性化を考えてみてください。。
まつかぜよりもやくものほうが豪華な編成だった。これは、やくものほうは新幹線接続で東京方面からも乗継げたのにたいし、まつかぜは、どちらかというと関西地区からの利用が多かったためと思われる。まつかぜは、12両編成の内6両が、米子回転で普通車ばかりだった。のちのヨンナナサン白紙ダイヤ改正で、鳥取回転に改められ、この鳥取編成は、やくも改めまつかぜ下り2号、上り1号となって区間も短縮された。そしてあらたに岡山から伯備線経由の新幹線連絡やくもがおきを発展的改称され、4往復誕生し、そのうち1往復が、益田まで運行された。おきは、前年に急行から格上げされている。急行時代は赤穂線を経由しています。
同じように普通列車もありました。😅
「まつかぜ」みたいな「無理やり直通DC特急」って、ブルドックなキハ81時代の「くろしお」や「おおとり」を合わせて三巨頭じゃないすか?非電化急行ならよくあるパターンでも、非電化特急だとさすがに???ですよね。電車特急ではこういう例はあるのか知りたいかも(白鳥は置いといてください)。
「はぜ」「まぜ」と呼んでいました
一度だけ、祖母が気動車特急(オホーツク)のグリーン車に乗せてくれた事が有ります。
何系?😋
@@psychedelicraspberry517 さん、返信が遅れてスミマセン、82系時代です。
あげい、ね。固有名詞なんだからちゃんと読まないと。
令和6年5月現在博多大阪まつかぜを復活するべきですみなさんドンドン広めていきましよう
80年頃、鳥取から博多までまつかぜに乗りました。食堂車で焼肉定食を食べた
なかなか指定席の取れない特急でしたよ、盆正月は国鉄職員の知り合いが急行だいせんを取ってもらえたらラッキーだったほど、山陰本線のエース、憧れだった
窓口でまつかぜの特急券を買おうとすると「新幹線の方が速いですよw」「時間かかりますがいいですか?」と言われてしまうのが様式美。
@@user-mu5xc5wc8b さま。
某鉄道雑誌で確か米原から近江八幡まで窓口で購入しようとしたら、やたら念を押されたエピがありましたヨ。
「ホンマにええでんな?」
名鉄蒲郡~名古屋の利用といい、こういうエピソードは悲しいながらもちょっと好き
@@Karimia_cloverワイも、昭和の頃の家族外出で、町屋→京成津田沼→くぬぎ山を買おうとしたら、町屋→松戸→くぬぎ山を勧められてそっちに変更した😁
@@雅夫大場それて近江鉄道のことですか?
@@tinntetu さま。
はい、おっしゃる通りであります。
普通なら同区間は、鉄道なら否応無しでJRの(新快速)ほぼ一択ですし…
あと、説明足らずでした、失礼しました。
廃止前の81年、鉄の友達と一緒に小倉から大阪まで上りまつかぜ4号に乗車しました。
その当時でも登場当時そのままだった80系はかなりボロボロで、クッションがくたびれたリクライニングもついてないシートでよく耐えたものだと思います。ただ食堂車やグリーン車を組み込んだ編成で、車体ボロボロでも山陰路のエースとしての威厳は保っていました。今のモノクラス2~3両のスーパーまつかぜとは雲泥の差です(スピードも雲泥の差ですけど)
早めの昼食を食堂車でとって、夕食は鳥取で買い込んだカニめし弁当を食べた記憶があります。
乗り終えてからクタクタだったけど心地いい疲れでした。
幼少の頃に親父と大阪から博多まで乗りました。
検札に来た車掌さんに「新幹線の方が早いのに」って言われ
親父は「ほっといてくれ!好きで乗っとんのじゃ!」
って会話が今でも忘れません(笑)
新幹線では旅情を嗜めないからね😊
@@hiroshia5789そかな?この列車の頃の新幹線🚅は食堂車🍽️&ビュッフェがあって楽しめたが😁
まっ…今の新幹線よりは旅情があったよね…この当時の新幹線の方が…ただ、本格的な旅情は、このまつかぜには到底及ばない✨️
まつかぜ懐かしい。
まつかぜといえばキハ82。博多駅で見るまつかぜは風格があって格好良かった。
まつかぜには若かりし頃、京都から博多まで全区間乗車しました。当時から全区間乗る人は極めてまれでした。ちょうどその頃、藤圭子さんが歌う「京都から博多まで」がヒット中で、周りから冷やかされたことも今は懐かしい思い出です。二十歳の若さゆえに出来た旅路でした。気動車特急まつかぜ号十三時間半の旅でした。また、その時京都駅ホームには「まつかぜ」と「かもめ」が並んで出発時刻を待っていました。今は懐かしい思い出です。
1981年に北九州の黒崎から大阪まで「まつかぜ」に乗りましたよ。食堂車を2回利用したのがいい思い出です。しかも大阪からすぐに下り夜行「だいせん」に乗りかえて出雲市へ。さらに「さんべ」に乗って黒崎に帰ってくるなんて無茶なことやってた11歳の小学生でした。懐かしいです。
木次線沿線出身で日本真ん中県に在住ですが、大阪万博の翌年は伊丹に住んでおり、母親に頼んでその年の帰省の際に、あこがれの「まつかぜ」に大阪から乗せてもらいました。
キロなのに結構乗車されてましたが、鳥取で多数、米子では殆んどの方が下車されてた記憶があります。
その数年後(おき号が82系特急の頃です)小倉迄利用しましたが、キロは空気輸送とは行かない迄も、かなり空いてた感を覚えています。
大人になって大型トラック運転手になり、割と加飾を施したその車両のフロントガラス下のあんどんに「まつかぜ」と入れてました。
が、しかし、とある有名かぶきもの武将の名馬と(当時、流行りましたものね。パチンコ台にもやがてなる位)名前が被ってて、それを揶揄されて外しましたが。
私にとって、それ程 思い入れのあるネーミングなのです。
45年位前に山口県の東萩から大阪に帰るのに乗りました。朝に乗車して昼ごはんと晩ご飯を食堂車で食べた記憶がある。余部鉄橋の高さに驚いたのも鮮明に覚えている。
ゆとりのあった時代でしたからね。半日列車に乗る事も珍しくなかったです。
系統分割が進んでしまったのはやむを得ないにしても、萩や長門市に行く特急がないというのはちょっと信じられないし、不便ですね。あのあたりはそんなに特急利用者が少なかったのでしょうか?
まつかぜ最終運転日に乗れた事が懐かしい。
某鉄道雑誌で、特急まつかぜの全区間乗車レビューの記事を読んだことがある。
13時間、この古ぼけた車両、しかもリクライニングしないシートに座って乗り通すという経験自体は、今の私にとっては苦痛でしかないが、車窓を楽しむという点においては大変貴重な経験とも言えよう。
宝塚までの賑やかな都市部、一転して鄙びた風景の山陰の農村漁村、時折ひらける雄大な日本海、鳥取•米子•松江といった山陰の一大ターミナル、宍道湖の広々とした水面、夕映えの長州路、そして関門トンネルの先でひた走る福岡の太くのびる鉄路…… それらすべてをこのたった一本の列車で乗り遂げて巡ってきた筆者に対して少しの羨ましさを覚えつつ、このレビュー記事を読み終えた……😌
グリーン車に乗っていた外国人観光客が「アッパークラスのくせにひどい設備だ、二度と乗らない」と愚痴ってた記事かな…
ソレ、鉄道ジャーナル社「季刊:旅と鉄道」('73秋)では?
2人の記者が、片方は「まつかぜ」に、もう一方は824レを担当するエピです。
なんでも「まつかぜ」担当は車内でオバタリアンに絡まれたのとか、ガラ悪のおっさんに怒鳴られた、となんか散々…
824レの方は、さすがに生活列車で
北九州で小串まで行く魚行商のおっさん、農家のおばさんたち、また、東萩から津和野へ向かう旅女子グループ(ディスカバー☆ジャパン?)と益田まで同席と…
しかし、まあ、両方ゴールは福知山だったようだが、あれだけの長時間(まつかぜ:小倉0909から福知山1958但し30分遅れ、824レ:所要時間:18時間29分)、さぞかしケツが痛かったのだろう。
絶対に乗りたかったから親に無理言って博多から新大阪までまつかぜに乗って、帰りはみずほで帰ってきたなぁ…。
あの頃にもう一度戻りたい😭
昭和50年4月29日に、特急まつかぜ1号に大阪から博多まで乗車しました。
逆だとなんだか集団就職の坊主頭が思い浮かぶ。
僕は1965年に京都から鳥取まで乗車しました。当時の特急列車には食堂車の営業があって当たり前で朝食を食べながら福知山線から武庫川の景色を楽しみました。一度は博多まで乗車したいと思いましたが、願いが叶わず残念でした。
君、団塊鉄道じいさん?(笑)
@@Dennis07021君、団塊鉄道じいさん?(笑)
すばらしいです
通しで乗ると 食堂車で3食(朝昼晩) 食べられたんですね
家の近所に福知山線の踏切があり、一時は「まつかぜ」と「やくも」が両方とも福知山線を通っている時期があって、しばしば友達と見に行った記憶があります。懐かしいです。
私も大阪万博の翌年に(小学校低学年)福知山線北伊丹駅より北側一本目の踏切にて列車を眺めてました。
「まつかぜ」を見たい為に休日朝早くから踏切に立ってたかな。
他にキハ58型急行やDF50牽引の普通列車も懐かしい思い出です。
ひょっとしたら、どこかで会ってるかも知れませんね。
@@まつよし-j1z うちの近所の踏切は、今なら猪名寺駅のひとつ北側です。でも当時は猪名寺駅はなかったんですよねえ。
私は伊丹駅南側1本眼の踏切(古城の踏切、今は廃止され高架になってます。)
で学校が終わってから毎日のようにやくも、白兎、D51、c57を見てました。
まつかぜは朝早い時間帯だったのであまり見れなかったですね。
@@kiyo7751 コメント頂いたの気付きませんでした。失礼しました。
観覧ポイント、近いですね。有岡城、あそこに黒田官兵衛が幽閉されたんでしたよね。城主が荒木村重で。
幼少の頃、家族旅行で両親に乗せてもらい、博多→東萩で乗りました。その翌日、運行を始めたばかりのSLやまぐち号で津和野→小郡にも乗ってました。
4:49 細かいですが、山陰本線上井駅の読みは、かみい駅では無くて「あげい」駅ですね。現在の倉吉駅です。
私が時刻表を購入しだす頃には既に2往復体制になっていたディーゼル特急まつかぜ号。特にまつかぜ1号4号は大阪駅から博多駅までを往復する長大特急として憧れの存在でした。食堂車では寝台特急出雲号同様に宍道湖名物アマサギ(ワカサギのご当地名称)の南蛮漬け(唐揚げを甘く味付けされた黒酢で漬けた郷土料理)が提供されたようです。背もたれがリクライニングしない転換クロスシートで丸一日過ごすのは現在の感覚では辛そうですが、一度は体験してみたかった特急まつかぜ号の列車旅でしたね。
極上の御体験、大変素晴らしい!
今やほぼ同経路でいけるのは「瑞風」くらい?
今では地元の人でさえ現倉吉駅がが上井あげいだった事を知る人が少なくなったと思われます、
いそかぜなら一応、全線乗ったのですが、まつかぜの頃は鉄道趣味に興味もなく。長距離昼行特急なら、動画でも紹介されていた「白鳥」は通し乗車しました。一般周遊券を使いました。🛤
キハ82まつかぜの13両編成は圧巻でした。
大阪でまつかぜと寝台急行銀河が並んでる姿が懐かしい。
記憶に間違いなければ、下り「まつかぜ1号」13両編成は鳥取で切り離し、半分はそのまま博多行き、残り半分は上り「まつかぜ2号」として大阪に折り返していたのでは。
博多寄り7両は博多行で後6両が鳥取止まりでまつかぜかはまかぜで大阪に戻ってたと思います。
子供の頃、乗車して(通り抜けして)いち、にー、さん、しー…と数えて13両まであったのに感動を覚えたことを思い出します。
13輌編成は『まつかぜ』の全盛期でしたね!
50・3以降、西日本エリアのキハ80系は『まつかぜ』と『くろしお(53・10迄)』のみ食堂車連結だった。この『まつかぜ』の付属編成の6輌が『あさしお』と『はまかぜ』の基本編成だった。
「需要があるから電化する」のだろうけど、非電化区間の多くは国鉄時代の方が恵まれてたよなあ。
青森〜大阪で白鳥に乗り、翌日大阪〜博多までまつかぜに乗った者はかなりの猛者
キシ80のいかにも大衆食堂な車内を思い出します。
国鉄山陰周遊券利用して下り出雲~山陰経由熊本へ帰省。
帰りはまつかぜ~そして出雲で帰京。
そのときの食堂車ウェイトレスさんは出雲・まつかぜともに同じ人だった。日本食堂米子営業所の方とは知っていましたがこんな偶然に唖然とした。
お世話になりました。おかげさまで一生の思い出。忘れません。
まつかぜ食堂車の郷土料理で、大山おこわ定食を食べました😋
山菜おこわに、割子蕎麦が着いた郷土色豊かな逸品でした🍚✨️
今、これに一番近いのは、スーパーおきの新山口-鳥取ですかね?
当時、SLの客車列車が残っていた頃に、長編成で滑り込んでくるキハ82は美しかったのを憶えています。
新山口~鳥取なら、岡山で新幹線からスーパーいなばに乗り換えたほうが速いですからね。
「スーパーまつかぜ」で名称が復活したのはよかったと思う
速いし座席も進化したが、モノクラスでグリーン車はおろか食堂車もない。
昔の特急は「特別急行」で急行でさえ電化区間を走る幹線列車は2等車や食堂車もあったりしたもので(例外もありましたが)、大衆化→格が落ちたようであります。
どうせなら、大阪⇔倉吉に「エーデル鳥取」が新設された時、この列車にこそ、「エーデルまつかぜ」の称号を与えて欲しかった…。
些細な事かもしれないが
愛称に「スーパー」は要らない
「永久欠番」で良かったのに
格が落ちて欠陥車両使用もありケチがついた
上越新幹線開業後、短い間でしたが上越線、羽越線、奥羽線経由で上野⇔青森間790kmを走破していた特急鳥海の事も忘れないであげてください。
この特急鳥海は改正前の特急いなほ3号4号が改称されただけですいなほ時代のほうがはるかに長い歴史があります。なにせヨンナナトウダイヤ改正からですから約10年です。いなほ自体はヨンヨントウダイヤ改正てキハ81型で誕生しています。特急つばさがキハ181系に置き換わったのでいなほに使用されました。だから秋田駅ではヨンサントウダイヤ改正からキハ81型はヨンナナトウダイヤ改正前日まで見れたことになります。
当初は宝塚、三田、篠山口、谷川、柏原、和田山、八鹿、江原、豊岡(下り)、城崎(上り)、香住、浜坂、岩美、安来、玉造温泉、宍道、石見江津、門司、黒崎などは通過でした。
ラジオ体操の時に向日町操車場からの13両編成の回送(新大阪から「まつかぜ」)をいつも見ていました。
40年ぐらい前に、大阪ー博多まで乗ったなぁー♪♪♪
まー、なんて羨まけしから…
失礼!後半部分は無視して下さい。
博多から大阪まで2回乗り通しました。 大阪から夜行列車(北陸方面・東海道方面)の接続が良かったです。
上井は「かみい」ではなく「あげい」ですね。
現在の倉吉駅です。
その時は倉吉線の打吹駅が倉吉駅を名乗っていました。
両親の新婚旅行が上りまつかぜで小倉→松江で松江で一泊、翌日のまつかぜです大阪へ行ってそのまま転勤先の大阪へ移動というせっかちな工程だったのを聞いて全線乗り通しは無くともこんな使い方があるのかと思ったことがあります。
斯くいう小生も大阪で生まれ小倉に同時に移動した親父に付き添い退院後直ぐに月光号で大阪小倉を移動しました
「月光」はじめ夜行列車は軒並み思い出。
現在の「スーパーまつかぜ」はもはや別物…
大阪(新大阪)~鳥取は13両(または12両)編成でしたが大阪発車の時点ではいつも乗車率は良かったです。鳥取以西は6両または7両編制でしたが特に列車が少なくなる出雲市以西では島根県東部と西部を直通する関係で2両しかない自由席はいつも混んでいて立客さえいました。上りも下りもいつも鳥取駅の前後でよくキシ80で食事をしたのを覚えています(車販には元祖かに寿しがたくさん積んでありました)。
もう40年以上も前鳥取から宝塚迄乗りました。鳥取城崎豊岡福知山宝塚と停車駅が
少なく今では考えられないほど混雑していました、指定席も自由席もとれないので立ち席でした。もうこんな長距離特急列車は
ないでしょうね?
1970年台に大阪から江津まで乗ったんですが、鳥取までは満員だったのがそこでかなりの客が降り、米子でまた乗ってって感じで、京阪神からなら倉吉まで、北九州からなら米子までの客が殆って状態にすでになってた感じはします。
北九州工業地帯がまだまだ健在で西側に向かう客が多かったことを除くと、かなり早い時期にいまに近い人の動きになってたんでしょうね
ほぼ1日 乗ってみたい。
大阪~博多間のまつかぜは昼行特急としては走行時間、距離とも大阪~青森間の白鳥に並ぶスケールですね。これも米子での系統分割を経て国鉄最後のダイヤ改正の時に福知山線電化で北近畿に吸収されて愛称消滅したが2003年に2代目のまつかぜ(スーパーまつかぜ)が鳥取~米子、益田間で愛称復活していますね。
小学生の時、大阪→鳥取でこのまつかぜに乗ったことがあります。確かに大阪スタート段階では、13両編成で、ディーゼル特急としては異例のグリーン車2両に食堂車も付いた豪華な特急(鳥取か米子か忘れましたが、後ろ6両切り離しで、終点博多には7両で運転)でした。朝8時発でしたが、鳥取には12時過ぎ到着と、中々の長旅となりました。
@@まるかつ鉄道 当時の書籍を調べると博多まつかぜは大阪~鳥取間が13両で鳥取で6両切り離しになっていますね。この当時はスーパーはくとが運転されるずっと前で結構大回りだったので時間がかかってましたね。
個人的見解でありますが、現在のソレは「似て非なるモノ」。
車両は速くなったかも、だが普通車2両単位でグリーン車も食堂車はおろかワゴンサービスも無し、ま、座席は進化しましたでしょうが…
当時は特急だけでなく急行も、それなりの「格」がありました。
現在のスーパーまつかぜは「特急」。
往年の「まつかぜ」は「『特別』急行」列車。
@@雅夫大場 往年のまつかぜと比較すると味気ないですね。
まつかぜは高校生の時に大阪〜博多全区間乗り通しました。食堂車も乗りましたね
益田市は島根県じゃないのだろうか?
子供の頃、なぜ「まつかぜ」は大阪から福知山線経由だったのか不思議でした。そして特急「あさしお」が設定されるまでは、急行「丹後」や「白兎」が活躍していましたね。
急行だいせんも!
京都を出て、山陰本線のほとんどの区間を走り抜いた上で本州を飛び出して門司地区入り、それだけでは飽き足らず博多に侵入するの本当にかっこいい。キハ189系を使ってこういうアタオカ便設定してくれないかな…
名古屋・富山のT飛騨でもうんざりするのがわたしらシロウト。弁当食って同じ列車で2度ウンコできるT松風が凄過ぎ。
むしろクルーズトレインが、やがて来るであろうマンネリコースの打開策として会社の壁を乗り越えた相互乗り入れとしては魅力的かも。
(ななつ星・トワイライト瑞風)
まつかぜほど威厳は無かったものの急行三瓶や普通824レなども有りました。
824レは宮脇俊三先生も著書「旅の終わりは個室寝台車(新潮文庫)」にもルポがあります。
なんか後半は殆ど白河夜船だったみたいで…
まつかぜ1・4号の編成はキハ80系気動車✕9両(基本6両+附属3両)で基本編成の1ー6号車が新大阪・大阪ー博多間でグリーン車・食堂車が各1両連結されていました、付属編成の7ー9号車が途中の米子駅🚉で切り離し及び連結作業が行なわれていました。米子ー博多間は1号車ー6号車の基本編成6両でグリーン車・食堂車各1両が連結されていました。
それはキハ82系末期ですね!ヨンナナサンダイヤ改正からは13両編成で付属編成は3号2号で鳥取折返し運用でした。ただし3号2号の場合は号車番号を付け替えていました。またヨンナナサンまでは12両編成で7号車から12号車までは米子折返しでした。なお福知山線経由時代のやくもの基本編成は白鳥と共通運用でした。
1986年のまつかぜ廃止後、福知山線経由の大阪~鳥取間特急では「エーデル鳥取」が1989年には復活した。
しかし1994年にスーパーはくとが誕生し、1時間以上も短縮。1999年に「エーデル鳥取」は廃止。
エーデル鳥取、何回か乗りました。海が見られるので、好きでした。
80系まつかぜの食堂車でコーヒーでも飲みながら山陰の日本海を眺めたかったな。
スーパーまつかぜの先頭で前方を眺めながらの旅も悪くはなかったが。
高校の通学で博多駅で良く目撃してました。
自分が乗ってる筑肥線と同じ気動車でも、風格がありましたね。やはりキハ30やキハユニ26では敵わない。
藤圭子さんの京都から博多までは瀬戸内沿いに走る列車の旅です。
1980年代大阪・博多間の「まつかぜ」を乗り通しかった。
大阪→松江までキハ80系[まつかぜ]を度々利用した。
大阪,宝塚,福知山…に停車。🍴連結の殿様列車✌
上井は「あげい」だったような
伯備線の電化以前「やくも」にはキハ181系が使われていましたねえ。
この特急やくもの前身は特急おきで46年4月ダイヤ改正でそれまでの急行おきから格上げされて新大阪と出雲市を伯備線経由で結んでいました。だからやくもはおきを発展的に改称されたのです。
山陰特急のエースを君臨した名車
1986年廃止してからははまかぜ、こうのとり(北近畿)、スーパーはくとが大阪山陰を走破
山陰本線京都駅🚉発着の特急あさしお号も取り上げて下さいお願いします。特急あさしお号の京都ー城崎間で運転区間が二種類あり、2往復の内1往復が山陰本線経由で残る1往復が綾部、西舞鶴、豊岡て3回進行方向が変わり舞鶴線ー宮津線経由で運転されていました。
まつかぜは山陰の老舗優等列車で、都市間特別急行として列車名を与えたからこれまたいい☺🚃
子供の頃に博多から東萩までよく利用してました😄
懐かしい動画をありがとうございます😊
山陰特急「まつかぜ」
大阪~博多間は2つに客層が分かれる。
大阪~米子間は京阪神の利用者で福知山や城崎温泉、鳥取と現在の特急こうのとりと同じ。そして米子~博多は主に山口県や北部九州の利用者。益田、津和野、維新の街東萩、湯本温泉の長門市といった観光客の利用。
大阪~博多間を乗り通す乗客は皆無に等しく、余程の物好きの乗り鉄しかいなかった。
京阪神~博多間は山陽新幹線や関西ブルトレだった。
1985年に山陰特急が米子を挟んで系統分離した。大阪~米子間はまつかぜを継承し、米子~博多間は「いそかぜ」を新設した。いそかぜはキハ181系3両でグリーン車はなかった。まだ萩観光の需要があったが、山陽新幹線のスピードアップや高速道路網の整備でマイカーやレンタカー、高速バスの進出。山陽新幹線を拠点とした新山口、広島、岡山といった陰陽連絡の充実。
新山口は山口線の特急おきや萩行きのバス、広島は浜田行きの高速バス、そして岡山は伯備線経由の特急やくも
単線で長い時間をかけて走る山陰特急は乗客が敬遠する要因になった。
母親の里帰りで、始めは、米子から夜行急行列車三瓶で小倉までだったが昼間特急まつかぜ松江小倉間に変わったお金がなかったので食堂車には行けず車内販売の駅弁カニずしをぱくつきながら日本海に沈む夕陽を見てた
益田駅は島根県
お疲れ様です❗️若い時に制覇しました❗️、帰りは寝台で帰ってきた。今なら無理ですね😃
スーパーまつかぜ には触れないのねw
この「まつかぜ」のキハ181の一番列車は、最後尾車両が故障し、キハ28を繋ぐという信じられない運転をしました。
石見江津ー現在の江津駅🚉、石見大田=現在の大田市駅🚉、石見益田=現在の益田駅🚉です。
たとえ高速振り子走行で際立つ存在とは言え、今では“スーパー細切れ”ですね…。京都発着の“あさしお”と違い、短縮されても名前が残っているだけ、“まつかぜ”は恵まれているのかも知れませんが。
113系福知山色?(乗った記憶無いですが…。確か、「サンパチくん」も似た塗装だった様な…。)
鳥取行くとき乗った記憶があります
我輩は、昭和58年の大晦日に大阪から小倉迄乗りました!嬉しかった(≧▽≦)
この頃は、基本(食堂・グリーン1輌)6輌、付属(キハ)3輌の9輌編成でした。
写真も撮りまくり、昼夜と食堂車へ2度行った事も、今となっては良い思い出です。
追伸.『いそかぜ』は、いつの間にか小倉止まりになっていましたね!
まつかぜの初乗車は、昭和58年4月博多から島根県、石見大田まで乗車しました。
資料が凄いわ
古い写真など お見事です!
長文になりますが
昭和57年8月、私は、父親転勤に伴い
松江から益田に引っ越し
引っ越す前に父に連れられて
松江から特急おき1号(キハ181系)で下見に行き
その後に引っ越しの為に、祖母と妹と私の3人で益田に向かう時に
松江から、急行さんべに乗車予定が
10分程先発の広島行、急行ちどりに
祖母が間違えて乗車
宍道から、木次線に入り
南宍道で間違いに気付き
宍道まで戻り、普通列車、急行だいせん、さんべ特急おきをスルーして
キハ82の特急まつかぜ1号で
益田に到着、キシ80で食事した。
思い出は、忘れられない。
ちなみに、祖母は、今で言う鉄子でした。
初めて乗った特急がまつかぜだった。さすがに博多まで乗り通す事なんて考えられなかったけど、長大編成の列車は格好良かった。途中で編成は切り落としてたかな?
益田って島根県じゃないんですか?
特急くらいのスピードが一番地方活性には良かったんだよなぁ
朝一で東京大阪を出発して午後に各地方都市に到着
夕方に各地方都市を出れば夜遅くに東京大阪に戻れるがキツいので各地方都市に一泊して翌朝各地方都市を出るビジネスマンが多いので地方経済が潤う
今の新幹線だと速すぎて日帰りできてしまうので地方にお金がほとんど落ちない
なので地方が衰退してしまっている
特別急行列車まつかぜ号。
約半日の所要時間は現代視点では非現実的に見えるかもしれないが、
全国的に特別急行列車が設定された3610改正では珍しいない存在。
ただし他の路線が新幹線や航空網整備により区間短縮され整備されたが隘路である山陰本線は手付かずのまま放置されていた。
山陽新幹線が博多まで延伸した時に京都から長崎へ行く特急かもめのように整理されると思いきや、それからさらに10年はそのまま。
やくもが電車化され余剰になったキハ181が山陰特急に玉突きで導入されたが1・4号は食堂車付きで80系のままであった。
食堂車付きのままキハ181へ置き換えて欲しかった。
上井(かみい)?ん?ひょっとして上井(あげい)のことかな?😓上井は今でいう倉吉駅です。
80系まつかぜ…高校時代の夏休みに餘部鉄橋に列車撮影しに行くのに、日帰りで行きは大阪から豊岡、帰りは浜坂から大阪まで乗って帰ったな☺️
当時生まれて初めて食堂車🍴🚄付きの在来線特急に乗れてメッチャ嬉しかった😊✨️
行きは早速食堂車に行き、まだ高校生だし朝早かったから、トーストとアイスコーヒー注文して過ごしたな🍞☕✨️
当時のまつかぜは豊岡まででも片道三時間ほど懸かってたから食堂車で軽食食べるには充分だったし、あの80系普通車のお粗末なシートでずーっと過ごすにはキツかったから丁度良かった…(^-^;
そして帰りは浜坂から乗って丁度夜だったので食堂車で「大山おこわ定食」を注文して夕食に食べた😋
ぶっちゃけ…あの80系食堂車の椅子は…大衆食堂のようなパイプ椅子で、お世辞にもお洒落な内装とは言えなかったな…😅
まっ、テーブルクロスが清潔そうな真っ白だったのが取り柄か…(^-^;💦
さすがにあの博多まで全線乗り通すのは、お金も時間も許されない身分だったので本当はしたかったが出来ず終いだった…
何れにせよ、もう二度と味わえない、贅沢な旅だった✊️✨️
山陰線の新線解説頼んだ
現在では特急が走らない区間は、山陰本線と言えどもJR西日本名物「必殺徐行」があるくらいですからね。
時代が変わってしまったとしか、いいようがありません。
陰陽連絡特急の代表列車特急やくも号を取り上げて下さい❗お願いします。
もし、半世紀、50年前にタイムスリップできれば、乗ってみたかった特急は「まつかぜ」「白鳥」「あさかぜ」「日本海」。昭和50年頃城崎温泉に行った際、帰りに天橋立に寄った際「あさしお」に乗ったが、鉄道ファンに言わせれば、同じキハ80系でも「まつかぜ」の方が格調高いという意見もあった。そのくらいの名列車。鉄道ガイドで当時「富士」が、下関で機関車交換して関門トンネルに入る直前に「まつかぜ」と交換するというダイヤだったようです。
おお、四つとも乗ったなあ。今や、60過ぎたジーサンの若い頃の思い出です。
極めつけは、博多からまつかぜ、大阪仮泊で、白鳥、おおぞらで札幌、という特急三昧を敢行したこと。キハ82は、早くはないけど風格があった。ちなみに、お年玉が数年分飛びました。
@@kiyotakainaba48 少し先輩ですね。小生はまだ児童から学生までのレベルだったので、バイトでカネを稼ぐ事は出来ない上、未成年だから一人で乗車は出来ませんでした。ですから今は年齢相応にNゲージで編成を作って走らせ、かつての郷愁にふけっています。
@@坂田庄司-g6n ちょうど、博多から札幌まで、キハ82三昧をやった頃に、カトー(と言っても、当時は関水金属) から、革命的なキハ82 が出たので、4 両編成を買って、遊んでました。とても、フル編成は買えませんでした。
これと、同じ頃に出た DD13 はエポックメークでしたね。両方とも未だに持ってます。
スーパーはくとを米子まで運転すればいいと思うんだけど
やくもを食ってしまうからやらないんだよな
JR西日本の運行区間が延びるので、車両使用料が跳ね上がるというのもあります。
益田市は、島根県。山口県ではない。
津和野も
令和5年7月現在
まつかぜを復活させるべきです
山陰は不便すぎ
現在のクルマ社会発達と地方の人口減少含め、多少割高でも快適に早く移動出来る新幹線🚄を選択するのはやむを得ないと思いますし、鉄道はファンだけの物ではないし、JRは株式会社でありボランティア組織ではないし、採算取れない地方路線廃止は仕方ないし今後も増えると思いますし…😑
脇役?
自分から言わせれば憧れであり、エースである。
当時の向日町のキハ80系は、博多、大阪、青森、上野を行き来してたのでしょうか。
ヨンサントウの時点でキハ80系の向日町運転所では特急白鳥で青森、特急かもめで長崎と佐世保(佐世保編成は筑豊本線経由)なは・日向で西鹿児島と宮崎、まつかぜで博多、やくもで浜田まで運行していた。
大阪~博多を乗り通す客なんてまずいないですね。ゴウ・サン・トウで消えた名古屋~天王寺の「くろしお」も同様です。
今、観光列車として復活したら面白いが、採算合わない?
この頃が山陰本線が絶頂期だったのでしょうか?
末期は【いそかぜ】がキハ181系の3連で「小倉」まで乗り入れ。
そのいそかぜに乗りに行きましたよ。
車内はだいぶくたびれていたけど、山陰本線の車窓は抜群でしたねぇ。
亜幹線だけに、「あかん」線だな
「まつかぜ」が走り続けられたのは、山陰本線経由だからですね。
山陽本線なら速攻で廃止の対象。
昭和51年初の大阪駅、朝7時50分過ぎの、みどりの窓口にて
おっさん「あのタクシー運転手アホや!新大阪駅!言うとるのに、大阪駅に着けよった!おう、あんちゃん、博多まで一枚!一番早く出発するヤツで頼むわ!」
新米窓口「一番早く出発、ですか?」
お「そうや、グリーン車でも良いから、一番早くに出るヤツや!」
窓「8時丁度のがありますが。グリーン車しか空いてないですね。」
お「だから、グリーン車でもええ!言うとるやろ?娘が孫産気づいたんや!はよ行かなあかんのや!」
窓「分かりました。では、博多まで特急グリーン車でお取りしま〜す。」
お「ありがと。釣りはいらんで!あんたにも御祝儀や!」
窓「いえいえ、そんな頂けませんよ。特急まつかぜ1号、博多行グリーン席でお取りしました。」
お「流石、腐っても国鉄!仕事速いわ!餅屋は餅屋やな!」
窓「お急ぎ下さい!発車時刻が近付いていますので〜」
お「おおきに!博多行はここからも出るんやな~便利になったな〜!んじゃ、ど〜も!」
窓「お気を付けて〜!」
「まつかぜ」は最初は京都発でしたよ。京都から大阪経由でしたよ。
今、逆にこのような列車を山陰本線に復活させることで山陰本線の活性化になんとかなりやしないであろうか?
またこのやり方をささえるべく、かつてあったゾーン周遊きっぷや昔のオーダーメイド周遊券やレディーメイド周遊券、ミニ周遊券、ルート周遊券などの復活も考えてみたらどうであろうか?
私は実は乗り鉄のなんちゃって鉄道ファンですが、キハ181系(?)の「特急いそかぜ」の一部区間の体験のみです。
昔、山陰本線には夜行列車のキハ58系の夜行の「急行さんべ」もありました
皆さんも山陰本線の活性化を考えてみてください。。
まつかぜよりもやくものほうが豪華な編成だった。これは、やくものほうは新幹線接続で東京方面からも乗継げたのにたいし、まつかぜは、どちらかというと関西地区からの利用が多かったためと思われる。まつかぜは、12両編成の内6両が、米子回転で普通車ばかりだった。のちのヨンナナサン白紙ダイヤ改正で、鳥取回転に改められ、この鳥取編成は、やくも改めまつかぜ下り2号、上り1号となって区間も短縮された。そしてあらたに岡山から伯備線経由の新幹線連絡やくもがおきを発展的改称され、4往復誕生し、そのうち1往復が、益田まで運行された。おきは、前年に急行から格上げされている。急行時代は赤穂線を経由しています。
同じように普通列車もありました。😅
「まつかぜ」みたいな「無理やり直通DC特急」って、ブルドックなキハ81時代の「くろしお」や「おおとり」を合わせて三巨頭じゃないすか?
非電化急行ならよくあるパターンでも、非電化特急だとさすがに???ですよね。電車特急ではこういう例はあるのか知りたいかも(白鳥は置いといてください)。
「はぜ」「まぜ」と呼んでいました
一度だけ、祖母が気動車特急(オホーツク)のグリーン車に乗せてくれた事が有ります。
何系?😋
@@psychedelicraspberry517 さん、返信が遅れてスミマセン、82系時代です。
あげい、ね。
固有名詞なんだからちゃんと読まないと。
令和6年5月現在
博多大阪まつかぜを復活するべきです
みなさんドンドン広めていきましよう