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興味深々で見させてもらいました。子ども向けの絵本や図鑑でもここまで質の高い作品は見つからない素晴らしい仕上がりでした。
テレビ受像機はブラウン管が乗務員室梁部分に取り付けられ、機器類は車掌室部分天井に装備されていました。運転席以外の天井はテレビ関係の機材でいっぱいに。似たような話は、戦前の南海2001系冷房車のときにもありましたね。あちらはエバポレーターユニットと送風機でしたが。
一般車として元気に走っていたが電圧昇圧でひっそり引退したには涙が出ました😅1700系1800系有難う。
忘れてはいけないのがピンク色の内装色。阪急と違い外観色も派手だが内装も明るい電車でした。
「特急車一点豪華主義」「普通車は特急車のお古」この二大ポリシーを1900系まで延々と続けた京阪イズムの偉大さかつ恐ろしさ( ゚Д゚)
1800系には、1810系3次車増備の頃に、セミステンレス車体で製造する計画案が汽車会社から提案されたことがあり、数案の計画図面がいまでも残っています。京阪では過去に無料特急の他、有料座席指定特急『びわこ連絡』『たそがれ』『ひえい』『マキノ』『比良』『まいこ』『マイアミ』が運転されたことがあります。これらは湖西線開通で運転が終了しました。
首都圏在住なので詳しくは知らないのですが、「びわこ」とかの路面区間も走る車両があった、と聞きます。台車が連接で集電もパンタとビューゲル(ポールだったか?)と二種類を備えたとか…愛称ですが、他に「ミシガン」なんてのはありませんてしたか?
何か小田急ロマンスカーみたいな車両の図面がありましたね。1800〜1900系はとにかく乗り心地が良かった記憶があります。後補助椅子がパイプ椅子でオリジナルの座面だった事。京阪はとにかく芸が細かいんですよね。
@@雅夫大場 さま。『ミシガン』ありましたね、『ミシガン・ショーボート』『ミシガン・ナイト』とか。ただしこの頃にはもう有料の座席指定はなくなって観光船連絡列車となっていました。あと『竹生島』『近江八景』という定期便連絡というのもありましたよ。こちらはネームドトレインではありませんでした。ちなみに座席指定用の座席番号プレートは窓下にありました。それからこれに対応する京津線の『びわこ連絡』車両には側面に特急のサボが掲げられていました。京津線では唯一ではないでしょうか?
@@トミヤマサキオ さま。セミステンレスの計画図面は、レイルロード刊『京阪1800』に掲載されています。パイプ椅子と積む・・・1両あたり20脚積んでいたらしくて、5連で100脚の椅子を駅員さん3名で、折り返しの2〜3分の間に積み下ろししていたそうです。かなりな重労働ですね。全部で650脚ほど使われていたそうですよ。
かなり小さい頃の記憶ですが、パイプ椅子のセット作業を興味深く見た記憶があります。何より京橋から暫く止まりませんからね、有り難いサービスでした。後謎なのですが自動販売機が一時3000系にあったような。新快速153系にはごく初期コーラの販売機があったのは確認してます。でも京阪となるとサッパリ?昔写真で見たような気がするのですが。全く記事も何も見当たりません。
もちろん乗ったことなく写真でしか拝めませんでしたが、1800系レトロでかっこいい!1900系も引き継いだ形で、丸いテールランプが若干上のほうにあったのもいいね!やっぱり京阪の鳩のマーク萌える!
京阪の観光特急にふさわしい高性能電車でしたね。色鉛筆のスケッチお上手です!格下げ3扉化後は交野線•宇治線での運用もありましたね。
意外とあまり触れられていないネタですが、旧3000系から採用された扉部の補助いす、それまではなんと、ホートクなんかみたいな折り畳みのパイプ椅子だったんですね。どの程度置かれていたかは覚えていませんがw車体が1m伸びたのは型式以外では扉間の窓の数で判別できます。1枚増えた(9個→10個)。
初期の空気バネ台車は枕バネではなく軸バネに装架されたんだよね。当時、枕バネに使えそうな径の大きなベローズが製造できなかったらしい。
これの前段階でDT19の軸ばねを改造した資料が『KSK技報』5(2),汽車製造,1956-04に載っていますね。見る限りほとんどKS-50と同じような印象。これが本邦初の空気ばね台車。(国立国会図書館デジタルアーカイブで閲覧できますよ)あとKS-50のテストのときに枕ばねと軸ばねのどちらが乗り心地に影響するのかをテストした結果誕生したのが、今の空気ばね台車の基本になるKS-51であり、のちのエコノミカル台車の基礎になるKS-57でもありました。
軸ばねのベローズに関しては、どのメーカーも前例がないので製作を断った結果、富士重工のスクーター『ラビット』のタイヤ金型を使用して試作したそうです。枕ばねは、KS-50の設計者汽車会社(当時)の高田隆雄さんがアメリカで乗ったグレイハウンドのバスが空気ばねで、そこからヒントを得たという話がありましたんで、そちらは手配できたのではないでしょうか。ただ高田さん、駅で停車中に傘の先でベローズを突いていた人を見かけて、破裂してパンクしないか心配だったそうですよ。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN 高田隆雄氏、懐かしいですね。鉄ピクや電気車研究会でお馴染みでしたね。汽車会社の方でしたね。
この時期の補助席は車内に折り畳み椅子が置かれていましたね
一般車に格下げされた1700系1800系は、吊り掛け駆動とWN駆動との協調性が良かったのか時折急行や準急運用に駆り出され後に、雑多な系列を纏めて新生された600系、通勤型高加速に優れた2000系のテストベッドに造られた1630型(後の630型)と共に種別を問わず吊り掛け駆動の限界能力までガンガン飛ばす優等種別(急行・準急・区間急行)に駆り出され1700系や1800系1810系は中央に両開き扉を増設し通勤輸送に徹していたものです。1700系は一時期車輛番号表記が17-x(xは編成製造番号)という変則的な表記が試験的にありましたが、コレは恐らくトライアンドエラーだったようで1700系は通勤車に格下げ後は半鋼製だった為車内は、ダークブラウンにニス塗り連結部は京阪で唯一の両開き式扉の付いた広幅貫通路でモハの台車もコイルバネ部をヤジロベー式にした稀有な台車で、重低音のノーズサスペンション(吊り掛け駆動)の音であまり高速域まで達することなくある程度の速度でノッチ切を行いブレーキもAMAR方式と言う旧型車の標準ブレーキで晩年は普通運用に入る事が多くなり昇圧と6000系の登場と引き換えにに1700系600系とも姿を消しました。今でも救援車で1両1800系の残党が居るようです。高度経済成長期に第一線で走り続けたこれら旧型車群は京阪の喫緊の課題である連続立体高架事業期にフル活用されてました(元京阪沿線民)
沿線住民です。WN駆動の車両は1900系にも5両が存在しました(1914・1916・1984・1987・1992)が、その後は中空軸平行カルダン駆動への統一を経てTD平行カルダンに移行した上、中之島線開業前に1900系自体が引退したため、現在京阪からはWN駆動車両がなくなっています。
@@Mamenosuke467 さん京阪はかなり前に救援車を全廃していたと記憶してます。
京阪特急の黄金時代という感じで見させてもらいました。大変詳しい説明ありがとうございます。京都市内の北寄りの住民の場合、大阪に行くとなると阪急よりも京阪の特急をよく利用していたと思います。地下鉄も無かった時代、阪急の特急を利用する場合、始発駅「現在の京都河原町」から座って乗りたいので、市電や市バスで行くのですが、交通事情が悪いため三条京阪よりも阪急河原町駅には行きにくかったと思います。それに対し、三条京阪は自転車が留められる(放置で良くないですが)巨大な駐輪場を有する形となり、往復の市バス代も浮くことから快適な大阪への足として重宝していたとも思います。
正に北寄りに住んでいて、大阪への行き来は、京阪プレミアムカー一択です。京都バス、叡電、タクシーで出町柳まで楽に行けるので。
色鉛筆によるスケッチ あのようなタッチの絵は個人的に好きですこれがなければ新幹線もないと言っても過言ではない1800系当時は特に京都(または大阪)に用事がない人でもテレビを座って見れること目当てで往復乗る人もいたとか...
中空軸平行カルダン駆動について、ここまでわかりやすく解説されたものはそうそうなく、非常に感銘をうけました。ただ、惜しいことに、動画の図面本体は合っているのですが、音声とキャプション?んいて「中空軸」と「ねじり軸」が逆になっています。電磁力によって回転するのは「中空軸」で、歯車と逆側のたわみっ版にて「中心軸=ねじり軸」に動力が伝えられる、というのが正しいです。ついでに細かい所になっちゃいますが、その前の部分、カルダン駆動にすることで線路などの衝撃がモータに伝わらなくなるところは合ってますが、それが故「大きな」モータを搭載できるわけではなく(むしろ自在継ぎ手のスペースなどのため、搭載可能なモータの物理的サイズは小さくなります)、モータを必要以上に頑丈に作る必要が無くなるため、同じ出力のモータなら小型軽量にすることができます。実際、吊り掛け駆動の末期の車は150kWとか」170kW級のモータを積んでましたが、カルダン駆動の初期の車は75kWとか100kW級が精一杯なので、電動車比率を上げて対処していたわけです。今回出てこなかった直角カルダン駆動なら、もうちょっとおおきなモータを詰めましたが、それは別の話ということで^^;;
学生時代お世話になりました😅
この武骨な顔は、けっこう最近まで残っていたんですが、車体更新でのっぺり顔にされてしまいました。また、車掌台側の前面窓が開閉式だったのは路面電車の名残と、京都の夏対策でしょうね。
一般車格下げ後の1900系によく乗ってました。当初は編成の前後が旧1810系編入車と1900系新造車という顔が異なる組み合わせで、編入車は前照灯が2つ目玉になったとはいえ昇圧後も1300系、1700系以来の旧型車の面影をとどめていましたね。それが1900系車体更新の折りに旧1810系がほぼ中間車改造され、1両だけ前面改造のうえ先頭車で残った1914が四角いシールドビームになっていたのが異彩を放っていましたね。
人から聞いた話なので信憑性が皆無なんですが、車室側の窓が開く理由は、駅で行先表示板を変えるときに、ここから手を伸ばして変えることができるのでと聞いたことがありますよ。そう言われれば下段上昇式でちょうど抜き差しできるほどの開口部がありますしね。そのうえ貫通路は車掌側にヒンジがあるので、聞いた当時は『そうかな』と思って納得していました。
最初のテレビは1882号・1883号に試験的に、現在のシャープ製の17インチテレビが取り付けられ、初めて『テレビカー』の文字が車体に描かれました。記録を見ていると、テレビ受像機取付車両は頻繁に変更されていたようです。ちなみに両運転台車でテレビカーだったことがあるのは、1815号、1816号です。あと沿線の成田山大阪別院には、現在は使われていませんが、いまでも街頭テレビが残っていたと思います。
あとテレビカーのうち、1914号のみが大阪側にテレビが付いていました。京都側にテレビの付いている車両が多かったのは、夜間(深夜)に京都方面に帰る通勤客へのサービスが目的だったともいわれています。
京阪では「4両編成7列車」というように、編成の単位を「本」ではなく「列車」で数えます。
阪急系列で車両新造の事を「建造」と呼称したりと、関西大手私鉄の独自性が興味深いです。
初めて乗車した時、見た目は旧型なのに吊り掛け音がしないのでびっくりした記憶があります。
いち早くカルダン駆動を採用したのはやはり『技術の京阪』ならでは。テレビカーは 受信状態が悪くなると 車掌さんが屋根上のアンテナを手動でくるりと回転させて対応していたとか。この時代にWNカルダンを採用出来たのも 標準軌の京阪ならではですね。
テレビカー実現のために各メーカーから機材を借りていろいろテストを重ねたと記録にはありました(レイルロード刊:京阪1800)。受像機は早川電機(現在のシャープ)製17インチテレビ受像機を自社購入(会社員の手取りが6000円〜15000円の時に定価20万円!・・・すみません、当時うちにもありました)。アンテナは当時開発された『セルシン(商品名)』を使用して遠隔操作できるようになったそうですが、テスト段階ではアンテナを車内から窓伝いでロープを使って回転させたりしたそうです。なかには枚方・三条駅で屋根に登って調整したりもしたそうです。ちなみに使ったアンテナは八木アンテナの3素子の簡単な市販品だったそうです。NHKもRCA製TV受像機を貸し出したそうです。そのときは車内にフィーダー線で網棚に仮設したそうですが、他のテストのときよりよく写り、当時の日本との技術力の差に愕然としたそうです。あと台車では、日本で最初にオイルダンパ付き全コイルばね全溶接台車KS-6Aを装備しました。
3000系は無線で使われるローテーター(モータでアンテナを動かす)をダイヤルグルグルで動かしてた今主流のダイバーシティ方式の手動判w
京阪は本線に初めて特急を設定やけど、阪急は昔京阪が新京阪線で設定してた特急を再開やからな。んで、ノンストップも阪急が京阪のビジネスを見てから後追いか。今現在もPrivate車両のような優良車両が後追いやけど。阪急は京都方面は路線もビジネススタイルも、京阪からパクッてばっかりやん。神宝線側のエレガントさを否定せんけど、京都側は汚すぎるわ。
一般車化した後、1980年引退間近の頃、枚方市発の7時台の準急として走っていたのを覚えている。なんせそれに乗れれば遅刻はセーフと言う電車だったしねwところがたまに故障したw それも天満橋と北浜の地中線の中だったから車内は真っ暗状態wまぁでも萱島から京橋までツリカケ唸らせながら(自分が乗ったのは1700系だから)ノンストップをよく走ったとは思う。
テレビカーのサービスの画期的さを今で例えるなら、車内無料WiFiでネトフリ観放題!的な感じになるのかな?
京阪特急はプレミアムカー限定ですが無料Wi-Fi装備されていますね。かつては8000系にテレビの他、公衆電話もあったので時代と共にサービスの変遷を感じます。
毎回 貴重な動画 投稿して頂きありがとうございます。お疲れ様です。誠に恐縮で申し訳ございませんがリクエストで新京成電鉄100型・200型 京成電鉄210型・2000型・2100型 東武鉄道3000系列 京浜急行電鉄500型・600型 山陽電鉄2000型 南海電鉄1200型・1520型 阪急の初代1000系列 神戸電鉄300型・800型 西鉄200型・120型・300系・313系をご投稿頂ければ嬉しいと思いますので何卒お願いします。
1810系の運転台は奇数が京都側、偶数が大阪側だったのではないでしょうか?。
お疲れ様です。1800系とはまた泣かせますね。(笑)カルダン駆動の仕組みの解説そこまでは私は存じませんでした。ありがとうございました。1800系はオールMで本来の性能を発揮するようでMTMでは釣り合い速度103km/hまで落ち向かい風が吹くと加速が鈍くなかなか最高速に到達しなかったみたいですね。😂私の動画では京阪の抵抗性御車の詳説があり1800系と3000系との併結時の性能解説もありますのでよろしければ皆さんとご覧ください。お疲れ様でした。
テレビ黎明期の頃の民放テレビはまだ純粋さがあってよかったけど、今はただただ有害なだけでしかない。なので、また革命的な車種を生み出すなら、エフエム・カーを生み出すべきだろう。どこでもFMに対応した端末を全座席に配置し、そこから聴けれる様なシステムにするのである。
そんなものはWi-Fi付けて各自スマホでradikoで良いじゃん
興味深々で見させてもらいました。子ども向けの絵本や図鑑でもここまで質の高い作品は見つからない素晴らしい仕上がりでした。
テレビ受像機はブラウン管が乗務員室梁部分に取り付けられ、機器類は車掌室部分天井に装備されていました。運転席以外の天井はテレビ関係の機材でいっぱいに。
似たような話は、戦前の南海2001系冷房車のときにもありましたね。あちらはエバポレーターユニットと送風機でしたが。
一般車として元気に走っていたが電圧昇圧でひっそり引退したには涙が出ました😅1700系1800系有難う。
忘れてはいけないのがピンク色の内装色。阪急と違い外観色も派手だが内装も明るい電車でした。
「特急車一点豪華主義」「普通車は特急車のお古」この二大ポリシーを1900系まで延々と続けた京阪イズムの偉大さかつ恐ろしさ( ゚Д゚)
1800系には、1810系3次車増備の頃に、セミステンレス車体で製造する計画案が汽車会社から提案されたことがあり、数案の計画図面がいまでも残っています。
京阪では過去に無料特急の他、有料座席指定特急『びわこ連絡』『たそがれ』『ひえい』『マキノ』『比良』『まいこ』『マイアミ』が運転されたことがあります。これらは湖西線開通で運転が終了しました。
首都圏在住なので詳しくは知らないのですが、「びわこ」とかの路面区間も走る車両があった、と聞きます。
台車が連接で集電もパンタとビューゲル(ポールだったか?)と二種類を備えたとか…
愛称ですが、他に「ミシガン」なんてのはありませんてしたか?
何か小田急ロマンスカーみたいな車両の図面がありましたね。1800〜1900系はとにかく乗り心地が良かった記憶があります。後補助椅子がパイプ椅子でオリジナルの座面だった事。京阪はとにかく芸が細かいんですよね。
@@雅夫大場 さま。『ミシガン』ありましたね、『ミシガン・ショーボート』『ミシガン・ナイト』とか。ただしこの頃にはもう有料の座席指定はなくなって観光船連絡列車となっていました。
あと『竹生島』『近江八景』という定期便連絡というのもありましたよ。こちらはネームドトレインではありませんでした。
ちなみに座席指定用の座席番号プレートは窓下にありました。
それからこれに対応する京津線の『びわこ連絡』車両には側面に特急のサボが掲げられていました。京津線では唯一ではないでしょうか?
@@トミヤマサキオ さま。セミステンレスの計画図面は、レイルロード刊『京阪1800』に掲載されています。
パイプ椅子と積む・・・1両あたり20脚積んでいたらしくて、5連で100脚の椅子を駅員さん3名で、折り返しの2〜3分の間に積み下ろししていたそうです。かなりな重労働ですね。全部で650脚ほど使われていたそうですよ。
かなり小さい頃の記憶ですが、パイプ椅子のセット作業を興味深く見た記憶があります。何より京橋から暫く止まりませんからね、有り難いサービスでした。
後謎なのですが自動販売機が一時3000系にあったような。新快速153系にはごく初期コーラの販売機があったのは確認してます。でも京阪となるとサッパリ?
昔写真で見たような気がするのですが。全く記事も何も見当たりません。
もちろん乗ったことなく写真でしか拝めませんでしたが、1800系レトロでかっこいい!
1900系も引き継いだ形で、丸いテールランプが若干上のほうにあったのもいいね!
やっぱり京阪の鳩のマーク萌える!
京阪の観光特急にふさわしい高性能電車でしたね。
色鉛筆のスケッチお上手です!
格下げ3扉化後は交野線•宇治線での運用もありましたね。
意外とあまり触れられていないネタですが、旧3000系から採用された扉部の補助いす、それまではなんと、ホートクなんかみたいな折り畳みのパイプ椅子だったんですね。どの程度置かれていたかは覚えていませんがw
車体が1m伸びたのは型式以外では扉間の窓の数で判別できます。1枚増えた(9個→10個)。
初期の空気バネ台車は枕バネではなく軸バネに装架されたんだよね。当時、枕バネに使えそうな径の大きなベローズが製造できなかったらしい。
これの前段階でDT19の軸ばねを改造した資料が『KSK技報』5(2),汽車製造,1956-04に載っていますね。見る限りほとんどKS-50と同じような印象。これが本邦初の空気ばね台車。(国立国会図書館デジタルアーカイブで閲覧できますよ)
あとKS-50のテストのときに枕ばねと軸ばねのどちらが乗り心地に影響するのかをテストした結果誕生したのが、今の空気ばね台車の基本になるKS-51であり、のちのエコノミカル台車の基礎になるKS-57でもありました。
軸ばねのベローズに関しては、どのメーカーも前例がないので製作を断った結果、富士重工のスクーター『ラビット』のタイヤ金型を使用して試作したそうです。
枕ばねは、KS-50の設計者汽車会社(当時)の高田隆雄さんがアメリカで乗ったグレイハウンドのバスが空気ばねで、そこからヒントを得たという話がありましたんで、そちらは手配できたのではないでしょうか。ただ高田さん、駅で停車中に傘の先でベローズを突いていた人を見かけて、破裂してパンクしないか心配だったそうですよ。
@@JobChanged--UEKISYOKUNIN 高田隆雄氏、懐かしいですね。鉄ピクや電気車研究会でお馴染みでしたね。汽車会社の方でしたね。
この時期の補助席は車内に折り畳み椅子が置かれていましたね
一般車に格下げされた1700系1800系は、吊り掛け駆動とWN駆動との協調性が良かったのか時折急行や準急運用に駆り出され後に、雑多な系列を纏めて新生された600系、通勤型高加速に優れた2000系のテストベッドに造られた1630型(後の630型)と共に種別を問わず吊り掛け駆動の限界能力までガンガン飛ばす優等種別(急行・準急・区間急行)に駆り出され1700系や1800系1810系は中央に両開き扉を増設し通勤輸送に徹していたものです。1700系は一時期車輛番号表記が17-x(xは編成製造番号)という変則的な表記が試験的にありましたが、コレは恐らくトライアンドエラーだったようで1700系は通勤車に格下げ後は半鋼製だった為車内は、ダークブラウンにニス塗り連結部は京阪で唯一の両開き式扉の付いた広幅貫通路でモハの台車もコイルバネ部をヤジロベー式にした稀有な台車で、重低音のノーズサスペンション(吊り掛け駆動)の音であまり高速域まで達することなくある程度の速度でノッチ切を行いブレーキもAMAR方式と言う旧型車の標準ブレーキで晩年は普通運用に入る事が多くなり昇圧と6000系の登場と引き換えにに1700系600系とも姿を消しました。今でも救援車で1両1800系の残党が居るようです。高度経済成長期に第一線で走り続けたこれら旧型車群は京阪の喫緊の課題である連続立体高架事業期にフル活用されてました(元京阪沿線民)
沿線住民です。WN駆動の車両は1900系にも5両が存在しました(1914・1916・1984・1987・1992)が、その後は中空軸平行カルダン駆動への統一を経てTD平行カルダンに移行した上、中之島線開業前に1900系自体が引退したため、現在京阪からはWN駆動車両がなくなっています。
@@Mamenosuke467 さん
京阪はかなり前に救援車を全廃していたと記憶してます。
京阪特急の黄金時代という感じで見させてもらいました。大変詳しい説明ありがとうございます。
京都市内の北寄りの住民の場合、大阪に行くとなると阪急よりも京阪の特急をよく利用していたと思います。
地下鉄も無かった時代、阪急の特急を利用する場合、始発駅「現在の京都河原町」から座って乗りたいので、市電や市バスで行くのですが、交通事情が悪いため三条京阪よりも
阪急河原町駅には行きにくかったと思います。それに対し、三条京阪は自転車が留められる(放置で良くないですが)巨大な駐輪場を有する形となり、
往復の市バス代も浮くことから快適な大阪への足として重宝していたとも思います。
正に北寄りに住んでいて、大阪への行き来は、京阪プレミアムカー一択です。
京都バス、叡電、タクシーで出町柳まで楽に行けるので。
色鉛筆によるスケッチ あのようなタッチの絵は個人的に好きです
これがなければ新幹線もないと言っても過言ではない1800系
当時は特に京都(または大阪)に用事がない人でもテレビを座って見れること目当てで往復乗る人もいたとか...
中空軸平行カルダン駆動について、ここまでわかりやすく解説されたものはそうそうなく、非常に感銘をうけました。ただ、惜しいことに、動画の図面本体は合っているのですが、音声とキャプション?んいて「中空軸」と「ねじり軸」が逆になっています。電磁力によって回転するのは「中空軸」で、歯車と逆側のたわみっ版にて「中心軸=ねじり軸」に動力が伝えられる、というのが正しいです。
ついでに細かい所になっちゃいますが、その前の部分、カルダン駆動にすることで線路などの衝撃がモータに伝わらなくなるところは合ってますが、それが故「大きな」モータを搭載できるわけではなく(むしろ自在継ぎ手のスペースなどのため、搭載可能なモータの物理的サイズは小さくなります)、モータを必要以上に頑丈に作る必要が無くなるため、同じ出力のモータなら小型軽量にすることができます。実際、吊り掛け駆動の末期の車は150kWとか」170kW級のモータを積んでましたが、カルダン駆動の初期の車は75kWとか100kW級が精一杯なので、電動車比率を上げて対処していたわけです。今回出てこなかった直角カルダン駆動なら、もうちょっとおおきなモータを詰めましたが、それは別の話ということで^^;;
学生時代お世話になりました😅
この武骨な顔は、けっこう最近まで残っていたんですが、車体更新でのっぺり顔にされてしまいました。
また、車掌台側の前面窓が開閉式だったのは路面電車の名残と、京都の夏対策でしょうね。
一般車格下げ後の1900系によく乗ってました。当初は編成の前後が旧1810系編入車と1900系新造車という顔が異なる組み合わせで、編入車は前照灯が2つ目玉になったとはいえ昇圧後も1300系、1700系以来の旧型車の面影をとどめていましたね。
それが1900系車体更新の折りに旧1810系がほぼ中間車改造され、1両だけ前面改造のうえ先頭車で残った1914が四角いシールドビームになっていたのが異彩を放っていましたね。
人から聞いた話なので信憑性が皆無なんですが、車室側の窓が開く理由は、駅で行先表示板を変えるときに、ここから手を伸ばして変えることができるのでと聞いたことがありますよ。そう言われれば下段上昇式でちょうど抜き差しできるほどの開口部がありますしね。そのうえ貫通路は車掌側にヒンジがあるので、聞いた当時は『そうかな』と思って納得していました。
最初のテレビは1882号・1883号に試験的に、現在のシャープ製の17インチテレビが取り付けられ、初めて『テレビカー』の文字が車体に描かれました。
記録を見ていると、テレビ受像機取付車両は頻繁に変更されていたようです。
ちなみに両運転台車でテレビカーだったことがあるのは、1815号、1816号です。
あと沿線の成田山大阪別院には、現在は使われていませんが、いまでも街頭テレビが残っていたと思います。
あとテレビカーのうち、1914号のみが大阪側にテレビが付いていました。
京都側にテレビの付いている車両が多かったのは、夜間(深夜)に京都方面に帰る通勤客へのサービスが目的だったともいわれています。
京阪では「4両編成7列車」というように、編成の単位を「本」ではなく「列車」で数えます。
阪急系列で車両新造の事を「建造」と呼称したりと、関西大手私鉄の独自性が興味深いです。
初めて乗車した時、見た目は旧型なのに吊り掛け音がしないのでびっくりした記憶があります。
いち早くカルダン駆動を採用したのはやはり『技術の京阪』ならでは。
テレビカーは 受信状態が悪くなると 車掌さんが屋根上のアンテナを手動でくるりと回転させて対応していたとか。
この時代にWNカルダンを採用出来たのも 標準軌の京阪ならではですね。
テレビカー実現のために各メーカーから機材を借りていろいろテストを重ねたと記録にはありました(レイルロード刊:京阪1800)。
受像機は早川電機(現在のシャープ)製17インチテレビ受像機を自社購入(会社員の手取りが6000円〜15000円の時に定価20万円!・・・すみません、当時うちにもありました)。
アンテナは当時開発された『セルシン(商品名)』を使用して遠隔操作できるようになったそうですが、テスト段階ではアンテナを車内から窓伝いでロープを使って回転させたりしたそうです。なかには枚方・三条駅で屋根に登って調整したりもしたそうです。ちなみに使ったアンテナは八木アンテナの3素子の簡単な市販品だったそうです。
NHKもRCA製TV受像機を貸し出したそうです。そのときは車内にフィーダー線で網棚に仮設したそうですが、他のテストのときよりよく写り、当時の日本との技術力の差に愕然としたそうです。
あと台車では、日本で最初にオイルダンパ付き全コイルばね全溶接台車KS-6Aを装備しました。
3000系は無線で使われるローテーター(モータでアンテナを動かす)を
ダイヤルグルグルで動かしてた
今主流のダイバーシティ方式の手動判w
京阪は本線に初めて特急を設定やけど、阪急は昔京阪が新京阪線で設定してた特急を再開やからな。
んで、ノンストップも阪急が京阪のビジネスを見てから後追いか。今現在もPrivate車両のような優良車両が後追いやけど。
阪急は京都方面は路線もビジネススタイルも、京阪からパクッてばっかりやん。神宝線側のエレガントさを否定せんけど、京都側は汚すぎるわ。
一般車化した後、1980年引退間近の頃、枚方市発の7時台の準急として走っていたのを覚えている。
なんせそれに乗れれば遅刻はセーフと言う電車だったしねw
ところがたまに故障したw それも天満橋と北浜の地中線の中だったから車内は真っ暗状態w
まぁでも萱島から京橋までツリカケ唸らせながら(自分が乗ったのは1700系だから)ノンストップをよく走ったとは思う。
テレビカーのサービスの画期的さを今で例えるなら、車内無料WiFiでネトフリ観放題!的な感じになるのかな?
京阪特急はプレミアムカー限定ですが無料Wi-Fi装備されていますね。かつては8000系にテレビの他、公衆電話もあったので時代と共にサービスの変遷を感じます。
毎回 貴重な動画 投稿して頂きありがとうございます。お疲れ様です。
誠に恐縮で申し訳ございませんがリクエストで新京成電鉄100型・200型 京成電鉄210型・2000型・2100型 東武鉄道3000系列 京浜急行電鉄500型・600型 山陽電鉄2000型 南海電鉄1200型・1520型 阪急の初代1000系列 神戸電鉄300型・800型 西鉄200型・120型・300系・313系をご投稿頂ければ嬉しいと思いますので何卒お願いします。
1810系の運転台は奇数が京都側、偶数が大阪側だったのではないでしょうか?。
お疲れ様です。1800系とはまた泣かせますね。(笑)カルダン駆動の仕組みの解説そこまでは私は存じませんでした。ありがとうございました。1800系はオールMで本来の性能を発揮するようでMTMでは釣り合い速度103km/hまで落ち向かい風が吹くと加速が鈍くなかなか最高速に到達しなかったみたいですね。😂私の動画では京阪の抵抗性御車の詳説があり1800系と3000系との併結時の性能解説もありますのでよろしければ皆さんとご覧ください。お疲れ様でした。
テレビ黎明期の頃の民放テレビはまだ純粋さがあってよかったけど、今はただただ有害なだけでしかない。なので、また革命的な車種を生み出すなら、エフエム・カーを生み出すべきだろう。どこでもFMに対応した端末を全座席に配置し、そこから聴けれる様なシステムにするのである。
そんなものはWi-Fi付けて各自スマホでradikoで良いじゃん