第1427回「護法と魔障」2024/12/3【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
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- Опубликовано: 2 дек 2024
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■管長日記「護法と魔障」
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臘八摂心の第二夜の白隠禅師の示衆を読んでみます。
一文ずつ読みながら、解釈を加えてみます。
「第二夜示衆に曰く、楞嚴經に曰く、一人道を成じ真に帰すれば、十方虚空悉く消殞すと。」
楞厳経の一文を引用されています。
実際に『首楞厳経』には、
「一人真を発して元に帰すれば、此の十方の空皆悉く銷殞す」となっています。
一人が真実の心を発して、大道の元に帰れば、十方の虚空はみなすべて消えてしまうというのです。
銷殞の銷はとかす、とける、きえるという意味で、殞は落ちる、穴に落ちて見えなくなるという意味です。
この楞厳経の言葉は後によく使われるようになりました。
五祖法演禅師は、上堂でこの楞厳経の言葉を取り上げて、自分ならばそうは言わないと言っておいて、
「若一人有って真を発して源に帰すれば、十方虚空築著磕著」と述べています。
「築著磕著」というのは、ものにいきあたる様をいい、どこもかしこも真にぶち当たるという意味であります。
いたるところ、何に触れようが、何に当たろうがみなすべて真実だというのです。
楞厳経では一人が真実の心を発して大道の元に帰れば、この迷いの苦しみの世界はすべて消えてしまうと説かれたのでした。
山本玄峰老師は、『無門関提唱』で次のように説かれています。
「楞厳経の中に、一人ほんとうの道を成じたならば、『真に帰すれば』真はまことのこと。
土佐の人はほんとうにまつことよというが、そのほんとうにまつことの真、これは動くまことじゃない。一番まことの根本である。
道を修するところ、『十方消殞』というと、十方が自分のものにならにゃいかん。
自分と宇宙とが二つにならないための悟りじゃから。
が、しかし消するというても、なにもかもなくなってしまうのじゃない。
すべて蠢動含霊の蛆虫に至るまで、蟻のヒゲまでが、ことごとく自分のものにならにゃいかん。
だからブヨ一匹むだに殺してはならん。
消殞というても無くなるのではない。みな自分のものになるのじゃ。」
と提唱されています。
さすが老大師のご体験からきた読み込みであります。
更に白隠禅師は、
「凡そ道を修する処、必ず護法神有り、魔障神有り。
譬えば城市に人多く聚るときは、賊盜亦隨って聚るが如し。」
と仰せになっています。
仏道を行じていると、必ずそれを助けてくれる神もあれば、さまたげとなる神もあるというのです。
それは町で多くの人が集まると、盗人などもそこに集まってくるようなものだと説かれています。
しかし「心願強きときんば護法神、力を得。
心魔動くときんば魔障神、力を得。」
というのです。
心の願い、願心です。
仏道精進を強く心に願う心です。
この願心が強ければ、護法の神が力を得ることになるし、逆に弱いと、魔障の神が力を得ることになると白隠禅師は説かれます。
そこで「是の故に学道は先ず須く大誓願を発し辞譲謙遜を専らにし、心を一切衆生の下に置き、咸く皆度脱せんことを要すべし。」
仏道修行するには、まず大きな誓いの心、願心を発して、へりくだる心を起こして、心を一切の生きとし生ける者の下に置いて、それら生きとし生けるものをすべて救ってゆこうと願うことが必要なのです。
玄峰老師はご自身の体験をもとに次のように説いてくださっています。
「そうして道を修していくならば、必ず護法神が助けてくれる。
われわれがやっていけるのはみな護法神のおかげである。
護法神が、食べる物もしてくださる。ありがたいことじや。
わしがここへ来た時分には着て寝る蒲団も何もありません。
仏さまに備えるお椀一つも茶碗一つもなかった、金物というたら鍋一つもありはせん。
それでも護法善神のおかげで、護法の人のおかげで、今では蒲団がないとか何とかいうておるけれども、これだけの人が何とかやっていける。
わしの来たときは、着て寝る蒲団も何もありはせん。
横になって寝ると朝なかなか起きられないから、いつもあのいま新命(龍沢寺主)和尚のおるところで、こうやつて壁へもたれて坐睡した。
坐睡というのはちょっと頭に重いものをかぶると寒うてもぐあいが悪いものだから、縞の紀州ネルの近ごろまであったがあいつを頭へかぶってずっとやっておった。
それでもおかげさまで揃うた座蒲団百枚もこしらえてくれるし、はげたお椀も塗り直してくれる。
今でも畳など汚いけれども、汚くても、わしが来たときには瓦を葺いた棟一棟もないのじゃから、あつちからもこつちからも雨がどんどん漏る。
今の禅堂でも萓やワラを詰めておつた。
それが、とにもかくにも坐れるようになった。
みなこれ護法神の力じゃ。」
と説いてくださっています。
実体験からくる言葉です。
また更に驚くことには、護法の神というのはもっと身近にいるというのです。
玄峰老師は、
「わしは此処に来た時、鼠に「お前達は先祖代々ここにおるのじゃから、われわれはあとから来た新参であと入りじやがどうか万事よろしく頼むぞえ」というて、鼠に頭下げた。
ただ頭下げるだけじゃない。今でも毎晩少しずつでも米なんかやつて仲よう暮しておる。
それじゃからそこらを囓りもしないし、穴をあけたりもしやしない。
みな護法善神じゃ。 猫でもでも犬でも猿でもでも鳥でもみなわれわれを救うてくれる、こつちの心得方ひとつじや。」
と説かれているのです。
真実の道を求める心を発して修行しているとみな守ってくれるということです。
白隠禅師は、
「仏祖の大道、願力無くして能く徹底する者有ること無し。
譬えば射を学ぶ者の如し。
一箭一箭、鵠に中らんことを欲す。
始め中らずと雖も、久しくして已まざれば、必ず其の妙を得。
参学も亦復た然り。
一念一念、大憤志を発し、精神を抖藪して、須く大道の淵源に徹せんことを要すべし。」
と説かれました。
この仏祖の道というのは、この願心の力がないと、徹底できるものはないというのです。
たとえば弓を習うようなもので、はじめは的に当たらないのですが、何度も何度も繰り返し修練していると、上達するのです。
仏道修行も同じだというのです。
大憤志を発して、精神を振り払って、大道の源に徹することです。
「是の如く念念退かざるときは、一切の法理、現前せずということ無し。
無上の菩提、猶お俯して地芥を拾うが如くならん。」
このようにして努力を重ねてゆけば、あらゆる法理は目の前に現れて、この上ない悟りといっても、地上のゴミを拾うようなものだと説かれています。
よしやるぞという願心が一番のもとなのです。
横田南嶺
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