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キハ60も高出力エンジンへの挑戦は挫折し、DMH17機関に換装。晩年は久留里線でまったり走っていたようですが、当時の技術的には限界だったんですよね。。。そもそも空気バネ台車はキハ80にも生かされましたし、挑戦は失敗とは言えなかった面もあるんですね。
同時代より、東急車両は、台湾向けにカミンズエンジン搭載の気動車を製造していました(300馬力台で変速機は米国製)。また、後のキハ391中間車のような床上搭載でも良いのであれば、当時の技術でも高出力気動車は実現できたと思います。しかしながら、保守も含めた総合的なコスト、全国展開を考えた場合、難しかったのだと思います。技術は経験が大切。試行錯誤の結果、現在があるのですね。
こうしてみると1990年代になってカミンズ製エンジンを取り入れたJR東海は、いかに冒険かつ英断だと思えますね。正直言って当時は『カミンズ?外国製品?なんだそりゃ』って第一印象しかありませんでした。が、これをキッカケに国内メーカーでも鉄道向けが続々と出たのはよかったことです。古いのを使い倒してる会社もありますが。
冒険したのは大井川鉄道ですかね.
もし仮にDMF31とは違う別の高出力ディーゼルエンジンと直結2段の3段トルコンで信頼性の高いものがあれば日本のディーゼルカーはかなり変わっていたでしょうね、しかし当時の技術ではそういったものは難しいし電気式は重量面で難しいので国鉄がガスタービンに行ったのもわからないではない。それと、上記のようなディーゼルエンジンとトルコンがあってもかなり高価になって、結局は客車列車が大量に残るという悪い方に変わったというのもあり得るし、後の振り子ディーゼルカーが開発されなかったという可能性もある。
キハ60の試作から10年も立たないうちに、500PS級のキハ181を実用化した当時の国鉄の技術開発力は凄かったですね。
国鉄は鉄道事業者で旅客や貨物の輸送サービス側です。車両開発は車両メーカーの仕事で国鉄が関与したのは車両の仕様書をメーカーが作成する時に要望を伝えたくらいでしょうね。
キハ90系の試作を活かしきれてないままのキハ181系量産なので、“しなの”“つばさ”は電車化するまでオーバーヒートに悩まされていました。“つばさ”は当初は板谷峠の補機解消、10両→12両と順調に見えましたが、東北本線の全開走行直後の板谷峠はかなりの負担になり、屋根上のラジエターはトンネルの中では役立たずでオーバーヒートが頻発しました。その為に動力カットしてその分他の車両に余計な負担が掛かる悪循環に陥ります。急遽機関車の手配をするので貨物列車の運休が発生しました。結果、板谷峠の定期運用の補機復活、予備車確保の為1両減車措置となりました。本来の使用線区では成功したとは言えず、DML30系エンジンが安定したのはキハ65からじゃないでしょうか。蛇足ですが、“つばさ”電車化で余剰のキハ181系と名古屋機関区のキハ80系の置き換えを打診したら“しなの”の思い出が余程酷かったのか断わられたそうです。
@@HarukaEuroYamauchi DML30HSは国鉄とメーカーの共同開発ですよ。
@@やまといわな-f4d 国鉄の技術開発力は凄かったと書いてますが、具体的に国鉄がこのエンジンのどの部分に関与しどのような技術を逆に車両メーカー及びサプライヤー等に与えたのか教えてください!私の想像では鉄道事業者である国鉄が専門メーカーとの共同開発で担える部分は、仕様書の取りまとめへの参加と試験車両の試運転の為に線路を貸し出しと運転士の派遣くらいだと考えます。専門知識を持ってる人材が鉄道事業者へ就職するより、車両メーカーや今回のケースですと車両メーカーのサプライヤーであるエンジンメーカーに就職を選択すると思います。その分野の人材が豊富に居るならバラけるでしょうけど、当時の西ドイツに大きく遅れを取っていた日本にそれだけの人材が豊富に居たとは想像が出来ません。
木曽路は兎も角本命の板谷峠で完全敗北したので褒められたものではないな
この流体式直結多段変速が実用化されていればキハ181以下気動車群が変速段を60~65km/hまで引っ張る仕様にはならなかったでしょうが。自動車界隈では遊星ギアのロックアップ機構が早期に実用化され、鉄道でも今日主流となっております。流体式の宿命として、油温の管理問題もさることながら直結2段、3段はなんとかできたにせよ4段や5段ともなると保守も重量も凄まじい事になったでしょう。
まあ、そもそもDMF31は戦前のキハ43000用に開発されていたエンジンで、元々縦型だったエンジンを横型にしたせいでエンジンの焼き付きなどが発生し、信頼性の低いエンジンですからな戦後に縦型に戻してDD13用に転用されましたが、過給機付きでも500馬力程度にしか出力向上しませんでしたまた、キハ60などの特急用エンジンとしては普及しませんでしたが、20系客車の発電用エンジンとして採用されました実際に電車の方が有利となるのは、電動機が一基当たりの出力が100kwとして、馬力換算すると約136馬力になります一両につき四基搭載で544馬力になるので、完全にDMH17系の180馬力を上回っていますな
そういう目線で見るとDML30の500馬力は電車と同等の性能を得る最低条件とわかります
新幹線用911型投入時ですら日本は内燃機関に関しては後進国だった、と回想されていましたね。
キハ391を除き、最後まで、床上搭載にこだわったのも、電車に勝てない要因だったと思います。
キハ60のシステムをあっさり諦めた1番の原因は何だったのでしょうか?せめてDMH17にターボだけでも引き継がれたら、少しはマシだったでしょうに。気動車は求められる投資額が少ないため、最初に普及版が出てその後改良版が出ても改良版は遅きに失して数が出ない(キハ80→キハ181/キハ58→キハ65など)若しくは新規軸が出ても普及版では著しくコストカット(キハ66→キハ40)など、結果的に低性能車が多く残念でした。
労働組合の反対(新技術絶対反対、人減らしに繋がるため)が原因かと。
ターボ付きDMH17は熱的に苦しかったのでは?鹿児島交通のディーゼル機関車がズバリそのエンジンです。南薩線は伝説級のヘロヘロ線路なので速度は知れてますし大した勾配もありませんが、それでも設計通りの冷却器では間に合わず改造で作業上めちゃくちゃ邪魔そうな箇所に無理やり冷却器を増設してました。実装が楽な縦置きでそんな状態ですから優等列車用の横置きなんてとてもとても。
車内にエンジンを立てて置けて冷却も排気もしやすい電源車用の発電エンジンとしてならターボ付きのDMH17S-Gがマヤ20に搭載されていた。しかし、直8でエンジンが長く排気の取り回しも難しいと思われ冷却もかなり考える必要のある床下横置きではDMH17のターボ化は難しかったのではなかろうか。
簡単や現場が嫌がったっちゅうこっちゃ
将来hc85系のレンジエクステンダーと同じ発電量でモーターを動かしパワーをアップする気動車は多くなるでしょうそんな時に国鉄特急色があればちょっと賑わうのではと思っています
確かに戦後の日本の鉄道界は、ディーゼル車の研究開発を苦手にしていたろころがありました。私が昔考えたのは、DMH17機関の出力増強ができたのではないかということでした。250PS以上にできれば、これを2台載せて、1両当たり500PS以上ぐらいにできたのではないのかなんて考えました。すると、ここからサービス電源も確保できます。国鉄は、その数年後の昭和40年前後あたりで、よくわからない戦いをしていた印象があります。自動車業界や海外では、目を見張るようなエンジンや変速機が開発されつつあったのに、これらのことは一向に無視しているような感じだったからです。
バッテリーがさらに進化して長寿命化、コストダウンすれば、動力としてのディーゼルは消えるのだろな。
キハ60も高出力エンジンへの挑戦は挫折し、DMH17機関に換装。
晩年は久留里線でまったり走っていたようですが、
当時の技術的には限界だったんですよね。。。
そもそも空気バネ台車はキハ80にも生かされましたし、
挑戦は失敗とは言えなかった面もあるんですね。
同時代より、東急車両は、台湾向けにカミンズエンジン搭載の気動車を製造していました(300馬力台で変速機は米国製)。また、後のキハ391中間車のような床上搭載でも良いのであれば、当時の技術でも高出力気動車は実現できたと思います。しかしながら、保守も含めた総合的なコスト、全国展開を考えた場合、難しかったのだと思います。技術は経験が大切。試行錯誤の結果、現在があるのですね。
こうしてみると1990年代になってカミンズ製エンジンを取り入れたJR東海は、いかに冒険かつ英断だと思えますね。
正直言って当時は『カミンズ?外国製品?なんだそりゃ』って第一印象しかありませんでした。
が、これをキッカケに国内メーカーでも鉄道向けが続々と出たのはよかったことです。
古いのを使い倒してる会社もありますが。
冒険したのは大井川鉄道ですかね.
もし仮にDMF31とは違う別の高出力ディーゼルエンジンと直結2段の3段トルコンで信頼性の高いものがあれば日本のディーゼルカーはかなり変わっていたでしょうね、しかし当時の技術ではそういったものは難しいし電気式は重量面で難しいので国鉄がガスタービンに行ったのもわからないではない。
それと、上記のようなディーゼルエンジンとトルコンがあってもかなり高価になって、結局は客車列車が大量に残るという悪い方に変わったというのもあり得るし、後の振り子ディーゼルカーが開発されなかったという可能性もある。
キハ60の試作から10年も立たないうちに、500PS級のキハ181を実用化した当時の国鉄の技術開発力は凄かったですね。
国鉄は鉄道事業者で旅客や貨物の輸送サービス側です。
車両開発は車両メーカーの仕事で国鉄が関与したのは車両の仕様書をメーカーが作成する時に要望を伝えたくらいでしょうね。
キハ90系の試作を活かしきれてないままのキハ181系量産なので、“しなの”“つばさ”は電車化するまでオーバーヒートに悩まされていました。“つばさ”は当初は板谷峠の補機解消、10両→12両と順調に見えましたが、東北本線の全開走行直後の板谷峠はかなりの負担になり、屋根上のラジエターはトンネルの中では役立たずでオーバーヒートが頻発しました。その為に動力カットしてその分他の車両に余計な負担が掛かる悪循環に陥ります。急遽機関車の手配をするので貨物列車の運休が発生しました。結果、板谷峠の定期運用の補機復活、予備車確保の為1両減車措置となりました。本来の使用線区では成功したとは言えず、DML30系エンジンが安定したのはキハ65からじゃないでしょうか。蛇足ですが、“つばさ”電車化で余剰のキハ181系と名古屋機関区のキハ80系の置き換えを打診したら“しなの”の思い出が余程酷かったのか断わられたそうです。
@@HarukaEuroYamauchi DML30HSは国鉄とメーカーの共同開発ですよ。
@@やまといわな-f4d 国鉄の技術開発力は凄かったと書いてますが、具体的に国鉄がこのエンジンのどの部分に関与しどのような技術を逆に車両メーカー及びサプライヤー等に与えたのか教えてください!
私の想像では鉄道事業者である国鉄が専門メーカーとの共同開発で担える部分は、仕様書の取りまとめへの参加と試験車両の試運転の為に線路を貸し出しと運転士の派遣くらいだと考えます。
専門知識を持ってる人材が鉄道事業者へ就職するより、車両メーカーや今回のケースですと車両メーカーのサプライヤーであるエンジンメーカーに就職を選択すると思います。
その分野の人材が豊富に居るならバラけるでしょうけど、当時の西ドイツに大きく遅れを取っていた日本にそれだけの人材が豊富に居たとは想像が出来ません。
木曽路は兎も角本命の板谷峠で完全敗北したので褒められたものではないな
この流体式直結多段変速が実用化されていればキハ181以下気動車群が変速段を60~65km/hまで引っ張る仕様にはならなかったでしょうが。自動車界隈では遊星ギアのロックアップ機構が早期に実用化され、鉄道でも今日主流となっております。
流体式の宿命として、油温の管理問題もさることながら直結2段、3段はなんとかできたにせよ4段や5段ともなると保守も重量も凄まじい事になったでしょう。
まあ、そもそもDMF31は戦前のキハ43000用に開発されていたエンジンで、元々縦型だったエンジンを横型にしたせいでエンジンの焼き付きなどが発生し、信頼性の低いエンジンですからな
戦後に縦型に戻してDD13用に転用されましたが、過給機付きでも500馬力程度にしか出力向上しませんでした
また、キハ60などの特急用エンジンとしては普及しませんでしたが、20系客車の発電用エンジンとして採用されました
実際に電車の方が有利となるのは、電動機が一基当たりの出力が100kwとして、馬力換算すると約136馬力になります
一両につき四基搭載で544馬力になるので、完全にDMH17系の180馬力を上回っていますな
そういう目線で見るとDML30の500馬力は電車と同等の性能を得る最低条件とわかります
新幹線用911型投入時ですら日本は内燃機関に関しては後進国だった、と回想されていましたね。
キハ391を除き、最後まで、床上搭載にこだわったのも、電車に勝てない要因だったと思います。
キハ60のシステムをあっさり諦めた1番の原因は何だったのでしょうか?
せめてDMH17にターボだけでも引き継がれたら、少しはマシだったでしょうに。
気動車は求められる投資額が少ないため、最初に普及版が出てその後改良版が出ても改良版は遅きに失して数が出ない(キハ80→キハ181/キハ58→キハ65など)若しくは新規軸が出ても普及版では著しくコストカット(キハ66→キハ40)など、結果的に低性能車が多く残念でした。
労働組合の反対(新技術絶対反対、人減らしに繋がるため)が原因かと。
ターボ付きDMH17は熱的に苦しかったのでは?
鹿児島交通のディーゼル機関車がズバリそのエンジンです。
南薩線は伝説級のヘロヘロ線路なので速度は知れてますし大した勾配もありませんが、それでも設計通りの冷却器では間に合わず改造で作業上めちゃくちゃ邪魔そうな箇所に無理やり冷却器を増設してました。
実装が楽な縦置きでそんな状態ですから優等列車用の横置きなんてとてもとても。
車内にエンジンを立てて置けて冷却も排気もしやすい電源車用の発電エンジンとしてならターボ付きのDMH17S-Gがマヤ20に搭載されていた。
しかし、直8でエンジンが長く排気の取り回しも難しいと思われ冷却もかなり考える必要のある床下横置きではDMH17のターボ化は難しかったのではなかろうか。
簡単や
現場が嫌がったっちゅうこっちゃ
将来
hc85系のレンジエクステンダーと同じ発電量でモーターを動かしパワーをアップする気動車は多くなるでしょう
そんな時に国鉄特急色があればちょっと賑わうのではと思っています
確かに戦後の日本の鉄道界は、ディーゼル車の研究開発を苦手にしていたろころがありました。
私が昔考えたのは、DMH17機関の出力増強ができたのではないかということでした。250PS以上にできれば、これを2台載せて、1両当たり500PS以上ぐらいにできたのではないのかなんて考えました。すると、ここからサービス電源も確保できます。
国鉄は、その数年後の昭和40年前後あたりで、よくわからない戦いをしていた印象があります。自動車業界や海外では、目を見張るようなエンジンや変速機が開発されつつあったのに、これらのことは一向に無視しているような感じだったからです。
バッテリーがさらに進化して長寿命化、コストダウンすれば、動力としてのディーゼルは消えるのだろな。