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美空ひばりについては、美空ひばりがチャンバラ時代劇に出ていた頃に出した「ロカビリー剣法」という歌が秀逸なので聴いてみて下さい。藤圭子の人気ぶりは、ファーストアルバムが 20週連続ヒットチャート1位、21週目の1位を阻止したのが、藤圭子のセカンドアルバムで、そのまま 19週連続1位で、合わせて 39週間連続1位を、藤圭子が独占した日本記録。その娘の宇多田ヒカルが、日本の音楽史上最大枚数の単一の音楽記録媒体(彼女の場合はCD)の売上記録保持者という、なんというか、すごい数奇な運命。
藤圭子・・・子どもの時は歌が暗すぎて拒絶反応出まくっていましたが、三十数年前、四谷に文化放送があり近くの新宿通り沿いにミスドがあり、そこに藤圭子さんがいました。すごく小柄で顔が小さくて、凄く凄く美人でビックリしてファンになっちゃいましたw。文化放送も無くなり、ミスドもショップ99からローソンストア100 になって、その界隈は当時とは変わってしまいました。因みに、そのミスドから文化放送へ行く道をまっすぐ坂を下って階段を上がると、新海誠監督の『君の名は。』のエンディングで有名になった須賀神社へ繋がっています。
85年ごろかな、夜のヒットスタジオに出演した美空ひばりが「ラブイズオーバー」をカバーした。番組を見ていた高2の私は、歌を聴いて始めて鳥肌の立つ経験をした。最近は歌姫が乱立しているけど、彼女こそ日本歌謡界の最高峰であり、物差しだと思う。
藤圭子さんは作詞家石坂まさをが演歌の星としてプロデュースしましたが、夢は夜ひらくはじめ当初のは演歌というよりブルースですね。演歌らしい歌はもう少し後になって歌っています。子供の頃の記憶では島倉千代子、こまどり姉妹、都はるみなどが着物を着て演歌を歌っているイメージでした。
「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子は「演歌は大嫌い」と語っておりブルースと演歌は別物なんですよね
笠置シズ子の「ラッパと娘」は圧巻ですね。戦前にこんな素晴らしい曲があったって驚きましたわ。あの曲はアレンジ変えたらハードロックですよ。
宇多田ひかるの母、藤圭子は美人でアイドルのような容姿であの表現力はギャップが凄い 新宿の女を貫いて新宿で亡くなられた 前川清との結婚でお子さんがいたら宇多田のような才能があったかも 演歌は年を重ねると良くなる 浪曲派の村田英雄三波春夫 民謡派三橋美智也もいい
いつもありがとうございます!
あらゆるジャンルを取り込むという美空ひばりはあらゆるジャンルを取り込んで発展してきた邦楽の象徴みたいなものですね。
ひばりさんの色気の件は私の祖父も子供にこんな歌を歌わせて云々と言っていたそうです。ウェスタンカーニバルはハートブレイクホテルの日本詞が有名ですね。
藤圭子さんが「メモリーグラス」をカバーしたものがあるんですが、それがかなり好きで、演歌歌手と一括りにしてはいけないぐらいの上手さでした。本当はビートルズが好きだったという都市伝説すらありますし。そしてかなりの美人さんですし、そりゃ売れただろうな、と思います。
ユーチューブにビートルズの曲をノリノリで尾藤イサオさん達と歌い踊ってますね。
美空ひばりの音楽性の広さを語るなら「笑ってよムーンライト」は外せないと思う
「川の流れのように」しか知らなかった昭和後期生まれの私にとって、ジャッキー吉川とブルー・コメッツと歌った「真赤な太陽」は衝撃でした。こんなロックでカッコイイ歌を歌える人だったんだと。彼女が平成の世を生きていたら、果たして近年の八代亜紀さんのように、多様な歌声で多様な彼女の姿を魅せてくれたのだろうか。。。
古賀政男先生の曲、多分に海外の影響が見られますよね良くお話しする先生で古賀政男先生の弟子の方がいらっしゃるのですが、丘を越えてはドイツ民謡風、影を慕いては朝鮮半島の民謡とロシア民謡の影響を感じるそうです。(古賀政男先生自身も朝鮮半島に長くいらっしゃいましたしね)赤い靴のタンゴを始めとして直接的にタンゴを取り入れた楽曲も多々ありますが、間接的にタンゴの影響下にあることを感じる作品も多々あります。一方でその先生に演歌の起源について尋ねた時は、あれは日本古来からの音楽だとおっしゃられていたので真意は分かりませんが(笑)
西城秀樹さんは、子供の頃『黒い花びら』を歌って学校の先生に「もう少し子供っぽい歌を歌いなさい」と注意されてたようです。大人になって歌った『黒い花びら』も、超ステキです。
五月みどり「お座敷ロック」という曲があります(1958年)水原弘の黒い花びらより明確にロカビリーっぽいです笑
藤圭子さん以降の演歌は、高度経済成長が行き着いたところで立ち止まり「日本ってなんだったっけ?」考えたことに噛み合ったマイナー調の曲ってイメージもあって、それは70年代を通しピンクレディやサザンのデビュー曲がマイナー調だったことや、国鉄のまさに「DISCOVER JAPAN」というキャンペーンで採用された山口百恵の「いい日旅立ち」と地続きになってるのかなと。その後日本は松田聖子やシティポップのメジャー7thな風景に、DISCOVERはエキゾチックに変わるみたいな。
美空ひばりは英語は喋れなかったけど、英語の曲の発音はネイティブの人が聴いても全然違和感がなかったというのは有名な話ですよね・・・「ひばりジャズを唄う~ナットキングコールに捧ぐ」というアルバムはおススメです!
うちの祖父母は存命だったら100歳前後ですが、まだ70代だった90年代にも演歌を聴いてませんでした。むしろ、うちの親の世代から少し上の人(今の70代以上)にフォーク派、ロック派(洋楽派)、演歌派がいたような印象ですね。
とても勉強になります。ありがとうございます♪みのさんは何よりバランス感覚が素晴らしい!「にほんのうた」は明日手に入りますので、とても楽しみです🎶高齢者の方を相手に仕事をしているので、より世代に合わせた歌選びができそうでワクワクしてます(満州から引き揚げた方には李香蘭!みたいに人生のバックグラウンドによって歌の傾向が読めるんです)ところで、僕自身が昭和の末期に大学受験の現実から逃避するためにラジオの「五木寛之の夜」を聴いていました。オープニングの音楽から「艶歌(怨歌)」全開だったので、演歌を勘違いしちゃったのかなと気付きました。RUclipsでも聴けるので、良かったら探してみてください。
藤圭子さん程ではありませんが、翳りをイメージにした戦略で山口百恵さんもブレイクしましたね〜
69~71年は藤圭子さんの時代、特に70年の歌謡界はこの人で明けこの人で暮れたと言っても過言ではないと思います。当時、中学生だった自分は大々々ファンと云うよりも愛していた。あのデフォルメされた苦労時代も真っ暗闇から細い光が切っ先のように伸びるような雰囲気も、。デビューから10年後に圭子さんが芸能界引退したことはそれから2~3年経ってから知った。少年時代に初恋の人がいつの間にか知らない内に転校してた気分になった想い出がある。
いつも楽しませていただいております。当時藤圭子を演歌と位置付ける方はいなかったと記憶しております。寧ろ”怨歌”と表現した番組は多かったですね。もちろん美空ひばりは歌謡界の女王でしたので演歌と言う表現はまず無かったです。とかくジャンル分けが当たり前の令和ですが、昭和の頃は楽しめるかどうかで区別はしましたがジャンル分けと言う概念は後に80年代以降顕著になりました。ロックについてもはっぴーえんどをロックに入れる人入れない人、矢沢永吉が王道とする人しない人はいましたが今日のようにロックの走りと言う表現は無かったですね。フラワートラべリンバンドや紫など沖縄勢をロックと思ってる人は多かったです。
演歌の星
余談ですが朝ドラのエールやブギウギを観るとわかるんですが、歌謡曲の起源は戦前の流行歌で、当時はアカデミックなクラシック音楽を学んだ作曲家によって作曲されていました。なのでクラッシックの音楽理論の作曲法がベースで、そこに当時話題のジャズなどのポピュラー音楽入ってきて、たとえばジャズ調にしても短い曲の中でクラシックっぽい起承転結をいれ、だいたいの流行歌はAメロBメロ、サビで構成される傾向ができたようです。
改めて昭和がいい時代であったと思います。ひばりさんや藤さんはエンターテーメントの申し子だった。ただ、身の上は苦労されましたもんね。
演歌が日本の心、みたいなの言われるようになったのはやはり日本の各地について歌った曲が多いこともあるんでしょうかね。
やはりどちらかと言うと藤圭子より民謡、もしくは歌謡浪曲の方が現代の演歌に近い気がしますね。藤圭子はブルース、淡谷のり子や青江三奈に近い気がします。
三波春夫、春日八郎、村田英雄、三橋美智也らが昭和30年代から歌っていたものはどういうカテゴリーになるのでしょうか昭和35年でいえば18才だった小泉純一郎がプレスリー、5才だった志村けんがビートルズどっぷりの世代で、当時から若者の歌でもなんでもなかったような
あの頃は流行歌だとかいわれてたはずです。ただ彼らは浪曲風や民謡風の歌も歌っているので、民謡・浪曲のような流行歌といったところで早熟というか高年齢向けだったのかも知れません。ちなみに、演歌の女王と呼ばれ先日亡くなった八代亜紀さんは「私は流行歌の歌手として活動していた。そう言われていたし、自分もそう思っていた」「演歌というものがなんなのか、知らなかった」「後年、演歌の女王なんて呼んでもらえるようになって、初めて、あ、私って演歌の歌手なんだって知りました」と近年語っています。彼女がデビューした頃はまだ演歌がどういうスタイルなのかが確立していなかったのは確かでしょうね。
@@caither2413森進一も演歌歌手と言われる事について、自分が歌手になったときにはそんな呼び名は無く、演歌が何を指すのかわからないって言ってましたね。たしかに襟裳岬を吉田拓郎が唄えばフォーク、森進一が唄えば演歌冬のリヴィエラを大瀧詠一が唄えばポップ、森進一が唄えば演歌結構ジャンル分けって適当なのかも。
藤圭子の新宿の女ほんと好き。
7:35ここからのお話は時代劇と同じですね ファンとジャンルが共に老いていったという
美空ひばりって1番知名度がある(であろう)曲が最晩年に出た曲っていうのが凄い
それを作詞したのがあの秋元康と知ったときは個人的にすごく驚きました。
まぁシンプルに三人娘時代や演歌時代を知らない世代が増えてきて代表曲チックになってるだけな気がします。マンボやツイストや演歌とかマドロス歌謡とか、前時代的ですよね。数年前のカラオケランキングではみだれ髪や愛燦燦の方が上位でした。とか言ってますが自分も平成生まれなので普通に川の流れのようにが聴きやすいですね。
美空ひばりの歌唱力は世界でもトップレベルだと思う子供の頃に酒飲みの父親が毎晩聞いててあんまり良い印象はないけどw
美空ひばり/藤圭子は演歌の象徴としてはあまりピンときませんでしたが北島三郎と都はるみはド演歌という感じがします。こぶしの効いた歌い方からかな?
美空ひばりは演歌だって思ったことないですね。演歌も歌ったことある…くらいのイメージです。
歌唱力の優れた前川清と藤圭子が別れず、子供が生まれてたら宇多田ヒカルぐらいの歌手に成長しただろうか……といまだに思います。見てみたかったな。
どの辺りから「演歌=着物着て歌う」になったんだろう?松村和子?(笑)たぶんあの着物で歌う姿から「演歌=日本の伝統芸」って勘違いが始まった気がする。昔(90年代後半)、英語の勉強してた頃、外国人に「演歌は日本の伝統的な音楽で…」って説明してる日本人多かったんだよね。それに凄くモヤモヤしてたわ。
松村和子の帰ってこいよはロックだと思います。
一部の演歌は曲よりも歌詞に古いなって思うことは多いです。女性が愛する男性のためにとことん我慢してみたいなあの世界。あと大御所の歌手は暴力団とべったりみたいな。演歌歌手って言われる人は歌唱力も高いですし歌い手として優れた存在ですが、一部の演歌歌手以外はどんどん厳しくなっていくのかなって気がします。
オープニングの曲ってなんて曲かわかる人いますか?
自分の両親が70代前半だけど30代後半か40代前半頃にオールタイム・ベスト的な感じでずっとビートルズ、ABBA、カーペンターズ、さだまさし、オフコース、松山千春とか聴いてたので演歌は全然だった。祖父の家にあったレコードが民謡とか演歌だったかなあ?分からなすぎてあまり聴かなかったから記憶が薄いけども。なので戦後生まれの両親の世代でもあまり演歌のイメージが無い
「演歌のねじれ」はとても興味深い。高田渡のルーツはアメリカンフォークにあるだけでなく、添田唖蝉坊の演歌にあるというのはこの本を読んで納得しました。一方美空ひばりは「演歌の女王」というもの、私の最初のリアルタイム体験は「真赤な太陽」なので、先進的なイメージがあります。藤圭子はまさに「怨歌」ですが、初期の中島みゆきに通じるようなところがあるとふと思いました。表現力の豊かさはジャンルを越えてしまう。
65歳のじじいの記憶では、三橋美智也、村田英雄全盛の頃、演歌と云う言葉は使われなかったように思います。大昔の演歌師以後、久しく聞かれなかった演歌と云う言葉が聴かれるようになったのは、遠藤実作品の、それも千昌夫よりは、水前寺清子あたりだったと思います。普通に演歌と括られような歌手にしても、民謡や浪曲から歌謡界に進出した人たちよりも、北島三郎、渥美二郎…といった流し出身のギターの弾き語りが、先行して演歌とカテゴライズされていたように思います。
70年代後半から80年代の音楽番組だった、ザベストテン、歌の紅白歌合戦、ザトップテン、夜のヒットスタジオの出演者は基本、演歌歌手とアイドル歌手でした。シンガーソンガーの人とかロック系はほとんど出ませんでした。テレビを観ていて、出ないことわかっているから。毎度同じ理由言わなくても、今回も出ませんでええやんと思っていました。
藤圭子さんは1979年に引退してたんですか?あれ!1980年〜82年まで上野駅近くの喫茶店でアルバイトしてて、来店しましたね。肌が とにかく白くて きれいな人でした。はい!
その後、名前を藤圭似子と改名してカムバックしました。後に元に戻しましたが。
みのさんの若くして幅広いジャンルを語れる方は少ないと思うので大滝詠一さんと対談して欲しかったなあと思います。
演歌が『日本の心』だとか、『古き良き』みたいな文脈で語られる一番の理由は民謡が占めるウエイトが大きいせい。あと、漁師などの肉体労働者、盆踊りやお祭り囃子などいかにも日本的原風景を題材にすることが多いのも理由の一つ。余談ですが『流し』のイントネーションは台所のそれではなく『ポパイ』の感じで発音して欲しいです笑
怨歌ならユーミンみゆき竹内まりやもそう
唖蝉坊とかの「演歌師」から演歌師は流しのスタイルに変化していったんですよ。歌の内容も変わっていった。それが今の演歌につながります。だから別に五木寛之が規定したわけでもなく演歌と内容とスタイルが変遷して今の演歌になるわけで、1960年代末期に突然発生したわけではない。なんか変な誤解が広まって恐ろしい気がします。
その件については以前の演歌の特集の動画で言及されていたと思います。みのさんが言ってるのは音楽スタイルではなくジャンル名としての「演歌」だと思われます。
あと、良くも悪くも北島三郎、都はるみあたりが演歌のスタイルを固定してしまった気がする。その功罪は問わないけれども。
なるほど〜どうしても演歌を受け入れ難かったのは 五木寛之のせいも多大だったのかもしれない作家先生の言葉に引っ張られていった歌謡界 だから大御所の歌手は 晩年 似たような演歌を歌っていったのかなぁ
俺は福田一郎みたいな年寄りになりたいと少年時代に思ってました😄今でも演歌には興味がないけど島津亜矢のうまさには引く位🙇
美空ひばりをジャンル分けするなら美空ひばりとしか言いようがないと思う
「てれびのスキマ」の名前で知られる、戸部田誠さんの「芸能界誕生」という本に、日劇ウエスタンカーニバルとロカビリーブームの話が書いてあって、結構 面白いですよ😊
美空ひばりブギでデビュー?当時流行っていたブギのモノマネで有名になった、母親は娘がモノマネで受けて金が入って来るので、次から次へと歌わせられた被害者である😂
アフロ版吉沢亮
もうええてー
美空ひばりは演歌歌手ではないのはとうぜんとして、〇〇節とか浪曲からの流れを演歌とするならば森進一も演歌歌手ではないきがする。
美空ひばり、藤圭子って、呼び捨てにしないようにね、、
三橋美智也出てこないの?
70年代の昭和は暗かったね
うなり節で有名な都はるみは演歌の中でも更に「ド演歌」と呼称されていた。ぴんからトリオ"おんなの道"、さくらと一郎"昭和枯れすすき"とかが大ヒットして演歌というジャンルが定着した感。
演歌、というジャンルは不思議な世界で、興業や水商売の利権となんとなく繋がってる気配が、、。だから酒場の歌であり男と女のどろどろした感情がモチーフの多くを占めていたので、若者が積極手にカッコイイ物として聴いていたかと言われれば、そーゆー人もいたろうけど、かなり疑問を感じる。自分にはそーゆー感覚はなかった。嫌いだった。
五木寛之はね、あの人は大変罪深い方なんですよ。なまじ説得力があるからね。
美空さんは演歌歌手では無いぞ
よくわかりますが、ここでみのさんが言っているのは「演歌歌手だと思っている人が多い」「演歌の女王なんて呼ばれたこともある」、「が、そうではない」という主旨じゃ無いでしょうか。
@@caither2413 美空さん自身 自分のコトを歌謡曲の女王と言っていました演歌の女王は八代あき
ドラクエでお馴染みのすぎやまこういち先生は演歌は嫌いと仰ってましたね。暗く進化を拒んだ音楽ジャンルと認識されたからでしょうか。今回の演歌の解説、時代劇との類似性を感じました。本来は同時代性のある、若い世代も愉しむモノという旨のくだりです。いつの間にか年寄り向けの分野になってしまった、という部分もです。解説する姿、春日太一氏のそれと重なりました。
@user-uf3bb2dk4k 確かにそうですね。マイナーペンタトニック。二六抜き単調。慧眼なご意見、とても勉強になります。
現在の邦楽の凋落ぶりが邦楽通史、戦いの音楽史という本が出る原因なのだろう。確かに昭和40年前後から演歌は売れた。ステレオならぬ電蓄が売れた。それ以前の三橋美智也の存在が大きいと思う。洋楽ではプレスリーからビートルズ、ベンチャーズの存在も日本では大きかった。世代の違い、好みの違いがはっきりしていたようだ。美空ひばり、藤圭子の存在は大きいと思う、が三橋美智也がいたから昭和の終わりまで続いた、いや今でも底を流れる形で演歌は聴かれている。
藤圭子が苦労人?それは嘘ですよ 旭川の裕福な家庭のお嬢さん 道民は知ってます
ソレは金銭的な事ですよね。売れたけど演歌の呪縛から逃れられなかった、という苦労がありましたよ。うろ覚えですけど、藤圭子は演歌のことを好きではなかったらしいです。
苦労人とは幼少期に金銭的に苦労した人だけを指すんですか?デビューしたあとに苦労したら、それは苦労人ではないのですか?
他のどなたかと勘違いされているのでは。
美空ひばりについては、美空ひばりがチャンバラ時代劇に出ていた頃に出した
「ロカビリー剣法」という歌が秀逸なので聴いてみて下さい。
藤圭子の人気ぶりは、ファーストアルバムが 20週連続ヒットチャート1位、
21週目の1位を阻止したのが、藤圭子のセカンドアルバムで、そのまま 19週
連続1位で、合わせて 39週間連続1位を、藤圭子が独占した日本記録。
その娘の宇多田ヒカルが、日本の音楽史上最大枚数の単一の音楽記録媒体
(彼女の場合はCD)の売上記録保持者という、なんというか、すごい数奇な運命。
藤圭子・・・子どもの時は歌が暗すぎて拒絶反応出まくっていましたが、三十数年前、四谷に文化放送があり近くの新宿通り沿いにミスドがあり、そこに藤圭子さんがいました。
すごく小柄で顔が小さくて、凄く凄く美人でビックリしてファンになっちゃいましたw。
文化放送も無くなり、ミスドもショップ99からローソンストア100 になって、その界隈は当時とは変わってしまいました。
因みに、そのミスドから文化放送へ行く道をまっすぐ坂を下って階段を上がると、新海誠監督の『君の名は。』のエンディングで有名になった須賀神社へ繋がっています。
85年ごろかな、夜のヒットスタジオに出演した美空ひばりが「ラブイズオーバー」をカバーした。
番組を見ていた高2の私は、歌を聴いて始めて鳥肌の立つ経験をした。
最近は歌姫が乱立しているけど、彼女こそ日本歌謡界の最高峰であり、物差しだと思う。
藤圭子さんは作詞家石坂まさをが演歌の星としてプロデュースしましたが、夢は夜ひらくはじめ当初のは演歌というよりブルースですね。演歌らしい歌はもう少し後になって歌っています。
子供の頃の記憶では島倉千代子、こまどり姉妹、都はるみなどが着物を着て演歌を歌っているイメージでした。
「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子は「演歌は大嫌い」と語っておりブルースと演歌は別物なんですよね
笠置シズ子の「ラッパと娘」は圧巻ですね。戦前にこんな素晴らしい曲があったって驚きましたわ。
あの曲はアレンジ変えたらハードロックですよ。
宇多田ひかるの母、藤圭子は美人でアイドルのような容姿であの表現力はギャップが凄い 新宿の女を貫いて新宿で亡くなられた 前川清との結婚でお子さんがいたら宇多田のような才能があったかも 演歌は年を重ねると良くなる 浪曲派の村田英雄三波春夫 民謡派三橋美智也もいい
いつもありがとうございます!
あらゆるジャンルを取り込むという美空ひばりはあらゆるジャンルを取り込んで発展してきた邦楽の象徴みたいなものですね。
ひばりさんの色気の件は私の祖父も子供にこんな歌を歌わせて云々と言っていたそうです。ウェスタンカーニバルはハートブレイクホテルの日本詞が有名ですね。
藤圭子さんが「メモリーグラス」をカバーしたものがあるんですが、それがかなり好きで、
演歌歌手と一括りにしてはいけないぐらいの上手さでした。
本当はビートルズが好きだったという都市伝説すらありますし。
そしてかなりの美人さんですし、そりゃ売れただろうな、と思います。
ユーチューブにビートルズの曲をノリノリで尾藤イサオさん達と歌い踊ってますね。
美空ひばりの音楽性の広さを語るなら「笑ってよムーンライト」は外せないと思う
「川の流れのように」しか知らなかった昭和後期生まれの私にとって、ジャッキー吉川とブルー・コメッツと歌った「真赤な太陽」は衝撃でした。
こんなロックでカッコイイ歌を歌える人だったんだと。
彼女が平成の世を生きていたら、果たして近年の八代亜紀さんのように、多様な歌声で多様な彼女の姿を魅せてくれたのだろうか。。。
古賀政男先生の曲、多分に海外の影響が見られますよね
良くお話しする先生で古賀政男先生の弟子の方がいらっしゃるのですが、丘を越えてはドイツ民謡風、影を慕いては朝鮮半島の民謡とロシア民謡の影響を感じるそうです。(古賀政男先生自身も朝鮮半島に長くいらっしゃいましたしね)
赤い靴のタンゴを始めとして直接的にタンゴを取り入れた楽曲も多々ありますが、間接的にタンゴの影響下にあることを感じる作品も多々あります。
一方でその先生に演歌の起源について尋ねた時は、あれは日本古来からの音楽だとおっしゃられていたので真意は分かりませんが(笑)
西城秀樹さんは、子供の頃『黒い花びら』を歌って学校の先生に「もう少し子供っぽい歌を歌いなさい」と注意されてたようです。
大人になって歌った『黒い花びら』も、超ステキです。
五月みどり「お座敷ロック」という曲があります(1958年)水原弘の黒い花びらより明確にロカビリーっぽいです笑
藤圭子さん以降の演歌は、高度経済成長が行き着いたところで立ち止まり「日本ってなんだったっけ?」考えたことに噛み合ったマイナー調の曲ってイメージもあって、それは70年代を通しピンクレディやサザンのデビュー曲がマイナー調だったことや、国鉄のまさに「DISCOVER JAPAN」というキャンペーンで採用された山口百恵の「いい日旅立ち」と地続きになってるのかなと。
その後日本は松田聖子やシティポップのメジャー7thな風景に、DISCOVERはエキゾチックに変わるみたいな。
美空ひばりは英語は喋れなかったけど、英語の曲の発音はネイティブの人が聴いても全然違和感がなかったというのは有名な話ですよね・・・
「ひばりジャズを唄う~ナットキングコールに捧ぐ」というアルバムはおススメです!
うちの祖父母は存命だったら100歳前後ですが、まだ70代だった90年代にも演歌を聴いてませんでした。
むしろ、うちの親の世代から少し上の人(今の70代以上)にフォーク派、ロック派(洋楽派)、演歌派がいたような印象ですね。
とても勉強になります。
ありがとうございます♪
みのさんは何よりバランス感覚が素晴らしい!
「にほんのうた」は明日手に入りますので、とても楽しみです🎶
高齢者の方を相手に仕事をしているので、より世代に合わせた歌選びができそうでワクワクしてます(満州から引き揚げた方には李香蘭!みたいに人生のバックグラウンドによって歌の傾向が読めるんです)
ところで、僕自身が昭和の末期に大学受験の現実から逃避するためにラジオの「五木寛之の夜」を聴いていました。
オープニングの音楽から「艶歌(怨歌)」全開だったので、演歌を勘違いしちゃったのかなと気付きました。
RUclipsでも聴けるので、良かったら探してみてください。
藤圭子さん程ではありませんが、翳りをイメージにした戦略で山口百恵さんもブレイクしましたね〜
69~71年は藤圭子さんの時代、特に70年の歌謡界はこの人で明けこの人で暮れたと言っても過言ではないと思います。
当時、中学生だった自分は大々々ファンと云うよりも愛していた。あのデフォルメされた苦労時代も
真っ暗闇から細い光が切っ先のように伸びるような雰囲気も、。デビューから10年後に圭子さんが芸能界引退したことは
それから2~3年経ってから知った。少年時代に初恋の人がいつの間にか知らない内に転校してた気分になった想い出が
ある。
いつも楽しませていただいております。
当時藤圭子を演歌と位置付ける方はいなかったと記憶しております。寧ろ”怨歌”と表現した番組は多かったですね。もちろん美空ひばりは歌謡界の女王でしたので演歌と言う表現はまず無かったです。
とかくジャンル分けが当たり前の令和ですが、昭和の頃は楽しめるかどうかで区別はしましたがジャンル分けと言う概念は後に80年代以降顕著になりました。ロックについてもはっぴーえんどをロックに入れる人入れない人、矢沢永吉が王道とする人しない人はいましたが今日のようにロックの走りと言う表現は無かったですね。フラワートラべリンバンドや紫など沖縄勢をロックと思ってる人は多かったです。
演歌の星
余談ですが朝ドラのエールやブギウギを観るとわかるんですが、歌謡曲の起源は戦前の流行歌で、当時はアカデミックなクラシック音楽を学んだ作曲家によって作曲されていました。
なのでクラッシックの音楽理論の作曲法がベースで、そこに当時話題のジャズなどのポピュラー音楽入ってきて、たとえばジャズ調にしても短い曲の中でクラシックっぽい起承転結をいれ、だいたいの流行歌はAメロBメロ、サビで構成される傾向ができたようです。
改めて昭和がいい時代
であったと思います。
ひばりさんや藤さんは
エンターテーメント
の申し子だった。
ただ、身の上は苦労
されましたもんね。
演歌が日本の心、みたいなの言われるようになったのはやはり日本の各地について歌った曲が多いこともあるんでしょうかね。
やはりどちらかと言うと藤圭子より民謡、もしくは歌謡浪曲の方が現代の演歌に近い気がしますね。藤圭子はブルース、淡谷のり子や青江三奈に近い気がします。
三波春夫、春日八郎、村田英雄、三橋美智也らが昭和30年代から歌っていたものはどういうカテゴリーになるのでしょうか
昭和35年でいえば18才だった小泉純一郎がプレスリー、5才だった志村けんがビートルズどっぷりの世代で、当時から若者の歌でもなんでもなかったような
あの頃は流行歌だとかいわれてたはずです。
ただ彼らは浪曲風や民謡風の歌も歌っているので、民謡・浪曲のような流行歌といったところで早熟というか高年齢向けだったのかも知れません。
ちなみに、演歌の女王と呼ばれ先日亡くなった八代亜紀さんは「私は流行歌の歌手として活動していた。そう言われていたし、自分もそう思っていた」「演歌というものがなんなのか、知らなかった」「後年、演歌の女王なんて呼んでもらえるようになって、初めて、あ、私って演歌の歌手なんだって知りました」と近年語っています。
彼女がデビューした頃はまだ演歌がどういうスタイルなのかが確立していなかったのは確かでしょうね。
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森進一も演歌歌手と言われる事について、自分が歌手になったときにはそんな呼び名は無く、
演歌が何を指すのかわからないって言ってましたね。
たしかに襟裳岬を吉田拓郎が唄えばフォーク、森進一が唄えば演歌
冬のリヴィエラを大瀧詠一が唄えばポップ、森進一が唄えば演歌
結構ジャンル分けって適当なのかも。
藤圭子の新宿の女ほんと好き。
7:35ここからのお話は時代劇と同じですね ファンとジャンルが共に老いていったという
美空ひばりって1番知名度がある(であろう)曲が最晩年に出た曲っていうのが凄い
それを作詞したのがあの秋元康と知ったときは個人的にすごく驚きました。
まぁシンプルに三人娘時代や演歌時代を知らない世代が増えてきて代表曲チックになってるだけな気がします。マンボやツイストや演歌とかマドロス歌謡とか、前時代的ですよね。数年前のカラオケランキングではみだれ髪や愛燦燦の方が上位でした。
とか言ってますが自分も平成生まれなので普通に川の流れのようにが聴きやすいですね。
美空ひばりの歌唱力は世界でもトップレベルだと思う
子供の頃に酒飲みの父親が毎晩聞いててあんまり良い印象はないけどw
美空ひばり/藤圭子は演歌の象徴としてはあまりピンときませんでしたが北島三郎と都はるみはド演歌という感じがします。こぶしの効いた歌い方からかな?
美空ひばりは演歌だって思ったことないですね。
演歌も歌ったことある…くらいのイメージです。
歌唱力の優れた前川清と藤圭子が別れず、子供が生まれてたら宇多田ヒカルぐらいの歌手に成長しただろうか……といまだに思います。見てみたかったな。
どの辺りから「演歌=着物着て歌う」になったんだろう?松村和子?(笑)
たぶんあの着物で歌う姿から「演歌=日本の伝統芸」って勘違いが始まった気がする。
昔(90年代後半)、英語の勉強してた頃、外国人に「演歌は日本の伝統的な音楽で…」って説明してる日本人多かったんだよね。それに凄くモヤモヤしてたわ。
松村和子の帰ってこいよはロックだと思います。
一部の演歌は曲よりも歌詞に古いなって思うことは多いです。女性が
愛する男性のためにとことん我慢してみたいなあの世界。あと大御所の
歌手は暴力団とべったりみたいな。
演歌歌手って言われる人は歌唱力も高いですし歌い手として優れた存在
ですが、一部の演歌歌手以外はどんどん厳しくなっていくのかなって気が
します。
オープニングの曲ってなんて曲かわかる人いますか?
自分の両親が70代前半だけど30代後半か40代前半頃にオールタイム・ベスト的な感じでずっとビートルズ、ABBA、カーペンターズ、さだまさし、オフコース、松山千春とか聴いてたので演歌は全然だった。祖父の家にあったレコードが民謡とか演歌だったかなあ?分からなすぎてあまり聴かなかったから記憶が薄いけども。
なので戦後生まれの両親の世代でもあまり演歌のイメージが無い
「演歌のねじれ」はとても興味深い。高田渡のルーツはアメリカンフォークにあるだけでなく、添田唖蝉坊の演歌にあるというのはこの本を読んで納得しました。一方美空ひばりは「演歌の女王」というもの、私の最初のリアルタイム体験は「真赤な太陽」なので、先進的なイメージがあります。藤圭子はまさに「怨歌」ですが、初期の中島みゆきに通じるようなところがあるとふと思いました。表現力の豊かさはジャンルを越えてしまう。
65歳のじじいの記憶では、三橋美智也、村田英雄全盛の頃、演歌と云う言葉は使われなかったように思います。大昔の演歌師以後、久しく聞かれなかった演歌と云う言葉が聴かれるようになったのは、遠藤実作品の、それも千昌夫よりは、水前寺清子あたりだったと思います。普通に演歌と括られような歌手にしても、民謡や浪曲から歌謡界に進出した人たちよりも、北島三郎、渥美二郎…といった流し出身のギターの弾き語りが、先行して演歌とカテゴライズされていたように思います。
70年代後半から80年代の音楽番組だった、ザベストテン、歌の紅白歌合戦、ザトップテン、夜のヒットスタジオの出演者は基本、演歌歌手とアイドル歌手でした。シンガーソンガーの人とかロック系はほとんど出ませんでした。テレビを観ていて、出ないことわかっているから。毎度同じ理由言わなくても、今回も出ませんでええやんと思っていました。
藤圭子さんは1979年に引退してたんですか?あれ!1980年〜82年まで上野駅近くの喫茶店でアルバイトしてて、来店しましたね。肌が とにかく白くて きれいな人でした。はい!
その後、名前を藤圭似子と改名してカムバックしました。後に元に戻しましたが。
みのさんの若くして幅広いジャンルを語れる方は少ないと思うので
大滝詠一さんと対談して欲しかったなあと思います。
演歌が『日本の心』だとか、『古き良き』みたいな文脈で語られる一番の理由は民謡が占めるウエイトが大きいせい。
あと、漁師などの肉体労働者、盆踊りやお祭り囃子などいかにも日本的原風景を題材にすることが多いのも理由の一つ。
余談ですが『流し』のイントネーションは台所のそれではなく『ポパイ』の感じで発音して欲しいです笑
怨歌ならユーミンみゆき竹内まりやもそう
唖蝉坊とかの「演歌師」から演歌師は流しのスタイルに変化していったんですよ。歌の内容も変わっていった。それが今の演歌につながります。だから別に五木寛之が規定したわけでもなく演歌と内容とスタイルが変遷して今の演歌になるわけで、1960年代末期に突然発生したわけではない。なんか変な誤解が広まって恐ろしい気がします。
その件については以前の演歌の特集の動画で言及されていたと思います。みのさんが言ってるのは音楽スタイルではなくジャンル名としての「演歌」だと思われます。
あと、良くも悪くも北島三郎、都はるみあたりが演歌のスタイルを固定してしまった気がする。
その功罪は問わないけれども。
なるほど〜
どうしても演歌を受け入れ難かったのは 五木寛之のせいも多大だったのかもしれない
作家先生の言葉に引っ張られていった歌謡界 だから大御所の歌手は 晩年 似たような演歌を歌っていったのかなぁ
俺は福田一郎みたいな年寄りになりたいと少年時代に思ってました😄今でも演歌には興味がないけど島津亜矢のうまさには引く位🙇
美空ひばりをジャンル分けするなら美空ひばりとしか言いようがないと思う
「てれびのスキマ」の名前で知られる、戸部田誠さんの「芸能界誕生」という本に、日劇ウエスタンカーニバルとロカビリーブームの話が書いてあって、結構 面白いですよ😊
美空ひばりブギでデビュー?当時流行っていたブギのモノマネで有名になった、母親は娘がモノマネで受けて金が入って来るので、次から次へと歌わせられた被害者である😂
アフロ版吉沢亮
もうええてー
美空ひばりは演歌歌手ではないのはとうぜんとして、〇〇節とか浪曲からの流れを演歌とするならば森進一も演歌歌手ではないきがする。
美空ひばり、藤圭子って、呼び捨てにしないようにね、、
三橋美智也出てこないの?
70年代の昭和は暗かったね
うなり節で有名な都はるみは演歌の中でも更に「ド演歌」と呼称されていた。ぴんからトリオ"おんなの道"、さくらと一郎"昭和枯れすすき"とかが大ヒットして演歌というジャンルが定着した感。
演歌、というジャンルは不思議な世界で、興業や水商売の利権となんとなく繋がってる気配が、、。
だから酒場の歌であり男と女のどろどろした感情がモチーフの多くを占めていたので、若者が積極手にカッコイイ物として聴いていたかと言われれば、そーゆー人もいたろうけど、かなり疑問を感じる。自分にはそーゆー感覚はなかった。嫌いだった。
五木寛之はね、あの人は大変罪深い方なんですよ。なまじ説得力があるからね。
美空さんは演歌歌手では無いぞ
よくわかりますが、ここでみのさんが言っているのは「演歌歌手だと思っている人が多い」「演歌の女王なんて呼ばれたこともある」、「が、そうではない」という主旨じゃ無いでしょうか。
@@caither2413
美空さん自身 自分のコトを
歌謡曲の女王と言っていました
演歌の女王は八代あき
ドラクエでお馴染みのすぎやまこういち先生は演歌は嫌いと仰ってましたね。暗く進化を拒んだ音楽ジャンルと認識されたからでしょうか。
今回の演歌の解説、時代劇との類似性を感じました。本来は同時代性のある、若い世代も愉しむモノという旨のくだりです。
いつの間にか年寄り向けの分野になってしまった、という部分もです。解説する姿、春日太一氏のそれと重なりました。
@user-uf3bb2dk4k 確かにそうですね。マイナーペンタトニック。二六抜き単調。慧眼なご意見、とても勉強になります。
現在の邦楽の凋落ぶりが邦楽通史、戦いの音楽史という本が出る原因なのだろう。確かに昭和40年前後から演歌は売れた。ステレオならぬ電蓄が売れた。それ以前の三橋美智也の存在が大きいと思う。洋楽ではプレスリーからビートルズ、ベンチャーズの存在も日本では大きかった。世代の違い、好みの違いがはっきりしていたようだ。美空ひばり、藤圭子の存在は大きいと思う、が三橋美智也がいたから昭和の終わりまで続いた、いや今でも底を流れる形で演歌は聴かれている。
藤圭子が苦労人?
それは嘘ですよ 旭川の裕福な家庭のお嬢さん 道民は知ってます
ソレは金銭的な事ですよね。
売れたけど演歌の呪縛から逃れられなかった、という苦労がありましたよ。
うろ覚えですけど、藤圭子は演歌のことを好きではなかったらしいです。
苦労人とは幼少期に金銭的に苦労した人だけを指すんですか?
デビューしたあとに苦労したら、それは苦労人ではないのですか?
他のどなたかと勘違いされているのでは。