実は変な城?現地でわかった!伊達政宗の仙台城が不思議すぎる理由
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- Опубликовано: 21 ноя 2024
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人口100万を超える東北最大の都市、仙台。その巨大都市を西側から見下ろす青葉山にあるのが仙台城です。御存じの通り、独眼竜伊達政宗が築いた城。伊達家62万石の居城として幕末までずっと使われました。日本有数の大名家の城であり、当時は豪華な御殿が立ち並んでいたと言われています。
現在は多くの方が訪れる観光名所で、本丸跡にある政宗の騎馬像の前は「これぞ仙台」という撮影スポットになっていますね。
ですが実際に訪れてみると城らしい遺構は控えめ。石垣や再建櫓はありますが、伊達家の威厳を示す天守やその跡も見当たりません。
実は仙台城はとても不思議な城。規模は全然小さくないのですが、同時期に築かれた他の城と比べると、ちょっと力の入れどころが違うのです。何といっても江戸時代の初めにこんな高い山の上に城が築かれるのは珍しいこと。そして仙台城には天守は無く、縄張りも正直よくわからない様子となっているのです。伊達政宗はいったいどのような考えで仙台城を築いたのでしょうか。実際に城の跡を訪れて考えてみます。
分かり易い動画で勉強になりました。
青葉城に行きたくなりました…来週仙台に行くので訪れてみようと思います。
西側に大群はたどり着くが不可能と思います。迂回しようにも垂直な崖が多く、西側への入口はがぎられます。城を囲む広瀬川の城の対岸はほとんど垂直の崖。南側の名取川は笊川との合流地点から西側も垂直の崖です。笊川の東側を北上すれば金剛沢と竜の口渓谷があります。城へは笊川を北上するルートしかありません。ものすごい難所です。西側を守る茂庭氏に加え、さらに北側は裏街道があります。根白石.宮床を通り大崎へ繋がります。伊達軍団は大崎方面に家臣を振り分けてました。多くの分家がすぐに城の西側に援軍を送れました。有名な片倉家も現存しています。地理的にはこの垂直な崖の確認が面白いです。垂直な崖の渓谷の中心に城が有るのです。
市は仙台城って呼んでて青葉山の護国神社は青葉城って呼んでて他県民は混乱しますよね
初コメです。懸造は仙臺城だけではなく、仙臺藩一門筆頭・角田石川氏の角田城にもありますよ。
角田城は宮城県角田市にある平山城です。戦国期には伊達氏一族の田手氏の城だったといわれており、独眼竜・伊達政宗公が米沢から岩出山(現・宮城県大崎市)に拠点を移した頃には、伊達成実公(政宗公の従兄弟で、重臣。後の亘理(わたり:宮城県亘理町)伊達氏初代当主。)が角田城主となりましたが、慶長3年(1598年)、突如成実公が出奔したため、政宗公は家臣の屋代景頼に命じて角田城を接収させました。その後、角田城は政宗公の叔父・石川昭光公(昭光公は元々、三芦(みよし)城(現・福島県石川町)主だったが、豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、石川領が没収され、政宗公に頼り、慶長3年(1598年)に角田に移封した。この歴史的な縁で福島県石川町と宮城県角田市は姉妹都市を提携している。)の城となり、徳川幕府の一国一城令が発令された後も、「角田要害」と称して明治維新になるまで角田石川氏の居城として存続しました。
「角田要害図」によると、現在の角田高校の入口から少し歩いた所には、かつて角田石川氏の象徴的建物・懸造があったとされており、如何に角田石川氏が仙臺藩一門筆頭として特別視されているのかが分かります。
現在、角田城は角田高校や角田中学校の敷地内になっており、土塁や空堀が僅かに残っていますが、角田市内にはかつて角田城にあった移築門2ヶ所(旧表門「臥牛門」が角田石川氏の菩提寺である長泉寺に、本丸詰の門が角田市郷土資料館に)が現存しています。角田城や角田石川氏の歴史について学びたいならば、角田市郷土資料館がオススメです‼️
また、角田城に関連する角田石川氏の墓所は2ヶ所あります。
1つ目は長泉寺であり、石川昭光公をはじめ角田石川氏の歴代主の墓があります。
2つ目は台山廟であり、角田石川氏12代当主・石川宗光公や、13代当主・石川義光などの墓碑22基と、長泉寺の傑僧台山文童大和尚の墓碑があり、市指定史跡となっています。
また、台山廟のある台山公園には角田宇宙センターがあり、その施設の「宇宙開発展示室」では、ロケットエンジン開発について楽しく学ぶことができます。
角田城や角田石川氏について更に知りたい場合は、外部リンクに貼ってある宮城県角田市のHPや福島県石川町のHPなどを参照することをオススメします(*^^*)
<外部リンク>
・角田市「角田城」↓www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1033.html
・角田市「石川家廟所」↓
www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1168.html#:~:text=%E6%85%B6%E9%95%B73%E5%B9%B4%EF%BC%881598%E5%B9%B4,%E3%81%AE%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E3%82%92%E7%AF%89%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82
・角田市「石川公ゆかり処めぐり」↓
www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1169.html
・ 角田市「長泉寺」↓
www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1202.html
・角田市「台山公園」↓
www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1185.html
・角田市「史跡の丘・台山」↓
www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/1106.html
・角田市「JAXA角田宇宙センター」↓
www.city.kakuda.lg.jp/site/kokokakuda/761.html
・角田市郷土資料館トップページ↓
www.city.kakuda.lg.jp/soshiki/24/588.html
・石川町「歴史概要」↓
www.town.ishikawa.fukushima.jp/admin/hall/02/01/01/01.html
・石川町「中世石川町の文化財」↓
www.town.ishikawa.fukushima.jp/admin/hall/02/01/01/04.html
・石川町「三芦城(都々古別神社)」↓
navi.town.ishikawa.fukushima.jp/view/entry/003928.html
地元民ですが、西側には険しい山でとても攻め入る場所ではありません。
現在は、東北大学の青葉山キャンパスですが、車でも急な坂、地下鉄も最も急勾配の地下鉄です。
先日、岐阜城にも行きましたが、天守閣は無いものの、城の機能的には同じものと感じました。
因みに、政宗は平時に向けて、仙台城の東に五城、現在は仙台刑務所として利用されている場所に第二の城を築いて、新たな都市計画してますよ。
仙台 若林城 です。
五城ではなく、古城に訂正してください。
コメントありがとうございます。実は私が個人的に一番興味を持ったのが「西側の山がどのようになっていたのか」です。堀の跡があると聞いていたので是非行ってみたかったです。一般的に考えて道もない山林を大部隊が移動するのは無理ですね。「険しい山でとても攻め入る場所ではない」と教えてもらってありがたいです。
返信ありがとうございます。
西側には、八木山橋が架かる断崖の竜の口渓谷と東北大学植物園側の切り立った崖林で、尾根の道一本分が東北大学工学部等の青葉山キャンパスに通じる尾根です。
西側に堀の跡があるとのことですが、現在通行止めの仙台城を周り八木山橋に至るまで石垣となっているので、堀とは城跡の公園内かなぁと思います。
宮城刑務所が嘗ての若林城、以前NHKのブラタモリでも紹介されてました。
仙台の町も北西から南東への扇状地だと言う事も!
>@@幸毅山本
東北大学植物園内に土塁跡と空堀跡が残っていて、案内看板も立っています。また、青葉山南の鹿野と言う地名は、鹿が里に下りてくるのを防ぐための土塁が有った事を意味する地名とされていますが、これも仙台城の防備のひとつだった、と言う見方もあります。意外に仙台城の範囲は広かったのではないでしょうか。
こんばんは。仙台城UPありがとうございます。
伊賀上野城や松江城のように「未完成」ではなく、政宗の政治判断によってこの不思議な城が出来上がったのですねぇ。勉強になりました。
今では繁ってしまった樹木を伐採し、堀や塁、建物を整備すれば、大規模な城郭が現れるのでしょう。若い政宗の野心が見えるようです。
あいにくの天気でしたが気温的には動きやすかったかもしれませんね。南側の崖まで見れてありがたかったです。
次回も楽しみにしています。
政宗時代の仙台城は本丸と西の丸(本丸横の小さな曲輪)だけだったようですね。再び戦乱の世となれば西側の山二曲輪を拡張し、平和な時代が長く続けば平地に拡張できるよ!って考えだったのかなと思いました。「この城は時代に合わないかもしれないから必要があれば変えなさい」と政宗は言っていたようです。二代目以降二ノ丸にサッと移ることができたのも、政宗が先を見越して大規模造成を行わなずスペースを空けていたから!と言えるかもしれません。仙台城に行って伊達政宗の凄さを改めて感じました。
確かに虚々実々の憶測を呼ぶ不思議な縄張りの城郭ですが、それこそが政宗の思う壺だったのかもしれませんね。私自身は1615年頃まで政宗は天下取りを諦めていなかったのではないかと考えているのですが、確かに同時代の江戸城よりスケールが大きいのですよ(明暦の大火後の大改造まで江戸はそこまで大きな都市ではなかったのです)。しかも城下町の外側に武家町を大拡張する余地を残している。天下取りの暁には外様大名の屋敷でも建てるつもりか?という。そして政宗時代には若林城下と合体させて都市を実質二倍に見せている。どこまでハッタリなのかわからない、しかも言葉だけでなく土地の上に痕跡を残してしまうのが政宗の魅力なのかもしれません。
大手門は再建する計画があるみたいですね
市のプロジェクトとして再建のための調査をしてるみたいで
本当に再建されたら見に行きたなって思ってます
昨年、仙臺緑彩館ができた頃、本丸石垣周りが伐採され、
大橋や仙台市博物館からも石垣が見えるようになったんですよね…!
仙台城の前は、国分氏の城「千代城」がありました。
以前は見えなかったのですか!ちょうど良い時期に行くことができて良かったです。
名古屋城みたいに本丸御殿再建してほしいです
大広間の様子は絵図があってわかっているようですね!
ホントに不思議な城ですよね。場所的に!施政の為の城なら朝廷の国府がある多賀城に近い場所がいいような気もします。丘陵地なら現在の鶴ケ谷地区もあり得るのでは・・
船を利用するためにわざわざ貞山運河まで掘っているのでもっと海辺に近い地域でもいい気がしますよね。
朝廷の国府がある→✕
朝廷の国府があった→〇
国府としては11世紀には既に消滅してる。
200年後の鎌倉時代に陸奥将軍府として北畠父子が赴任したとなってるが、それが過去の国府の多賀城なのか、陸奥留守職の居城の利府城、岩切城なのか?一説には多賀城の西側の今市館とも言われてるが、いずれにせよ政宗の時代には既に実態はないものであったはず
もう一つ、小さい頃に誰かをお見舞いした時に同室だった老人が
「仙台城の大手門はワシが壊した」と言っていてちがうよーと思ったんですが、「戦後すぐ米軍のトラックが通れないから壊せと雇われた」
みたいなことを言っていて、多分大手門ではない門を壊したのだろなあと思いました。
なんてことを…と思いますが、彼らにしてみりゃ日本軍の設備に見えたのでしょうかねえ
トラックを通すために門を壊した話は聞いたことがあります。
他の方のコメント通り、西側は東北大が並ぶ尾根筋の先で東北道が通る谷筋に向けて急落してます。
東北大や太白区からICへの接続道であるにも関わらず、谷筋へは現代の道路ですらすれ違いがやっとの林道のような道しかありません。尾根へ登る道も尾根筋を巻いてやっと登っています。仙台城を境に冬季の積雪の有無まで変わります。
やろうと思えば短時間で大軍を収める縦深の深い大要塞に出来たと思いますが、敢えて最後までやらなかったと言う辺りが実に巧妙かなと…政宗の時代、
海岸部に津波でも残った様な河口付替、運河など大土木工事を連続しているので、結構短時間にやれたのでは…
いざという時のために計画はあったと思うけど残っていないのかなあ、と思ってしまいます。
五十年程昔、このあたりを探索した事あります。竜の口渓谷の沢は、青葉台迄続きます。渓谷の南側を西に進むと金剛沢があります。歩けません。更に西側は急進な稜線と沢になり笊川の深い谷になります。進軍するなら、この笊川沿いに北上し、どこからか稜線を登るしかありません。どの稜線から登るにも、アリの進軍よろしく大群でとは行きません。すべての稜線は青葉台というところに繋がり、陣が待ち構えたと思います。笊川の西側に伊達軍団最強の茂庭氏がおり、稜線にたどり着くのも大変だと想像されます。今は青葉台から西側に車が通れますが、五十年前は獣道の様な林道があっただけで沢を超える所も有り難所でした。
西側は少し離れて深い渓谷があります 橋が一つしかないのでここ守れば大丈夫です。
ちなみにその渓谷は仙台一の心霊スポットなので実は昔から忌み地だったかもです
二本松城攻略で攻めるのに手こずったので、攻略されないよう山に城を作ったと聞いた事があります。仙台藩の家臣の城、要害はほとんど山城です。
2年前の夏に訪れたのですが、あいにく大雨の中での訪問になってしまいました。折角来たのだからとほぼ一日かけてぐるっと山側を回り、途中でこけて泥だらけになったので街へ戻るのもバス・地下鉄を諦め、広瀬川沿いを歩きました。それぞれの遺構などをピンポイントで見ると「へえ」程度のところが多かったのですが、全体を歩いてみると如何に攻めにくく守りやすいか、地形を活用して巧く構成されたお城だということが理解できました。山上から眺めると、農作に必要な平地と水を充分に備えつつ、城を構えるのに望ましい地形、更に少し離れているが海運に使える港湾もありと、仙台は当時の大名・領主にとって条件が揃いすぎる土地だったんだろうなと感心しましたよ
雨の中大変でしたね。私の訪問も雨でした(小雨でしたが)。ほぼ一日かけて山側を回るなんて貴重な体験だと思います。仙台城の選地の良さを知ることができる@user-er4uw7pg1oさんの「歩き」は素晴らしいコースだったのでしょうね!
城マニアで軍略研究家の俺が、その足で直に城廻を見ながら攻略方法を考察した中で、伊達家の仙台城、長尾氏の春日山城、この2つはどうにもこうにも攻略法が見つからなかった、射程長い大筒無くしては無理だな
トラウトがコメントしてると思うと面白い
@@KH-ui8hl
タフな話だよ
仙台城 ありがとうございます。地元民なので、興味芯々で視聴させていただきました。お城とは関係ありませんが、仙台城下町を流れていた 四ッ谷用水 (水道)があったそうですが、現在の宮城県庁勾当台を頂点として見下ろす?と、傾斜を利用して五橋、河原町方面に(他にも?詳しくないのですが)生活用水路があったそうです。(現在は埋められている)勾当台公園からみおろすとまっすぐな道が下っています。(逆に、下から来ると上りでありますが)と、仙台城と城下町、セットで考察するとなんかすごいな~と思いました。
あと、貞山堀 (運河)、石巻~岩沼?まで運河も宮城県には今も残っています。天守は無いけど、宮城全体が城?(宮城に来て30年になります・・宮城、食べ物がおいしくて)
父親(初代政宗公)が作った本丸が政務するのに大変だから息子(二代忠宗公)が二の丸作った話に当時はよほど大変だったと思った。
懸造り再建してほしい。
西側は現在東北大の植物園、そして大学の施設と続いていますが、いずれにしても本丸よりも標高が高い丘陵地帯です。さらにその西も数キロは同じくです。よって西側からの攻撃はあり得ないと・・。
おはよーございます。伊達政宗は豊臣秀吉に遠慮して天守閣作らなかったというお話し聞いています。
仙台に伊達政宗が入った時(1600年)には豊臣秀吉はもう亡くなっていました。(1598年没)
戦いは行われなかったのに、ホントにくだらない空襲なんぞで焼かれちまった。覚えとけよ!
空襲だけじゃないんです。昭和33年迄GHQに二の丸,三の丸をキャンプ地として接収され跡形も無く改造されたらしいです。テニスコートまであったらしいです。今回も本丸中心ですが、城としては二の丸,三の丸に加え、石垣町から別の所で述べられた古城迄の巨大な城がまえだったと思います。
確かに本丸の西側って山だよな。そこから攻められたらアウトだと思うのだが実際どうなのだろうか?
それに天守閣なんて役に立たない。戦闘時には高石垣と堀に隅櫓と多門櫓さえあれば充分。
西側には崖だの谷だのが連続していて、西側から攻めるのは無理だと思います。
地元の松江城も大手門は資料が無く再建されてません(資料、絵図面には懸賞金もつきました)。
仙台城も巨大な大手門が再建されなかったのが、本当に以外です。
城内も自動車往来で、改造されている為当時を思わせる事が中々難しいですね。
政宗と三代将軍家光が非常に仲が良く、江戸城本丸で政宗が手製の料理を振舞ったと言われており、官位と幕府に無い役職である「副将軍」と呼ばれていた。
更に江戸城天守改築の際に、仙台城本丸天守台に移築を幕府に申し出る事を考えたが、仲が良くてもそこまでしようとすれば、反対に幕府から危機感を持たれると判断して。
9:00 「懸造御殿」とはあまりいわないですね。通常は「懸造」「懸造り」です。城下からはよく見えたので、事実上天守の役目をしていました。これもあって政宗は天守を作らなかった、とも言われています。
1:30 大橋の位置を「川内中ノ瀬町」と紹介されていましたが、大橋の一つ北側上流に「中ノ瀬橋」があり、「川内中ノ瀬町」はもともと中ノ瀬橋付近をあらわす町名なので、大橋を川内中ノ瀬町と紹介されるのはちょっと違和感がありますね・・・。でも地図には川内中ノ瀬町が大橋にかかっているとは思いますが、この川内地区内の町の境界はいろいろな複雑な経緯があって実ははっきりとは決まっておらず、地図によって微妙に境界線が変わったりします。ではどう表せばよいかということですが、この付近で町名を表すことが微妙な時は「青葉区川内」でOKです。
あと、政宗は隠居の居場所という名目でちゃっかり「若林城」も作っていますからねー。こちらは政宗が亡くなったあとはすぐ廃城なっていますけどね・・・。
世人は青葉城の本丸は青葉山の山頂と誤解する向きもあるが、青葉城の本丸はこの動画にもあるように青葉山の中腹にある断崖の上にある。
Watashiwa date masamune 💪🏻🗿🎉
地元では「仙台城」とは言いません「青葉城」が通称です。
地元民ですが仙台城です
仙台城跡
仙台城恋歌?に直さないとね。我が母校の応援歌も訂正ですね「青葉城下の戦いは・・・♪♪」それとも仙台城と青葉城は別物? 確か青葉城資料館というのもあった気が?
他に通称名が有名なのが福島の「鶴ヶ城」もありますね。本来は若松城だったかな!。
ついでに「せんだい城」と言いたいのなら「千代城」が元祖では・・
青葉城でしょ。
因みに鶴ヶ城に対して猪苗代町に亀ヶ城ありますよ😊
国分氏の時は千代城とも言ったかな?
大きな川2つに挟まれた西の山から大群で攻めるのは無いでしょう。山に入る前に分かるでしょう。逃げ道ですね。凄い城です~。
青葉城としか言った事が無い
呼び捨ては辞めて欲しい。伊達政宗公が正解
伊達藩士会から「仙台市職員は伊達政宗公と呼べ!」と怒られたという話を聞きました。
@@佐藤達之-i2f 私は父親からです
場所は妥協して第二候補地に築城し、初めは殺る気満々で始めたが、途中で天下取りを本気で諦め生き残りと領地開発に目標を切り替えた結果なのです。
取材ありがとうございます、広大な城だと言う事が良くわかりましまた。
先日、三島の山中城の障子堀を見てきましたがあそこに似た山城の雰囲気を感じました
全然違いますよぉ😢
仙台城は街中の城でもあり山の中の城でもありますね!不思議な魅力を感じました。
過ぎたるは猶及ばざるが如し。。。
政宗。人生を以って悟ったのでしょう。治政の城ですね。
そうですね、それまでの城の概念を変えたものなのだと思います。
行ってみて 実につまらん城跡の一つ
いや マジ本当に
知名な城の中で トップクラスにツマラン城跡
血の匂いも何もせん
仙台の方々も,少し分かってるから チト,ウケる
政宗さん 好きだったから
本当に残念な城跡
なんですょぉ😢
もともと天守閣もないし本丸御殿や懸け造りも火災や戦災でなくなったからはじめて行く人はガッカリするそうです。大手門復元で少しはよくなって欲しいです。
天守を期待して来る方々は皆さんがっかりは分かります。地元の自分もそう思ってました。が、城は観光の為に築かれたのではないのです。近年の歴史ロマンで武将のキャラクター化やイメージも在らぬ歴史観を生んでます。天守を作らなかったのではなく、幕府から禁止された時代だったのです。ましてや外様で力ある政宗を恐れ、制する意図もあったのです。政宗が徳川に忠実を示す為に東照宮を置いたり、数々の策略は当時の苦慮がしのばれます。いわゆる天守ではなく、縣け造りだった城は仙台城だけの唯一無二の美麗であったと思います。そんな現存しない事実を知ると、今はつまらないとか全く思いませんし、寧ろ誇らしい。因みに大手門の再築は賛否両論です。個人的には要らない。
城に血のロマンを求めるのも、国を作り守る為の城だという根幹からすると邪推です。
豊臣からギリギリのところで命を失わずに済んだので徳川も完全に信用したらやばいと思ったのでしょうね。(福島正則のように城の件で取り潰しにならないように)
天守閣を造らない事で家康に対する忠誠心らしい。裏の将軍は正宗だったとか。
動画内でも『縄張りがよく解ってない』とある通り、青葉城は構造がほとんど解ってないので、現在判明してる情報だけで再建した場合は当時の城とは全く別物ができあがるでしょう。
そもそも江戸時代前期と後期の青葉城はかなり形が変わっている事は解っており、再建するにあたって前期と後期どちらにするのかを決めかねるというのもある。
また国分氏の千代城も同所にあったことで、歴史的に二つの遺構がある土地に観光を優先して片方を選んで再建するのはよろしくないこと。
それでも再建したら観光客爆増なのは間違いないので、お金を毎年ドブに捨てているようなものと感じてしまうのも確か。