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相変わらず有料化・書籍化等々されても良いレベル!今回は町並みが省略されてましたが、聚楽第があった当時の市街の様子も絡めて見てみたいです。次作も楽しみにのんびり待たせていただきます!
こんなにいただいて恐縮です。ありがとうございます。いただいたからというわけではないのですが、実は次回から信長の時期の上京と下京とに分かれていた京都から、秀吉の大改造によって大きな変貌を遂げる京都について取り上げていこうと思っていましたので、ご希望にこたえられるかもしれず、良かったです。頑張りますので、またよろしければご覧ください。
jgaa0828様、大変失礼いたしました。今回が3回目であることを先ほどRUclipsの通知で知りました。本当にありがとうございます。これからも出来る限り史実に基づいたわかりやすい動画づくりを心掛けていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。
ありがとうございます!
恐縮です。こちらこそありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
考古学的根拠のある部分とロマンの部分をきちんと腑分けされており素晴らしい。正確に知識を深められるとともにワクワクする。最高!
ありがとうございます。恐縮です。また機会がありましたらチャンネルに遊びに来てくださいね!
すごい!最高の動画ありがとうございます😊
ありがとうございます!
完成おめでとうごさりまするぅ🎉
ありがとうございます! ようやくアップ出来ました。これからもよろしくお願いします。
素晴らしい動画をありがとうございます。京都は数え切れないくらい彷徨いましたが、聚楽第の痕跡を感じた事は本当に全くありません。応仁の乱の方がまだ残っていますよね。白峯神社や晴明神社が近く確実に歩いているはずですが…御土居は未だに残る為秀吉時代の遺物としてはこちらの方が印象に残ります。御苑もかつては公家の邸宅があったという実感がわかないので、意外と京は変わる街でもあり、非常に勉強になりました!
ご視聴ありがとうございます。本当に聚楽第は痕跡すら少ないですね。御土居も取り上げていきますので、またよろしければご覧ください。
20年位前に聚楽廻東町に住んでいました。千本挟んだ反対側が主税町でした。こんな全容のお城だったのかと興味深く拝見しました。
そうなんですね。聚楽第はほとんど痕跡しか残っていないので、イメージしにくいですよね。あくまでもこんな感じだったかなくらいで思っていただけるとありがたいです。
大作、有難うございます!日本文化史では安土桃山と江戸初期が私の最もお気に入りなのでワクワクでした。上京区や中京区では上る、西入るなどを使った通り名だけの住所が主で、町名を使うのは学区内の登下校グループ分けの時ぐらいでした。今はオンラインマップで町名も出てきますが、戦国大名ゆかりの町名が洛内にあったのが新鮮でした。伏見区のは良く知られてますが。因みに私が生まれた家の町名は平安京の小路由来でした。
こちらこそご覧いただきありがとうございます。京都の町には、結構戦国時代に由来のある町名があるんですね。これから戦国時代の京都の町並について動画にしていこうと思っていますので、またよろしければご覧ください。
素晴らしい聚楽第復元動画でした。感嘆しました。何度かリピート視聴したい動画です。高岡城は前田利長の隠居城だったと記憶しています。前田利長としては懐かしい聚楽第を想い縄張りだけでもと築城したのかなと。
恐縮です。ありがとうございます。聚楽第は各地の城作りに影響を与えていたようですね。
城郭CG復元作業お疲れ様です。謎の「聚楽第」が朧げでも全体像が見れるのは有難いです!
ご視聴ありがとうございます。今回の動画は、特に建物は想像で描いていますので、こんな可能性もあるかも位のつもりでご覧いただけるとありがたいです。これからも新たな発見があるといいですね。
天守から見渡す山々、見下ろす御所、秀吉が見たであろう風景ですね✨天下人になった気分がちょっと 味わえました〜爽快❗
可能性ですが、こういう事もあり得たかもしれませんね。
微かに残っているのが凄い
もう少し残してほしかったですね(笑)。
聚楽よ〜〜💞
見事ですね🙂秀吉ならやりそうですこの聚楽第😊再来年の大河ドラマはこれを参考にしてほしいです。
大河の参考など、到底そんなレベルの出来ではないので、恐れ多いです(笑)。そう言っていただけるだけで満足です。ありがとうございます。
じゅらくよぉ〜❤
なんかめっちゃ好きなんですね(笑)。
豊臣秀吉、僅かな間に、彼方此方に、築城しているんだなあ🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
ものすごいバイタリティーですね。この頃前後の時期が秀吉の最も勢いがあった、絶頂期だったのではないですかね?
墨俣に一夜城(実際は7日)造れるぐらいだし城づくりの名人と言われた秀吉なら短期間で城は造れたんだろうな
すばらしい動画をありがとうございました。大阪城はかなり存在感がありますが、聚楽第は(目に見えていませんので)それほど注意が行きませんでしたが、”城郭としての影響力”は当時かなりあったのだと知ることができました。私の知るかぎり、正親小学校前(中立売通)に解説が少し載っているだけで、全体像などのイメージはつかめませんでしたが、今回の動画で迫力も感じるこができました。
いつもご視聴いただき、ありがとうございます!聚楽第は、おっしゃる通り、地上の痕跡を探すことすら難しくなっていますので、なかなか想像することが難しいですよね。少しでも雰囲気を感じていただければ嬉しいです。
謎に包まれた聚楽第がこうして再現されて観れるのは有り難いことです。秀吉の権威を見せつける豪華絢爛な城だったことは間違いないですよね。秀次の事件があったとは言え、莫大な資金と時間をかけて造られたこの城を壊してしまうとは勿体ないですね〜😢
ご視聴ありがとうございます。豪華絢爛だったのは間違いないと思いますが、動画の方は、特に建物は想像で描いていますので、こんな可能性もあるかも位のつもりでご覧いただけるとありがたいです。これからもよろしくお願いします。
素晴らしい大作ですね🎉私は京都市出身なんですが昔の市内は畑や田んぼだらけで高い建物も無く聚楽第がどこからも観えてどこも見渡せたのも納得です😊この聚楽第こそが真実の姿だと私は信じております😊
ありがとうございます。そう言っていただけるのは大変ありがたいのですが、真実の姿というのは褒め過ぎです(笑)。それにしても少し前まで、市内にそんなに畑や田んぼがあったとは驚きです。遺構についてはこれからの調査で明らかになっていくでしょうが、建物についてはなかなか難しいかもしれませんね。少しでも解明が進むことを願いたいです。
山陰本線(嵯峨野線)は当時の郊外に建設されてますからね。大宮通の西の櫛笥通までが明治初期の市街地だったようです。
足利将軍家の花の御所や、今出川御所、あるいは旧二条城を意識していたのかな?なんて妄想しています🤩。主殿・会所・常御殿に相当する建築物はあったのかな・・・。方形の縄張りは徳川系の城郭にも受け継がれたのかもしれません。
やはり花の御所は当時の武家の建築様式に大きく影響を与えていたようですので、旧二条城も含め、歴史的に受け継がれつつ、新しい要素も付け加えられて進化していったのではないでしょうか。
だとすると、羅御所の位置からして高層の本丸はなかった可能性が高いですね。
徳川二条城よりデカいな聚楽第
広島城なんかは聚楽第をかなり参考に築城されてるなんて言われていますね
様々な資料を分析すると秀吉は私利私欲の為に天下を取り、その力を自らの為に使った、わかりやすい天下人だと思います。対して家康は御家と日本国の為に様々な制度を施しました。どちらも目標に対して正直に真っ直ぐに進んだ結果だと思います。彼らには現在の日本人に備えられていない、気持ちや能力を鑑みる事ができます。
そういう見方もあるんですね。参考になりました!
前に、三井記念美術館で聚楽第図屏風を見たのを思い出しました、、凄く壮麗でした。遺構がほぼ残ってないのが残念ですが、屏風だけでも残してくれていただけでも先人に感謝ですね。(屏風繋がりで思い出しましたが、、安土山図屏風なんとか見つかって欲しいです、、)
いつもご覧いただきありがとうございます。聚楽第と言えば三井記念美術館の屏風絵ですよね。実物は見たことがないですが、やはり壮麗なんですよね。あの屛風の建物、ちょっと独特ですね。今回の中では検討の結果、あまり参考に出来ませんでした。安土城の屛風、本当に見つかるといいですね。
こんな素晴らしい動画を作れるなんて、改めて主さんのCG技術の高さに感動しました😊聚楽第まだわからないことがたくさんありますがいつか解明してほしいですね😊😊
恐縮です。まだまだですが、頑張りますので、これからもよろしくお願いします。聚楽第、本当に今後もたくさんの発見があって、少しでも謎が解明されるといいですね。
大徳寺唐門や西本願寺の飛雲閣が聚楽第から移築されたものだと言われてますしそう言う建物がどこにあったかがわかるともっと楽しそうですね。
飛雲閣はともかく、大徳寺の唐門は、修理の際に天正の刻銘が発見されているようですので、ひょっとすると可能性があるかもしれませんね。これからの発見に期待したいですね。
一度後の仙洞御所の場所に造られた京都新城に移築されたんでしょ
ありがとうございます!第はたぶん、台と同義で台は宮殿のことだから城郭と違って天守閣はなかったかもです内裏を見下ろすところに天守を建てるかなあ?秀吉ならやりかねないけど
ご指摘ありがとうございます。そうですね。天守は、あくまでも1つの可能性という事でご覧ください。
これほどの城を壊して跡形も無くすとは秀次に対し切腹を命じた秀吉の動機に未だ全く分かってない深いものがあるのではと想像してしまいます。
本当に徹底的に破壊されてしまいましたね。少しでも謎が解明されるといいですが。
理由は何でもよく、兎に角秀頼が誕生したことにより、存在そのものが邪魔になり、この世から抹殺したかったのでしょう。聚楽第の破壊や責任の無い女子供含む一族を処刑したのもその延長上だと思います。そういう意味では、秀吉の晩年は信長に匹敵かそれ以上の残忍さですね。再来年の大河「豊臣兄弟」ではどこまでそのあたりが表現されるのでしょうか興味あります。
聚楽第はどのような城だったのか子供の頃から興味がありましたが、ようやくその全貌を観ることができました。豊臣政権の権力の象徴として聚楽第を残しておくべきだったと思います。もし聚楽第を秀吉が破却せずに残しておいたら歴史が変わったかもしれません。特に大阪の陣では豊臣方が京都制圧の拠点にできたのではないかと思います。
残っていたらさぞ凄い城だったでしょうね。
歴史部所属の高校生ですがこのような再現技術があると過去の様子がわかって学びになります…
こんな若い方に視聴していただき、うれしいです。ありがとうございます。若いんですから、もしやろうと思えば私よりずっと素晴らしい映像を作れると思いますよ。いろいろな事に頑張ってください!
ん~ 聚楽よっ♡
最近では、「じゅらくてい」と呼ばれていたとする説がよく聞かれるようになりました。かつての文献などでは「聚楽亭」「聚楽邸」表記もあるそうです。一方で、地元の人の多く(特に高齢者)は、「じゅらくだい」と呼んでいる気がします。
そうなんですね。興味深い情報ありがとうございます。私も高齢者なので「じゅらくだい」を使ってます(笑)。
お疲れ様です!聚楽第ありがとうございました!初めて動画を見させて頂いた際にコメントで、聚楽第が見たいと言ったときに現在予定中と言われなんてラッキーかと、そこから楽しみにしておりました!満足ついでに、織豊期の京の街を知りたいです!(笑)いつかやって頂けるととても嬉しいです。聚楽第ご苦労さまでした!
ありがとうございます。ですが・・・次は織田信長の時代の京都の街並みを再現しようと思ってるんです。やっぱり盗聴器か隠しカメラ仕掛けてますよね(笑)。また遊びに来てくださいね!
萩の常念寺の門が聚楽第の裏門と伝えられる。輝元公が秀吉から拝領して広島から萩に移築した。秀吉により下賜された聚楽第の一部が日本各地とんでもないところに残っているかもしれないですね。近所の屋敷の芝門は聚楽第の茶室の芝門と伝えられていたがまんざら眉唾ではないかもしれない。
いつもご視聴ありがとうございます。貴重な情報ありがとうございます。知りませんでした。今後の参考にさせていただきます。ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。
場所的には堀川通から下立売通と出水通を西へ行った辺りですね。
松林寺の窪地の事ですかね? だとすればその通りですね。
素晴らしい!本当にお疲れさまでした。1586年といえば関白になったとはいえ、翌年には九州征伐も行なわれます。秀吉の財力にもあらためて驚かされますね。
恐縮です。ありがとうございます。本当にこの頃の秀吉の財力、バイタリティーは凄いですね。この前後の時代が秀吉の一番輝いていた時期だったのではないでしょうか。
@@yamajiro さま豊臣家は関ケ原戦で収入源のほとんどを喪失しましたが15年後の大坂の陣でも10万近い兵を動員できる財力を保持していました。天下を引き継いだ徳川家(幕府)が260年間慢性的な資金難だったのと比べると秀吉のスゴさに驚くばかりです。
聚楽よお!
友人が「聚楽廻り」って地名のところに住んでいてなんとなく聚楽第はこの辺なのかなーって思ってましたその友人は,千本丸太町西入る辺りに住んでいました
聚楽廻りという地名があるんですね。調べてみると確かに聚楽第の周辺部のように見えます。地名はちゃんと当時のことを伝えているんですね。興味深い情報ありがとうございました。
御旅所でしたっけ? 神輿が運び込まれるところって。東の堀のところに何年か前まで存在してましたね。今は石畳みのみ残されていますが、土に埋もれて見ることができなくなりました。遠く離れた豊国神社から神輿を担がせようとしたようです。あと聚楽第の井戸ではないかと言われているものは、そろそろ壊されて無くなりそうです。東堀は完全埋め立てられましたが、地盤は柔らかいままなのでビルの建設時には、他のところと比べて余計に金がかかるそうです。西堀は中途半端な埋め方をしたので、堀の痕跡が残っています。
貴重な情報ありがとうございます。そうなんですね。井戸はある屋に聞いていましたが、入れなかったような気が。案内していただきたかったですね(笑)。
聚楽よ!
聚楽代の壮大荘厳であったであろう建築物は何処かに移築したのだろうか?なんとなく気になります。
「西本願寺の飛雲閣」「大徳寺唐門」「妙覚寺大門」「妙心寺播桃院玄関」が聚楽第の遺構と伝わっているそうですが、どうでしょうか。飛雲閣は違うとの意見が強いようですね。
@@yamajiro そうなんですね、ありがとうございます。
秀吉の収入源は一体なんなんだろう?これだけ存命中に散財しまくったにも関わらずかか、大坂の陣であれだけ人を集められるほど資金が残っていたのが信じられない
私にも説明できませんが、確かに無尽蔵なのではないかと思うくらいの使い方をしているように思えますね。
やはり最大なのは全国の金銀銅などの鉱山を調べ上げて事実上全て支配下においたからかと。この時代は新しいく鉱山が次々に見つかり開発されてた時代でもありますし。ってか秀吉公が探しまくった結果かと。
@@nandakana68 ご教示ありがとうございます。
京都に行くと、聚楽第跡地の石碑がある場所には、「聞かれても分かりません」との趣旨の看板がある。京都人らしい看板だな。秀吉の居城は、大阪城ではなく、伏見なはずだが。
秀吉の居城は最終的には伏見城ですが、時期によって変わるんじゃないですかね?
これを取り壊してしまったのは勿体ないですね~なんかで読みましたが、御土居は聚楽第の総構えとして作ったとか。
武将て、躊躇なく城を壊すよな。安土城でさえ、破壊されてるから本当にあったのかどうか分からない。
そうですね。またその辺りのことも取り上げますので、よろしければご覧ください。
なんでこんなに痕跡が残っていないのかが不思議です。秀次のことが関係あるのでしょうか?
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。多分そうだと思いますよ。
聚楽第図屏風によれば天守の最上階は、花頭窓やないか。壁は白やないか。天守は再構成するとよい
ご指摘いただき、ありがとうございます。天守の最上階は火灯窓とのご指摘はその通りでして、正確に反映するのではあれば火灯窓にすべきですね。ちょっと遊んでしまいました。壁の色は、白い可能性ももちろんあると思いますが、製作前の専門家の方との打ち合わせで、当時の秀吉の城が下見板張り(漆塗り)ではないと考える方が難しいのではとのコメントをいただいたので、今回はこのような形で表現しました。あくまでも1つの可能性という事でご容赦ください。
個人的には西本願寺にある飛雲閣は聚楽第の天守を改造して移築したものだと推察想像している。
新たな発見があるといいですね。
名称から分るとうり城ではなく宮殿ですね天守閣は有ったのでしょうか?
ご指摘ありがとうございます。天守は諸説あるようですがここではいつも相談している城郭研究の専門家の方の助言に従って、5層、下見板張りの天守として製作しましたが、1つの可能性ということでご理解ください。
大極殿にあった豊極殿
当時は聚楽第が天皇の御所より規模でかかったらしいです
かなり大きかったようですね。
大作をありがとうございます。内野(内裏)に建てたということは太閤さんは天皇にでもなろうとしてたのかしら?この外側に御土居を作ったってことですかね?歴史のロマンを感じます。
天皇になろうとしていたというよりは、朝廷の権威をバックに新しい秩序を作り上げようとしていたのではないでしょうか。御土居は聚楽第の総構えとして、また京都の新たな町づくりの一環として築かれたのではないでしょうか。今後取り上げていきますので、また機会がありましたらご覧ください。
@@yamajiro 返信ありがとうございます。楽しみにしております。
内裏の1角って、なかなか貴族には屈辱的やな。
江戸時代になって今の御所の所に貴族たちが集められたので、現在の京都御所の敷地の多くは貴族の屋敷跡のようです。ですので御所の大きさ自体はそれほど変わっていないかもしれません。もちろん平安宮と比べると流石に小さいでしょうが。
聚楽第が残ってたらなぁ・・・
もし残っていたら壮観だったでしょうね。
西本願寺に移設されたものがあったような
飛雲閣の事ですよね? 今は否定的な意見が多かったように思います。
@ そうなんですね。ありがとうございます。
こんばんは、まぁ仕方無いでしょうね、秀吉が正気を失って秀頼可愛さから、今は、CGから推測するしか聚楽第は、有りませんが、甥の秀次を押し込めた場所でも有るし、覚えて置きたくなかったんでしょうね、秀次とその一族、そして秀次に嫁いだお姫さんも処刑したのですから、高齢者が正気を失うと本当に怖いです、私は、それを一ヶ月半経験しましたから
そうなんですか。大変でしたね。晩年の秀吉は狂気じみていて、周囲の家臣は気が気でなかった気がします。
お恥ずかしい事に聚楽第はじめ安土桃山時代の事は殆ど知りません。どうして2条城のすぐ近くに建てられたのか又なぜそれほど大掛かりな建造物が何も残る事が無かったのでしょうか❓普通は戦に敗れたとしてもある程度は残って別の大名が住んだりしてますよね。
徳川の二条城の近くにというのは結果論でしょうか。聚楽第が建てられた場所は、当時は上京の集落が途切れて、まとまった土地が確保できたからではないでしょうか。秀次に聚楽第を譲った後、秀吉が秀次の一族郎党を処刑したため、秀次の居城である聚楽第も徹底的に破壊されたようです。
➡➡ 6:50 なるほど・・・これが内裏・・・世界に冠たる 大日本とやらの・・・エンペラーの権力・権威の象徴・・・かいな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
位置的にはここでいいと思うんですが、アップにすると耐えられないのでこれだけの表現にしました。次回以降の京都の町の再現では、もう少し近くまで寄って紹介できるようにしたいと思います。
信長なら洛中に城や邸宅を作ることはなかったと思いますが、そこは秀吉の大胆さだと思います。
信長が内裏跡に作らなかったという意味ですかね? 秀吉は確かに大胆ですね!
@@yamajiro 信長は京都と距離を置いていたと思います。そして大坂の上町台地付近に城を建てていたと思われます。博多付近も貿易を行うための拠点にしていたと思います。
聚楽第、伏見城、大阪城と権勢をふるった代償は滅亡と言う形になってしまった😢
晩年の行いが酷かったですね。
相変わらず有料化・書籍化等々されても良いレベル!
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jgaa0828様、大変失礼いたしました。今回が3回目であることを先ほどRUclipsの通知で知りました。本当にありがとうございます。これからも出来る限り史実に基づいたわかりやすい動画づくりを心掛けていきますので、引き続きよろしくお願いいたします。
ありがとうございます!
恐縮です。こちらこそありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
考古学的根拠のある部分とロマンの部分をきちんと腑分けされており素晴らしい。正確に知識を深められるとともにワクワクする。
最高!
ありがとうございます。恐縮です。また機会がありましたらチャンネルに遊びに来てくださいね!
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最高の動画ありがとうございます😊
ありがとうございます!
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ありがとうございます! ようやくアップ出来ました。これからもよろしくお願いします。
素晴らしい動画をありがとうございます。京都は数え切れないくらい彷徨いましたが、聚楽第の痕跡を感じた事は本当に全くありません。応仁の乱の方がまだ残っていますよね。白峯神社や晴明神社が近く確実に歩いているはずですが…
御土居は未だに残る為秀吉時代の遺物としてはこちらの方が印象に残ります。御苑もかつては公家の邸宅があったという実感がわかないので、意外と京は変わる街でもあり、非常に勉強になりました!
ご視聴ありがとうございます。本当に聚楽第は痕跡すら少ないですね。御土居も取り上げていきますので、またよろしければご覧ください。
20年位前に聚楽廻東町に住んでいました。千本挟んだ反対側が主税町でした。こんな全容のお城だったのかと興味深く拝見しました。
そうなんですね。聚楽第はほとんど痕跡しか残っていないので、イメージしにくいですよね。あくまでもこんな感じだったかなくらいで思っていただけるとありがたいです。
大作、有難うございます!日本文化史では安土桃山と江戸初期が私の最もお気に入りなのでワクワクでした。上京区や中京区では上る、西入るなどを使った通り名だけの住所が主で、町名を使うのは学区内の登下校グループ分けの時ぐらいでした。今はオンラインマップで町名も出てきますが、戦国大名ゆかりの町名が洛内にあったのが新鮮でした。伏見区のは良く知られてますが。因みに私が生まれた家の町名は平安京の小路由来でした。
こちらこそご覧いただきありがとうございます。京都の町には、結構戦国時代に由来のある町名があるんですね。これから戦国時代の京都の町並について動画にしていこうと思っていますので、またよろしければご覧ください。
素晴らしい聚楽第復元動画でした。感嘆しました。何度かリピート視聴したい動画です。
高岡城は前田利長の隠居城だったと記憶しています。前田利長としては懐かしい聚楽第を想い縄張りだけでもと築城したのかなと。
恐縮です。ありがとうございます。聚楽第は各地の城作りに影響を与えていたようですね。
城郭CG復元作業お疲れ様です。
謎の「聚楽第」が朧げでも全体像が見れるのは有難いです!
ご視聴ありがとうございます。今回の動画は、特に建物は想像で描いていますので、こんな可能性もあるかも位のつもりでご覧いただけるとありがたいです。これからも新たな発見があるといいですね。
天守から見渡す山々、見下ろす御所、秀吉が見たであろう風景ですね✨天下人になった気分がちょっと 味わえました〜爽快❗
可能性ですが、こういう事もあり得たかもしれませんね。
微かに残っているのが凄い
もう少し残してほしかったですね(笑)。
聚楽よ〜〜💞
見事ですね🙂秀吉ならやりそうですこの聚楽第😊再来年の大河ドラマはこれを参考にしてほしいです。
大河の参考など、到底そんなレベルの出来ではないので、恐れ多いです(笑)。そう言っていただけるだけで満足です。ありがとうございます。
じゅらくよぉ〜❤
なんかめっちゃ好きなんですね(笑)。
豊臣秀吉、僅かな間に、彼方此方に、築城しているんだなあ🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉
ものすごいバイタリティーですね。この頃前後の時期が秀吉の最も勢いがあった、絶頂期だったのではないですかね?
墨俣に一夜城(実際は7日)造れるぐらいだし
城づくりの名人と言われた秀吉なら短期間で城は造れたんだろうな
すばらしい動画をありがとうございました。大阪城はかなり存在感がありますが、聚楽第は(目に見えていませんので)それほど注意が行きませんでしたが、”城郭としての影響力”は当時かなりあったのだと知ることができました。私の知るかぎり、正親小学校前(中立売通)に解説が少し載っているだけで、全体像などのイメージはつかめませんでしたが、今回の動画で迫力も感じるこができました。
いつもご視聴いただき、ありがとうございます!聚楽第は、おっしゃる通り、地上の痕跡を探すことすら難しくなっていますので、なかなか想像することが難しいですよね。少しでも雰囲気を感じていただければ嬉しいです。
謎に包まれた聚楽第がこうして再現されて観れるのは有り難いことです。
秀吉の権威を見せつける豪華絢爛な城だったことは間違いないですよね。
秀次の事件があったとは言え、莫大な資金と時間をかけて造られたこの城を壊してしまうとは勿体ないですね〜😢
ご視聴ありがとうございます。豪華絢爛だったのは間違いないと思いますが、動画の方は、特に建物は想像で描いていますので、こんな可能性もあるかも位のつもりでご覧いただけるとありがたいです。これからもよろしくお願いします。
素晴らしい大作ですね🎉
私は京都市出身なんですが昔の市内は畑や田んぼだらけで高い建物も無く聚楽第がどこからも観えてどこも見渡せたのも納得です😊
この聚楽第こそが真実の姿だと私は信じております😊
ありがとうございます。そう言っていただけるのは大変ありがたいのですが、真実の姿というのは褒め過ぎです(笑)。それにしても少し前まで、市内にそんなに畑や田んぼがあったとは驚きです。遺構についてはこれからの調査で明らかになっていくでしょうが、建物についてはなかなか難しいかもしれませんね。少しでも解明が進むことを願いたいです。
山陰本線(嵯峨野線)は当時の郊外に建設されてますからね。大宮通の西の櫛笥通までが明治初期の市街地だったようです。
足利将軍家の花の御所や、今出川御所、あるいは旧二条城を意識していたのかな?なんて妄想しています🤩。主殿・会所・常御殿に相当する建築物はあったのかな・・・。方形の縄張りは徳川系の城郭にも受け継がれたのかもしれません。
やはり花の御所は当時の武家の建築様式に大きく影響を与えていたようですので、旧二条城も含め、歴史的に受け継がれつつ、新しい要素も付け加えられて進化していったのではないでしょうか。
だとすると、羅御所の位置からして高層の本丸はなかった可能性が高いですね。
徳川二条城よりデカいな聚楽第
広島城なんかは聚楽第をかなり参考に築城されてるなんて言われていますね
様々な資料を分析すると秀吉は私利私欲の為に天下を取り、その力を自らの為に使った、わかりやすい天下人だと思います。対して家康は御家と日本国の為に様々な制度を施しました。どちらも目標に対して正直に真っ直ぐに進んだ結果だと思います。彼らには現在の日本人に備えられていない、気持ちや能力を鑑みる事ができます。
そういう見方もあるんですね。参考になりました!
前に、三井記念美術館で聚楽第図屏風を見たのを思い出しました、、凄く壮麗でした。
遺構がほぼ残ってないのが残念ですが、屏風だけでも残してくれていただけでも先人に感謝ですね。
(屏風繋がりで思い出しましたが、、安土山図屏風なんとか見つかって欲しいです、、)
いつもご覧いただきありがとうございます。聚楽第と言えば三井記念美術館の屏風絵ですよね。実物は見たことがないですが、やはり壮麗なんですよね。あの屛風の建物、ちょっと独特ですね。今回の中では検討の結果、あまり参考に出来ませんでした。安土城の屛風、本当に見つかるといいですね。
こんな素晴らしい動画を作れるなんて、改めて主さんのCG技術の高さに感動しました😊
聚楽第まだわからないことがたくさんありますがいつか解明してほしいですね😊😊
恐縮です。まだまだですが、頑張りますので、これからもよろしくお願いします。聚楽第、本当に今後もたくさんの発見があって、少しでも謎が解明されるといいですね。
大徳寺唐門や西本願寺の飛雲閣が聚楽第から移築されたものだと言われてますしそう言う建物がどこにあったかがわかるともっと楽しそうですね。
飛雲閣はともかく、大徳寺の唐門は、修理の際に天正の刻銘が発見されているようですので、ひょっとすると可能性があるかもしれませんね。これからの発見に期待したいですね。
一度後の仙洞御所の場所に造られた京都新城に移築されたんでしょ
ありがとうございます!
第はたぶん、台と同義で
台は宮殿のことだから城郭と違って天守閣はなかったかもです
内裏を見下ろすところに天守を建てるかなあ?
秀吉ならやりかねないけど
ご指摘ありがとうございます。そうですね。天守は、あくまでも1つの可能性という事でご覧ください。
これほどの城を壊して跡形も無くすとは秀次に対し切腹を命じた秀吉の動機に未だ全く分かってない深いものがあるのではと想像してしまいます。
本当に徹底的に破壊されてしまいましたね。少しでも謎が解明されるといいですが。
理由は何でもよく、兎に角秀頼が誕生したことにより、存在そのものが邪魔になり、この世から抹殺したかったのでしょう。聚楽第の破壊や責任の無い女子供含む一族を処刑したのもその延長上だと思います。そういう意味では、秀吉の晩年は信長に匹敵かそれ以上の残忍さですね。再来年の大河「豊臣兄弟」ではどこまでそのあたりが表現されるのでしょうか興味あります。
聚楽第はどのような城だったのか子供の頃から興味がありましたが、ようやくその全貌を観ることができました。
豊臣政権の権力の象徴として聚楽第を残しておくべきだったと思います。
もし
聚楽第を秀吉が破却せずに残しておいたら歴史が変わったかもしれません。
特に大阪の陣では豊臣方が京都制圧の拠点にできたのではないかと思います。
残っていたらさぞ凄い城だったでしょうね。
歴史部所属の高校生ですがこのような再現技術があると過去の様子がわかって学びになります…
こんな若い方に視聴していただき、うれしいです。ありがとうございます。若いんですから、もしやろうと思えば私よりずっと素晴らしい映像を作れると思いますよ。いろいろな事に頑張ってください!
ん~ 聚楽よっ♡
最近では、「じゅらくてい」と呼ばれていたとする説がよく聞かれるようになりました。かつての文献などでは「聚楽亭」「聚楽邸」表記もあるそうです。
一方で、地元の人の多く(特に高齢者)は、「じゅらくだい」と呼んでいる気がします。
そうなんですね。興味深い情報ありがとうございます。私も高齢者なので「じゅらくだい」を使ってます(笑)。
お疲れ様です!
聚楽第ありがとうございました!
初めて動画を見させて頂いた際にコメントで、聚楽第が見たいと言ったときに現在予定中と言われなんてラッキーかと、そこから楽しみにしておりました!
満足ついでに、織豊期の京の街を知りたいです!(笑)
いつかやって頂けるととても嬉しいです。
聚楽第ご苦労さまでした!
ありがとうございます。ですが・・・次は織田信長の時代の京都の街並みを再現しようと思ってるんです。やっぱり盗聴器か隠しカメラ仕掛けてますよね(笑)。また遊びに来てくださいね!
萩の常念寺の門が聚楽第の裏門と伝えられる。輝元公が秀吉から拝領して広島から萩に移築した。
秀吉により下賜された聚楽第の一部が日本各地とんでもないところに残っているかもしれないですね。
近所の屋敷の芝門は聚楽第の茶室の芝門と伝えられていたがまんざら眉唾ではないかもしれない。
いつもご視聴ありがとうございます。貴重な情報ありがとうございます。知りませんでした。今後の参考にさせていただきます。ありがとうございました。今年もよろしくお願いします。
場所的には堀川通から下立売通と出水通を西へ行った辺りですね。
松林寺の窪地の事ですかね? だとすればその通りですね。
素晴らしい!本当にお疲れさまでした。
1586年といえば関白になったとはいえ、翌年には九州征伐も行なわれます。秀吉の財力にもあらためて驚かされますね。
恐縮です。ありがとうございます。本当にこの頃の秀吉の財力、バイタリティーは凄いですね。この前後の時代が秀吉の一番輝いていた時期だったのではないでしょうか。
@@yamajiro さま
豊臣家は関ケ原戦で収入源のほとんどを喪失しましたが15年後の大坂の陣でも10万近い兵を動員できる財力を保持していました。天下を引き継いだ徳川家(幕府)が260年間慢性的な資金難だったのと比べると秀吉のスゴさに驚くばかりです。
聚楽よお!
友人が「聚楽廻り」って地名のところに住んでいて
なんとなく聚楽第はこの辺なのかなーって思ってました
その友人は,千本丸太町西入る辺りに住んでいました
聚楽廻りという地名があるんですね。調べてみると確かに聚楽第の周辺部のように見えます。地名はちゃんと当時のことを伝えているんですね。興味深い情報ありがとうございました。
御旅所でしたっけ? 神輿が運び込まれるところって。東の堀のところに何年か前まで存在してましたね。今は石畳みのみ残されていますが、土に埋もれて見ることができなくなりました。遠く離れた豊国神社から神輿を担がせようとしたようです。あと聚楽第の井戸ではないかと言われているものは、そろそろ壊されて無くなりそうです。東堀は完全埋め立てられましたが、地盤は柔らかいままなのでビルの建設時には、他のところと比べて余計に金がかかるそうです。西堀は中途半端な埋め方をしたので、堀の痕跡が残っています。
貴重な情報ありがとうございます。そうなんですね。井戸はある屋に聞いていましたが、入れなかったような気が。案内していただきたかったですね(笑)。
聚楽よ!
聚楽代の壮大荘厳であったであろう建築物は何処かに移築したのだろうか?
なんとなく気になります。
「西本願寺の飛雲閣」「大徳寺唐門」「妙覚寺大門」「妙心寺播桃院玄関」が聚楽第の遺構と伝わっているそうですが、どうでしょうか。飛雲閣は違うとの意見が強いようですね。
@@yamajiro そうなんですね、ありがとうございます。
秀吉の収入源は一体なんなんだろう?これだけ存命中に散財しまくったにも関わらずかか、大坂の陣であれだけ人を集められるほど資金が残っていたのが信じられない
私にも説明できませんが、確かに無尽蔵なのではないかと思うくらいの使い方をしているように思えますね。
やはり最大なのは全国の金銀銅などの鉱山を調べ上げて事実上全て支配下においたからかと。
この時代は新しいく鉱山が次々に見つかり開発されてた時代でもありますし。
ってか秀吉公が探しまくった結果かと。
@@nandakana68 ご教示ありがとうございます。
京都に行くと、聚楽第跡地の石碑がある場所には、「聞かれても分かりません」との趣旨の看板がある。京都人らしい看板だな。
秀吉の居城は、大阪城ではなく、伏見なはずだが。
秀吉の居城は最終的には伏見城ですが、時期によって変わるんじゃないですかね?
これを取り壊してしまったのは勿体ないですね~
なんかで読みましたが、御土居は聚楽第の総構えとして作ったとか。
武将て、躊躇なく城を壊すよな。安土城でさえ、破壊されてるから本当にあったのかどうか分からない。
そうですね。またその辺りのことも取り上げますので、よろしければご覧ください。
なんでこんなに痕跡が残っていないのかが不思議です。秀次のことが関係あるのでしょうか?
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。多分そうだと思いますよ。
聚楽第図屏風によれば天守の最上階は、花頭窓やないか。壁は白やないか。天守は再構成するとよい
ご指摘いただき、ありがとうございます。天守の最上階は火灯窓とのご指摘はその通りでして、正確に反映するのではあれば火灯窓にすべきですね。ちょっと遊んでしまいました。壁の色は、白い可能性ももちろんあると思いますが、製作前の専門家の方との打ち合わせで、当時の秀吉の城が下見板張り(漆塗り)ではないと考える方が難しいのではとのコメントをいただいたので、今回はこのような形で表現しました。あくまでも1つの可能性という事でご容赦ください。
個人的には西本願寺にある飛雲閣は聚楽第の天守を改造して移築したものだと推察想像している。
新たな発見があるといいですね。
名称から分るとうり城ではなく宮殿ですね
天守閣は有ったのでしょうか?
ご指摘ありがとうございます。天守は諸説あるようですがここではいつも相談している城郭研究の専門家の方の助言に従って、5層、下見板張りの天守として製作しましたが、1つの可能性ということでご理解ください。
大極殿にあった豊極殿
当時は聚楽第が天皇の御所より規模でかかったらしいです
かなり大きかったようですね。
大作をありがとうございます。内野(内裏)に建てたということは太閤さんは天皇にでもなろうとしてたのかしら?この外側に御土居を作ったってことですかね?歴史のロマンを感じます。
天皇になろうとしていたというよりは、朝廷の権威をバックに新しい秩序を作り上げようとしていたのではないでしょうか。御土居は聚楽第の総構えとして、また京都の新たな町づくりの一環として築かれたのではないでしょうか。今後取り上げていきますので、また機会がありましたらご覧ください。
@@yamajiro 返信ありがとうございます。楽しみにしております。
内裏の1角って、なかなか貴族には屈辱的やな。
江戸時代になって今の御所の所に貴族たちが集められたので、現在の京都御所の敷地の多くは貴族の屋敷跡のようです。ですので御所の大きさ自体はそれほど変わっていないかもしれません。もちろん平安宮と比べると流石に小さいでしょうが。
聚楽第が残ってたらなぁ・・・
もし残っていたら壮観だったでしょうね。
西本願寺に移設されたものがあったような
飛雲閣の事ですよね? 今は否定的な意見が多かったように思います。
@ そうなんですね。ありがとうございます。
こんばんは、まぁ仕方無いでしょうね、秀吉が正気を失って秀頼可愛さから、今は、CGから推測するしか聚楽第は、有りませんが、甥の秀次を押し込めた場所でも有るし、覚えて置きたくなかったんでしょうね、秀次とその一族、そして秀次に嫁いだお姫さんも処刑したのですから、高齢者が正気を失うと本当に怖いです、私は、それを一ヶ月半経験しましたから
そうなんですか。大変でしたね。晩年の秀吉は狂気じみていて、周囲の家臣は気が気でなかった気がします。
お恥ずかしい事に聚楽第はじめ安土桃山時代の事は殆ど知りません。どうして2条城
のすぐ近くに建てられたのか又なぜそれほど大掛かりな建造物が何も残る事が無かった
のでしょうか❓普通は戦に敗れたとしてもある程度は残って別の大名が住んだりして
ますよね。
徳川の二条城の近くにというのは結果論でしょうか。聚楽第が建てられた場所は、当時は上京の集落が途切れて、まとまった土地が確保できたからではないでしょうか。秀次に聚楽第を譲った後、秀吉が秀次の一族郎党を処刑したため、秀次の居城である聚楽第も徹底的に破壊されたようです。
➡➡ 6:50 なるほど・・・これが内裏・・・世界に冠たる 大日本とやらの・・・エンペラーの権力・権威の象徴・・・かいな。😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬😬
位置的にはここでいいと思うんですが、アップにすると耐えられないのでこれだけの表現にしました。次回以降の京都の町の再現では、もう少し近くまで寄って紹介できるようにしたいと思います。
信長なら洛中に城や邸宅を作ることはなかったと思いますが、そこは秀吉の大胆さだと思います。
信長が内裏跡に作らなかったという意味ですかね? 秀吉は確かに大胆ですね!
@@yamajiro
信長は京都と距離を置いていたと思います。
そして大坂の上町台地付近に城を建てていたと思われます。
博多付近も貿易を行うための拠点にしていたと思います。
聚楽第、伏見城、大阪城と権勢をふるった代償は滅亡と言う形になってしまった😢
晩年の行いが酷かったですね。