【岩櫃城】真田が勝頼を迎えようとした山城は幕府に警戒された城塞都市だった?
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- Опубликовано: 31 янв 2025
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群馬県吾妻郡にある岩櫃城は、武田家臣として真田家が攻略した山城です。上田城を築く前に真田昌幸が本拠とした地でもあり、武田家滅亡の際には主君勝頼をこの城に招き、織田徳川軍と決戦を行う考えがあったと言われています。武田家滅亡後も岩櫃城は真田領国の中間拠点として重要視され、平川戸を言われる城下集落の繁栄は遠く江戸の徳川家康の耳にも入っていたと伝わります。一国一城令により城も集落も廃されました。現在は登山道とともに城址見学ルートが整備されています。
これが岩櫃城ですね。
すばらしい。
丁寧なコメント、よいですね。
非常に面白かったです! めちゃ分かりやすい解説!!
いまから30年ぐらい前か、「真田丸」ではなく「真田太平記」が再放送されているのをたまたま見始めて以来真田ファンです。リアルな岩櫃城を知ることができ感慨深い!
ありがとうございました!
岩櫃城をこの動画で初めて知りました。大変分かりやすく最後まで飽きない素晴らしい動画でした。案内所でも採用したら訪れた人がより一層岩櫃城に興味や知識を持つと思います。
素晴らしい動画を拝見できて感謝します。
現地をよく歩かれて資料も充実していてとても分かりやすい。素晴らしい動画ですね。
信長の野望もこれぐらの城を築けたり、実際にあったら、興奮して寝れなくなりそうだ.素晴らしい動画でした。ありがとうございました。
とてもわかりやすい解説
江戸時代にとても興味がありゾクゾクしながら拝聴しています。
池波正太郎さんの真田太平記を、ワクワクしながら読み、その舞台を知ることができ、嬉しい限りです。ありがとうございます。
すごく分かり易い解説で
ナレーションも上手い
テンポも速すぎず聴いてて心地良かったです。
やっぱ人の声が一番。
是非、この城跡に行ってみてみようと思いましたよ。最高の解説動画だ
城マニアにはたまらないですね。解説もとてもわかりやすいです。
1度行きましたよ。凄いぎゅ勾配。良くここに城を作り上げる昔ながら凄い。休み休みやつと頂上疲れましたよ。この動画を見て改めて素晴らしい城ですね。😁✌️
実際映像で見たら凄い楽しく見れました。ありがとう。
60歳を回るとコロナと体力的に歴史は好きでも北海道から出れなくなりました。
コレからも試聴という形で応援していきます!
頑張ってください
ありがとうございます。歴史は本当に面白いですね!
この方のナレーションが上手い!変なソフトを使わず落ち着いて丁重にゆっくり。解説とはこうあるべきだと思います。
ありがとうございます。励みになります!
「城」というとどうしても天守を中心とした建築物に目が行きがちですが、「地形」というのも立派な城の一部であり、そこにも見所があることを岩櫃は教えてくれるような気がします。
そうですね。私もどちらかというと城全体的に見たいのです。
真面目な解説、いい声、頑張ってね👍
めっちゃいい動画ですね!
これはウチに来てくれたら持ちこたえますよ!って言うわなぁ…
ここは実際に行ってみると、城域を含めた素晴らしさが良く分かりますね!とにかく広くて堅固!
分かりやすい落ち着いた解説と画面。素晴らしい動画でした。10年前まで群馬・栃木担当で、よく車で通っていただけに、何故岩櫃城跡に寄らなかったのかと残念です。行っておけばよかった。
戦国史が好きな輩です。岩櫃城のことについては識っていたが、ナレーターの分かり易く、話し方もゆっくりと話されてよかったです👍。機会があれば一度、訪れてみたいです。紹介有難う御座います。┏○ペコッ
真田氏はよく生き残ったものだと思いますね。
地政学的にも謀略的にも地形的にも最大利用してきたのでしょうね。
まさに戦国の雄。
出丸の役割をする柳沢城と一体の岩櫃城は、下総の臼井城と構造が共通すると思いました。間に谷状の根小屋があるところも同じでこのよう城は中々落ちない。
10年ほど前の大雪が降った翌日に、駅から徒歩で登城したんですが、別ルートよのうです。急勾配で汗だくになったのは同じですが。
ここに勝頼が籠ったら?と思うとワクワクしますよね。
動画の編集と解説がとても分かりやすかったです。
行ったことがありますがなかなかの急登で攻めるのは難儀するだろうなと感じる城址でしたね。後方にそびえる岩櫃山もさることなが尾根道も細くまさに天然の要害でした
このときにこの城で戦っておられましたら真田丸さながらの戦いとなったことでしょう😊織田軍もビビったかもしれませんね😅
島津の鶴丸城をさらに近代化した感じですね。島津の鶴丸城もわき水と食べれる食糧豊富な後ろの城山に逃げれて城山に砦ありましたから鶴丸城の防衛力は貧弱でも城山あわせた防御力は高い城でしたが真田は山を要塞化していますね。
鹿児島行ってみたいです!
小説読みながら、併せて見たい動画!!
最高です!!
グンマーの城や歴史的なものを扱っている施設などは、群馬人でも行くの大変なので、こんなに綺麗に丁寧に動画で見れるならこの方がいいとか思う程 良くまとまってて有難い動画だと思います。
遠方から来られる方はレンタカーは借りた方が良いと思います。群馬は車ありき前提の県なので^^;
高崎から草津温泉に行くときに、岩櫃山が見えると、山道終わったと一息入れていました。
草津温泉行くときに高崎から車で向かえば、岩櫃城は寄りやすいですよ。温泉とセットで楽しんでください
ここ岩櫃には、杉並区のコニファー岩櫃がありそこへ泊り車で案内所まで行きましたが1月の寒い時で閉まっていました。たぶん今も阿佐ヶ谷からコニファー岩櫃迄直送のバスが出ています(杉並区民は安く乗れますが)その辺りは何もなくただそこの温泉が良かったです。暖かな時に城跡迄歩いて行ってみたいです。ありがとうございました。
ありがとうございます。温泉いいですね!
故郷の事が話題に上がるのは、嬉しい🎶
岩櫃城は未訪問ですので、映像が大変参考になりました。有り難うございます。
素晴らしい城岩櫃城👍👏👏
日本100低山で見て、気軽に行けない所だと思い知らされました。
山城って移動大変よね💦
山頂まで行くのは大変そうですね!岩櫃城の本丸は中腹だったので私は助かりました
小さいころに読んだ真田幸村の漫画で、関ヶ原前、隠居時の昌幸、幸村親子の背景が岩山だった謎が解けた!(゚∀゚)
潜龍院跡に行くなら密岩神社にも寄るとそこから見る岩櫃山が荘厳でお薦めです。
ちなみにこちらのルートから岩櫃山に登るとキツいです。
城から登った方が楽ですが、潜龍院跡に行こうと山頂から降るにしても
結構急なので知らない登山初心者の方は危ないので要注意。
一度訪れてみたいです。
こんなに整備される前に訪れました。下の道から上がる際に潰れた宿の廃墟があってちょっと不気味でした。草津温泉へ行くついでに行ってみたのですけど杉並区の保養所の「コニファー岩櫃」が突如現れ驚いた記憶があります。既に区で問題になったので売られたんじゃないでしょうかね?
あの城は凄いよ~昌幸もあそこに籠ったら徳川も絶対に手が出なかったね!
駐車城から、本丸に登ったけど、そこは馬も登れない階段だらけだった。川から駐車場までに行く、山道、峠、山間の農家の家とかが岩櫃城なのかと思いました。複雑な自然の地形のため、攻め込みにくそうですね。
真田太平記 1985年放送の池波正太郎さん原作でしたね。
丹波哲郎さんが真田昌幸を演じて岩櫃城に勝頼を迎えいれる準備をしている場面がありました。
結局勝頼は討たれてその後信長に馬を送ったシーンがあったような気がします😉
高評価2000‼︎
武田存続の世界線見たかった...
ちなみに、もし小山田氏の岩殿城に行かず…真田氏の岩櫃城に勝頼一行が向かっていたら?のif小説があります!
「戦国武陣侠」という作品です、もし機会があれば読んでみてください。
真田丸で岩櫃城はなかなか有名になりましたね!
私は、「真田丸」の放送以前に、池波正太郎氏の長編小説「真田太平記」を読んでましたので、上州吾妻の岩櫃城の存在は知ってました。
昔から知る人は知る…の名高い山城だったんですよ〜
上田城の前身になる市街地を利用する構造になっていたんですね。
20年ぐらい前にその辺をウロウロした時は、残念ながら登り口が解からず岩櫃城址を見る事は適いませんでした。
岩櫃城と言えばやはり吾妻太郎が築き、後に斎藤氏が維持した城であると見るべきかと思います。
吾妻太郎は鎌倉時代、斎藤氏が滅びたのは室町時代なので、この長い間に何があったのかはわかりませんが。
岩櫃城は真田弾正幸隆(幸綱)が攻略して真田領に組み入れた城。
この岩櫃城から上田方面に向かうと海野家に連なる羽生氏、鎌原氏の拠点となった、今では嬬恋村、長野原町があります。
懐かしく♥️走ったのは真田家の道かぁ。お邪魔しました!💦
岩櫃山城を初めて見た。堅固そうでいい。武田勝頼も岩櫃山城に逃れればよかったんだろう。
勝頼公が岩櫃に来ていれば、間違いなく武田家は存続していて、上州一帯が新たに武田王国となっていたでしょうね。ただ、甲州を失う事になってしまうでしょうが…。
武田王国という言葉は微妙ですけど~
諏訪上原城での軍議で昌幸が岩櫃城で再挙をという申し出を受け入れたのだだから、翌朝に出発しその日のうちに岩櫃城についた真田に遅れながら…ならば天目山での従者の少なさにはならず、景徳院で自害する事もなかったかも〜ですね。
由緒正しい守護大名 武田家としては、やはり甲斐を捨てるという手はプライド的に許せなかったのかも知れませんね
後ろに北条、そして旧今川領で離反が起きれば
どの道ジリ貧なようにも思えます
最悪北条氏と同じような小大名としては生き残れそうですよね。
天正壬午の乱で有利に働いて、甲斐を取り戻せたりして。
勝頼が新府から落ちてからはその消息は確かなのでしょうかね
本当のことが分からないのですが
定説は真実なのですかね?
凄く分かりやすかったです(≧∇≦)♬
なにこれ、こんな要塞都市そりゃ家康もビビるでしょうね、さすが真田一族。小谷城みたい作りで。
平川戸の城下町を廃絶して、槻の木を基準に城下町を整備したのが今の原町かな?
高遠城が短期間で陥落したから、現実問題で岩櫃城に到着するまでに、織田軍とかち合う可能性大な事を考えると、どのみち選択肢は無かったかと。
また、岩櫃城に籠って抵抗した戦いが長期化した場合、空いていた明智軍が派遣されていた可能性もあるので、本能寺の変自体が起きなかった可能性も😅
仮に光秀の謀反が起きたとしても、結局それは武田家が滅んだ後かと。
勝頼のために用意した御殿
潜龍院ってのがセンスある
龍を勝頼公に例えていたのかと思いましたが、違う由来でそうなったと書かれていました。後に借りた一族の僧侶にちなんだとか。
結局は武田からみて信濃先方衆の真田に丸ごと身を預ける事が出来なかった勝頼だけど、もし・・・この岩櫃城に籠り、楠木正成よろしく昌幸が織田軍や北条を追い払ったりしたら、と想いを馳せると俄然楽しくなって来ますね。
南紀伊の湯川家は甲斐の武田悪三郎信忠を祖に持つ家で、紀伊半島の熊野信仰の山伏ネットワークを用いて山中での戦いに持ち込み、秀吉の討伐軍相手に講和という実質勝利をもぎ取りました(その後、豊臣秀長に大和郡山城で暗殺されましたが)
真田も同じく白山信仰の聖地の山伏を支配しており、「落城してもいざとなれば山に逃れることができる」の本当の恐ろしさはここにありますね
岩村城に似た感じですね。ここで真田昌幸がどんな軍略で織田軍に抵抗したのか、見てみたかった。
岩村城は石垣がとても立派で三大山城とか言われてますが…岩櫃城は土塁空堀でちょっと構造が違うかも~
上杉景勝と手を組めば、3ヶ月はもったかも。武田勝頼を擁して戦えば、旧武田家臣団がまとまって、甲斐侵攻もできたかもしれません。
勝頼公が岩櫃城に向かってさえいれば、滅亡はもう少し先だったかもと思うと複雑な気持ちです。真田家の忠義をも思います。
攻め込みにくそうですね。ここに籠もられたら、織田の大軍も手をこまねいたと思います。
Is there a Sanada familly's castle??
行きたいね〜
NHKBS『英雄たちの選択』で磯田道史氏は「武田勝頼は岩櫃城に籠城すべきだった。毛沢東も長征した」と述べていた。
勝頼は、妻子を置いては行けませんでした、自分だけなら岩櫃城にいったと思います。
ただ上原城での軍議を終えた後、真田の献策を受け入れる決定をしたのだから、それなりの方策をとれたのでは〜
天目山での従者の少なさ見たいになる恐れはあっても…勝頼の決断素早く、気持ちがかたければそこ迄にはならなかったかも~
武田勝頼が岩櫃城に来ていたら援軍も期待出来ないので籠城しても武田真田共倒れでしたね😥
三千人で籠城しても3年は…という話もありますし、話半分としても一年位の準備は真田氏の事だからあったのかもよ〜
諏訪上原城での軍議で献策し、勝頼が受け入れたのだだから…譜代ではなかったから…土壇場で勝頼が…
岩殿山城と岩櫃城を実際登って比べたら、全然規模が違います。兵糧の置け量も違うと思います~
上杉景勝公と手を結んでいるだろうから、織田の兵力は分散される。真田は、全兵力を岩びつ城に集めるしかない。明智が兵をあげればよいが、本能寺の変は武田滅亡後の余裕ができた時なので起こるかは微妙。
武田勝頼が、最後に真田昌幸の岩櫃城か小山田信茂の岩殿城かで迷って岩殿城を選んだが小山田信茂に裏切られた事を考えても勝頼は如何に運がなかったかを思い知らされる出来事だったと思いました。
信長にも運がない武将言われますよね。浅間山の噴火のタイミングも最悪ですしね。
浅間山噴火早ければ信長軍の食糧調達が上手くいかないのは明白ですし、遅ければまだ武田勢力保てていましたからね。
@@カイトウ-s4hそれは、おそらく、勝頼が亡くなって、首を確認していた本能寺の変の3ヶ月くらい前の発言ですね。
勝頼が岩櫃に来て持ちこたえてれば本能寺が起きて信長はいなくなり、元々武田崇拝者の家康は勝頼と北条と伊達と同盟を結び、秀吉に対抗したかなと思います。真田は武田家中なので家康とは敵対しないで武田家臣として関ヶ原にて天下決戦に挑み秀吉に対抗したと思います。かなり史実とは違う流れに。でも勝頼は岩殿へ行き滅亡。結局そうなるように歴史は動いたのかなと。勝頼に政治、戦略の軍師がいたら間違いく岩櫃に行ったかなと思うと残念、馬場、山縣のような家臣がいなくなり長坂長閑みたいなのと一緒だったのは勝頼の限界があったのかなと。
勝頼の岩櫃城避難シナリオを考えるとすごく面白いですね!
真田さんのお城は山とか崖とかまぁ…遊びに行くのが大変そうで…w
岩櫃城から箕輪城まで軍勢が通れる道で34km、徒歩7時間ほど。
岩櫃城、箕輪城、沼田城が武田領となれば、5000人くらいの兵士は持てたと想定される。
その兵をもって、上州はあとは厩橋城、安中城、松井田城まで抑えられれば1万くらいの兵数は確保でき、箕輪城を本城にして数年は保てたかも。
でも、坂道を転げだしたら止まらなくて、重臣の相次ぐ離反を考えても、持って1年とかだったんじゃないかな。
現代で言うと、今にも潰れそうな会社に残る?ってとこ。
長篠の戦いで負けた(現代で例えると社運を懸けた一大プロジェクトでライバル会社に大敗北した)時点で、終わってたね。
ここを攻めるなら攻城壁とまでは行かなくとも付け城を作って兵糧攻めでしょうね。
勝頼がこの城に籠っていたら武田家の滅亡も遅れたし、明智光秀が無謀を起こす機会がなかったかもしれない
真田一族も信長の怒り買って全滅させられたかもしれない
逆に生き残った小山田が武名上げたりして
@@mnagashima9604さん ですよね。真田を頼って岩櫃に行ったほうがまだ目があった、という考え方自体が、そうとは限らないと思う。まあタラればの話は、楽しくやればいいだけのことかもしれませんが。
第一、武田と生死を共にするほどの忠誠心が真田にあったのか。武田家滅亡以降の真田の北条・上杉・織田との関わり方を見ていると、武田家という主家にそんなに忠誠心があったのかは疑問ですけど。「岩櫃に来られよ、それがしは準備のために先に岩櫃に帰る」と言ったのは、勝頼と同じところにいないための算段に過ぎなかったのかもしれないし、勝頼が最終的に岩櫃ではなくて岩殿に行ったのだって、真田の意思に反してではなく、得意の策略で「真田は信用できない、小山田氏のほうが信用できる」と真田自身が流言を行ったからかもしれない。
@@mnagashima9604 徳川氏を2度も退けた真田氏がそう簡単に滅ぼされるとは思えない
もし滅ぼせたとしても長島一揆みたいに長期化しそう
@@kusu- 幸隆の時代に一度落ちぶれた真田が再興出来たのは、武田晴信のおかげですし、恩義に報いる忠誠心はあったと思いますどね
北条、上杉、織田、徳川が真田になにかしてくれたわけでもないですし、必要以上に忠誠心を示す必要など無いと思いますが
この時代は家臣が主君を選ぶ時代なのですし、駄目主君をさっさと見限り、主君を渡り歩いて真田を守り抜いた昌幸はすごいと思います
流言云々に関してはただのあなたの妄想のようですが、岩櫃に勝頼一家を迎え入れる屋敷があったのは事実です
おそらく勝頼は岩殿か岩櫃か迷ったと思いますが、軍勢だけでなく一族郎党を連れてになるのでより近くの岩殿を選んだのでしょうかね
もう少し早く情勢を判断して動いていれば岩櫃城に籠っていた歴史が生まれていたかも知れませんね
実家があった地元ですww原町駅からすぐ 山がありますので 吾妻へ行った際にはみなさん行ってみてください
武田勝頼亡命伝説❗
織田・徳川連合軍に追い詰められ、天目山付近で自害したと云われる武田勝頼ではあるが、土佐に逃れて64歳まで生きた。高知県仁淀川町大崎には武田勝頼の墓所があり、武田家の子孫が墓参りに来ました。
当時も木があったはず
里山を知る人ならわかると
思いますがあの竪堀を掘るのは
大変な作業。普通山で穴は掘れない。
山城を作る労働は誰がしたんだろ
かつてのグンマー帝国本拠地は、一気に姿を消したのです。
岩櫃城に大規模包囲戦を仕掛けるのは難しそう。
戦国時代、大量の兵糧を運べるのは船運しかなかった。
牛馬による輸送は、牛馬自体が大量の兵糧を消費するため効率が悪い。
利根川の下流から船運による兵糧の遡上は、可能か?
近隣の国衆を調略で味方につけ買付?多分大軍を長期に養うための兵糧には全然足りないと思う。
略奪すれば、続かないし土着勢を敵に回し囲まれる。
そうですね、大軍で包囲するのも立地によって難しそうですね。
@@kainosuke-rekishi さん
秀吉が城攻め(包囲戦)の名手と言われるのも、水路があり、兵糧を船で運べる城で行っているんですよね。
小田原城、三木城、高松城、鳥取城、有岡城。
天翔ける武田騎馬軍団。と真田氏。夢の跡ですね。蝦夷共和国住人より
名胡桃城とかも真田の有名な城ですね
勝頼こっちに逃げてればな
上杉にも近いし
わざわざ徳川、北条に近い方選ぶんやもん
勝頼公は信じるべき家臣を見誤ったと言うことかと。
流石に譜代の家臣を信じるのはしょうがない。
勝頼はどうして真田の好意に甘えなかったんだろ?
岩殿城の小山田信茂は土壇場で裏切りやがるし
登ったけど、かなり疲れた
岩殿城もおなしゃす
ありがとうございます。岩殿城は登山の覚悟でいつか行きます!
こんなの所いらないから信長も攻めないよね
価値があるのは草津の温泉くらいだよな。
@@室井修-k1r 草津温泉あったんだ
@@ネムネム-j9y あと、二大大河の信濃川と利根川。狭い真田領に不思議に入っているんだよね。
武田信玄亡き後の真田という家柄と地位の低い者のところにはまだまだ信用性が薄かったのでしょうな
結果的に信之が岩櫃を始末したんでしょうけれど、それをさせたのは真田が怖いで有名な、神君焼き味噌将軍様でしょうなーw
つまらないでしょうが、同名のスーパー銭湯が近くにあったなぁ🎵
今もありますか⁉️
岩櫃に迎えても北条と同じ運命を迎えたろう圧倒的な戦力差で落とされたろう小田原が落ちたのだから。
勝頼も真田とこの土地を滅亡に巻き込みたく無かったのかもな
なぜ岩殿に向かったかなー小山田の裏切り者
岩櫃城に勝頼が入ったら戦国武田も
滅びる事は無かった
幕府に警戒された? 室町幕府?
結果信長に滅ぼされたはず
滝川一益vs真田昌幸なら、真田昌幸の勝ち。織田信忠vs真田昌幸なら、真田昌幸の勝ち。なので、落ちない。
ロッククライミングにもってこいな城。
勝頼が梅雪に裏切られて滅亡して良かったのかも。岩櫃決戦あったら武田家と共に滅亡してた。
いや、どっちにしても滅亡してる。
どうせならもう一戦して欲しかった。
@@コウダイ-r1v 真田の話
岩櫃城なら、魚津城みたく陥落しにくいと思う。上杉の春日山城もだけど。信長は性急さをもとめるから力攻めで失敗も出すのではないかな?秀吉や勘兵衛みたいなのが来るとわからんけどね。
現長野までは蝦夷の文化域ですね、、、大和文化とは違う日本の祖。
平安とかそれ以前ね。
5万以上の兵力なら滅びる
そもそも長篠の戦いの采配見てれば勝頼は早めに信勝に家督譲るべきでした!信勝可哀想!後城とか作るより鉄砲と馬とかを戦略として買い集めるべきでした!北条も先に手をうつべきでしたね!上杉謙信死んだら信長せめてくるのはわかってたはず武田信玄の何を見てきたんでしょうね
子どもよりも実戦経験豊富な勝頼公の方が遥かに上でしょ。
一年間包囲すれば、別に戦わずとも城兵は皆餓死してしまう。ただそれだけ。戦国末期の織田や豊臣の経済戦には誰もかなわない。
徳川は部下が結果を急ぎ過ぎたからチョット火傷をしたに過ぎない。
みんな小説やゲームの悪影響で真田を過大評価しすぎ。真田は主君から部下まで日本地図はアタマに無かった。ただの局地戦。
織田-豊臣-徳川は国内だけではなく、対スペインや対キリスト教カトリックという世界レベルで戦っていたのだ!
辛口ではあるけど全く同意ですね。
信長の政略戦略構想に対抗出来る大名なんて皆無です。
よく信玄や謙信が生きていたらとか言いますが農閑期にしか動けない彼等は局地戦でちょこちょこ勝つぐらいしか出来ず大商圏である畿内平定に勤しむ信長の拡大スピードに追いつけず詰みです。
真田や武田や上杉や島津らあたりは単純に戦闘能力が高いだけで大名として過大評価され過ぎです。大名としてなら三好長慶や北条一族の方が優秀です。
結果を知ってる現代から過去を見るからそう勘違いする。
局地戦だけ強くとも勢力が3つ以上の拮抗状態ともなれば信長、秀吉、家康にも寿命があり、2代目ともなればどうなったか分からない。事実信長や秀吉の2代目は潰されている。家康の寿命尽きるまで戦国時代が長引いてたら江戸時代も違うものになったかもしれない。勝頼存命なら武田幕府が甲府に誕生してた可能性だってあったかもしれない。
この前、真田は馬鹿だ、滅びる家ばかりにつかえているってコメントしている愚かな人を見かけたのですが、それにちかいコメントで笑わせてもらいましたw
@@GillNyan 失礼ですが私もわらってしまいました。
1部だけ言わせてもらうと
第1次は(家康さんほぼ豊臣傘下&政敵だから)人数的に1年間包囲できないし、
第2次はそんなに手間かけたら・・・・秀ちゃんの首とんじゃう???!
素人考えすぎるかな?
私も笑った特に最後の世界レベルで戦った所