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この動画を観ながら現地を旅していですね!👍
ありがとうございます。私もいつか撮影を忘れてじっくり見て回ろうと思います。
歴史の渦の中で、勇猛にそして健気に散っていった武士の命に思いを致すとともに、ただただ冥福を祈るばかりです
同感です。
動画upありがとうございます。武田信玄、勝頼シリーズ、とても面白く見させていただきました!
本当にこの1年、berutonoueさんにはよくしていただきました。いつも暖かいお言葉をかけてくださり、ありがとうございます。来年もよろしくお願いします。
茶道講師の昇格の際に、侘び寂びと勝頼の辞世を絡めた論文を書き、無事認められことを思い出しました。今日、出張の寄り道で動画にもあった勝頼の墓を訪れました。帰りにこの動画を見つけ、思わず涙腺が緩みました。ナレーター、登場人物の声など、素晴らしかったです。
素晴らしいですね。合格おめでとうございます! 勝頼親子の最後は本当に切なくなりますね。これはリメイク版もありますので、お時間がある時にご覧くださいませ。ruclips.net/video/8QeyUIri1NY/видео.html
非常に見応えがあり、わかりやすい説明に、ガイドの声も素晴らしく、テレビ以上と思いました。ありがとうございました
過分なお言葉、ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
ほんとナレーションの人が良い声北条夫人役の人とかもプロの声優さん使ってんのかな?
北条夫人は凄いですね誇りと覚悟の持ち方が半端じゃない
北条夫人をはじめ、歴史に名を遺すような人は凄いなと思います。
充実した、時間旅行でした。感謝いたします。
こちらこそありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
構成が素晴らしいありがとう
聞きやすいナレーションで素晴らしいです。
素晴らしい動画に感動です。信勝公の潔さ武士の誉れと感じ入りました。勝頼公、北条夫人、皆無念であったろうと涙します。
ご視聴ありがとうございます。この動画は、平山優先生の『武田氏滅亡』の中の甲乱記の内容をまとめたものです。3人の最後については、史料によってまちまちのようで、今回は甲乱記を使いました。事実がどうであったのかは今となってはわかりませんが、甲乱記の通りだったとすれば、僅か16歳の少年がここまでの考えを持ち、かつそのように振る舞えたのは凄いことですね。北条夫人・勝頼公も無念だったと思います。ただただ冥福を祈るばかりです。
武田家の家督問題が無ければ諏訪勝頼として一門衆最強の武将として違う名の残し方があったと思うと残念に思う信玄の負の遺産を背負わされた武田勝頼はもっと評価されても良い
同感です。問題点は生前に家督を勝頼公に譲らなかった晴信公にあると思います。これでは求心力が足らなくなるのは明らか。家臣の中にはまだ義信公の件で納得していない者も多かったはずです。
いや、物事は結果が全て。まして戦国時代。そして結果からみれば、最悪!父の遺したアドバンテージも活かせなかった史上稀最大の愚将!
明らかに、武田信玄のミスでしょう。後継者問題を解決させておかなかった。
私も信玄のミスかと思います。信玄が滅ぼした諏訪氏の重臣と、武田氏譜代の重臣との間は微妙であり、そこが勝頼公が判断を曇らせてしまう遠因かと思います。勝頼公が信玄亡き後の功を急いだのも、そのような背景があると思います。しかし、結局は信長連合が近畿や東海を席巻する状況に直面してしまい、信玄も誰も予想だにしない展開で、それをまとも引き受けざるをえない勝頼公は不運であったと思います。信玄長男義信公の自害後ですが、上述のような微妙な立ち位置の勝頼に跡を継がせるのは、普通に考えると悪手かと思います。武田家臣団の中枢に、信玄に恨みを持つ分子を抱え込むわけですから。それでも勝頼公に跡を委ねたのは、やはり、勝頼公に器量があったので、信玄としてはそこは認めざるを得なかったのだろうと思います。
昨年秋に武田氏ゆかりの地を旅しました。とても分かりやすく勉強になる動画をありがとうございます。また楽しみにしております。
ご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
@@yamajiro 様ご丁寧にありがとうございます!チャンネル登録させていただきました。よろしくお願い致します。
泣いてしまいました😢感動の大作、ありがとうございます👏👏
ご視聴ありがとうございます。私も泣きながら作ってました(笑)。信勝と北条夫人の生きざまに惹かれるとともに、自分がその立場だったらこんなに凛として行動できるのか、多分できないので、余計にあこがれるというか、引かれるのだと思います。よろしければ構成はそのままで、映像をリメイクした動画もありますので(武田氏滅亡リメイク版)、ご覧ください。
勝頼の最期っていろんな不遇が重なって泣けるんだよなぁそれをこの動画でうまく表現しててテレビのドキュメンタリー見てるみたいナレーションも上手だし声優さんも感情がこもってて登場人物は静止画の絵なのに声優さんたちが上手すぎて彼らの最期の光景が脳裏に浮かんでくるこの動画のクオリティは凄いなぁ
ご視聴ありがとうございます。3人の声だけはナレーションソフトでは感情が表現できないと思って声優さんにお願いしました。これの映像だけをほぼ全面的に作り直したリメイク版もありますので、良かったらご覧下さい。リメイク版が今までの作品の中で1番時間をかけましたし、思い入れも強い作品です。史実はどうだったのかはわかりませんが、北条夫人と信勝の行動には感動させられますね。涙を禁じえません。
クオリティが半端じゃない!完全に戦国の世界に引き込まれました
ご視聴ありがとうございます。現在リメイク版を製作中で、映像を再製作しています。アップ出来たら、またご覧ください。
初めてこのチャンネル見ました。聞きやすい声ですね。😮
ご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
何本か見ましたが、城郭の仕組みと、歴史的な説明の、バランスが取れていて、疲れず、とても良く出来た動画ですね。応援しています。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
素晴らしい!歴史動画だ!
ありがとうございます。励みになります。
素晴らしい動画でした!ありがとうございます!
こちらこそありがとうございます。平山先生のストーリーが素晴らしいですね。よろしければこのリメイク版もありますので、時間がある時にご覧ください。
内容は平山先生の歴史街道の記事をほぼそのまま読んだだけでしたが画像と声がいいですね。動画としてとてもよかったと思います。
歴史の内容、構成、画像ともに最高峰レベルの動画です!
ご視聴ありがとうございます。これの続編として、シナリオはそのままに、映像関係を作り直した「竹田氏滅亡リメイク版」も作成しましたので、よろしければご覧ください。
5日前勝頼自害の場所 景徳院へ行ってきました。19歳の妻と16歳の子と三人の自害した場所に手を合わせました。独特の空気感があり当時のことを思うとあまりにも切な過ぎます。
良い事をされましたね。ご苦労様でした。2人の覚悟に対しては、尊敬の念しかありません。
ドラマ真田丸で経過を知りましたが今回更に勝頼と武田家と家臣の微妙な関係…またわからない言葉も丁寧に解説してあり武田家が良くわかりました。名だたる武将がいろいろな動画で取りあげられるもののその武将のその後の話しは少ないのでとても楽しく聞かせて頂きました。
ご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てください。
平山先生の本の武田家滅亡を読んでます。戦後の寺への制裁内容や武田家各武将はどうなったかまで書いてあって武田家好きにはたまらない内容でした。
ご視聴ありがとうございます。平山先生は物凄く緻密に調べられた上でお書きになられていますね。『武田氏滅亡』は多くの人に読んでいただきたい本ですね。
これは甲陽軍鑑にも、信長公記にも明確な記載はないのですが、信玄西上時に出陣した武田家家臣団の出征時負担が過大なままで、相当問題になっていたのではないでしょうか?これという産業も無く、領国が拡大する中で、兵力の分散やその賦役、大きくなった家臣団を支える新たな領国が必要でした。その打開策が駿河侵攻だったと思うのですが、甲斐国内の産金量が減少する中で、駿河の金山、海運力を徳川北条に先に取られぬ様、先手も打ったものと考えています。結果、5年に及ぶ抗争となり、北条とは何とか和睦したものの、足利将軍の催促も口実となって、今度は徳川、その背後にいる織田と戦う事になりました。二俣城、野田城を落とすのにも相当の日数を掛けてしまい、甲斐信濃から遠く遠征した将兵の経済的負担は大きかったものと思います。そこまでしたのに、信玄時代には結局領土拡大は僅少に留まり、それまでの負担に対し、恩賞が十分に払われたか?疑問です。勝頼の短期間に頻発した出征は、この甲斐信濃国内家臣団の苦境打開を急ぎたかったのかも知れません。勝頼時代の武田の兵力動員があまり大きくならないのも、大兵力を望まなかった可能性もありますが、長篠前では払える恩賞の限度額に応じた中規模、御館の乱は安い恩賞でも集まる若年兵が中心で、侍大将を含め強力な連携力で強さを発揮した武田軍の復興が出来ていなかったのでは?と妄想しています。
力作ですね。米澤に米澤武田家の菩提寺あります。あの貧乏な上杉家なのに、かつての宿敵の子孫に高禄を与えていた上杉家も義理堅いとちょっと脱線した感慨があります。
小舘の乱で勝頼に支援してもらったことに対する恩返しのような意識があるのでしょうか。
武田氏の全盛期は、信玄の信濃平定(1553年)から甲州征伐(1582年)までの30年ほどでしたが、山がちで豊かとはいいがたく海運利権も乏しい山国から、短期間とはいえ全国に名を轟かせたのは偉業だと思います。その背景には甲州金の生み出す利益があったことは確かですが、それゆえ穴山梅雪の離反が致命傷になりました。穴山氏は金山の多くを管轄し、江尻領(現在の清水)を統治しており海運にも絡めたので、武田氏の財布を握っていた存在です。ただそれゆえ山国勢力の武田よりも、海運勢力の織田や徳川のほうにシンパシーを感じていたのかも知れません。
そうなんですね。ご教示ください。ありがとうございます。
おんな城主直虎では、暗殺されます(笑)徳川家康(松本潤)よっしゃ‼️本能寺のどさくさに紛れて(笑)梅雪殺したろ(笑)💰️も駿河もワイのもんやwww
今でも山梨の人は海のある静岡人を妬んでライバル視してくる雰囲気があります。実際そういう人を知ってます。
真田昌幸は自分の兄達を死に追いやった主君・武田勝頼いや武田家を最後の最後まで守ろうとしたんだよなぁ…
真田丸のおこうさんの父親って長篠の戦いで亡くなった兄でしたっけ?
土屋昌恒の片手千人斬りは泣けるわ真の武士だわ
作り話やろ
土屋昌恒と対峙し、ただただ無惨に殺された1000人近い尾張兵が哀れでならない。当時の火縄銃では至近距離からの十字砲火を浴びせても土屋昌恒という化け物は倒せなかったんだな。
どれだけ勝頼がうまくやっても、周囲を有力な大名で囲まれ、山岳地帯で迅速な移動も困難であったため、勝頼の頃には武田家領土拡大はかなり困難だった。一方信長は周囲を敵に囲まれながらも、領土を急速に拡大できたので、長篠の戦いがなくても、勢力の差はかなりついてしまっただろう。
信玄時代は、近代の戦史で例えると日露戦争時の日本で、勝頼時代は太平洋戦争の日本の時代に似ているといつか読んだ本で見たことがあります。
だからこそ木曽の山々は、天然の要害だったそれが分かっていたからこそ穴山梅雪は、徳川に寝返る手土産に木曽義昌を抱き込み木曽の防衛網を無力化させた⁉️
@@megagtful そんな具体性ゼロの例え話しかできない本読んでる時点で頭やばすぎで笑う
織田も、それなりに勝頼のことは認めていたようには思う。だれでも少々のへまはするからね。さすがに不運が続くとダメか。ただ信玄の武田を滅ぼし母と諏訪の仇はうてたのだし、見事な散り方だよ。
勝頼の真の敵は、信玄軍団と甲斐の住民だったと思う。勝頼は諏訪の者ととともに生きるべきだったのではないかな。そもそも信玄はえぐい!こんな方法で諏訪を屈服させるから、諏訪のモノ勝頼に武田は滅ぼされたようなものだ、自業自得だよ。
天目山の戦いは名目上は合戦になっているが、戦力の差や戦いの内容を見ると、武田の残党狩りに過ぎない。
新府城と高遠城の連携ができなかった事がざんねんです。状況的に深志落城が致命的でしょうか。長期的には長篠城と奥三河衆の心を救えなかった事が要因と考えます。
感情的には小山田、穴山と有楽斎って嫌いでしね。
仁科五郎らの奮戦は痛快てみすが、みせしめにされた地元住民への虐殺を考えると、複雑です。
@@真吾加藤-v1kす
勝頼一家の肖像画が家族写真のようで好きです
素晴らしい動画でした。勝頼が信玄に足を引っ張られつつも、全力で滅亡の運命に抗ったのが感動的です。言っても仕方ありませんが、もう数か月持てば本能寺の乱で運命が変わったかも知れませんね。
本能寺の変は武田滅亡が大前提なので起こる可能性となるとかなり低くなるかと
上杉景勝がそうでしたね。
猛きものもついには滅びぬ、ですね
武田家最大の版図を築いたのは勝頼です。素晴らしい武将だと思います。しかし、本当に運が無かった…。勝頼は優秀です!
優秀とは思いませんね設楽原の無用の敗戦で、馬場や山県など歴戦の諸将を失っています約4万の織田・徳川の後詰が到着した以上は撤退するべきでした高天神の後詰をしなかったのも致命的な誤判断でした勝頼も氏政も最大版図を築いたかもしれませんが、先代の器量はありませんでした
@@miyakoshim.4443 さん長篠の戦いは勝頼が優柔不断だった事が敗因。遮二無二長篠城を攻め落として橋頭堡にしそこで織田軍を迎え撃てば裏切り者奥平を討ち取り当初の目的は果たせたとして軍勢を温存したまま撤退する事もできたでしょうね。
@@miyakoshim.4443 武田家の継戦能力を想像することがあります。太平洋戦争の島嶼戦で、バンザイ突撃をして終わった主因は、物資の補給を期待できなかったため早期の総攻撃を強いられた。ペリリュー、硫黄島では、補給はできないものの、地下トンネルを掘り、ゲリラ戦の技を使い、持久戦を行いました。織田は当時の日本の流通の要地を押さえ、本願寺とも長い戦いを行う中で、物資補給も遮断しようとしている。後年、秀吉も兵糧攻めがだんだん増えていますし、武田の必須物資輸入を地味に妨害していたのかも。
@@kazumasaotu6016 さん。仰る通りかと思われます。信玄の西上作戦時と違い、浅井朝倉も滅ぼされ、長島の一向宗も滅ぼされていました。恐らく信長公記や甲陽軍鑑に書かれている以上に、武田側の焦りもあったのではないでしょうか?かつての日本や、ロシアのウクライナ侵攻を見るにつけ、このままだとジリ貧だ!と思うと、無謀だと言われても打って出る思考に陥りやすいのか?とも思う次第です。
@@古家武史-f5d さん、私もそう思うのですが、後詰決戦で一気に決着を!という焦りもあったのでしょうね。長篠城は力攻めすれば落せたと思いますが、信長、家康に籠城されては堪らない。直前の野田城の籠城でも、勝頼は兵を引いています。勝頼も兵力の劣勢は認識していたと思われ、その差は得意の野戦で両将を撃破する!という誘惑に駆られたのではないでしょうか?長篠設楽原の古戦場は、彼我の距離が驚くほどに近く、あと一息で信長家康の首が取れる!と期待を抱かせるものがあると思いました。信長は勝頼のそうした射幸心をも利用したと思う次第です。
武田家滅亡までをスクールウォーズの役者さんが多数出演してたドラマ「女-風林火山」を思いだしました。その中で高遠城生の仁科五郎盛信と家来主従が城内で無念の切腹 →その無念の血が赤く染まったこ彼岸桜として毎年咲くという逸話のシーンが脳裏に浮かんできます。いつの日かに高遠城跡のこ彼岸桜を見物訪ねてみたいものです。
仁科盛信は地域の人たちに愛されていそうですね。高遠城の桜、私も1度は満開の桜を見てみたいです。
北条夫人は19歳だったんですね。ご冥福をお祈り致します。動画、ありがとうございました。
本当にこの若さでここまでの覚悟と行動ができるのは大したものですね。御冥福をお祈りするばかりです。
信玄に長く仕えていた古参の重臣達は、元から勝頼をあまり信用していなかったみたいですね
勝頼の出自と関係があるのでしょうかね?
@@yamajiro 恐らくですが、勝頼の生母である諏訪御料人が、信玄と敵対した諏訪頼重の娘であったこと。そして、当初、勝頼は諏訪氏の名跡を継いでおり(武田氏正統の証である信の字ではなく、諏訪氏正統の証である頼の字が名前に入っているのが理由)、嫡男である義信が廃嫡された結果、勝頼の息子である信勝が成人するまでの間の「陣代」という仮の当主という扱いだったのも影響しているのでは?という説を聞いたことがあります。
@@村上智彦-q3u 次代当主の指名序列が、この時代には珍しく逆だった可能性があるのですね
昨日までの同僚が突然社長になった感じと言えばいいか
動画、有難うございます。勝頼公の最期を腐すような伝承もあるようですが(信勝公を称えたるための引き立て役としてかと思います。信勝公は、織田家に繋がりますゆえ、織田家への阿諛追従のようにも思えます)、こちらの動画のお話のほうが納得が行きます。勝頼公は、有能で勇猛ですが、さらに、夫人へ振る舞いから見て、心有る武将であったと思いますし、それは、母方の家が滅ぼされたという不幸な記憶もあるからだと、思います。武田勝頼が武田氏を滅亡させたというより、武田氏の滅ぶのは必然と思われかねない状況があつたかと思います。信玄のなしたことは、いささか人の道に外れており、諏訪明神の天罰が下るという、懸念が当時の人々の心にうつすらとあつたかもしれないと思う次第です。そのこともあり、最後は転げるように、武田家から人心が離れたのかもしれないと思います。
ご視聴ありがとうございます。平山先生の武田氏滅亡の中で紹介されている書物の中では、甲乱記が最も確からしいように感じましたので、甲乱記をベースに製作しました。武田氏滅亡の責任を勝頼1人に負わせるのは私も違和感を感じます。しかし勝頼は信玄のことをどのように思っていたのか、現代に生きる私達には想像がつきませんね。
まさに、めぐる因果は糸車‼️です。
勝頼の最後を知るたびに、絶望の中、あらん限りの力を出して、いや足掻いて奮闘したんだろうなと思うと涙が出て来る。最後まで仕えた土屋氏がその働きを以て、江戸幕府の老中職を輩出するようになったのはよかったと思う。
土屋氏の話は知りませんでした。ご教示ありがとうございます。
@@yamajiro 日本史は根絶やしってのはあまり無いので、調べていくと、意外な人物が出てたりします。特に江戸幕府は武田今川北条の家臣の末裔が結構幕臣として名を連ねてたりします。ぜひ動画作成の参考になればと思います。
@@kumosukeponsuke さんへ武田四天王の一人で長篠の戦いで討ち死にした山県昌景の子孫は現在、山梨県山梨市にある川浦温泉山県館を営んでいます。また、討ち死にした山県昌景の首を織田・徳川連合軍に奪われずに守りきり、甲斐国へ持ち帰った志村又左衛門貞盈は山県昌景の右腕的家臣であり、あの志村けんさんの御先祖様でもあります。
もし佐竹義重に自分達は佐竹家の分家であると申出て佐竹家の援軍を受け入れていれば信勝の進言通り新府城に籠城して戦う事になっていたかも知れません。実際北条氏政は自分の妹が武田勝頼に嫁いでいた関係で武田勝頼に上杉景虎を武田勝頼に見殺しにされた恨みから織田信長に味方するか迷った挙句織田信長よりの中立を決め込んで海側への脱出路を断つ程度の働きのみに留めていたので、恐らく佐竹義重と連合して織田信長に対抗する事も特に止めず、後に北条氏政自身が織田信長と不仲になった事を考えるとむしろ佐竹ー北条ー上杉ー武田の連合軍が結成されていた可能性もありました。実際信勝は佐竹義重との連携も視野に入れていた様です。
霧島兵庫著『甲州赤鬼伝』という本があります。長篠の戦で討ち死にした山県昌景の次男、山県昌満の物語。山県昌景の代名詞であった『赤備え』の継承から山県家再興に獅子奮迅するお話です。山県家も武田と運命を共にすることになるのですが、山県正満の散り際が非常にカッコ良く描かれています。大変面白い本です。武田家滅亡後、武田家と縁のあった家臣達を徳川方に招き入れますが伊井の赤備えの基になるのは山県正満の家臣、広瀬美濃守が伊井の家臣になる条件として赤備えの着用を認めさせた。と締めくくって物語は終わります。大変面白い本なのでお奨めです。長文、失礼しました。
Really enjoyed your high quality video. Thanks for the great work. Hopefully you may concern adding English or Chinese subtitles to future videos. Love your great work.
仁科盛信かっこいいよなあ
確か寝返りを薦めてきた使者の鼻を切り落として俺らは木曽や穴山とは違う。あんな不義不忠の不届き者と一緒にするな!攻めてきてみろ。例え最後の一兵になって城を枕に討ち死にしても構わない!と追い返したんですよね。
@@古家武史-f5d 最後切腹して腑を天井に投げつけたってエピソードもすきです かっこいいです
BGMがうるさ過ぎて声が聞き取りにくい
感じ方には個人差がありますので、ご容赦ください。
例え真田の元に逃げたとしても信長は武田父子を打ち取らない限り帰京しないから本能寺の変は大幅におそくなるか起こらないはず。
勝頼の長篠後の領国立て直しは再評価される傾向にありますね。長篠後の甲斐は、短期間ですが中世→近世の過渡期に思います。長篠で有力国人が良くも悪くもいなくなってしまったからですかね。個人的には高天神城の放置→遠江瓦解、上杉援護→北条敵対の2点が武田包囲網を助長させてしまったのが大きかったと思います。自分も岩櫃に行ってればと思いますが、真田も小山田ムーブする可能性があったので、結果論ですね。動画面白かったです(*´-`)
いつもご視聴ありがとうございます。確かに御館の乱と高天神城の見殺しが大きかった気がしますね。勝頼も決して凡庸な武将ではなく、並み以上の才覚の持ち主だったと思いますが、信長と家康がその上を行っていた感じですかね?
@@yamajiro 次回以降、徳川関係との事で、大河もありますから、楽しみにしてます😉有名所は近世に大改修されてしまって、なかなか戦国の匂いが残ってないのが残念です…豊田市の大給城、松平城はセットで回れますから、おススメですよ!次回も楽しみにしてます♪
後父信玄がやらかした最大の失敗佐竹家を敵に回した事が大きい。どう言うことかと言うと佐竹義重と武田信玄は佐竹家も武田家も源頼義を祖に持つことからどっちが源氏の本流かを巡って論争を起こし、これが原因でせっかく味方につけた北条家が佐竹家との争いに巻き込まれて武田ー北条ラインが上手く機能しなかった上に死後も尾を引いた為、長篠の戦いで対佐竹の後詰に諏訪衆を残さざるを得なかった事で動員兵力が減少し、織田信長の大軍にやられたと言う経緯があるからね。佐竹家にしたら源氏の本流を名乗る者が平家の後継である北条に味方するのは源氏の名を汚すと言う思いもあったし、後年織田信雄追放を秀吉に進言したのも織田信雄が平信雄を名乗っていた時期があるからで、関ヶ原で東軍についたのも時流以上に徳川家康が源家康を名乗っていたから。
@@古家武史-f5d 源氏の本流を争うような佐竹が、藤原氏発祥の家康を、氏で味方するでしょうか?東軍にも完全には味方しないで改易されてますし…
BGMがもの悲しい
ツーリング中に立ち寄りました。田野古戦場、姫が淵と見て回りました。ここが武田氏終焉の地と感慨深いものがありましたね。
コメントありがとうございます。そうですね。私もあの場所に立って色々と考えてしまいました。
設楽が原、長篠の戦いが武田氏の分かれ目ですね。勝頼の運命も数奇なものです。つくづく乱世の世の中だったんてすね。また次回からの徳川も期待してます!
いつもご視聴ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
信勝は信玄以上だったような。ご冥福をお祈りします。
高速バスで大和を通ると「武田家終焉の郷」という看板を目にしました。何時の日か天目山に登ってみたいものです。あの看板はまだあるのでしょうか?高遠城は近くにあります。
すいません、撮影に夢中で気が付きませんでした。機会があれば是非栖雲寺にも立ち寄ってください。
@@yamajiro 様 御返信に深謝します。
裏切ってその時は生き延びても、結局相手方からの信頼すら勝ち得ず不遇な最後を遂げている。何だか現代の人の生き方と同じですね。
人間の本質は今も昔も変わらないかもしれませんね。
面白いけどbgmが大きい声が小さい
一応チェックしながら制作していますが、感じ方は人それぞれですので、ご容赦ください。
私もbgmが大きく感じます。ナレーションの声が聞こえ難く思いました。ナレーションの声を大きくするか、bgmを小さくすれば良いように思います。
最後まで付き従った家臣は10数人と女性達だと言われてますね織田軍の中でも獰猛性が高かった滝川勢からのなぶり殺しだったのでしょう特にまだ10代半ばの長男・信勝と北条家からの夫人には哀れという感情しかない
時と場合によっては堅固な城を築城し籠城することも大事だと思います。しかし人は石垣人は城に固執するあまりそれが結局仇になってしまい武田家滅亡を早めたのかも。
ご視聴ありがとうございます。そうですね。その肝心の人が離れて行ってしまったので、どうすることも出来なかったのかもしれませんね。
今年の6月に甲斐の国に行って来ましたよ。新府城に行って来ましたよ。😁
なんちゅう質の高い動画
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
私は小山田信茂の領地だった郡内地区に生まれ育った者ですが、「裏切者の小山田」と聞いて育ったためか、甲府盆地方面の人々に対し、なんとなく申し訳ないような微妙な感情があります。ほんのちょびっとなんですけどね。でも、最近では小山田氏の再評価も聞こえてきていまして、「郡内地区が戦場となることを防いだ功労者だ」というものです。本当は彼がどういう思考をしたのか? 今となっては確認することは不可能ですが、激動の中でとった決断はそれなりに評価されるべきでしょう。大月市初狩地区に小山田信茂の首塚があります。「自分の首と引き換えにこの地が戦場になるのを防いだ」という評価も”アリ”だとは思いませんか?
一般に伝えられている内容が実際とは違っているというのであれば、可能性はあるかもしれませんが、今伝えられている事からは、「自分の首と引き換えにこの地が戦場になるのを防いだ」とは考えにくいように思えますが、どうなのでしょうか。
@@yamajiro まあ、確かに言われればあなたのおっしゃる通りなんですけどね。地元の人間としては色々と考えあぐねてしまう・・・という事で、単に聞き流してもらえればと思います。
横入りで失礼します。この動画は表示のとおり、武田氏研究者の平山優さんの「武田氏滅亡」をもとに作成されているものかと思います。小山田信茂への評価は現存する資料を他の膨大な資料と合わせ鑑みるとスタンダードなものになってしまうのはやむを得ないのかもしれません。しかし一方では、「やむを得ない事情」があったことを描いているのが、新田次郎さんの「武田勝頼」と同じくこれを原作としたマンガで横山光輝さんの「武田勝頼」です。マンガの武田勝頼(文庫版三巻P340~)の台詞を転記すると、家来「(ひと足先に岩殿城に戻った小山田に向かって)殿!刀をあずからせていただきます」小山田「なにっ」家来「御免」小山田「八左衛門そちも裏切ったのか」八左衛門「とんでもない なんで拙者が御主人を裏切りましょうやこれも小山田家を安泰に置くためにしたことにござります(中略)それゆえ それがしは独断で玄蕃頭さま(穴山信君)に承知する旨をつたえました これは城内一同の意見にもござります」と言われ軟禁状態となり勝頼を迎えに行くどころではなくなった、のではないか?と新田氏は推察しています。どのような資料や根拠を元にそうしたのかは不明ですが、皆無であるとも言えそうにない…然れどもこれが事実だっ、とも言えない…他方「武田氏滅亡」のP661で平山さんは「甲陽軍鑑」によると、と前置きした上で、初鹿野伝右衛門尉という家来が勝頼に合流しようとしたところ、彼の知行地の村人たちに自分の妻女を人質にとられ、どうしてもいくなら◯すと脅されて合流を断念したこと、そして甲斐国内はどこも同じ状況に置かれていたことを紹介しています。よってマンガの説も明らかな根拠や資料は明確にされていないけど、これも有り得なくもない…そして、動画冒頭で描かれた高遠城。ここでは小山田兄弟が最期まで戦い抜いていることがP628から述べられている。一方、あの名君とうたわれた會津藩の保科正之の幼少期を支えたという保科正直は「信長公記」によると、なんと織田と内通していたようで…これは保科家の名誉にとって都合が悪い…などなどもうカオスです。(ちなみに、この保科氏、私の近所の城をどさくさ紛れ的に落とし、長らく治めてきた領主は自害した、と伝わります。僕が「オマエきたねぇし、やってることエグくね?」と問えば、保科正直はこう言うかもしれない「いや、この時代の常識だけど。オマエこそ、な~にトロいこと言っちゃってんの、討たれんるぞw あの城、兵を後詰めに出して手薄だったんだからぶん取らなくてどーすんのよ?wwこれで家臣にボーナス出せるぜ! ヒャッハー\(*≧∀≦*)」僕「(゜ロ゜;……」もあるかもしれん。つまるところ、平山さんは「検証 長篠合戦」で仰っている「歴史学の成果は、すべて仮説である」というところに行き着くのかもしれません。でも、ああだこうだ言っているのが一番楽しい訳でして(^^)v 横入り、長文ご容赦くださいませ。
@@北原義明 書き込みありがとうございます。そのマンガ、面白そうですね。今度探して読んでみます。戦国時代は特にカオスですよね。「保科正之」の名がありますが、彼の幼少期の養育者が見性院と信松尼(松姫)で、共に信玄の娘。で、彼女らの兄弟に仁科盛信=高遠城主がいますが、その高遠城は結局、保科正直のものになりますね。で、正之は正直の子、正光の養子となったと聞きます。高遠城をめぐって、新旧城主である仁科家と保科家にかかわりを持ってしまう見性院と信松尼・・・歴史とは何たる皮肉、いやカオスと申しましょうか。
映画の影武者が好きで何度も見ていましたが、「おじじ!」と懐いていた勝頼の子供も結局は一緒に自刃して武田家は滅亡したのを初めて知りました。勝頼が不運すぎて同情してしまいました。
勝頼親子の最後は涙を誘われますね。
奸臣、佞臣と当時の武田家や後世から悪し様に罵られている跡部勝資が殉死し(まあどの道処刑されただろうが)おじ、従兄弟ら身内含め、ほとんどが見放したというのが皮肉。小山田信茂の岩殿山(かなり難攻不落なので、実際に立て籠れば長期の籠城は可能だったかも)じゃなく、真田昌幸の吾妻選べば?という話もあるが、小山田も真田も武田を盟主にしている国人土豪なので、果たして「真田だったら無事」となるかどうかは謎。或いは真田が勝頼を裏切る可能性はあった。離脱したのも見方を変えれば勝頼を見放して領地に逃げ込んだ、武田信廉などと変わらないが、「勝頼に吾妻入城を勧めたが、勝頼は小山田の誘いを選んだ」という主張が昌幸の命を救った。もし勝頼が真田を選び、一緒に戦えば良いが、小山田の様な裏切りをしたら、処刑されていたのは昌幸の方で、当然真田は滅んでいた。これが運命の分かれ道だった。運命といえば、やはり武田信玄の判断ミスだろう、諏訪の血を引き、甲斐の人では無い勝頼を後継者にするのがマズイのはわかるが、勝頼の子を後継にすれば諏訪の血なのは同じこと、勝頼自身決して無能では無いのに、老臣たちの支持が今一つ得られなかったのは勝頼が正式な後継者では無かったからだろう。自分が父親信虎を追放した故事から、義信を自刃させてしまった時点で武田滅亡は始まってしまった。
強烈に死を意識したときに、その人の本質がでる
丁度弓矢と槍から鉄砲による合戦の様変わりに乗り遅れた感もあるけれど、やはり家督相続というのは家臣団との折り合いが重要だと感じるその後何故か配流地で名前をよく聞く高遠の桜舞い散るさまは見事です
勝頼なりに精一杯やったと思いますが、生まれなど、勝頼ではどうすることも出来なかったこともあったのではないでしょうか。
余りに哀れ過ぎて正視できない。
父親が偉大過ぎると辛いものね。
勝頼の最期と織田信長の最期を比べると、織田は家臣による織田の権益を簒奪するなど哀れなものだと感じる。
秀吉ちょっと・・・・人聞き悪いなwwwワイ仇討ちして、葬式もしたのにwww
北条夫人の実家も壮絶な最後を迎えることになるのが悲しすぎる。分家が明治まで残ったのがせめてもの救い。
19歳でこのような決断と行動が出来ることに畏敬の念さえ覚えます。凄い決意と行動ですね。
滝川隊が突出して無理をしたから一益は欲しがっていた名物殊光小茄子を入手できなかった。後詰を待ってもっと慎重に攻撃していれば織田陣営の被害も少なかったと思えてならない。
片手千人斬りの土屋昌恒。子供たちは母と駿河に落ち延びる。戦後、家康に拾われて、長男は千葉久里浜で大名に。孫は老中にまで出世。幕末を経て現代にまで土屋家を残す。土屋の奮戦はそれだけ凄まじかったのであろう。彼は岩明均原作のレイリにて、準主役級としてその活躍が描かれている。
ご教示ありがとうございます。最後まで主君のために戦ったからこそ、家康息子を取り立てたのかもしれませんね。
勝頼さんのおべっか武将達は信玄から「こいつら使えねー」と言われてたみたいですね。
そうなんですか。ついでに排除しておいてくれれば良かったのにと思ってしまいます(笑)。
武田信玄は、領国を保つ事より、織田信長と戦う事を選んだのが失敗でしたね。上洛せずに、甲斐国、信濃国、上野国を保てば、大名として残ったかもしれませんね。
そのとおり
小山田だけ周辺の城持ちと違い、調略を受けていなかった事から、織田方からみても離反は難しいと思われていたのでしょう。しかし、次々に離反していく様を見て、イケると思ってしまったのか。勝頼の首を前に、信雄より他は調略であったとそこで知ったのかもしれませんね。。某ドラマの温水演じる小山田位怯えながら処刑されたのでしょう。
この頃から裏切りしたらろくな目にあわないのに関ケ原でも裏切った大半は取り潰しになってましたね。明智よりこの小山田ののほうが遥かにたち悪いと思うよほど驚き何故?と思い哀れに殺されたのだよね。ざあまあ見ろですね。
小山田信茂も当然調略は受けていたと思いますよ。真田昌幸と小山田信茂が、勝頼に織田家からの手紙を差し出して、織田から調略を受けましたと報告しにきて、勝頼が、他の者も当然調略を受けているはずなのに、報告しに来たのはお前たちだけだと嘆いたという話が有ります。その話の続きで、小山田信茂は裏切るつもりはなかったのだけど、小山田一族が離叛を決めていて、小山田家の本拠地に戻った信茂は軟禁状態にされて仕方がなく織田に寝返る事を決めたという話です。これが事実なのかは今となっては分かりませんが、私はあり得る話だと思っています。似たような話が他にも有って、勝頼の側近の初鹿野信昌は、武田滅亡時に勝頼の元に駆けつけようとしたのだけど、既に変心していた領民達に妻子を人質に取られて、勝頼の元へ行く事を諦めざるを得なかったといわれてます。
@@すけたま-k3p そんな話があったのですね戦国時代に有名な話で、尾張、三河武士と農民は裏切るのは当たり前だから信用できない言われてましたね、柴田勝家でさえましてや家康の三方ヶ原での武田との戦いでも兵士は負けそうになったら家康を捨ておいて先に帰って家が死んだと言って回ったとか、だから信長、秀吉、家康は尾張三河武士は信用できないから見捨てて領地を変えたのですよね。それと同じかと思いましたが違うようですね、でもそんなことならますます小山田は可哀想ですね。
@@すけたま-k3p 調略を受けていなかったとされる理由としては、寝返った後、信雄からの仕打ち(処刑)が上げられます。調略の上ですと、嫡男、老母、妻、女子とともに処刑と一族迄は及ばないと思います。しかし、おっしゃるように、当人と一族とのやり取りが上手くいかず、こういった結果になった可能性は有りますね。なんにせよ、根拠と結果が理解できる説が無いのがもどかしい所。
@@rwdpostqan390 織田の調略はかなり徹底していたので、武田家でも名を知られていた名将の小山田信茂が調略を受けていなかったとは考えにくいです。また、当時の習いとして、調略を受けていた時に内応の約束をしていたかどうかが重要で、それが無かった場合には、土壇場で寝返っても認められない場合が多いのです。よくて領地没収、一族全員処刑も珍しくはないですね。
なるほど今回は、一龍斎貞やす風、観てきたような講談師調、で来ましたか…パチパチ…🙌🙌🙌🙌
ご視聴ありがとうございます。次回の信康事件も講談師調で行く予定です(笑)。平山先生の著書をベースにして作っていますが、平山先生の文章は引き込まれますね。よろしければご覧ください。
@@yamajiro 信康事件…私は読書の際は基本的に主人公になることが多いです。信康事件を別の小説で読んだ時は既に長男が一回で生まれており、それはもう愛おしい存在でありました。目の中に入れようと試みましたが…入らず断念!然し乍ら、信康の下りは既に関係者全員、此の世のひとではない、とはいえ誠に可哀想な出来事でありました。自分が家康でなく良かった、馬上でンチ漏らさなくてヨカッタ、と安堵致しまする~というか、戦国時代に生まれなくて良かった!ということですね😁
織田、徳川(とくに徳川)。そして上杉、北条と四方八方から攻められて、長篠から数年は持ちこたえたが、滅んでしまった。上杉は謙信死後、景勝か景虎かで跡目でもめた御館の乱で、北条氏政は息子の景虎を推していたのに、仲裁に入った武田勝頼だったが、結局は景勝が跡目を継ぐ事になり、北条は勝頼にも怒った。というのを名目に武田領に攻め込んでいた。北条は、景虎が跡目を継げば一番。負けて景虎が継げなくても弱った武田領(駿河の東部)へ攻めれば良いというプランだった。
歴史にタラレバは禁物ですが、どうしても信玄・謙信が生きていればなあ・・って思ってしまいますね。まあそれ以前に、信玄・謙信・氏康と言う戦国屈指の大名が関東甲信越でお互い牽制状態になっていたのが信長には大きかったと思うが、歴史は必然と偶然が折り重なって進むのですね。
ご視聴ありがとうございます。その信長も3か月後には亡くなってしまいますからね。上杉景勝からしてみれば、絶体絶命の窮地だったところ、本能寺の変が起きて、景勝からしたら本当に幸運だったですしね。上杉が信玄の末裔を家老として召し抱えたのは、御舘の乱での援助もあるのでしょうか。本当に幾重にも折り重なって進んでいきますね。
この情勢だと信玄、謙信が勝頼、景勝の立場になるだけかと
景徳院の武田氏の墓所は荒れていました尚更に哀れを感じる状態です本来なら、地元の自治体で保存して観光名所としも宣伝活動をするのでしょうがお寺の所有物としてその点が出来ないとか?なんかありそう!
ご視聴ありがとうございます。私の勘違いかもしれませんが、地元の甲州市さんは、この墓所の調査をして公開もされておられますので、大切に思っているように感じましたが、違いましたかね? 墓の調査報告書です。chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2017051600118/file_contents/2017051600118_rekisi_bunka_files_20160204_takedakatsuyorinohaka_chousahoukoku.pdf
「仁科盛信の子 信基と信貞が旗本として仕える」とありますが、信基が旗本であった根拠はあるのでしょうか?寛政重修諸家譜 巻第百七十一に信貞は記載があるのですが、盛信の子孫としては疑わしいので数代後の信道から系図が記載されています。信基は寛政重修諸家譜の中に記載が全くありません。
ご指摘ありがとうございます。お恥ずかしい話ですが、この辺りのことはwikipediaでの記述を元に書いたと思います。ちょっと記憶が定かでないですが、wikipediaの仁科盛信の項目2人のことが出ていますが、名前からして?がついていますし、信基はそもそも実在したのかというところから議論があるようですので、私の調査不足のようです。ご教示ありがとうございました。
小山田でなく、真田昌之のいわびつ城にいっていれば😓
その選択が出来る武将であれば、そもそもこんな状況にはなっていないのではないでしょうか。
@@惟任日向-r5d 真田昌幸がいかに優れ、信頼されていても1、その兄達は自分ではなく信綱を主君扱いし、自分をあくまでも諏訪勝頼として中継ぎ扱いしてきた2、例え北条氏政軍は妻のゆかりでなんとかすり抜けられても、本拠地に落ちるまでに今度は佐竹義重軍、更に佐竹軍と何とかなってもその後は織田信長と同盟した伊達輝宗軍と戦うことになり、こうなるといくら戦上手の真田昌幸がついていても絶対に勝ち目がない事。実際この案唯一の頼みである上杉景勝も信長家家臣の柴田勝家と伊達輝宗軍に挟み撃ちされて武田救援が不可能だったし、信長死後の新発田氏の乱も背後にあった伊達輝宗の死によって漸く平定できたくらいだった。と言う理由で真田昌幸を頼るよりは小山田につき、せめて北条氏政と和睦してから佐竹義重に父信玄の無礼について詫びを入れ(この点でも武田二十四将の一角であった真田家は不適)て背後を固めて織田ー徳川に対抗する策を取ったのでしょう。これは現に武田勝頼死後織田と北条で戦争が起きてますから、小山田の裏切りさえ無ければ決して間違った策では無いですし北条氏政には武田勝頼として佐竹義重には諏訪勝頼として父信玄の無礼を詫びていれば何とかなったのでしょう。勝頼の失敗は父同様周囲に詫びる事の出来ない性格だった事でこれは父信玄も自分は上杉謙信についに詫びることができなかった。あの男なら自分やお前がキチンと詫びれば許してくれるし、ワシの死が漏れてもすぐそれに乗じて軍は向けてこない。三年喪に服して上杉謙信に詫び入れろ。ワシの死は上杉謙信にはバレても良いが、織田信長や松平家康、足利義昭には絶対漏らすな!と遺言したくらいですから。ちなみに織田信忠は好敵手として武田勝頼を高く買っており意気揚々と武田勝頼の首を持ってきた小山田をその場で斬首、更に武田勝頼の首を丁重に祀ってます。織田信長も小山田を匿った(というより小山田を弔った)僧を火炙りにして処刑してます。
@@古家武史-f5d 長々と書かれてますが、私が言いたいのはもっと前です。政治的選択なんですよ。御館の乱で影虎を見捨てて、景勝の味方をして北条の後ろ楯を失ってしまった時点で敗けです。佐竹などは、北条と交戦中で手が出せないので問題ではないし、この時点では伊達も論外。むしろ反佐竹で同盟を組める。影虎を跡継ぎにして、北条上杉武田で連合を組めば緒勢力の情勢も変わっていたし、織田徳川連合もアプローチを変えていたでしょう。
@@古家武史-f5d あと、この時点では北条氏政は弟を見捨てられて激昂しているので同盟に応じる筈はありませんし、謙信公は既に亡くなっています。失礼ですが、勉強不足だと思います。
新府城で裏切った木曽にブチキレて勝頼が木曽とか裏切った武将の家族「人質」を約300人近く処刑した話しがあっても良かったと思います
処刑しないと人質にする意味が無いし他にも示しが付かないので、当然の行為でしょう。ただ現代の視点からそれを残虐性と結びつける人がいるので、あえて触れないのも良い判断だと思います。
あの時代でも柴田勝家みたいに人質を開放した者はいるので、人望を得られないような人格が招いた結果と言えなくはない
@@フクナガ-e2i雇われ支社長とオーナー社長の違いがあると思うよ。どっちが良いとかじゃなくて立場による意識の違いが処分の違いを生む。
@@フクナガ-e2i人望があろうがあるまいが、その理論で開放しちゃうと人質自体が無意味になって人質に変わる保証や証明の方法を見つけなきゃだねぇ。
@@user-a11112 あの時点では人質を開放しようがしまいが武田の負けはほぼ確定している
素晴らしいストーリーですが現実はもっと混乱しており混乱化した状況のまま自刃もしくは討ち取られた可能性が高いと思います。嫌な言い方をするともっと逃げ回った上に討ち取られるような情けない最後だった可能性があるとおもいます。生き残ってる人がいたとしても戦闘中の混乱している状況を何々はどうしたなどということを詳細に語れるはずはないからです。また昭和史を記した半藤一利も「歴史の当事者は嘘をつくこと」を指摘しています。人は同情心や自分自身の見栄や虚栄心などからまた「戦争における人殺しの心理学」などにありましたが悪意はなくてもそのその悲惨な体験を自分の中の良心の呵責などから事実を捻じ曲げて認識してしまう事がわかってます。ですから事実よりもドラマチックに盛られている可能性が極めて高いと私は思います。
そうですね。甲乱記や理慶尼手記など、記録によって記述がまちまちですし、真実はわからないでしょうね。私もこの動画を作る際に、間近でずっと見ていて、何かしら記録をとらないとここまで詳しく書けないだろうにと思いながら作っていました。生き証人の言葉だからと言って、すべて正しいとは限らないのもその通りだと思います。いずれにしても、これらの内容については、何らかの脚色・記憶違いがあるのではないでしょうか。1つの物語としてご覧いただければと思います。でも逃げ回っていた可能性もあるとは思いますが、この物語のような生き様であって欲しいとも思ってしまいます。
@@yamajiro ある記録(覚書)によるとあっけなく討ち取られたとあるしそれが事実のような気がする。
@@yamajiro 批判的な内容であるにも関わらず冷静なお返事をいただき大変ありがとうございます。私自身、このようなストーリーにケチをつけるのは無粋だとわかっていますし、自分自身もこのようなドラマチックな最後であってくれたら良いと思えます。しかし人の死を美化すると言うのは戦争賛美に繋がり、戦争の悲惨さを誤魔化す事になります。私自身若い頃はこのような美しい死に憧れがありました。しかし現実は逃げ回って疲れ果てた上に追い詰められての死が美しいはずもないし、様々な実際の戦争の記録などを見た時、人の死とはあまりにも呆気なく、しかも無惨なものでした。私は武士道とかそういうものを誤解してこんな悲劇を若者が願望として持つようになってほしくないのです。ただ動画事態とてもよくできたものでした。見ていて胸にくるものがありました。
信長公記にあるように敵である織田方が称賛する最期なので、奮戦の末で討ち取られたのだと思いますよ。戦国の世では現代における戦争の心理学など一切通用せず、現代の価値観なら隠蔽して当然の朝倉義景の嫡男で僅か6歳の阿君丸を斬った事実も淡々と書かれています。
上杉の跡目争いの時に、ガッチリ、北条、上杉、武田で連合のままなら、歴史は、変わった気がしますね。
御舘の乱と岩殿城行きについては、もし、違う選択をしていたらと考える方が多いですね。どうなっていたのでしょうか。どうしても考えてしまいますね。
@@yamajiro 人生で唯一最後まで読んだ小説が武田勝頼の②冊です。そんな影響もあり、武田勝頼は、一番好きな武将です。人を信じやすく、優しさや、弱さがあったから結果的に滅亡になるまでになったのかなーって、個人的な考えにすぎませんが、だから逆に人間らしい人だったのかなーと、思ってます。登録しました☺️
武田勝頼は、諏訪勝頼だった。それは甲斐国の親族衆が裏切った事が示しています。
最後はみんな滝川一益隊に包囲されたと言っているが、史実は徳川隊だったはず
戦に限らず、事業でも投資でも男は戦いに負けてはいけない。負けを美化しても始まらない。
確かに
高待遇で優遇されていた奴ほど、よく裏切るんだよなぁ。武田の家臣は、武田の分家ばかりだったのに「血縁」ほど信用できないモノはない・・・ (´・ω・`)
最後は雪崩を打つようにという感じでしたね。
@@yamajiro葵徳川三代で家康が秀忠に将軍を譲る時に言った台詞を思い出します「頼るべきは身内にあらず、忠義の家臣と心得よ」
武田勝頼がうれいなく家督次げてればな?有る意味信長を越える戦略家はいないと思った
私も同感です!
小宮山友晴の最後の忠義は、勝頼にとってせめてもの救いだなただ、そんな小宮山を遠ざけるようでは、勝頼はやはりダメ君主だ
嗚呼、哀れなるかな武田勝頼公。先代が偉大過ぎて。
武田義信を殺した事が武田氏が滅んだ原因です。武田信玄の誤りの一つです。
私もこれがなければどうなっていたんだろうと思わずにはいられません。
やはり、勝頼は諏訪勝頼でしかなかったような気がします。甲斐国の親族衆や国人衆をまとめきれなかったのは、勝頼は諏訪のにんと認識されていたから。義信だったら、甲斐国の親族衆を含め、たとえ滅んだとしても裏切りは少なかったはず。
武田義信、飫富虎昌、穴山某以外、義信の家臣達まで成敗して戦力ダウンさせた、武田信玄は愚かですな。
俺も武田贔屓だけど、客観的に見ると勝頼の外交音痴が招いた末路。御館の乱で金に目が眩み上杉景勝に肩入れして北条を敵に回したのが致命的なミス。さらに信長との和睦をアテにして高天神城を見捨てたことで、味方からも失望を買ったのが残念。せめて信玄の半分程の外交能力があれば、甲斐1ヵ国くらいキープ出来て存続出来たのでは?
仰ること、私も同感ですが、武田氏に物凄く思い入れがあるわけではない私からすると、そもそも信玄が今川との同盟を破棄し、反対した義信を廃嫡したこと、諏訪頼重を和睦と称して自害に追い込み、娘を側室としたことなど、既に信玄の代には綻び始めていたように思うのですが、どうなのでしょうか。
@@yamajiro 信長の養女を母に持つ信勝にさっさと家督を譲った上で、信玄時代に持ち上がってた、後に信松尼と称した勝頼の妹と信長嫡子の信忠の婚姻話を復活させてれば……あるいはほんの少しは和睦の可能性があったかも。勝頼が信玄の後を継いだ経緯やら因縁はあるけど、勝頼になっちゃったのは仕方ないから、そこから信長を相手にどう延命させるか……だね。そういう面で、信玄時代から織田との交渉を一手に担っていた秋山晴近(信友)を岩村城で失った事は大きな痛手だったと思います。ある意味、馬場や山縣を失った以上に。
@@ここをキャンプ地にした なるほど。参考になりました。ご教示ありがとうございます。
武田が滅亡しないifを考えてみるけど、一度戦火を交えた後は浅井朝倉同様、信長は勝頼の助命とか認めるとも思えないから、どうにもならんかなあ…勝頼にその気があったら信玄没後に和睦して関係改善を目指し、その後従属という形で降伏、甲斐一国を安堵とか…無いか
もし信玄没後の早い時期に勝頼が信長に降伏していれば、意外に許してもらえる気がしますがどうですかね? ただ、勝頼にはその時点では降伏する気はさらさらなく、むしろ織田・徳川などまとめて滅ぼしてやるくらいの気持ちのような気がしますので、結論はtobyon1973さんと同じだと思います。
@@yamajiro そうでしょうねえ。仰る通り、長篠での大敗後でも降伏を考えたようには思えませんし滅亡は不可避なんでしょうね。もし小山田ではなく真田の岩櫃城に逃れてたとしたら信長はそのままにはしておかず真田も共に滅んでいたかもしれませんね…他の方も書かれてますが本能寺の変も起きてなかった?かも
いやあ。良いです!信勝は結構有能だったのかな?
そう思いたいですね!
歴史はおもしろくない。わけがわからんからつまらん‼️と言うけれども。面白い。こんなにハラドキのドラマはない‼️‼️と感じました。勝頼の自刃を、東濃岩村城にて光秀と共に聴く。と岩村城址には記されていました。真偽はわかりませが、因果の不思議を感じます。諏訪御前の息子でしたか。
わずか10年前に京に旗を立てよう、としていた武田の無様な姿。武田節とは真逆に郷里甲斐を敵兵に蹂躙されとるがな
どうする家康よりもこの動画見てた方が大河ドラマ見ている様な気がする人の生き様も人それぞれ生きる価値に何を見出すかも人それぞれでも生きた感は現代人より伝わるのは、私だけかな?
ご視聴ありがとうございます。この動画は平山優さんの『武田氏滅亡』の甲乱記の記述をベースに製作しました。ベースのストーリーが秀逸でしたので、惹きつけられる方もいらっしゃるのかなと思います。先日映像部分を作り直したリメイク版をアップしましたので、お時間がありましたらご覧ください。
このとき、当時16歳だった勝頼の嫡男の信勝は、土屋山城守高久に伴われて上州羽沢村(現、甘楽郡南牧村)へ落ち延びたという有力な説がある。信勝は、武田家と同じく新羅三郎義光を祖とする羽沢城主市川四郎兵衛貞吉に匿われた。そして信勝は49才で没し南牧村大日方笹ノ平に埋葬された。その後、武田家の嫡流は市川の分家という立場で生き延びた。なお、大正3年の大正天皇祖奥井式典に際し信玄公に従三位を贈位することになった。位記宣明を受け取る信玄公の正統の子孫を決めるにあたり、市川家伝承の古文書、墓等が山梨県によって詳細に調査された。しかしながら正統と断定されるまでには至らなかった。また、武田家の金山衆も多く移り住んだため、見事な石垣が今でも至るところに見られる。江戸時代には軍事的重要拠点として徳川家の直轄地となり(入り鉄砲出女等)監視の関所が南牧村砥沢に置かれた。中山道の碓氷関所とは異なり厳しいお取調べが少なかった為、女性や善光寺参りの参拝者達に利用され砥沢宿は賑わった。この街道は上州姫街道と呼ばれた。人の往来も多く、天領で税も安く、質の良い砥石が産出され、かつ蒟蒻や葱も名産であったため非常に裕福な村であった。明治になると近隣に富岡製糸場が作られたため養蚕業で栄えた。また林業でも大いに栄えた。
真田に行った方が良かったと思います。そうすれば、違う結果になった。
私も真田の方に行ってほしかったと思います。
甲府から岩櫃城までは150km以上ありほぼ山道。道中キツい峠越えが何箇所もある。時期は2月ー3月とまだ寒く場所によっては雪も残っている。女・子供連れ。という諸条件を考えると真田行きは現実的ではないかと。だからこそ勝頼もこの案を却下したのでしょうし。
小山田信茂の裏切りは想定外だったと思います。信茂は、義信事件後に、武田家で孤立気味であった勝頼に寄り添っており、長篠でも御親類衆が戦線離脱していく中でも、最後まで勝頼を護衛していたと言われています。そんな信茂を勝頼は、外様の真田より信じていたと思います。
@@umakara55 さん山越えもですが道中で佐竹義重の軍勢に襲われたら女子供を多数抱えての逃避行故いくら戦上手の真田でもどうしようも出来ないそう言う判断もあったと思います。実際佐竹義重と武田信玄は戰寸前まで行ってるしもし佐竹義重が関東管領上杉謙信の命令と称して戦挑んできたら三方原で勝った武田信玄がその隙に甲斐国を佐竹義重に奪われたと言う悲劇もあり得たからね。恐らく小山田の進言を受け入れたと言うより都留に滞在して佐竹義重に事実上の降伏をして道中の安全を保証してもらう交渉をしつつ織田信長軍を迎え撃ち、佐竹義重の護衛の下で岩櫃城に移動すると言う策でしょうし、それがベストですね。佐竹義重とてうっかり武田勝頼に味方しようものなら織田信長の意を受けた伊達輝宗に背後突かれるから父信玄との因縁を理由にして武田軍に襲い掛かる可能性大でしょうし。ちなみに上杉景勝も伊達輝宗の牽制策で二正面作戦を強いられてましたし手取川で勝利した上杉謙信がいきなり軍を引いたのも伊達輝宗が織田信長と同盟して越後侵攻の姿勢を見せたから。
@@isawisaw655 さん小山田への信頼以上にもし真田の進言通り岩櫃城に向かったとしても真田は裏切らないとしても逃避行中に佐竹義重の軍勢に襲われたらいくら戰上手の真田昌幸がついていても女子供を抱えた逃避行中ではどうする事も出来ないと言う判断もあったのでしょう。実際長篠の戦いで戦死した信玄公以来の重臣の家で唯一小山田の進言を受け入れた勝頼と別れるまで味方していたのが真田昌幸ですから。
武田勝頼公R.I.P.
この史実をなぜ大河ドラマでやらんかね「どうする家康」やるよりもおもしろいと思うんだけどね大河ドラマ「武田信玄」「風林火山」の続編的でいいと思うんだけどね武田勝頼にもう少し聞く耳があり(四天王を死なさずに済んだ)、父である信玄公へのコンプレックスが無ければ(領土拡大の執着による北条を裏切るったり、父のできなかった領土拡大を望んだり)武田は滅んでなかったかも……
ご視聴ありがとうございます。今回の動画は、平山先生の武田氏滅亡の中の、甲乱記の記述に基づいて作りましたが、出典によって結構描写は違うようですので、今となっては何が真実であるかはわからないのではないでしょうか。でもどの歴史ドラマも、何かしら創作は入っていますので、新しい視点で大河で取り上げてほしいですね。
最後の最後に裏切った小山田信茂と嫡男が投降先の織田信忠に不忠者の見せしめとして首を打たれた事は勝頼の魂をいくぶんか安んじただろうか
この動画を観ながら現地を旅していですね!👍
ありがとうございます。私もいつか撮影を忘れてじっくり見て回ろうと思います。
歴史の渦の中で、勇猛にそして健気に散っていった武士の命に思いを致すとともに、ただただ冥福を祈るばかりです
同感です。
動画upありがとうございます。
武田信玄、勝頼シリーズ、とても面白く見させていただきました!
本当にこの1年、berutonoueさんにはよくしていただきました。いつも暖かいお言葉をかけてくださり、ありがとうございます。来年もよろしくお願いします。
茶道講師の昇格の際に、
侘び寂びと勝頼の辞世を絡めた論文を書き、
無事認められことを思い出しました。
今日、出張の寄り道で動画にもあった勝頼の墓を訪れました。
帰りにこの動画を見つけ、思わず涙腺が緩みました。
ナレーター、登場人物の声など、素晴らしかったです。
素晴らしいですね。合格おめでとうございます! 勝頼親子の最後は本当に切なくなりますね。これはリメイク版もありますので、お時間がある時にご覧くださいませ。
ruclips.net/video/8QeyUIri1NY/видео.html
非常に見応えがあり、わかりやすい説明に、ガイドの声も素晴らしく、テレビ以上と思いました。
ありがとうございました
過分なお言葉、ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
ほんとナレーションの人が良い声
北条夫人役の人とかも
プロの声優さん使ってんのかな?
北条夫人は凄いですね
誇りと覚悟の持ち方が半端じゃない
北条夫人をはじめ、歴史に名を遺すような人は凄いなと思います。
充実した、時間旅行でした。感謝いたします。
こちらこそありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
構成が素晴らしい
ありがとう
こちらこそありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
聞きやすいナレーションで素晴らしいです。
素晴らしい動画に感動です。信勝公の潔さ武士の誉れと感じ入りました。勝頼公、北条夫人、皆無念であったろうと涙します。
ご視聴ありがとうございます。この動画は、平山優先生の『武田氏滅亡』の中の甲乱記の内容をまとめたものです。3人の最後については、史料によってまちまちのようで、今回は甲乱記を使いました。事実がどうであったのかは今となってはわかりませんが、甲乱記の通りだったとすれば、僅か16歳の少年がここまでの考えを持ち、かつそのように振る舞えたのは凄いことですね。北条夫人・勝頼公も無念だったと思います。ただただ冥福を祈るばかりです。
武田家の家督問題が無ければ諏訪勝頼として一門衆最強の武将として違う名の残し方があったと思うと残念に思う
信玄の負の遺産を背負わされた武田勝頼はもっと評価されても良い
同感です。問題点は生前に家督を勝頼公に譲らなかった晴信公にあると思います。これでは求心力が足らなくなるのは明らか。家臣の中にはまだ義信公の件で納得していない者も多かったはずです。
いや、物事は結果が全て。まして戦国時代。そして結果からみれば、最悪!父の遺したアドバンテージも活かせなかった史上稀最大の愚将!
明らかに、武田信玄のミスでしょう。後継者問題を解決させておかなかった。
私も信玄のミスかと思います。信玄が滅ぼした諏訪氏の重臣と、武田氏譜代の重臣との間は微妙であり、そこが勝頼公が判断を曇らせてしまう遠因かと思います。勝頼公が信玄亡き後の功を急いだのも、そのような背景があると思います。しかし、結局は信長連合が近畿や東海を席巻する状況に直面してしまい、信玄も誰も予想だにしない展開で、それをまとも引き受けざるをえない勝頼公は不運であったと思います。
信玄長男義信公の自害後ですが、上述のような微妙な立ち位置の勝頼に跡を継がせるのは、普通に考えると悪手かと思います。武田家臣団の中枢に、信玄に恨みを持つ分子を抱え込むわけですから。それでも勝頼公に跡を委ねたのは、やはり、勝頼公に器量があったので、信玄としてはそこは認めざるを得なかったのだろうと思います。
昨年秋に武田氏ゆかりの地を旅しました。とても分かりやすく勉強になる動画をありがとうございます。また楽しみにしております。
ご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
@@yamajiro 様
ご丁寧にありがとうございます!
チャンネル登録させていただきました。よろしくお願い致します。
泣いてしまいました😢
感動の大作、ありがとうございます👏👏
ご視聴ありがとうございます。私も泣きながら作ってました(笑)。信勝と北条夫人の生きざまに惹かれるとともに、自分がその立場だったらこんなに凛として行動できるのか、多分できないので、余計にあこがれるというか、引かれるのだと思います。よろしければ構成はそのままで、映像をリメイクした動画もありますので(武田氏滅亡リメイク版)、ご覧ください。
勝頼の最期っていろんな不遇が重なって泣けるんだよなぁ
それをこの動画でうまく表現しててテレビのドキュメンタリー見てるみたい
ナレーションも上手だし声優さんも感情がこもってて登場人物は静止画の絵なのに声優さんたちが上手すぎて彼らの最期の光景が脳裏に浮かんでくる
この動画のクオリティは凄いなぁ
ご視聴ありがとうございます。3人の声だけはナレーションソフトでは感情が表現できないと思って声優さんにお願いしました。これの映像だけをほぼ全面的に作り直したリメイク版もありますので、良かったらご覧下さい。リメイク版が今までの作品の中で1番時間をかけましたし、思い入れも強い作品です。
史実はどうだったのかはわかりませんが、北条夫人と信勝の行動には感動させられますね。涙を禁じえません。
クオリティが半端じゃない!
完全に戦国の世界に引き込まれました
ご視聴ありがとうございます。現在リメイク版を製作中で、映像を再製作しています。アップ出来たら、またご覧ください。
初めてこのチャンネル見ました。
聞きやすい声ですね。😮
ご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね!
何本か見ましたが、城郭の仕組みと、歴史的な説明の、バランスが取れていて、疲れず、とても良く出来た動画ですね。応援しています。
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いいたします。
素晴らしい!歴史動画だ!
ありがとうございます。励みになります。
素晴らしい動画でした!ありがとうございます!
こちらこそありがとうございます。平山先生のストーリーが素晴らしいですね。よろしければこのリメイク版もありますので、時間がある時にご覧ください。
内容は平山先生の歴史街道の記事をほぼそのまま読んだだけでしたが画像と声がいいですね。動画としてとてもよかったと思います。
歴史の内容、構成、画像ともに最高峰レベルの動画です!
ご視聴ありがとうございます。これの続編として、シナリオはそのままに、映像関係を作り直した「竹田氏滅亡リメイク版」も作成しましたので、よろしければご覧ください。
5日前勝頼自害の場所 景徳院へ行ってきました。19歳の妻と16歳の子と三人の自害した場所に手を
合わせました。独特の空気感があり当時のことを思うとあまりにも切な過ぎます。
良い事をされましたね。ご苦労様でした。2人の覚悟に対しては、尊敬の念しかありません。
ドラマ真田丸で経過を知りましたが今回更に勝頼と武田家と家臣の微妙な関係…またわからない言葉も丁寧に解説してあり武田家が良くわかりました。名だたる武将がいろいろな動画で取りあげられるもののその武将のその後の話しは少ないのでとても楽しく聞かせて頂きました。
ご視聴ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てください。
平山先生の本の武田家滅亡を読んでます。
戦後の寺への制裁内容や武田家各武将はどうなったかまで書いてあって武田家好きにはたまらない内容でした。
ご視聴ありがとうございます。平山先生は物凄く緻密に調べられた上でお書きになられていますね。『武田氏滅亡』は多くの人に読んでいただきたい本ですね。
これは甲陽軍鑑にも、信長公記にも明確な記載はないのですが、信玄西上時に出陣した武田家家臣団の出征時負担が過大なままで、相当問題になっていたのではないでしょうか?
これという産業も無く、領国が拡大する中で、兵力の分散やその賦役、大きくなった家臣団を支える新たな領国が必要でした。
その打開策が駿河侵攻だったと思うのですが、甲斐国内の産金量が減少する中で、駿河の金山、海運力を徳川北条に先に取られぬ様、先手も打ったものと考えています。
結果、5年に及ぶ抗争となり、北条とは何とか和睦したものの、足利将軍の催促も口実となって、今度は徳川、その背後にいる織田と戦う事になりました。
二俣城、野田城を落とすのにも相当の日数を掛けてしまい、甲斐信濃から遠く遠征した将兵の経済的負担は大きかったものと思います。
そこまでしたのに、信玄時代には結局領土拡大は僅少に留まり、それまでの負担に対し、恩賞が十分に払われたか?疑問です。
勝頼の短期間に頻発した出征は、この甲斐信濃国内家臣団の苦境打開を急ぎたかったのかも知れません。
勝頼時代の武田の兵力動員があまり大きくならないのも、大兵力を望まなかった可能性もありますが、長篠前では払える恩賞の限度額に応じた中規模、御館の乱は安い恩賞でも集まる若年兵が中心で、侍大将を含め強力な連携力で強さを発揮した武田軍の復興が出来ていなかったのでは?と妄想しています。
力作ですね。
米澤に米澤武田家の菩提寺あります。
あの貧乏な上杉家なのに、かつての宿敵の
子孫に高禄を与えていた上杉家も義理堅いと
ちょっと脱線した感慨があります。
小舘の乱で勝頼に支援してもらったことに対する恩返しのような意識があるのでしょうか。
武田氏の全盛期は、信玄の信濃平定(1553年)から甲州征伐(1582年)までの30年ほどでしたが、山がちで豊かとはいいがたく海運利権も乏しい山国から、短期間とはいえ全国に名を轟かせたのは偉業だと思います。その背景には甲州金の生み出す利益があったことは確かですが、それゆえ穴山梅雪の離反が致命傷になりました。穴山氏は金山の多くを管轄し、江尻領(現在の清水)を統治しており海運にも絡めたので、武田氏の財布を握っていた存在です。ただそれゆえ山国勢力の武田よりも、海運勢力の織田や徳川のほうにシンパシーを感じていたのかも知れません。
そうなんですね。ご教示ください。ありがとうございます。
おんな城主直虎では、暗殺されます(笑)
徳川家康(松本潤)
よっしゃ‼️本能寺のどさくさに紛れて(笑)
梅雪殺したろ(笑)
💰️も駿河もワイのもんやwww
今でも山梨の人は海のある静岡人を妬んでライバル視してくる雰囲気があります。実際そういう人を知ってます。
真田昌幸は自分の兄達を死に追いやった主君・武田勝頼いや武田家を最後の最後まで守ろうとしたんだよなぁ…
真田丸のおこうさんの父親って長篠の戦いで亡くなった兄でしたっけ?
土屋昌恒の片手千人斬りは泣けるわ
真の武士だわ
作り話やろ
土屋昌恒と対峙し、ただただ無惨に殺された1000人近い尾張兵が哀れでならない。当時の火縄銃では至近距離からの十字砲火を浴びせても土屋昌恒という化け物は倒せなかったんだな。
どれだけ勝頼がうまくやっても、周囲を有力な大名で囲まれ、山岳地帯で迅速な移動も困難であったため、勝頼の頃には武田家領土拡大はかなり困難だった。一方信長は周囲を敵に囲まれながらも、領土を急速に拡大できたので、長篠の戦いがなくても、勢力の差はかなりついてしまっただろう。
信玄時代は、近代の戦史で例えると日露戦争時の日本で、勝頼時代は太平洋戦争の日本の時代に似ているといつか読んだ本で見たことがあります。
だからこそ木曽の山々は、天然の要害だった
それが分かっていたからこそ穴山梅雪は、
徳川に寝返る手土産に木曽義昌を抱き込み
木曽の防衛網を無力化させた⁉️
@@megagtful そんな具体性ゼロの例え話しかできない本読んでる時点で頭やばすぎで笑う
織田も、それなりに勝頼のことは認めていたようには思う。だれでも少々のへまはするからね。さすがに不運が続くとダメか。ただ信玄の武田を滅ぼし母と諏訪の仇はうてたのだし、見事な散り方だよ。
勝頼の真の敵は、信玄軍団と甲斐の住民だったと思う。勝頼は諏訪の者ととともに生きるべきだったのではないかな。そもそも信玄はえぐい!こんな方法で諏訪を屈服させるから、諏訪のモノ勝頼に武田は滅ぼされたようなものだ、自業自得だよ。
天目山の戦いは名目上は合戦になっているが、戦力の差や戦いの内容を見ると、武田の残党狩りに過ぎない。
新府城と高遠城の連携ができなかった事がざんねんです。
状況的に深志落城が致命的でしょうか。
長期的には長篠城と奥三河衆の心を救えなかった事が要因と考えます。
感情的には小山田、穴山と有楽斎って嫌いでしね。
仁科五郎らの奮戦は痛快てみすが、みせしめにされた地元住民への虐殺を考えると、複雑です。
@@真吾加藤-v1kす
勝頼一家の肖像画が家族写真のようで好きです
素晴らしい動画でした。
勝頼が信玄に足を引っ張られつつも、全力で滅亡の運命に抗ったのが
感動的です。
言っても仕方ありませんが、もう数か月持てば本能寺の乱で運命が変わったかも
知れませんね。
本能寺の変は武田滅亡が大前提なので起こる可能性となるとかなり低くなるかと
上杉景勝がそうでしたね。
猛きものもついには滅びぬ、ですね
武田家最大の版図を築いたのは勝頼です。素晴らしい武将だと思います。
しかし、本当に運が無かった…。
勝頼は優秀です!
優秀とは思いませんね
設楽原の無用の敗戦で、馬場や山県など歴戦の諸将を失っています
約4万の織田・徳川の後詰が到着した以上は撤退するべきでした
高天神の後詰をしなかったのも致命的な誤判断でした
勝頼も氏政も最大版図を築いたかもしれませんが、先代の器量はありませんでした
@@miyakoshim.4443 さん
長篠の戦いは勝頼が優柔不断だった事が敗因。
遮二無二長篠城を攻め落として橋頭堡にしそこで織田軍を迎え撃てば
裏切り者奥平を討ち取り当初の目的は果たせた
として軍勢を温存したまま撤退する事もできたでしょうね。
@@miyakoshim.4443
武田家の継戦能力を想像することがあります。
太平洋戦争の島嶼戦で、バンザイ突撃をして終わった主因は、物資の補給を期待できなかったため
早期の総攻撃を強いられた。
ペリリュー、硫黄島では、補給はできないものの、地下トンネルを掘り、ゲリラ戦の技を使い、持久戦を行いました。
織田は当時の日本の流通の要地を押さえ、本願寺とも長い戦いを行う中で、物資補給も遮断しようとしている。
後年、秀吉も兵糧攻めがだんだん増えていますし、
武田の必須物資輸入を地味に妨害していたのかも。
@@kazumasaotu6016 さん。仰る通りかと思われます。
信玄の西上作戦時と違い、浅井朝倉も滅ぼされ、長島の一向宗も滅ぼされていました。
恐らく信長公記や甲陽軍鑑に書かれている以上に、武田側の焦りもあったのではないでしょうか?
かつての日本や、ロシアのウクライナ侵攻を見るにつけ、このままだとジリ貧だ!と思うと、無謀だと言われても打って出る思考に陥りやすいのか?とも思う次第です。
@@古家武史-f5d さん、私もそう思うのですが、後詰決戦で一気に決着を!という焦りもあったのでしょうね。
長篠城は力攻めすれば落せたと思いますが、信長、家康に籠城されては堪らない。直前の野田城の籠城でも、勝頼は兵を引いています。
勝頼も兵力の劣勢は認識していたと思われ、その差は得意の野戦で両将を撃破する!という誘惑に駆られたのではないでしょうか?
長篠設楽原の古戦場は、彼我の距離が驚くほどに近く、あと一息で信長家康の首が取れる!と期待を抱かせるものがあると思いました。
信長は勝頼のそうした射幸心をも利用したと思う次第です。
武田家滅亡までをスクールウォーズの役者さんが多数出演してたドラマ「女-風林火山」を思いだしました。その中で高遠城生の仁科五郎盛信と家来主従が城内で無念の切腹 →その無念の血が赤く染まったこ彼岸桜として毎年咲くという逸話のシーンが脳裏に浮かんできます。
いつの日かに高遠城跡のこ彼岸桜を見物訪ねてみたいものです。
仁科盛信は地域の人たちに愛されていそうですね。
高遠城の桜、私も1度は満開の桜を見てみたいです。
北条夫人は19歳だったんですね。
ご冥福をお祈り致します。
動画、ありがとうございました。
本当にこの若さでここまでの覚悟と行動ができるのは大したものですね。御冥福をお祈りするばかりです。
信玄に長く仕えていた古参の重臣達は、元から勝頼をあまり信用していなかったみたいですね
勝頼の出自と関係があるのでしょうかね?
@@yamajiro
恐らくですが、勝頼の生母である諏訪御料人が、信玄と敵対した諏訪頼重の娘であったこと。
そして、当初、勝頼は諏訪氏の名跡を継いでおり(武田氏正統の証である信の字ではなく、諏訪氏正統の証である頼の字が名前に入っているのが理由)、嫡男である義信が廃嫡された結果、勝頼の息子である信勝が成人するまでの間の「陣代」という仮の当主という扱いだったのも影響しているのでは?という説を聞いたことがあります。
@@村上智彦-q3u 次代当主の指名序列が、この時代には珍しく逆だった可能性があるのですね
昨日までの同僚が突然社長になった感じと言えばいいか
動画、有難うございます。
勝頼公の最期を腐すような伝承もあるようですが(信勝公を称えたるための引き立て役としてかと思います。信勝公は、織田家に繋がりますゆえ、織田家への阿諛追従のようにも思えます)、こちらの動画のお話のほうが納得が行きます。
勝頼公は、有能で勇猛ですが、さらに、夫人へ振る舞いから見て、心有る武将であったと思いますし、それは、母方の家が滅ぼされたという不幸な記憶もあるからだと、思います。
武田勝頼が武田氏を滅亡させたというより、武田氏の滅ぶのは必然と思われかねない状況があつたかと思います。信玄のなしたことは、いささか人の道に外れており、諏訪明神の天罰が下るという、懸念が当時の人々の心にうつすらとあつたかもしれないと思う次第です。そのこともあり、最後は転げるように、武田家から人心が離れたのかもしれないと思います。
ご視聴ありがとうございます。平山先生の武田氏滅亡の中で紹介されている書物の中では、甲乱記が最も確からしいように感じましたので、甲乱記をベースに製作しました。武田氏滅亡の責任を勝頼1人に負わせるのは私も違和感を感じます。しかし勝頼は信玄のことをどのように思っていたのか、現代に生きる私達には想像がつきませんね。
まさに、めぐる因果は糸車‼️です。
勝頼の最後を知るたびに、絶望の中、あらん限りの力を出して、いや足掻いて奮闘したんだろうなと思うと涙が出て来る。最後まで仕えた土屋氏がその働きを以て、江戸幕府の老中職を輩出するようになったのはよかったと思う。
土屋氏の話は知りませんでした。ご教示ありがとうございます。
@@yamajiro 日本史は根絶やしってのはあまり無いので、調べていくと、意外な人物が出てたりします。特に江戸幕府は武田今川北条の家臣の末裔が結構幕臣として名を連ねてたりします。ぜひ動画作成の参考になればと思います。
@@kumosukeponsuke さんへ
武田四天王の一人で長篠の戦いで討ち死にした山県昌景の子孫は現在、山梨県山梨市にある川浦温泉山県館を営んでいます。
また、討ち死にした山県昌景の首を織田・徳川連合軍に奪われずに守りきり、甲斐国へ持ち帰った志村又左衛門貞盈は山県昌景の右腕的家臣であり、あの志村けんさんの御先祖様でもあります。
もし佐竹義重に
自分達は佐竹家の分家である
と申出て佐竹家の援軍を受け入れていれば
信勝の進言通り新府城に籠城して戦う事になっていたかも知れません。
実際北条氏政は自分の妹が武田勝頼に嫁いでいた関係で武田勝頼に
上杉景虎を武田勝頼に見殺しにされた恨みから織田信長に
味方するか迷った挙句織田信長よりの中立を決め込んで海側への脱出路を断つ程度の働きのみに留めていたので、恐らく佐竹義重と連合して織田信長に対抗する事も特に止めず、後に北条氏政自身が織田信長と不仲になった事を考えるとむしろ佐竹ー北条ー上杉ー武田の連合軍が結成されていた可能性もありました。
実際信勝は佐竹義重との連携も視野に入れていた様です。
霧島兵庫著『甲州赤鬼伝』という本があります。
長篠の戦で討ち死にした山県昌景の
次男、山県昌満の物語。
山県昌景の代名詞であった
『赤備え』の継承から
山県家再興に獅子奮迅するお話です。
山県家も武田と運命を共にすることになるのですが、山県正満の散り際が
非常にカッコ良く描かれています。
大変面白い本です。
武田家滅亡後、武田家と縁のあった
家臣達を徳川方に招き入れますが
伊井の赤備えの基になるのは
山県正満の家臣、広瀬美濃守が
伊井の家臣になる条件として
赤備えの着用を認めさせた。と
締めくくって物語は終わります。
大変面白い本なので
お奨めです。
長文、失礼しました。
Really enjoyed your high quality video. Thanks for the great work. Hopefully you may concern adding English or Chinese subtitles to future videos. Love your great work.
仁科盛信かっこいいよなあ
確か寝返りを薦めてきた使者の鼻を切り落として
俺らは木曽や穴山とは違う。あんな不義不忠の不届き者と一緒にするな!
攻めてきてみろ。例え最後の一兵になって城を枕に討ち死にしても構わない!
と追い返したんですよね。
@@古家武史-f5d 最後切腹して腑を天井に投げつけたってエピソードもすきです かっこいいです
BGMがうるさ過ぎて声が聞き取りにくい
感じ方には個人差がありますので、ご容赦ください。
例え真田の元に逃げたとしても信長は武田父子を打ち取らない限り帰京しないから本能寺の変は大幅におそくなるか起こらないはず。
勝頼の長篠後の領国立て直しは再評価される傾向にありますね。
長篠後の甲斐は、短期間ですが中世→近世の過渡期に思います。
長篠で有力国人が良くも悪くもいなくなってしまったからですかね。
個人的には高天神城の放置→遠江瓦解、上杉援護→北条敵対の2点が武田包囲網を助長させてしまったのが大きかったと思います。
自分も岩櫃に行ってればと思いますが、真田も小山田ムーブする可能性があったので、結果論ですね。
動画面白かったです(*´-`)
いつもご視聴ありがとうございます。確かに御館の乱と高天神城の見殺しが大きかった気がしますね。勝頼も決して凡庸な武将ではなく、並み以上の才覚の持ち主だったと思いますが、信長と家康がその上を行っていた感じですかね?
@@yamajiro 次回以降、徳川関係との事で、大河もありますから、楽しみにしてます😉
有名所は近世に大改修されてしまって、なかなか戦国の匂いが残ってないのが残念です…
豊田市の大給城、松平城はセットで回れますから、おススメですよ!
次回も楽しみにしてます♪
後父信玄がやらかした最大の失敗
佐竹家を敵に回した
事が大きい。
どう言うことかと言うと
佐竹義重と武田信玄は佐竹家も武田家も源頼義を祖に持つことから
どっちが源氏の本流か
を巡って論争を起こし、これが原因でせっかく味方につけた北条家が佐竹家との争いに巻き込まれて武田ー北条ラインが上手く機能しなかった上に死後も尾を引いた為、長篠の戦いで対佐竹の後詰に諏訪衆を残さざるを得なかった事で動員兵力が減少し、織田信長の大軍にやられた
と言う経緯があるからね。
佐竹家にしたら
源氏の本流を名乗る者が平家の後継である北条に味方するのは源氏の名を汚す
と言う思いもあったし、後年織田信雄追放を秀吉に進言したのも
織田信雄が平信雄を名乗っていた時期があるからで、関ヶ原で東軍についたのも時流以上に徳川家康が源家康を名乗っていたから。
@@古家武史-f5d 源氏の本流を争うような佐竹が、藤原氏発祥の家康を、氏で味方するでしょうか?
東軍にも完全には味方しないで改易されてますし…
BGMがもの悲しい
ツーリング中に立ち寄りました。田野古戦場、姫が淵と見て回りました。ここが武田氏終焉の地と感慨深いものがありましたね。
コメントありがとうございます。そうですね。私もあの場所に立って色々と考えてしまいました。
設楽が原、長篠の戦いが武田氏の分かれ目ですね。勝頼の運命も数奇なものです。つくづく乱世の世の中だったんてすね。また次回からの徳川も期待してます!
いつもご視聴ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
信勝は信玄以上だったような。
ご冥福をお祈りします。
高速バスで大和を通ると「武田家終焉の郷」という看板を目にしました。何時の日か天目山に登ってみたいものです。あの看板はまだあるのでしょうか?高遠城は近くにあります。
すいません、撮影に夢中で気が付きませんでした。機会があれば是非栖雲寺にも立ち寄ってください。
@@yamajiro 様 御返信に深謝します。
裏切ってその時は生き延びても、結局相手方からの信頼すら勝ち得ず不遇な最後を遂げている。
何だか現代の人の生き方と同じですね。
人間の本質は今も昔も変わらないかもしれませんね。
面白いけどbgmが大きい
声が小さい
一応チェックしながら制作していますが、感じ方は人それぞれですので、ご容赦ください。
私もbgmが大きく
感じます。
ナレーションの声が
聞こえ難く思いました。
ナレーションの声を
大きくするか、
bgmを小さくすれば
良いように思います。
最後まで付き従った家臣は10数人と女性達だと言われてますね
織田軍の中でも獰猛性が高かった滝川勢からの
なぶり殺しだったのでしょう
特にまだ10代半ばの長男・信勝と北条家からの夫人には哀れという感情しかない
時と場合によっては堅固な城を築城し籠城することも大事だと思います。しかし人は石垣人は城に固執するあまりそれが結局仇になってしまい武田家滅亡を早めたのかも。
ご視聴ありがとうございます。そうですね。その肝心の人が離れて行ってしまったので、どうすることも出来なかったのかもしれませんね。
今年の6月に甲斐の国に行って来ましたよ。新府城に行って来ましたよ。😁
なんちゅう質の高い動画
ありがとうございます。またチャンネルに遊びに来てくださいね。
私は小山田信茂の領地だった郡内地区に生まれ育った者ですが、「裏切者の小山田」と聞いて育ったためか、甲府盆地方面の人々に対し、なんとなく申し訳ないような微妙な感情があります。ほんのちょびっとなんですけどね。
でも、最近では小山田氏の再評価も聞こえてきていまして、「郡内地区が戦場となることを防いだ功労者だ」というものです。本当は彼がどういう思考をしたのか? 今となっては確認することは不可能ですが、激動の中でとった決断はそれなりに評価されるべきでしょう。大月市初狩地区に小山田信茂の首塚があります。「自分の首と引き換えにこの地が戦場になるのを防いだ」という評価も”アリ”だとは思いませんか?
一般に伝えられている内容が実際とは違っているというのであれば、可能性はあるかもしれませんが、今伝えられている事からは、「自分の首と引き換えにこの地が戦場になるのを防いだ」とは考えにくいように思えますが、どうなのでしょうか。
@@yamajiro まあ、確かに言われればあなたのおっしゃる通りなんですけどね。地元の人間としては色々と考えあぐねてしまう・・・という事で、単に聞き流してもらえればと思います。
横入りで失礼します。
この動画は表示のとおり、武田氏研究者の平山優さんの「武田氏滅亡」をもとに作成されているものかと思います。
小山田信茂への評価は現存する資料を他の膨大な資料と合わせ鑑みるとスタンダードなものになってしまうのはやむを得ないのかもしれません。
しかし一方では、「やむを得ない事情」があったことを描いているのが、新田次郎さんの「武田勝頼」と同じくこれを原作としたマンガで横山光輝さんの「武田勝頼」です。
マンガの武田勝頼(文庫版三巻P340~)の台詞を転記すると、
家来「(ひと足先に岩殿城に戻った小山田に向かって)殿!刀をあずからせていただきます」
小山田「なにっ」
家来「御免」
小山田「八左衛門そちも裏切ったのか」
八左衛門「とんでもない なんで拙者が御主人を裏切りましょうや
これも小山田家を安泰に置くためにしたことにござります(中略)それゆえ それがしは独断で玄蕃頭さま(穴山信君)に承知する旨をつたえました これは城内一同の意見にもござります」と言われ軟禁状態となり勝頼を迎えに行くどころではなくなった、のではないか?と新田氏は推察しています。
どのような資料や根拠を元にそうしたのかは不明ですが、皆無であるとも言えそうにない…然れどもこれが事実だっ、とも言えない…
他方「武田氏滅亡」のP661で平山さんは「甲陽軍鑑」によると、と前置きした上で、初鹿野伝右衛門尉という家来が勝頼に合流しようとしたところ、彼の知行地の村人たちに自分の妻女を人質にとられ、どうしてもいくなら◯すと脅されて合流を断念したこと、そして甲斐国内はどこも同じ状況に置かれていたことを紹介しています。
よってマンガの説も明らかな根拠や資料は明確にされていないけど、これも有り得なくもない…
そして、動画冒頭で描かれた高遠城。ここでは小山田兄弟が最期まで戦い抜いていることがP628から述べられている。一方、あの名君とうたわれた會津藩の保科正之の幼少期を支えたという保科正直は「信長公記」によると、なんと織田と内通していたようで…これは保科家の名誉にとって都合が悪い…などなどもうカオスです。
(ちなみに、この保科氏、私の近所の城をどさくさ紛れ的に落とし、長らく治めてきた領主は自害した、と伝わります。
僕が「オマエきたねぇし、やってることエグくね?」と問えば、
保科正直はこう言うかもしれない「いや、この時代の常識だけど。オマエこそ、な~にトロいこと言っちゃってんの、討たれんるぞw あの城、兵を後詰めに出して手薄だったんだからぶん取らなくてどーすんのよ?ww
これで家臣にボーナス出せるぜ! ヒャッハー\(*≧∀≦*)」
僕「(゜ロ゜;……」
もあるかもしれん。
つまるところ、平山さんは「検証 長篠合戦」で仰っている「歴史学の成果は、すべて仮説である」というところに行き着くのかもしれません。
でも、ああだこうだ言っているのが一番楽しい訳でして(^^)v 横入り、長文ご容赦くださいませ。
@@北原義明 書き込みありがとうございます。そのマンガ、面白そうですね。今度探して読んでみます。
戦国時代は特にカオスですよね。「保科正之」の名がありますが、彼の幼少期の養育者が見性院と信松尼(松姫)で、共に信玄の娘。で、彼女らの兄弟に仁科盛信=高遠城主がいますが、その高遠城は結局、保科正直のものになりますね。で、正之は正直の子、正光の養子となったと聞きます。高遠城をめぐって、新旧城主である仁科家と保科家にかかわりを持ってしまう見性院と信松尼・・・歴史とは何たる皮肉、いやカオスと申しましょうか。
映画の影武者が好きで何度も見ていましたが、「おじじ!」と懐いていた勝頼の子供も結局は一緒に自刃して武田家は滅亡したのを初めて知りました。
勝頼が不運すぎて同情してしまいました。
勝頼親子の最後は涙を誘われますね。
奸臣、佞臣と当時の武田家や後世から悪し様に罵られている跡部勝資が殉死し(まあどの道処刑されただろうが)おじ、従兄弟ら身内含め、ほとんどが見放したというのが皮肉。
小山田信茂の岩殿山(かなり難攻不落なので、実際に立て籠れば長期の籠城は可能だったかも)じゃなく、真田昌幸の吾妻選べば?という話もあるが、小山田も真田も武田を盟主にしている国人土豪なので、果たして「真田だったら無事」となるかどうかは謎。或いは真田が勝頼を裏切る可能性はあった。離脱したのも見方を変えれば勝頼を見放して領地に逃げ込んだ、武田信廉などと変わらないが、「勝頼に吾妻入城を勧めたが、勝頼は小山田の誘いを選んだ」という主張が昌幸の命を救った。
もし勝頼が真田を選び、一緒に戦えば良いが、小山田の様な裏切りをしたら、処刑されていたのは昌幸の方で、当然真田は滅んでいた。これが運命の分かれ道だった。
運命といえば、やはり武田信玄の判断ミスだろう、諏訪の血を引き、甲斐の人では無い勝頼を後継者にするのがマズイのはわかるが、勝頼の子を後継にすれば諏訪の血なのは同じこと、勝頼自身決して無能では無いのに、老臣たちの支持が今一つ得られなかったのは勝頼が正式な後継者では無かったからだろう。自分が父親信虎を追放した故事から、義信を自刃させてしまった時点で武田滅亡は始まってしまった。
強烈に死を意識したときに、その人の本質がでる
丁度弓矢と槍から鉄砲による合戦の様変わりに乗り遅れた感もあるけれど、やはり家督相続というのは家臣団との折り合いが重要だと感じる
その後何故か配流地で名前をよく聞く高遠の桜舞い散るさまは見事です
勝頼なりに精一杯やったと思いますが、生まれなど、勝頼ではどうすることも出来なかったこともあったのではないでしょうか。
余りに哀れ過ぎて正視できない。
父親が偉大過ぎると辛いものね。
勝頼の最期と織田信長の最期を比べると、織田は家臣による織田の権益を簒奪するなど哀れなものだと感じる。
秀吉
ちょっと・・・・人聞き悪いなwww
ワイ仇討ちして、葬式もしたのにwww
北条夫人の実家も壮絶な最後を迎えることになるのが悲しすぎる。分家が明治まで残ったのがせめてもの救い。
19歳でこのような決断と行動が出来ることに畏敬の念さえ覚えます。凄い決意と行動ですね。
滝川隊が突出して無理をしたから一益は欲しがっていた名物殊光小茄子を入手できなかった。後詰を待ってもっと慎重に攻撃していれば織田陣営の被害も少なかったと思えてならない。
片手千人斬りの土屋昌恒。子供たちは母と駿河に落ち延びる。戦後、家康に拾われて、長男は千葉久里浜で大名に。孫は老中にまで出世。幕末を経て現代にまで土屋家を残す。
土屋の奮戦はそれだけ凄まじかったのであろう。
彼は岩明均原作のレイリにて、準主役級としてその活躍が描かれている。
ご教示ありがとうございます。最後まで主君のために戦ったからこそ、家康息子を取り立てたのかもしれませんね。
勝頼さんのおべっか武将達は信玄から「こいつら使えねー」と言われてたみたいですね。
そうなんですか。ついでに排除しておいてくれれば良かったのにと思ってしまいます(笑)。
武田信玄は、領国を保つ事より、織田信長と戦う事を選んだのが失敗でしたね。上洛せずに、甲斐国、信濃国、上野国を保てば、大名として残ったかもしれませんね。
そのとおり
小山田だけ周辺の城持ちと違い、調略を受けていなかった事から、織田方からみても離反は難しいと思われていたのでしょう。
しかし、次々に離反していく様を見て、イケると思ってしまったのか。
勝頼の首を前に、信雄より他は調略であったとそこで知ったのかもしれませんね。。
某ドラマの温水演じる小山田位怯えながら処刑されたのでしょう。
この頃から裏切りしたらろくな目にあわないのに関ケ原でも裏切った大半は取り潰しになってましたね。明智よりこの小山田ののほうが遥かにたち悪いと思うよほど驚き何故?と思い哀れに殺されたのだよね。ざあまあ見ろですね。
小山田信茂も当然調略は受けていたと思いますよ。
真田昌幸と小山田信茂が、勝頼に織田家からの手紙を差し出して、織田から調略を受けましたと報告しにきて、勝頼が、他の者も当然調略を受けているはずなのに、報告しに来たのはお前たちだけだと嘆いたという話が有ります。
その話の続きで、小山田信茂は裏切るつもりはなかったのだけど、小山田一族が離叛を決めていて、小山田家の本拠地に戻った信茂は軟禁状態にされて仕方がなく織田に寝返る事を決めたという話です。
これが事実なのかは今となっては分かりませんが、私はあり得る話だと思っています。
似たような話が他にも有って、勝頼の側近の初鹿野信昌は、武田滅亡時に勝頼の元に駆けつけようとしたのだけど、既に変心していた領民達に妻子を人質に取られて、勝頼の元へ行く事を諦めざるを得なかったといわれてます。
@@すけたま-k3p そんな話があったのですね戦国時代に有名な話で、尾張、三河武士と農民は裏切るのは当たり前だから信用できない言われてましたね、柴田勝家でさえましてや家康の三方ヶ原での武田との戦いでも兵士は負けそうになったら家康を捨ておいて先に帰って家が死んだと言って回ったとか、だから信長、秀吉、家康は尾張三河武士は信用できないから見捨てて領地を変えたのですよね。それと同じかと思いましたが違うようですね、でもそんなことならますます小山田は可哀想ですね。
@@すけたま-k3p 調略を受けていなかったとされる理由としては、寝返った後、信雄からの仕打ち(処刑)が上げられます。
調略の上ですと、嫡男、老母、妻、女子とともに処刑と一族迄は及ばないと思います。
しかし、おっしゃるように、当人と一族とのやり取りが上手くいかず、こういった結果になった可能性は有りますね。
なんにせよ、根拠と結果が理解できる説が無いのがもどかしい所。
@@rwdpostqan390
織田の調略はかなり徹底していたので、武田家でも名を知られていた名将の小山田信茂が調略を受けていなかったとは考えにくいです。
また、当時の習いとして、調略を受けていた時に内応の約束をしていたかどうかが重要で、それが無かった場合には、土壇場で寝返っても認められない場合が多いのです。よくて領地没収、一族全員処刑も珍しくはないですね。
なるほど今回は、
一龍斎貞やす風、観てきたような講談師調、で来ましたか…
パチパチ…🙌🙌🙌🙌
ご視聴ありがとうございます。次回の信康事件も講談師調で行く予定です(笑)。平山先生の著書をベースにして作っていますが、平山先生の文章は引き込まれますね。よろしければご覧ください。
@@yamajiro
信康事件…
私は読書の際は基本的に主人公に
なることが多いです。
信康事件を別の小説で読んだ時は
既に長男が一回で生まれており、
それはもう愛おしい存在でありました。目の中に入れようと試みましたが…入らず断念!
然し乍ら、信康の下りは
既に関係者全員、此の世のひとではない、
とはいえ誠に可哀想な出来事でありました。
自分が家康でなく良かった、
馬上でンチ漏らさなくて
ヨカッタ、と安堵致しまする~
というか、
戦国時代に生まれなくて
良かった!ということですね😁
織田、徳川(とくに徳川)。そして上杉、北条と四方八方から攻められて、長篠から数年は持ちこたえたが、滅んでしまった。
上杉は謙信死後、景勝か景虎かで跡目でもめた御館の乱で、北条氏政は息子の景虎を推していたのに、仲裁に入った武田勝頼だったが、結局は景勝が跡目を継ぐ事になり、北条は勝頼にも怒った。というのを名目に武田領に攻め込んでいた。
北条は、景虎が跡目を継げば一番。負けて景虎が継げなくても弱った武田領(駿河の東部)へ攻めれば良いというプランだった。
歴史にタラレバは禁物ですが、どうしても信玄・謙信が生きていればなあ・・って思ってしまいますね。
まあそれ以前に、信玄・謙信・氏康と言う戦国屈指の大名が関東甲信越でお互い牽制状態になっていたのが
信長には大きかったと思うが、歴史は必然と偶然が折り重なって進むのですね。
ご視聴ありがとうございます。その信長も3か月後には亡くなってしまいますからね。上杉景勝からしてみれば、絶体絶命の窮地だったところ、本能寺の変が起きて、景勝からしたら本当に幸運だったですしね。上杉が信玄の末裔を家老として召し抱えたのは、御舘の乱での援助もあるのでしょうか。本当に幾重にも折り重なって進んでいきますね。
この情勢だと信玄、謙信が勝頼、景勝の立場になるだけかと
景徳院の武田氏の墓所は荒れていました
尚更に哀れを感じる状態です
本来なら、地元の自治体で保存して観光名所としも宣伝活動をするのでしょうが
お寺の所有物としてその点が出来ないとか?
なんかありそう!
ご視聴ありがとうございます。私の勘違いかもしれませんが、地元の甲州市さんは、この墓所の調査をして公開もされておられますので、大切に思っているように感じましたが、違いましたかね? 墓の調査報告書です。
chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/www.city.koshu.yamanashi.jp/docs/2017051600118/file_contents/2017051600118_rekisi_bunka_files_20160204_takedakatsuyorinohaka_chousahoukoku.pdf
「仁科盛信の子 信基と信貞が旗本として仕える」とありますが、信基が旗本であった根拠はあるのでしょうか?
寛政重修諸家譜 巻第百七十一に信貞は記載があるのですが、盛信の子孫としては疑わしいので数代後の信道から系図が記載されています。
信基は寛政重修諸家譜の中に記載が全くありません。
ご指摘ありがとうございます。お恥ずかしい話ですが、この辺りのことはwikipediaでの記述を元に書いたと思います。ちょっと記憶が定かでないですが、wikipediaの仁科盛信の項目2人のことが出ていますが、名前からして?がついていますし、信基はそもそも実在したのかというところから議論があるようですので、私の調査不足のようです。ご教示ありがとうございました。
小山田でなく、真田昌之のいわびつ城にいっていれば😓
その選択が出来る武将であれば、そもそもこんな状況にはなっていないのではないでしょうか。
@@惟任日向-r5d
真田昌幸がいかに優れ、信頼されていても
1、その兄達は自分ではなく信綱を主君扱いし、自分をあくまでも諏訪勝頼として中継ぎ扱いしてきた
2、例え北条氏政軍は妻のゆかりでなんとかすり抜けられても、本拠地に落ちるまでに今度は佐竹義重軍、更に佐竹軍と何とかなってもその後は織田信長と同盟した伊達輝宗軍と戦うことになり、こうなるといくら戦上手の真田昌幸がついていても絶対に勝ち目がない事。実際この案唯一の頼みである上杉景勝も信長家家臣の柴田勝家と伊達輝宗軍に挟み撃ちされて武田救援が不可能だったし、信長死後の新発田氏の乱も背後にあった伊達輝宗の死によって漸く平定できたくらいだった。
と言う理由で真田昌幸を頼るよりは小山田につき、せめて北条氏政と和睦してから佐竹義重に父信玄の無礼について詫びを入れ(この点でも武田二十四将の一角であった真田家は不適)て背後を固めて織田ー徳川に対抗する策を取ったのでしょう。
これは現に武田勝頼死後織田と北条で戦争が起きてますから、小山田の裏切りさえ無ければ決して間違った策では無いですし
北条氏政には武田勝頼として
佐竹義重には諏訪勝頼として
父信玄の無礼を詫びていれば何とかなったのでしょう。
勝頼の失敗は
父同様周囲に詫びる事の出来ない性格だった事で
これは父信玄も
自分は上杉謙信についに詫びることができなかった。あの男なら自分やお前がキチンと詫びれば許してくれるし、ワシの死が漏れてもすぐそれに乗じて軍は向けてこない。三年喪に服して上杉謙信に詫び入れろ。ワシの死は上杉謙信にはバレても良いが、織田信長や松平家康、足利義昭には絶対漏らすな!
と遺言したくらいですから。
ちなみに織田信忠は好敵手として武田勝頼を高く買っており
意気揚々と武田勝頼の首を持ってきた小山田をその場で斬首、更に武田勝頼の首を丁重に祀ってます。
織田信長も小山田を匿った(というより小山田を弔った)僧を火炙りにして処刑してます。
@@古家武史-f5d 長々と書かれてますが、私が言いたいのはもっと前です。政治的選択なんですよ。御館の乱で影虎を見捨てて、景勝の味方をして北条の後ろ楯を失ってしまった時点で敗けです。佐竹などは、北条と交戦中で手が出せないので問題ではないし、この時点では伊達も論外。むしろ反佐竹で同盟を組める。
影虎を跡継ぎにして、北条上杉武田で連合を組めば緒勢力の情勢も変わっていたし、織田徳川連合もアプローチを変えていたでしょう。
@@古家武史-f5d あと、この時点では北条氏政は弟を見捨てられて激昂しているので同盟に応じる筈はありませんし、謙信公は既に亡くなっています。失礼ですが、勉強不足だと思います。
新府城で裏切った木曽にブチキレて勝頼が木曽とか裏切った武将の家族「人質」を約300人近く処刑した話しがあっても良かったと思います
処刑しないと人質にする意味が無いし他にも示しが付かないので、当然の行為でしょう。
ただ現代の視点からそれを残虐性と結びつける人がいるので、あえて触れないのも良い判断だと思います。
あの時代でも柴田勝家みたいに人質を開放した者はいるので、人望を得られないような人格が招いた結果と言えなくはない
@@フクナガ-e2i雇われ支社長とオーナー社長の違いがあると思うよ。どっちが良いとかじゃなくて立場による意識の違いが処分の違いを生む。
@@フクナガ-e2i人望があろうがあるまいが、その理論で開放しちゃうと人質自体が無意味になって人質に変わる保証や証明の方法を見つけなきゃだねぇ。
@@user-a11112 あの時点では人質を開放しようがしまいが武田の負けはほぼ確定している
素晴らしいストーリーですが現実はもっと混乱しており混乱化した状況のまま自刃もしくは討ち取られた可能性が高いと思います。嫌な言い方をするともっと逃げ回った上に討ち取られるような情けない最後だった可能性があるとおもいます。生き残ってる人がいたとしても戦闘中の混乱している状況を何々はどうしたなどということを詳細に語れるはずはないからです。また昭和史を記した半藤一利も「歴史の当事者は嘘をつくこと」を指摘しています。人は同情心や自分自身の見栄や虚栄心などからまた「戦争における人殺しの心理学」などにありましたが悪意はなくてもそのその悲惨な体験を自分の中の良心の呵責などから事実を捻じ曲げて認識してしまう事がわかってます。ですから事実よりもドラマチックに盛られている可能性が極めて高いと私は思います。
そうですね。甲乱記や理慶尼手記など、記録によって記述がまちまちですし、真実はわからないでしょうね。私もこの動画を作る際に、間近でずっと見ていて、何かしら記録をとらないとここまで詳しく書けないだろうにと思いながら作っていました。生き証人の言葉だからと言って、すべて正しいとは限らないのもその通りだと思います。いずれにしても、これらの内容については、何らかの脚色・記憶違いがあるのではないでしょうか。1つの物語としてご覧いただければと思います。でも逃げ回っていた可能性もあるとは思いますが、この物語のような生き様であって欲しいとも思ってしまいます。
@@yamajiro ある記録(覚書)によるとあっけなく討ち取られたとあるしそれが事実のような気がする。
@@yamajiro 批判的な内容であるにも関わらず冷静なお返事をいただき大変ありがとうございます。私自身、このようなストーリーにケチをつけるのは無粋だとわかっていますし、自分自身もこのようなドラマチックな最後であってくれたら良いと思えます。しかし人の死を美化すると言うのは戦争賛美に繋がり、戦争の悲惨さを誤魔化す事になります。私自身若い頃はこのような美しい死に憧れがありました。しかし現実は逃げ回って疲れ果てた上に追い詰められての死が美しいはずもないし、様々な実際の戦争の記録などを見た時、人の死とはあまりにも呆気なく、しかも無惨なものでした。私は武士道とかそういうものを誤解してこんな悲劇を若者が願望として持つようになってほしくないのです。ただ動画事態とてもよくできたものでした。見ていて胸にくるものがありました。
信長公記にあるように敵である織田方が称賛する最期なので、奮戦の末で討ち取られたのだと思いますよ。
戦国の世では現代における戦争の心理学など一切通用せず、現代の価値観なら隠蔽して当然の朝倉義景の嫡男で僅か6歳の阿君丸を斬った事実も淡々と書かれています。
上杉の跡目争いの時に、ガッチリ、北条、上杉、武田で連合のままなら、歴史は、変わった気がしますね。
御舘の乱と岩殿城行きについては、もし、違う選択をしていたらと考える方が多いですね。どうなっていたのでしょうか。どうしても考えてしまいますね。
@@yamajiro 人生で唯一最後まで読んだ小説が武田勝頼の②冊です。そんな影響もあり、武田勝頼は、一番好きな武将です。
人を信じやすく、優しさや、弱さがあったから結果的に滅亡になるまでになったのかなーって、個人的な考えにすぎませんが、だから逆に人間らしい人だったのかなーと、思ってます。登録しました☺️
武田勝頼は、諏訪勝頼だった。それは甲斐国の親族衆が裏切った事が示しています。
最後はみんな滝川一益隊に包囲されたと言っているが、史実は徳川隊だったはず
戦に限らず、事業でも投資でも男は戦いに負けてはいけない。
負けを美化しても始まらない。
確かに
高待遇で優遇されていた奴ほど、よく裏切るんだよなぁ。
武田の家臣は、武田の分家ばかりだったのに
「血縁」ほど信用できないモノはない・・・ (´・ω・`)
最後は雪崩を打つようにという感じでしたね。
@@yamajiro
葵徳川三代で家康が秀忠に将軍を譲る時に言った台詞を思い出します
「頼るべきは身内にあらず、忠義の家臣と心得よ」
武田勝頼がうれいなく家督次げてればな?有る意味信長を越える戦略家はいないと思った
私も同感です!
小宮山友晴の最後の忠義は、勝頼にとってせめてもの救いだな
ただ、そんな小宮山を遠ざけるようでは、勝頼はやはりダメ君主だ
嗚呼、哀れなるかな武田勝頼公。
先代が偉大過ぎて。
武田義信を殺した事が武田氏が滅んだ原因です。武田信玄の誤りの一つです。
私もこれがなければどうなっていたんだろうと思わずにはいられません。
やはり、勝頼は諏訪勝頼でしかなかったような気がします。甲斐国の親族衆や国人衆をまとめきれなかったのは、勝頼は諏訪のにんと認識されていたから。義信だったら、甲斐国の親族衆を含め、たとえ滅んだとしても裏切りは少なかったはず。
武田義信、飫富虎昌、穴山某以外、義信の家臣達まで成敗して戦力ダウンさせた、武田信玄は愚かですな。
俺も武田贔屓だけど、客観的に見ると勝頼の外交音痴が招いた末路。御館の乱で金に目が眩み上杉景勝に肩入れして北条を敵に回したのが致命的なミス。さらに信長との和睦をアテにして高天神城を見捨てたことで、味方からも失望を買ったのが残念。
せめて信玄の半分程の外交能力があれば、甲斐1ヵ国くらいキープ出来て存続出来たのでは?
仰ること、私も同感ですが、武田氏に物凄く思い入れがあるわけではない私からすると、そもそも信玄が今川との同盟を破棄し、反対した義信を廃嫡したこと、諏訪頼重を和睦と称して自害に追い込み、娘を側室としたことなど、既に信玄の代には綻び始めていたように思うのですが、どうなのでしょうか。
@@yamajiro
信長の養女を母に持つ信勝にさっさと家督を譲った上で、信玄時代に持ち上がってた、後に信松尼と称した勝頼の妹と信長嫡子の信忠の婚姻話を復活させてれば……あるいはほんの少しは和睦の可能性があったかも。
勝頼が信玄の後を継いだ経緯やら因縁はあるけど、勝頼になっちゃったのは仕方ないから、そこから信長を相手にどう延命させるか……だね。
そういう面で、信玄時代から織田との交渉を一手に担っていた秋山晴近(信友)を岩村城で失った事は大きな痛手だったと思います。ある意味、馬場や山縣を失った以上に。
@@ここをキャンプ地にした なるほど。参考になりました。ご教示ありがとうございます。
武田が滅亡しないifを考えてみるけど、一度戦火を交えた後は浅井朝倉同様、信長は勝頼の助命とか認めるとも思えないから、どうにもならんかなあ…勝頼にその気があったら信玄没後に和睦して関係改善を目指し、その後従属という形で降伏、甲斐一国を安堵とか…無いか
もし信玄没後の早い時期に勝頼が信長に降伏していれば、意外に許してもらえる気がしますがどうですかね? ただ、勝頼にはその時点では降伏する気はさらさらなく、むしろ織田・徳川などまとめて滅ぼしてやるくらいの気持ちのような気がしますので、結論はtobyon1973さんと同じだと思います。
@@yamajiro そうでしょうねえ。仰る通り、長篠での大敗後でも降伏を考えたようには思えませんし滅亡は不可避なんでしょうね。もし小山田ではなく真田の岩櫃城に逃れてたとしたら信長はそのままにはしておかず真田も共に滅んでいたかもしれませんね…他の方も書かれてますが本能寺の変も起きてなかった?かも
いやあ。良いです!信勝は結構有能だったのかな?
そう思いたいですね!
歴史はおもしろくない。
わけがわからんからつまらん‼️と言うけれども。
面白い。
こんなにハラドキのドラマはない‼️‼️と感じました。
勝頼の自刃を、東濃岩村城にて光秀と共に聴く。と
岩村城址には記されていました。
真偽はわかりませが、因果の不思議を感じます。
諏訪御前の息子でしたか。
わずか10年前に京に旗を立てよう、としていた武田の無様な姿。武田節とは真逆に郷里甲斐を敵兵に蹂躙されとるがな
どうする家康よりもこの動画見てた方が大河ドラマ見ている様な気がする人の生き様も人それぞれ生きる価値に何を見出すかも人それぞれでも生きた感は現代人より伝わるのは、私だけかな?
ご視聴ありがとうございます。この動画は平山優さんの『武田氏滅亡』の甲乱記の記述をベースに製作しました。ベースのストーリーが秀逸でしたので、惹きつけられる方もいらっしゃるのかなと思います。先日映像部分を作り直したリメイク版をアップしましたので、お時間がありましたらご覧ください。
このとき、当時16歳だった勝頼の嫡男の信勝は、土屋山城守高久に伴われて上州羽沢村(現、甘楽郡南牧村)へ落ち延びたという有力な説がある。
信勝は、武田家と同じく新羅三郎義光を祖とする羽沢城主市川四郎兵衛貞吉に匿われた。
そして信勝は49才で没し南牧村大日方笹ノ平に埋葬された。その後、武田家の嫡流は市川の分家という立場で生き延びた。
なお、大正3年の大正天皇祖奥井式典に際し信玄公に従三位を贈位することになった。位記宣明を受け取る信玄公の正統の子孫を決めるにあたり、市川家伝承の古文書、墓等が山梨県によって詳細に調査された。しかしながら正統と断定されるまでには至らなかった。
また、武田家の金山衆も多く移り住んだため、見事な石垣が今でも至るところに見られる。
江戸時代には軍事的重要拠点として徳川家の直轄地となり(入り鉄砲出女等)監視の関所が南牧村砥沢に置かれた。中山道の碓氷関所とは異なり厳しいお取調べが少なかった為、女性や善光寺参りの参拝者達に利用され砥沢宿は賑わった。この街道は上州姫街道と呼ばれた。
人の往来も多く、天領で税も安く、質の良い砥石が産出され、かつ蒟蒻や葱も名産であったため非常に裕福な村であった。
明治になると近隣に富岡製糸場が作られたため養蚕業で栄えた。また林業でも大いに栄えた。
真田に行った方が良かったと思います。
そうすれば、違う結果になった。
私も真田の方に行ってほしかったと思います。
甲府から岩櫃城までは150km以上ありほぼ山道。道中キツい峠越えが何箇所もある。時期は2月ー3月とまだ寒く場所によっては雪も残っている。女・子供連れ。という諸条件を考えると真田行きは現実的ではないかと。だからこそ勝頼もこの案を却下したのでしょうし。
小山田信茂の裏切りは想定外だったと思います。
信茂は、義信事件後に、武田家で孤立気味であった勝頼に寄り添っており、長篠でも御親類衆が戦線離脱していく中でも、最後まで勝頼を護衛していたと言われています。
そんな信茂を勝頼は、外様の真田より信じていたと思います。
@@umakara55 さん
山越えもですが
道中で佐竹義重の軍勢に襲われたら女子供を多数抱えての逃避行故いくら戦上手の真田でもどうしようも出来ない
そう言う判断もあったと思います。
実際佐竹義重と武田信玄は戰寸前まで行ってるし
もし佐竹義重が関東管領上杉謙信の命令と称して戦挑んできたら三方原で勝った武田信玄がその隙に甲斐国を佐竹義重に奪われた
と言う悲劇もあり得たからね。
恐らく小山田の進言を受け入れた
と言うより都留に滞在して佐竹義重に事実上の降伏をして道中の安全を保証してもらう交渉をしつつ織田信長軍を迎え撃ち、佐竹義重の護衛の下で岩櫃城に移動する
と言う策でしょうし、それがベストですね。
佐竹義重とてうっかり武田勝頼に味方しようものなら
織田信長の意を受けた伊達輝宗に背後突かれるから
父信玄との因縁を理由にして武田軍に襲い掛かる可能性大でしょうし。
ちなみに上杉景勝も伊達輝宗の牽制策で二正面作戦を強いられてましたし
手取川で勝利した上杉謙信がいきなり軍を引いたのも伊達輝宗が織田信長と同盟して越後侵攻の姿勢を見せたから。
@@isawisaw655 さん
小山田への信頼以上に
もし真田の進言通り岩櫃城に向かったとしても
真田は裏切らないとしても
逃避行中に佐竹義重の軍勢に襲われたらいくら戰上手の真田昌幸がついていても女子供を抱えた逃避行中ではどうする事も出来ない
と言う判断もあったのでしょう。
実際長篠の戦いで戦死した信玄公以来の重臣の家で唯一小山田の進言を受け入れた勝頼と別れるまで味方していたのが真田昌幸ですから。
武田勝頼公R.I.P.
この史実をなぜ大河ドラマでやらんかね
「どうする家康」やるよりもおもしろいと思うんだけどね
大河ドラマ「武田信玄」「風林火山」の続編的でいいと思うんだけどね
武田勝頼にもう少し聞く耳があり(四天王を死なさずに済んだ)、父である信玄公へのコンプレックスが無ければ(領土拡大の執着による北条を裏切るったり、父のできなかった領土拡大を望んだり)武田は滅んでなかったかも……
ご視聴ありがとうございます。今回の動画は、平山先生の武田氏滅亡の中の、甲乱記の記述に基づいて作りましたが、出典によって結構描写は違うようですので、今となっては何が真実であるかはわからないのではないでしょうか。でもどの歴史ドラマも、何かしら創作は入っていますので、新しい視点で大河で取り上げてほしいですね。
最後の最後に裏切った小山田信茂と嫡男が投降先の織田信忠に不忠者の見せしめとして首を打たれた事は勝頼の魂をいくぶんか安んじただろうか