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※訂正いたします。伊奈備前守を伊奈備中守と紹介しておりました。大変失礼いたしました。
ありがとうございます!
スパチャありがとうございます!嬉しいです!励みになります!ありがとうございます!
日々生誕の地で平和に暮らしています。家康さん、ありがとう😊😊
コメントありがとうございます!自分も井伊家領内ですが、近くに史跡があり、楽しく生活させてもらってます。
興味ある動画でした。
コメントありがとうございます。嬉しいです!よろしくおねがいします。
この動画、好きだ。
コメントありがとうございます。嬉しいです!励みになります。ありがとうございます。
感謝しかありません🙏
コメントありがとうございます。嬉しいです!ありがとうございます!
ありがとうございます勉強になった❤
コメントありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです!
これだけの数の家臣の名前とその功績だけでなく関東の地名と石高を覚えなきゃならなかった家康さんは大変でしたね。
コメントありがとうございます。相当側近の人物が走り回ってたんだなと思ってしまいます。
@@kotsubachの。
1万石とか2万石と聞くと、少ない所領と感じてしまうかもしれないが、2万石が50人もいれば、100万石となり、家康の所領の半分がぶっ飛んでしまう。良き武将を召し抱えるというのは、大変なことと改めて思う
コメントありがとうございます。これが成り立つ、徳川家の仕組みが本当に凄いです!!
三河の土地と家臣を切るためにも良かったろうな家康には
コメントありがとうございます。新しい流れを取り入れる絶好の機会です。
天下を取れる取れないは部下の才能と担ぎ上げられる人徳が有る無しで変わる。家康も凄いと思うけど徳川の為に命を捨てる覚悟の家臣団が沢山居るって事が他の大名よりも強かったのかなぁ。
コメントありがとうございます。三河武士たちら恵まれた家臣たちがいたことが非常に大きかったですね。
群馬と千葉ばかりが多くて驚きです。埼玉、神奈川も少しありましたが、栃木を筆頭に他の地域は徳川家の直轄地だったのでしょうか。
コメントありがとうございます。残りの約100万石が直轄地となります。今回細かい直轄地の調査ができなかったのですが、江戸近辺となっていたので武蔵や相模が中心と推測します。栃木については、調べたいと思います。ありがとうございます。
@@kotsubach下野国には、宇都宮市、小山氏、蒲生氏、足利氏が居ました。「秀吉以前」の戦国大名で特に足利氏は説明不要と思いますm(_ _)m彼等は旧領安堵です。この一連の関東仕置と呼ばれる采配を、秀吉は宇都宮城で行ってます。
本多正信が治める玉縄城の近所に住んでおりました。一度謀反を起こしたことから、高禄を辞退したのは納得です。息子の正純は10万石以上請負い、釣天井で取り潰されましたが💦
コメントありがとう。父・正信は、すべての事情を鑑みて、正純に助言してたってことなんでしょうね。力のバランスというのは、難しいものですね、、、
@@kotsubach正信が大久保家を潰したのを正純が倍返し食らったとも言える正純がイキってあちこちに恨みを買ってたのではないかな
意外と松平が多いですね。あまり大河ドラマとかでは名前、活躍がなかったようですが、まあ遠い親戚でもやはり多少は「身内」を周りに置いたと言う事でしょうか?
コメントいただきありがとうございます。松平家の中でも、低迷期から支えて繋がりが強かったり、婚姻関係があったりとやはり貢献度の高さはあるかと思います!
大変有意義かつ勉強になりました。有難うございました。
コメントいただきありがとうございます。嬉しいお言葉です。励みになります!ありがとうございます!
阿保は神流川水系で上野方言の地ですが武蔵国賀美郡にあります。現在の神川町。
コメントいただきありがとうございます。今回詳細不明とさせていただいてましたので、貴重な情報です。ご教示いただきありがとうございました。
動画で紹介された石高をたすと109万6千石になりました。関東が江戸城を本丸とする大きな城のようになっていて難攻不落感がすさまじい。
コメントありがとうございます。1万石以下は一部しか紹介できなかったのですが、今回紹介できなかった、服部半蔵や松平諸氏、大久保彦左衛門など、たくさんいたので最終的に150万くらいになるのではないかとおもいます。相当な防衛体制が成り立っていたということですね!
亀姫凄いな。
コメントありがとうございます。亀姫は、立派な姫君だと私も思います。
酒井重忠が関東に入ったときは、まず生麦だったような、、、また 河内守は関東入りした際はそうだったかと思いますが、雅楽助を継いだときに雅楽頭になって、忠世が河内守を継いでいたかと思います 順番はまず、河内守を継いでから雅楽頭だったと思います どうでしょうか
コメントありがとうございます。この度は一般的な受領名を載せてました。私の手元では確認できなかったので、今後調べていきたいと思います。貴重な情報ありがとうございます。
久松松平家、比較的安全でしかも水運を管理する関東で最もおいしい地、異父兄弟って戦国時代は関係薄いものかと思ってたけどずいぶん異父弟かわいがってたんだな。
コメントありがとうございます。数々の戦いに従軍した康元を労う形の配置でしょうか。
大谷吉継の敦賀代官みたいなものだから、普通は内政の才を認められて且つ主君とツーカーみたいな人を置きたいのですが、どうなんでしょうねえ。まあ家康陣営で流通に明るいの誰だってなると特に思い浮かばないから康元でいいのかもしれないけど。@@kotsubach
貴種を作り出すのに苦心した感じはなんとなく察しられる感じやね。
ここでも、一万石以下でも服部半蔵の名前ないのかぁ~。かわいそうすぎる。
1万石以下のところで入れれば良かったと思いました。失念してしまいました、、、
初めまして!うちは先祖代々伊奈忠次の子孫と伝わってますが祖父は伊奈備前守と言ってました動画では伊奈備中守と紹介されてますがどちらが正しいのでしょうか?
コメントありがとうございます。大変申し訳ございません、おしゃられてる通り備前守が正しいです。誤ってご紹介いたしました。コメントで訂正入れさせていただきます。
初めまして私も伊奈忠次の子、代官忠公その子供の左門忠利(旗本2000俵)の子孫です。動画では1万石と言われていますが関八州の代官頭として実質的な領地は30万石とも60万石とも言われています。(通常代官で5万石、代官頭で7~8万石)遡ると2代ほど「太平記」で足利家を支える荒川姓を名乗り、その2代前が戸賀崎姓を名乗りますがその前は足利を名乗っており足利尊氏とは親戚筋。 更に遡ると源姓を名乗り頼朝など親戚となります。因みに富士山の麓には伊奈神社があり、富士山宝永噴火の際に周辺59ヵ村を救済するため行動し幕府の戦時用備蓄米倉庫の米を住民に配るなど(後にその罪で処罰される)救援に努めたため地元も村人が「神様」として神社を建立されたそうです。(新田次郎の「怒る富士」)武勇では有名では有りませんが農業政策や経済政策で幕府を支えますが、「伊奈の治める御領からは飢える民が出ない」と言われ、当時「備前の守と申せば農民は元より、町人、商人に至るまで神仏とお慕いする」と記録があるそうです。 ご存知の事ばかりかと思いますが書かせて頂きました。今回この動画を拝見し、同じ祖を持つ方と繫がれましたこと嬉しく思いますし、身の回りに起こる不思議としか言いようのない事の多さに驚くばかりです。どうぞ皆様のご健勝と繁栄をお祈り申し上げます。
@user-gf1kr3vz2x ご子孫の方にコメントいただきありがとうございます。短い紹介でしたが、このように貴重な情報をいただきありがとうございます。
@@kotsubach 様タイトルから逸脱しました先祖自慢、大変失礼いたしました。自慢ついでに伊奈忠次は豊臣秀吉からも「家臣になるなら1万石を与える」といわれたそうです。
秀吉も欲しがる逸材だったということですね!!
信濃守護でありながら武田の進行により領地を追われて後に非業の死を遂げた小笠原長時(秀政の祖父)も武田滅亡や孫の栄達ひいては小笠原家の繁栄を知っていたら大いに喜んでたろうな。
コメントありがとうございます。はい!信濃ではないですが、大名として各子孫たちが続いてくことが喜ばしいです!
他の人もコメントしてますけど、服部半蔵がいないのが切ない。
コメントありがとうございます。私も忘れてしまったことが痛恨の極みです、、、
大河で見てると松潤に合わせてるせいかみんな若く見えてたけど当たり前に結構年取ってるな
コメントありがとうございます。確かに!1600年に近づくと50は超えて来てますもね、、、
中々良く纏まっていて、保存版にしたいと思います。
コメントいただきありがとうございます。嬉しいです!よろしくお願いします。
土岐定政は、光秀の従兄弟だとか。斎藤家によって明智家が滅ぼされたときに菅沼氏に引き取られたらしい。家康と光秀には不思議な縁がありますね。
コメントありがとうございます。こういう繋がりを知れるだけで、すごく嬉しくなってしまいます。光秀の繋がりは興味深いです。
菅沼の外孫でして幼年の頃に美濃から逃げて来たとか生母の再嫁に同行できず母の弟に養われ、菅沼藤蔵としてしばらくは過ごした様です
@@kotsubachああああ😂
1590年の石高はどのように調べたのでしょうか?気になります。
コメントいただきありがとうございます。参考文献を載せ忘れておりました。菊地浩之氏の徳川家臣団の系図や、現地の説明書きを参考にしております。
@@kotsubach ありがとうございます😊
今の埼玉県飯能市はどちらの方が治めていたのでしょうか
コメントありがとうございます。現在調べてる途中なのですが、範囲が広くおそらく直轄地ではないかと推測してます。川越藩領にも一部重なってる部分があるのではないかとも思いつつ、確認中です。
@@kotsubach さん。自分も調べたら中山という方ぽいです。それにしても凄いリサーチ力に感服致します
小田原が生んだ偉人二宮尊徳金治郎も小田原藩大久保家の治世に生まれたようですが、その始祖が大久保忠世なんですね。😮
コメントありがとうございます。大久保忠真の治世の頃の話ですね。大久保忠世の子孫たちが財政難に直面していた頃ですね。
牧野やら伊奈やらやはり三河に多い名字
コメントありがとうございます。自分三河エリアに行ったことがないんですが、やはり多いんですね。
尾張も含め、本多・榊原・大久保・石川・内藤・鳥居・平岩・中根・渡辺・阿部・服部はいますね。井伊は一人だけあった事ありますね。
コメントいただきありがとうございます。そうなのですか!地域性の話をこういった形で聞けるのが嬉しいです!ありがとうございます!
@@kotsubach 貴チャンネルは勉強になります。あと牧野も何人か出会いましたね。尾張には織田系の丹羽・柴田・森・林・佐久間・佐々・簗田・平手もいますね。木下も結構いますがこれはさすがに秀吉の木下とは違うでしょうかね。あと不思議なのが「織田」がいないw関西ではたまに織田がいますが、これは徳川期の大名家としての織田家が西日本にあったからでしょうか。
小笠原掃部大夫信嶺、掃部寮の長官は頭なので、大夫とはさすがの武家官位ですね。
コメントいただきありがとうございます。名門・義光流の血を引くって感じがしますね✨
@@kotsubach 掃部大夫という職は律令に存在しないので、いかにも武家が勝手に名乗った感じがします。名乗るなら掃部頭とすれば良かったのにね。
かみすけじょうさかんの、基本にね😊
御先祖様も居て安堵
コメントいただきありがとうございます。御先祖、徳川家臣だったのですね。すごいです✨
質問です。家康が関東240万石ということですが、この240万石は動画で紹介した家臣団の石高も合わせて240万石なのか、独立した家臣団の石高を抜いて家康直轄領が240万石なのか、どちらでしょうか?
コメントありがとうございます。240万石は家臣の込みの数値となります。直轄地は内、約100万石程度だったはずです。
@@kotsubach ありがとうございます!勉強になります!
伊奈備前守です。
ご指摘ありがとうございます。訂正コメントを入れました。大変失礼いたしました。
よくご存じですね。
服部半蔵(服部正成)は?
大変失礼いたしました。失念しました。入れれば良かったです。
秀吉君、家康君の、関東移封の際、口を出してたのね。
コメントいただきありがとうございます!10万石以上には関わってるみたいですが、他にも関わってるかもしれませんね!
ご先祖様が出ませんでした、、、、
コメントいただきありがとうございます。ちなみに御先祖様はどなたにあたるのでしょうか。
@@kotsubach 当方本名と同じ名字なのでご免なさい
@ルンルン-f6l そうでしたか、より多くの徳川家は紹介したいので、いつか登場させたいです!
「大輔」は、「だゆう」ではなく「たいふ」では?
ご指摘いただきありがとうございます。大変失礼致しました。
今の大河は見てないから俳優の顔見てもピーンと来ない・・肖像画でお願いしたいです。
コメントありがとうございます。承知いたしました!どちらも載せられるようにしたいと思います。ありがとうございます。
@@kotsubach ありがとうございます。これからも視聴させていただきますね
@kumosukeponsuke 嬉しいです。ありがとうございます。
移封~いふうですか?
コメントありがとうございます。これは「いほう」です。私も初めは間違えてました、、、
井伊直政は徳川家臣団に加わったのは他と比べてもかなり遅いし、ましてや若年。でも、衰退していたとはいえ、先祖は藤原氏で、家康も含め、家臣団の中でも最も由緒ある家柄の出だからごぼう抜きの出世ができた。江戸時代を通して譜代筆頭でもある。でも、直政は有能ではあるがキレやすい性格だったらしく家臣には仕えにくい城主であったと思うな。
コメントありがとうございます。人斬り兵部ですね...家臣たちが生きて帰れないかもしれないって思って、毎日出仕してたという話もあるので、恐ろしい話です、、、
凄いね…簡単にはこれだけの動画は作れないゎ。玉石混交…釣りタイトルや詐欺パクリ動画が視聴回数を稼ぎまくる中…いゃぁ 久しぶりに良い動画を見させていただきました。🙏🙏🙏
コメントいただきありがとうございます。非常に嬉しいお言葉、感謝申し上げます。励みになります。ありがとうございました!
関が原 10年前
コメントいただきありがとうございます。
秀頼の事を考えれば、秀吉は、 家康を関東に移すべきではなかった
コメントありがとうございます。統治の失敗を狙ったのか、、、信用の上の移封という話も聞いたことがあり、秀吉の真意がどこにあったのか気になります。
本多榊原井伊の石高が高いのは秀吉の要望の為
0000
嬉しいです‼️こちらこそありがとうございます‼️これからも良いもの作れるように鋭意頑張ります✨
※訂正いたします。
伊奈備前守を
伊奈備中守と紹介しておりました。
大変失礼いたしました。
ありがとうございます!
スパチャありがとうございます!
嬉しいです!励みになります!
ありがとうございます!
日々生誕の地で平和に暮らしています。家康さん、ありがとう😊😊
コメントありがとうございます!
自分も井伊家領内ですが、近くに史跡があり、
楽しく生活させてもらってます。
興味ある動画でした。
コメントありがとうございます。
嬉しいです!
よろしくおねがいします。
この動画、好きだ。
コメントありがとうございます。
嬉しいです!
励みになります。ありがとうございます。
感謝しかありません🙏
コメントありがとうございます。
嬉しいです!
ありがとうございます!
ありがとうございます
勉強になった❤
コメントありがとうございます。
そう言っていただけて嬉しいです!
これだけの数の家臣の名前とその功績だけでなく
関東の地名と石高を覚えなきゃならなかった家康さんは大変でしたね。
コメントありがとうございます。
相当側近の人物が走り回ってたんだなと思ってしまいます。
@@kotsubach
の。
1万石とか2万石と聞くと、少ない所領と感じてしまうかもしれないが、2万石が50人もいれば、100万石となり、家康の所領の半分がぶっ飛んでしまう。
良き武将を召し抱えるというのは、大変なことと改めて思う
コメントありがとうございます。
これが成り立つ、徳川家の仕組みが本当に凄いです!!
三河の土地と家臣を切るためにも良かったろうな家康には
コメントありがとうございます。
新しい流れを取り入れる絶好の機会です。
天下を取れる取れないは部下の才能と担ぎ上げられる人徳が有る無しで変わる。
家康も凄いと思うけど徳川の為に命を捨てる覚悟の家臣団が沢山居るって事が他の大名よりも強かったのかなぁ。
コメントありがとうございます。
三河武士たちら恵まれた家臣たちがいたことが非常に大きかったですね。
群馬と千葉ばかりが多くて驚きです。
埼玉、神奈川も少しありましたが、栃木を筆頭に他の地域は徳川家の直轄地だったのでしょうか。
コメントありがとうございます。
残りの約100万石が直轄地となります。
今回細かい直轄地の調査ができなかったのですが、江戸近辺となっていたので武蔵や相模が中心と推測します。栃木については、調べたいと思います。ありがとうございます。
@@kotsubach下野国には、宇都宮市、小山氏、蒲生氏、足利氏が居ました。「秀吉以前」の戦国大名で特に足利氏は説明不要と思いますm(_ _)m
彼等は旧領安堵です。この一連の関東仕置と呼ばれる采配を、秀吉は宇都宮城で行ってます。
本多正信が治める玉縄城の近所に住んでおりました。一度謀反を起こしたことから、高禄を辞退したのは納得です。息子の正純は10万石以上請負い、釣天井で取り潰されましたが💦
コメントありがとう。
父・正信は、すべての事情を鑑みて、正純に助言してたってことなんでしょうね。
力のバランスというのは、難しいものですね、、、
@@kotsubach
正信が大久保家を潰したのを正純が倍返し食らったとも言える
正純がイキってあちこちに恨みを買ってたのではないかな
意外と松平が多いですね。あまり大河ドラマとかでは名前、活躍がなかったようですが、まあ遠い親戚でもやはり多少は「身内」を周りに置いたと言う事でしょうか?
コメントいただきありがとうございます。
松平家の中でも、低迷期から支えて繋がりが強かったり、婚姻関係があったりとやはり貢献度の高さはあるかと思います!
大変有意義かつ勉強になりました。有難うございました。
コメントいただきありがとうございます。
嬉しいお言葉です。
励みになります!ありがとうございます!
阿保は神流川水系で上野方言の地ですが武蔵国賀美郡にあります。現在の神川町。
コメントいただきありがとうございます。
今回詳細不明とさせていただいてましたので、貴重な情報です。
ご教示いただきありがとうございました。
動画で紹介された石高をたすと109万6千石になりました。関東が江戸城を本丸とする大きな城のようになっていて難攻不落感がすさまじい。
コメントありがとうございます。
1万石以下は一部しか紹介できなかったのですが、今回紹介できなかった、服部半蔵や松平諸氏、大久保彦左衛門など、たくさんいたので最終的に150万くらいになるのではないかとおもいます。
相当な防衛体制が成り立っていたということですね!
亀姫凄いな。
コメントありがとうございます。
亀姫は、立派な姫君だと私も思います。
酒井重忠が関東に入ったときは、まず生麦だったような、、、また 河内守は関東入りした際はそうだったかと思いますが、雅楽助を継いだときに雅楽頭になって、忠世が河内守を継いでいたかと思います 順番はまず、河内守を継いでから雅楽頭だったと思います どうでしょうか
コメントありがとうございます。
この度は一般的な受領名を載せてました。
私の手元では確認できなかったので、今後調べていきたいと思います。貴重な情報ありがとうございます。
久松松平家、比較的安全でしかも水運を管理する関東で最もおいしい地、異父兄弟って戦国時代は関係薄いものかと思ってたけどずいぶん異父弟かわいがってたんだな。
コメントありがとうございます。
数々の戦いに従軍した康元を労う形の配置でしょうか。
大谷吉継の敦賀代官みたいなものだから、普通は内政の才を認められて且つ主君とツーカーみたいな人を置きたいのですが、どうなんでしょうねえ。
まあ家康陣営で流通に明るいの誰だってなると特に思い浮かばないから康元でいいのかもしれないけど。
@@kotsubach
貴種を作り出すのに苦心した感じはなんとなく察しられる感じやね。
ここでも、一万石以下でも服部半蔵の名前ないのかぁ~。かわいそうすぎる。
1万石以下のところで入れれば良かったと思いました。失念してしまいました、、、
初めまして!うちは先祖代々伊奈忠次の子孫と伝わってますが祖父は伊奈備前守と言ってました
動画では伊奈備中守と紹介されてますがどちらが正しいのでしょうか?
コメントありがとうございます。
大変申し訳ございません、おしゃられてる通り備前守が正しいです。
誤ってご紹介いたしました。
コメントで訂正入れさせていただきます。
初めまして私も伊奈忠次の子、代官忠公その子供の左門忠利(旗本2000俵)の子孫です。
動画では1万石と言われていますが関八州の代官頭として実質的な領地は30万石とも60万石とも言われています。(通常代官で5万石、代官頭で7~8万石)
遡ると2代ほど「太平記」で足利家を支える荒川姓を名乗り、その2代前が戸賀崎姓を名乗りますがその前は足利を名乗っており足利尊氏とは親戚筋。
更に遡ると源姓を名乗り頼朝など親戚となります。
因みに富士山の麓には伊奈神社があり、富士山宝永噴火の際に周辺59ヵ村を救済するため行動し幕府の戦時用備蓄米倉庫の米を住民に配るなど(後にその罪で処罰される)救援に努めたため地元も村人が「神様」として神社を建立されたそうです。(新田次郎の「怒る富士」)
武勇では有名では有りませんが農業政策や経済政策で幕府を支えますが、「伊奈の治める御領からは飢える民が出ない」と言われ、当時「備前の守と申せば農民は元より、町人、商人に至るまで神仏とお慕いする」と記録があるそうです。
ご存知の事ばかりかと思いますが書かせて頂きました。
今回この動画を拝見し、同じ祖を持つ方と繫がれましたこと嬉しく思いますし、身の回りに起こる不思議としか言いようのない事の多さに驚くばかりです。
どうぞ皆様のご健勝と繁栄をお祈り申し上げます。
@user-gf1kr3vz2x ご子孫の方にコメントいただきありがとうございます。短い紹介でしたが、このように貴重な情報をいただきありがとうございます。
@@kotsubach 様
タイトルから逸脱しました先祖自慢、大変失礼いたしました。
自慢ついでに伊奈忠次は豊臣秀吉からも「家臣になるなら1万石を与える」といわれたそうです。
秀吉も欲しがる逸材だったということですね!!
信濃守護でありながら武田の進行により領地を追われて後に非業の死を遂げた小笠原長時(秀政の祖父)も武田滅亡や孫の栄達ひいては小笠原家の繁栄を知っていたら大いに喜んでたろうな。
コメントありがとうございます。
はい!信濃ではないですが、大名として各子孫たちが続いてくことが喜ばしいです!
他の人もコメントしてますけど、服部半蔵がいないのが切ない。
コメントありがとうございます。
私も忘れてしまったことが痛恨の極みです、、、
大河で見てると松潤に合わせてるせいかみんな若く見えてたけど当たり前に結構年取ってるな
コメントありがとうございます。
確かに!
1600年に近づくと50は超えて来てますもね、、、
中々良く纏まっていて、保存版にしたいと思います。
コメントいただきありがとうございます。
嬉しいです!
よろしくお願いします。
土岐定政は、光秀の従兄弟だとか。斎藤家によって明智家が滅ぼされたときに菅沼氏に引き取られたらしい。家康と光秀には不思議な縁がありますね。
コメントありがとうございます。
こういう繋がりを知れるだけで、すごく嬉しくなってしまいます。
光秀の繋がりは興味深いです。
菅沼の外孫でして幼年の頃に
美濃から逃げて来たとか
生母の再嫁に同行できず
母の弟に養われ、菅沼藤蔵として
しばらくは過ごした様です
@@kotsubachああああ😂
1590年の石高はどのように調べたのでしょうか?気になります。
コメントいただきありがとうございます。
参考文献を載せ忘れておりました。菊地浩之氏の徳川家臣団の系図や、現地の説明書きを参考にしております。
@@kotsubach ありがとうございます😊
今の埼玉県飯能市はどちらの方が治めていたのでしょうか
コメントありがとうございます。
現在調べてる途中なのですが、
範囲が広くおそらく直轄地ではないかと推測してます。川越藩領にも一部重なってる部分があるのではないかとも思いつつ、確認中です。
@@kotsubach さん。自分も調べたら中山という方ぽいです。それにしても凄いリサーチ力に感服致します
小田原が生んだ偉人二宮尊徳金治郎も
小田原藩大久保家の治世に生まれたようですが、
その始祖が大久保忠世なんですね。😮
コメントありがとうございます。
大久保忠真の治世の頃の話ですね。
大久保忠世の子孫たちが財政難に直面していた頃ですね。
牧野やら伊奈やら
やはり三河に多い名字
コメントありがとうございます。
自分三河エリアに行ったことがないんですが、やはり多いんですね。
尾張も含め、本多・榊原・大久保・石川・内藤・鳥居・平岩・中根・渡辺・阿部・服部はいますね。井伊は一人だけあった事ありますね。
コメントいただきありがとうございます。
そうなのですか!地域性の話をこういった形で聞けるのが嬉しいです!
ありがとうございます!
@@kotsubach 貴チャンネルは勉強になります。あと牧野も何人か出会いましたね。
尾張には織田系の丹羽・柴田・森・林・佐久間・佐々・簗田・平手もいますね。木下も結構いますがこれはさすがに秀吉の木下とは違うでしょうかね。あと不思議なのが「織田」がいないw
関西ではたまに織田がいますが、これは徳川期の大名家としての織田家が西日本にあったからでしょうか。
小笠原掃部大夫信嶺、掃部寮の長官は頭なので、大夫とはさすがの武家官位ですね。
コメントいただきありがとうございます。
名門・義光流の血を引くって感じがしますね✨
@@kotsubach 掃部大夫という職は律令に存在しないので、いかにも武家が勝手に名乗った感じがします。名乗るなら掃部頭とすれば良かったのにね。
かみすけじょうさかんの、基本にね😊
御先祖様も居て安堵
コメントいただきありがとうございます。
御先祖、徳川家臣だったのですね。
すごいです✨
質問です。
家康が関東240万石ということですが、この240万石は動画で紹介した家臣団の石高も合わせて240万石なのか、独立した家臣団の石高を抜いて家康直轄領が240万石なのか、どちらでしょうか?
コメントありがとうございます。
240万石は家臣の込みの数値となります。
直轄地は内、約100万石程度だったはずです。
@@kotsubach ありがとうございます!勉強になります!
伊奈備前守です。
ご指摘ありがとうございます。
訂正コメントを入れました。
大変失礼いたしました。
よくご存じですね。
服部半蔵(服部正成)は?
大変失礼いたしました。
失念しました。入れれば良かったです。
秀吉君、家康君の、関東移封の際、口を出してたのね。
コメントいただきありがとうございます!
10万石以上には関わってるみたいですが、他にも関わってるかもしれませんね!
ご先祖様が出ませんでした、、、、
コメントいただきありがとうございます。
ちなみに御先祖様はどなたにあたるのでしょうか。
@@kotsubach 当方本名と同じ名字なのでご免なさい
@ルンルン-f6l そうでしたか、より多くの徳川家は紹介したいので、いつか登場させたいです!
「大輔」は、「だゆう」ではなく「たいふ」では?
ご指摘いただきありがとうございます。
大変失礼致しました。
今の大河は見てないから俳優の顔見てもピーンと来ない・・肖像画でお願いしたいです。
コメントありがとうございます。
承知いたしました!
どちらも載せられるようにしたいと思います。ありがとうございます。
@@kotsubach ありがとうございます。これからも視聴させていただきますね
@kumosukeponsuke 嬉しいです。ありがとうございます。
移封~いふうですか?
コメントありがとうございます。
これは「いほう」です。私も初めは間違えてました、、、
井伊直政は徳川家臣団に加わったのは他と比べても
かなり遅いし、ましてや若年。
でも、衰退していたとはいえ、先祖は藤原氏で、家康
も含め、家臣団の中でも最も由緒ある家柄の出だから
ごぼう抜きの出世ができた。
江戸時代を通して譜代筆頭でもある。
でも、直政は有能ではあるがキレやすい性格だったらしく
家臣には仕えにくい城主であったと思うな。
コメントありがとうございます。
人斬り兵部ですね...家臣たちが生きて帰れないかもしれないって思って、毎日出仕してたという話もあるので、恐ろしい話です、、、
凄いね…簡単にはこれだけの動画は作れないゎ。
玉石混交…釣りタイトルや詐欺パクリ動画が視聴回数を稼ぎまくる中…
いゃぁ 久しぶりに良い動画を見させていただきました。🙏🙏🙏
コメントいただきありがとうございます。
非常に嬉しいお言葉、感謝申し上げます。
励みになります。
ありがとうございました!
関が原 10年前
コメントいただきありがとうございます。
秀頼の事を考えれば、秀吉は、
家康を関東に移すべきではなかった
コメントありがとうございます。
統治の失敗を狙ったのか、、、
信用の上の移封という話も聞いたことがあり、秀吉の真意がどこにあったのか気になります。
本多榊原井伊の石高が高いのは秀吉の要望の為
0000
ありがとうございます!
嬉しいです‼️
こちらこそありがとうございます‼️
これからも良いもの作れるように鋭意頑張ります✨