【永田鉄山】日本陸軍史上最高のエリートとされた男。なぜ白昼の陸軍省内で陸軍中佐に斬殺されたのか。そして、彼が生きていたら日本の歴史はどう変わっていたのか。
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- Опубликовано: 9 ноя 2024
- こんにちは。『祖国日本』です。
主に日清戦争、大東亜戦争でどのような出来事が起こっていたのかという戦争史、昭和史を漫画によって配信していきます。週に2本ほど上げていく予定です。
参考文献;陸軍良識派の研究―見落とされた昭和人物伝amzn.asia/d/7W...
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優れた人物を理解せず、視野の狭い者の暴走。その結果の亡国のお話。今もそんな危険がありそうです。
語り継いでほしいです。ありがとうございました。
本当にこのナレーション聞きやすい
彼に限ったことでは無いが優秀な人こそ早くにいなくなってしまうのは悲しい
マジですごいなこのチャンネル
どこで調べてるんだ
永田の地元に住んでたが、子供時代全く学校で教えてくれなかった人物だった
後に知った時これほど凄い人物だったのかと驚いた
諏訪ですかね
高島城内に銅像があります
@@スカーレットセブン そうです
郷土の偉人としてこういう人物こそ学校で教えるべきだと思うんですがねぇ
@@sinonon9649
ですよね
同郷の岩波茂雄とも交流があった人ですから
この暗殺事件を同じく長野県出身の栗林忠道将軍も、盲目のバカめらが国の至宝を殺した!と嘆いたと言います😂
戦後日本では軍人に偉人はいないことになったからね、その代わり偉人マッカーサー様ありがとうですから
藩閥打倒後の第一世代が真崎、荒木、林というのは本当に残念だ
真崎が舞鶴要塞司令官という閉職で予備役寸前の林を見所がある
という理由で陸軍大学校校長の役職に据えたのがまちがいだったんだろうな。
私の父が、昭和17年北京の軍事顧問部に新人武官で配属されまもなく山下奉文と対面で食事が有り、出身を聞かれて「長野県の諏訪であります」と言うと、「永田か」と大声でいったきり考え込んでしまったといっていた。
凄い話👏
諏訪の高島城野中に胸像あった。護国神社内ニアリ、郷土の英雄として今も見守って居る❗️
永田鉄山は戦前昭和の最重要人物です。
永田を知らずして先の戦争を理解することは不可能。
永田のプラン(総力戦体制とりわけ資源獲得)を実現するために陸軍一夕会エリート達は満州→中国→東南アジアに向かったんです。
そして並みの軍人なら総力戦体制なんて途方もない構想はできっこないと諦めるところ。
永田は優秀すぎるがゆえに総力戦体制ができる下地を作ったんです。
「日本万歳」
「満州→中国→東南アジアに向かった」これは大馬鹿の選択で戦略皆無。
資源ならソ連に進む方が欧米英、オランダ、フランス中を敵にせずに済む。
敵をソ連だけに出来た。
満州のかなりの分と北樺太
交換すれば良かったのに
中ソにらみ合いで後方の憂いなく資源も獲得できたのに
満州って実は大した資源なかったんですよ。
石炭、鉄鉱石で製鉄所はつくることはできた。10月で冷下20度ですよ。原野が多く、
寒すぎて作物は日本の
寒冷地でもできるように改良した大豆ぐらいのもん。満州経営が
日本のお荷物になったんじゃない。米は当時寒すぎてできなかったから高粱が代用された
統制派、皇道派と言いながら、その実単なる派閥争いで、上の人間に敬意を払わず、突き上げるのが常道化していた陸軍は組織として戦争を勝てるようなものではなかった気がします。
上官の命令には絶対服従とはいいながら
下克上だったんだろうな😮
永田の前に永田なし、永田の後に永田なし、とかいう言葉が出るほど優秀だったと聞く。
このチャンネルでは陸軍士官学校で優秀だったというのは必ずしも良い人材であるとは言えないというが、本物の天才は士官学校の勉強など造作もないのだろうな。
給料の半分を神田の本屋に費やすくらいの読書家で教養があった。
だから政治家&官僚相手に対等に交渉ができた。
逆に東條は............
ご想像のとおりです。
東條英機も記憶力が凄まじく、カミソリと呼ばれていたと聞きましたが、陸大になかなか入れず苦労したとも聞きます。難関だったのでしょうね。
@@kirin2804
東條は記憶力ではなく事務処理能力が高かった、だだ本を読まなかったらしいからね。
日本の経済低迷の原因のひとつは卒業後勉強しない要は本を読まないらしいしね。
@@てりえてりえ 様
事務処理のエキスパートとして、全うすればよかったのに…ですね。しかし、自分は、事務処理屋だという自覚がなかったのですね。永田将軍の下でなら縦横無尽に事務をこなして本人も幸せだったと思います。属した組織が駄目でした。適材適所がわからない。省益追求だけ。
そして、この省益追求だけの役所を御す為の秘策として、一か八かの大命降下。清水さんの舞台から飛び降りたら普通は死にます。
日本はどの時点からどういう判断をすべきだったかとよく考えますが、
第二次大戦のきっかけの一つである1929年アメリカ発の大恐慌は、いわば第一次大戦の特需が無くなった反動不況であり、
ルーズベルトは特需を欲している。
一方、日本の場合、1923年関東大震災とこれによる金融恐慌で、生産側が壊滅的損害を受けます。
永田ら統制派の構想は、例えば満州、朝鮮の重工業化に力を尽くして国力回復に努める感じともとれます。
斬殺した相沢中佐の真意は分からないが、226事件の青年将校は疲弊した国民生活に同情し、下級兵士は貧しい農村出身者も多かったことから、
統制派の再建案ではなく、天皇陛下への直訴のような感情的な動機はあった。
しかし、米英はインドから蒋介石を支援、日本を挑発しており、尾崎秀実はソ連スパイであったことから、
戦線を広げず、満州、朝鮮、台湾などを防御的に開発することもまた難しいと思われる。
原敬が暗殺されたとき、山縣有朋は早すぎるその死を惜しんだそうです。そして、このようにすぐれた人物が軽々しく殺されるようでは、とても日本は持たないと嘆いたそうです。
たった1人の死がのちに数百万人を死なせることになるとは...
それどころか日米開戦、その後敗戦により国家の在り方さえも変えてしまった
@@いいいあああ-b6u 永田がいれば、天才の石原をコントロールし、統制派もうまくまとめられていたのに...そして何より東條が行った優秀な人材を左遷するようなことは起きなかった(後の祭りだけど)
太平洋戦争が回避できたなら、一体何10万単位の人が死なずに済んだんだろう。
欧米列強のような平時と有事に分けた体制にすることを永田は望んでいたと思う。
それが考え方の視野が狭すぎた軍人によって霧散にされた。
この事件の軍法会議という裁判中に2.26事件が発生している。
閑院宮載仁親王は伏見宮博恭王ほどには実権がないイメージだったが、結構実権があったんだな。
自分としては相沢三郎がただただサイコであったから、と思ってしまう。
相沢の狂気が2・26実行の火付けになったと思う。
🌴🌏🐎真実の歴史を学ぶ事が大切な今年は大きな節目ですね🙏
どんな天才でも時代の大きな流れに飲み込まれてしまうのが人間って面白いところだよね
天才の悲劇とは、凡人には全く理解されない頭脳のみにあるのでは無い。
やはりその生涯において、どこかしら何らかの孤独を背負う宿命にあることこそが、天才の悲劇である。
この動画を見て、この方が優秀だったと改めてわかりました。しかし、この方が居たからと言って日中戦争太平洋戦争が起きなかったとは言い切れないと思うし、もしかしたら日本本土決戦等史実よりも大変なことになっていたかもしれないし……
これほど優秀な人物とは
永田が陸軍大臣で石原莞爾が参謀総長だったなら大東亜戦争ももっとマシな戦いになった
石原中将は北支事変、日華事変、2次上海事変は参謀本部作戦部長で実質参謀本部最高位でしたが、武藤大佐を止められない。
上海事変は梅津次官にたしなめられて、満州へ移動願い。
次は皇道派と統制派の2つの系統が生まれた原因の解説をお願いします。また永田は確かに超優秀な人間だっただろうが一軍務局長の死でバラバラになり暴走することになるのは陸軍自体に組織としての根深い問題があったからだと思う。その分析もお願いします。
諏訪在住で子供が永田氏と同じ小学校出身なのに、全然習いませんでしたよ!こんな立派な方が卒業生だったなんて。
戦後はレッドパージで、軍出身者は就職差別されたり、関行男大尉は実家に石を投げられたとか酷い時代だったそうなのでその流れなのかなと思いますが。
諏訪みたいな小さな町に立派な日赤病院があるんですが誘致したのかな?彼の実家は高島城の藩医を代々つとめていた名家だそうです。
ちなみにバトルフィーバーJの司令官が鉄山将軍なのは、この人がモデルである。
スゴイところから元ネタ引っ張ってきたなあ。
ほんまかいな?
@@山田勇一-k1w
ほんまらしいねん。
@@天草屋
スタッフに統制派シンパでもいたのだろうか。
@@山田勇一-k1w
世代的に見ると、監督やプロデューサーは終戦時に小学校高学年ぐらいの世代で、「なんで戦争に負けたんだよ!」と言う悔しさもあった世代ですからね。
そもそも、バトルジャパンが主役でヒロインがミスアメリカと考えると、こじらせ感はありますよね。バトルコサックとか、バトルケニアとか考えてみたら、戦前冒険小説の系譜の世界です。
統制派云々より、「あり得たかもしれない、あるべきだった、夢の正しいWW2」が倉間鉄山将軍には込められている気がします。
ヤマトなんかも、ドイツをモデルとした国家と闘うことで、ナショナリズムと国際主義をすり替え、平和主義と闘いをおりあわせていました。
70~80年代初頭というのは、ようやく敗戦による自信喪失を乗り越え、日本が大国の自覚を取り戻す前夜に当たる時期でした。
あと、東映の生田スタジオは東映の労働争議の中でスト破りで左派をパージして作られたスタジオなので、やや右寄りだったとは思います。
まあ、このあたりはプロデューサーの経歴やスタジオの設立経緯を俯瞰した想像ですが。
高畑宮崎コンビ以外にも、萬屋錦之介、東千代乃介なんかも当時の労働争議で苦労しています。
いつの世も考えが足りない奴が歴史を動かすんだな
特にドイツとの同盟、賛成する人は教養が足りない軍人ばかりだったからね。
@@てりえてりえ 様
さもありなんとは、思いますけども。実際、どのような面々が、賛成していたのか、当方は知らないという次第です。
最も考えの足りないのは、A中佐だと思います。というか、陸軍の人事は、どうなつてるのかと思いますが。陸士卒業時に、そのまま任官を認めたことが間違いかと思います。
更に申せば、事件を起こした後、そのまま新任地へ向かうつもりであったのも驚愕です。中佐ですから、陸士出身のエリートということになります。佐官クラスの人事として、人物評定がどうなつているのか、実に酷い。帝国陸軍は軍隊として、組織として、実は相当にヤバかったのではと疑いたくなります。
本当に、その通りだと思う
@@てりえてりえ ドイツに留学した統制派が総力戦体制、南進策を進め、満州事変や初期の侵攻作戦を勝利に導きましたが、計画がうまくいかなくなると、統制派軍人の戦術で後半の守勢を支えました。それぞれ持ち味を発揮したのかと。
この人めっちゃ知りたかった。
永田鉄山の思考的欠陥は、南進論主義者で小畑敏四郎の北進論主義者と対立し、派閥対立を引き起こした事だと思う。南進を進めれば、いずれアメリカ(フィリピン植民地)、イギリス(香港、シンガポール植民地)、オランダ(インドネシア植民地)と対立し、これらの国といずれ戦争になる事が想像できない事にあると思う。あの時北進論に賛同しソ連を叩いていれば、その後の歴史が大きく変わり、アメリカに占領されることもなく、今の日本のあらゆる問題(日中関係、日韓関係、北方領土問題、アメリカ軍基地問題等)がなかったと思う。
北進論こそ無謀でしよ?
ノモンハンで日本は健闘したとはいえ大人と子供の戦だったからね。
そもそも永田は中国の資源までは想定していたが、東南アジアの石油までは想定していなかった。
石油の時代になってから永田の弟子である武藤章が南進論を唱えたんです。
永田鉄山が南進論を唱えた根拠とされる資料は、荒木貞夫日記に書かれていると関連の書籍で読みました。その後に起きた盧溝橋事件の時に武藤章や田中新一が言いだした対支一撃論がその元だとも。しかし、当時敵対していた皇道派の荒木貞夫の日記ですから疑わしいですし、他にその時のやり取りを示す資料がないとか。それに、むしろ一撃論を言い出したのは、北進論を唱えソ連に対して先制攻撃の予防戦争論を説いた小畑敏四郎の方ではないでしょうか。
皇道派の言う北進論を進めたら、シベリア出兵の二の舞いを踏んだ可能性があります。(あの当時と使っている兵器が違うのもありますが)
永田鉄山を〇した相沢三郎は剣道の達人であり銃剣術の教官まで務めた人物でしたが、軍務局長室で永田の背後からいきなり軍刀で斬りつけたものの、なかなか致命傷を負わせることが出来ずに逃げ回る永田を何度も斬りつけたあげくに、最後は軍刀の刃を握って銃剣のように永田の胸を突いてようやく絶命させたそうです。
刃を素手で握ったために相沢自身も手に深い傷を負い、部屋から出てきたところをたまたま居合わせた山下奉文が相沢の傷の手当てをしてあげたという話が残っています。相沢はその後憲兵隊に逮捕されましたが取調べにおいてもまったく反省する様子もなく、むしろ永田の〇害に予想外に手間取ってしまったことを悔しがっていたそうです。さらに「軍刀は切っ先から三分の一くらい刃が付いていれば十分であり手元側には刃を付けないほうがいい」と妙な意見提言までしていました。やっぱりちょっと頭がどうかしている人物だったようですね。こんな男のためにその後の日本の歴史が大きく変えられてしまったのは残念です。
私も戦記はよく見ているが、初めて知ったことが 散りばめられていた
第一級の内容だ
「総力戦」であるならば、日本と米・英、なかんずく米国との間には絶望的な国力の差があることは理解していたはずです。その国力の差をどう埋めるつもりだったのでしょう。
永田鉄山が死亡したことによって一夕会におけるブレーキ役がいなくなり強硬意見が多数を占めてアメリカとの戦争へと歴史が動き始めた初歩であると考えています
機会があれば永田の盟友で、大将にまで上り詰めた岡村寧次の動画もお願いします‼︎
正に歴史はバタフライエフェクトだね🦋
バーデン・バーデンの密約は、永田、岡村、小畑の陸士16期の同期三人による密約。これに陸士17期の東條、陸士16期の板垣が加わって二葉会に発展。二葉会は木曜会と合同し、一夕会となる。
ちなみに石原は陸士21期。
興味深いのは、陸士19期(今村、本間、河邉など)が軍内派閥に参加していないこと。
こんなすごい人物が日本陸軍にいたとは知らなかった。歴史にifは無意味かもしれないが、もしあと10年長生きをしていてしっかり働いてくれていれば、ルーズベルトの策略に引っかかることなく、太平洋戦争も回避できたかもしれない。とにかく日本は何をさておいても太平洋戦争だけには突入すべきでなかった。東條さえも防げなかった太平洋戦争突入を、防げたのは永田だけかもしれない。結果的には数百万人の死をもたらしたであろう相沢は万死に値する。
石原莞爾ならしないだろう。東条と石原が逆なら、或いは仲が良ければと思うと。
@@室井修-k1r さま
陸士の年次が逆なら……。たしかに。
先輩後輩の序列は良し悪しですね。
私はそう思っていないです。総理大臣兼陸軍大臣には、梅津美治郎大将だと思います。日露戦争を経験し、陸大で永田を抑えて首席で卒業。昭和天皇からも信任が厚かったと聞いていますからね。永田鉄山の能力は陸軍大臣位のものでしょう。かの東条英機大将も、おそらく、彼の次官止まりではなかったでしょうか?それでも、うまくいくかどうか?日中戦争だって、これを回避できたかどうかは、疑問視されています。
永田は給料の半分を神田本屋に費やすくらいの教養の人でありスケールが違う。
陸士、陸大の成績だけだったら他にもたくさんいますしね。
ちなみに石原莞爾も読書家です。
確かに日中戦争の前の華北分離工作は永田が主導したものだしね。
@@てりえてりえ 割とそういう人いますよ。2.26事件の時教育総監だった渡辺錠太郎という大将がいました。彼は丸善という本屋に給料の半分をつぎ込んで本を購入し、読破していました。また元帥副官時代、山形有朋につき、明治憲法について、山県から説明を受けたという事から、その方面にも詳しい学究肌の将軍として有名でした。
@@てりえてりえ 同期生で仲が良かったとされている小畑敏四郎ととある問題で、喧嘩別れしているあたり、自分の考えに賛成でないものは、徹底的に排除するという点で、石原よりは狭量ではないにせよ、器量が小さいとみられても仕方ないと思います。また、土橋勇逸という後輩の軍人が、統制派と皇道派という二つの軍閥について、これは陸軍省と参謀本部、教育総監部といった陸軍の中枢ポストを争う競争であり、皇道派の青年将校や90%以上の無派閥陸軍将校に対しては、その日の目を見るチャンスすら与えられないなんて不公平だと永田に言ったら、今はその時期ではない。後で考えるからといったという話もあります。
@@てりえてりえ 晩年の鈴木貞一という永田の後輩が10年に一度出るかでないかの逸材だと彼を批評していましたが、実際はどうでしょうか?永田自身は軍務局長という要職につきましたが、殺されました。鈴木自身は企画院という役所に出向し、予備役になった後、企画院の総裁として、東条内閣の国務大臣として、太平洋戦争突入の引き金を引いた一翼を担っている。勉強が出来てもしょうがないという事ですね。
永田氏が生きていれば…
当時の狂った陸軍部が引き起こした最悪の歴史でした。
この後、陸軍の狂ったふるまいは…言うまでもありませんが…
勉強になります(`・ω・´)ゞ❗
真崎教育総監がどうして陛下も含めて関係する周りに不人気だったのか、それが知りたいなと思いました。それが皇道派の反発につながったのでしょうから。
しかし、相手が気に食わないなら力に物を言わせるということが、この時代は大真面目に実行されたんだということが驚きです。
永田鉄山と石原莞爾、この軍政と軍略の天才を欠いた昭和12年以降は誠に残念だった。永田だったら石原をうまく生かせたのではなかったか。東条と杉山元ではどうしようもなかった。
軍の暴走 日中 太平洋戦争の悲惨な結果の事を思えば永田の暗殺は最大の損失で生きていればあるいは日独伊三国同盟の事も回避可能だったかもしれない、その後の大悲劇の結末も免れていたかもしれないです。
軍人に天才はいらない。民間にこそ天才は必要だった。
優秀な人材を失う事は惜しまれる事に違いありませんが、当時の世界情勢から見て帝国主義国同士の衝突は遅かれ早かれ避けられなかったと思います。結果として多大な犠牲を払いながらも植民地は解放され、また日本国内においては財閥の解体、農地改革(小作人の解放)、労働組合の設立を含めた労働基準法の成立、基本的人権の尊重、完全平等選挙権の付与など敗戦で得たものは計り知れません。江戸時代以降、既得権益を握って放さない集団を一気に潰せました。亡父も戦前なんかクソ喰らえと申してました。
日本は伝統的に外圧が無いと進歩しない国だからな😂
華族、財閥、大地主、そして帝国陸海軍。
この既得権益と兵営国家という構造は敗戦(外圧)で焼き尽くさないと構造改革できなかった…という感じ。
明治維新で江戸時代からの既得権益は崩壊しています。明治維新以降大東亜戦争終結に至るまでの既得権益も崩壊。
戦後から現在に至るまでの既得権益はまだいきていますが、相続税で、ある程度富の再分配はなされていますからアメリカよりも貧富の差は少ない。
アメリカによる日本社会の社会主義化。という実験は軽軍備と人口ボーナスと為替の有利さと西側世界の工場という優遇措置、そして日本人の気質に合致していたのか大成功をおさめました。
私的には特に明治維新以降の官軍賊軍の差別が敗戦により一蹴されたのが日本社会の正常化に繋がったこと。これが300万同胞が亡くなった事に対するせめてもの慰めになるのではと考えます。
永田が生きていても
歴史はそんなに変わってないと思います
個人の意思で始まった戦争ではなかったから
永田が国家総動員戦というものを考えていたならば
アメリカやソ連と対抗するには日本以外の外国の何処かにそれを完遂する資源を求め押さえなければなりません
拡張主義としての日本の国家意志が結局はアメリカとの全面対決となり
経過は違えど最終的な結果は同じだったと思います
永田ならアメリカの親ソなFDR政権が明確な反日路線に舵を切った時点で、米ソ挟撃による日本国滅亡の危機を察して、陸軍の要所を対中講和へ纏め上げる一方、対外的な宣伝工作を強化して、満州以外からの撤兵と満州への米英資本導入を条件にアメリカかイギリスの仲介による対中講和工作を推し進めただろう。
それだけの視野の広さと柔軟性を持っていた男だった。
日本帝国の影響範囲で石油が出ないってどうしようも無い問題が有るからな
@@syuzredsyuzred8507 あっても当時の日本の資源探査・採掘技術が未熟すぎて自力で突き止められず、他国の企業に頼めば、所属国家の政治的判断が影響して、「石油?ありませんなあ」で済まされてしまう。
後の大慶大油田がその典型。
その大慶油田も質、量がビミョー、重質油で軍艦飛行機戦車が動かせるか?それで中国が大発展したか?
アラブの油田みたいにその発見で石油価格の暴落を引き起す程の量が有るか?
て言うとね
@@syuzredsyuzred8507「日本万歳」
重質油?
「大慶油田は中質油で低硫黄としか判断できない。ところで原油は含まれる炭化水素成分によりパラフィン基原油、ナフテン系基原油、混合基原油、特殊原油に分類される。大慶油田は、このうちのパラフィン系炭化水素を大量に含んだパラフィン基原油にあたる。
パラフィン基原油の場合、精製するとガソリンのオクタン価は低くなる傾向にあるものの重油、軽油、灯油、潤滑油、ワックスについては質の良いものができる。
API度26度未満が超重質油
API度26度~29.99度が重質油
API度30度~33.99度が中質油
API度34度~38.99度が軽質油
API度39度以上を超軽質油」
と言う人によれば・・・大慶油田は中質油、違うんでしょうか?
当時の日本には十分な採掘量、たぶん。
永田鉄山、石原莞爾、梅津美治 郎は天才と呼ばれ陸士、陸軍で学科の勉強してる様子がなかったらしい。
ちなみに東條は陸士合格に二浪してる。父親が中将ですから。
日本軍には合理的な人材がほとんどいなかったのが悲劇。
せめて永田クラスがトップならなあ。本来なら東條なんかは永田の子分だし、指導者なんかやる器じゃなかったしね。
彼の死だけでクーデター全体が始まったと想像してみてください
武装した派閥間の対立がすべての根本原因だった
軍人は一般的に視野が狭く、それほど頭が良いわけではないから、出しゃばらず政治家の言うことを聞いていたほうが良かったのでは。
防大内部のあれこれの話を聞いてるとねえ
皇道派だろうが統制派だろうが、行きつく先は同じだ。どちらの派閥にいようが、日本という国が貧しく資源に乏しいという事実は変わらない。それを精神力で補おうというのはどちらにいても同じこと。そして考え方の底には両派閥ともに日清日露の戦役以来連戦連勝無敗の陸軍という思い上がった気持ちがあり、その陸軍の装備たるや日露戦争の頃とさほどに変わらないものだった。敵性語使用禁止と言いながら戦車や飛行機、軍艦など全て海外で生まれたものばかり。どうせ負けるのなら弓矢、刀と槍、鎧武者の恰好で職業軍人だけでやらんかい。言っていることが支離滅裂、理解不能。こいつらは日露戦争からどういう教訓を引き出したのか。
このIFは興味深い。
理研所長の造兵学者大河内孝敏は戦争の勝敗を決するのは兵器の優劣よりも工業力と言うてたそうだが、永田鉄山もその影響を受けたんかな?
ただその一方で、永田は欧州視察を通じて軍隊が陸軍においても砲兵科などを中心にその専門化が進んどって、専門知識のない徴兵ではやって行けんことが分かったて主張してたように思う。
まず要は国力上げたかったら陸軍力云々とちごて国民の知的能力上げる以外にないちゅうことなんやろな。
日露戦争は、ロシアは農奴、日本は小卒の軍隊
第二次世界大戦は、米国は高卒、日本は小卒の軍隊
そら知的能力に差がありすぎですわ
日本の歴史は全ては小賢しい暗躍のテロによって角を曲がって行ったように思える、その先に在ったのは袋小路の属国への道しるべだったのか
日本の君側の奸である安倍晋三を見事討ち取って政界の闇を白日の下に晒した山上徹也氏は偉大だ。
谷甲州の覇者の戦塵シリーズでは永田鉄山が暗殺されなかったことで、宇垣内閣が流産せず、皇道派の暴走が抑えられ、日中戦争は史実よりも限定的になっている。それでもアメリカとの戦争は始まってしまうが。
しかし同時に、優秀な人材が要所に居続け、粘り強く合理的な兵器開発と軍事戦略でアメリカ侵攻に抗い続けています。
米ソ対立が表面化するまで本土を維持し、冷戦体制に組み込まれることと引き換えにアメリカに戦争継続をあきらめさせれば、国家的な独立は維持できますな。
永田鉄山という人が軍人域を超えて先見の明がある人だと思ったのが、こんにちの我々の生活に欠かせない自動車産業に力を入れたということです。その他にも優秀な人物だったと、旧日本軍関係者は証言しているようで。
あと、永田鉄山は相澤三郎に襲撃される前に、軍務局長という忙しい時間を過ごしている中態々時間を取って話をしたとか。当の相澤三郎も直に話をして、皇道派が言うような人物ではないと、率直な感想を述べているとか。しかし、この相澤三郎が永田鉄山を斬殺して起こした相澤事件が226事件への導火線なのは間違いないと思います。
永田が優秀な人材であることに異論は無いが、永田一人で軌道修正できるような時代でもない。
結局のところもしミッドウェイで勝っていたら?と同じように、対米開戦は避けられなかったと思われる。
永田は当時から陸軍大臣&参謀総長にレクチャーするくらい陸軍で絶大な発言力があったし、兵站軽視の戦は絶対しない戦略の持ち主だったから、少なくとも東南アジアに出ていくことはしなかったと考えます。
41年12月には避けられても、いずれどこかで戦争になりますね。つい最近までアメリカは戦争してましたし。
「日本万歳」
永田ならシナで破壊した資産の補償をアメリカに要求された時に認めたと思う。
アメリカの投資家に損害を与えたのに保証しない事で資本家を敵にした・・
その後も重慶爆撃で資本家の資産を破壊し開き直りを続けた。
永田ならアメリカが国家で無く、資本家の意思で動く事を理解してた、たぶん。
正直、陸軍が経済、産業、外交など国家運営全体を指図しようとしたことこそ、過ちの元凶。この連中が日本を誤まった方向にもっていってしまった。また、陸軍の中枢が、現場の思いあがった若い将校をとめられなかったことも大きい。その結果、明治以来苦労して築き上げた政治、軍事大国としての地位を失ってしまった。本当に残念。
7:45 「滅多ぎり」?、隣の部屋に逃げようと、隣の部屋に通ずる間仕切りのドアを開けようとしたが開かず、背中から刺され絶命。
また、”背中から刺された”では逃げたことになるので事件当初の報道では伏された、だったような?
永田の死後(戦後だったか?)、永田の奥さんと娘さんが路頭に迷った、というような内容の新聞記事を読んだ記憶がある。
優秀性をどちらに向けるかが問題だな。
永田鉄山が殺された理由は今もってハッキリしていません。まだまだサムライというものがいた時代でした。切り合いになったり自決したりは多々ありました。確かに永田は優秀さは定評があり、軍務局にあった時、満州事変画策のまとめ役もつとめました。奉天占領の切り札となった28cm榴弾砲を持ち込んだのは永田のアイデアでした。
一夕会は単なる派閥ではなく、陸大や幼年学校閥と言ってもよく、内容も高度な政治目的を持った結社といえるものでした。しかも徹底的な反長州閥の塊。まだまだ戊辰戦争や西南戦争など色々な対立が色濃く残って反映も見られた時代でもあります。
昭和8年6月大陸方針に関しての合同協議が開かれ、その中で小畑敏四郎らはソ連を最優先とする案をとり、それに対して永田はまず中国を武力で徹底して叩き鎮圧、その後に対ソ政策に入るべきと主張しました。小畑らの理由は中国の蒋介石はアメリカとの関係が深いので、中国との本格的な戦争となればいづれ英米戦となり世界戦争になる恐れがある。中国とは和協の道を持つべきだとの考えでした。
永田は理屈っぽい所があり、そこを東条英機はとくにかっていたそうです。永田が生きていたら大東亜戦争は無かったというのもどうでしょうか疑問です。
敢えて批判を覚悟で書くけどそれほど優秀なら危機を察知できなかったのか。それよりも派閥抗争に巻き込まれないような立ち回りはできなかったのかと思います。否定するわけではないけども志なかばで亡くなると後世の評価は高い傾向にありますね。織田信長しかり坂本龍馬しかりで生存していたらその後に大量失点もありうる。
鉄山と石原莞爾が東京裁判に出ていればと思う。海軍から井上成美も出て欲しい。カミソリだらけで負けなかったろう。武装解除なんて舐めた話はない国家の主権だ。軍事は。国民を守り国体を維持するのが政府の仕事だ。
永田の対支一撃論、小畑の対ソ先制攻撃論
子供の頃(昭和)、マスゴミも評論家も、「皇道派は善で統制派は悪、皇道派は可哀そう、巨悪は永田鉄山」という空気があったが、最近では逆の感じ、皇道派の2.26事件により太平洋戦争の発端と言われている・・気の毒な方である・・
2:56 司忍に似てる
たらればは言っても仕方ないのだけれど、永田鉄山が存命だったら日本の歴史が大きく変わっていたのは確かだろう。
高倉健主演動乱などの影響で、腐敗、守旧派と思ったら、真逆です
永田鉄山が生きていたらと思う。東京裁判でも大活躍だったろうな
華北分離、北支事変、日華事変、支那事変の責任問われます。弟子は武藤。
漫画昭和天皇物語によると軍国的「極端」さに少し足らなかったせい、と書いてあったような・・・。
〜だろう と言う思い込み
がバカげた事で、事態が変な方へ向かうのだ!
731部隊隊長石井四郎が崇拝していたそうです。
永田鉄山が石原莞爾が参謀総長であればと思います。
この人だったら、石原莞爾なんかも使いこなせたでしょうね。
中悪かったらしい。
日米開戦へとつながる日中戦争回避の可能性が否めなくはないが、全ては後の祭りである。
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日米開戦へとつながる日中戦争回避の可能性が極めて低くなってしまったが、全ては後の祭りである。
永田が無事でも最終的には戦争は発生したと思う
ただ史実のような何がしたいのかも分からないまま戦う戦争にはならなかったんじゃないか。
同じ負けるにしても内容の話で、その方がよかったんじゃないかと思うよ
永田鉄山少将を暗殺した
相沢三郎陸軍中佐を
解説して頂きたい
永田少将が原因なのかと
錯覚します
色々と暗躍し
最後は暗殺される
どちらもなんだかなーと考えます
この人が暗殺されたを聞いて、中国三國時代の蜀の費褘を思いました。この人を暗殺されて蜀は衰退して行きました。
人材を失うことが歴史を決めますね。
1人の人間のせいで、何人、何十、何百、何千、何万、何十万の犠牲を払ってはいけないすよ。
当時は分からないけど、俺の中では今も昔もひとつの命に大小は無い。
下々を舐めるな!!!
真崎の退任を誘導した主犯格が永田ではなかったと判明したあとの皇道派の反応が知りたい。
永田が優秀だったとは思うが、陸軍大臣になれたかと言うと?が付くと思う。管理畑一筋で実働部隊での勤務経験は殆どない
優秀なだけで大臣になる事が出来ないのが当時の陸軍。それに永田自身、平和主義者や国際協調路線派でも無かった。
結局は道筋は違っても開戦と言う事になっていたかと思う。
参謀総長は向いていないが、陸軍大臣は最適ですよ。
永田の暗殺は、東條英機が、裏で仕組んだんじゃないのか? でなければ、東條英機が直ぐに行動出来るはずがない 慎重派の永田が死ねば陸軍は東條の思うがままに動かせるからね
日本が国家総力戦としてアメリカと4年近く戦闘が続けられたのも永田の戦略論によるところが大きいね
日本はww1は経験してなかったけど早いうちに分析して将来へ備えていた
戦前の自動車産業の事は調べていたけど
永田の考えが強く影響してたんだな、当時は必死に日本の自動車産業を外資の低価格競争から守ろうとしてたからね
「日本万歳」
日本艦隊を派遣し死傷者を出してるのに戦争経験に成らないんですか?
@@mugakuninn それは輸送船団護衛という限定的ですし、あくまで陸軍の話ですから陸軍は全く経験していません
陸軍を派遣してないから1回の会戦で数十万が死ぬような戦場、飛行機・戦車・毒ガスのような新兵器、塹壕・鉄条網・機関銃のせめぎ合い、膨大な生産と消費、などなどの国家総力戦を理解できなかった
日露戦争に各国が観戦武官を派遣したにもかかわらず、戦争の様態の変化を理解できなかったように、日本は第一次世界大戦の本質を体験・体得できなかったと言える
永田やったわ!
個人でどうこう出来る状況じゃなかったでしょ。
政治家が、不在だな🙄
真崎という人の詳細は知りませんがなんで嫌われてたのですかね。
皇道派の親玉だったからですね。
永田さんは統制派なので。
テロはあきまへんなぁ~
彼の「支那一撃論」は英米との対立を激化させる愚かな主張でした。
永田が長命しても日米戦を避けることはできなかったと思う。
皆さん高評価しすぎでは?
永田にとって非常に不幸なことは、彼の軍事課長時代のことです。上司の小磯国昭に頼まれて、クーデターのしなりを作成したというのです。その計画は、結局日の目を見ることなく、軍務局の金庫にしまわれてしまいますが、後に軍務局長になった皇道派の山岡重厚に見つけられてしまい、ひどく評判を落としたことがありました。ここから、かなり、皇道派の将校から狙われてしまったのでしょう。
永田鉄山が生きていたら石原莞爾も中国で好きにはできなかったろうし終戦も変わっていただろう
永田は支那一撃です。武藤大佐のやった華北分離を遣ってます。
石原は満州国以後は中央で武藤大作を止めてます。
知れてます。日本のエリートなんて。
総戦力体制はむだ
皇道派の無責任な行動のせいで、有能な軍人を失った。
陸軍幼年学校卒が政権を握った時点で日本は終わりだった…
海軍保育園卒が政権を握ったらまだ救いがあったな…
海軍こそ亡国の原因やろwww
海軍の博打うちの山本がアメリカに火をつけたのではないでしょうか?
海軍が動かなければ対米戦はやりようがない。
都知事の小池も、そうなるのかな?
史上最高の優秀な都知事。カイロ大学主席卒ですものね。
永山が、よう勉強できたんは、ワシも知っとるよ!でも天才なんチャラはないで
真崎は何でそんなに嫌われてるんです?
Tetsuyama Nagata died in infighting among Japanese warlords. If he is lucky enough to survive the war, he will definitely go to the gallows of Sugamo Prison.
His name is tetsuzan nagata buhaha
If he avoids that incident, Japan won't go the road of war.
@@Brandon_0997 The wiki shows that his name is Tetsuyama Nagata. No way. In 1931 there were already Manchurian events. Everything is a chain reaction. It is impossible for Japan to start a war being avoided.
@@nirvana3921 I'm afraid Tetsuzan is correct. Wiki sometimes takes a mistake, and this's based on Japanese textbook.
Nobody knows whether he would become a war criminal, but Recent report says he was trying to prevent the war.
@@あかさたな-q2t Maybe wiki is wrong. Some English sources do translate his name as Tetsuzan Nagata. But that's okay. He could not have prevented the war. Because since the Manchurian incident until Japan surrender. Everything is a chain reaction. It is impossible for the will of one person to change the course of a country. Especially in Japan during World War II. Before Pearl Harbor, Isoroku Yamamoto had also strongly opposed war with the United States. However, the attack on Pearl Harbor was also planned by him. If Yamamoto had survived until after the war, he also have gone to the gallows.