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4年間の求道生活を経て、イエス様を信じて受け入れた瞬間の、胸を割られた様な感覚を今も鮮明に覚えています。教会での勉強会の後、洗礼を浸水で受けました。社会に出るタイミングだったので、就労地の教会に通いました。その後躓くのは、常に教会員であり、牧師でした・・・。次の教会に行っても・・・・。結果、信仰を持ったまま教会漂流難民です・・・。今日のお二人のお話は、まさに目からウロコのお話しでした・・・。
コメント感謝です!神様に出会う瞬間は衝撃的ですよね!!!ぜひその感動を持ち続けてください!!!!
私も2022年3月12日にともみんさんにバブテスマ受けました!自宅のお風呂でしました、その後に主の聖餐式しました、🎉その後エホバの証人から聖書研究生じゃなくなりました!
スパチャいつもありがとうございます! 洗礼おめでとうございます!
「信仰を持つ」「主を信じる」というのはどういう感覚なのか、日本教に浸っていた私からするとピンとこない感覚なので、お二人自身の信仰のきっかけの話をぜひ伺ってみたいです。
コメント感謝です! 素晴らしい視点をありがとうございます! 次回の収録でそのテーマについて話したいと思います^^ お楽しみに!
洗礼の方法は宗派や教会によって決まっているのだと思っていましたが、選べるんですね。聖書のバプテスマも日本神話のみそぎも、全身を水で洗うイメージですが、身体的な理由で、滴礼でないと困る人もいるでしょう。選択できるのはいいことだと思います。
コメント感謝です。多くのプロテスタントの教団、グループでは団体ごとの規定が定められている場合が多いです。しかし、私たちのように「受ける人が選べる」というスタイルを選択している人やグループもあります。
リアルなバプテスマのお話しはとても貴重でした。ありがとうございました!この場をお借りして恐縮ですが、以前から抱いていた疑問を尋ねさせて下さい。旧約聖書では「水で清める」対象は、皮膚病、かび、漏出物など汚れたものに対してなされています。そこからミクヴェへのつながりは理解できるのですが、一方新約聖書のバプテスマは「信仰の承認や通過儀礼」のような意味をもつ行いに思えます。ミクヴェとバプテスマの接続について教えていただけますでしょうか。
大切なコメントをありがとうございます。おっしゃる通り、旧約の水のきよめは、どちらかというと「宗教儀式の前に身体をきよめる」という意味合いが強いものでした。それがミクヴェにつながっていきます。一方のバプテスマは、バプテスマのヨハネの流れです。ヨハネが「エッセネ派」と呼ばれる死海地方の教団の影響を強く受けていたことを指摘されています。この後は推測にすぎませんが、おそらく、バビロン捕囚以後、ミクヴェでのきよめに影響を受け、エッセネ派・クムラン教団において「きよめ+よみがえりの象徴」としてのバプテスマが行われるようになったのだと考えられます。「信仰の承認や通過儀礼」となったのは個人的には聖書時代より後だと思っていまして、ヨハネやイエスがバプテスマを受けたのは、あくまでも身をきよめ、霊として生まれ変わるという象徴的な儀式だったのだと思っています。そして、それはヨハネらが勝手に生み出してものではなく、ノアの洪水を通して、既に旧約聖書で示されていたという理解がペテロの手紙第一3章にて解説されています。個人的には「モーセの海割り」もその伏線のひとつだと思います。
私が洗礼を受けた教会で最初に救われた人たちは道頓堀川で受けたんだそうなんです。1903年の話なので水はきれいだったんでしょうね。私は滴礼でした。面白いエピソードといえば、音楽伝道者の菅原早樹先生の父上である落語家の露の五郎兵衛師匠が浸礼を受ける時湯加減を見て笑いをとったというのを聞きました。因みにバプテスマを授けたのは菅原早樹先生の夫である菅原義久牧師です。
道頓堀での洗礼、おもしろいですね!
教会によって色々なんですね。私は勉強会と証、諮問会がありました。全浸礼。川でした。嬉しかったですね。諮問会は必要だったのかと、今でもわからないですが教会員になるためのルールだったのですね。
各団体によってルールがありますね
浸礼でしたが、体が浮いて来て、兄姉たちからは「〇〇さん溺れている!」と言われました。いや、溺れたんではなくて、体が浮いただけなのですが(;^_^A あと、10月だったのに水が冷たかったです。そしてバプテスマを受けたその日は、ハマスがイスラエルを攻撃した日なので、二つの意味で忘れらない日となりました。
いわゆるユダヤ教の洗礼式、ミクバの事ですね。バプテスマの😮ヨハネの前からあった清めの儀式、頭から全身を浴槽のような縦に長いおけに入って行った。
滴礼で受洗し、転居先の教会に母教会の牧師の紹介状を持参の上、転入をお願いしたのですがその教会は浸礼でないのでもう一度洗礼受けて下さいと言われました。私はイエスの名によって受洗したのだから出来ない旨その教会の牧師に伝えそのままその教会のお世話になり母教会に戻りました。まあ、結果オーライだったんですがこの「大人の事情』ゆえ私の組織としての教派も見る目は冷たくなりました。聖霊によってバプデスマを授かったのですから。
コメントありがとうございます。グループのルールを突きつけられると辛い部分もありますね。
私も明日横浜協会でバプセツマを受けます
日本人1%はいないでしょう。
4年間の求道生活を経て、イエス様を信じて受け入れた瞬間の、胸を割られた様な感覚を今も鮮明に覚えています。
教会での勉強会の後、洗礼を浸水で受けました。
社会に出るタイミングだったので、就労地の教会に通いました。
その後躓くのは、常に教会員であり、牧師でした・・・。次の教会に行っても・・・・。
結果、信仰を持ったまま教会漂流難民です・・・。
今日のお二人のお話は、まさに目からウロコのお話しでした・・・。
コメント感謝です!
神様に出会う瞬間は衝撃的ですよね!!!
ぜひその感動を持ち続けてください!!!!
私も2022年3月12日にともみんさんにバブテスマ受けました!自宅のお風呂でしました、その後に主の聖餐式しました、🎉その後エホバの証人から聖書研究生じゃなくなりました!
スパチャいつもありがとうございます! 洗礼おめでとうございます!
「信仰を持つ」「主を信じる」というのはどういう感覚なのか、日本教に浸っていた私からするとピンとこない感覚なので、お二人自身の信仰のきっかけの話をぜひ伺ってみたいです。
コメント感謝です! 素晴らしい視点をありがとうございます! 次回の収録でそのテーマについて話したいと思います^^ お楽しみに!
洗礼の方法は宗派や教会によって決まっているのだと思っていましたが、選べるんですね。聖書のバプテスマも日本神話のみそぎも、全身を水で洗うイメージですが、身体的な理由で、滴礼でないと困る人もいるでしょう。選択できるのはいいことだと思います。
コメント感謝です。多くのプロテスタントの教団、グループでは団体ごとの規定が定められている場合が多いです。しかし、私たちのように「受ける人が選べる」というスタイルを選択している人やグループもあります。
リアルなバプテスマのお話しはとても貴重でした。ありがとうございました!
この場をお借りして恐縮ですが、以前から抱いていた疑問を尋ねさせて下さい。
旧約聖書では「水で清める」対象は、皮膚病、かび、漏出物など汚れたものに対してなされています。そこからミクヴェへのつながりは理解できるのですが、一方新約聖書のバプテスマは「信仰の承認や通過儀礼」のような意味をもつ行いに思えます。ミクヴェとバプテスマの接続について教えていただけますでしょうか。
大切なコメントをありがとうございます。おっしゃる通り、旧約の水のきよめは、どちらかというと「宗教儀式の前に身体をきよめる」という意味合いが強いものでした。それがミクヴェにつながっていきます。
一方のバプテスマは、バプテスマのヨハネの流れです。ヨハネが「エッセネ派」と呼ばれる死海地方の教団の影響を強く受けていたことを指摘されています。この後は推測にすぎませんが、おそらく、バビロン捕囚以後、ミクヴェでのきよめに影響を受け、エッセネ派・クムラン教団において「きよめ+よみがえりの象徴」としてのバプテスマが行われるようになったのだと考えられます。「信仰の承認や通過儀礼」となったのは個人的には聖書時代より後だと思っていまして、ヨハネやイエスがバプテスマを受けたのは、あくまでも身をきよめ、霊として生まれ変わるという象徴的な儀式だったのだと思っています。
そして、それはヨハネらが勝手に生み出してものではなく、ノアの洪水を通して、既に旧約聖書で示されていたという理解がペテロの手紙第一3章にて解説されています。個人的には「モーセの海割り」もその伏線のひとつだと思います。
私が洗礼を受けた教会で最初に救われた人たちは道頓堀川で受けたんだそうなんです。1903年の話なので水はきれいだったんでしょうね。私は滴礼でした。面白いエピソードといえば、音楽伝道者の菅原早樹先生の父上である落語家の露の五郎兵衛師匠が浸礼を受ける時湯加減を見て笑いをとったというのを聞きました。因みにバプテスマを授けたのは菅原早樹先生の夫である菅原義久牧師です。
道頓堀での洗礼、おもしろいですね!
教会によって色々なんですね。
私は勉強会と証、諮問会がありました。
全浸礼。川でした。
嬉しかったですね。
諮問会は必要だったのかと、今でもわからないですが教会員になるためのルールだったのですね。
各団体によってルールがありますね
浸礼でしたが、体が浮いて来て、兄姉たちからは「〇〇さん溺れている!」と言われました。いや、溺れたんではなくて、体が浮いただけなのですが(;^_^A あと、10月だったのに水が冷たかったです。そしてバプテスマを受けたその日は、ハマスがイスラエルを攻撃した日なので、二つの意味で忘れらない日となりました。
いわゆるユダヤ教の洗礼式、ミクバの事ですね。バプテスマの😮ヨハネの前からあった清めの儀式、頭から全身を浴槽のような縦に長いおけに入って行った。
滴礼で受洗し、転居先の教会に母教会の牧師の紹介状を持参の上、転入をお願いしたのですがその教会は浸礼でないのでもう一度洗礼受けて下さいと言われました。私はイエスの名によって受洗したのだから出来ない旨その教会の牧師に伝えそのままその教会のお世話になり母教会に戻りました。まあ、結果オーライだったんですがこの「大人の事情』ゆえ私の組織としての教派も見る目は冷たくなりました。聖霊によってバプデスマを授かったのですから。
コメントありがとうございます。グループのルールを突きつけられると辛い部分もありますね。
私も明日横浜協会でバプセツマを受けます
日本人1%はいないでしょう。