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かつて存在した意味不明な迷列車7選ruclips.net/video/ELyTsvWpLng/видео.html全国の理解不能な複雑すぎるカオス駅4選【ゆっくり解説】ruclips.net/video/YquLVpvRFWw/видео.html初見だと絶対に迷うあまりにもカオスすぎる迷鉄道をまとめてみた【ゆっくり解説】ruclips.net/video/qWG8gzR76B8/видео.html構造が複雑すぎるカオスな駅をまとめてみた【ゆっくり解説】ruclips.net/video/LtnrjKTxCSA/видео.html
会津田島駅から会津若松への高校に通学していたが、会津線の始発に乗り遅れると急行いなわしろに乗らないと遅刻する。3年間で5回くらい急行に乗った。寝坊なので急行料金は小遣いから天引き。一度だけ試験のために仙台まで乗った事があった。夏だったが非冷房なので窓を開けて東北本線をディーゼルの香りを漂わせて走った記憶がある。懐かしい思い出
確か普通列車より『急行いなわしろ』のほうが通勤・通学に適していたと思う。会津線の事を40年ほど前にNHKで取り上げていて『急行いなわしろ』が通勤・通学の時間帯に走っていて、普通列車は早朝か遅刻の時間にしか走らず利用に合っていなく、しかも急行は1両のロ-カル線の普通車両と写真で紹介していた。
@@急行らいでん 今は三セク会津鉄道になり本数も増え、東武鉄道からリバティが乗り入れる会津田島駅になりましたが、国鉄時代の会津若松駅発、会津田島方面行きの最終列車は18時35分と言う鬼畜ダイヤでした。それから、後から考えると国鉄ですから定期+急行料金では乗れないので、別に乗車券も買っていたはずですね。寝坊はかなり高くつきました
寿都鉄道はプレスアイゼンバーンから写真集が刊行されていて、車両や歴史,廃線跡の沿革まで詳細な資料として纏まっています。写真集には1968年4月5日に樽岸-湯別間の路盤が流失した写真があり、「昨夜来の豪雨と朱太川の増水によって路盤が流失、運転不能になった」との説明文から、豪雨被災による営業休止は確実であり最終運行日はおそらくその前日の1968年4月4日と推測されます。(営業休止は同年9月1日)寿都鉄道には一応鉄道省払い下げのキ1ラッセル車が在籍していて、1966年松本健一氏によって8108号機関車とキ1の除雪列車が撮影されています。(何と松本氏乗務員に頼み込んで除雪列車に乗せてもらい寿都まで便乗したそうな、大らかな時代だ)
0.5往復の理由を教えてほしい
@@user-ve5rr9bl4i 様寿都鉄道の写真集には理由は記されていませんでしたが、1964年の国鉄岩内線着工に伴い、湯別~黒松内間の買収に期待するが運行しても赤字が出るだけなので国鉄に買収されるまで運行は続けるために0.5往復(片道だけ)にしたのでしょう。
動画にもある通りどのみち車両を回送するのですから大した節約にもならないと思うのですけど、それでも営業すると余計な費用が掛かるので片道は営業運転したくないと・・・?寿都鉄道の存在は地図で知っていましたが、実態は全く知りませんでした。
寿都鉄道についての一連の解説にもはやホラーみを感じるほどに意味不明で震える
沼尻鉄道の末期もなかなか酷いですよ
もしかして地元住民も我々も、とんでもない幻を見ていたのでは…?
SCP本部っぽさがある
北海道はキハ40の単行急行の存在だけでもカオスですが、山陰~美祢線~小倉~日田彦山線~由布院方面の「あきよし」は、客層を考えたら結構ぶっ飛んでましたね。
子供のころみた、寿都鉄道の写真が記憶に残っていたので、この話を聞いてびっくりしました。貴重な話をありがとうございました。
北海道の利尻も結構変な列車で、2等寝台と2等座席(A寝台とグリーン車)と転換クロスシートがついたマロネロ38という車両が連結されてました。しかもその置き換え車両がオロハネ10型というA寝台とB寝台の合造車で車両中央にドアがある変な客車でした。
ハイパーサルーンの先駆け🤣🤣🤣🤣
マロネロ38は、確か「東オク」借入車輌だったらしい。あのC55が…懐かしい。
昭和時代の東北地方の多層建て急行列車は複雑でした。今は新幹線がその名残を受け継いていますね。
懐かしいです。良い動画ですね。昔、多層階列車で「桜島・高千穂」、「雲仙・西海」、「なは・日向」、「ばんだい・あずま」、再合流列車で「さんべ」、「かもめ」などがありましたね。
東京発西鹿児島行急行•鹿児島本線経由『桜島』7両編成 + 日豊本線経由『高千穂』7両編成それぞれのグリーン車 1両以外は全席自由。EF58牽引の客車。乗る前に廃止になってしまった事が、今でも悔やまれます。
循環急行【五葉】【そとやま】始発終着バラバラ急行【大雪】走行経路意味不明急行【大社】あと【大隅】【錦江】なんかも面白いと思う。
石北線経由の「大雪」が、旭川で宗谷線経由の「宗谷」「紋別」(「なよろ」もあったでしょうか)と合流した長大編成で札幌を目指すのはさぞかし威風堂々な様だったと思います。
急行大雪は北見で網走行の普通列車に化ける乘り得列車でもあった
@@ゼネラルキッド 大雪といえば何故か1往復だけ、旭川~名寄~紋別~遠軽と言う石北本線を全く通らない列車があるのが謎だったw
@@たかな-c7cさん旧名寄線を経由する列車ですね。
札幌を出て札幌に帰るルートとして真っ先に思い浮かぶルートは札幌→函館本線→小樽→ニセコ→長万部→室蘭本線→苫小牧→千歳線→白石→函館本線→札幌だが急行いぶりは函館本線の倶知安と室蘭本線の伊達紋別の間を現在は廃止された胆振線を経由するのがミソですね。
多層建てというと、昔の大雪、宗谷、紋別といった急行が旭川で合流して威風堂々の長大編成で札幌を目指すのが好きでしたね。
やばいw539列車の走る姿を想像したらめっちゃ笑えてきたw(機関車に続いて客車が着いてくるけど最後だけ気動車が待ってよーと言うように追いかける姿)
客車連結の気動車といえばおおぞら13、14号→まりも、オホーツク9、10号、利尻でしょう
最近まで走っていたC61のイベント列車も、気動車を蒸気機関車が牽引する列車でしたね。
会津若松地元なのでこんなに取り上げてもらえて嬉しいです!あと自分が生まれる前の話なのでこんな急行があるなんて初めて知りました!
おっしゃ待ってました〜ゆっくり鉄道博物館最高
いつもありがとうございます🥰🥰
有明11号(485系)とオランダ村特急(キハ183系)の世界初のDCEC強調運転列車もあったの思い出します
寿都鉄道に驚きすぎてwikipediaまで見にいってしまった。「1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。」とは記載があるけど、輸送実績の方には1966年までしか記載がないですね。ほんとにカオスすぎるw
「3層立て」と聞いて真っ先にかもめ+みどり+ハウステンボスを思い出した
自宅で東海道新幹線開業前の日本の都道府県毎の地図があって、北海道を見ると国鉄でも根北線、札沼線が石狩沼田発着で記載されていた。また定山渓鉄道やこの寿都鉄道もあった。特に思い入れは無かったが、終点の先に「弁慶岬」という岬があり、義経北行伝説の名残を感じた。
今回一番意味不明なのは寿都鉄道そのものだった件について()
0:11 行き先が3つある急行列車で思い出したけど、能登には蛸島・蛸島・輪島発金沢行きという列車があって、3層建て列車だけど同じ方向からの始発という珍しい列車なんです。金沢からだと能登路11号で穴水で3分割するんですが、輪島行きと珠洲行きと珠洲経由蛸島行きになって、1つが同じ方向に行く列車(1つは急行、1つは普通)になるのです。
名鉄だって、前までミュースカイの新鵜沼・新可児いきがあったしいまではかもめ+みどり+ハウステンボスがある
寿都鉄道の話は迷列車捏造編にしてもバレないくらい謎が多すぎるw
寿都鉄道の1日0.5往復は最晩年ですね。昭和39年3月の時刻表ですと…黒松内11:35・16:15発 所要時間:共に1時間寿都09:50・15:00発 所要時間:前者50分・後者55分私自身は乗車したこと無いのですが、若干ではあるものの寿都方面は緩やかな上り坂(感じるか感じないかくらいの緩やかさ)なので、路盤がそもそも悪いのと車両の性能の悪さで寿都行は若干時間が掛かった感じです循環列車は「いぶり」「しろがね・こがね」以外には・・・■旭川:旭川→遠軽→紋別→興部→名寄→旭川[上下とも列車名は同一] 昭和37年4月1日→昭和43年9月30日■ゆのか:博多→小倉→大分→日田→久留米→博多[上下とも列車名同一] 昭和35年2月5日→昭和43年9月30日 その後「ゆのか」は博多→小倉→別府・大分の急行列車に■ひまわり:大分→小倉→博多→熊本→阿蘇→別府[上下とも列車名同一] 昭和36年10月1日→昭和50年3月9日■五葉:盛岡→花巻→釜石→宮古→盛岡■そとやま:盛岡→宮古→釜石→花巻→盛岡 [上下で列車名別] 昭和40年3月20日→昭和57年11月14日■すわ:長野→塩尻→小淵沢→小海→小諸→長野■のべやま;長野→小諸→小海→小淵沢→塩尻→長野 [上下で列車名別] 昭和38年3月25日→昭和50年3月9日■外房→内房:両国・新宿→千葉→館山→安房鴨川→千葉→新宿・両国■内房→外房:両国・新宿→千葉→安房鴨川→館山→千葉→新宿・両国★安房鴨川で列車名が上下とも変更・1日4本ずつ(昭和40年10月1日現在)昭和37年10月1日→昭和42年9月30日昭和42年10月1日→昭和43年6月30日:上記の循環は「そとうみ→うちうみ」という列車名に昭和43年7月1日→昭和44年6月30日:上記の循環は「そと房→うち房」 その後循環は一旦廃止(電化の影響)昭和47年7月1日→昭和50年3月9日:内房線・外房線両方電化で「みさき→なぎさ」として循環復活循環に関してもこれだけあるので、ネタは尽きないと思います。
急行フェニックス宮崎発西鹿児島行き。も準循環として認定お願いします。
ネ申降臨キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
例えると少し前まで走ってた東武の快速と区間快速として走ってた6050系みたいな感じやな
東武日光新藤原会津田島行きですね。
北海道で特急車両と寝台客車の併結に乗ったのを思い出した 確かまりも号
夜行のオホーツクや急行利尻でありましたね。
小沢(おざわ)ではなく小沢(こざわ)ですね。
そだねー。そこ、気になっていた。「こざわ」ですね。
昭和51年頃ですが、新幹線博多延伸からしばらくして、長崎本線と佐世保線が電化され、エル特急「かもめ」「みどり」が誕生したが、まだ半数の優等列車はキハ58系の急行「出島」「弓張」だった。実はこのディーゼル急行には一部、諫早まで島原鉄道線乗り入れのキハ26形と同形の両運車が連結されていて、冷房、空気バネ台車、クロスシートにはカバー装備という仕様だった。それだけで3方向行きだが、更に当時は熊本方面から佐賀線があり、熊本からの急行が佐賀で連結、「弓張」は肥前山口の手前の佐賀で分離という奇妙な運行形態でした。佐賀線は廃線になり、急行自体が消滅した現在は懐かしい話。
また懐かしい···
やっぱみちのくグループが一番好きです
昭和時代の東北の多層建て列車はハンパなかったです。今は新幹線が受け継いていますね。
気動車は基本、各車両に運転台があるので分割併合は自在だ。急行用のキハ55系、キハ58系は基本、片運のみで両運はほぼ皆無であり、単行運転用には本州ではおおよそキハ52(キハ21,22、23)などの両運一般形が使われた。2エンジン車のキハ52の単行急行「いなわしろ」には私も乗ったが(確か臨時列車)、時期や区間にもよるが、その時は只見線ではほとんど乗客も乗っていなかった。貸し切り状態だった。前の座席に足を投げ出してボックスシートを占有しらくちん乗りができた。らくちん乗りは横方向の自由な動きもできるのでリクライニングシート以上の乗り心地だ。窓枠にはテーブルがついていて、そこの食べ物や飲み物を載せて宴会状態だった。景色は素晴らしかった。エンジンはキハ58と同じもので2エンジン車だったので、性能には申し分がない。とてもではないが遜色急行には思えなかった。
寿都の悲惨な最後は聞いた事があります。が、ここまでひどかったとは。紀鉄を助けた不動産会社やみちのりも支援しないレベルですね。運輸省の指導とか無かったのかな?
昔は急行丹後で行き先違いや多層建や併結列車がいっぱいあった
岩内はかつて北海道が生んだ宇宙大統領もとい歌姫中島みゆきが生まれた場所なんだけど、割と地味なんだよねぇ
あの人婆ちゃんの実家が山形だったという理由で山形に越してる他は、帯広だったり札幌だったり訳解んない人生送ってる気がwwwまだ足寄のハゲの方が筋は通してた気がするwww
関西には、関空快速と紀州路快速という多層建て列車があります。
一部の大和路快速もですね
新快速もありますよね米原行き+湖西線経由敦賀行き
客車と気動車の併結といえば近年では急行「利尻」特急「おおぞら13・14号」、「オホーツク9・10号」がありましたね。流石に機関車牽引ではなかったけれど。
多層建てには一度だけ乗ったことあります。JR九州のハウステンボス。当時はハウステンボス+みどり+かもめで肥前山口と早岐で分割併結やってました。ハウステンボスから博多まで上りに乗車。早岐では連結を見えませんでしたが、肥前山口にてかもめとの連結をホームに出て見ました。あのような運用をしていたのも、博多〜鳥栖が複線しかなく、線路容量目一杯だったからですね。
すごく面白かったです。タイムスリップして、東北本線を乗りまくりたいですね。寿都鉄道、よく見ておきたかったです。
不慣れな人には地獄でしかない電車が勢揃い。
複数社乗り入れも多層建もないとこで育ったので、転校と共に多層建が来る&複数社乗り入れ駅の最寄りになった時は訳が分かりませんでした(小4ぐらい)。訳はわかっている父親も、転勤してしばらくは頻繁に「あ~乗り過ごしたあ…帰れないわ…」って電話してきてました。仕事帰りに眠りこけても問題ない地域に慣れ過ぎて(笑)にしても寿都鉄道、悲しすぎた…。
陸中・しらはま・しんじ「俺たちを忘れてもらっちゃ困るぜ」(ネタまみれの多層建て御一同様)
電車はこういうのもあるから面白いんだよなぁ…
急行いなわしろは会津若松でなぜ転線していたのか。急行いぶりはいわゆるラケットというかPの字運転なので幌の運用があったと思われるが、急行らいでんとの併結号車が上り下りで違うので、どう考えても1日一回は幌をかついで取り付けなければならないシチュエーションが無いと成り立たないと考えられます。この謎ご存知の方おられませんか?
「いなわしろ」「いわき」は仙台〜福島普通列車🚃よく乗ったな(仙台〜大河原)
電車と気動車の併結と言えば、南海のきのくに号も結構有名です。気動車の運転士訓練が間に合わず、南海線内は電車に牽引されて走ってました。
ゆうとピア和倉と485系雷鳥、オランダ村特急とみどりもあったし
北海道の定山渓鉄道は白石~定山渓間だったが、北海道鉱業鉄道(後の北海道鉄道(2代目))が苗穂~沼ノ端間を開業したときに交差する所に東札幌駅を開業し、後に東札幌~苗穂間を電化して乗り入れるようになった。その後北海道鉄道が国に買収され千歳線となっても電化設備は維持されていたが、様々な理由により札幌駅までの乗り入れと引き換えに東札幌~苗穂間の電化設備を撤去、定山渓鉄道が気動車を新製して東札幌から国鉄の列車に併結される形で札幌駅までの乗り入れを果たす。なおその気動車は東札幌~定山渓間は無動力で電車につながれていましたwだから北海道の国鉄の最初の電化区間は東札幌~苗穂間w
おざわじゃなくてこざわなんだよな。
近鉄も案内放送をよく聞いてないと切り離しで前○両が○○行き、後ろ○両が△△行きになります…。
@@大坂孝幸 名張駅は車庫もあって方向転換も出来るのでよく切り離しされてますね👀うっかり寝過ごすと…
ぶっ飛んだ車両や会社ってあったんだな🤔
多層建て列車・・・、関東では成田エクスプレス(東京で分割・併合)とか京葉線の快速(誉田で分割・併合)で外房線((上総)一ノ宮)と東金線(成東)に行くのがありますね。
いつも楽しく拝聴してます。北海道の札幌→網走を走ってた『オホーツクの風』号に乗車したことありまして、もし動画、解説してもらえたら嬉しいです。
「いなわしろ」は時期によっては会津川口から先の只見まで運行していた。喜多方行きには冷暖房付きのグリーン車が連結されていたが、当時冷涼だったこの地域では冷房の概念自体無かったか、夏場になると窓を開け放しで乗っている高齢者がいたりした。
9:02 宮脇俊三氏はゆうづる号の遅れでこの列車には乗車できていないんですよね。
寿都の客車群はキモい(好き)
循環急行って昔はたくさんあったんだよなあ名古屋から高山線北陸線を一周するこがね、しろがね房総半島一周する準急とか旅客にはあまり意味が無いんだけど少ない車両を効率よく使いたかったのかな
自分自身が乗った列車はとりわけ忘れ得ぬ存在感があります。小学生の時、大分発別府行きに乗りました。いや父様に載せられた。博多駅から熊本駅まで。大分~別府~小倉~博多~熊本~大分~別府行きのひまわり🌻号は一週して更にまだ行く。時刻表で日豊本線を見て鹿児島本線に移る、更にページをめくり豊肥本線を探す🔎日豊本線に帰る。面倒くさい作業をさせる列車だが時刻表から他の列車の個性・存在も知りました。どれも武士みたいに「我こそは○○なり」の列車ばかり。恐れ入りました。🌻ひまわりは特定の名所・名勝の御自慢をしていない謙虚さはあるが九州以外の方には「どこに行くの」でしょう(笑)
30年ほど前、鉄友達と寿都にドライブに行ったことがあります。寿都駅は寿都町役場になっていて、町役場に元寿都鉄道の車掌をしていたという人がいました。その日のうちに札幌まで行かねばならず、時間がなかったので少ししか話が出来なかったのですが、もっと時間を取って寿都鉄道の話を聞けたら、と、今ではそう思います。そのドライブの過程で、湯別付近に架かる橋梁跡は見ました。
途中で切り離して運転するのを多層列車って言うの知らなかった。電車で通学している時に初めて遭遇して驚いた。
寿都の55 40 はシリンダーロッド形状がピーコック調だね。また、8100のロッドも最後部動輪が離れているのも面白い。
そう言えば、昭和時代が循環急行のピークだったんですよね。路線バスなら循環は当たり前ですが。2024.1.3
仙台から東北各地行きは今や高速バスが主流だな。
鉄道会社の存続是非自体が多層建てとは確かにエモい
会津田島で思い出しましたが、東武快速も、普通に多層階列車でしたよ。
特急リバティの前身
一方小坂にはDL+貨車+客車+気動車が・・・w
急行いぶりの話は、祖父母から、聞いた事、ありましたね。
急行いぶりを札幌から札幌まで6時間半かけて札幌~伊達紋別~倶知安~札幌で乗りました。通常1両編成ですがお盆のど真ん中に乗ったのでキハ22の2両編成でした。車内は激混みで胆振線内も伊達紋別から1時間以上通路に人が溢れている状態でしたね。ただし夕方伊達紋別から倶知安まで普通列車1両に乗ったときはガラガラでした。
寿都鉄道が強すぎて他が霞んでいるんだがw これ1本で動画が作れるレベルでしょ。
(普通)急行料金は速達性の対価であって設備とは関係ない
寿都鉄道、北海道4500kmで私鉄完乗最大のハードル
行き先無限は草
165系の普通列車だったと思います。長野県で走っていたのですが、行き先が複雑なものがありました。サボには、小さい字で、二段か三段で表示していました。表示していても、理解しにくかった列車がありました。
津軽鉄道のケースは、乗車券のみ(=ストーブ列車に乗らない)で利用する乗客向けの車両です。尚、令和4年12月時点で、ストーブ列車に乗る時は、普通運賃のほかにストーブ列車料金500円必要なので、注意してね。
30年前に北海道でストーブのある列車に乗ったことがあります。
昔は、出張も楽しかったんだろうね。そして、出張族が多かったら、こういう列車も多かったんでしょう。二つや三つの県庁所在地を結ぶ列車がたくさんあって、出張族のおかげで、列車も、都市も大にぎわい。今では会社も、パソコンの前に座っているかを上司が監視。「おい、元気ないなあ、気晴らしだと思って、出張に行って来い」なんていう上司、今の時代、もういません。
国鉄胆振線とか懐かしいな
寿都鉄道、wikiにはどう記されているのだろう?今から見てみよう…
いくらなんでも解説以上のことはないだろうと思ってwikiをみたら、廃止されるバス免許を中央バスに買ってもらったりしてますねえ実質廃止されているバス路線に対して引き受けるほうがお金を払う必要なんてないはずですから、寿都鉄道の負っているなんらかの債務を払えるように金を出してもらったりとかなんでしょうかねえ・・・
特急有明も廃止直前は1日0.5往復でしたね
11両が1両に、カオスすぎる・・・・・・・
寿都鉄道の会社燃えたのも故意じゃないのかそれ
いなわしろの会津川口行きと会津田島行きが分割併合するのは西若松ではなく会津若松です
西若松で合っていますよ末期の話なので昔のことは知りませんが…
ストーブ列車走ってる時期、すごい撮り鉄乗り鉄がわんさか溢れるんだわ……みんな地元の飯屋で飯くえーーー!
(# `Д) < 誰もかねみしぇつくたって、つぶれるだげだべした!
9:37 JR四国予土線にもいたはず
今も途中で切り離して別目的地行くやつあるやん。特急サンライズ瀬戸出雲。
胆振線の循環列車の成り立ちが気になる。胆振線は南北から建設され、まず胆振北線と胆振南線が開業してから残りの区間が完成して一つの路線になった経緯がある。もともと札幌から胆振北線終点・札幌から胆振南線終点まで直通する列車があったものを全線開業によりスジを統合した結果、循環する形になった...という予想を立ててみる
胆振線は、ます国鉄京極線(倶知安~京極~脇方)が建設され、次いで胆振鉄道(京極~喜茂別)が開業後に胆振縦貫鉄道(喜茂別~伊達紋別)が作られて胆振鉄道と合併(元々資本がほぼ一緒(いわゆる地元有志)だったらしい)その後いわゆる戦時買収で胆振縦貫鉄道は国鉄になりました。ちなみに沿線に鉱山が有ったので、私鉄で唯一D51を自社発注しています。(買収後はそのままD51に編入されてます)
いなわしろは磐越西線走行分は喜多方行きならまだいい気がw当時やろうと思えば、喜多方から分割して日中線内の普通も併結できたはずだし、ついでに新潟まで行けたはずだしねw秋田から来た急行「羽越」と新発田で併結とかねw
仙台から、浅草まで行く場合は乗換を復数回行いますよね?
気動車と電車の併結と言えば北近畿とタンゴディスカバリーの併結
国鉄最後のダイヤ改正前の1986年10月31日まで、函館本線の上り客車列車124列車、128列車の後ろにも、七飯-函館間でキハ40の回送を連結していたんですよ。
一両編成でも「列車」という摩訶不思議。鉄道関係は素人なので調べてみると、営業路線を走っていれば何両編成でも「列車」なんですね。また一つ賢くなりました。
いや、1両で「編成」というのも日本語的に間違い。業界で便宜的に使われてはいますが。鉄道雑誌などでは1両運行を「単行」と記述されています。「列車」というのも、他に言いようがなく例え単行であっても便宜的に「列車」です。
@@jamesjacobsen7824 をー、有難うございます。はたから見ると、同じ状態でも鉄道会社ごとに違う言葉が有りそうな気がしてきました。
本線を走行するものは全て「列車」です。1両でも1000両でも、編成の組み方は自由です。車庫内や駅構内だけを動くなら、車両でも問題ありません。見た目ではわかりませんが、列車と車両の違いは運転法規で大問題になる場合もあります。実に面倒臭い話ですけど。
寿都は父親の故郷です。鉄道橋らしき物が藪のなかにあったのを覚えています。こんな生い立ちだったとは知りませんでした。多層急行は滝川駅深川駅旭川駅で別れるので小学生の自分はドキドキでした。
寿都って、山線なくなったら終わりそうだな
4:54 JR北海道の小沢はこざわと読みます
急行いぶりは時刻表二万㌔が、始まった時代札幌駅の出札で 一周の補充券を売ってくれた
笑神様でストーブ列車が放送されたときは、客車+DCでDL牽引ではなかったですな。
539レは、1978年頃に鉄道ジャーナルでも乗車レポが掲載されてたね。懐かしい。ED75牽引の旧客6連の後ろにディーゼルカーが3両ぶら下がってたと思う。キハ58,キハ25,キハユニ26じゃなかったかな?
あれキハユニだけ所定で、その後ろは何でもいい、DMH17系エンジン積んでる車両だったら余り物で可って編成でしょ。
キハ22はデッキ付きだからなあ、そこが遜色かどうかの基準になるか?
デッキ+クロスシート有り、ではないかと。
寿都鉄道のお話が強烈過ぎて、どの列車の印象と聞かれても...ねぇ(^_^;
朝倉軌道に並ぶ強烈さですね
いぶり大阪環状線見たい
いろいろなトンネル事故を解説して下さい。
国鉄時代は面白いな。
国鉄時代の時刻表を夜から見始めると気が付いたら朝日が出ていた。
かもめみどりハウステンボスも
急行出島博多行き+西九州別府行きは肥前山口で佐世保からの西九州別府行きを+足して3階建てそして鳥栖で別れる。特筆したいのは佐世保西九州は🈯とグリーン車🍀有り。長崎西九州は自由席のみ。あれ?出島に🈯とグリーン車🍀があるからかな?記憶に残る3階建てでした。
タイムトラベルカンパニー、寿都
あれ?って事は伊達紋別や上目名に急ぐなら「いぶり」より「らいでん」の方が速い?
どれも、あったあったですね。
クリオネかっ!?
かつて存在した意味不明な迷列車7選
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全国の理解不能な複雑すぎるカオス駅4選【ゆっくり解説】
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初見だと絶対に迷うあまりにもカオスすぎる迷鉄道をまとめてみた【ゆっくり解説】
ruclips.net/video/qWG8gzR76B8/видео.html
構造が複雑すぎるカオスな駅をまとめてみた【ゆっくり解説】
ruclips.net/video/LtnrjKTxCSA/видео.html
会津田島駅から会津若松への高校に通学していたが、会津線の始発に乗り遅れると急行いなわしろに乗らないと遅刻する。3年間で5回くらい急行に乗った。寝坊なので急行料金は小遣いから天引き。一度だけ試験のために仙台まで乗った事があった。夏だったが非冷房なので窓を開けて東北本線をディーゼルの香りを漂わせて走った記憶がある。懐かしい思い出
確か普通列車より『急行いなわしろ』のほうが通勤・通学に適していたと思う。
会津線の事を40年ほど前にNHKで取り上げていて『急行いなわしろ』が通勤・通学の時間帯に走っていて、
普通列車は早朝か遅刻の時間にしか走らず利用に合っていなく、しかも急行は1両のロ-カル線の普通車両と写真で紹介していた。
@@急行らいでん 今は三セク会津鉄道になり本数も増え、東武鉄道からリバティが乗り入れる会津田島駅になりましたが、国鉄時代の会津若松駅発、会津田島方面行きの最終列車は18時35分と言う鬼畜ダイヤでした。それから、後から考えると国鉄ですから定期+急行料金では乗れないので、別に乗車券も買っていたはずですね。寝坊はかなり高くつきました
寿都鉄道はプレスアイゼンバーンから写真集が刊行されていて、車両や歴史,廃線跡の沿革まで
詳細な資料として纏まっています。
写真集には1968年4月5日に樽岸-湯別間の路盤が流失した写真があり、「昨夜来の豪雨と朱太川の
増水によって路盤が流失、運転不能になった」との説明文から、豪雨被災による営業休止は確実であり
最終運行日はおそらくその前日の1968年4月4日と推測されます。(営業休止は同年9月1日)
寿都鉄道には一応鉄道省払い下げのキ1ラッセル車が在籍していて、1966年松本健一氏によって
8108号機関車とキ1の除雪列車が撮影されています。
(何と松本氏乗務員に頼み込んで除雪列車に乗せてもらい寿都まで便乗したそうな、大らかな時代だ)
0.5往復の理由を教えてほしい
@@user-ve5rr9bl4i 様
寿都鉄道の写真集には理由は記されていませんでしたが、
1964年の国鉄岩内線着工に伴い、湯別~黒松内間の買収に期待するが運行しても赤字が出るだけなので
国鉄に買収されるまで運行は続けるために0.5往復(片道だけ)にしたのでしょう。
動画にもある通りどのみち車両を回送するのですから大した節約にもならないと思うのですけど、それでも営業すると余計な費用が掛かるので片道は営業運転したくないと・・・?
寿都鉄道の存在は地図で知っていましたが、実態は全く知りませんでした。
寿都鉄道についての一連の解説にもはやホラーみを感じるほどに意味不明で震える
沼尻鉄道の末期もなかなか酷いですよ
もしかして地元住民も我々も、とんでもない幻を見ていたのでは…?
SCP本部っぽさがある
北海道はキハ40の単行急行の存在だけでもカオスですが、山陰~美祢線~小倉~日田彦山線~由布院方面の「あきよし」は、客層を考えたら結構ぶっ飛んでましたね。
子供のころみた、寿都鉄道の写真が記憶に残っていたので、この話を聞いてびっくりしました。
貴重な話をありがとうございました。
北海道の利尻も結構変な列車で、2等寝台と2等座席(A寝台とグリーン車)と転換クロスシートがついたマロネロ38という車両が連結されてました。しかもその置き換え車両がオロハネ10型というA寝台とB寝台の合造車で車両中央にドアがある変な客車でした。
ハイパーサルーンの先駆け🤣🤣🤣🤣
マロネロ38は、確か「東オク」
借入車輌だったらしい。
あのC55が…懐かしい。
昭和時代の東北地方の多層建て急行列車は複雑でした。
今は新幹線がその名残を受け継いていますね。
懐かしいです。良い動画ですね。昔、多層階列車で「桜島・高千穂」、「雲仙・西海」、「なは・日向」、「ばんだい・あずま」、再合流列車で「さんべ」、「かもめ」などがありましたね。
東京発西鹿児島行急行•
鹿児島本線経由『桜島』7両編成
+ 日豊本線経由『高千穂』7両編成
それぞれのグリーン車 1両以外は全席自由。
EF58牽引の客車。
乗る前に廃止になってしまった事が、今でも悔やまれます。
循環急行【五葉】【そとやま】
始発終着バラバラ急行【大雪】
走行経路意味不明急行【大社】
あと【大隅】【錦江】なんかも面白いと思う。
石北線経由の「大雪」が、旭川で宗谷線経由の「宗谷」「紋別」(「なよろ」もあったでしょうか)と合流した長大編成で札幌を目指すのはさぞかし威風堂々な様だったと思います。
急行大雪は北見で網走行の普通列車に化ける乘り得列車でもあった
@@ゼネラルキッド 大雪といえば何故か1往復だけ、旭川~名寄~紋別~遠軽と言う石北本線を全く通らない列車があるのが謎だったw
@@たかな-c7cさん
旧名寄線を経由する列車ですね。
札幌を出て札幌に帰るルートとして真っ先に思い浮かぶルートは札幌→函館本線→小樽→ニセコ→長万部→室蘭本線→苫小牧→千歳線→白石→函館本線→札幌だが急行いぶりは函館本線の倶知安と室蘭本線の伊達紋別の間を現在は廃止された胆振線を経由するのがミソですね。
多層建てというと、昔の大雪、宗谷、紋別といった急行が旭川で合流して威風堂々の長大編成で札幌を目指すのが好きでしたね。
やばいw
539列車の走る姿を想像したら
めっちゃ笑えてきたw
(機関車に続いて客車が
着いてくるけど最後だけ
気動車が待ってよー
と言うように追いかける姿)
客車連結の気動車といえばおおぞら13、14号→まりも、オホーツク9、10号、利尻でしょう
最近まで走っていたC61のイベント列車も、気動車を蒸気機関車が牽引する列車でしたね。
会津若松地元なのでこんなに取り上げてもらえて嬉しいです!あと自分が生まれる前の話なのでこんな急行があるなんて初めて知りました!
おっしゃ待ってました〜
ゆっくり鉄道博物館最高
いつもありがとうございます🥰🥰
有明11号(485系)とオランダ村特急(キハ183系)の世界初のDCEC強調運転列車もあったの思い出します
寿都鉄道に驚きすぎてwikipediaまで見にいってしまった。
「1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。」とは記載があるけど、輸送実績の方には1966年までしか記載がないですね。ほんとにカオスすぎるw
「3層立て」と聞いて
真っ先にかもめ+みどり+ハウステンボスを思い出した
自宅で東海道新幹線開業前の日本の都道府県毎の地図があって、北海道を見ると国鉄でも根北線、札沼線が石狩沼田発着で記載されていた。また定山渓鉄道やこの寿都鉄道もあった。特に思い入れは無かったが、終点の先に「弁慶岬」という岬があり、義経北行伝説の名残を感じた。
今回一番意味不明なのは寿都鉄道そのものだった件について()
0:11
行き先が3つある急行列車で思い出したけど、能登には蛸島・蛸島・輪島発金沢行きという列車があって、3層建て列車だけど同じ方向からの始発という珍しい列車なんです。金沢からだと能登路11号で穴水で3分割するんですが、輪島行きと珠洲行きと珠洲経由蛸島行きになって、1つが同じ方向に行く列車(1つは急行、1つは普通)になるのです。
名鉄だって、前までミュースカイの新鵜沼・新可児いきがあったしいまではかもめ+みどり+ハウステンボスがある
寿都鉄道の話は迷列車捏造編にしてもバレないくらい謎が多すぎるw
寿都鉄道の1日0.5往復は最晩年ですね。
昭和39年3月の時刻表ですと…
黒松内11:35・16:15発 所要時間:共に1時間
寿都09:50・15:00発 所要時間:前者50分・後者55分
私自身は乗車したこと無いのですが、若干ではあるものの寿都方面は緩やかな上り坂(感じるか感じないかくらいの緩やかさ)なので、路盤がそもそも悪いのと車両の性能の悪さで寿都行は若干時間が掛かった感じです
循環列車は「いぶり」「しろがね・こがね」以外には・・・
■旭川:旭川→遠軽→紋別→興部→名寄→旭川[上下とも列車名は同一] 昭和37年4月1日→昭和43年9月30日
■ゆのか:博多→小倉→大分→日田→久留米→博多[上下とも列車名同一] 昭和35年2月5日→昭和43年9月30日 その後「ゆのか」は博多→小倉→別府・大分の急行列車に
■ひまわり:大分→小倉→博多→熊本→阿蘇→別府[上下とも列車名同一] 昭和36年10月1日→昭和50年3月9日
■五葉:盛岡→花巻→釜石→宮古→盛岡
■そとやま:盛岡→宮古→釜石→花巻→盛岡 [上下で列車名別] 昭和40年3月20日→昭和57年11月14日
■すわ:長野→塩尻→小淵沢→小海→小諸→長野
■のべやま;長野→小諸→小海→小淵沢→塩尻→長野 [上下で列車名別] 昭和38年3月25日→昭和50年3月9日
■外房→内房:両国・新宿→千葉→館山→安房鴨川→千葉→新宿・両国
■内房→外房:両国・新宿→千葉→安房鴨川→館山→千葉→新宿・両国
★安房鴨川で列車名が上下とも変更・1日4本ずつ(昭和40年10月1日現在)
昭和37年10月1日→昭和42年9月30日
昭和42年10月1日→昭和43年6月30日:上記の循環は「そとうみ→うちうみ」という列車名に
昭和43年7月1日→昭和44年6月30日:上記の循環は「そと房→うち房」 その後循環は一旦廃止(電化の影響)
昭和47年7月1日→昭和50年3月9日:内房線・外房線両方電化で「みさき→なぎさ」として循環復活
循環に関してもこれだけあるので、ネタは尽きないと思います。
急行フェニックス宮崎発西鹿児島行き。も準循環として認定お願いします。
ネ申降臨キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
例えると少し前まで走ってた東武の快速と区間快速として走ってた6050系みたいな感じやな
東武日光新藤原会津田島行きですね。
北海道で特急車両と寝台客車の併結に乗ったのを思い出した 確かまりも号
夜行のオホーツクや急行利尻でありましたね。
小沢(おざわ)ではなく小沢(こざわ)ですね。
そだねー。
そこ、気になっていた。
「こざわ」ですね。
昭和51年頃ですが、新幹線博多延伸からしばらくして、長崎本線と佐世保線が電化され、エル特急「かもめ」「みどり」が誕生したが、まだ半数の優等列車はキハ58系の急行「出島」「弓張」だった。実はこのディーゼル急行には一部、諫早まで島原鉄道線乗り入れのキハ26形と同形の両運車が連結されていて、冷房、空気バネ台車、クロスシートにはカバー装備という仕様だった。それだけで3方向行きだが、更に当時は熊本方面から佐賀線があり、熊本からの急行が佐賀で連結、「弓張」は肥前山口の手前の佐賀で分離という奇妙な運行形態でした。佐賀線は廃線になり、急行自体が消滅した現在は懐かしい話。
また懐かしい···
やっぱみちのくグループが一番好きです
昭和時代の東北の多層建て列車はハンパなかったです。
今は新幹線が受け継いていますね。
気動車は基本、各車両に運転台があるので分割併合は自在だ。急行用のキハ55系、キハ58系は基本、片運のみで両運はほぼ皆無であり、単行運転用には本州ではおおよそキハ52(キハ21,22、23)などの両運一般形が使われた。2エンジン車のキハ52の単行急行「いなわしろ」には私も乗ったが(確か臨時列車)、時期や区間にもよるが、その時は只見線ではほとんど乗客も乗っていなかった。貸し切り状態だった。
前の座席に足を投げ出してボックスシートを占有しらくちん乗りができた。らくちん乗りは横方向の自由な動きもできるのでリクライニングシート以上の乗り心地だ。窓枠にはテーブルがついていて、そこの食べ物や飲み物を載せて宴会状態だった。景色は素晴らしかった。エンジンはキハ58と同じもので2エンジン車だったので、性能には申し分がない。とてもではないが遜色急行には思えなかった。
寿都の悲惨な最後は聞いた事があります。が、ここまでひどかったとは。紀鉄を助けた不動産会社やみちのりも支援しないレベルですね。運輸省の指導とか無かったのかな?
昔は急行丹後で行き先違いや多層建や併結列車がいっぱいあった
岩内はかつて北海道が生んだ宇宙大統領もとい歌姫中島みゆきが生まれた場所なんだけど、割と地味なんだよねぇ
あの人婆ちゃんの実家が山形だったという理由で山形に越してる他は、帯広だったり札幌だったり訳解んない人生送ってる気がwww
まだ足寄のハゲの方が筋は通してた気がするwww
関西には、関空快速と紀州路快速という多層建て列車があります。
一部の大和路快速もですね
新快速もありますよね
米原行き+湖西線経由敦賀行き
客車と気動車の併結といえば近年では急行「利尻」特急「おおぞら13・14号」、「オホーツク9・10号」がありましたね。流石に機関車牽引ではなかったけれど。
多層建てには一度だけ乗ったことあります。JR九州のハウステンボス。当時はハウステンボス+みどり+かもめで肥前山口と早岐で分割併結やってました。ハウステンボスから博多まで上りに乗車。早岐では連結を見えませんでしたが、肥前山口にてかもめとの連結をホームに出て見ました。
あのような運用をしていたのも、博多〜鳥栖が複線しかなく、線路容量目一杯だったからですね。
すごく面白かったです。
タイムスリップして、東北本線を乗りまくりたいですね。
寿都鉄道、よく見ておきたかったです。
不慣れな人には地獄でしかない電車が勢揃い。
複数社乗り入れも多層建もないとこで育ったので、転校と共に多層建が来る&複数社乗り入れ駅の最寄りになった時は訳が分かりませんでした(小4ぐらい)。
訳はわかっている父親も、転勤してしばらくは頻繁に「あ~乗り過ごしたあ…帰れないわ…」って電話してきてました。
仕事帰りに眠りこけても問題ない地域に慣れ過ぎて(笑)
にしても寿都鉄道、悲しすぎた…。
陸中・しらはま・しんじ
「俺たちを忘れてもらっちゃ困るぜ」
(ネタまみれの多層建て御一同様)
電車はこういうのもあるから面白いんだよなぁ…
急行いなわしろは会津若松でなぜ転線していたのか。
急行いぶりはいわゆるラケットというかPの字運転なので幌の運用があったと思われるが、急行らいでんとの併結号車が上り下りで違うので、どう考えても1日一回は幌をかついで取り付けなければならないシチュエーションが無いと成り立たないと考えられます。
この謎ご存知の方おられませんか?
「いなわしろ」「いわき」は仙台〜福島普通列車🚃
よく乗ったな(仙台〜大河原)
電車と気動車の併結と言えば、南海のきのくに号も結構有名です。気動車の運転士訓練が間に合わず、南海線内は電車に牽引されて走ってました。
ゆうとピア和倉と485系雷鳥、オランダ村特急とみどりもあったし
北海道の定山渓鉄道は白石~定山渓間だったが、北海道鉱業鉄道(後の北海道鉄道(2代目))が苗穂~沼ノ端間を開業したときに交差する所に東札幌駅を開業し、後に東札幌~苗穂間を電化して乗り入れるようになった。
その後北海道鉄道が国に買収され千歳線となっても電化設備は維持されていたが、様々な理由により札幌駅までの乗り入れと引き換えに東札幌~苗穂間の電化設備を撤去、定山渓鉄道が気動車を新製して東札幌から国鉄の列車に併結される形で札幌駅までの乗り入れを果たす。
なおその気動車は東札幌~定山渓間は無動力で電車につながれていましたw
だから北海道の国鉄の最初の電化区間は東札幌~苗穂間w
おざわじゃなくてこざわなんだよな。
近鉄も案内放送をよく聞いてないと切り離しで前○両が○○行き、後ろ○両が△△行きになります…。
@@大坂孝幸
名張駅は車庫もあって方向転換も出来るのでよく切り離しされてますね👀
うっかり寝過ごすと…
ぶっ飛んだ車両や会社ってあったんだな🤔
多層建て列車・・・、関東では成田エクスプレス(東京で分割・併合)とか京葉線の快速(誉田で分割・併合)で外房線((上総)一ノ宮)と東金線(成東)に行くのがありますね。
いつも楽しく拝聴してます。北海道の札幌→網走を走ってた『オホーツクの風』号に乗車したことありまして、もし動画、解説してもらえたら嬉しいです。
「いなわしろ」は時期によっては会津川口から先の只見まで運行していた。喜多方行きには冷暖房付きのグリーン車が連結されていたが、当時冷涼だったこの地域では冷房の概念自体無かったか、夏場になると窓を開け放しで乗っている高齢者がいたりした。
9:02 宮脇俊三氏はゆうづる号の遅れでこの列車には乗車できていないんですよね。
寿都の客車群はキモい(好き)
循環急行って昔はたくさんあったんだよなあ
名古屋から高山線北陸線を一周するこがね、しろがね
房総半島一周する準急とか
旅客にはあまり意味が無いんだけど
少ない車両を効率よく使いたかったのかな
自分自身が乗った列車はとりわけ忘れ得ぬ存在感があります。
小学生の時、大分発別府行きに乗りました。いや父様に載せられた。博多駅から熊本駅まで。
大分~別府~小倉~博多~熊本~大分~別府行きのひまわり🌻号は一週して更にまだ行く。
時刻表で日豊本線を見て鹿児島本線に移る、更にページをめくり豊肥本線を探す🔎日豊本線に帰る。
面倒くさい作業をさせる列車だが時刻表から他の列車の個性・存在も知りました。どれも武士みたいに「我こそは○○なり」の列車ばかり。恐れ入りました。
🌻ひまわりは特定の名所・名勝の御自慢をしていない謙虚さはあるが九州以外の方には「どこに行くの」でしょう(笑)
30年ほど前、鉄友達と寿都にドライブに行ったことがあります。寿都駅は寿都町役場になっていて、町役場に元寿都鉄道の車掌をしていたという人がいました。その日のうちに札幌まで行かねばならず、時間がなかったので少ししか話が出来なかったのですが、もっと時間を取って寿都鉄道の話を聞けたら、と、今ではそう思います。そのドライブの過程で、湯別付近に架かる橋梁跡は見ました。
途中で切り離して運転するのを多層列車って言うの知らなかった。
電車で通学している時に初めて遭遇して驚いた。
寿都の55 40 はシリンダーロッド形状がピーコック調だね。また、8100のロッドも最後部動輪が離れているのも面白い。
そう言えば、昭和時代が循環急行のピークだったんですよね。路線バスなら循環は当たり前ですが。2024.1.3
仙台から東北各地行きは今や高速バスが主流だな。
鉄道会社の存続是非自体が多層建てとは確かにエモい
会津田島で思い出しましたが、東武快速も、普通に多層階列車でしたよ。
特急リバティの前身
一方小坂にはDL+貨車+客車+気動車が・・・w
急行いぶりの話は、祖父母から、聞いた事、
ありましたね。
急行いぶりを札幌から札幌まで6時間半かけて札幌~伊達紋別~倶知安~札幌で乗りました。
通常1両編成ですがお盆のど真ん中に乗ったのでキハ22の2両編成でした。
車内は激混みで胆振線内も伊達紋別から1時間以上通路に人が溢れている状態でしたね。
ただし夕方伊達紋別から倶知安まで普通列車1両に乗ったときはガラガラでした。
寿都鉄道が強すぎて他が霞んでいるんだがw これ1本で動画が作れるレベルでしょ。
(普通)急行料金は速達性の対価であって設備とは関係ない
寿都鉄道、北海道4500kmで私鉄完乗最大のハードル
行き先無限は草
165系の普通列車だったと思います。長野県で走っていたのですが、行き先が複雑なものがありました。サボには、小さい字で、二段か三段で表示していました。表示していても、理解しにくかった列車がありました。
津軽鉄道のケースは、乗車券のみ(=ストーブ列車に乗らない)で利用する乗客向けの車両です。尚、令和4年12月時点で、ストーブ列車に乗る時は、普通運賃のほかにストーブ列車料金500円必要なので、注意してね。
30年前に北海道でストーブのある列車に乗ったことがあります。
昔は、出張も楽しかったんだろうね。そして、出張族が多かったら、こういう列車も多かったんでしょう。二つや三つの県庁所在地を結ぶ列車がたくさんあって、出張族のおかげで、列車も、都市も大にぎわい。今では会社も、パソコンの前に座っているかを上司が監視。「おい、元気ないなあ、気晴らしだと思って、出張に行って来い」なんていう上司、今の時代、もういません。
国鉄胆振線とか懐かしいな
寿都鉄道、wikiにはどう記されているのだろう?
今から見てみよう…
いくらなんでも解説以上のことはないだろうと思ってwikiをみたら、廃止されるバス免許を中央バスに買ってもらったりしてますねえ
実質廃止されているバス路線に対して引き受けるほうがお金を払う必要なんてないはずですから、寿都鉄道の負っているなんらかの債務を払えるように金を出してもらったりとかなんでしょうかねえ・・・
特急有明も廃止直前は1日0.5往復でしたね
11両が1両に、カオスすぎる・・・・・・・
寿都鉄道の会社燃えたのも故意じゃないのかそれ
いなわしろの会津川口行きと会津田島行きが分割併合するのは西若松ではなく会津若松です
西若松で合っていますよ
末期の話なので昔のことは知りませんが…
ストーブ列車走ってる時期、すごい撮り鉄乗り鉄がわんさか溢れるんだわ……
みんな地元の飯屋で飯くえーーー!
(# `Д) < 誰もかねみしぇつくたって、つぶれるだげだべした!
9:37 JR四国予土線にもいたはず
今も途中で切り離して別目的地行くやつあるやん。特急サンライズ瀬戸出雲。
胆振線の循環列車の成り立ちが気になる。
胆振線は南北から建設され、まず胆振北線と胆振南線が開業してから残りの区間が完成して一つの路線になった経緯がある。
もともと札幌から胆振北線終点・札幌から胆振南線終点まで直通する列車があったものを全線開業によりスジを統合した結果、循環する形になった...という予想を立ててみる
胆振線は、ます国鉄京極線(倶知安~京極~脇方)が建設され、次いで胆振鉄道(京極~喜茂別)が開業
後に胆振縦貫鉄道(喜茂別~伊達紋別)が作られて胆振鉄道と合併(元々資本がほぼ一緒(いわゆる地元有志)だったらしい)
その後いわゆる戦時買収で胆振縦貫鉄道は国鉄になりました。
ちなみに沿線に鉱山が有ったので、私鉄で唯一D51を自社発注しています。(買収後はそのままD51に編入されてます)
いなわしろは磐越西線走行分は喜多方行きならまだいい気がw
当時やろうと思えば、喜多方から分割して日中線内の普通も併結できたはずだし、ついでに新潟まで行けたはずだしねw
秋田から来た急行「羽越」と新発田で併結とかねw
仙台から、浅草まで行く場合は乗換を復数回行いますよね?
気動車と電車の併結と言えば
北近畿とタンゴディスカバリーの併結
国鉄最後のダイヤ改正前の1986年10月31日まで、函館本線の上り客車列車124列車、128列車の後ろにも、七飯-函館間でキハ40の回送を連結していたんですよ。
一両編成でも「列車」という摩訶不思議。
鉄道関係は素人なので調べてみると、営業路線を走っていれば何両編成でも「列車」なんですね。
また一つ賢くなりました。
いや、1両で「編成」というのも日本語的に間違い。業界で便宜的に使われてはいますが。
鉄道雑誌などでは1両運行を「単行」と記述されています。
「列車」というのも、他に言いようがなく例え単行であっても便宜的に「列車」です。
@@jamesjacobsen7824 をー、有難うございます。
はたから見ると、同じ状態でも鉄道会社ごとに違う言葉が有りそうな気がしてきました。
本線を走行するものは全て「列車」です。1両でも1000両でも、編成の組み方は自由です。車庫内や駅構内だけを動くなら、車両でも問題ありません。
見た目ではわかりませんが、列車と車両の違いは運転法規で大問題になる場合もあります。実に面倒臭い話ですけど。
寿都は父親の故郷です。鉄道橋らしき物が藪のなかにあったのを覚えています。こんな生い立ちだったとは知りませんでした。多層急行は滝川駅深川駅旭川駅で別れるので小学生の自分はドキドキでした。
寿都って、山線なくなったら終わりそうだな
4:54 JR北海道の小沢はこざわと読みます
急行いぶりは
時刻表二万㌔が、始まった時代
札幌駅の出札で 一周の補充券を売ってくれた
笑神様でストーブ列車が放送されたときは、客車+DCでDL牽引ではなかったですな。
539レは、1978年頃に鉄道ジャーナルでも乗車レポが掲載されてたね。
懐かしい。
ED75牽引の旧客6連の後ろにディーゼルカーが3両ぶら下がってたと思う。
キハ58,キハ25,キハユニ26じゃなかったかな?
あれキハユニだけ所定で、その後ろは何でもいい、DMH17系エンジン積んでる車両だったら余り物で可って編成でしょ。
キハ22はデッキ付きだからなあ、そこが遜色かどうかの基準になるか?
デッキ+クロスシート有り、ではないかと。
寿都鉄道のお話が強烈過ぎて、どの列車の印象と
聞かれても...ねぇ(^_^;
朝倉軌道に並ぶ強烈さですね
いぶり大阪環状線見たい
いろいろなトンネル事故を解説して下さい。
国鉄時代は面白いな。
国鉄時代の時刻表を夜から見始めると気が付いたら朝日が出ていた。
かもめみどりハウステンボスも
急行出島博多行き+西九州別府行きは肥前山口で佐世保からの西九州別府行きを+足して3階建てそして鳥栖で別れる。
特筆したいのは佐世保西九州は🈯とグリーン車🍀有り。長崎西九州は自由席のみ。あれ?
出島に🈯とグリーン車🍀があるからかな?
記憶に残る3階建てでした。
タイムトラベルカンパニー、寿都
あれ?って事は伊達紋別や上目名に急ぐなら「いぶり」より「らいでん」の方が速い?
どれも、あったあったですね。
クリオネかっ!?