古代福岡を巡る旅:知られざる大宰府の防衛拠点

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  • Опубликовано: 27 ноя 2024

Комментарии • 24

  • @zyh2714
    @zyh2714 Месяц назад +4

    この動画素晴らしいです!今日本語を勉強している中国人です。このチャンネルの動画は興味も深くて解説も理解しやすくて、本当にありがとうございました!

  • @vell6982
    @vell6982 Месяц назад +3

    太宰府政庁跡地の雰囲気?が大好きで、ここに行くためだけに毎年 福岡に行くほどです。
    ですが歴史的な事の色々は全く分かっておらず、今回のこちらの動画を拝見し「なるほどぉ」とより一層感慨深く…。とても分かりやすくて興味を惹かれる素晴らしい動画を、いつもありがとうございます。

  • @まめさん-s8q
    @まめさん-s8q Месяц назад +11

    いつも楽しく拝見しています!😊
    特に地図の見せ方(いまどこにいるのか、地形がどうなってるか、歩いている時に今どちらを向いているか、等)がどこよりもわかりやすく丁寧に編集されてたり、よい意味でマニアックになりすぎないところがバランスよくてありがたいです🙌
    これからも応援しています!🎉

  • @WampakuKouziGenba
    @WampakuKouziGenba Месяц назад +21

    もっと伸びてほしい👍

    • @マツ-w8i
      @マツ-w8i Месяц назад +7

      ですよね!😊

  • @マジンガー英一
    @マジンガー英一 Месяц назад +2

    柱の礎石が今もそこにあることがすごい
    今は新しい建物が出来るとそこに以前なにが建っていたのかまったくわからなくなります
    天満宮も大事だけど太宰府そのものに行かないと勿体ないですね

  • @ashiwodi
    @ashiwodi Месяц назад +3

    とてもわかりやすいですね。うなずきながら拝見した地元民です。
    小ネタとして、「小水城」というのもあります。小さな谷筋を横切る水城→小水城です。他にも「大土居」と呼ばれる土塁も残っています。おそらくいろんなところに土塁が築かれたものと思われます。時代は下って鎌倉時代、元寇に際して築かれた元寇防塁も同じ考えで作られたものと考えると面白いです。
    基山(基肄城)山頂に登って地形を眺めると、なるほどここは防衛拠点としてはいい位置だと思わせられます。基肄城は南からの侵入に備えたものかもしれませんね。

  • @anewreturner1
    @anewreturner1 Месяц назад +2

    大宰府にある礎石が以前行った時にはプラスチック製でした。それよりも水城の解説がよかったです。

  • @ニワカセンペイ
    @ニワカセンペイ Месяц назад +2

    地元中の地元。
    ありがとうございました。

  • @YURA-5643
    @YURA-5643 Месяц назад +2

    関東人の私から見ると、大野城や太宰府の人たちはなんとなく京都の人に気質が似ている印象があります。京の都との繋がりを感じます🏯

  • @user-Godai_Yoshio
    @user-Godai_Yoshio Месяц назад +3

    朝倉橘広庭宮があった場所は、記念碑のある須川ではなく、朝倉市山田と思われます。理由は、①「広庭」というからには、ある程度の広さのある場所である。②須川からは麻氐良(麻弖良・までら)山が見えない。日本書紀には、そこにあった朝倉社を東の朝倉山に移したとあるが、朝倉山という名前の山は見当たらず、現在の麻氐良山と思われる。

  • @hironobushi
    @hironobushi Месяц назад +2

    時代はさらに下りますが、太宰府側から大野城跡に行く途中、中腹あたりで岩屋城跡があります。
    戦国時代が好きな人は、ここにもよるべきでしょう。

  • @セイキンさん-s7n
    @セイキンさん-s7n Месяц назад +1

    基肄城があった基山(きざん)に登ると当時の瓦が普通に落ちてるからビビる

  • @Zero-v8o7z
    @Zero-v8o7z Месяц назад +1

    だざいふの字を大で表示しているところが本物ですね。左遷された菅原道真の一連の祟りを鎮める為に太政大臣を追贈した931年以降の歴史から太の字を使う様になったと思われます。

  • @tsuyopom8
    @tsuyopom8 Месяц назад +1

    都府楼跡か懐かしい

  • @freeyapan
    @freeyapan Месяц назад

    再建された後の大宰府も鎮西反乱で焼けてしまったと聞きました😢

  • @type32zeke3
    @type32zeke3 Месяц назад

    触れられませんが、、南側の有明海側からの太宰府を守るのに、朝鮮式山城の基肄城や高良山神籠石は重要な役目を果たす位置にあります。
    白村江の敗戦後、攻め込まれず唐新羅の侵攻対策に水城や山城急遽作ったというのが定説ですが、太宰府には「都督府」が置かれとされ、唐の「使節」がいたともされています。しかし、本当は唐・新羅の占領軍本部が太宰府におかれた可能性もあります。そもそも、敗戦国をそのままにしておくでしょうか。
    それに、大敗北で国力の衰えた日本に山城や水城を迅速に作る力があったでしょうか?
    むしろ、占領本部を置いた太宰府を守るために唐・新羅側が作ったと考えてもおかしくないと思います。

  • @まさひろ-r3o
    @まさひろ-r3o Месяц назад

    修学旅行でお守り買ったときの坊さんがすげえ態度だった

  • @岩切宏一
    @岩切宏一 Месяц назад

    うーん⁈イマイチ(T . T)

  • @shinjifukuda
    @shinjifukuda Месяц назад +1

    我以前去過福岡市區和太宰府。太宰府是政治中心,那麼福岡城又是什麼角色?

    • @kizz_ins
      @kizz_ins Месяц назад +1

      兩者都是政治中心,但建立的時間和背景不同。
      太宰府由朝廷設立,從 7 世紀到 12 世紀是九州的政治中心。 在那之後,「太宰」的官職仍然存在,但已成為一種形式,而太宰的政治角色也不復存在。
      福岡城從 17 世紀到大約 19 世紀是福岡地區的中心,由武士建立。
      這似乎很複雜,因為日本有兩個統治階層,即皇室和武士,但只要了解這個時期就很容易了。