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道真が来る前の話には天満宮の画像は不適切ですね。「都府楼跡」という大宰府政庁の遺跡が例の令和の神社の近くにあります。水城には国分寺もあります。時代はぐっと古くなりますから、こちらをお使いください。(太宰府出身者)
左遷された道真公が住んでいた場所が「榎社(筑紫野市二日市)」、亡くなって遺体を安楽寺という寺に埋葬に行く途中、牛車が止まって動かなくなってしまったのでこの地に埋葬されたのが今の天満宮です。
太宰府は素晴らしいですよ。天満宮も素晴らしい。北野天満宮も当然に素晴らしいよ。
白村江の敗北で唐軍に大宰府というか、北九州は占領されたんだろうね。筑紫都督府址がその証拠だと思う。
太宰府天満宮にお寄りの際は、梅ヶ枝餅をどうぞ。とても美味しいとです。
梅の実ひじきもいいと思うんちゃねー
太宰府天満宮来るなら毎月25日に遊びにおいで!梅が枝餅が25日だけ大変身するんだよ
25日は道真公の命日、梅に鶯かな。
今は海岸まで遠いけど博多湾は鎌倉時代頃でも大野城駅付近まで入江になってたから海岸から4キロくらいの距離でしょうね。
7:32足利直義
醍醐天皇の説明のときに出されている絵は後醍醐天皇じゃないんですか?
予期せね事
太宰府天満宮本殿前に、伝説の「飛梅」があります。道真公を慕って京から飛んで来たという所謂「飛梅伝説」の梅です。樹齢は1000年以上とされており、伝説の梅そのものです。毎年元気に花を咲かせているようです。御見逃しなく^^
大宰府=都府楼=遠の朝廷太宰府・・・太宰府市、太宰府駅、太宰府天満宮など
白村江の前に新羅は都督府に編入され唐の一部になっていた。
投稿お疲れさまです。これは俗説の域を出ないのですが、菅原道真が亡くなった後、都では激しい雷雨が襲い、都の大半が火災で消失したそうですが、菅原道真の居館のあった、桑原という地域には雷が落ちなかったことから、昔の人は雷が鳴ると「くわばら、くわばら・・・」と言ってたそうです。
ありがとうございます!
10:49これ、後醍醐天皇では?
漢委奴国王印(かんのわのなのくにのおう)の金印も、福岡の志賀島で発見されていますよね。那の津(なのつ)=奴国の港で、間違いないでしょう。つまり大宰府は、邪馬台国の時代から存在していたコトになります。実際に、魏志倭人伝の記実が示している。当時の福岡周辺は唐もしくは韓(から)と呼ばれ、中国や朝鮮の人々が暮らしていた。邪馬台国の場所は、実はけっこう判明している。使節が対馬を通って日本の末盧国(まつろこく)今の唐津に上陸し、南東に進み伊都国(いとこく)今の糸市に向かったとある。でも実際の伊都国は、末盧国から北東の位置にある。つまり、マイナス90度、方角がズレてる。それならば、日本に上陸して以降の全ての方位が、マイナス90度ズレていると考えれば、答えは導かれる。南に水路を20日進むと言うのも、南をマイナス90度ズラすと東となり、福岡から日本海側を通って、吉備国(岡山)などを抜け、越国(今の上越や中越などの由来になった国で、中国の呉越の越の国の人々が流れて来たとも)の辺りで上陸し、陸路で機内に入る。邪馬台国(やはり大和だと思われる)は、滋賀県の辺り。この辺りに、伊勢遺跡があって、古代人が合議した遺構が見つかっている。三重の伊勢神宮は、伊勢遺跡から遷宮したモノ。女王の国から北に、大量の国があると言うのも、北をマイナス90度動かせば西となり、畿内から見た西国諸国となる。この西国を監視していたのが、那国・のちの大宰府であって、日本外交の窓口として、当時から機能していた。平和台球場跡地から、海外交易・外交施設の鴻臚館が発見されている。南に狗奴国があり、男を王とする。その狗古智卑狗(くこちひく。菊池彦か)がある。女王に属さない。と言うのも、南は東となり、恐らくは諏訪のナガスネヒコなどの古代王国のコトだろう。諏訪に巨大な王国があったのは、ほぼ確実。古事記などに登場するタケミナカタ神は、ヤマト朝廷側の押し付けで、諏訪では認められていない。
妄想ですか?
大内氏が滅ぶと流石に役割が無くなってきたかな?
醍醐天皇の肖像画が後醍醐天皇になってるよ
くわばら、くわばらってね。
果たして、都かな?単なる出張所じゃないのかな?
4:37「朝廷とは別の格式を与えられた」の意味が分からない。たぶん「朝廷から別格の権限を与えられた」ということを書きたかったと思うのだが。5:12「遠の朝廷」をトオノチョウテイと読んでいたが、ここは歴史用語としてはトオノミカドと読むべきところ。11:22ここに載っている肖像画は醍醐天皇ではない。後醍醐天皇だ。どうしてこんな初歩的な間違いをするのかねえ。
道真が来る前の話には天満宮の画像は不適切ですね。「都府楼跡」という大宰府政庁の遺跡が例の令和の神社の近くにあります。水城には国分寺もあります。時代はぐっと古くなりますから、こちらをお使いください。(太宰府出身者)
左遷された道真公が住んでいた場所が「榎社(筑紫野市二日市)」、亡くなって遺体を安楽寺という寺に埋葬に行く途中、牛車が止まって動かなくなってしまったのでこの地に埋葬されたのが今の天満宮です。
太宰府は素晴らしいですよ。天満宮も素晴らしい。
北野天満宮も当然に素晴らしいよ。
白村江の敗北で唐軍に大宰府というか、北九州は占領されたんだろうね。筑紫都督府址がその証拠だと思う。
太宰府天満宮にお寄りの際は、梅ヶ枝餅をどうぞ。とても美味しいとです。
梅の実ひじきもいいと思うんちゃねー
太宰府天満宮来るなら毎月25日に遊びにおいで!
梅が枝餅が25日だけ大変身するんだよ
25日は道真公の命日、梅に鶯かな。
今は海岸まで遠いけど博多湾は鎌倉時代頃でも大野城駅付近まで入江になってたから海岸から4キロくらいの距離でしょうね。
7:32足利直義
醍醐天皇の説明のときに出されている絵は後醍醐天皇じゃないんですか?
予期せね事
太宰府天満宮本殿前に、伝説の「飛梅」があります。道真公を慕って京から飛んで来たという所謂「飛梅伝説」の梅です。樹齢は1000年以上とされており、伝説の梅そのものです。毎年元気に花を咲かせているようです。御見逃しなく^^
大宰府=都府楼=遠の朝廷
太宰府・・・太宰府市、太宰府駅、太宰府天満宮など
白村江の前に新羅は都督府に編入され唐の一部になっていた。
投稿お疲れさまです。これは俗説の域を出ないのですが、菅原道真が亡くなった後、都では激しい雷雨が襲い、都の大半が火災で消失したそうですが、菅原道真の居館のあった、桑原という地域には雷が落ちなかったことから、昔の人は雷が鳴ると「くわばら、くわばら・・・」と言ってたそうです。
ありがとうございます!
10:49
これ、後醍醐天皇では?
漢委奴国王印(かんのわのなのくにのおう)の金印も、福岡の志賀島で発見されていますよね。
那の津(なのつ)=奴国の港で、間違いないでしょう。
つまり大宰府は、邪馬台国の時代から存在していたコトになります。
実際に、魏志倭人伝の記実が示している。
当時の福岡周辺は唐もしくは韓(から)と呼ばれ、中国や朝鮮の人々が暮らしていた。
邪馬台国の場所は、実はけっこう判明している。
使節が対馬を通って日本の末盧国(まつろこく)今の唐津に上陸し、南東に進み伊都国(いとこく)今の糸市に向かったとある。
でも実際の伊都国は、末盧国から北東の位置にある。
つまり、マイナス90度、方角がズレてる。
それならば、日本に上陸して以降の全ての方位が、マイナス90度ズレていると考えれば、答えは導かれる。
南に水路を20日進むと言うのも、南をマイナス90度ズラすと東となり、福岡から日本海側を通って、吉備国(岡山)などを抜け、越国(今の上越や中越などの由来になった国で、中国の呉越の越の国の人々が流れて来たとも)の辺りで上陸し、陸路で機内に入る。
邪馬台国(やはり大和だと思われる)は、滋賀県の辺り。
この辺りに、伊勢遺跡があって、古代人が合議した遺構が見つかっている。
三重の伊勢神宮は、伊勢遺跡から遷宮したモノ。
女王の国から北に、大量の国があると言うのも、北をマイナス90度動かせば西となり、畿内から見た西国諸国となる。
この西国を監視していたのが、那国・のちの大宰府であって、日本外交の窓口として、当時から機能していた。
平和台球場跡地から、海外交易・外交施設の鴻臚館が発見されている。
南に狗奴国があり、男を王とする。その狗古智卑狗(くこちひく。菊池彦か)がある。女王に属さない。と言うのも、南は東となり、恐らくは諏訪のナガスネヒコなどの古代王国のコトだろう。
諏訪に巨大な王国があったのは、ほぼ確実。
古事記などに登場するタケミナカタ神は、ヤマト朝廷側の押し付けで、諏訪では認められていない。
妄想ですか?
大内氏が滅ぶと流石に役割が無くなってきたかな?
醍醐天皇の肖像画が後醍醐天皇になってるよ
くわばら、くわばらってね。
果たして、都かな?単なる出張所じゃないのかな?
4:37「朝廷とは別の格式を与えられた」の意味が分からない。たぶん「朝廷から別格の権限を与えられた」ということを書きたかったと思うのだが。
5:12「遠の朝廷」をトオノチョウテイと読んでいたが、ここは歴史用語としてはトオノミカドと読むべきところ。
11:22ここに載っている肖像画は醍醐天皇ではない。後醍醐天皇だ。どうしてこんな初歩的な間違いをするのかねえ。