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ぞくぞくさん、こんばんは🌉動画の配信、お疲れさま&ありがとうございます。
こんばんは!いつもご視聴ありがとうございます!また来てね!
初回の遣隋使は皇帝から叱責されたことによりにより抹消されたのではなく、陰陽五行の理になぞらえての説明を皇帝が理解できなかったために記録から抹消したのでは?
あの国の資料って、現在の状況からも判断できるけど『行ったことにしとくわ』っていう感じの報告書の可能性が高いと思うんよね。
いやいや現代の政権を基準に考えことは間違えてるよ
魏志倭人伝も、書いた人が倭のことをよく知っていたわけでなく伝え聞いた話を書いただけだといっている人がいました。
旧唐書や新唐書も〇〇かもしれないし、あるいは××かもしれない(実際どうなのかはわからない)みたいに書いてあるよね
唐は鮮卑族(嫌な字だなあ)だっけ?随も漢民族じゃないんだよね。
元祖東方見聞録、ってことね
冒頭、『隋書』って隋ではなくてそれより後の王朝の史官が書いたものでしょ。『魏志』だって魏の時代には書かれていない。
それはそうなんだが、あちらの歴史書は前の王朝の文書を纏めて書いてるから、それなりに信憑性はあるよ
日本書紀に最初の遣隋使が記載されていないのはそこで国交を結ぶことができなかったからでは黒歴史というかわざわざ記載する必要がなかったというだけのこと小野妹子の件が記載されているのは「隋に使者を送ったこと」ではなく「国交を樹立したこと」が重要だったと
随や唐の時代王は男性だったので、日本の王が女性では侮られるため男とし、妻も数百人いるとしたのではないか。 と言う説もあったね。
よしながふみの「大奥」を、地で行く話ですね。(吉宗が男装してオランダの商館長に引見した話があります)遣隋使が推古天皇に謁見したとしても、彼女は御簾の中にいるから女性だとバレないし。
黒歴史というわりにはよく知られている話なので、全然黒歴史ではないと思いますね。
日本側は隋と対等としましたね。そもそも「倭」って日本側は使いませんので。「倭」を使いたがる人々って鮮卑とかわい族とか言いたがる人と同じです。
多利思北孤の北孤の字は書き間違いではなく、銅矛のホコで矛をいっぱい持っているという意味の名前説も有りますね。
隋が、九州王朝を倭の代表と勘違いをしたことを、大失態とあるが、なぜでしょうか?なぜ、大失態なのか? 考古学的発掘品の種類、量から言って、大和朝廷なるものがあるとの潜在意識が、正確な見識をくもらせていると思います。 その当時は,倭を代表するのは、九州王朝でなにが、まちがっているのでしょうかね?
所詮、当時の隋の認知バイアスでの倭の認識だろそもそも、遣隋使が、隋に行くようにならなければ、ろくに海洋術の知識や技術のない大陸の連中は、日本まで来れないだろそんな連中のブログ未満の与太話に大した意味はないよ
地球を天空から見る時日が昇ると同時に日本が最初に日を浴びます😮
地球儀で検証してみては?
いろいろと想像してみることは楽しいです。古事記や日本書紀の記述もすべて正しいわけではありませんしね。
賛成。
「俀」が「弱い」という意味なのはそうですが「倭」も「小さい」「矮小な」という意味ですからわざわざ書き換えてまで貶しているというのはちょっと弱いな
「倭」は「ワ」と読むのではないです。加治木義博博士によると、「うわ」または「うわい」と読むのだそうです。
で?
@こうけつ 、ウン。まずはそのように読んで欲しいということが第一の希望。すると、次に分かってことがある。それは「ウワイ」がウバイではないかということに気がつく。そうなると、その倭国のルーツの推理が容易になる、というわけだ。「で?」なんて聞いてるけど、想像力働かせてる?分からないかな?
多利思北孤は九州を当時治めていた出雲王の山崎帯(やまさきたらし)だと思いますね。宮崎県神門神社の神主として帝に即位し景行天皇と成り、息子の日本武と島根県杵築大社(現・出雲大社)の神主を務めた神門振根=倭健(=白鳥伝説の日本武)で神門振根の子、伊賀曽熊の嫡子:健部氏が神門姓継承と日本武名代部と成って居ますからね。
天孫族が九州の地に降り立ち、勢力を拡大しながら畿内へ進出して大和王朝を建設した。九州に残った一部の勢力は南九州へ勢力を拡大して、やがて九州王朝としてその一体を治めた。両者は兄と弟のような良好な関係を築いていた。実際の王同士が本当の兄弟であるほどの近親者だったのかもしれない。「倭王は夜明けに政治について聞くだけで、日中の政治は弟が中心だった」これは両者が互いの王朝の様子を逐一把握しつつ、各々はその地域を治めていたことを示し隋の帝はこの一国二元支配に対して異を唱えた。
歴史書は勝者が作成するぜ!! それ真実は限らないぜ 古事記 日本書紀
10:50 阿蘇山、理由もなく火を噴いている😂
なんか、この動画には、「?」っていう部分が多い氣がします。
中国で見つかった資料の方が正しいというのはアホですよ。
正解。賛成。
失態なのでしょうか・・・兄が天で、弟が日。昼間はお天道様に任せるくらい王は一般人とは位が違うよって伝えたかったのかも。隋の帝が理解できなかったのでは。九州王朝にしても、いろいろ説がありますからね。早く事実が明らかになったらいいですね!ヤマタイ=ヤマトなんて説もありますからね
ごめん。面白そうで観たけど、全く持って下らねー投稿にガッカリです😂
九州王朝がどうだったのかはわかりませんが、「卑弥呼は存在しなかった」、「聖徳太子==うまやどのみこ は実在した」、「日本(倭国)は隋王朝との外交に関しては失敗したとは考えていなかった」 とは思っています
小野妹子が、大和朝廷か九州王朝どちらの人間か見れば(活動の記録など資料に残っているのでは?)、九州王朝が隋に使者を送ったか、勘違いしたかわかるのではないでしょうか? 九州王朝が、日本代表する存在と隋が認識したかどうかは、九州も大きな島なので区切りがよく、「国です」、と主張しても通ると思いますよ。
倭国は応神天皇位まで春秋暦を使用しているために神武天皇が即位した年は西暦前600年位では無いですが?西暦一世紀位だと考えられますが。
漢字の使い方は今のものと異なり、音と訓を混在して使っていたりするので、現代人の読み方で判断しない方がよろしいかと😅
映像や分析は凝ってるんだから、無闇に驚かそうとしたりせず、淡々と事実と仮説の根拠のみを羅列すると良い動画についてなると思います。今回は動画の一部と書き込みだけを見てやめておきますが。
文字の件は、書き間違いかも知れないが、呼び方(書き方)が変化したのかも例えば、エゲレス→イギリス、 中華民国→台湾、
違うでしょ。おそらくですが、一回目の遣隋使という表現自体が間違いで、隋に偵察というか、日本の有力者か何かが貿易やあれこれを摸索し、王に会いに行く機会があり、それが一回目で、それをきっかけに遣隋使という外交ルートが確立されたというだけの話であり、九州と大和に王朝が二つあったとかというよりも、大和政権の分家なり本家なりが九州にあり、もしかすると昼と夜とはそういう意味なのかもしれないくらいですが、つまるところそこまで確定的にこちらが本家!みたいな感じでない可能性すらある時代であり、なんとなく九州側の人々が隋に旅行とまで言えるほどラフな感じとは思いませんが、まぁ金儲けとかで隋に行き始まった遣隋使ですので、記述などもあいまいな面があり、大和政権もこれを機に厳密な規定を考えるようになったとか、そういう見方が成されるべきだと考えられます。それ以前にそれらを形式化できるだけの文書などによる補完する行政技術が確立されていなかったと考えられるからです。
九州王朝,出雲王朝,ヤマト王朝,富士王朝,日高見の国,蝦夷,いろいろあって大変ですな.
小野妹子の前の遣隋使船は、帰路、難破しました
この話と阿蘇に敷き詰められた中国製太陽光パネルと関係があったりして?
興味あるお話をありがとうございます。歴史に”もし”はありませんが”もしかして”はあり得ます。口をひらけば「中国から朝鮮を通って伝わった。」と言うエライ歴史学の先生方よりも”もしかして”を考えるシロウトの人たちの方が余程正しい史実の解明に寄与してると思いますが・・・・・。ところで隋の使者裴世清が日本で会った大王が男であったことが現在大きなテーマになっています。大山誠一氏は彼の著書「天孫降臨の夢」の中で「推古大王は大王ではなかった」との説まで披露しております。しかしながら私が最も信頼できる歴史資料としている「出雲口伝」ではかなり詳しく遣隋使に関する経緯が記載されています。著者の斎木雲州さんの説も入っていると思いますが、「上宮太子と法隆寺」(大元出版)という著書の中の p130 F.「隋書」と尾張大王 の中で 「ヤマトの尾張宮で隋の使者と 尾張大王=帯彦・多利思比孤 が会った」と書かれています。当時推古大王の代であったのですが、皇太子であった上宮太子(日本書紀で後に聖徳太子とされた人物)を排除し、自分の子の尾張の皇子を推古12年から大王にしたとの記述があります。冠位制や上宮太子夫婦の毒殺についても詳細な記述がありますが、毒殺の経緯については上宮太子(聖徳太子にされた人)の息子の財王(当時出雲国に任官していた)がその葬式に出席し、それを出雲の口伝を行なっていた富家に伝えたと言うことまで記述されています。もしご興味があれば大元出版の「上宮太子と法隆寺」を読んで戴き、ご意見を戴ければ幸いです。
こちらこそ、ご視聴ありがとうございました!また来てね!
大失態って何?勝手に隋が怒ってるだけやん
😼y-~今から40年以上前に、八幡書房から北日本三国志と言う本📕にもっと正確に古代中華の文系を元に書かれて居る。
内容によってはミシングリンク分かるかもな
「たい」が弱いだから「倭」でなくしたものですって? 「倭」って卑しいという意味があるのは知ってますか?興味深く見させていただきました。
五の大王は九州王朝ではないというのが加治木博士の説です。それはどこにあったのか?詳しくは加治木博士のご著書をお読みください。
中共の人?中国様 格上↓日本 格下という印象操作?あなたの考察?根拠が弱いし、私見が多すぎる。
全く同意見です
この時代どっからどう見ても格下だろ、倭国なんぞw
歴史勉強してね。
邪馬台国が北部九州に在ったことはほぼ間違いなかろうて。
証明のしようがない仮説ですね・・・
? 違和感しか残らなかった。
隋書には、小野妹子が遣わされた時のことは書いてないんでしょうか。日本の方にない記録だけが残っているとしたら、なぜその記録が中国側にないのかが謎ですね。どちらも正しいのか、どちらも創作が入っているのか、あるいは、どちらかだけが正しいのか。興味深い話だと思いました。
隋書倭国伝は5世紀末から6世紀の聖徳太子の大和朝廷時代のことを書いているが、魏志倭人伝の3世紀くらいの邪馬台国と同じ国であるという前提で書かれてるな。大和朝廷が畿内に存在したことに異論は出ないが、唐突に九州阿蘇山が火山信仰の霊山として書かれる。これは何かの気まぐれというわけではないだろう。有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
4:10 670年では⁉︎
倭などという国は無い日本より古くからあった国は、ワニ(鰐、和邇)で、その中心は志賀島と丹波漢王朝は、これを倭奴(ワヌ)と称したこれは古事記も日本書紀も全く同じで、鰐または熊鰐とは、綿津見の別名である綿津見のひ孫が、神武天皇と稲飯命だが、鰐の国を継いだのは稲飯命だと古事記でもはっきりと書いてある日本を建国したのは、琴平様ことニギハヤヒであり、神武天皇は綿津見の鰐では無く、ニギハヤヒの日本を継承したと、日本書紀の最初に出てくる日本人がアホなのは、明治政府の万世一系というでっち上げを今だに信じて、天武天皇の日本が天智天皇の鰐を滅ぼした壬申の乱まで、日本列島には二つの国があったという古事記と日本書紀の記紀の存在意義を理解してないことだ
まぁ、このあたりの記述記録表記は略奪簒奪を繰り返す狩猟民族・中国の地でくにー囗や國ーを成すモノの本質・性根が見えるとこですね。
間違えるはずがないぜ
空気漏れが多くて聞き取りにくい声
ディスりコメント多いですが「諸説あり」強いメンタルで続けてください🎉「日出る国より…」トンチンカンな形で外交が始まったのかも知れませんね😅
私は、文王の質問へ倭国の使者が答えた内容は、もう少し一考するべきではと考えています。天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けない内に政務を行い、日が昇れば政務をやめて、弟に委ねると答えたのです。夜の、まだ明けない時間帯を大事にした政務をしていたことがわかります。この方が、道理に適う道であるかもしれません。皇室の大事な儀式が日中より、夜に行われていると聞きます。隋書倭国伝は、少なくとも随の王は、夜の重要性を知っていないということを教えてくれます。
倭国は倭国だし、隋は隋だろうに…押し付けなくてもねぇ😅‼️
学会に論文提出したかな?
`中国の歴史には倭国の言い回しが度々出てきます。倭国とは必ずしも和国とは断定できません。
チコちゃんが書いた日記が見つかったか
日記だったの?
@@RUN-cy3rp (*ˊᗜˋ)そそチコちゃんのゆめにっきだよ~(。・ω・。)
やっぱり、「コンチコワ」から、始まってるのかな?
@@フーテンの熊さん-h6f だね(*^^*)
中国の古い文章は文化大革命で焼けて無いが本当にです。後から書かれたファンタジーが多いが事実です。
勝手に大失態扱いする意味がわからない。
大失態、大失態、大失態………大失態! 何度まぬけなことを言うのですか?恥を晒した? 恥は晒しておりません。 我がほうのご先祖さま方は大陸に対して微塵も卑下しておりませんでした。この視点で考えてみて下さい。
全部仮説だろ。
ちょっと無理があるね
隋王朝の次は唐王朝ですが、旧唐書には倭国伝と日本国伝があります。日本国は天武天皇が称するように定めていますので大和朝廷のことです。大和朝廷は唐王朝になってから使者を派遣するようになったと考えます。倭国は九州にあった王朝と思います。倭の奴国が漢王朝に朝貢して金印を受領していますが、以後も九州の倭国が中国に朝貢しています。邪馬台国も当然のごとく九州になります。よって、隋に使者を派遣したのも九州王朝と考えます。
隋書は唐が編纂したしな。苦労して建国した文帝からしたら非礼だったのだろうな。
記紀だけではなく古史古伝や風土記も勉強した方がもっと良くなると思ますよ。中国の歴史書は他国を貶める内容なのであくまでも参考にしかなりません
聖徳太子の末裔は、京都に今もいらっしゃるそうで、皆殺しではありません。太子は、49歳で死亡ではなく、83歳まで?生きたそうです。他にも、邪馬台国が高知県にあったとか、宮内庁は基本の歴史観を職員には就任時にレクチャーしています。国防の観点で、九州の地名と四国を相似形にしてあり、関西も富んでいる印象にしました。これらは、宮内庁の元海外諜報員の 内藤晴輔さんのディスクロージャーです。2024年10月25日㈮ 4:33 書き込み・
それはどこに書かれてありますか?聖徳太子の家系が皆殺しではないというのは面白いですが、聖徳太子も83歳まで生きたというのは、どこに書かれてありますか?誰の説でしょうか?
高地というよりも、四国にあったというのは他の人も主張していますね。
@@永田誠至 あれれ? 書いた通りなんですが、元 宮内庁の海外諜報員であった、内藤晴輔さんのディスクロージャーです。動画がありますが、どれだったかは、忘れました。私は、ニコ生で視た気がします。 もう何年も前ですが。● 邪馬台国は、高知県にあったそうで、● 聖徳太子の末裔は、京都にいるそうです。2024年11月4日㈪ 14:04 書き込み・
ヤマ タイ国?
ほんまかいな!どうせ都合の良い書き方で、日本も領土だと言い出すぞ。
❤❤😂😂😂😂😂😂😂😂😂
何処が大失態なんだ?ここでもシナ万歳か
出鱈目デタラメ
解釈が可笑しい止める巾だ
ヒミコは裏切られ暗殺された、天岩戸伝説しかし黄泉還ったイエス(救世神)の復活😊
アホ話!
普通に喋れんかな
随か上目線の解説
倭とは❓倭人とは❓倭=日本🇯🇵では無い。日本を含む広範な地域に住む、海洋民族、全てを指している。沖縄や南方諸国、全てが倭人で有り、倭国で有る。
これは面白いぜ 古事記 日本書紀は ねつ造品だぜ
教科書には載ってないけど、歴史学者には常識の話じゃないかな
この辺りから大陸からかなりの渡来人が渡って日本の国が出来上がってきたんだろうと思います。なので、今、よく中国をバッシングする動きがあるが、元々兄弟みたいなもんなんですよ。中国とうまくやっていかなくてはいけない時代がまた来ている。
中国からの人間が日本を作ったという考えは妥当ではないようです。日本は元々、中国大陸に出かけていったと考える人が今は多いです。
ずいずいずっころがし二代でポン
あの、金印は捏造されたフェイクとする説が昨今有力です。
「証拠」とは「拠り所を明らかにする証(あかし)」=「’物的証拠」です。判らない同志で「多分、恐らく、キット」を唯一の拠り所として、「声の大きい人の意見が正しいミタイ」な言い合いは止めましょう!!! 聞いてて疲れる!!!
ぞくぞくさん、こんばんは🌉動画の配信、お疲れさま&ありがとうございます。
こんばんは!
いつもご視聴ありがとうございます!
また来てね!
初回の遣隋使は皇帝から叱責されたことによりにより抹消されたのではなく、陰陽五行の理になぞらえての説明を皇帝が理解できなかったために記録から抹消したのでは?
あの国の資料って、現在の状況からも判断できるけど『行ったことにしとくわ』っていう感じの報告書の可能性が高いと思うんよね。
いやいや現代の政権を基準に考えことは間違えてるよ
魏志倭人伝も、書いた人が倭のことをよく知っていたわけでなく伝え聞いた話を書いただけだといっている人がいました。
旧唐書や新唐書も
〇〇かもしれないし、あるいは××かもしれない(実際どうなのかはわからない)
みたいに書いてあるよね
唐は鮮卑族(嫌な字だなあ)だっけ?随も漢民族じゃないんだよね。
元祖東方見聞録、ってことね
冒頭、『隋書』って隋ではなくてそれより後の王朝の史官が書いたものでしょ。『魏志』だって魏の時代には書かれていない。
それはそうなんだが、あちらの歴史書は前の王朝の文書を纏めて書いてるから、それなりに信憑性はあるよ
日本書紀に最初の遣隋使が記載されていないのは
そこで国交を結ぶことができなかったからでは
黒歴史というかわざわざ記載する必要がなかったというだけのこと
小野妹子の件が記載されているのは「隋に使者を送ったこと」ではなく「国交を樹立したこと」が重要だったと
随や唐の時代王は男性だったので、日本の王が女性では侮られるため男とし、妻も数百人いるとしたのではないか。 と言う説もあったね。
よしながふみの「大奥」を、地で行く話ですね。
(吉宗が男装してオランダの商館長に引見した話があります)
遣隋使が推古天皇に謁見したとしても、彼女は御簾の中にいるから女性だとバレないし。
黒歴史というわりにはよく知られている話なので、全然黒歴史ではないと思いますね。
日本側は隋と対等としましたね。そもそも「倭」って日本側は使いませんので。「倭」を使いたがる人々って鮮卑とかわい族とか言いたがる人と同じです。
多利思北孤の北孤の字は書き間違いではなく、銅矛のホコで矛をいっぱい持っているという意味の名前説も有りますね。
隋が、九州王朝を倭の代表と勘違いをしたことを、大失態とあるが、なぜでしょうか?
なぜ、大失態なのか? 考古学的発掘品の種類、量から言って、大和朝廷なるものがあるとの潜在意識が、正確な見識をくもらせていると思います。 その当時は,倭を代表するのは、九州王朝でなにが、まちがっているのでしょうかね?
所詮、当時の隋の認知バイアスでの倭の認識だろ
そもそも、遣隋使が、隋に行くようにならなければ、ろくに海洋術の知識や技術のない大陸の連中は、日本まで来れないだろ
そんな連中のブログ未満の与太話に大した意味はないよ
地球を天空から見る時日が昇ると同時に日本が最初に日を浴びます😮
地球儀で検証してみては?
いろいろと想像してみることは楽しいです。古事記や日本書紀の記述もすべて正しいわけではありませんしね。
賛成。
「俀」が「弱い」という意味なのはそうですが「倭」も「小さい」「矮小な」という意味ですから
わざわざ書き換えてまで貶しているというのはちょっと弱いな
賛成。
「倭」は「ワ」と読むのではないです。加治木義博博士によると、「うわ」または「うわい」と読むのだそうです。
で?
@こうけつ 、ウン。まずはそのように読んで欲しいということが第一の希望。すると、次に分かってことがある。それは「ウワイ」がウバイではないかということに気がつく。そうなると、その倭国のルーツの推理が容易になる、というわけだ。
「で?」なんて聞いてるけど、想像力働かせてる?分からないかな?
多利思北孤は九州を当時治めていた出雲王の山崎帯(やまさきたらし)だと思いますね。
宮崎県神門神社の神主として帝に即位し景行天皇と成り、息子の日本武と
島根県杵築大社(現・出雲大社)の神主を務めた神門振根=倭健(=白鳥伝説の日本武)で
神門振根の子、伊賀曽熊の嫡子:健部氏が神門姓継承と日本武名代部と成って居ますからね。
天孫族が九州の地に降り立ち、勢力を拡大しながら畿内へ進出して大和王朝を建設した。
九州に残った一部の勢力は南九州へ勢力を拡大して、やがて九州王朝としてその一体を治めた。
両者は兄と弟のような良好な関係を築いていた。
実際の王同士が本当の兄弟であるほどの近親者だったのかもしれない。
「倭王は夜明けに政治について聞くだけで、日中の政治は弟が中心だった」
これは両者が互いの王朝の様子を逐一把握しつつ、各々はその地域を治めていたことを示し
隋の帝はこの一国二元支配に対して異を唱えた。
歴史書は勝者が作成するぜ!! それ真実は限らないぜ 古事記 日本書紀
10:50 阿蘇山、理由もなく火を噴いている😂
なんか、この動画には、「?」っていう部分が多い氣がします。
中国で見つかった資料の方が正しいというのはアホですよ。
正解。賛成。
失態なのでしょうか・・・兄が天で、弟が日。昼間はお天道様に任せるくらい王は一般人とは位が違うよって伝えたかったのかも。隋の帝が理解できなかったのでは。九州王朝にしても、いろいろ説がありますからね。早く事実が明らかになったらいいですね!ヤマタイ=ヤマトなんて説もありますからね
ごめん。面白そうで観たけど、全く持って下らねー投稿にガッカリです😂
賛成。
九州王朝がどうだったのかはわかりませんが、「卑弥呼は存在しなかった」、「聖徳太子==うまやどのみこ は実在した」、「日本(倭国)は隋王朝との外交に関しては失敗したとは考えていなかった」 とは思っています
小野妹子が、大和朝廷か九州王朝どちらの人間か見れば(活動の記録など資料に残っているのでは?)、九州王朝が隋に使者を送ったか、勘違いしたかわかるのではないでしょうか?
九州王朝が、日本代表する存在と隋が認識したかどうかは、九州も大きな島なので区切りがよく、「国です」、と主張しても通ると思いますよ。
倭国は応神天皇位まで春秋暦を使用しているために神武天皇が即位した年は西暦前600年位では無いですが?西暦一世紀位だと考えられますが。
漢字の使い方は今のものと異なり、音と訓を混在して使っていたりするので、現代人の読み方で判断しない方がよろしいかと😅
映像や分析は凝ってるんだから、無闇に驚かそうとしたりせず、淡々と事実と仮説の根拠のみを羅列すると良い動画についてなると思います。今回は動画の一部と書き込みだけを見てやめておきますが。
文字の件は、書き間違いかも知れないが、呼び方(書き方)が変化したのかも
例えば、エゲレス→イギリス、 中華民国→台湾、
違うでしょ。おそらくですが、一回目の遣隋使という表現自体が間違いで、隋に偵察というか、日本の有力者か何かが貿易やあれこれを摸索し、王に会いに行く機会があり、それが一回目で、それをきっかけに遣隋使という外交ルートが確立されたというだけの話であり、九州と大和に王朝が二つあったとかというよりも、大和政権の分家なり本家なりが九州にあり、もしかすると昼と夜とはそういう意味なのかもしれないくらいですが、つまるところそこまで確定的にこちらが本家!みたいな感じでない可能性すらある時代であり、なんとなく九州側の人々が隋に旅行とまで言えるほどラフな感じとは思いませんが、まぁ金儲けとかで隋に行き始まった遣隋使ですので、記述などもあいまいな面があり、大和政権もこれを機に厳密な規定を考えるようになったとか、そういう見方が成されるべきだと考えられます。
それ以前にそれらを形式化できるだけの文書などによる補完する行政技術が確立されていなかったと考えられるからです。
九州王朝,出雲王朝,ヤマト王朝,富士王朝,日高見の国,蝦夷,いろいろあって大変ですな.
小野妹子の前の遣隋使船は、帰路、難破しました
この話と阿蘇に敷き詰められた中国製太陽光パネルと関係があったりして?
興味あるお話をありがとうございます。歴史に”もし”はありませんが”もしかして”はあり得ます。口をひらけば「中国から朝鮮を通って伝わった。」と言うエライ歴史学の先生方よりも”もしかして”を考えるシロウトの人たちの方が余程正しい史実の
解明に寄与してると思いますが・・・・・。
ところで隋の使者裴世清が日本で会った大王が男であったことが現在大きなテーマになっています。大山誠一氏は彼の著書「天孫降臨の夢」の中で「推古大王は大王ではなかった」との説まで披露しております。
しかしながら私が最も信頼できる歴史資料としている「出雲口伝」ではかなり詳しく遣隋使に関する経緯が記載されています。
著者の斎木雲州さんの説も入っていると思いますが、「上宮太子と法隆寺」(大元出版)という著書の中の p130 F.「隋書」と尾張大王 の中で 「ヤマトの尾張宮で隋の使者と 尾張大王=帯彦・多利思比孤 が会った」と書かれています。
当時推古大王の代であったのですが、皇太子であった上宮太子(日本書紀で後に聖徳太子とされた人物)を排除し、自分の子の尾張の皇子を推古12年から大王にしたとの記述があります。冠位制や上宮太子夫婦の毒殺についても詳細な記述がありますが、毒殺の経緯については上宮太子(聖徳太子にされた人)の息子の財王(当時出雲国に任官していた)がその葬式に出席し、それを出雲の口伝を行なっていた富家に伝えたと言うことまで記述されています。
もしご興味があれば大元出版の「上宮太子と法隆寺」を読んで戴き、ご意見を戴ければ幸いです。
こちらこそ、ご視聴ありがとうございました!
また来てね!
大失態って何?
勝手に隋が怒ってるだけやん
😼y-~今から40年以上前に、
八幡書房から北日本三国志と言う
本📕にもっと正確に古代中華の
文系を元に書かれて居る。
内容によってはミシングリンク分かるかもな
「たい」が弱いだから「倭」でなくしたものですって? 「倭」って卑しいという意味があるのは知ってますか?
興味深く見させていただきました。
五の大王は九州王朝ではないというのが加治木博士の説です。それはどこにあったのか?詳しくは加治木博士のご著書をお読みください。
中共の人?
中国様 格上
↓
日本 格下
という印象操作?
あなたの考察?
根拠が弱いし、私見が多すぎる。
全く同意見です
この時代どっからどう見ても格下だろ、倭国なんぞw
歴史勉強してね。
邪馬台国が北部九州に在ったことはほぼ間違いなかろうて。
証明のしようがない仮説ですね・・・
? 違和感しか残らなかった。
隋書には、小野妹子が遣わされた時のことは書いてないんでしょうか。日本の方にない記録だけが残っているとしたら、なぜその記録が中国側にないのかが謎ですね。どちらも正しいのか、どちらも創作が入っているのか、あるいは、どちらかだけが正しいのか。
興味深い話だと思いました。
隋書倭国伝は5世紀末から6世紀の聖徳太子の大和朝廷時代のことを書いているが、魏志倭人伝の3世紀くらいの邪馬台国と同じ国であるという前提で書かれてるな。大和朝廷が畿内に存在したことに異論は出ないが、唐突に九州阿蘇山が火山信仰の霊山として書かれる。これは何かの気まぐれというわけではないだろう。
有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
4:10 670年では⁉︎
倭などという国は無い
日本より古くからあった国は、ワニ(鰐、和邇)で、その中心は志賀島と丹波
漢王朝は、これを倭奴(ワヌ)と称した
これは古事記も日本書紀も全く同じで、鰐または熊鰐とは、綿津見の別名である
綿津見のひ孫が、神武天皇と稲飯命だが、鰐の国を継いだのは稲飯命だと古事記でもはっきりと書いてある
日本を建国したのは、琴平様ことニギハヤヒであり、神武天皇は綿津見の鰐では無く、ニギハヤヒの日本を継承したと、日本書紀の最初に出てくる
日本人がアホなのは、明治政府の万世一系というでっち上げを今だに信じて、天武天皇の日本が天智天皇の鰐を滅ぼした壬申の乱まで、日本列島には二つの国があったという古事記と日本書紀の記紀の存在意義を理解してないことだ
まぁ、このあたりの記述記録表記は略奪簒奪を繰り返す狩猟民族・中国の地でくにー囗や國ーを成すモノの本質・性根が見えるとこですね。
間違えるはずがないぜ
空気漏れが多くて聞き取りにくい声
ディスりコメント多いですが「諸説あり」強いメンタルで続けてください🎉
「日出る国より…」トンチンカンな形で外交が始まったのかも知れませんね😅
私は、文王の質問へ倭国の使者が答えた内容は、もう少し一考するべきではと考えています。天を兄とし、日を弟とし、天がまだ明けない内に政務を行い、日が昇れば政務をやめて、弟に委ねると答えたのです。夜の、まだ明けない時間帯を大事にした政務をしていたことがわかります。この方が、道理に適う道であるかもしれません。皇室の大事な儀式が日中より、夜に行われていると聞きます。隋書倭国伝は、少なくとも随の王は、夜の重要性を知っていないということを教えてくれます。
倭国は倭国だし、隋は隋だろうに…押し付けなくてもねぇ😅‼️
学会に論文提出したかな?
`中国の歴史には倭国の言い回しが度々出てきます。倭国とは必ずしも和国とは断定できません。
チコちゃんが書いた日記が見つかったか
日記だったの?
@@RUN-cy3rp (*ˊᗜˋ)そそ
チコちゃんのゆめにっきだよ~(。・ω・。)
やっぱり、「コンチコワ」から、始まってるのかな?
@@フーテンの熊さん-h6f だね(*^^*)
中国の古い文章は文化大革命で焼けて無いが本当にです。後から書かれたファンタジーが多いが事実です。
勝手に大失態扱いする意味がわからない。
大失態、大失態、大失態………大失態! 何度まぬけなことを言うのですか?
恥を晒した? 恥は晒しておりません。 我がほうのご先祖さま方は大陸に対して微塵も卑下しておりませんでした。
この視点で考えてみて下さい。
全部仮説だろ。
ちょっと無理があるね
隋王朝の次は唐王朝ですが、旧唐書には倭国伝と日本国伝があります。日本国は天武天皇が称するように定めていますので大和朝廷のことです。大和朝廷は唐王朝になってから使者を派遣するようになったと考えます。倭国は九州にあった王朝と思います。倭の奴国が漢王朝に朝貢して金印を受領していますが、以後も九州の倭国が中国に朝貢しています。邪馬台国も当然のごとく九州になります。よって、隋に使者を派遣したのも九州王朝と考えます。
隋書は唐が編纂したしな。苦労して建国した文帝からしたら非礼だったのだろうな。
記紀だけではなく古史古伝や風土記も勉強した方がもっと良くなると思ますよ。
中国の歴史書は他国を貶める内容なのであくまでも参考にしかなりません
聖徳太子の末裔は、京都に今もいらっしゃるそうで、皆殺しではありません。
太子は、49歳で死亡ではなく、83歳まで?生きたそうです。
他にも、邪馬台国が高知県にあったとか、宮内庁は基本の歴史観を職員には就任時にレクチャーしています。
国防の観点で、九州の地名と四国を相似形にしてあり、関西も富んでいる印象にしました。
これらは、宮内庁の元海外諜報員の 内藤晴輔さんのディスクロージャーです。
2024年10月25日㈮ 4:33 書き込み
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それはどこに書かれてありますか?聖徳太子の家系が皆殺しではないというのは面白いですが、聖徳太子も83歳まで生きたというのは、どこに書かれてありますか?誰の説でしょうか?
高地というよりも、四国にあったというのは他の人も主張していますね。
@@永田誠至
あれれ? 書いた通りなんですが、
元 宮内庁の海外諜報員であった、内藤晴輔さんのディスクロージャーです。
動画がありますが、どれだったかは、忘れました。
私は、ニコ生で視た気がします。 もう何年も前ですが。
● 邪馬台国は、高知県にあったそうで、
● 聖徳太子の末裔は、京都にいるそうです。
2024年11月4日㈪ 14:04 書き込み
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ヤマ タイ国?
ほんまかいな!
どうせ都合の良い書き方で、日本も領土だと言い出すぞ。
❤❤😂😂😂😂😂😂😂😂😂
何処が大失態なんだ?ここでもシナ万歳か
出鱈目デタラメ
解釈が可笑しい
止める巾だ
ヒミコは裏切られ
暗殺された、天岩戸伝説
しかし黄泉還った
イエス(救世神)の復活😊
アホ話!
普通に喋れんかな
随か上目線の解説
倭とは❓倭人とは❓
倭=日本🇯🇵では無い。
日本を含む広範な地域に住む、海洋民族、全てを指している。沖縄や南方諸国、全てが倭人で有り、倭国で有る。
これは面白いぜ 古事記 日本書紀は ねつ造品だぜ
教科書には載ってないけど、歴史学者には常識の話じゃないかな
この辺りから大陸からかなりの渡来人が渡って日本の国が出来上がってきたんだろうと思います。
なので、今、よく中国をバッシングする動きがあるが、元々兄弟みたいなもんなんですよ。
中国とうまくやっていかなくてはいけない時代がまた来ている。
中国からの人間が日本を作ったという考えは妥当ではないようです。日本は元々、中国大陸に出かけていったと考える人が今は多いです。
ずいずいずっころがし二代でポン
あの、金印は捏造されたフェイクとする説が昨今有力です。
「証拠」とは「拠り所を明らかにする証(あかし)」=「’物的証拠」です。判らない同志で「多分、恐らく、キット」を唯一の拠り所として、「声の大きい人の意見が正しいミタイ」な言い合いは止めましょう!!! 聞いてて疲れる!!!