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まあ文句があるなら部下に任せず前線に出てこいやって話で任せたからには結果責任は輝元にあるんだよなあ。
〜関ヶ原戦前〜秀元→毛利本家から独立したい広家→毛利家内で勢力を強めたい輝元→そんな2人をうまく抑えて息子秀就に毛利を継がせたいこれ輝元の一人勝ちやろ
上杉家も大減封になったのは直江兼続のせいだって言う批判が家中に長らく残っていたらしいけど、上杉鷹山が兼続を評価した事で、名誉回復したらしい。
輝元西軍総大将としての書類残してたからなあ話が違うと領地没収されるのは仕方ないと思う
まあ、広家以外の家臣としては関ケ原で戦わず所領の大幅減となり、かといって迂闊に西軍主将になった主君にも文句は言えず、そうなると広家に文句の行き所が落ち着きますよねえ。主君に「なんで西軍主将になった馬鹿」は言えないからな
広家はその後も広正が毛利家の婿となり輝元派として行動していますので、広家の立場が劇的に悪化するのはそれこそ広家死後なんですよね。失脚ぶりを見ると不戦もご指摘の通り福原さんが中心なので、江戸の中期に価値観の変化があり広家的忠義が地に落ちるということになった感はありますよね、そして本番防長編楽しみにしてます!
織豊を経て、お家と先祖の地が一緒じゃなきゃ嫌だという室町の価値観は表向きは一掃されたけど、本当にそれが完成したのは関ヶ原での論功行賞な気がしますね。国衆と言われる土着ヤクザが本当に力を失って中央トップダウンが確立したのはこの瞬間
ジェネリック三本の矢には堪えきれずに吹き出したしかし、今の所広家より輝元の方にに小物感があるな
今回はかなり長くなることを先にお詫びします。九月十七日の書状には関ヶ原合戦を「奉行ども逆心」とあり輝元は恵瓊に騙されたという広家の主張を前提に話が進んでいます。そして「御忠節においては」ともあり毛利が徳川に敵意がないことを証明されればという条件がついてあり、この時点では本領安堵が確約されたわけではありません。なので最高決定者の家康の署名が無いのは手続き上の手順を考えたら罠ではなく当然としか言えないです。恐らく輝元は関ヶ原合戦の不参加と大坂城退去で条件をクリアしたと思ったでしょうが、広家のアレのせいでそれだけではクリアにはならなかったです。毛利家中で「御忠節」の本当の意味を理解していたのは広家だけでしょうね。広家は条件が絶対にクリアできないのがわかっていたので、内心気が気じゃなかったと思います。もちろん毛利は西軍総大将なので処罰は免れないでしょうが、それでも一度本領安堵を約束してから強引に反故にしてしまうと、取次役の福島や黒田や井伊の面目を潰してしまうことになるので史実よりも処罰の難易度は高くなります。つまり広家のアレが無ければもっと粘り強く交渉できたわけで、実際に毛利処罰の早さは取次役が強く抵抗していないことを雄弁に物語っています。関ヶ原の広家のやらかしを自分なりにまとめると、①輝元に無断でしかも輝元の意思に反する釈明を徳川にした→②バレたと判断すると今度は輝元に謝罪どころか報告もせずにだんまりを決め込む→③関ヶ原合戦直前の交渉で「輝元は恵瓊に騙されただけ」という言質を取られてしまいそれを前提に交渉をまとめてしまった、その結果約束を反故にする名分を徳川に与えてしまい取次が味方し辛い状況になり毛利の交渉力を失わせてしまったという事です。そりゃ輝元や家中のヘイトも広家に向かうのも当然としか言えないです。
「Vやねん豊臣!」「相模猛将カルテット」「毛利燃ゆ」←New!!
[輝元の野望]はあっという間に終わりました。久々にヤル気を出したと思ったらこれだよ
いつもながら見事な解説ためになりました。輝元編その14で反家康決起が未遂に終わり、関ケ原時には輝元の本音と毛利の内情・行動パターンは家康に読まれている気がします。だからこそ家康も上杉征伐で大坂を空ける行動に出る気になったのかもしれまんせんね。最近の研究では、家康としては毛利をつぶす気はないけど、銀山の接収は既定路線として後は、滅点方式で理由を見つけて毛利領減封の腹づもりだったようですね。ポスト関ケ原の毛利は輝元の家中再建の手腕、後継者問題のごたごたと子思う父としての一面など見どころ満載ですね。楽しみです。
カープに例えてんじゃねええええええ!!上手いじゃん!!
いや、良き動画
輝元くんはさ・・・爺さまを超えたかったんじゃよ・・・。超えるにはもう天下人になるくらいの功績を目指すしかなかったんじゃよ・・・。でもダメだったんじゃ・・・。
それはないわ
まあ倒幕からの近代化に長州は必須だったわけでこの大減封された毛利が残ったことは日本にとっては幸運だったか
隣の宇喜多くんはチーム消滅してるし、まあ
毛利も上杉もやろうと思えばとり潰せただろうけど大幅減石で済ませた所に家康の性格が出ている気がする
家康はわりと「名門の子孫」に弱いからなあ。「東鑑」愛読者でもあるし、大江広元末裔の毛利氏を潰せなかったのは、分かる気がします。
@@かにひなゆな 家康は徳川軍が一部を除いて実は弱いと知ってたからね
投稿お疲れ様です。毛利家にとっての不幸は徳川家に勝ちを譲ったのに戦後の処遇が過酷だった点でしょうね。上杉家みたいに武門の意地を示した上で減封なら納得できたでしょうが徳川家にいいように扱われる始末、これから毛利家がお家を残す為の苦闘が始まるので楽しみです。福島正則からの年貢をめぐるアルハラ、取次だった黒田如水に隠居して楽になりたいと泣き言を言うとたしなめられる。五郎太石を巡る家中粛清等のイベントが控えています。大名権力の確立するには輝元様も島津家の忠恒様の様に悪名を被るしかなかったんですね。綺麗事を言っていたらお取り潰しは避けられないでしょうから
かといって家康にガチで勝負を挑んだとして最終的に勝ち目があるのか…そしてそうなって負けた場合減封どころじゃ済まないという…輝元が夢を見てしまった段階でアウトよ
まあどのみち大減封になるのは輝元も先刻承知だったんじゃないかな……。防長2ヶ国に縮小しようがしなかろうが、要は中央集権化の邪魔になる頭痛の種でもある国衆どもを旧領から引き剥がしたかったんだろうし……。
南宮山を下っても関ヶ原へたどり着くには家康本隊を突破しなきゃならんのは事実だが、隆景陣中乱舞を引き合いに出すにはいかにも広家は下手を打ちすぎてるw
結局家康という老獪な策略家と戦うには、広家も輝元も力不足だったということですな広家は家康直筆の署名が無い時点で、おかしいと思わなかったのが詰めの甘さがでてるしただ、毛利を取り潰しにしてしまったら第二ラウンド関が原になるし、国内を纏めさせるために、後継問題などはお墨付きを与えるから大幅減封を飲ませたという感じなのかもしれない
信玄、信長、秀吉というチート級の武将達と戦った家康からすれば、輝元なんぞ鼻くそみたいな人物だったんでしょうね。
投稿待ってました。確かに秀就への家督継承は輝元にとっては譲れない条件ですね!正直失念してました。それにしても恵瓊の方が災難だけど、広家の方も生前から戦犯扱いされていたかと思うとやり切れない気持ちになりますね。
ジェネリック三本の矢www三本丸ごと片手で折れそうw
0:16 なんてタイムリーな内容、、、😭😭😭
タイムリー過ぎてて草😁
この動画にもあるように関ケ原関係の書状には後世の偽造があるので余計に事実関係が不鮮明になってる。広家の和平工作も広家のノリノリの軍事行動からすると矛盾してるし、輝元の和平工作に至っては周辺での東軍討伐をみれば矛盾どころの騒ぎではない。では、関ケ原の9月15日以前の和平交渉はなんだったのかといえば、単純に考えると家康が受けて戦にならなければ儲けもの、合戦になっても時間稼ぎさえできれば西軍が有利になる。関ケ原の合戦が数日遅れてれば輝元や広家は毛利元就の血筋全開の謀略家として今に名を残してただろ。輝元側だけでなく家康側も和平工作をしていたのだから、勝った側が嘘つきで負けた側が間抜けな印象が残ってるだけ、紙一重の差で輝元は盆暗な三代目にされてしまった。
0:16 おい広島県民をオーバーキルするのやめろただでさえここから毛利家の転落の話なのにカープの転落まで言わんでくれ…
すいません😓😓
家康の牙の抜き方は上手いなぁ
9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状で「全領安堵は表向きで、実際には領土半減で家康に降参したとの話だ」とあるので、輝元自身も減封自体は早くから追認してたんだろう。あと、大坂の福原広俊だけじゃなく南宮山の重臣・熊谷元直、宍戸元続、益田元祥とも相談した上での広家の交渉を、スタンドプレーみたいに描写するのはいかがなものか。岩国藩の家格向上活動が本格化するのは孫世代の話で輝元・広家存命中は問題になってないこととか、広家自身は死ぬまで毛利の家宰的ポジションを動いてこととかもスルーだし。「吉川広家の真実」と銘打つにしてはアンフェア過ぎる内容じゃないかな。まあ輝元を弁護するためにはスケープゴートが必要ってことなんかな。史実と同じだなw
広家のスタンドプレーではないのは確実でしょうし、それを言えない鬱屈が正当化発言になった感じがしますよね。
輝元は論外として、広家がミスったことには変わりない。
東軍との接触が広家自身のスタンドプレーじゃないにしても、広家が勝手に色々言ってしまった事が後々悪い結果を招いてしまった一因になったのは事実だしな広家のおかげで毛利は助かったという通説は誤りに近い、という意味では「広家の真実」は間違いではないよ
安芸は残してあげてほしかった
伏見城に輝元が出てこれたら結果変わったかも
元から毛利に家康に勝てる要素なかったし、広家の対応が間違っていた訳ではないし、毛利のことも考えて行動していたのだから、当時でも裏切り者の戦犯として本人に伝わるほど、責められたり、悪口言われていたのなら、個人的な問題が多いとはいえ、広家さんには同情するかな。小早川秀秋も本人に関ヶ原での悪口が聞こえてくるような状況だったのかしらん。
二か国減封は、家康の最初からの規定路線で、別に広家の功績じゃないのは、驚き❕それにしても広家と言う人物は、単なる胡散臭い我が儘者としか思えん。印象激変。
毛利の家臣、特に広家の家来は何で広家を叩き切らなかったんかねえ。情けない奴らだ。
毛利吉川家って元々は大内と尼子がいた頃に、大内を裏切り尼子の庇護を目的についたけど尼子が異様に冷たい態度を取り、孤立無援になったのを、家臣達が現当主を追い出し大内に着いていた元就の息子の元春に吉川家を次がせたのが始まりなんですよね火急の中で熟考する事なく行われましたが、結果として後の世で毛利にとって岩国藩という形で、扱いが難しい存在になるとは思わなかったでしょうね弟の隆景も大内の強い勧めで竹原小早川家を継いで、結果として独立大名の様な立ち位置になり最終的には東軍に通じ、毛利輝元が属する西軍を攻撃して、東軍の勝利に貢献するけど亡くなった後は無嗣改易されたし毛利元就が成した両川体制は最終的に毛利家に打撃を与えたのは何とも言えませんね……
戦わずして勝が最良ならば、戦わずして負けるのは最悪。1戦もせずにただただ相手の言いなりに負けを認めた輝元は愚将の中の愚将。
戦って負けたら滅亡なんですがそれは毛利にとっては生き残れば勝ち
岐阜城落ちた時点で負けてんだよなぁ
@@hayakawamikan 当時西軍首脳陣は9月15日に関ケ原で最終戦が行われる事も「家康が突然美濃赤坂に到着する事」も分からなかったので、関ケ原本戦に輝元がいなかった事だけで輝元=消極的だったとは言えない
@@hayakawamikan 最終戦の関ヶ原が秀家や島津・三成他が最前線になっただけで、それまでの大垣城って最前線ではなかったはずだが…それまで東軍側諸将と戦っていたの毛利だと思うんだけど
ゼークトの組織論では「無能な働き者が組織に最も害を与える」と言いますが、ここでの「無能な働き者」は、輝元⁉️広家⁉️もしくは両方⁉️🤔ま、中央集権化されてなかったことも、毛利家の課題ではあったでしょう。他の大名家からの彼らの評価はどうだったんでしょう⁉️
輝元は只のお飾り。広家擁護する人いたけど私はあんまり擁護できないかなあ?
広家がそんな家康に買われてたら秀元なんか用済みだから蟄居とかいくらでもさせられたのに現実は広家じゃ全く頼りにならんから引き続き徳川は毛利の分断のために秀元を推してるわけで
大河ドラマで「毛利輝元」やって欲しいなww昼ドラもビックリなドロドロした展開になりそうww
輝元燃ゆ
防長2か国ではなく安芸一国安堵だったら、現代での評価はもっと違ったものになったと思いますね。 去年萩城を見て思ったのは、“どんだけ家康にビビッてんねん...”。 防長のうちでも、赤間関か瀬戸内のどこかか海運に向いた土地はあったろうに、こんな往来に不便な地に城地を定めるなんて。
吉川広家「ツライです・・・毛利家存続の為の頑張りを評価されないから😭」
広家が忠臣なんて信用する人いるん?
吉川広家は毛利の救世主なんてイメージが世間にあるんですか当時の人たちと同様に、普通に西軍として戦っていれば関ケ原で家康を包囲殲滅できて、毛利家が大躍進できたところを反故にしたイメージしかないです
結局、敵を叩ける時に全力で闘わないと永遠の敗北者になるということよ。中途半端なことをして勝機を逃すあたりノモンハンや上海事変の陸軍を思い出すな。あぁ、連中も薩長系か。
@@紫雲改 そもそも叩き時自体なかったわけだが
裏切らんで西軍で戦ってたら減封されなかったんじゃね
まあ文句があるなら部下に任せず前線に出てこいやって話で任せたからには結果責任は輝元にあるんだよなあ。
〜関ヶ原戦前〜
秀元→毛利本家から独立したい
広家→毛利家内で勢力を強めたい
輝元→そんな2人をうまく抑えて息子秀就に毛利を継がせたい
これ輝元の一人勝ちやろ
上杉家も大減封になったのは直江兼続のせいだって言う批判が家中に長らく残っていたらしいけど、上杉鷹山が兼続を評価した事で、名誉回復したらしい。
輝元西軍総大将としての書類残してたからなあ
話が違うと領地没収されるのは仕方ないと思う
まあ、広家以外の家臣としては関ケ原で戦わず所領の大幅減となり、かといって迂闊に西軍主将になった主君にも文句は言えず、そうなると広家に文句の行き所が落ち着きますよねえ。主君に「なんで西軍主将になった馬鹿」は言えないからな
広家はその後も広正が毛利家の婿となり輝元派として行動していますので、広家の立場が劇的に悪化するのはそれこそ広家死後なんですよね。失脚ぶりを見ると不戦もご指摘の通り福原さんが中心なので、江戸の中期に価値観の変化があり広家的忠義が地に落ちるということになった感はありますよね、そして本番防長編楽しみにしてます!
織豊を経て、お家と先祖の地が一緒じゃなきゃ嫌だという室町の価値観は表向きは一掃されたけど、本当にそれが完成したのは関ヶ原での論功行賞な気がしますね。
国衆と言われる土着ヤクザが本当に力を失って中央トップダウンが確立したのはこの瞬間
ジェネリック三本の矢には堪えきれずに吹き出した
しかし、今の所広家より輝元の方にに小物感があるな
今回はかなり長くなることを先にお詫びします。
九月十七日の書状には関ヶ原合戦を「奉行ども逆心」とあり輝元は恵瓊に騙されたという広家の主張を前提に話が進んでいます。そして「御忠節においては」ともあり毛利が徳川に敵意がないことを証明されればという条件がついてあり、この時点では本領安堵が確約されたわけではありません。なので最高決定者の家康の署名が無いのは手続き上の手順を考えたら罠ではなく当然としか言えないです。
恐らく輝元は関ヶ原合戦の不参加と大坂城退去で条件をクリアしたと思ったでしょうが、広家のアレのせいでそれだけではクリアにはならなかったです。毛利家中で「御忠節」の本当の意味を理解していたのは広家だけでしょうね。広家は条件が絶対にクリアできないのがわかっていたので、内心気が気じゃなかったと思います。もちろん毛利は西軍総大将なので処罰は免れないでしょうが、それでも一度本領安堵を約束してから強引に反故にしてしまうと、取次役の福島や黒田や井伊の面目を潰してしまうことになるので史実よりも処罰の難易度は高くなります。つまり広家のアレが無ければもっと粘り強く交渉できたわけで、実際に毛利処罰の早さは取次役が強く抵抗していないことを雄弁に物語っています。
関ヶ原の広家のやらかしを自分なりにまとめると、①輝元に無断でしかも輝元の意思に反する釈明を徳川にした→②バレたと判断すると今度は輝元に謝罪どころか報告もせずにだんまりを決め込む→③関ヶ原合戦直前の交渉で「輝元は恵瓊に騙されただけ」という言質を取られてしまいそれを前提に交渉をまとめてしまった、その結果約束を反故にする名分を徳川に与えてしまい取次が味方し辛い状況になり毛利の交渉力を失わせてしまったという事です。そりゃ輝元や家中のヘイトも広家に向かうのも当然としか言えないです。
「Vやねん豊臣!」
「相模猛将カルテット」
「毛利燃ゆ」←New!!
[輝元の野望]はあっという間に終わりました。久々にヤル気を出したと思ったらこれだよ
いつもながら見事な解説ためになりました。
輝元編その14で反家康決起が未遂に終わり、関ケ原時には輝元の本音と毛利の内情・行動パターンは家康に読まれている気がします。だからこそ家康も上杉征伐で大坂を空ける行動に出る気になったのかもしれまんせんね。最近の研究では、家康としては毛利をつぶす気はないけど、銀山の接収は既定路線として後は、滅点方式で理由を見つけて毛利領減封の腹づもりだったようですね。
ポスト関ケ原の毛利は輝元の家中再建の手腕、後継者問題のごたごたと子思う父としての一面など見どころ満載ですね。楽しみです。
カープに例えてんじゃねええええええ!!上手いじゃん!!
いや、良き動画
輝元くんはさ・・・爺さまを超えたかったんじゃよ・・・。超えるにはもう天下人になるくらいの功績を目指すしかなかったんじゃよ・・・。でもダメだったんじゃ・・・。
それはないわ
まあ倒幕からの近代化に長州は必須だったわけで
この大減封された毛利が残ったことは日本にとっては幸運だったか
隣の宇喜多くんはチーム消滅してるし、まあ
毛利も上杉もやろうと思えばとり潰せただろうけど大幅減石で済ませた所に家康の性格が出ている気がする
家康はわりと「名門の子孫」に弱いからなあ。「東鑑」愛読者でもあるし、大江広元末裔の毛利氏を潰せなかったのは、分かる気がします。
@@かにひなゆな
家康は徳川軍が一部を除いて実は弱いと知ってたからね
投稿お疲れ様です。毛利家にとっての不幸は徳川家に勝ちを譲ったのに戦後の処遇が過酷だった点でしょうね。上杉家みたいに武門の意地を示した上で減封なら納得できたでしょうが徳川家にいいように扱われる始末、これから毛利家がお家を残す為の苦闘が始まるので楽しみです。福島正則からの年貢をめぐるアルハラ、取次だった黒田如水に隠居して楽になりたいと泣き言を言うとたしなめられる。五郎太石を巡る家中粛清等のイベントが控えています。大名権力の確立するには輝元様も島津家の忠恒様の様に悪名を被るしかなかったんですね。綺麗事を言っていたらお取り潰しは避けられないでしょうから
かといって家康にガチで勝負を挑んだとして最終的に勝ち目があるのか…そしてそうなって負けた場合減封どころじゃ済まないという…
輝元が夢を見てしまった段階でアウトよ
まあどのみち大減封になるのは輝元も先刻承知だったんじゃないかな……。
防長2ヶ国に縮小しようがしなかろうが、要は中央集権化の邪魔になる頭痛の種でもある国衆どもを旧領から引き剥がしたかったんだろうし……。
南宮山を下っても関ヶ原へたどり着くには家康本隊を突破しなきゃならんのは事実だが、隆景陣中乱舞を引き合いに出すにはいかにも広家は下手を打ちすぎてるw
結局家康という老獪な策略家と戦うには、広家も輝元も力不足だったということですな
広家は家康直筆の署名が無い時点で、おかしいと思わなかったのが詰めの甘さがでてるし
ただ、毛利を取り潰しにしてしまったら第二ラウンド関が原になるし、国内を纏めさせるために、後継問題などはお墨付きを与えるから
大幅減封を飲ませたという感じなのかもしれない
信玄、信長、秀吉というチート級の武将達と戦った家康からすれば、輝元なんぞ鼻くそみたいな人物だったんでしょうね。
投稿待ってました。
確かに秀就への家督継承は輝元にとっては譲れない条件ですね!正直失念してました。
それにしても恵瓊の方が災難だけど、広家の方も生前から戦犯扱いされていたかと思うとやり切れない気持ちになりますね。
ジェネリック三本の矢www
三本丸ごと片手で折れそうw
0:16 なんてタイムリーな内容、、、😭😭😭
タイムリー過ぎてて草😁
この動画にもあるように関ケ原関係の書状には後世の偽造があるので余計に事実関係が不鮮明になってる。
広家の和平工作も広家のノリノリの軍事行動からすると矛盾してるし、輝元の和平工作に至っては周辺での東軍討伐をみれば矛盾どころの騒ぎではない。では、関ケ原の9月15日以前の和平交渉はなんだったのかといえば、単純に考えると家康が受けて戦にならなければ儲けもの、合戦になっても時間稼ぎさえできれば西軍が有利になる。関ケ原の合戦が数日遅れてれば輝元や広家は毛利元就の血筋全開の謀略家として今に名を残してただろ。
輝元側だけでなく家康側も和平工作をしていたのだから、勝った側が嘘つきで負けた側が間抜けな印象が残ってるだけ、
紙一重の差で輝元は盆暗な三代目にされてしまった。
0:16
おい広島県民をオーバーキルするのやめろ
ただでさえここから毛利家の転落の話なのにカープの転落まで言わんでくれ…
すいません😓😓
家康の牙の抜き方は上手いなぁ
9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状で「全領安堵は表向きで、実際には領土半減で家康に降参したとの話だ」とあるので、輝元自身も減封自体は早くから追認してたんだろう。
あと、大坂の福原広俊だけじゃなく南宮山の重臣・熊谷元直、宍戸元続、益田元祥とも相談した上での広家の交渉を、スタンドプレーみたいに描写するのはいかがなものか。
岩国藩の家格向上活動が本格化するのは孫世代の話で輝元・広家存命中は問題になってないこととか、広家自身は死ぬまで毛利の家宰的ポジションを動いてこととかもスルーだし。
「吉川広家の真実」と銘打つにしてはアンフェア過ぎる内容じゃないかな。まあ輝元を弁護するためにはスケープゴートが必要ってことなんかな。史実と同じだなw
広家のスタンドプレーではないのは確実でしょうし、それを言えない鬱屈が正当化発言になった感じがしますよね。
輝元は論外として、広家がミスったことには変わりない。
東軍との接触が広家自身のスタンドプレーじゃないにしても、広家が勝手に色々言ってしまった事が後々悪い結果を招いてしまった一因になったのは事実だしな
広家のおかげで毛利は助かったという通説は誤りに近い、という意味では「広家の真実」は間違いではないよ
安芸は残してあげてほしかった
伏見城に輝元が出てこれたら結果変わったかも
元から毛利に家康に勝てる要素なかったし、広家の対応が間違っていた訳ではないし、毛利のことも考えて行動していたのだから、当時でも裏切り者の戦犯として本人に伝わるほど、責められたり、悪口言われていたのなら、個人的な問題が多いとはいえ、広家さんには同情するかな。
小早川秀秋も本人に関ヶ原での悪口が聞こえてくるような状況だったのかしらん。
二か国減封は、家康の最初からの規定路線で、別に広家の功績じゃないのは、驚き❕それにしても広家と言う人物は、単なる胡散臭い我が儘者としか思えん。印象激変。
毛利の家臣、特に広家の家来は何で広家を叩き切らなかったんかねえ。情けない奴らだ。
毛利吉川家って元々は大内と尼子がいた頃に、大内を裏切り尼子の庇護を目的についたけど
尼子が異様に冷たい態度を取り、孤立無援になったのを、家臣達が現当主を追い出し
大内に着いていた元就の息子の元春に吉川家を次がせたのが始まりなんですよね
火急の中で熟考する事なく行われましたが、結果として後の世で毛利にとって岩国藩という形で、扱いが難しい存在になるとは思わなかったでしょうね
弟の隆景も大内の強い勧めで竹原小早川家を継いで、結果として独立大名の様な立ち位置になり最終的には東軍に通じ、毛利輝元が属する西軍を攻撃して、東軍の勝利に貢献するけど
亡くなった後は無嗣改易されたし
毛利元就が成した両川体制は最終的に毛利家に打撃を与えたのは何とも言えませんね……
戦わずして勝が最良ならば、戦わずして負けるのは最悪。1戦もせずにただただ相手の言いなりに負けを認めた輝元は愚将の中の愚将。
戦って負けたら滅亡なんですがそれは
毛利にとっては生き残れば勝ち
岐阜城落ちた時点で負けてんだよなぁ
@@hayakawamikan 当時西軍首脳陣は9月15日に関ケ原で最終戦が行われる事も「家康が突然美濃赤坂に到着する事」も分からなかったので、関ケ原本戦に輝元がいなかった事だけで輝元=消極的だったとは言えない
@@hayakawamikan 最終戦の関ヶ原が秀家や島津・三成他が最前線になっただけで、それまでの大垣城って最前線ではなかったはずだが…それまで東軍側諸将と戦っていたの毛利だと思うんだけど
ゼークトの組織論では「無能な働き者が組織に最も害を与える」と言いますが、ここでの「無能な働き者」は、輝元⁉️広家⁉️
もしくは両方⁉️🤔
ま、中央集権化されてなかったことも、毛利家の課題ではあったでしょう。
他の大名家からの彼らの評価はどうだったんでしょう⁉️
輝元は只のお飾り。広家擁護する人いたけど私はあんまり擁護できないかなあ?
広家がそんな家康に買われてたら秀元なんか用済みだから蟄居とかいくらでもさせられたのに
現実は広家じゃ全く頼りにならんから引き続き徳川は毛利の分断のために秀元を推してるわけで
大河ドラマで「毛利輝元」やって欲しいなww
昼ドラもビックリなドロドロした展開になりそうww
輝元燃ゆ
防長2か国ではなく安芸一国安堵だったら、現代での評価はもっと違ったものになったと思いますね。
去年萩城を見て思ったのは、“どんだけ家康にビビッてんねん...”。
防長のうちでも、赤間関か瀬戸内のどこかか海運に向いた土地はあったろうに、こんな往来に不便な地に城地を定めるなんて。
吉川広家「ツライです・・・毛利家存続の為の頑張りを評価されないから😭」
広家が忠臣なんて信用する人いるん?
吉川広家は毛利の救世主なんてイメージが世間にあるんですか
当時の人たちと同様に、普通に西軍として戦っていれば関ケ原で家康を包囲殲滅できて、毛利家が大躍進できたところを反故にしたイメージしかないです
結局、敵を叩ける時に全力で闘わないと永遠の敗北者になるということよ。中途半端なことをして勝機を逃すあたりノモンハンや上海事変の陸軍を思い出すな。あぁ、連中も薩長系か。
@@紫雲改
そもそも叩き時自体なかったわけだが
裏切らんで西軍で戦ってたら減封されなかったんじゃね