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平凡という意味で凡君だとは思います能力や選択の結果はどうあれ彼からは毛利家を守らねば、という責任感は感じます関ヶ原の後大減封されても食い下がらなかったのも元就の「天下を競望せず」を思い出したものと思います
輝元にとって関ヶ原迄は前半生。輝元の本当の力が発揮されるのは、戦後から長州藩を確立する迄は大変辛かったと思います。それこそ取り潰され切腹した方が楽だったかも知れません。
暗君だと内部崩壊する、どんな大きな家でも内から崩れたら脆い、そうさせずに家を残したからオッケーと思う
お爺ちゃんと違って3英雄全員と戦ってますからね名将ではないかもだけど、関ケ原の恨みを忘れず、後に長州は倒幕することにもなるし……
この人の真価は関ヶ原のあとに三十万石の長州藩を実質五十万石にしたあたりかな?戦闘より内政向きだったんでしょう
幕末には100万石ですからね
大坂城に入場した頃や、長州藩になってからの経済政策などを調べられると、また違った姿になるように思えます。
とりあえず関ヶ原の輝元が無策だったというのは絶対に無いですね。秀吉の死→再び群雄割拠か?→ならばお家を守るために領土拡張!という当時の視点では無理からぬ発想で着々と事を進めてますから。関ヶ原の決戦ステージが回避されて長期戦になっていたら、四国は土佐一国を除いて毛利の属国になっていたでしょう。史実では讃岐と阿波は制圧済み。伊予は小勢が撃退されましたが、もともと毛利の影響力が大きい地域なので、毛利が本気になればすぐなびく。これは秀吉の四国平定等で何度も証明済み。四国が片付いたら兵力を温存している島津や鍋島と結託し、小西や立花、秀包らを呼び戻して、黒田の親父が寄せ集めの兵で荒らした北九州の制圧でしょうね。どうあがいても西日本の覇権は確定です。ここまでこぎつければ経済力に劣る東国なんて、煮て食おうが焼いて食おうが。もちろん放置もアリ輝元が名将だなんて言いませんよ。実際、家康や東軍諸将の短期決戦への執着を読み誤ったわけだし。でも家康が大大名に片っ端から難癖つけてる情況を見てれば輝元が挙兵するのは自然な選択です。先を見越せば家康と結託して豊臣を牛耳るという路線は長続きしない気がするので危険かも。というわけで、あまり彼をボンクラ扱いするのはどうかなあ?
もし関ケ原のあと大坂に残ればどうなっていたんでしょうね?豊臣恩顧は攻撃しにくいだろうし、まだ3万ぐらいは大阪にいたんでしたっけ?敗残兵をまとめて大坂でもう一合戦して欲しかったです。
いつも有り難うございます。 起請文の話痛いし、笑うた⤴️
輝元が幼い秀頼を抱えて東へ進軍するだけで家康を敗走させられたのにもったいない
裏ボス淀殿がいるからわからん
動画には出てきませんが、輝元は家臣の奥方を手込めにして、抗議されるとその家臣を惨殺しています。いくら戦国時代とはいえ酷すぎて好きになれません。
違う。殺したのは家中の混乱とそれによる秀吉の介入を恐れた小早川隆景。
私、この方は大好きな❤️方です。🇯🇵であの、魔王信長、黄金太閤秀吉、天下人家康と対峙した、稀な人物です。お家存亡の危機、太閤から西に睨み利かす有力大名として重宝、家臣の主家思う背信行動で大規模領土喪失と人生のジェットコースターを体験した、凄い人物です。大河ドラマでも必ず出てくる輝元公、やっと最近評価が上がり始めたのは良い兆候だと思います。決して暗愚無能ではない‼️
決断できない男というイメージだな。織田信雄程ではないが他人の意見に流されて「如何にすればよいのだ」と周りに何時も問いかけるイメージ。
女性ナレーターのセリフ回しが良かったです。なかなかドスが効いてる声ですね。
毛利両川体制って盤石だな
よくよく考えたら関ケ原の時に大友義統送り込み、四国には村上等を送り込んで実はくっそノリノリなのに安国寺らに乗せられたんだよで言い逃れできるって絶対祖父の血ですわ内政面は父からちゃんと受け継がれてる分、戦闘面でも父か祖父の血継いでたら絶対ヤバかった
暗君というより凡将じゃね?暗君なら補佐されても無理だろ 最後の功績考えるとそこまで無能じゃない
祖父は戦国屈指の謀将、叔父の両川も天下に知れた猛将と知将・・・偉大過ぎた身内と比較されると萎縮してしまうのも当然。隆元、輝元親子は十分に調整型の優秀な当主だったと思いますよ。隆元が当主だったから弟達は山陰、山陽で伸び伸び活躍出来たし、減封後の輝元の経営手腕も素晴らしいと思います。もっと評価されてもいい。
歴史にタラレバは良くないですが‥毛利隆元が生きていたら‥って思います。当主になっても祖父に後見されながら、元就が死んでからは元春、隆景、元清というとんでもなく優秀なおじに関ケ原直前まで後見されて突然関ヶ原直前に隆景、元清に死なれて関ヶ原の戦いの時に突然一人でやれと言われて無能無能言われるのは可愛そうな気がします
偉大な祖父&偉大な叔父たちが いたので スゴいプレッシャーがあっただろう…「あの人 120万石の殿様だけど 祖父、叔父たちのお蔭らしいよ」「そうだろうな❗️」という陰口を言われたのかな…多分…😓
そりゃ、祖父に比べたら・・・というのは、どこも同じですが、基本的に身内の家臣になんでも任せっぱなしな印象。そして、家康に対抗できるわけもないなのに、今まで祖父、叔父と比べられて大した事も出来てない引け目があったから、総大将の話に乗っかったものの、無策で対局を見る能力もないから、その後は大阪城で何もしないで家臣に丸投げで任せてるんだから、典型的な大国の二代目にありがちな愚将そのもの。自分の立場の重要さに気づいて戦場に赴けば、小早川は確実に裏切らないし、家康の能力ではどうしようもないくらいの戦力差と、立地の良さで関が原は圧倒的に勝ってたでしょうし、負けた時点で大阪城にいるという幸運な事実と、まるまる残ってる毛利勢の戦力を総動員して秀頼を担ぎ上げて大阪城に籠る!という手段は英雄だとすぐに行動するであろう選択もあったが、家を潰したら元就に顔を合わせれないというのか、なにかわからんけど、それもせづに家康の口車に乗せられるという始末・・・暴君ではないが、戦国時代に名を馳せれた土台を持ってたのに、対局を全く見ることが出来ないで何もできなかったという時点で、この時代では、暗君、愚将だと思います。
何もしてなかったわけじゃないぞしれっと四国や九州での影響力拡大目論んで派兵や支援してる(これが戦後詰問されることになるんだが
@@暁は水平線 そんな小細工が出来たとしても、西軍の総大将なのに、関ケ原の重要性もわからずのほほんと大阪でふんぞり返ってる時点で英雄でも名将でもなんでもないということ・・・・愚将という一番の理由は、立花の一万以上の兵がいて、自家の3万強の兵もいるのに籠城しようとせず、家康の甘言に騙されて、さっさと大阪城を引き渡したとのは本当に愚の骨頂。己が天下を取るのか?豊家を守るのか?どちらも選べないというのに、中途半端な野望だけは持っているが、そのくせ戦国期において対局が全く見れない将・・・これは凡将というしかない。その典型でしょう。
おぼっちゃま育ちでちょっとピントがずれてるお人好しって感じがしますね。でもこれっといった実績も無いのに毛利家をなんとか残していますから愚将というよりは凡将なのかな
「毛利輝元は馬鹿か⁉それとも阿呆か⁉」「両方よ」「更に間抜けだ…」
西軍の大将を引き受けたのは決して間違った判断ではないよ問題だったのは回りがその判断を是としなかったこと彼がやりたいことをしっかり支えてやってたら毛利が天下をとってた未来もあった
本気を出せばそれなりに有能な人だったんだろうけど、それより遥かに有能過ぎる親戚周りが過干渉過ぎて結果的に甘やかされた環境で育ってきたら、苦労して成り上がってきた海千山千の秀吉や家康にはそりゃ太刀打ち出来ないだろうとひたすら気の毒に感じる。
ここで毛利も島津も踏ん張ったからこそ徳川江戸幕府を滅ぼし明治が来た
小早川と吉川の両川は優秀だったが早死にした輝元父の隆元はそのふたりが逆さになっても遠く及ばない人物だった二人にはバカにされてたし本人もネガティブだったが彼が失くなったときそれを思い知らされることになるその事が少なからず両川の嫉妬といったゆがんだ感情を持たせた故の厳しい教育だと思いますそれが父譲りの自信のなさと相まって彼を歪めたのだとおもう
飛び抜けた才能は二代続くのは稀ですね〜!そして才能は生まれ付きでどうにもならない。なるようになったわけだ。
隆元さん。。(涙)
長宗我部国親 元親や島津貴久 島津義久 義弘は2代続いてるぞ
元就が、一代で中国地方の大大名になったのに輝元の代で約3分の1❗️この石高こそ輝元の分相応な領土配分だと歴史が、物語ってますよね。
長州藩は、領地大幅削減を恨み→後々の倒幕行動に繋がりましたね❗️
内政の才能はほとんど顔を合わせてなかったお父さんの隆元から受け継いだ説
近年では輝元は関ヶ原の時秀頼の出陣を意図的に遅らせていたって説があるね。理由は西国にある東軍の大名の領地への侵攻のために関ヶ原が短期決戦になっては困るからだったとか。だとしたら本当の戦犯は広家ではなく輝元だったのではないだろうか?
近い親類があまりに有能だらけなせいでダメ武将扱いされてる感がある。平時であれば上手くやれたんじゃないかね。
もし毛利元就が本能寺まで生きていたら講和なんて結ばなさそう
隆元に早くに死なれた事は不運だったかな。いきなり偉大な祖父の跡を19歳で継いで色々とプレッシャーがあったと思う。ただ、武田や朝倉、斎藤や浅井といった名家が信長にことごとく滅ぼされる中、優秀な叔父がいてくれたとは言えよく持ち堪えた。 残念だったのは天下分け目の関ヶ原で判断を誤った事。萩へ移封後の女絡みで家臣を斬殺した事も彼のキャリアを汚してしまった。本当に名君か暗君か評価に困る武将。
暗君とは言えないが、名君では無いかも、偉大な祖父や速く亡くなった父親の影響も有るが、優秀な叔父様方に支えられたんだけどさ、こっちの迷が似合うお方、無事に御家を存続させただけども?、まだましか、あの合戦でピンチに成った折に親戚が頑張って、何とか防長二国で存続させられたんだけど、
まあ、輝元の功績は広島の祖を築いたことですかね。
おぼっちゃまと言うか厳しく育てられすぎて手綱が居なくなっておかしくなる感じですかね、中国の万暦帝?もそんな感じでしたっけ?厳し過ぎるのもいくない...
葵徳川三代の宇津井健さんの重厚なイメージがあるから輝元の評価を聞いたときはびっくりしました
大阪にある太融寺の線香台に毛利の家紋があるけどあれは何?家紋かぶり?
祖父の元就の評価がS、父の隆元がAの評価なら輝元はBの下からCの上くらい西軍の総大将なのに関ヶ原の戦いに出陣していないことが大きなマイナス
萩城では正月の儀式として幕末迄こんな挨拶が儀式のように行われていたと言うが、殿!今年こそは?まだ時期尚早関ヶ原以降の扱いに藩を挙げて恨みに思っていたのでしょうけれど🤔
なんと268年目にして願いが叶ったわけですね(笑)
その話、今の毛利家当主の方が否定してますよ。少なくとも自分は聞いたこともないと。
@@otaru6042 さんそうなのですね、ずっと信じて居ました🤓
@@otaru6042 う~む、でも明治~戦前の毛利家が日本政府相手に決起を検討する儀式をするとも思えずw いいんじゃないんですか?あったことにしておいても
毛利輝元公が関ヶ原に出陣していれば、小早川秀秋と吉川広家も西軍についていたろう。
毛利輝元とかいう策謀家個人的には小悪党なイメージも
創作物で描かれる伊達政宗(天下を狙う腹黒い野心家)みたいなイメージだわ毛利輝元とんでもなく野心家で策謀巡らすもここ一番でやらかす感じが特に
大坂の陣では徳川に味方するも病気を?理由に出陣せず、ちゃっかり大坂方に兵を出している腰抜けなのか無能なのか…ちゃんと出陣してたら加増されたかも知れないのに…幕末には吉川家に独立されてしまう始末倒幕に導いたのは桂小五郎、元就の血筋という…
別のとこで輝元のことトリューニヒトも前世とか呼んでる人いて笑ったな。
結果的には、関ヶ原後の領国位が輝元の器量に相応かなと思います。
下手に120万石抱えていたら逆に危なかったかもな・・・
だめだこりゃ┐(´д`)┌
二の丸殿とのロリコンエピソードもやって欲しかったこれも人間臭い話
山口県(長州)は、毛利と言うよりも、大内氏かな。
やっぱりわかんないです。元就は、信玄や謙信や、北条早雲まで遡って、そーいうレベルですげぇ人だと思うんですが、それと家が残るかどうかは別の話。「それでも家残しちゃったっていう、輝元の価値、あるのかないのか。」でなければ、元就は、武田今川北条となにかちがってたのか(たまたまなのか?、なんかものすごい裏技持ってたのか)正直、明治維新と毛利の関係も、私の中ではつながりません、禁門の変と輝元がそもそもつながりません(そんだけ~の思いが、見えないです)なんで、毛利を、もっと深掘りしてください、です。
毛利裕仁の墓は李氏朝鮮の王族の墓と瓜二つ。chertovy vorota caveなの?
間違いなく有能ではないな家臣団がバラバラな時点で実際関ヶ原の時に吉川広家をはじめ、福原・宍戸・益田・熊谷といった重臣たちが反していたし氏実、義昭みたいな「実は…」みたいな大名は慰めにしかならない
お山の大将
所領を大幅に減らされる結果を招いた暗君だろう。
調査不足すぎ敗戦後の部下たちの書状の数々特産品の開発や茶器の製造その後の行動をみれば本当に名君たぶんだが頼れる叔父たちがいたことがこの人の失敗
暗愚ではない?暗愚でしょ?
義昭かくまったのは悪手だよなー
^^♥♥♥
漢民族を敵にするのは勝手だが、大和民族を巻き込むなよ。
まるで安倍晋三
平凡という意味で凡君だとは思います
能力や選択の結果はどうあれ彼からは毛利家を守らねば、という責任感は感じます
関ヶ原の後大減封されても食い下がらなかったのも元就の「天下を競望せず」を思い出したものと思います
輝元にとって関ヶ原迄は前半生。輝元の本当の力が発揮されるのは、戦後から長州藩を確立する迄は大変辛かったと思います。それこそ取り潰され切腹した方が楽だったかも知れません。
暗君だと内部崩壊する、どんな大きな家でも内から崩れたら脆い、そうさせずに家を残したからオッケーと思う
お爺ちゃんと違って3英雄全員と戦ってますからね
名将ではないかもだけど、関ケ原の恨みを忘れず、後に長州は倒幕することにもなるし……
この人の真価は関ヶ原のあとに三十万石の長州藩を実質五十万石にしたあたりかな?戦闘より内政向きだったんでしょう
幕末には100万石ですからね
大坂城に入場した頃や、長州藩になってからの経済政策などを調べられると、また違った姿になるように思えます。
とりあえず関ヶ原の輝元が無策だったというのは絶対に無いですね。秀吉の死→再び群雄割拠か?→ならばお家を守るために領土拡張!という当時の視点では無理からぬ発想で着々と事を進めてますから。関ヶ原の決戦ステージが回避されて長期戦になっていたら、四国は土佐一国を除いて毛利の属国になっていたでしょう。史実では讃岐と阿波は制圧済み。伊予は小勢が撃退されましたが、もともと毛利の影響力が大きい地域なので、毛利が本気になればすぐなびく。これは秀吉の四国平定等で何度も証明済み。四国が片付いたら兵力を温存している島津や鍋島と結託し、小西や立花、秀包らを呼び戻して、黒田の親父が寄せ集めの兵で荒らした北九州の制圧でしょうね。どうあがいても西日本の覇権は確定です。ここまでこぎつければ経済力に劣る東国なんて、煮て食おうが焼いて食おうが。もちろん放置もアリ
輝元が名将だなんて言いませんよ。実際、家康や東軍諸将の短期決戦への執着を読み誤ったわけだし。でも家康が大大名に片っ端から難癖つけてる情況を見てれば輝元が挙兵するのは自然な選択です。先を見越せば家康と結託して豊臣を牛耳るという路線は長続きしない気がするので危険かも。というわけで、あまり彼をボンクラ扱いするのはどうかなあ?
もし関ケ原のあと大坂に残ればどうなっていたんでしょうね?
豊臣恩顧は攻撃しにくいだろうし、まだ3万ぐらいは大阪にいたんでしたっけ?
敗残兵をまとめて大坂でもう一合戦して欲しかったです。
いつも有り難うございます。 起請文の話痛いし、笑うた⤴️
輝元が幼い秀頼を抱えて東へ進軍するだけで家康を敗走させられたのにもったいない
裏ボス淀殿がいるからわからん
動画には出てきませんが、輝元は家臣の奥方を手込めにして、抗議されるとその家臣を惨殺しています。いくら戦国時代とはいえ酷すぎて好きになれません。
違う。
殺したのは家中の混乱とそれによる秀吉の介入を恐れた小早川隆景。
私、この方は大好きな❤️方です。
🇯🇵であの、魔王信長、黄金太閤秀吉、天下人家康と対峙した、稀な人物です。お家存亡の危機、太閤から西に睨み利かす有力大名として重宝、家臣の主家思う背信行動で大規模領土喪失と人生のジェットコースターを体験した、凄い人物です。大河ドラマでも必ず出てくる輝元公、やっと最近評価が上がり始めたのは良い兆候だと思います。決して暗愚無能ではない‼️
決断できない男というイメージだな。織田信雄程ではないが他人の意見に流されて「如何にすればよいのだ」と周りに何時も問いかけるイメージ。
女性ナレーターのセリフ回しが良かったです。
なかなかドスが効いてる声ですね。
毛利両川体制って盤石だな
よくよく考えたら関ケ原の時に大友義統送り込み、四国には村上等を送り込んで実はくっそノリノリなのに安国寺らに乗せられたんだよで言い逃れできるって絶対祖父の血ですわ
内政面は父からちゃんと受け継がれてる分、戦闘面でも父か祖父の血継いでたら絶対ヤバかった
暗君というより凡将じゃね?暗君なら補佐されても無理だろ 最後の功績考えるとそこまで無能じゃない
祖父は戦国屈指の謀将、叔父の両川も天下に知れた猛将と知将・・・偉大過ぎた身内と比較されると萎縮してしまうのも当然。
隆元、輝元親子は十分に調整型の優秀な当主だったと思いますよ。
隆元が当主だったから弟達は山陰、山陽で伸び伸び活躍出来たし、減封後の輝元の経営手腕も素晴らしいと思います。
もっと評価されてもいい。
歴史にタラレバは良くないですが‥
毛利隆元が生きていたら‥って思います。
当主になっても祖父に後見されながら、元就が死んでからは元春、隆景、元清というとんでもなく優秀なおじに関ケ原直前まで後見されて突然関ヶ原直前に隆景、元清に死なれて関ヶ原の戦いの時に突然一人でやれと言われて無能無能言われるのは可愛そうな気がします
偉大な祖父&偉大な叔父たちが いたので スゴいプレッシャーがあっただろう…「あの人 120万石の殿様だけど 祖父、叔父たちのお蔭らしいよ」
「そうだろうな❗️」という陰口を言われたのかな…多分…😓
そりゃ、祖父に比べたら・・・というのは、どこも同じですが、基本的に身内の家臣になんでも任せっぱなしな印象。
そして、家康に対抗できるわけもないなのに、今まで祖父、叔父と比べられて大した事も出来てない引け目があったから、総大将の話に乗っかったものの、無策で対局を見る能力もないから、その後は大阪城で何もしないで家臣に丸投げで任せてるんだから、典型的な大国の二代目にありがちな愚将そのもの。
自分の立場の重要さに気づいて戦場に赴けば、小早川は確実に裏切らないし、家康の能力ではどうしようもないくらいの戦力差と、立地の良さで関が原は圧倒的に勝ってたでしょうし、負けた時点で大阪城にいるという幸運な事実と、まるまる残ってる毛利勢の戦力を総動員して秀頼を担ぎ上げて大阪城に籠る!という手段は英雄だとすぐに行動するであろう選択もあったが、家を潰したら元就に顔を合わせれないというのか、なにかわからんけど、それもせづに家康の口車に乗せられるという始末・・・
暴君ではないが、戦国時代に名を馳せれた土台を持ってたのに、対局を全く見ることが出来ないで何もできなかったという時点で、この時代では、暗君、愚将だと思います。
何もしてなかったわけじゃないぞ
しれっと四国や九州での影響力拡大目論んで派兵や支援してる(これが戦後詰問されることになるんだが
@@暁は水平線
そんな小細工が出来たとしても、西軍の総大将なのに、関ケ原の重要性もわからずのほほんと大阪でふんぞり返ってる時点で英雄でも名将でもなんでもないということ・・・・
愚将という一番の理由は、立花の一万以上の兵がいて、自家の3万強の兵もいるのに籠城しようとせず、家康の甘言に騙されて、さっさと大阪城を引き渡したとのは本当に愚の骨頂。
己が天下を取るのか?豊家を守るのか?どちらも選べないというのに、中途半端な野望だけは持っているが、そのくせ戦国期において対局が全く見れない将・・・
これは凡将というしかない。その典型でしょう。
おぼっちゃま育ちでちょっとピントがずれてるお人好しって感じがしますね。でもこれっといった実績も無いのに毛利家をなんとか残していますから愚将というよりは凡将なのかな
「毛利輝元は馬鹿か⁉それとも阿呆か⁉」
「両方よ」
「更に間抜けだ…」
西軍の大将を引き受けたのは決して間違った判断ではないよ
問題だったのは回りがその判断を是としなかったこと
彼がやりたいことをしっかり支えてやってたら毛利が天下をとってた未来もあった
本気を出せばそれなりに有能な人だったんだろうけど、それより遥かに有能過ぎる親戚周りが過干渉過ぎて結果的に甘やかされた環境で育ってきたら、苦労して成り上がってきた海千山千の秀吉や家康にはそりゃ太刀打ち出来ないだろうとひたすら気の毒に感じる。
ここで毛利も島津も踏ん張ったからこそ徳川江戸幕府を滅ぼし明治が来た
小早川と吉川の両川は優秀だったが早死にした輝元父の隆元はそのふたりが逆さになっても遠く及ばない人物だった
二人にはバカにされてたし本人もネガティブだったが彼が失くなったときそれを思い知らされることになる
その事が少なからず両川の嫉妬といったゆがんだ感情を持たせた故の厳しい教育だと思います
それが父譲りの自信のなさと相まって彼を歪めたのだとおもう
飛び抜けた才能は二代続くのは稀ですね〜!そして才能は生まれ付きでどうにもならない。なるようになったわけだ。
隆元さん。。(涙)
長宗我部国親 元親や島津貴久 島津義久 義弘は2代続いてるぞ
元就が、一代で中国地方の大大名になったのに輝元の代で約3分の1❗️この石高こそ輝元の分相応な領土配分だと歴史が、物語ってますよね。
長州藩は、領地大幅削減を恨み→後々の倒幕行動に繋がりましたね❗️
内政の才能はほとんど顔を合わせてなかったお父さんの隆元から受け継いだ説
近年では輝元は関ヶ原の時秀頼の出陣を意図的に遅らせていたって説があるね。理由は西国にある東軍の大名の領地への侵攻のために関ヶ原が短期決戦になっては困るからだったとか。だとしたら本当の戦犯は広家ではなく輝元だったのではないだろうか?
近い親類があまりに有能だらけなせいでダメ武将扱いされてる感がある。平時であれば上手くやれたんじゃないかね。
もし毛利元就が本能寺まで生きていたら講和なんて結ばなさそう
隆元に早くに死なれた事は不運だったかな。いきなり偉大な祖父の跡を19歳で継いで色々とプレッシャーがあったと思う。ただ、武田や朝倉、斎藤や浅井といった名家が信長にことごとく滅ぼされる中、優秀な叔父がいてくれたとは言えよく持ち堪えた。
残念だったのは天下分け目の関ヶ原で判断を誤った事。萩へ移封後の女絡みで家臣を斬殺した事も彼のキャリアを汚してしまった。
本当に名君か暗君か評価に困る武将。
暗君とは言えないが、名君では無いかも、偉大な祖父や速く亡くなった父親の影響も有るが、優秀な叔父様方に支えられたんだけどさ、こっちの迷が似合うお方、無事に御家を存続させただけども?、まだましか、あの合戦でピンチに成った折に親戚が頑張って、何とか防長二国で存続させられたんだけど、
まあ、輝元の功績は広島の祖を築いたことですかね。
おぼっちゃまと言うか厳しく育てられすぎて手綱が居なくなっておかしくなる感じですかね、中国の万暦帝?もそんな感じでしたっけ?厳し過ぎるのもいくない...
葵徳川三代の宇津井健さんの重厚なイメージがあるから輝元の評価を聞いたときはびっくりしました
大阪にある
太融寺の線香台に
毛利の家紋があるけど
あれは何?家紋かぶり?
祖父の元就の評価がS、父の隆元がAの評価なら輝元はBの下からCの上くらい
西軍の総大将なのに関ヶ原の戦いに出陣していないことが大きなマイナス
萩城では正月の儀式として幕末迄こんな挨拶が儀式のように行われていたと言うが、
殿!今年こそは?
まだ時期尚早
関ヶ原以降の扱いに藩を挙げて恨みに思っていたのでしょうけれど🤔
なんと268年目にして願いが叶ったわけですね(笑)
その話、今の毛利家当主の方が否定してますよ。少なくとも自分は聞いたこともないと。
@@otaru6042 さん
そうなのですね、ずっと信じて居ました🤓
@@otaru6042 う~む、でも明治~戦前の毛利家が日本政府相手に決起を検討する儀式をするとも思えずw いいんじゃないんですか?あったことにしておいても
毛利輝元公が関ヶ原に出陣していれば、小早川秀秋と吉川広家も西軍についていたろう。
毛利輝元とかいう策謀家
個人的には小悪党なイメージも
創作物で描かれる伊達政宗(天下を狙う腹黒い野心家)みたいなイメージだわ毛利輝元
とんでもなく野心家で策謀巡らすもここ一番でやらかす感じが特に
大坂の陣では徳川に味方するも病気を?理由に出陣せず、ちゃっかり大坂方に兵を出している
腰抜けなのか無能なのか…
ちゃんと出陣してたら加増されたかも知れないのに…
幕末には吉川家に独立されてしまう始末
倒幕に導いたのは桂小五郎、元就の血筋という…
別のとこで輝元のことトリューニヒトも前世とか呼んでる人いて笑ったな。
結果的には、関ヶ原後の領国位が輝元の器量に相応かなと思います。
下手に120万石抱えていたら逆に危なかったかもな・・・
だめだこりゃ┐(´д`)┌
二の丸殿とのロリコンエピソードもやって欲しかった
これも人間臭い話
山口県(長州)は、毛利と言うよりも、大内氏かな。
やっぱりわかんないです。
元就は、信玄や謙信や、北条早雲まで遡って、そーいうレベルですげぇ人だと思うんですが、それと家が残るかどうかは別の話。
「それでも家残しちゃったっていう、輝元の価値、あるのかないのか。」
でなければ、元就は、武田今川北条となにかちがってたのか(たまたまなのか?、なんかものすごい裏技持ってたのか)
正直、明治維新と毛利の関係も、私の中ではつながりません、禁門の変と輝元がそもそもつながりません(そんだけ~の思いが、見えないです)
なんで、毛利を、もっと深掘りしてください、です。
毛利裕仁の墓は李氏朝鮮の王族の墓と瓜二つ。chertovy vorota caveなの?
間違いなく有能ではないな
家臣団がバラバラな時点で
実際関ヶ原の時に吉川広家をはじめ、福原・宍戸・益田・熊谷といった重臣たちが反していたし
氏実、義昭みたいな「実は…」みたいな大名は慰めにしかならない
お山の大将
所領を大幅に減らされる結果を招いた暗君だろう。
調査不足すぎ
敗戦後の部下たちの書状の数々
特産品の開発や茶器の製造
その後の行動をみれば本当に名君
たぶんだが頼れる叔父たちがいたことがこの人の失敗
暗愚ではない?暗愚でしょ?
義昭かくまったのは悪手だよなー
^^♥♥♥
漢民族を敵にするのは勝手だが、大和民族を巻き込むなよ。
まるで安倍晋三