関ヶ原で東軍についたのに減封させられた大名

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  • Опубликовано: 30 сен 2024

Комментарии • 200

  • @フレアーリック
    @フレアーリック 3 года назад +59

    知らんかったわ、あほでも東軍についたら加増と思ってしまいましたわ、
    まさに日本シリーズで自軍が優勝した
    影で減棒になった選手みたいやね、

  • @笠恵一郎
    @笠恵一郎 3 года назад +31

    傍からどう見えるか、は大事です。勝俊は、そのつもりがなくても敵前逃亡とみなされて、改易されましたが、妻の宝泉院も敵前逃亡だと考えて激怒し、妻の側から離縁しています。もう散々です。

    • @ケンちゃん-b6g
      @ケンちゃん-b6g 3 года назад +4

      勝俊は踏んだり蹴ったりで散々な目に有ってますね!立花宗茂のように大名に返り咲きたい。と言う気持ちにもなれなかったんじゃないんでしょうかね。

    • @andykamisama9406
      @andykamisama9406 3 года назад +1

      実際は逃亡しとるんやろw後付けで死んだ鳥居に追い出されたって言ったけど辻褄合わんで…はぁ💢

  • @秋野直重-q3f
    @秋野直重-q3f 3 года назад +21

    同じ出羽でも米どころの庄内平野のある山形と違い
    当時の秋田は冷害の心配があるので、
    温暖な常陸は悪くない転封だと思いますがね。

  • @渡邊誠-u3m
    @渡邊誠-u3m 3 года назад +40

    いつの時代でも権力者による納得できない評価はありますね。弁明の機会も与えられないのは理不尽だと思います

    • @katsumi-na1198
      @katsumi-na1198 3 года назад +7

      徳川家からすれば石高デカイ奴はやっぱり怖いもん

  • @影の政府
    @影の政府 3 года назад +30

    先の関東管領上杉みたいに外様に力を持たせ不相応の地業を与えてしまっては普代の臣が納得せず分裂する、要所付近だけでもを己が信頼の置ける陣営で固めたかったのだろう、後は後々の秀頼の処分や大坂攻めを想定した配置ではないだろうか

    • @小明神
      @小明神 3 года назад +3

      地業 × → 知行 〇

    • @ひろたかし-w8m
      @ひろたかし-w8m Год назад

      関東管領だった上杉は室町幕府では江戸幕府でいうところの譜代ですよ。

  • @yoshii871
    @yoshii871 3 года назад +9

    減封されただけでマイナスとは限らないんだよな、領有地減っても重要な場所への配置換えとかされてたら幕府からは信頼されてるとかそういう場合もあるからね、逆に領地増えても配置換えで遠い場所や統治しにくい場所だったら幕府からの信頼は薄いとか厄介払いの場合もあるよね

    • @石峰良幸
      @石峰良幸 3 года назад +2

      家康自身、秀吉にやられてますもんね😊

  • @Laurel-2.5clubs
    @Laurel-2.5clubs 3 года назад +10

    東軍についた山内一豊。
    元は遠州掛川、移封されて土佐へ。
    その土佐を収めていたのは西軍の長宗我部。
    で、江戸時代はずっと山内家家臣は上士、長宗我部家臣は郷士(下士)

    • @m19s1d
      @m19s1d Год назад

      土佐城と掛川城は天守閣がそっくりです。一豊が旧領掛川城の天守閣をそっくり真似したのです。

  • @くぼくぼ-f6n
    @くぼくぼ-f6n 3 года назад +104

    関ヶ原で井伊直政に瀕死の重傷を負わせ、ほとんどの精鋭を薩摩本国で温存した、島津氏の生存戦略こそ正解

    • @四国の寝不足たぬき
      @四国の寝不足たぬき 3 года назад +10

      相手が秀吉や家康だから通じたが、これがチンギス・ハンだったら…。

    • @アゲアゲクラゲ
      @アゲアゲクラゲ 3 года назад +5

      @@四国の寝不足たぬき ?

    • @四国の寝不足たぬき
      @四国の寝不足たぬき 3 года назад +6

      @@アゲアゲクラゲ
      敵対した者は皆殺し、って主義のチンギス・ハンには、まず戦ってみて「敵ながらアッパレ、なかなかやりおる」と思わせる戦略は通用しませんよ。戦うなら撃退しないと。

    • @松ちゃん工房
      @松ちゃん工房 3 года назад +8

      そのおかげで幕末は外様ながら幕政に介入、家臣は働いて明治維新の中枢に居ましたからね。
      とは言え西郷隆盛も大久保利通も家臣としては身分が低い方の出身から、西郷は斉彬により見出され、大久保は島津久光に仕えてあの地位になりましたから。

    • @TK-cy2hm
      @TK-cy2hm 3 года назад +11

      島津家は蒙古襲来時も活躍してますよっと。

  • @まかいチャンネル
    @まかいチャンネル 3 года назад +40

    秋田実季は減俸というか太閤蔵入地を没収されたから禄高は減ってる様に見えるけど石高はほぼ変わってないよ

    • @yoshii871
      @yoshii871 3 года назад +5

      おまけに徳川のお膝元に近くしてもらってるから、信頼はされてるような気がする

  • @千田尚
    @千田尚 3 года назад +23

    徳川の世を磐石な物にする為なら、敵も味方も関係無い。
    味方と言ったって外様だし、、、、。
    って思って居るんだろうね。

    • @もふもふ-x4p
      @もふもふ-x4p 3 года назад +2

      外様でまともに信頼されてたのは前田と島津ぐらい
      伊達だっていつ取り潰されてもおかしくなかったからね

    • @千田尚
      @千田尚 3 года назад

      @@もふもふ-x4p
      政宗さんはせっかく娘を徳川の息子と結婚させたのに勘当されたからねぇ。
      繋がり作ってお家安泰と思ったのに愕然としただろうなぁ。
      ま、伊達藩は無事だったけどね。
      多分領地が東北だから助かったのだろう。
      関東や、京都に近い領地だったらアウトだったはず。

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад +1

      @@千田尚 そもそもにしてその徳川の息子である忠輝、自身の葬式に参加させないほど家康に嫌われてたんだけどね……

    • @ヤード-u2w
      @ヤード-u2w 3 года назад

      @@もふもふ-x4p 前田は徳川にめちゃくちゃ警戒されてたけどな
      外様最石高だし

  • @スナフキソ-e5e
    @スナフキソ-e5e 3 года назад +7

    伏見城の戦いで三河武士以外を追いやった行為は、落ちると分かっている城だから
    城代、鳥居元忠は入城を断ったと考えると清々しく見えますね。
    (まあ、その結果…なんですけども。)

  • @NS-xv6vy
    @NS-xv6vy 3 года назад +68

    木下勝俊さんが鳥居元忠さんに追い出され、改易も、受ける悲しそう。

    • @松ちゃん工房
      @松ちゃん工房 3 года назад +6

      木下勝俊(パテロ木下)は逃げたんでしょう
      「もう大名やりたくない」と言って叔母の
      高台院(おね)に頼っていたとか。

    • @ケンちゃん-b6g
      @ケンちゃん-b6g 3 года назад +7

      木下勝俊(パテロ木下)は元忠に伏見城入城を拒まれて。もう大名をするやる気が失せてしまったんでしょうね。広台院(北大所)の庇護を受けながら余生をひっそりと送りたかったんでしょうかね。

    • @ケンちゃん-b6g
      @ケンちゃん-b6g 3 года назад +4

      高台院(北政所)でしたね!

    • @松ちゃん工房
      @松ちゃん工房 3 года назад +10

      @@ケンちゃん-b6g
      その後勝俊は長嘯子と名乗り歌人として公家などと交流があり暮らしに困らなかったとか、
      1649年に80でなくなっているということは、下手に大名やっているよりも気を遣わなかくて良かったのではないかと。

    • @ケンちゃん-b6g
      @ケンちゃん-b6g 3 года назад +4

      「パテロ木下」って名が大変気に入っております。戦国大名の猪突猛進型では無くて。性格的にも気持ちが穏やかな方だったんでしょうね!

  • @rosan6179
    @rosan6179 3 года назад +45

    東軍について加増されたけど、後に改易された大名の方が悲惨です
    肥後加藤、会津加藤、福島、田中、最上、蒲生、中村、堀尾、寺沢など、あまりにも多すぎる

    • @磯風-n7r
      @磯風-n7r 3 года назад +2

      現在の世界、取り分け🇯🇵にも言える事です。

    • @柳家小ゑんざいむQ10
      @柳家小ゑんざいむQ10 3 года назад +10

      肥後加藤や福島なんかの豊臣恩顧はいつ潰そうか、機会をうかがってたんですよね…

    • @ボコチャン
      @ボコチャン 3 года назад +6

      @@柳家小ゑんざいむQ10 福島に関してはやったの家光だからなんとも言えんがな。

    • @たなつー-m4g
      @たなつー-m4g 3 года назад +2

      @@ボコチャン 加藤もやで

    • @山川隆-x8h
      @山川隆-x8h 3 года назад +5

      最上は御家騒動だから自業自得でもある

  • @ケンちゃん-b6g
    @ケンちゃん-b6g 3 года назад +16

    鳥居元忠さんは、かなり「我が強い」「頑固ジジイ」のような印象を受けました。

    • @小野泰平-w9q
      @小野泰平-w9q 3 года назад +9

      伏見城でも島津や小早川の援軍を拒否したって言う逸話がありますからね。よほど死して家康に尽くすって言う三河武士としてのプライドがあったんでしょうね。

    • @芋けんぴ-u2r
      @芋けんぴ-u2r 3 года назад +5

      いや〜それはどうかな大阪城に人質を取られてる大名もいたんだし、内応する可能性が十分にある大名を城に入れたら疑心暗鬼から内部崩壊を起こしかねない。だから、自分の信頼できる部隊だけで守りかったんじゃない。

    • @小野泰平-w9q
      @小野泰平-w9q 3 года назад +3

      @@芋けんぴ-u2r なるほど。外から先に内から崩されちゃうかもしれないのか。そんなに面識ない人よりも身内の方が信頼出来ますもんね。ありがとうございました

    • @ケンちゃん-b6g
      @ケンちゃん-b6g 3 года назад +3

      こうやって皆さんで意見し合って歴史の紐を解いて見るのも興味深いモンがあり改めて自分なりに見えて来たモンもあります。元忠には元忠の三河武士の意地があって信頼出来る徳川(松平)譜代の家臣で籠城する伏見城を護りたかったんでしょう。大阪夏の陣で徳川の本陣に突撃を敢行した真田幸村公のように「死に華を咲かせた」武将もいれば。ぺテロ木下勝俊公のように和歌を楽しみ余生を送った武将もおります。それぞれ武士(もののふ)の生き方が在ったんですね!「戦国~安土・桃山~江戸前期」の歴史はそれぞれの戦国大名(武将)それぞれの生き方やロマンがあって、それを想像したりするも面白いですね!勉強になりました。

    • @ヤード-u2w
      @ヤード-u2w 3 года назад +1

      @@芋けんぴ-u2r 尚伏見城の甲賀忍者は人質取られて裏切った模様

  • @上田和哉-s9u
    @上田和哉-s9u 3 года назад +7

    佐竹義宣は減俸されたね

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад

      佐竹は義重が東軍派、義宣が西軍派で分かれてしまって身動きが取れず、結局分家の義久に少しの兵をつけて秀忠の軍に合流させただけに終わったからね。取り潰されなかっただけマシなんでは

  • @kei6983
    @kei6983 3 года назад +6

    相馬氏みたいに、小田原参陣せず、関ヶ原敗戦でも、本領安堵されているところもあるのにね。

    • @ゆうと-q3h
      @ゆうと-q3h 3 года назад +5

      政宗に従属させられていたのに、大崎氏とか改易されてますもんね...

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад +4

      相馬氏は関ヶ原の後に一度改易の沙汰を受けています。義胤の子三胤(のちの利胤)が江戸に出向き、伝を使って撤回運動を展開して、その甲斐あって相馬中村6万石の改易は撤回されて所領を安堵されました。
      小田原の陣の時は遅参しましたが三成の執り成しで所領を安堵されたそうです。

  • @よよよ-r4s
    @よよよ-r4s 2 года назад +3

    佐野吉綱のような、臨機応変な行動に対する評価が厳しすぎる、、

  • @船木祥啓
    @船木祥啓 3 года назад +4

    先祖は秋田実季と話し合いの末、秋田に残留し、佐竹家との土崎の引継ぎを行い、後も湊の管理役、秋田久保田城築城の町割りなど従事しておりますが
    正直、常陸宍戸へ行ったときに、先祖の判断は正しかったなと実感。笠間市の一地域にすぎず
    秋田土崎湊を中心とした領国は、おそらく10万石以上あったと思われ
    実際に佐竹家が太閤蔵入地を含めた領域を支配するにあたって検地をすすめたら、実高40万石だったという。
    内乱で減封されたとはいえ、実季の頃は秋田市男鹿市能代市あたりを治めていただろうから
    常陸宍戸への移封はマジで衝撃だったと思う。
    実際に、安東秋田姓を、秋田じゃなくなった!と「生駒」とか名乗ろうとしたとか迷走してるし

    • @ヤード-u2w
      @ヤード-u2w 3 года назад +2

      しかも佐竹が治めてた常陸はボロボロで、義宣は常陸を離れるとき、振り向かなかったと言われてるし
      秋田は減封ではないって言ってる人いるけどこれはかなりきつい減封だと思う

    • @aoiajisai669
      @aoiajisai669 3 года назад +1

      秋田氏は日本海海運の利益を失った分間違いなくキツかった。
      宍戸は笠間と水戸に挟まれた狭い地域で山がちの痩せ地
      ただ常陸をボロボロにしたのは後の水戸徳川家で佐竹義宣はうるさい国人達を切り離すために常陸にほとんど置き去りにして秋田に移った。
      光圀に別荘を与えられた磯原の野口家(明治期に野口雨情を出す)などは佐竹に置いていかれた国人の代表

  • @Kaito5327
    @Kaito5327 3 года назад +9

    西軍に与しながら改易後に大名復帰を果たした例は少ない。
    それでも、武功を惜しまれ旧領の筑後柳川10万9200石に返り咲いた立花宗茂(1567~1643)、築城技術と実直な人柄を買われて10万石の大名として復帰を果たした丹羽長重(1571~1637)が著名である。

  • @まちかぶ日記
    @まちかぶ日記 3 года назад +2

    豊臣秀吉の小田原征伐に参戦しない武将の領地没収したのも徳川家康の関ヶ原の戦いで東軍につかない武将の領地没収したのも同じで天下人の機嫌次第なんだろうな。

  • @ししゃも-r2q
    @ししゃも-r2q 3 года назад +32

    やっぱり立花宗茂は凄い!一度改易されたのにも関わらず陸奥棚倉藩そして旧領柳川に10万石出復帰してほんま凄いわ!

    • @渋滞pー
      @渋滞pー 3 года назад +1

      スゲーのは嫁だよ嫁

  • @暇人-z5u2x
    @暇人-z5u2x 3 года назад +2

    加増された大名でも幕末まで繁栄した大名は、少ないですね。

  • @RohikiMyao
    @RohikiMyao 3 года назад +1

    佐野綱正はちょっと残念かな。家康側室を大坂城から救出してそのまま脱出してたら評価してくれたのに。戦っても必ずしも評価されるとは限らない一例。

  • @毘沙門天-h1b
    @毘沙門天-h1b 3 года назад +30

    さおりさん、黒い服も似合ってますね
    今日も可愛いい♥

  • @田中太郎-z3z1f
    @田中太郎-z3z1f 3 года назад +3

    歴史解説なのに顔出しされるとなんかそっちに気がいってしまうな..

  • @AkakageNinja
    @AkakageNinja 3 года назад +8

    東軍に寝返った中で唯一殺されたのは斎村政広だね。奥さんが宇喜多秀家の娘だからだっけ?

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад +3

      あれは鳥取城下を焼いた罪を亀井に擦り付けられた説もある。そもそも寝返ったって言っても関ヶ原の戦い終わってからだしね

  • @松ちゃん工房
    @松ちゃん工房 3 года назад +5

    まあ、勝ち馬に乗っても良い目には合わないんだな。
    ならば島津義弘や立花宗茂のように西軍について島津はお咎めなし、立花が一時所領没収も、その後浪人するも家臣がついて行き徳川秀忠の馬廻り、陸奥棚倉一万石から大阪夏の陣で功績を上げて筑後柳川に返り咲いた例は凄い。

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад +2

      同じように西軍について改易されたのちに棚倉→白河→二本松と渡り歩いて10万石に返り咲いた丹羽長重さんの事も思い出してあげてください……

  • @士朗-r7q
    @士朗-r7q 3 года назад +13

    いつも解説ありがとうございます。国替えの説明の際、位置がいまいちわからないので、日本地図を出し位置を示していただけるとわかりやすいです。
    よろしくお願いします。

  • @上田和哉-s9u
    @上田和哉-s9u 3 года назад +4

    結局豊富恩顧大名は九州、四国、中国地方に飛ばされた❗

  • @73moto
    @73moto 3 года назад +14

    鳥居元忠が伏見城で援軍に来た島津義弘を追い返して島津の面子を潰して島津は西軍に付き関ヶ原で敗れてその恨みが倒幕に繋がった。

  • @八紘一宇-f8r
    @八紘一宇-f8r 3 года назад +4

    改易って、今で言うと戦力外通告ってことだね

  • @kai.mukade
    @kai.mukade 3 года назад +3

    俺の先祖は甲斐の雁坂峠柚木出城の城主だったのですが、武家の家系図のみ残っているだけで歴史から消された無名の城主です。

    • @黒雪姫-x5z
      @黒雪姫-x5z 3 года назад +2

      俺の先祖はずっと百姓(現在進行系)として活躍してたぞ

  • @フォード-i1w
    @フォード-i1w 3 года назад +2

    佐野の一件とかは個人の判断でどうこうできるみたいな時代の終わり感あるなぁ。赤座と小川もその場のノリで裏切ったけど許されなかったし朽木も家康本人に届かず減封だし
    日根野のお膝元の関東付近への転封や佐野も「井伊直政の近く」と考えると、減封されたけど個人武勇は評価されたって感じはする

  • @somori4338
    @somori4338 Год назад

    中途半端な態度とったり、予告なく寝返るのは、味方とは言えませんからね。勝俊は…

  • @森田長次郎
    @森田長次郎 Год назад

    厳封ね、あり得ない話では無いよ。徳川政権に成れば、各大名が関ヶ原以前に何処と地脈を持ってたかで厳封もあり得る。アラ探しを命じたのは家康公だが、側近の本田正純辺りかな。柳生家と伊賀者の暗躍も有ったからね。先々には、忍びは用無し!!と言われてるが江戸城を守る闇の差配は伊賀者や甲賀者達。諸国の大名もその後でも取り潰しや厳封にされてるからね。又ゾロ、徳川に反旗を翻しそうな大名も多々有った。表面上は徳川家に!!と言いながらも不満は有った。それだけに、その大名の管轄してる領地に里隠れ。と言う密偵を住まわせて大名の内情を調べさせていた。情報を持ち帰る者も色んな人間に化けて出入りをして居る。もしバレてしまったら自ら命を断つ!!中には、8年や10年も村人に溶け込んで村の娘を妻にして住み着いていた。一人者より、村の娘を嫁にした方が怪しまれなくて良いからね。繋は、商人や僧侶同じ百姓も居た。道で会うとか昼時に話をしに来たり、誰が見てるか分からんから用心しながら、情報を渡す。中には握り飯の中に入れて帰りにお自動様の前に置く事も有った。そんな地味なシーンは時代劇では余り見られないだろ。今現在でも使える作戦ありやね。

  • @jougen2
    @jougen2 3 года назад +1

    東軍勝利を決定した裏切りをした小早川秀秋も関ヶ原以降二万石こっそり領地替えで減封されたそうですね。

  • @もぶえじ
    @もぶえじ Год назад

    今考えると豊臣家の内紛に毛利輝元と共に五大老として巻き込まれた家康にとって、奥州や薩摩等の外様大名抜きの豊臣家武将だけで片付けたかったから、島津は庄内の乱で兵を動員させない裏工作が出来たものの、話がややこしくなりそうな伊達政宗は奥州から出て来るな、って最上家共々上杉軍の監視を任せた。だからその周囲に減封された味方大名が多いのは頷けます。おそらく、これは本多正信の計略でしょう。その延長で大坂城を残し浪人を集めさせて一気に始末…。同じ年代なのに立花宗茂や伊達政宗と違い真田信繫は”泳がされて”処分された方になってしまい残念。

  • @せんぐん
    @せんぐん Год назад

    いつも興味深く見させてもらっています、ご存知ではありましょうが親子で参戦した諸将の事例を見ていると色々な事例が浮出てくるのではないでしょうか、真田親子、鍋島親子、九鬼親子等、佐野氏については司馬遼氏の小説に出ています、佐竹に関しては巻き添えが敵味方あまりに多過ぎてそれだけで話が作れるのではないでしょうか

  • @tkdmshr
    @tkdmshr 3 года назад +1

    減封ってさせられる?減封される?詳しい方教えて下さい。

  • @ナカシマ筋肉ン
    @ナカシマ筋肉ン 3 года назад +9

    東軍でもほんとんど徳川からすれば外様だから西国ヘ遠ざけられたー

  • @ijinden
    @ijinden 3 года назад +12

    東軍についたにも関わらず、、ですね。勉強になりました。

  • @ae190713
    @ae190713 3 года назад +28

    某政宗「イヤ〜w 火遊びが過ぎてw 家康様に疑われて容疑は晴れたものの改易されず減封させず加増はされませんでしたわw まあw 確信犯ですがw」

    • @ゆうと-q3h
      @ゆうと-q3h 3 года назад +4

      数万石加増されてますよ
      政宗は切り取り次第を貰ったものの責め切れず終わっただけです。
      彼はお家騒動ある家か小大名相手くらいにしかまともに勝った経歴ないですから上杉は荷が重かったんでしょう...

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад

      @@ゆうと-q3h 佐竹がバックについていたとはいえ祖父の代からの宿敵相馬すら滅ぼせなかったもんねぇ……

  • @浅井勝幸
    @浅井勝幸 3 года назад +3

    良く調べたな。GOOD評価!

  • @gorzafarm-wx3ji
    @gorzafarm-wx3ji 2 года назад +1

    さおりさん 可愛い

  • @jougen2
    @jougen2 2 года назад

    あと小早川秀秋も岡山でちょっとだけ減封されています、いずれ数年後秀秋が死んで小早川家はお取り潰しになるのですが。

  • @discovery-defender
    @discovery-defender 3 года назад +5

    島津・薩摩のような例は極めてまれですね。その薩摩と関が原で大減封となった長州が、260年後に手を組んで徳川幕府を倒すのですから、歴史は面白いですね。

  • @shini417
    @shini417 3 года назад +2

    マジレスしてるやつ、乙なww

  • @竜涎香-g9o
    @竜涎香-g9o Год назад

    「減封」させられたではなく、「減封された」です。「左遷させられた」「解雇させられた」「撃沈させられた」。この変な使役形流行っていますね

  • @utaca
    @utaca 2 года назад

    「減封させられた」が非常に気になる。「減封された」ではいけないのか。

  • @soichiro_papa
    @soichiro_papa 3 года назад

    厳密に東軍についたとは言い難いですが、斎村政広(赤松 広秀)。但馬国、竹田城を中心に2万2,000石。当初に西軍について細川氏の丹波田辺城を攻めるが、東軍へ寝返り鳥取城攻略に参加。その際放火したことが家康の怒りを買い、改易、切腹。

  • @古家武史-f5d
    @古家武史-f5d 3 года назад +7

    いっそ島津みたいに西軍に寝返って伏見城の弱点を教えるなりしていればまた違っていたかも。

  • @NOBU4311
    @NOBU4311 3 года назад +7

    東軍についたのに、減封改易では釈然としなかったでしょう

  • @ファットダディ
    @ファットダディ 3 года назад +43

    さおりさん、綺麗な上、聴きやすい日本語の発音に思わずチャンネル登録しました。内容も大変に興味深かったです。

  • @Tモロボシ
    @Tモロボシ 3 года назад +1

    何だかんだで、学校の日本史では、決して教えられない位に、戦国武将達の複雑な思惑が有ったのでしょうか!?

  • @みどりマキバオー-c4v
    @みどりマキバオー-c4v 3 года назад

    あれ?木下は備中の足守に領地替え減俸されたと思いましたが?

  • @poweroruka8521
    @poweroruka8521 3 года назад +5

    襟周りがチクチクしないの?

  • @松本悠佐
    @松本悠佐 2 года назад

    内応と寝返りは違うと思います。
    事前に示し合わせ戦ったのと後ろから突然刀や鉄砲で襲いかかる小川や赤座は風上に置けないってやつですね。
    秋田実季の子孫は明治維新の際、味方に鉄砲を放った奥羽列藩同盟反逆第1号です。名声と非難は令和の時代まで語られる…歴史の細道おそるべし…。

  • @上窪正宏
    @上窪正宏 3 года назад

    ナビゲーターの彼女、カンペを見ながら喋っている。画面に顔を見せずであれば……。途中から彼女が画面から消えていた?。

  • @samazuka.1975
    @samazuka.1975 3 года назад

    関ヶ原の論功行賞で大幅加増になった、加藤清正は息子の代で取り潰し、福島正則は秀忠時代になって改易…

  • @metalgod574
    @metalgod574 3 года назад +5

    太閤寄りの外様大名は力を減らさないと大変だから
    利用価値がなくなればポイ

  • @konkon5776
    @konkon5776 3 года назад

    七原浩平様はどうなるの?

  • @takuyam746
    @takuyam746 3 года назад +15

    さおりさん今日もキレイだ。旦那さんがうらやましい

  • @Jdihdhipek
    @Jdihdhipek 3 года назад

    月並みですが、人生って本当に分かりませんね。

  • @Shinonome-Tomo
    @Shinonome-Tomo 3 года назад +1

    河内の発音が気になる…

  • @森上舞子-d4x
    @森上舞子-d4x 3 года назад

    家康公の減俸のしかたはは自己判断、大名同士の裏取引を嫌う形で行われたと思われます、寝返り組赤座、小川、朽木、脇坂のうち脇坂以外は減俸、脇坂はきちんと取引したから咎めなしでした❗

  • @ポリさん-e5u
    @ポリさん-e5u Год назад

    福島正則がないぞ

  • @soichirosaito296
    @soichirosaito296 2 года назад +1

    纏めが良かったです。

  • @genkimantotoro
    @genkimantotoro 3 года назад +41

    さおりさん今日も綺麗♡声質もいいし、聞きやすい。案内人として最高です♡

  • @まさき-l7c
    @まさき-l7c 3 года назад

    しかも木下勝俊はあの小早川秀秋の兄と言うのもまた皮肉な話だよな

  • @katsumi-na1198
    @katsumi-na1198 3 года назад

    秀吉系と石高がデカイのは減らされて当然やな、不穏分子をぬくぬくさせるなぞ愚の骨頂

  • @ryo258
    @ryo258 2 года назад

    木下カツトシ改易!!

  • @あわかつや
    @あわかつや 3 года назад +8

    さおりさん可愛さ増してるじゃないですか。さおりさんみてると話が頭に入ってこない〜。

  • @OSØ18-q7e
    @OSØ18-q7e 3 года назад

    高台院の父親の子供ってつまりきょうだいってこと

  • @城ケ崎のアサリ
    @城ケ崎のアサリ 3 года назад

    ここで挙がった大名の大半は家康得意の後付け難癖ですね。もし関ケ原で手柄を立てたとしても、大坂冬の陣あたり迄には何かと理由を付けて改易・減転封させられてたでしょう

  • @Gorira_1004
    @Gorira_1004 2 года назад

    日根野よしあきすご

  • @与田レオ
    @与田レオ 3 года назад

    首元辺りの模様が、下着なのかタトゥーなのか気になった。

  • @照烈院敬
    @照烈院敬 Год назад

    さおりさん、色白美人だなあ〜 木下勝俊は、知らなかったので、参考に、なった!

  • @johnk.7729
    @johnk.7729 3 года назад

    すごい美人!

  • @独眼龍覇者
    @独眼龍覇者 3 года назад +4

    さおりさんかわちい

  • @村上守-j7l
    @村上守-j7l 3 года назад

    さおり〜えぇ女やわ😍

  • @ts-trust7616
    @ts-trust7616 3 года назад

    しかし 跡目がいない お家騒動などで 潰された大名は多くいた
    跡目がいないに関しては 末期養子を認めたし お家騒動であれば半減程度で済んだ
    ポット出(織田や秀吉に見いだされた)大名ばかりが潰され 鎌倉・室町に至る大名は旗本・高家で生き残った

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад

      そのせいで浪人が溢れかえって治安が悪くなり、その結果の末期養子を認めたりとか取り潰しの緩和になった

  • @中島武義-s1m
    @中島武義-s1m 3 года назад +14

    さおりちゃんかわいすぎ😂

  • @岐部善一郎
    @岐部善一郎 3 года назад +9

    うーむ。。。東軍に付いたのに減封や改易されたのはかわいそう

  • @岸辺緑
    @岸辺緑 3 года назад

    他の何があっても
    運がなければ駄目ということか

  • @朝倉海-r5f
    @朝倉海-r5f 2 года назад

    まかとうスキエエ

  • @日本猿-i5f
    @日本猿-i5f 3 года назад

    味方も足の引っ張り合い‼️

  • @mottimobile6597
    @mottimobile6597 3 года назад +11

    佐野家は不憫ですね、父は大阪城という絶望的な場所にいた家康の家族を守り安全な知人に預け伏見城に入って戦う時点で武士のお手本のような武将だと思いますが、家康は何かが気に入らなかったのでしょう。それにしても伏見城から追い出され仕方がなく西軍につき、それでも最終的に家を守った島津氏は有能ですよね。

  • @user-binten
    @user-binten 3 года назад +3

    沙織がキレイだし美声だから観てるのに。。。

  • @もふもふ-x4p
    @もふもふ-x4p 3 года назад +3

    佐竹はかわいそうだよな
    佐竹家自体は東軍だったのに義宣が西軍についたために
    常陸から出羽へ改易…😢
    逆に自分が西軍だったのに息子が東軍だったから
    改易されずに済んだ大名も居るのに

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад +3

      あの当時は義宣が当主だから義宣が西軍に付く気だったんだから佐竹自体が西軍とみなされてもしゃーないよ

    • @nagoyashimin569
      @nagoyashimin569 3 года назад +5

      とはいえあの立地で生き残られるのも大変、加増の上僻地に飛ばされそう。

    • @uozneb
      @uozneb 3 года назад +5

      まあ石田三成いなけりゃ秀吉時代に佐竹改易だったんだけど

    • @ゆうと-q3h
      @ゆうと-q3h 3 года назад +6

      徳川の本拠地近くに大領の佐竹置く訳にはいかなかったので、どのみち転封はされていたはず...

  • @ミスターD-v1r
    @ミスターD-v1r 3 года назад +3

    武士の時代だから、いくら功績あっても裏切り者は軽蔑され笑いものになった
    負けても勇気ある潔い武将は殺されても尊敬された。
    この辺りは、三国志の世界でも同じ価値観

    • @原田美紀-j9t
      @原田美紀-j9t 3 года назад

      前者が小早川秀秋や脇坂安治らで後者が大谷吉継や真田幸村ですね

    • @ゆうと-q3h
      @ゆうと-q3h 3 года назад +3

      そういうのは江戸時代になってからですよ笑
      江戸幕府が反乱防止や治めやすくする為にそうしただけの事なんです。
      戦国時代は裏切りは別になくよくある事で、恥ずかしい事でも軽蔑される事でもそこまで誹謗されませんよ。
      勿論、裏切り方にも寄るのかもしれないですけど、形上の大義名分さえあればかなり卑怯な事をするのが戦国武将という者です。
      イメージと違って信長何人にも裏切られては許してますからね。
      真田昌幸は褒め言葉で表裏比興の者と言われてましたし、家康も今川や豊臣を裏切って大きくなった大名です。
      宇喜多直家も毛利織田豊臣を上手く渡りましたし、珍しい事じゃありません。

    • @ゆうと-q3h
      @ゆうと-q3h 3 года назад

      @@原田美紀-j9t 脇坂はともかく小早川は東軍の調略で内応したので本来戦国時代ではよくある事なので、軽蔑される様な事ではなかったんでしょう。
      江戸時代でそれで変わって後世悪く言われているだけです。

  • @a6m2zerofighter21
    @a6m2zerofighter21 3 года назад +5

    姐さん美人やなぁ〜

  • @mafuyu_editer
    @mafuyu_editer 3 года назад +1

    東軍だぞ。

  • @정구겸-g2h
    @정구겸-g2h 3 года назад +1

    👍👍👍👍👍👍👍

  • @謎姫-m6d
    @謎姫-m6d 3 года назад +6

    減封ならまだいい。
    豊臣との内通が疑われる(一方的だが)大名は、その多くが改易になったのだから。
    個人的には、民政家だった加藤清正が、もし改易されずに藩主だったらどうなったのか気になっている。

    • @ふぉるーさん
      @ふぉるーさん 3 года назад +5

      清正の代で加藤家は改易されてないんだが?

  • @zirou-0083_Gerbera
    @zirou-0083_Gerbera 3 года назад +3

    三河衆の田舎侍め!笑笑

  • @畑野よしゆき
    @畑野よしゆき 3 года назад +3

    木下勝俊は、石田方が攻めてくる前に 恐れをなして伏見城から逃亡した❗️ という説もあります。

  • @V-ONG
    @V-ONG 3 года назад +14

    相変わらず可愛いさおりさん
    毎回出て欲しいなw

  • @村上守-j7l
    @村上守-j7l 3 года назад +5

    えぇ女やなぁ〜それよりも話がなるほどって思うとこもあるし知ってる事もあったよ😀

  • @kataokat9118
    @kataokat9118 3 года назад +22

    こんな綺麗な人が、歴史解説をするとは同級生にいてほしかったな。
    これも時代かな。
    珍しいケースの論功行賞が聞けて良かったです。ありがとうございます!

    • @bb4884
      @bb4884 3 года назад +3

      この人に綺麗な要素がどこにある?

  • @柳家小ゑんざいむQ10
    @柳家小ゑんざいむQ10 3 года назад +2

    木下勝俊さんは、高台院の兄とも弟とも言われる木下家定の子じゃなかったでしたっけ。