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『大乱』で安国寺恵瓊と吉川広家の『互いに首謀者と裏切り者の汚名を着る』という密約が忠臣の鑑という感じで好きです😊
長州藩は江戸時代を通じて岩国領を藩として届け出ることなく、吉川家は陪臣であるとの扱いを続け、幕府は吉川家を3万石の外様大名として参勤交代を課すという異例の状態となりました。岩国領が藩として認められたのは大政奉還後、新政府になってからということからも毛利家中の吉川家に対する複雑な思いが伝わってきます。岩国城から見下ろす城下町は実に美しく、代々の吉川家当主の岩国への思いを感じることができました
表向き:毛利家を救った実際の所:家康に化かされた家康「はい約束の30万石。あ、毛利は色々見つけたから改易ね、じゃあそっちの事はそっちでよろしく。」
さすがタヌキ親父
島津「で、我らはどうされますかな?」 ※返答を間違える=チェスト
@@user-SpiceChoco9Addiction 島津「リョウドォォ!?」家康「アンドォォォ!泣」
毛利元就「広家は紛れもなくこちら側の人間だ」毛利隆元「父上によく似ていますね」吉川元春「さすがは俺の子だ」小早川隆景「兄上よりも私に近い気が…」
元就「輝元は紛れもなく阿呆の人間だ」隆元「やはり私の子だ(ネガティヴ)」元春「誰に似たんだ?」隆景「これはあとで教育」
広家の地元の岩国は過去に二度行きましたが、錦帯橋と岩国のシロヘビがとても印象に残るいい所でした😄。
「葵 徳川三代」では吉川広家の行動について背景の描写がないから味方の邪魔をした理由がさっぱり分からなかったけど、この動画でスッキリ氷解した。
「それはない」「ありえない」「論外」の拒否3段活用笑
毛利・吉川・小早川が一つに、と説いた三矢の教え。これが関ヶ原ではみんなバラバラになってしまったというのは皮肉としか言いようがない。
不遇の人生を送りほぼ左遷に近い状態で養子になった小早川秀秋の方がまだ同じ裏切り者でも理解できる同じ血を分けている輝元を独断で裏切ったのは美談にしてはいけないね
動画投稿おつです。今日も面白かったよ。
全てを毛利家に費やし毛利家に恨まれた男
最近の学説では内通の書状とかが後世の造りものと言う話もありますが、従来通りの説を信じたいな…
3本の矢の団結は創設時のメンバーが全員いなくなって、崩れてしまったけど、広家はちゃんと先を見通して自分なりに頑張ってたんですね…
しょっちゅう思うのですが乗るしかないこのビッグウェーブに好きですよね
結構好きです(笑)
吉川広家公が何を言われようが毛利家を存続させた英雄なのは間違いない…
広家居なかったら戦国時代で毛利は終焉してたからな
敗け残って倒幕の一勢力となった皮肉
吉川広家は、毛利家の交渉役として動いていただけ吉川広家の裏切りというよりも岐阜城が陥落した時点で輝元は東側に寝返る考えを固めていた輝元が関ヶ原の戦いの前に余計なことをしたので毛利領安堵の件が反故にされましたとさ
明治期に日本軍の創設に尽力した外国の戦術家が関ヶ原の布陣を一目見て、これは西軍の勝利だ。負けるはずがない。と断言したぐらいなので毛利次第で十分勝てた戦い。
元々、西軍は烏合の衆で宇喜多や大谷、石田ぐらいしか一所懸命戦ってなかった。😗
両川体制は経験の少ない輝元を支えるためには必要なことだったけど結果として家臣が輝元を軽視する原因になってしまったかもしれませんね表では輝元を主君として立てていたけど裏で元春と隆景がスパルタ教育してたのは隠しきれなかったでしょうし…結果としてそれで毛利が生き残ったのだから評価の難しいところですが
吉川広家が奔走して毛利家が減封で済んだのは結果論でしか無い。一歩間違ってたら豊臣家の為に奔走していた福島正則や加藤清正みたいに主家の為に動いてたはずが主家の滅亡に加担してた可能性もあるし、だからこそ関ヶ原の後で慌てて主家存続に奔走するハメになる。そういうことを思うと好意はもてないね。
大河ドラマの「葵徳川三代」ではなべおさみが広家役だったね。浅野幸長、黒田長政に輝元の署名花押入りの書状を突き付けられ、福島正則には「輝元は我らを欺いた」と詰め寄られ、広家はだまし討ちだって言って怒ってたっけ。
戦国時代の話好き武将のあらゆる活躍ぶりに期待をはせている
評価は分かれるし、御家存続の忠臣と言いたい人の気持ちも分かる。だがやっぱ次のセリフが浮かぶ。「私は負けた。完膚なきまでに負けた。だが私は戦って負けた。お前たちは戦わずして負けたのだ」「戦わなければ負け犬にすらなれない」
家康は周防・長門の二国を広家に与え、毛利家を改易させようとしましたが、広家はその二国を輝元に与えるよう嘆願に及ぶなど、あくまで毛利存続に向けての働きかけを継続したとされてます。
どうもそれ、吉川家の捏造らしいですよ。
0:50 本日のノルマ達成
最終的には毛利家を守ったがはたから見たら家康に良いように利用された感じの武将って感じでしたかね。仮に輝元の件がなくとも色々と家康に難癖つけられて潰しにかかりそう。
『広家が身を挺して自己犠牲で毛利家存続した』も、岩国藩自体が創り上げた創作説も出てるそうな…→自分の領地差し出してそこに本家を…を訴えてる手紙が吉川家にしかない、受け取ってるはずの黒田家に無いし、徳川にも毛利本家にもない。減封後も隙あらば長州藩から独立した藩として扱われようと裏工作したり、秀元といがみ合ったり… まさに折れた三本の矢…
なるほど、史学で言われてるように毛利の為に働いた記録って吉川家にしかないんですね。こういうの勉強になります。 歴史は生き残った、それも勝者の側の方で作られていくっていうのがわかりますね。
@@haru-entmotaku 毛利は「敗者」ですし、「敗者」だからこそ「盛り」やすいので…(天下人相手にここまで戦ったみたいな)
光成先生の学説でしたっけ?送られた先に残ってないから偽物というのはわかるんですけど、黒田福島や井伊本多から受け取った書状も送り主の方に残ってないから偽物っていうとこだけしっくり来ないんですよね…
3:11~乗るしかない!このビッグウェーブに‼️
岐阜城が陥落してから毛利輝元は明らかに敗戦処理を始めてるからなぁその担当を吉川が担っていただけで…輝元にスケープゴートにされた面もかなり大きいだろうな
スケープゴート広家のスケープゴートが暗黒JKってわけ
腹が減っては戦はできぬ、巻き添え喰らった長宗我部可哀想だろ。
武勇の元春、知の隆景、ディスの広家、バカタレの輝元、盾裏の秀秋(秀秋は養子だけど。)毛利家は曲者揃い。
ネガティブの隆元も
だからこそ毛利家が好きやねん…
怪力の秀元。宗茂ラブの秀包。
馬鹿タレというよりはPONじゃね?やることやってるけどPONでツメが甘すぎる印象
祖父である元就さんも草葉の陰で泣いておられることだろうよ。宗家の跡継ぎ(輝元)はダメ人間、両川(小早川秀秋、吉川広家)はそれぞれ裏切りとあっては。
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が戦国最強クラスの天才過ぎたまあ孫世代はみな凡将だよな
毛利と島津が西軍にちゃんと参戦して小早川秀秋の外交策(裏切り阻止)成功してたら東軍大損害被って関ヶ原の結果どうなってたか分からんし、痛み分けで三成生存→夏の陣起きず秀頼も生存→家康寿命でどうなってたか分からんからね
岩国領が岩国藩として認められたのは王政復古の大号令の後それまで毛利家から家臣扱いされてたのに幕府からも外様大名扱いされてたから参勤交代を課されるという、江戸時代を通して不遇の扱いを受けてたんだよね
それは幕府の政策ですな。わざと吉川家を大名並み(正式に独立した藩ではない)に扱い、本家と分家を仲違いさせる。結局、江戸時代を通して両藩は反目を続ける破目に成田三樹夫。(≧∇≦)b
(15:15)「押し通る!」しなかったあたり、何か察していたのかもしれませんね
毛利家の減俸は輝元にも非はある…😢
大河で毛利輝元演じた宇津井健さんも感想としては、凡将みたいなこと言ってたらしいね。
戦国時代シリーズのお話、面白くて好きです!しばらく、毛利家シリーズですかね?
あと3本くらい毛利家関連が続きます
仮に毛利が最初から東軍で戦っていたとしても、120万石の大大名を家康がそのままにしておくとは思えないです・・・なんらかんら難癖をつけて大幅に領地を減らしていたんじゃないかと。
輝元の後の代で潰しにくるのは確実だしね
@@umaaba0233福島正則は関ヶ原の功労者で安芸を貰ったけど、豊臣の重鎮でもあったから家康から代替わりしたら罠に嵌められて改易されたから、同じような目に遭いそう
今度は成田長泰の生涯とかどうですか?
安国寺恵瓊も吉川広家も毛利は裏切ってなかったんだろうけど独断専行が過ぎて報連相が無さすぎるんよ
実のところ広家は輝元が大阪に来てからは輝元の指示で家康と交渉してるんだよね輝元から東軍の情報を逐次貰ってるし西軍有利のときは交渉ストップしてる広家が交渉を先導したと言うのは明らかに嘘
広家が全責任を負ったから輝元は不義を働いていないということに出来た。そうでなければ小早川のようになっていたかもしれない。
人によっては評価は極端でしょうが、幕末の長州藩の存在を踏まえれば存続に貢献した点でその功績は計り知れないとも感じます。
西軍が勝っていたら安国寺恵瓊がいなければ毛利は潰されていた、東軍が勝ったので吉川広家がいなければ毛利は潰されていた。どっちでも大丈夫に手を打った輝元が優秀なように見えて。実は優柔不断でどっちが勝っても毛利家は滅亡の危機になる
広家が居なければ毛利家が存続しなかったかもしれないのに味方から恨まれるなんてかわいそうに
叔父が生きてたらまだ違っただろうけど小早川家、秀吉の甥が継いじゃってるから自分が守らなきゃって頑張ってたろうなぁ
秀秋を全く信用できなかったんだろうなあ、
小早川隆景の動画でもあったけど、あれはあれで毛利毛を守るための結果だからなあ。
戦国の時代は裏切る奴が多いけど、成功する奴が少ないイメージがある
小早川のようにハッキリ裏切ったのに滅亡した武将もいるが、吉川や佐竹のように消極的裏切りの方が生き延びたりして。(≧∇≦)b
@@halkalay2023秀秋さんは裏切って逆に所領増えたんじゃなかったけ?
小早川秀秋は気の毒になるほど、領地が増えたり減ったりしました。関ヶ原直前は筑前筑後59万石、関ヶ原後は岡山55万石と減ってます。秀吉の甥の割にはあまり大事にされず、兄弟たちは悲惨な最期を迎えてますし、秀秋も家康に恩ある立ち位置なので、福島正則や黒田長政、細川・加藤のように反三成派として行動した方が良かったかも。みなもと太郎の「冒険者」たちでも「領地が減ったのじゃー!」と家臣に喚くシーンがありました。そんな秀秋の最期は狂死とも、百姓に金玉を蹴り潰されて悶死したとも伝えられてます。(≧∇≦)b
こういう人って自分から苦労を背負ってるよね、
何言ってんのかわからん秀吉や家康や主家殺しの信長は?
関ヶ原における毛利家。吉川、小早川の動きは決戦の勝敗を決定づけましたね。 個人的には家中の意見まとめず、どっちつかずの癖に総大将に祭り上げられた輝元こそ無能でしょう。 広家は本家見捨てて吉川家だけ生き残らす道も選べたのに主家に恨まれてもお家の為に奔走した広家さんは大河ドラマの主人公に選ばれても良いくらい有能と思います。
有能、無能で判断すると有能なんだろうけどイメージは最悪だよね。少なくとも自分は大嫌いな戦国武将の一人。
@@nekosakura393939 戦国好きにも推しの違いはそれぞれですね。勇敢な武将、義理堅い武将、狡猾な武将、残忍な武将。 自分は人を騙して出し抜いても、自分のお家と家族はしっかり守って存続させるような人にも愛着を感じます。
@@haru-entmotaku 個人的にはあの関ヶ原の戦いで実際に吉川、長宗我部隊が動いてたら!って想像すると勿体無いというかやはりやらかしに見えるんですよね。どう見ても戦術的にあの西軍の配置は理想的なので、吉川が動いてれば小早川の裏切りも無かったのでは?って考えてしまうと。ん~って思うので。個人的に自分もお家と家族はしっかり守って存続させるような武将が好きなので石田三成など西軍派なので自分は石田三成こそ家(豊臣家)を必死に守ろうとした武将だと思ってます。
@@nekosakura393939 お返事ありがとうございます。やっぱかっこいい武将というのはお家や家族の為に筋を通した人ですよね✨️
秀秋が裏切るし、家康は念の為に軍を南宮山麓に配置させていたから足止めされて負ける可能性は高いと思う
動画ありがとうございます。毛利輝元にしてみれば、家康に対抗をする一方で戦況によってどちらについてもいいという形にすることで戦後処理において有利に働きたいという思惑もあったのでしょうね。ただ、それは吉川広家にしてみれば見通しが甘すぎると思ったのでしょう。後は、毛利の場合は島津と違い琉球がないということもダメージが大きくなった原因でしょうね。
言葉足らずだったので、追加を。この時点ではまだ島津は完全に琉球を支配していたわけではなく、完全な属国にしたのは1609年の琉球侵略以降ですね。ただ、島津による琉球への圧力があり、琉球がそれに完全に抗することができる状況ではなかったようですね。
確か、歌手の吉川晃司の先祖でしたっけ?
汚名を被ってまで毛利家を守る覚悟は並大抵のものではないですね。
関ヶ原の戦いでなぜ東軍呼応してたのか疑問でしたがこの動画でとてもよくわかりました。後世の人間からすると毛利家の中で先見の明が一番秀でてると思います。
この人を中心に、時代劇ドラマが作れそう。
この人のお陰で‥ 毛利は領国をなん国失ったんだろうね?‥ という感じしかないのですがね‥‥毛利が攻め下っていたら‥ 徳川の本陣はどうなっていたことか(笑)‥‥
この弁当の話、好きです😂
西軍のまとまりのなさを見ると仮に西軍が勝ったとしてもいずれ内部から崩壊して結果的に毛利家は滅亡する未来があった可能性がありそうですね。そうなると広家は毛利家滅亡から救ったとも考えられそうです。
こんにちは😃
元西軍から見れば憎んでも憎み切れない裏切者でだったろう。それでも、汚名と引き換えに主家を守り抜いた(大幅に領土が削減されたのは辛かっただろうが)安堵感もあったのではなかろうか。少なくとも努力は報われたのだから。
花の慶次の広家は良かった。
輝元が総大将になった時点で、広家は内通などせず、覚悟を決めるべきだったんだろな。実際に西軍として動こうが動かなかろうが、西軍の看板になったからには東軍に目をつけられるし。そして、そんな毛利家の人間が内通・交渉してくるから、家康からすれば「西軍は大したことないな。楽に勝てそうだ。テキトーに話をしとこう」という気持ちだったのかも。戦後の処理が厳しくなるのも不思議じゃない。ただ、広家個人としては毛利家のために尽力しただろうし…結果的には明治維新まで毛利家は存続した。両川で毛利本家を支える体制がきちんと続けば良かったけど、小早川は秀明だしなぁ…
吉川晃司さんの直系のご先祖母親の新庄局は、熊谷氏出身で熊谷直実の直系の子孫である。
晃司さんは傍流であり嫡流は他に居られます
・近江 叔父達(毛利三兄弟の異母弟)が大津城を攻略も本戦に間に合わず・豊後 大友義統の旧領奪還を支援も失敗・伊予 村上水軍に加藤嘉明が留守の松山を攻撃も返り討ちに輝元は言い逃れできない
吉川って毛利両川って言われるだけあって広家もそのお家を継いだわけだから毛利家内でも信頼されて立場は高いんだろうなって思ってけど、実情は家中内でも高くないんだよね。広家って最初から東軍に味方したてってイメージが強いけど、積極的に西軍として行動してで安濃津城攻めではかなり被害が出るほどの攻勢を仕掛け、また最初の頃は国許の家臣には家康を敬称なしの状態で書いてたり、黒田長政からの誘いなども無視したりして長政が何度も書状を送るくらいに。けど、岐阜城陥落あたりから東軍路線に切り替えて、戦後にはまるで当初から東軍の味方でしたみたいな叙情を連発する狡猾さよ😅それに毛利と東軍の講和を輝元が知っていたのか、知らなかったか問題もあるよね15:14 あと先陣は吉川広家ではなく安国寺恵瓊の軍ですよ。参考文献光成2019.21.23水野2023
小早川秀秋と並び間違いなく裏切り者投手輝元を通さず独断で家康と通じるなんて美談にしちゃいけない武士のやることではない少なくとも父元春だったら絶対にそんなことはしない
いえいえ父元春は寧ろその逆で一門の経家を見殺しにしてしまった鳥取城の件や騙されて強引に講和を結ばされた備中高松城の件もあったから、それ等の戦いの指揮官であった秀吉に対しては最後まで存在を快く思っておらず“面従腹背”を貫き通したからな。当然その父元春を間近から見てきた広家もその遺志を受け継いだのだから、元凶である秀吉が亡くなれば秀吉支配からの脱却を選び豊臣政権の主要な位置でありながら広家同様“脱秀吉”に舵を切った家康に近づくのは必然だったと思いますよ。勿論元春も家康もそして隠居した元春に代わり秀吉に従い仕えていた広家も秀吉が亡くなれば豊臣政権は何も無くても破綻して崩壊する事を予知していたから、秀吉にべったりだった当主輝元を危惧しての行動だし広家が行動しなければ確実に毛利家は滅亡していましたね。なので元春だったらそんな事をしないのではなくて、逆に輝元を抑え付けてまで家康側に付いていたでしょう。
筋を違えているよな。毛利の為に主君の判断よりもだと独善とも取れるよな。どちらの方針が正しいのかも分からないんだから当主に従うべきだよな。だから、もし西軍に味方していればって言われる。これが当主の判断ならしょうがないってなるけど。
@@user-my9tr2ln3k まだこの時代は主従関係よりも“下剋上”が罷り通る戦国の世だったから、当主の判断よりも自らを含めた生き残りの模索が優先されるのだからな。ましてや当主の輝元は以前にも信長から京の都を追われて逆賊の身となった義昭を匿い保護する誤った判断で、結果吉川一門の経家や清水宗治を死なせてしまい毛利家を滅亡寸前まで追い込んだ過去があったから尚更従う訳には行きません。少なくとも輝元同様広家の祖父に当たる元就なら、当主や主家筋であった者を謀殺(排除)してまでも自ら判断していただろうしそうやって一土豪にすぎなかった毛利家を大名にまでのし上げたのだから貴殿の意見はどうかは分かりかねますが時代的に広家の判断はそうせざるを得なかったのだと思う。
秀吉葬儀の折に遺品整理は三成の仕事になったのですが「吉川広家には形見分けの品を贈らない」という不可思議な事件が起きています。1万石2万石クラスの小大名、上杉なんかは景勝だけでなく直江兼続のような陪臣クラスにまで何かしら贈っていたというのに何故か広家だけは何もナシ。この件について広家はクレームを入れ、三成から謝罪と共に刀が贈られたんだとか。この事件は本当にうっかりミスだったのか、仲裁失敗でイラついた三成がわざとやったのかは不明ですが広家としては「舐められている」という印象は持ったでしょうね。
広家は父譲りの頑固者かも。三成とは朝鮮の件以来の不仲。安国寺恵瓊には勝手に人質にされたりして不仲。輝元は尊敬できない。結局、纏まれなかった以上毛利の勝ち目は無かったのでは。(≧∇≦)b
吉川広家は松平忠輝と似ているな。何故ならばどちらも主家の存続に苦労をしたにも関わらず、家臣や肉親に疎まれていたからです。違う点は吉川広家は、毛利家臣から蔑ろにされていたが、領地を与えられた状態で天寿を全うしたが松平忠輝は兄にあたる秀忠からいない人扱いされ、領地を全て取り上げられた状態で、その後の約60年間ほぼ監禁の状態で過ごし、武士の身分を剥奪された状態で亡くなってしまった。
元々、父元春が秀吉嫌いだった上に所領問題がゴタゴタしたせいでアンチ豊臣になった印象があるんですよね。実際、この人が変なムーブしなかったら西軍が勝つ事も全然ありだったと思う反面、輝元さんじゃ腰が引けて無理かなぁと思ったりも。
関ヶ原合戦図にて西軍総大将なのになんで動かんの?と思ってたけどこういう理由があったのね
西軍の味方していても東軍が勝っていたら毛利家は完全滅亡だったかもしれん。難しいな。
実際、序盤は西軍が押していたから、そこで一番の大軍を擁していた毛利軍が動いていれば西軍勝利だったと大谷が部下に愚痴ってるねそういう意味では広家が余計な事をしたせいで毛利家が厳しい事になったと恨み節を口にする輩が出るのも分からんでも無いただ、徳川は小早川以外にも裏で通じて寝返り工作を進めているので、小早川含めた毛利軍が西軍として機能していれば本当に勝てたかどうかなんて誰にも分からんけど
弁当食べて毛利家を救った男。かっこいいやないかぁ…
俺が毛利家中の者でも同意見だわ お前が戦ってたら勝てたのにって思うね
いっときの勝利はあったかも知れないけど後詰に秀忠率いる主力が残ってるからどちらにせよ徳川の世は揺るぎないんじゃないかな。広家の判断は先見の明があると思うよ
@jsetagaya1482 秀忠で毛利に勝てると思う?まあその後徳川が負けたとして毛利か豊臣の世が長続きしたかは怪しいが
吉川広家に与えられた防長30万石を史実では輝元に譲る形で毛利家を存続させたけど仮にそのまま受け入れたら明治維新も無かったろうなそして吉川広家は小早川秀秋も真っ青な裏切り者として後世罵られたかも
小早川隆景に先を越されたから、欲が出たんでしょ。秀吉の中国大返しに追撃かけないってだけで、小早川は52万石へ大加増。本家毛利と並ぶ大老職まで得た。吉川は12万石のまま。天下分け目の好機に飛びついた。
んー、何とも評価が難しい人物ですね武士の規範から見れば佞臣の誹りは免れない行為だし西軍から見たらどう考えたって小早川隆景と並ぶ裏切りの中心にいた人物もし毛利家がちゃんと動いていれば関ヶ原の戦いの結果も変わっていた可能性があるやっていることの詰めも甘いし輝元との連携も上手く取れておらず(三本の矢の教えはどこに行ったのか?)、上手く徳川家康の掌の上で転がされていた感がある。広家の活躍云々よりも運良くたまたまお取り潰しを免れた感じが拭えない
多分、悪い人ではないけど、色んな面から出てきた結果だと思います😅
宰相殿の空弁当
毛利家は領土没収の上で、改めて吉川広家に防長二州プレゼントが当初の家康の決定。広家「今度輝元が妙なそぶりをしたら、輝元の首を内府様にお持ちします!!」
毛利一門の小早川秀秋は毛利家としてどうなっていくの?
小早川秀秋以上に西軍敗北の戦犯だと思う
元々 東軍と話はできていて、タイミングの問題だけだったって説もあるよね。
裏切り者に間違いないね。西軍につくと家中で決め西の総大将となった輝元、それを自分の意見だけで勝手に徳川と内通し結果輝元は敗戦の将として裁かれた。ここまで酷い裏切り者が畳の上で死ねたなど凄まじいよ。西軍で討ち死にした諸将に土下座して詫びるべきです。
家康が甘い処分で毛利家を残したせいで260年後に徳川幕府は滅びた島津についても同じ
野心が暴走してまるで孫策みたいなギャンブルプレーに走った輝元(孫策と違って勇猛さはない)をどうにか寸前で止めてみせたってとこですよね。隆景が生きてたらもっと上手いところに着地できたんでしょうけど。「言ったよな!?恵瓊は佞臣だから信用するなと!」
広家がいなかったら時代が変わっていたかも😂
この広家の頑張りが、やがて幕末に徳川幕府を倒す遠因になります。
彼がいなければ毛利は潰されていた
板挟みにあっていたから汚れ役というべきのかなこれ
毛利の長弁当やな。(≧∇≦)b吉川晃司のご先祖様とか。
うーん……動画ないだと、広家が裏切ったってより輝元がだろってなるの俺だけか?最初、裏切りエピが出るものって思ってたけど、そうじゃなかった。本当に裏切ったってんなら、その内容をもう少し聞きたかった。
西軍の諸将との手紙は家康が偽装してそうだけどな
父親が秀吉嫌いで、豊臣政権に厚遇された小早川に対して吉川家は冷遇されたことに加えて、東軍諸将の武断派と仲が良かったこと、特に黒田如水長政親子とは親密で、彼らに口説かれた、という背景もあったと思う。
戦国時代はやたら兄弟間で揉めたり喧嘩したり最悪殺し合ったりするな…。七五三等、子供が死にやすい文明力だったり後継者が必要だったり労働力が必要だったり色々あるがパカスカ子供作ったが後にそれが兄弟間で揉めたり血みどろの争いを生んだりこの時代に求めてはいけないが色々無責任すぎる。全てがそうではないが、兄と妹・姉と弟・姉妹というパターンは比較的何とかやれるが兄弟の場合は何かしら喧嘩に発展するイメージ。まるでカインとアベルの呪いみたいや
利害関係を築きすぎて、それがしがらみになっているなぁ。😗
普通に毛利が戦ったら勝てた
賛否あるけど戦国武将の中でこいつと秀秋はトップクラスに嫌いやわ笑あと、輝元も有能で頑張ってんのに悪く言い過ぎてて草よくこいつ輝元に罰せられなかったな
現在の吉川家は徳山毛利家より隆元、輝元公の遺伝子が濃い家系といえる。つまり、元就公以降完全に血筋は毛利家にすり替えられた。血統だけなら毛利家の本流と言える。広家自身もその認識はあったはずで宗家を蔑ろにはできなかった。結果論であるがは関ヶ原も幕末の四境の役でも宗家を守ったのは吉川家であったのは間違いない。
本領安堵まではいかなかったけど、毛利家を守れたのは凄いですね!!
コメントでも評価が分かれてるね私はあまり評価してないというか嫌い独断でコソコソ動いてないで覚悟決めろって思う結局いいように家康に利用された
関ヶ原で広家が三成に味方するのを渋った理由が分かったよ。
最初知ったときははダーティな印象しかなかったけどイメージが変わった武将
広家は、本当によく毛利家を守ったと思います。毛利元就の指針の元、父元春から薫陶を受け、吉川家の役目を十分果たしました。関ヶ原で本気で西軍につけば良かった、という意見があるかもしれませんが、自分はそうは思いません。後継者の輝元が、西軍を率いる器ではないし、その後の天下人になるべく器でもないからです。残念ながら、合戦の最中に色気を出して、西日本の領土を切り取ってしまったという見通しの無さからも証明されてしまっています。広家がいなかったら毛利家の未来はなかったし、その後260年後の明治維新も無かったと思います。
『大乱』で安国寺恵瓊と吉川広家の『互いに首謀者と裏切り者の汚名を着る』という密約が忠臣の鑑という感じで好きです😊
長州藩は江戸時代を通じて岩国領を藩として届け出ることなく、吉川家は陪臣であるとの扱いを続け、幕府は吉川家を3万石の外様大名として参勤交代を課すという異例の状態となりました。岩国領が藩として認められたのは大政奉還後、新政府になってからということからも毛利家中の吉川家に対する複雑な思いが伝わってきます。岩国城から見下ろす城下町は実に美しく、代々の吉川家当主の岩国への思いを感じることができました
表向き:毛利家を救った
実際の所:家康に化かされた
家康「はい約束の30万石。あ、毛利は色々見つけたから改易ね、じゃあそっちの事はそっちでよろしく。」
さすがタヌキ親父
島津「で、我らはどうされますかな?」 ※返答を間違える=チェスト
@@user-SpiceChoco9Addiction
島津「リョウドォォ!?」
家康「アンドォォォ!泣」
毛利元就「広家は紛れもなくこちら側の人間だ」
毛利隆元「父上によく似ていますね」
吉川元春「さすがは俺の子だ」
小早川隆景「兄上よりも私に近い気が…」
元就「輝元は紛れもなく阿呆の人間だ」
隆元「やはり私の子だ(ネガティヴ)」
元春「誰に似たんだ?」
隆景「これはあとで教育」
広家の地元の岩国は過去に二度行きましたが、錦帯橋と岩国のシロヘビがとても印象に残るいい所でした😄。
「葵 徳川三代」では吉川広家の行動について背景の描写がないから味方の邪魔をした理由がさっぱり分からなかったけど、この動画でスッキリ氷解した。
「それはない」
「ありえない」
「論外」
の拒否3段活用笑
毛利・吉川・小早川が一つに、と説いた三矢の教え。
これが関ヶ原ではみんなバラバラになってしまったというのは皮肉としか言いようがない。
不遇の人生を送りほぼ左遷に近い状態で養子になった小早川秀秋の方がまだ同じ裏切り者でも理解できる
同じ血を分けている輝元を独断で裏切ったのは美談にしてはいけないね
動画投稿おつです。今日も面白かったよ。
全てを毛利家に費やし毛利家に恨まれた男
最近の学説では内通の書状とかが後世の造りものと言う話もありますが、従来通りの説を信じたいな…
3本の矢の団結は創設時のメンバーが全員いなくなって、崩れてしまったけど、広家はちゃんと先を見通して自分なりに頑張ってたんですね…
しょっちゅう思うのですが乗るしかないこのビッグウェーブに好きですよね
結構好きです(笑)
吉川広家公が何を言われようが毛利家を存続させた英雄なのは間違いない…
広家居なかったら戦国時代で毛利は終焉してたからな
敗け残って倒幕の一勢力となった皮肉
吉川広家は、毛利家の交渉役として動いていただけ
吉川広家の裏切りというよりも
岐阜城が陥落した時点で輝元は東側に寝返る考えを固めていた
輝元が関ヶ原の戦いの前に余計なことをしたので毛利領安堵の件が反故にされましたとさ
明治期に日本軍の創設に尽力した外国の戦術家が関ヶ原の布陣を一目見て、これは西軍の勝利だ。負けるはずがない。と断言したぐらいなので毛利次第で十分勝てた戦い。
元々、西軍は烏合の衆で宇喜多や大谷、石田ぐらいしか一所懸命戦ってなかった。😗
両川体制は経験の少ない輝元を支えるためには必要なことだったけど結果として家臣が輝元を軽視する原因になってしまったかもしれませんね
表では輝元を主君として立てていたけど裏で元春と隆景がスパルタ教育してたのは隠しきれなかったでしょうし…
結果としてそれで毛利が生き残ったのだから評価の難しいところですが
吉川広家が奔走して毛利家が減封で済んだのは結果論でしか無い。
一歩間違ってたら豊臣家の為に奔走していた福島正則や加藤清正みたいに主家の為に動いてたはずが主家の滅亡に加担してた可能性もあるし、だからこそ関ヶ原の後で慌てて主家存続に奔走するハメになる。
そういうことを思うと好意はもてないね。
大河ドラマの「葵徳川三代」ではなべおさみが広家役だったね。
浅野幸長、黒田長政に輝元の署名花押入りの書状を突き付けられ、福島正則には「輝元は我らを欺いた」と詰め寄られ、
広家はだまし討ちだって言って怒ってたっけ。
戦国時代の話好き
武将のあらゆる活躍ぶりに期待をはせている
評価は分かれるし、御家存続の忠臣と言いたい人の気持ちも分かる。
だがやっぱ次のセリフが浮かぶ。
「私は負けた。完膚なきまでに負けた。だが私は戦って負けた。お前たちは戦わずして負けたのだ」
「戦わなければ負け犬にすらなれない」
家康は周防・長門の二国を広家に与え、毛利家を改易させようとしましたが、広家はその二国を輝元に与えるよう嘆願に及ぶなど、あくまで毛利存続に向けての働きかけを継続したとされてます。
どうもそれ、吉川家の捏造らしいですよ。
0:50 本日のノルマ達成
最終的には毛利家を守ったがはたから見たら家康に良いように利用された感じの武将って感じでしたかね。仮に輝元の件がなくとも色々と家康に難癖つけられて潰しにかかりそう。
『広家が身を挺して自己犠牲で毛利家存続した』も、岩国藩自体が創り上げた創作説も出てるそうな…
→自分の領地差し出してそこに本家を…を訴えてる手紙が吉川家にしかない、受け取ってるはずの黒田家に無いし、徳川にも毛利本家にもない。
減封後も隙あらば長州藩から独立した藩として扱われようと裏工作したり、秀元といがみ合ったり… まさに折れた三本の矢…
なるほど、史学で言われてるように毛利の為に働いた記録って吉川家にしかないんですね。こういうの勉強になります。
歴史は生き残った、それも勝者の側の方で作られていくっていうのがわかりますね。
@@haru-entmotaku 毛利は「敗者」ですし、「敗者」だからこそ「盛り」やすいので…(天下人相手にここまで戦ったみたいな)
光成先生の学説でしたっけ?
送られた先に残ってないから偽物というのはわかるんですけど、黒田福島や井伊本多から受け取った書状も送り主の方に残ってないから偽物っていうとこだけしっくり来ないんですよね…
3:11~
乗るしかない!
このビッグウェーブに‼️
岐阜城が陥落してから毛利輝元は明らかに敗戦処理を始めてるからなぁ
その担当を吉川が担っていただけで…
輝元にスケープゴートにされた面もかなり大きいだろうな
スケープゴート広家のスケープゴートが暗黒JKってわけ
腹が減っては戦はできぬ、巻き添え喰らった長宗我部可哀想だろ。
武勇の元春、知の隆景、ディスの広家、バカタレの輝元、盾裏の秀秋(秀秋は養子だけど。)毛利家は曲者揃い。
ネガティブの隆元も
だからこそ毛利家が好きやねん…
怪力の秀元。宗茂ラブの秀包。
馬鹿タレというよりはPONじゃね?やることやってるけどPONでツメが甘すぎる印象
祖父である元就さんも草葉の陰で泣いておられることだろうよ。宗家の跡継ぎ(輝元)はダメ人間、両川(小早川秀秋、吉川広家)はそれぞれ裏切りとあっては。
毛利元就、吉川元春、小早川隆景が戦国最強クラスの天才過ぎた
まあ孫世代はみな凡将だよな
毛利と島津が西軍にちゃんと参戦して小早川秀秋の外交策(裏切り阻止)成功してたら東軍大損害被って関ヶ原の結果どうなってたか分からんし、痛み分けで三成生存→夏の陣起きず秀頼も生存→家康寿命でどうなってたか分からんからね
岩国領が岩国藩として認められたのは王政復古の大号令の後
それまで毛利家から家臣扱いされてたのに幕府からも外様大名扱いされてたから参勤交代を課されるという、江戸時代を通して不遇の扱いを受けてたんだよね
それは幕府の政策ですな。わざと吉川家を大名並み(正式に独立した藩ではない)に扱い、本家と分家を仲違いさせる。結局、江戸時代を通して両藩は反目を続ける破目に成田三樹夫。(≧∇≦)b
(15:15)「押し通る!」しなかったあたり、何か察していたのかもしれませんね
毛利家の減俸は輝元にも非はある…😢
大河で毛利輝元演じた宇津井健さんも感想としては、凡将みたいなこと言ってたらしいね。
戦国時代シリーズのお話、面白くて好きです!しばらく、毛利家シリーズですかね?
あと3本くらい毛利家関連が続きます
仮に毛利が最初から東軍で戦っていたとしても、120万石の大大名を家康がそのままにしておくとは思えないです・・・なんらかんら難癖をつけて大幅に領地を減らしていたんじゃないかと。
輝元の後の代で潰しにくるのは確実だしね
@@umaaba0233
福島正則は関ヶ原の功労者で安芸を貰ったけど、豊臣の重鎮でもあったから家康から代替わりしたら罠に嵌められて改易されたから、同じような目に遭いそう
今度は成田長泰の生涯とかどうですか?
安国寺恵瓊も吉川広家も毛利は裏切ってなかったんだろうけど
独断専行が過ぎて報連相が無さすぎるんよ
実のところ広家は輝元が大阪に来てからは輝元の指示で家康と交渉してるんだよね
輝元から東軍の情報を逐次貰ってるし西軍有利のときは交渉ストップしてる
広家が交渉を先導したと言うのは明らかに嘘
広家が全責任を負ったから輝元は不義を働いていないということに出来た。そうでなければ小早川のようになっていたかもしれない。
人によっては評価は極端でしょうが、幕末の長州藩の存在を踏まえれば存続に貢献した点でその功績は計り知れないとも感じます。
西軍が勝っていたら安国寺恵瓊がいなければ毛利は潰されていた、東軍が勝ったので吉川広家がいなければ毛利は潰されていた。
どっちでも大丈夫に手を打った輝元が優秀なように見えて。実は優柔不断でどっちが勝っても毛利家は滅亡の危機になる
広家が居なければ毛利家が存続しなかったかもしれないのに味方から恨まれるなんてかわいそうに
叔父が生きてたらまだ違っただろうけど小早川家、秀吉の甥が継いじゃってるから自分が守らなきゃって頑張ってたろうなぁ
秀秋を全く信用できなかったんだろうなあ、
小早川隆景の動画でもあったけど、あれはあれで毛利毛を守るための結果だからなあ。
戦国の時代は裏切る奴が多いけど、成功する奴が少ないイメージがある
小早川のようにハッキリ裏切ったのに滅亡した武将もいるが、吉川や佐竹のように消極的裏切りの方が生き延びたりして。(≧∇≦)b
@@halkalay2023秀秋さんは裏切って逆に所領増えたんじゃなかったけ?
小早川秀秋は気の毒になるほど、領地が増えたり減ったりしました。関ヶ原直前は筑前筑後59万石、関ヶ原後は岡山55万石と減ってます。秀吉の甥の割にはあまり大事にされず、兄弟たちは悲惨な最期を迎えてますし、秀秋も家康に恩ある立ち位置なので、福島正則や黒田長政、細川・加藤のように反三成派として行動した方が良かったかも。みなもと太郎の「冒険者」たちでも「領地が減ったのじゃー!」と家臣に喚くシーンがありました。そんな秀秋の最期は狂死とも、百姓に金玉を蹴り潰されて悶死したとも伝えられてます。(≧∇≦)b
こういう人って自分から苦労を背負ってるよね、
何言ってんのかわからん
秀吉や家康や主家殺しの信長は?
関ヶ原における毛利家。吉川、小早川の動きは決戦の勝敗を決定づけましたね。
個人的には家中の意見まとめず、どっちつかずの癖に総大将に祭り上げられた輝元こそ無能でしょう。
広家は本家見捨てて吉川家だけ生き残らす道も選べたのに主家に恨まれてもお家の為に奔走した広家さんは大河ドラマの主人公に選ばれても良いくらい有能と思います。
有能、無能で判断すると有能なんだろうけどイメージは最悪だよね。
少なくとも自分は大嫌いな戦国武将の一人。
@@nekosakura393939 戦国好きにも推しの違いはそれぞれですね。勇敢な武将、義理堅い武将、狡猾な武将、残忍な武将。
自分は人を騙して出し抜いても、自分のお家と家族はしっかり守って存続させるような人にも愛着を感じます。
@@haru-entmotaku
個人的にはあの関ヶ原の戦いで実際に吉川、長宗我部隊が動いてたら!って想像すると勿体無いというか
やはりやらかしに見えるんですよね。
どう見ても戦術的にあの西軍の配置は理想的なので、吉川が動いてれば小早川の裏切りも無かったのでは?
って考えてしまうと。ん~って思うので。
個人的に自分もお家と家族はしっかり守って存続させるような武将が好きなので石田三成など西軍派なので自分は
石田三成こそ家(豊臣家)を必死に守ろうとした武将だと思ってます。
@@nekosakura393939 お返事ありがとうございます。やっぱかっこいい武将というのはお家や家族の為に筋を通した人ですよね✨️
秀秋が裏切るし、家康は念の為に軍を南宮山麓に配置させていたから足止めされて負ける可能性は高いと思う
動画ありがとうございます。
毛利輝元にしてみれば、家康に対抗をする一方で戦況によってどちらについてもいいという形にすることで戦後処理において有利に働きたいという思惑もあったのでしょうね。ただ、それは吉川広家にしてみれば見通しが甘すぎると思ったのでしょう。
後は、毛利の場合は島津と違い琉球がないということもダメージが大きくなった原因でしょうね。
言葉足らずだったので、追加を。
この時点ではまだ島津は完全に琉球を支配していたわけではなく、完全な属国にしたのは1609年の琉球侵略以降ですね。ただ、島津による琉球への圧力があり、琉球がそれに完全に抗することができる状況ではなかったようですね。
確か、歌手の吉川晃司の先祖でしたっけ?
汚名を被ってまで毛利家を守る覚悟は並大抵のものではないですね。
関ヶ原の戦いでなぜ東軍呼応してたのか疑問でしたがこの動画でとてもよくわかりました。
後世の人間からすると毛利家の中で先見の明が一番秀でてると思います。
この人を中心に、時代劇ドラマが作れそう。
この人のお陰で‥ 毛利は領国をなん国失ったんだろうね?‥ という感じしかないのですがね‥‥
毛利が攻め下っていたら‥ 徳川の本陣はどうなっていたことか(笑)‥‥
この弁当の話、好きです😂
西軍のまとまりのなさを見ると仮に西軍が勝ったとしてもいずれ内部から崩壊して結果的に毛利家は滅亡する未来があった可能性がありそうですね。そうなると広家は毛利家滅亡から救ったとも考えられそうです。
こんにちは😃
元西軍から見れば憎んでも憎み切れない裏切者でだったろう。それでも、汚名と引き換えに主家を守り抜いた(大幅に領土が削減されたのは辛かっただろうが)安堵感もあったのではなかろうか。少なくとも努力は報われたのだから。
花の慶次の広家は良かった。
輝元が総大将になった時点で、広家は内通などせず、覚悟を決めるべきだったんだろな。
実際に西軍として動こうが動かなかろうが、西軍の看板になったからには東軍に目をつけられるし。そして、そんな毛利家の人間が内通・交渉してくるから、家康からすれば「西軍は大したことないな。楽に勝てそうだ。テキトーに話をしとこう」という気持ちだったのかも。戦後の処理が厳しくなるのも不思議じゃない。
ただ、広家個人としては毛利家のために尽力しただろうし…結果的には明治維新まで毛利家は存続した。両川で毛利本家を支える体制がきちんと続けば良かったけど、小早川は秀明だしなぁ…
吉川晃司さんの直系のご先祖
母親の新庄局は、熊谷氏出身で熊谷直実の直系の子孫である。
晃司さんは傍流であり嫡流は他に居られます
・近江 叔父達(毛利三兄弟の異母弟)が大津城を攻略も本戦に間に合わず
・豊後 大友義統の旧領奪還を支援も失敗
・伊予 村上水軍に加藤嘉明が留守の松山を攻撃も返り討ちに
輝元は言い逃れできない
吉川って毛利両川って言われるだけあって広家もそのお家を継いだわけだから毛利家内でも信頼されて立場は高いんだろうなって思ってけど、実情は家中内でも高くないんだよね。
広家って最初から東軍に味方したてってイメージが強いけど、
積極的に西軍として行動してで安濃津城攻めではかなり被害が出るほどの攻勢を仕掛け、
また最初の頃は国許の家臣には家康を敬称なしの状態で書いてたり、黒田長政からの誘いなども無視したりして長政が何度も書状を送るくらいに。
けど、岐阜城陥落あたりから東軍路線に切り替えて、戦後にはまるで当初から東軍の味方でしたみたいな叙情を連発する狡猾さよ😅
それに毛利と東軍の講和を輝元が知っていたのか、知らなかったか問題もあるよね
15:14 あと先陣は吉川広家ではなく安国寺恵瓊の軍ですよ。
参考文献
光成2019.21.23
水野2023
小早川秀秋と並び間違いなく裏切り者
投手輝元を通さず独断で家康と通じるなんて美談にしちゃいけない
武士のやることではない
少なくとも父元春だったら絶対にそんなことはしない
いえいえ父元春は寧ろその逆で一門の経家を見殺しにしてしまった鳥取城の件や騙されて強引に講和を結ばされた備中高松城の件もあったから、それ等の戦いの指揮官であった秀吉に対しては最後まで存在を快く思っておらず“面従腹背”を貫き通したからな。当然その父元春を間近から見てきた広家もその遺志を受け継いだのだから、元凶である秀吉が亡くなれば秀吉支配からの脱却を選び豊臣政権の主要な位置でありながら広家同様“脱秀吉”に舵を切った家康に近づくのは必然だったと思いますよ。勿論元春も家康もそして隠居した元春に代わり秀吉に従い仕えていた広家も秀吉が亡くなれば豊臣政権は何も無くても破綻して崩壊する事を予知していたから、秀吉にべったりだった当主輝元を危惧しての行動だし広家が行動しなければ確実に毛利家は滅亡していましたね。なので元春だったらそんな事をしないのではなくて、逆に輝元を抑え付けてまで家康側に付いていたでしょう。
筋を違えているよな。毛利の為に主君の判断よりもだと独善とも取れるよな。どちらの方針が正しいのかも分からないんだから当主に従うべきだよな。だから、もし西軍に味方していればって言われる。これが当主の判断ならしょうがないってなるけど。
@@user-my9tr2ln3k まだこの時代は主従関係よりも“下剋上”が罷り通る戦国の世だったから、当主の判断よりも自らを含めた生き残りの模索が優先されるのだからな。ましてや当主の輝元は以前にも信長から京の都を追われて逆賊の身となった義昭を匿い保護する誤った判断で、結果吉川一門の経家や清水宗治を死なせてしまい毛利家を滅亡寸前まで追い込んだ過去があったから尚更従う訳には行きません。少なくとも輝元同様広家の祖父に当たる元就なら、当主や主家筋であった者を謀殺(排除)してまでも自ら判断していただろうしそうやって一土豪にすぎなかった毛利家を大名にまでのし上げたのだから貴殿の意見はどうかは分かりかねますが時代的に広家の判断はそうせざるを得なかったのだと思う。
秀吉葬儀の折に遺品整理は三成の仕事になったのですが「吉川広家には形見分けの品を贈らない」という不可思議な事件が起きています。
1万石2万石クラスの小大名、上杉なんかは景勝だけでなく直江兼続のような陪臣クラスにまで何かしら贈っていたというのに何故か広家だけは何もナシ。
この件について広家はクレームを入れ、三成から謝罪と共に刀が贈られたんだとか。
この事件は本当にうっかりミスだったのか、仲裁失敗でイラついた三成がわざとやったのかは不明ですが広家としては「舐められている」という印象は持ったでしょうね。
広家は父譲りの頑固者かも。三成とは朝鮮の件以来の不仲。安国寺恵瓊には勝手に人質にされたりして不仲。輝元は尊敬できない。結局、纏まれなかった以上毛利の勝ち目は無かったのでは。(≧∇≦)b
吉川広家は松平忠輝と似ているな。何故ならばどちらも主家の存続に苦労をしたにも関わらず、家臣や肉親に疎まれていたからです。違う点は吉川広家は、毛利家臣から蔑ろにされていたが、領地を与えられた状態で天寿を全うしたが松平忠輝は兄にあたる秀忠からいない人扱いされ、領地を全て取り上げられた状態で、その後の約60年間ほぼ監禁の状態で過ごし、武士の身分を剥奪された状態で亡くなってしまった。
元々、父元春が秀吉嫌いだった上に所領問題がゴタゴタしたせいでアンチ豊臣になった印象があるんですよね。
実際、この人が変なムーブしなかったら西軍が勝つ事も全然ありだったと思う反面、輝元さんじゃ腰が引けて無理かなぁと思ったりも。
関ヶ原合戦図にて西軍総大将なのになんで動かんの?と思ってたけどこういう理由があったのね
西軍の味方していても東軍が勝っていたら毛利家は完全滅亡だったかもしれん。難しいな。
実際、序盤は西軍が押していたから、そこで一番の大軍を擁していた毛利軍が動いていれば西軍勝利だったと大谷が部下に愚痴ってるね
そういう意味では広家が余計な事をしたせいで毛利家が厳しい事になったと恨み節を口にする輩が出るのも分からんでも無い
ただ、徳川は小早川以外にも裏で通じて寝返り工作を進めているので、小早川含めた毛利軍が西軍として機能していれば本当に勝てたかどうかなんて誰にも分からんけど
弁当食べて毛利家を救った男。かっこいいやないかぁ…
俺が毛利家中の者でも同意見だわ お前が戦ってたら勝てたのにって思うね
いっときの勝利はあったかも知れないけど後詰に秀忠率いる主力が残ってるからどちらにせよ徳川の世は揺るぎないんじゃないかな。広家の判断は先見の明があると思うよ
@jsetagaya1482 秀忠で毛利に勝てると思う?まあその後徳川が負けたとして毛利か豊臣の世が長続きしたかは怪しいが
吉川広家に与えられた防長30万石を史実では輝元に譲る形で毛利家を存続させたけど仮にそのまま受け入れたら明治維新も無かったろうな
そして吉川広家は小早川秀秋も真っ青な裏切り者として後世罵られたかも
小早川隆景に先を越されたから、欲が出たんでしょ。
秀吉の中国大返しに追撃かけないってだけで、小早川は52万石へ大加増。
本家毛利と並ぶ大老職まで得た。
吉川は12万石のまま。
天下分け目の好機に飛びついた。
んー、何とも評価が難しい人物ですね
武士の規範から見れば佞臣の誹りは免れない行為だし
西軍から見たらどう考えたって小早川隆景と並ぶ裏切りの中心にいた人物
もし毛利家がちゃんと動いていれば関ヶ原の戦いの結果も変わっていた可能性がある
やっていることの詰めも甘いし輝元との連携も上手く取れておらず(三本の矢の教えはどこに行ったのか?)、上手く徳川家康の掌の上で転がされていた感がある。広家の活躍云々よりも運良くたまたまお取り潰しを免れた感じが拭えない
多分、悪い人ではないけど、色んな面から出てきた結果だと思います😅
宰相殿の空弁当
毛利家は領土没収の上で、改めて吉川広家に防長二州プレゼントが当初の家康の決定。
広家「今度輝元が妙なそぶりをしたら、輝元の首を内府様にお持ちします!!」
毛利一門の小早川秀秋は毛利家としてどうなっていくの?
小早川秀秋以上に西軍敗北の戦犯だと思う
元々 東軍と話はできていて、タイミングの問題だけだったって説もあるよね。
裏切り者に間違いないね。西軍につくと家中で決め西の総大将となった輝元、それを
自分の意見だけで勝手に徳川と内通し結果輝元は敗戦の将として裁かれた。ここまで酷い裏切り者が
畳の上で死ねたなど凄まじいよ。西軍で討ち死にした諸将に土下座して詫びるべきです。
家康が甘い処分で毛利家を残したせいで
260年後に徳川幕府は滅びた
島津についても同じ
野心が暴走してまるで孫策みたいなギャンブルプレーに走った輝元(孫策と違って勇猛さはない)をどうにか寸前で止めてみせたってとこですよね。隆景が生きてたらもっと上手いところに着地できたんでしょうけど。「言ったよな!?恵瓊は佞臣だから信用するなと!」
広家がいなかったら時代が変わっていたかも😂
この広家の頑張りが、やがて幕末に徳川幕府を倒す遠因になります。
彼がいなければ毛利は潰されていた
板挟みにあっていたから汚れ役というべきのかなこれ
毛利の長弁当やな。(≧∇≦)b
吉川晃司のご先祖様とか。
うーん……動画ないだと、広家が裏切ったってより輝元がだろってなるの俺だけか?
最初、裏切りエピが出るものって思ってたけど、そうじゃなかった。
本当に裏切ったってんなら、その内容をもう少し聞きたかった。
西軍の諸将との手紙は家康が偽装してそうだけどな
父親が秀吉嫌いで、豊臣政権に厚遇された小早川に対して吉川家は冷遇されたことに加えて、東軍諸将の武断派と仲が良かったこと、特に黒田如水長政親子とは親密で、彼らに口説かれた、という背景もあったと思う。
戦国時代はやたら兄弟間で揉めたり喧嘩したり最悪殺し合ったりするな…。七五三等、子供が死にやすい文明力だったり後継者が必要だったり労働力が必要だったり色々あるがパカスカ子供作ったが後にそれが兄弟間で揉めたり血みどろの争いを生んだりこの時代に求めてはいけないが色々無責任すぎる。全てがそうではないが、兄と妹・姉と弟・姉妹というパターンは比較的何とかやれるが兄弟の場合は何かしら喧嘩に発展するイメージ。まるでカインとアベルの呪いみたいや
利害関係を築きすぎて、それがしがらみになっているなぁ。😗
普通に毛利が戦ったら勝てた
賛否あるけど戦国武将の中でこいつと秀秋はトップクラスに嫌いやわ笑
あと、輝元も有能で頑張ってんのに悪く言い過ぎてて草
よくこいつ輝元に罰せられなかったな
現在の吉川家は徳山毛利家より隆元、輝元公の遺伝子が濃い家系といえる。つまり、元就公以降完全に血筋は毛利家にすり替えられた。血統だけなら毛利家の本流と言える。広家自身もその認識はあったはずで宗家を蔑ろにはできなかった。結果論であるがは関ヶ原も幕末の四境の役でも宗家を守ったのは吉川家であったのは間違いない。
本領安堵まではいかなかったけど、毛利家を守れたのは凄いですね!!
コメントでも評価が分かれてるね
私はあまり評価してない
というか嫌い
独断でコソコソ動いてないで覚悟決めろって思う
結局いいように家康に利用された
関ヶ原で広家が三成に味方するのを渋った理由が分かったよ。
最初知ったときははダーティな印象しかなかったけどイメージが変わった武将
広家は、本当によく毛利家を守ったと思います。
毛利元就の指針の元、父元春から薫陶を受け、吉川家の役目を十分果たしました。
関ヶ原で本気で西軍につけば良かった、という意見があるかもしれませんが、自分はそうは思いません。
後継者の輝元が、西軍を率いる器ではないし、その後の天下人になるべく器でもないからです。
残念ながら、合戦の最中に色気を出して、西日本の領土を切り取ってしまったという見通しの無さからも証明されてしまっています。
広家がいなかったら毛利家の未来はなかったし、その後260年後の明治維新も無かったと思います。