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有川桟橋が現役だった頃は五稜郭操から函館本線を立体交差で乗り越える短絡線がありました。それで右運転台になったと写真付きで何かの本に書いていました。今でもそのアプローチ部分の遺構が残っているかは分かりませんが...
ご視聴頂きありがとうございます。やはり短絡線があったのですね。霊夢の言っていたことが正しい様です。動画のままだと操車場からスイッチバック必要だから短絡線はあるだろうとは思ってましたが、右にするほどだったんですね。
短絡線のアプローチ部分の遺構は今でも残っています。五稜郭駅から札幌方面に向かうときにはっきりと見て取れます。短絡線で本線を超える9600型の写真をどこかで見た気がします。確かに頭が桟橋方向を向いていました。
ゆのくにゆのかさん、五稜郭機関区は駅から線路伝いに歩いて行ってました。あの辺りかなりごちゃごちゃしていて、記憶ではオーバーパスの右カーブが遠くに見えました。今のGoogle Mapでは無いんですね。昭和43年の国土地理院の航空写真で見ました。あそこに間違いないです。でも右運転台が必要な曲線とも思えないんです。
私が昔、九州で撮鉄を始めた当時、全ての機関車はデフ付きでした。96、86までデフがついてました。門デフが最初に付いたのはD60とC55でした。梅小路の9633はなぜ動かなくなったのですか?
グリーンラインさん、ご視聴ありがとうございます。北九州筑豊にはデブなし9600, 8620は多かったのですが、たまたま遭遇されなかったのですね。梅小路は動態にしておくと費用がかかり過ぎて扱えなくなったので、備品扱いにして有火展示やめたのです。D51-1, C55, D50, C11などと一緒にですね。
@@Yukkuri-Lab そうなんですね😅動態保存しているからこそ梅小路は蒸気にとって有名だったのに残念です。動かない蒸気は一般の公園と変わりませんね。現在、現役路線を走っている山口線、磐越西線、秩父鉄道、真岡線は本当に貴重ですね!
そして高崎ですね。
3:30 国鉄の線路脇に設置された境界杭にも「工」の字が入っていたのを思い出した。
ご視聴頂きありがとうございました。そうなんですか。今でも細かく探すと昔のままの設備や標識が見つかるかも知れないんですね。
まったく関係ない話題ですが〜 高原のポニーと書いて、小海線のC56 と、連想❤👍出来るユーザーさん居ますか❓💦
7 Tom,s7さん、こちらもご視聴ありがとうございました。高原のポニーも貴婦人同様マスコミの造語だと思います。あれを見て、イメージは近いものがありますね。
この盆休みを利用して、現存している青函連絡船の八甲田丸を見に行ってきました(関西から片道ほぼ1000キロ、約18時間はちょっと疲れたw)。流石に蒸気が活躍していた面影は無かったですが、連絡船と陸を繋ぐ可動橋も一部保存されていて、個人的には良かったです。まぁ、当時を知らない・・・って言うか、私が生まれる2か月前に青函連絡船が消滅してしまったんで、当時をそもそも知る事は出来なかったんですが・・・青森駅も、今でもホームから先が伸びていて、入れ替えとかに使ってたんだろうなって妄想を膨らませてましたww
ご視聴頂きありがとうございました。私も青春18きっぷめ喜多方ラーメンを食べに行きました。昭和44年が最後でしたので、久しぶりです。当時はラーメンは無かったです。会津若松の駅の風景は当時と変わらないですねぇ。給水設備は無かったですが。青森駅はホームの階段で座り込んで汽車を待った思い出が多いです。北海道を回ると疲労困憊でした。
連絡船 乗船名簿 懐かしいです八甲田 十和田 津軽 が青森に使づくと みんな連絡船の良い席に陣取れるよう前方に移動するんですよね自分は ごろ寝が好きだったので カーペット敷でごろごろしていました4時ころの便に乗ると 海の上から日の出が見えたんですどらの音 紙テープ 中には別れを惜しんで涙していた人も9600 大好きです自分は滝川機関区の人と仲良しになって 機関区に入り浸っていました79602が焼失してしまった時には すごくショックでしたが もう50年近く前の話になってしまいました
とし おがさん、ご視聴頂きありがとうございます。紙テープって禁止されていたのに、みんなやってましたよね。雑魚寝スペースは盗まれると聞いたので、用心していつも座席でした。カメラを持っているのは狙われやすいと。79602は何故か北海道で写真撮っていなんですね。探したのですがなかったです。熊本時代のはあるんですが。
函館の右運転台はカーブの理由/海側で干満の確認など様々な情報がありますが不明です。49698のライト移設は入換操車係の為と聞いた覚えがありますが定かではありません。五稜郭以外にも岩見沢にもかなりの数の逆転機付右運転台96がいましたが理由がわかりません。他線区に転属したカマはそのまま右運転台だったのでしょうか。多くの?があり詳しい方おりましたらご教示願います。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。一度右運転台に変えられたものはずっとそのままですね。大宮にもそのままでいました。49698のオフセット前照灯はその後転属先で普通に戻され、岩見沢でかなり遅くまで残っていたはずです。
小倉工場のイベントで山のようにある段ボール箱に入った図面を販売していたのですが。何故?右運転台の図面が九州にと思ったのですが。よくよく考えてみれば、現在のJR小森江駅近くの連絡船埠頭で96が入替をしている写真を見ました。
ご視聴頂きありがとうございます。図面は複写ですから問題無いんでしょう。門司には右運転台の9600が居たそうです。古い写真で逆転機がどっちにあるかで分かりますから、探してみてください。
動画解説を聞きながら港湾ヤードに深夜響く汽笛を想像しました。9600型が前後に往復しながら通年働く姿、夏は暑く冬は風雪が相当に厳しそう。真岡鐵道に見に行きたいですが、相変わらず土日休日シフトで、もはや年休を取るしかない。
HMS HOODさん、ご視聴頂きありがとうございます。真岡の栃木はすごく暑いですから、今日なんか41度です。あの辺りは逃げ場がないところなので、涼しくなってからでも良いですね。50系のC12って冷房付いていないんですね。
@@Yukkuri-Lab 冷房ないんですね。かって磐越東線の夏。客車の窓を全開にしてトンネル内へ。D60牽引の平発郡山行客レ、クーラーはもとより扇風機すら止まったままの夏の汽車旅でした。窓から入る山の涼風と水田の匂いなど、そうした旅も記憶の中だけに。
夏は休みが多いので、撮影旅行にはいいのですが、陽光が邪魔してろくな写真しか取れないことが多かったと思います。
9600というと、新幹線大爆破を思い出します。
ご視聴頂きありがとうございます。そんな映画があったんですね。あとで探してみてみます。
あれは正確には 私鉄(北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道)のカマだったから 劇中の設定が『夕張線』でも 素人が見ても見た目が『国鉄機』らしくなかったですね。
私の故郷門司には最大3両の右運転台、切り取りテンダーの9600型がいたようです。門司操車場の入れ替えは一足早くDL化されていたためどのような形で行われていたのかは定かではありませんが、駅裏のビール工場と小森江地区の倉庫群の入れ替えはちょうど右手のような配線(親指が本線で他が枝線)だったため、右運転台の方がやりやすかったように思います。ご参考までに・・
ゆのくにゆのかさん、ご視聴頂きありがとうございます。門司にもいたんですね。教えていただきありがとうございます。北九州の9600の写真はかなりあるので一度調べてみようと思います。
真岡鉄道の96は貴重だね、煙を見る度に復活して欲しいって欲望がむくむく湧くよ
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。そうですよね。庫はご愛敬なのですが、かなりいいですよ。8月になるとD51も動き出します。
嬉しいよね〜
都はるみの涙の連絡船の風景 函館駅と函館港。
大坂さん、以前ショートで津軽海峡冬景色を入れて動画作りました。
@@Yukkuri-Lab さん、石川さゆりの大ヒット演歌でしたか。
一度だけ、青函連絡船の寝台に乗船した事が有ります。出港時、遠く下の方から、エンジン音が聞こえて来た。(道内時刻表の最初の頁は、本州連絡案内だった😏)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。あの3時間50分というのは寝台で寝るには短すぎますよね。あのような船舶が国鉄路線に組み込まれていたというのは、今となっては凄いなぁと思います。
青函連絡船は、青函トンネル開通直前の青森で一度だけ眺めたことがあります。乗ってみたかったと思ったことはあるものの、青森でも函館でも魔理沙が言うとおり列車と船の乗り継ぎはいろいろ忙しなかったようで、昭和の最後まで連絡船が残っていたのは今となってはむしろ奇跡的だったとすら思えてきます。真岡の9600がこんな渋い経歴の持ち主で、しかも「目をつぶるとC62の2号機が走ってくるんだよね」と霊夢に言われてしまうと弱いのですが、如何せん青函トンネル開通当時とも比較にならないほどの酷暑が・・・。蒸気機関車全廃でも全く追いつかないほどの地球温暖化が憎いです。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。北海道と聞くと、今でも連絡船が頭に浮かびます。それほどあそこに行くには連絡船乗らないとなぁ、面倒だなぁ。と思うわけで、私の中では隘路になっているんですね。初めて飛行機で釧路に行った時あまりの短時間での到着でたまげました。汽車乗り継いでいく釧路は一体何だったんだ?という具合でした。真岡は内陸ですからかなり熱いです。8月にD51も一緒に走りますので是非見に行ってやってください。1000円出すと運転席に乗せて走ってくれます。
「羊蹄丸だと思うんだけど」のフネは、おそらく貨物船の渡島丸(初代)ですね。客室っぽい構造物が見えない事(洞爺丸型だと遊歩甲板がある=トキのシートの上ぐらいに見えていなくてはいけない)、煙突が船の横幅に対して一番外側にある事(洞爺丸型は少し内に入る)、4本煙突のうち前2本が細く見える事、右後ろ側のファンネルに「O」らしきサインが見える事…から、羊蹄ではなくて渡島だろう、と思われます。その向こうにちらりと見える煙突こそ、大きさや間隔から言って洞爺丸型のものじゃないかと思います。
houraikosince1986さん、ご視聴頂きありがとうございます。連絡船は興味が無かったので(寝るところときめていたんです)、教えていただきありがとうございます。
9600の右側で考えられるのは、連絡線に貨車を押し込む際に控車を長く連結しているその際に地上のスタッフとの連絡を取りやすくするため、右側にしたとも考えられますな
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。皆さんより色々コメントいただいております。それぞれなるほどと思うのですが、結局良く分からない右運転台なのでしょうが、ある一定期間に右にした事実はあるので、是非真の理由を知りたいものです。
電車と青函連絡船を乗り継いで函館まで行ったことを思い出します。乗り継ぎの電車から急いで青函連絡船乗り場に向かったこと、銅鑼の音、ワンカップ大関やイカの燻製などの匂いが漂う雑魚寝の船室、甲板から見たイルカの群れ、海から見る函館山、函館山が見えるころに聞こえた「函館山は臥ている牛に似ていることから臥牛山とも呼ばれます」という船内アナウンスなど、懐かしく思い出します。叔父や叔母が函館駅に迎えに来てくれていたことや、ある時は脚が悪い祖父が青森までわざわざ迎えに来てくれてびっくりしたたことも懐かしい思い出です。
Winniethe Poohさん、ご視聴頂きありがとうございます。カーペット敷もありましたね。私はなんか寝ちゃって盗まれると聞いたことがあって、いつも椅子でした。連絡船は寝るところと決めていたので、動画で偉そうなこと言っていますが、殆ど関心が無かったんです。
見応えのある動画ありがとうございました。コンソリの深い意味を考えながら楽しく拝見しました。
ご視聴頂きありがとうございます。連絡船を入れたのでどうかなぁと思ってました。高いご評価嬉しいです。青森は機関区遠いのですが、駅で見られるし、五稜郭は機関区が駅から線路伝いで近くて良かったです。
青森桟橋は1.2番が旅客と貨物兼用で3番は貨物専用でやっておりました機関士や機関助士の家での休息時間も決められていました青函連絡船から貨車を出す時に動力逆転機の操作を機関士がやれと言われたら機関助士が操作しますさらに石炭がでにくくなると上に登って、石炭のかき寄せもやります連絡船から出した貨車は操車場へ持っていき組成して秋田、盛岡方面に分けます組成中に青函連絡船がくると駅へ行き貨車の入換をおこないますこれを新人がやっておりました旧青森操車場も今残っているのは下りの分解線が青森信号場になってそこで機関車交換や時間調整をおこないます
高橋さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。大宮にもいましたが、動力逆転機後付けの機関車は入換用ですね。余程便利なんでしょう。
テンダーを切り落とした96ということですが、視界確保であればC56のように左右を切り落とした方がさらに良く見えると思うのですが、なぜそうしなかったのでしょうか。86か96かわかりませんが、他所でC56のようにテンダーの左右を切り落としたカマが居た、とどこかに出ていたような気がします。関係ないですが、日本からタイに輸出した機関車の動画は初めてみました。うちにある古い「鉄道ファン」にタイの日本製蒸機の写真が出ていたのを先日たまたま目にしたばかりです。真岡の96もスハフ44と一緒に「羊蹄丸」からレスキューしてきましたから、連絡船に縁のあるカマなのですね。
さいだいちつのすけさん、ご視聴頂きありがとうございます。鹿児島のC50や8620がC56のテンダー付けていました。直近のC50特集で登場してきます。タイの機関車は以前から何度も訪れているので、どうがでもかなりの頻度で登場します。是非ご視聴ください。
あのテンダーは炭庫左右を切除したのち再度復旧させた物です
@@アウストラロピテクス晋三 様、ご教示いただきありがとうございます。
3:31 手前から3番目の貨物列車の2両目にワ12000という小さい有蓋車が連結されています。とても可愛いです❤
京成3050さん、ご視聴頂きありがとうございます。ワ12000というのですね。貨物の編成をしっかり判別され感心するとともに尊敬します。
@@Yukkuri-Labお褒めの言葉ありがとうございます😊
かな~りうろ覚えですが、むかし函館で連絡船への入替用9600が単機でバック運転していて、海に落っこちた事件があった様なだからボイラー側が前側だったとか?
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。あっ、その話どこかで聞いた記憶有ります。
蒸気機関車という雑誌の22号に9600型の右ハンドルは一般にいわれる有川桟橋のためではないとして「五稜郭操車場の組成入換線で9600型は長万部よりを頭にして作業するのですが右カーブが多くて普通の左ハンドルでは不便なんです」と五稜郭機関区の機関士さんの話が掲載されていました。当時の北海道は私には夢の世界で事実はわからないですが運用上機関車の向きが決められていたからなんでしょうね。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。そういうお話の記事があったんですね。運用上の向きですね、五稜郭なら大規模なので決まりごとがあったのでしょうね。
なかなか興味深い回でした。二代目の石狩丸の画像も貴重でした。私が物心がついた時にはすでに津軽丸型で、おかげさまで津軽丸型7隻と改造船石狩丸、檜山丸全てコンプリートできました。かつての北海道鉄道旅行はまさにサバイバルで桟橋ではダッシュが繰り広げられていました。また、どこで睡眠を取るかが課題で普通運賃で手足を伸ばして寝られる深夜便が人気があったように思われます...
exp. m.k.さん、ご視聴頂きありがとうございます。ビジネスでは時間的な効率を考えると、寝ている間や週末に移動するのが最も効率的なので、やはり夜行列車は便利なんですよね。札幌までの新幹線を夜行で6時間ぐらいでゆっくり走らせてみるとビジネス需要があるかも。値段も半額で。
4歳の時に父親の転勤で美唄から東京に向かう時に4本煙突の摩周丸に乗ってから再度、北海道絵の転勤を経て大学受験の時に連絡船を使った時まで何度も津軽海峡を行き来しました。大学に入ってからの帰省には動画にあったスカイメートを使うようになりました。最後まで頑張っていた津軽丸型が好きでした。石狩丸で出てきた貨物専用もスマートでしたね。後に客貨に改造されてスマートさは失われてしまいましたが・・・。テーマの9600の活躍はほとんど目にしたことが無く船のコメントになってしまい申し訳ないです。。。
@keiito2293さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。飛行機が登場し拡大した事は、北海道行きの鉄道の依存度を下げたのは確実で、結局鉄道で行くのは暇人か趣味人もしくはお金が無い人になってしまい、国鉄も相次ぐ値上げで料金的にも面白くなってき始めた頃、青函トンネルが計画されたのは判断が甘かったでしょう。貨物も内航船で良いわけですから。動画でも言いましたが新幹線で北海道に行くのは、普通の事ではないと思います。趣味的には東京から札幌行のサボを見ればワクワクはしますが。
何両もの『控車』を従えて 航送貨車を船に押し込む仕事に 空転に強いキューロクは本領発揮。『右ハンドル仕様』があったのは存じなかったですが まさにそれだけ『うってつけの仕業』だったのでしょうね。(因みに 青森の寝台特急電車は 583系です。581系は50hz地域には入線不可能。)国鉄の大幅値上げがなかったら 鉄道で渡道する乗客もまだ大勢いて 新型客車による『北斗星』も走っていたのでは?と思ってしまいます。飛行機✈は速いけど なんか味気がないなぁ。(つまらない コメントになってしまいました🙇💦)
とりりサービスさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。また、581と583系を間違えてしまいました。関心の度合いが低い証拠ですね。訂正しておきます。
幼い微かな記憶、青森駅で連絡船横で煙を燻らせる9600小学校に入学した頃にはDL化されたので動いてる姿の記憶は有りません…でも食いしん坊の私は、桟橋の食堂で食べたカツ丼は覚えています😅
デカミツさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。そうなんですね。連絡船の蒸機の記憶があるのですね。良かったです。私は、動画でも言っていますが、いつも貧乏旅行で、カメラとフィルムにお金が消えていき、ヒーヒー言いながら撮影してました。ですから各地の名産を食べることが出来るようになったのは、ずっと後年の事でした。
有川桟橋が現役だった頃は五稜郭操から函館本線を立体交差で乗り越える短絡線がありました。それで右運転台になったと写真付きで何かの本に書いていました。今でもそのアプローチ部分の遺構が残っているかは分かりませんが...
ご視聴頂きありがとうございます。やはり短絡線があったのですね。霊夢の言っていたことが正しい様です。
動画のままだと操車場からスイッチバック必要だから短絡線はあるだろうとは思ってましたが、右にするほどだったんですね。
短絡線のアプローチ部分の遺構は今でも残っています。五稜郭駅から札幌方面に向かうときにはっきりと見て取れます。短絡線で本線を超える9600型の写真をどこかで見た気がします。確かに頭が桟橋方向を向いていました。
ゆのくにゆのかさん、五稜郭機関区は駅から線路伝いに歩いて行ってました。
あの辺りかなりごちゃごちゃしていて、記憶ではオーバーパスの右カーブが遠くに見えました。
今のGoogle Mapでは無いんですね。
昭和43年の国土地理院の航空写真で見ました。あそこに間違いないです。でも右運転台が必要な曲線とも思えないんです。
私が昔、九州で撮鉄を始めた当時、全ての機関車はデフ付きでした。96、86までデフがついてました。門デフが最初に付いたのはD60とC55でした。
梅小路の9633はなぜ動かなくなったのですか?
グリーンラインさん、ご視聴ありがとうございます。
北九州筑豊にはデブなし9600, 8620は多かったのですが、たまたま遭遇されなかったのですね。
梅小路は動態にしておくと費用がかかり過ぎて扱えなくなったので、備品扱いにして有火展示やめたのです。D51-1, C55, D50, C11などと一緒にですね。
@@Yukkuri-Lab そうなんですね😅動態保存しているからこそ梅小路は蒸気にとって有名だったのに残念です。動かない蒸気は一般の公園と変わりませんね。現在、現役路線を走っている山口線、磐越西線、秩父鉄道、真岡線は本当に貴重ですね!
そして高崎ですね。
3:30 国鉄の線路脇に設置された境界杭にも「工」の字が入っていたのを思い出した。
ご視聴頂きありがとうございました。そうなんですか。今でも細かく探すと昔のままの設備や標識が見つかるかも知れないんですね。
まったく関係ない話題ですが〜 高原のポニーと書いて、
小海線のC56 と、連想❤👍
出来るユーザーさん居ますか❓💦
7 Tom,s7さん、こちらもご視聴ありがとうございました。
高原のポニーも貴婦人同様マスコミの造語だと思います。
あれを見て、イメージは近いものがありますね。
この盆休みを利用して、現存している青函連絡船の八甲田丸を見に行ってきました(関西から片道ほぼ1000キロ、約18時間はちょっと疲れたw)。
流石に蒸気が活躍していた面影は無かったですが、連絡船と陸を繋ぐ可動橋も一部保存されていて、個人的には良かったです。
まぁ、当時を知らない・・・って言うか、私が生まれる2か月前に青函連絡船が消滅してしまったんで、当時をそもそも知る事は出来なかったんですが・・・
青森駅も、今でもホームから先が伸びていて、入れ替えとかに使ってたんだろうなって妄想を膨らませてましたww
ご視聴頂きありがとうございました。
私も青春18きっぷめ喜多方ラーメンを食べに行きました。昭和44年が最後でしたので、久しぶりです。当時はラーメンは無かったです。
会津若松の駅の風景は当時と変わらないですねぇ。給水設備は無かったですが。
青森駅はホームの階段で座り込んで汽車を待った思い出が多いです。北海道を回ると疲労困憊でした。
連絡船 乗船名簿 懐かしいです
八甲田 十和田 津軽 が青森に使づくと みんな連絡船の良い席に陣取れるよう前方に移動するんですよね
自分は ごろ寝が好きだったので カーペット敷でごろごろしていました
4時ころの便に乗ると 海の上から日の出が見えたんです
どらの音 紙テープ 中には別れを惜しんで涙していた人も
9600 大好きです
自分は滝川機関区の人と仲良しになって 機関区に入り浸っていました
79602が焼失してしまった時には すごくショックでしたが もう50年近く前の話になってしまいました
とし おがさん、ご視聴頂きありがとうございます。
紙テープって禁止されていたのに、みんなやってましたよね。
雑魚寝スペースは盗まれると聞いたので、用心していつも座席でした。
カメラを持っているのは狙われやすいと。
79602は何故か北海道で写真撮っていなんですね。探したのですがなかったです。
熊本時代のはあるんですが。
函館の右運転台はカーブの理由/海側で干満の確認など様々な情報がありますが不明です。49698のライト移設は入換操車係の為と聞いた覚えがありますが定かではありません。五稜郭以外にも岩見沢にもかなりの数の逆転機付右運転台96がいましたが理由がわかりません。他線区に転属したカマはそのまま右運転台だったのでしょうか。多くの?があり詳しい方おりましたらご教示願います。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。
一度右運転台に変えられたものはずっとそのままですね。大宮にもそのままでいました。
49698のオフセット前照灯はその後転属先で普通に戻され、岩見沢でかなり遅くまで残っていたはずです。
小倉工場のイベントで山のようにある段ボール箱に入った図面を販売していたのですが。何故?右運転台の図面が九州にと思ったのですが。よくよく考えてみれば、現在のJR小森江駅近くの連絡船埠頭で96が入替をしている写真を見ました。
ご視聴頂きありがとうございます。
図面は複写ですから問題無いんでしょう。
門司には右運転台の9600が居たそうです。
古い写真で逆転機がどっちにあるかで分かりますから、探してみてください。
動画解説を聞きながら港湾ヤードに深夜響く汽笛を想像しました。9600型が前後に往復しながら通年働く姿、夏は暑く冬は風雪が相当に厳しそう。真岡鐵道に見に行きたいですが、相変わらず土日休日シフトで、もはや年休を取るしかない。
HMS HOODさん、ご視聴頂きありがとうございます。
真岡の栃木はすごく暑いですから、今日なんか41度です。あの辺りは逃げ場がないところなので、涼しくなってからでも良いですね。50系のC12って冷房付いていないんですね。
@@Yukkuri-Lab
冷房ないんですね。かって磐越東線の夏。客車の窓を全開にしてトンネル内へ。D60牽引の平発郡山行客レ、クーラーはもとより扇風機すら止まったままの夏の汽車旅でした。窓から入る山の涼風と水田の匂いなど、そうした旅も記憶の中だけに。
夏は休みが多いので、撮影旅行にはいいのですが、陽光が邪魔してろくな写真しか取れないことが多かったと思います。
9600というと、新幹線大爆破を思い出します。
ご視聴頂きありがとうございます。そんな映画があったんですね。あとで探してみてみます。
あれは正確には 私鉄(北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道)のカマだったから 劇中の設定が『夕張線』でも 素人が見ても見た目が『国鉄機』らしくなかったですね。
私の故郷門司には最大3両の右運転台、切り取りテンダーの9600型がいたようです。門司操車場の入れ替えは一足早くDL化されていたためどのような形で行われていたのかは定かではありませんが、駅裏のビール工場と小森江地区の倉庫群の入れ替えはちょうど右手のような配線(親指が本線で他が枝線)だったため、右運転台の方がやりやすかったように思います。ご参考までに・・
ゆのくにゆのかさん、ご視聴頂きありがとうございます。
門司にもいたんですね。教えていただきありがとうございます。北九州の9600の写真はかなりあるので一度調べてみようと思います。
真岡鉄道の96は貴重だね、煙を見る度に復活して欲しいって欲望がむくむく湧くよ
0721さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
そうですよね。庫はご愛敬なのですが、かなりいいですよ。8月になるとD51も動き出します。
嬉しいよね〜
都はるみの涙の連絡船の風景 函館駅と函館港。
大坂さん、以前ショートで津軽海峡冬景色を入れて動画作りました。
@@Yukkuri-Lab さん、石川さゆりの大ヒット演歌でしたか。
一度だけ、青函連絡船の寝台に乗船した事が有ります。
出港時、遠く下の方から、エンジン音が聞こえて来た。
(道内時刻表の最初の頁は、本州連絡案内だった😏)
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
あの3時間50分というのは寝台で寝るには短すぎますよね。
あのような船舶が国鉄路線に組み込まれていたというのは、今となっては凄いなぁと思います。
青函連絡船は、青函トンネル開通直前の青森で一度だけ眺めたことがあります。
乗ってみたかったと思ったことはあるものの、青森でも函館でも魔理沙が言うとおり列車と船の乗り継ぎはいろいろ忙しなかったようで、昭和の最後まで連絡船が残っていたのは今となってはむしろ奇跡的だったとすら思えてきます。
真岡の9600がこんな渋い経歴の持ち主で、しかも「目をつぶるとC62の2号機が走ってくるんだよね」と霊夢に言われてしまうと弱いのですが、如何せん青函トンネル開通当時とも比較にならないほどの酷暑が・・・。蒸気機関車全廃でも全く追いつかないほどの地球温暖化が憎いです。
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
北海道と聞くと、今でも連絡船が頭に浮かびます。それほどあそこに行くには連絡船乗らないとなぁ、面倒だなぁ。と思うわけで、私の中では隘路になっているんですね。
初めて飛行機で釧路に行った時あまりの短時間での到着でたまげました。汽車乗り継いでいく釧路は一体何だったんだ?という具合でした。
真岡は内陸ですからかなり熱いです。8月にD51も一緒に走りますので是非見に行ってやってください。1000円出すと運転席に乗せて走ってくれます。
「羊蹄丸だと思うんだけど」のフネは、おそらく貨物船の渡島丸(初代)ですね。客室っぽい構造物が見えない事(洞爺丸型だと遊歩甲板がある=トキのシートの上ぐらいに見えていなくてはいけない)、煙突が船の横幅に対して一番外側にある事(洞爺丸型は少し内に入る)、4本煙突のうち前2本が細く見える事、右後ろ側のファンネルに「O」らしきサインが見える事…から、羊蹄ではなくて渡島だろう、と思われます。
その向こうにちらりと見える煙突こそ、大きさや間隔から言って洞爺丸型のものじゃないかと思います。
houraikosince1986さん、ご視聴頂きありがとうございます。
連絡船は興味が無かったので(寝るところときめていたんです)、教えていただきありがとうございます。
9600の右側で考えられるのは、連絡線に貨車を押し込む際に控車を長く連結している
その際に地上のスタッフとの連絡を取りやすくするため、右側にしたとも考えられますな
電光刑事さん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
皆さんより色々コメントいただいております。それぞれなるほどと思うのですが、
結局良く分からない右運転台なのでしょうが、ある一定期間に右にした事実はあるので、是非真の理由を知りたいものです。
電車と青函連絡船を乗り継いで函館まで行ったことを思い出します。乗り継ぎの電車から急いで青函連絡船乗り場に向かったこと、銅鑼の音、ワンカップ大関やイカの燻製などの匂いが漂う雑魚寝の船室、甲板から見たイルカの群れ、海から見る函館山、函館山が見えるころに聞こえた「函館山は臥ている牛に似ていることから臥牛山とも呼ばれます」という船内アナウンスなど、懐かしく思い出します。叔父や叔母が函館駅に迎えに来てくれていたことや、ある時は脚が悪い祖父が青森までわざわざ迎えに来てくれてびっくりしたたことも懐かしい思い出です。
Winniethe Poohさん、ご視聴頂きありがとうございます。
カーペット敷もありましたね。私はなんか寝ちゃって盗まれると聞いたことがあって、いつも椅子でした。連絡船は寝るところと決めていたので、動画で偉そうなこと言っていますが、殆ど関心が無かったんです。
見応えのある動画ありがとうございました。コンソリの深い意味を考えながら楽しく拝見しました。
ご視聴頂きありがとうございます。連絡船を入れたのでどうかなぁと思ってました。高いご評価嬉しいです。青森は機関区遠いのですが、駅で見られるし、五稜郭は機関区が駅から線路伝いで近くて良かったです。
青森桟橋は1.2番が旅客と貨物兼用で
3番は貨物専用
でやっておりました
機関士や機関助士の家での
休息時間も決められていました
青函連絡船から
貨車を出す時に
動力逆転機の操作を機関士が
やれと言われたら
機関助士が操作します
さらに石炭がでにくくなると
上に登って、石炭のかき寄せも
やります
連絡船から出した貨車は操車場へ持っていき
組成して秋田、盛岡方面に分けます
組成中に青函連絡船がくると
駅へ行き貨車の入換をおこないます
これを新人が
やっておりました
旧青森操車場も
今残っているのは
下りの分解線が
青森信号場に
なってそこで機関車交換や時間調整をおこないます
高橋さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
大宮にもいましたが、動力逆転機後付けの機関車は入換用ですね。余程便利なんでしょう。
テンダーを切り落とした96ということですが、視界確保であればC56のように左右を切り落とした方がさらに良く見えると思うのですが、なぜそうしなかったのでしょうか。86か96かわかりませんが、他所でC56のようにテンダーの左右を切り落としたカマが居た、とどこかに出ていたような気がします。関係ないですが、日本からタイに輸出した機関車の動画は初めてみました。うちにある古い「鉄道ファン」にタイの日本製蒸機の写真が出ていたのを先日たまたま目にしたばかりです。真岡の96もスハフ44と一緒に「羊蹄丸」からレスキューしてきましたから、連絡船に縁のあるカマなのですね。
さいだいちつのすけさん、ご視聴頂きありがとうございます。
鹿児島のC50や8620がC56のテンダー付けていました。直近のC50特集で登場してきます。
タイの機関車は以前から何度も訪れているので、どうがでもかなりの頻度で登場します。是非ご視聴ください。
あのテンダーは炭庫左右を切除したのち再度復旧させた物です
@@アウストラロピテクス晋三 様、ご教示いただきありがとうございます。
3:31 手前から3番目の貨物列車の2両目にワ12000という小さい有蓋車が連結されています。とても可愛いです❤
京成3050さん、ご視聴頂きありがとうございます。
ワ12000というのですね。貨物の編成をしっかり判別され感心するとともに尊敬します。
@@Yukkuri-Labお褒めの言葉ありがとうございます😊
かな~りうろ覚えですが、むかし函館で連絡船への入替用9600が単機でバック運転していて、海に落っこちた事件があった様な
だからボイラー側が前側だったとか?
Homare Jumo213さん、ご視聴頂きありがとうございます。
あっ、その話どこかで聞いた記憶有ります。
蒸気機関車という雑誌の22号に9600型の右ハンドルは一般にいわれる有川桟橋のためではないとして「五稜郭操車場の組成入換線で9600型は長万部よりを頭にして作業するのですが右カーブが多くて普通の左ハンドルでは不便なんです」と五稜郭機関区の機関士さんの話が掲載されていました。当時の北海道は私には夢の世界で事実はわからないですが運用上機関車の向きが決められていたからなんでしょうね。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。
そういうお話の記事があったんですね。運用上の向きですね、五稜郭なら大規模なので決まりごとがあったのでしょうね。
なかなか興味深い回でした。二代目の石狩丸の画像も貴重でした。私が物心がついた時にはすでに津軽丸型で、おかげさまで津軽丸型7隻と改造船石狩丸、檜山丸全てコンプリートできました。かつての北海道鉄道旅行はまさにサバイバルで桟橋ではダッシュが繰り広げられていました。また、どこで睡眠を取るかが課題で普通運賃で手足を伸ばして寝られる深夜便が人気があったように思われます...
exp. m.k.さん、ご視聴頂きありがとうございます。
ビジネスでは時間的な効率を考えると、寝ている間や週末に移動するのが最も効率的なので、やはり夜行列車は便利なんですよね。札幌までの新幹線を夜行で6時間ぐらいでゆっくり走らせてみるとビジネス需要があるかも。値段も半額で。
4歳の時に父親の転勤で美唄から東京に向かう時に4本煙突の摩周丸に乗ってから再度、北海道絵の転勤を経て
大学受験の時に連絡船を使った時まで何度も津軽海峡を行き来しました。
大学に入ってからの帰省には動画にあったスカイメートを使うようになりました。
最後まで頑張っていた津軽丸型が好きでした。石狩丸で出てきた貨物専用もスマートでしたね。
後に客貨に改造されてスマートさは失われてしまいましたが・・・。
テーマの9600の活躍はほとんど目にしたことが無く船のコメントになってしまい申し訳ないです。。。
@keiito2293さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
飛行機が登場し拡大した事は、北海道行きの鉄道の依存度を下げたのは確実で、結局鉄道で行くのは暇人か趣味人もしくはお金が無い人になってしまい、国鉄も相次ぐ値上げで料金的にも面白くなってき始めた頃、青函トンネルが計画されたのは判断が甘かったでしょう。貨物も内航船で良いわけですから。動画でも言いましたが新幹線で北海道に行くのは、普通の事ではないと思います。趣味的には東京から札幌行のサボを見ればワクワクはしますが。
何両もの『控車』を従えて 航送貨車を船に押し込む仕事に 空転に強いキューロクは本領発揮。
『右ハンドル仕様』があったのは存じなかったですが まさにそれだけ『うってつけの仕業』だったのでしょうね。
(因みに 青森の寝台特急電車は 583系です。581系は50hz地域には入線不可能。)
国鉄の大幅値上げがなかったら 鉄道で渡道する乗客もまだ大勢いて 新型客車による『北斗星』も走っていたのでは?と思ってしまいます。
飛行機✈は速いけど なんか味気がないなぁ。(つまらない コメントになってしまいました🙇💦)
とりりサービスさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。また、581と583系を間違えてしまいました。関心の度合いが低い証拠ですね。訂正しておきます。
幼い微かな記憶、青森駅で連絡船横で煙を燻らせる9600
小学校に入学した頃にはDL化されたので動いてる姿の記憶は有りません…
でも食いしん坊の私は、桟橋の食堂で食べたカツ丼は覚えています😅
デカミツさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
そうなんですね。連絡船の蒸機の記憶があるのですね。良かったです。
私は、動画でも言っていますが、いつも貧乏旅行で、カメラとフィルムにお金が消えていき、ヒーヒー言いながら撮影してました。ですから各地の名産を食べることが出来るようになったのは、ずっと後年の事でした。