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三河大浜。現在の愛知県碧南市デス。家康も、三河大浜の地に着いたときはさぞ安心したでしょうね。
この地図中心の動画はとてもわかりやすいです。いろいろお願いします!
交野市では家康が地元の豪族の案内で交野市内を通って京田辺を抜け、草内に到達したという伝承が有る。
加太は「かぶと」と読み、白子は「しろこ」と読む。加太はとんでもない山奥。人家はほとんどない。地元亀山市内、あるいは三重県内の人でもほとんど誰も行かないようなところ。亀山市の西の関町(ここも過疎だがまだ人家はある)のさらに西にある山深い過疎地。家康の伊賀越えが鈴鹿山脈のこの難所を歩いたり走ったりして超えて行ったとすると、それはもうとんでもなく大変なこと。逃走コースは堺からほぼ最短距離で伊勢湾へ抜ける道を行っており、よほど大急ぎで走り抜けたかったように見える。伊賀から伊勢湾側に抜けるのなら、普通は桜峠から柘植へは向かわずに南下して伊賀上野を通り、そこから東へ向かい大山田村を目指して長野峠を越えて津の海に出るか、あるいは、伊賀上野をさらに南下して青山町から久居に向かい、久居を通って津の海に出るというコースが一般的。その方が距離はあるが歩いたり、走ったりするには実際的で楽なコースのはず。加太越えなどとんでもない。よほど大急ぎで抜けたかったのであろう。また、伊賀上野の人家の多い街中をわざと避けたのかもしれない。当時の伊賀の人々に残る信長による伊賀攻め(天正伊賀の乱)の怨恨を警戒したのだろうか。あの時代で考えられないような柘植から加太、関、白子への難所コースを選んだ家康一行。まさに大慌てでなりふり構わず命からがらの逃走劇だったように思う。そう考えると、本能寺の変の家康黒幕説などとてもあり得ない。
秀吉の大返しが計算外だったので、この程度ではアリバイ作りとしては裏切りミカワ人の企み説は否定されない。まして源氏詐称で証明されるように記録改ざんはミカワ人のお家芸だから、アリバイを作った可能性は高い。そもそも伊賀越えのルートが複数記述記録があるのが怪しく、甲斐への進軍変更が素早過ぎるのが陰謀説の傍証ではないか?
秀吉の「中国大返し」も迅速だったが、「神君伊賀越え」も早業だ。秀吉は大軍に囲まれての行軍だが、家康は裸同然。運がいい人は最後まで運がいい。
面白い企画でした。6/2夜はかなり明智軍の近くにいたんですね。
7:58 「しらこ」じゃなくて「しろこ」のはずなのですがそれは……。
“しろこ”ですね
そもそもAIボイスですから、😅
1日目の足が早過ぎるようにも見えました。
お松とお亀は名前からして元服前の少年かな?
長谷川秀一って小牧長久手の戦いで秀次と一緒に行動してた人だよね、伊賀越えに協力した相手と戦ってたのか。
あれ?天正壬午あたりで駿河接収してたと記憶してた…この当時は三河と遠江と駿河の一部だったと思ってたやその後の駿河接収や甲斐進軍の時系列詳しい方おしえてくだちい😅
甲賀忍者が主流で、伊賀忍者の支援なかったとは。危険いっぱいの山越え。じっしりと伝わります。
白子をいま・・・三重地元民は「しらこ」とは云わない。「しろこ」という。
でもしらこ海苔って有名やし〜
車でもきつい工程
この危険な伊賀越は本当にあったとはかんがえにくい。後からの美談じゃないでしょうか。どう考えても逃げるなら堺か大阪から船で紀伊半島周りで逃げればいいんじゃないでしょうか。京都から堺への移動も船です。だいたい権力者は自分たちの美談をつくることしか考えてないので怪しい。
九鬼水軍がいますが 敵か味方かどちらでしょう
熊野水軍がいて、反織田だから無理っぽい。陸路だと熊野古道は使えそうだけど、紀州征伐で伊賀と事情は同じ。
🐦⬛矢田カラスは道案内役
三河大浜。現在の愛知県碧南市デス。
家康も、三河大浜の地に着いたときはさぞ安心したでしょうね。
この地図中心の動画はとてもわかりやすいです。いろいろお願いします!
交野市では家康が地元の豪族の案内で交野市内を通って京田辺を抜け、
草内に到達したという伝承が有る。
加太は「かぶと」と読み、白子は「しろこ」と読む。加太はとんでもない山奥。人家はほとんどない。地元亀山市内、あるいは三重県内の人でもほとんど誰も行かないようなところ。亀山市の西の関町(ここも過疎だがまだ人家はある)のさらに西にある山深い過疎地。家康の伊賀越えが鈴鹿山脈のこの難所を歩いたり走ったりして超えて行ったとすると、それはもうとんでもなく大変なこと。逃走コースは堺からほぼ最短距離で伊勢湾へ抜ける道を行っており、よほど大急ぎで走り抜けたかったように見える。伊賀から伊勢湾側に抜けるのなら、普通は桜峠から柘植へは向かわずに南下して伊賀上野を通り、そこから東へ向かい大山田村を目指して長野峠を越えて津の海に出るか、あるいは、伊賀上野をさらに南下して青山町から久居に向かい、久居を通って津の海に出るというコースが一般的。その方が距離はあるが歩いたり、走ったりするには実際的で楽なコースのはず。加太越えなどとんでもない。よほど大急ぎで抜けたかったのであろう。また、伊賀上野の人家の多い街中をわざと避けたのかもしれない。当時の伊賀の人々に残る信長による伊賀攻め(天正伊賀の乱)の怨恨を警戒したのだろうか。あの時代で考えられないような柘植から加太、関、白子への難所コースを選んだ家康一行。まさに大慌てでなりふり構わず命からがらの逃走劇だったように思う。そう考えると、本能寺の変の家康黒幕説などとてもあり得ない。
秀吉の大返しが計算外だったので、この程度ではアリバイ作りとしては裏切りミカワ人の企み説は否定されない。まして源氏詐称で証明されるように記録改ざんはミカワ人のお家芸だから、アリバイを作った可能性は高い。そもそも伊賀越えのルートが複数記述記録があるのが怪しく、甲斐への進軍変更が素早過ぎるのが陰謀説の傍証ではないか?
秀吉の「中国大返し」も迅速だったが、「神君伊賀越え」も早業だ。秀吉は大軍に囲まれての行軍だが、家康は裸同然。運がいい人は最後まで運がいい。
面白い企画でした。
6/2夜はかなり明智軍の近くにいたんですね。
7:58 「しらこ」じゃなくて「しろこ」のはずなのですがそれは……。
“しろこ”ですね
そもそもAIボイスですから、😅
1日目の足が早過ぎるようにも見えました。
お松とお亀は名前からして元服前の少年かな?
長谷川秀一って小牧長久手の戦いで秀次と一緒に行動してた人だよね、伊賀越えに協力した相手と戦ってたのか。
あれ?天正壬午あたりで駿河接収してたと記憶してた…
この当時は三河と遠江と駿河の一部だったと思ってたや
その後の駿河接収や甲斐進軍の時系列詳しい方おしえてくだちい😅
甲賀忍者が主流で、伊賀忍者の支援なかったとは。危険いっぱいの山越え。じっしりと伝わります。
白子をいま・・・三重地元民は「しらこ」とは云わない。「しろこ」という。
でもしらこ海苔って有名やし〜
車でもきつい工程
この危険な伊賀越は本当にあったとはかんがえにくい。後からの美談じゃないでしょうか。どう考えても逃げるなら堺か大阪から船で紀伊半島周りで逃げればいいんじゃないでしょうか。京都から堺への移動も船です。だいたい権力者は自分たちの美談をつくることしか考えてないので怪しい。
九鬼水軍がいますが 敵か味方かどちらでしょう
熊野水軍がいて、反織田だから無理っぽい。
陸路だと熊野古道は使えそうだけど、紀州征伐で伊賀と事情は同じ。
🐦⬛矢田カラスは道案内役