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毛利と真田がドイツ機甲師団みたいな挙動してて凄い。圧倒的突破力。電撃戦だ。
絶妙なタイミングでのアップ!!エモすぎです。とても見やすくて分かりやすい。感謝❤
いつも見やすくカッコいい動画有難う御座います。
毛利勝永は武将としての戦術指揮能力がこれを見るだけで突出している事が分かる。宣教師が感嘆したのも当然。その意味で後詰め不在で突出した挙げ句撤収せず玉砕した後藤基次の評価は高過ぎる。
道明寺・誉田合戦………本当に"近場(藤井寺在住です)"じゃないですか………(自宅あたりも映ってました…)。自分の住んでる辺で、かつてそれだけの武将らが集い戦をしていたんだな………と、改めて歴史を感じましたね……。
家康の孫の忠直の抜け駆けで戦が始まったと聞いてます…🤔🤔🤔🤔🤔
大坂方が勝てるとしたらもう数千の兵力か秀頼の出陣で勝てたシーンもあったんですよねーー。秀忠の首は打てずとも将軍旗(所謂牙旗)は取れたろうし、八尾若江の消耗が痛過ぎましたよね。あれで盛親がやる気無くしたのが。
毛利勝永、真田信繁が徳川家康本陣になだれ込んでる時に大野治長隊の後詰め1万でも突撃してればなぁ〜。
毛利勝永主人公で大河ドラマして欲しい
子供だった頃は、家康は豊臣に無茶な事を言って断ったら攻めいる口実を作って何と狡猾なやり口と思っていたけど、秀吉がそもそも徳川に無茶な事を言い続けていたんだと分かったら、徳川の方がまともに見えてきた。
とても見やすいです。これを見ると豊臣の後詰って何の意味があったのでしょうか?援軍も出さないし、城まで逃げているし、一部の人間しか戦っていないことが良くわかります。
特に戦いたくもなかったと思われる
柳生宗矩(十兵衛三厳の父)は夏の陣で秀忠本陣に従軍していて、岡山口での戦いで豊臣方の兵7人を瞬く間に斬り伏せたって話が残っているとか。
大野治長は何してた?
後方にいました。基本彼は常に後詰めです。 秀頼から「いつ出陣すればいい?」と呼び出しを食らったので大阪城に戻ると、見方が退却と勘違いして前戦崩壊しています。
どう考えても、毛利勝永の強さが異常すぎる
反包囲の危うき場面でも退却に成功し、最後は主君の介錯まで行ってる。どう考えても、信繁の前進する活路を構築した真の豪傑でしょう。
大坂逆の陣
政治的、絶対戦力では完全に劣勢なのに戦闘では善戦している豊臣方。徳川軍の陣がドミノ倒し状態になってるときに予備兵力を投入できてたら。
この大阪の陣の豊臣陣営のほとんどは、なぜ関ヶ原に参戦しなかったのかが分かりません😥
現代風に言えば関ヶ原:同じ企業内の派閥争い(先代没時に名指しで指名された元No2vs先代現役時代の執行役員会)大阪の陣:正社員vs元社長の実子を旗印として「リストラされた元社員と関ヶ原負け組」の連合なんですよ。大阪の陣の「豊臣陣営」の半分は関ヶ原の時も大阪方だったし、残りの半分は当時こそ徳川方だったが何かしらワケありでクビになって再就職も出来なければ武士以外の職業で生計を立てられなかった人たち。本当に豊臣家の命令とあらば我が命を投げ出す気概のあった武士など居ない。居たとしてもそれこそ毛利勝永ぐらいのものでしょう。
@sawaikatyou そうなんですね,,,,ありがとうございます。ただ、西軍が負ければ、次は大阪を狙われる事を知っていたであろう豊臣方がなぜあまり参加しなかったのかが不明なんです,,,
例えば、豊臣家臣の大野も参加していないですし、浪人ですが後藤又兵衛などもいない。小早川に豊臣から直に西軍に付くようお触れを出すなど色々まだできる事があったはずなのに,,,,関ヶ原のどの映画やドラマを観ても、秀吉の遺言や豊臣を直々に守る為に石田は挙兵したはずなのに、簡単に言うと豊臣家は上の空というかなんと言うか,,,,。そう見えてしまう,,,,。
@@fps2426関ヶ原の戦いの時は家康は豊臣の家臣という名目で参戦しており、豊臣家に忠誠がある武将でも石田三成が嫌いな者は加藤清正や福島正則のように家康につくか、中立を保つたからです。また秀吉亡き後、五大老で秀頼の守役だった前田利家が関ヶ原の戦いの前年に死去した影響も大きいです。豊臣家は秀頼亡き後、石田三成派と加藤清正、福島正則派に分かれますが、彼らを纏めていたのは前田利家だったからです。結果、豊臣家にはトップがいない企業の状態となり、石高が最大な家康が加藤清正達を取り込んでそれに異を唱えて挙兵した石田三成を豊臣家を守るという名目で討ったというのが関ヶ原の戦いです。しかし家康は中立を保ったものも改易するなど厳しい態度をとり、行き場を失った浪人が最後に大坂城に集まったのが本当です。関ヶ原の戦いの時は家康がまさか豊臣家を滅ぼすとは思っていなかったあたりが認識が甘かったと言えます。
@@柳田眞一 確かに前田利家の死去は痛手でしたね,,,はやり、認識の甘さですよね。
関ケ原のあと豊臣は直轄地制圧すら滞るのだから、後藤又兵衛や立花宗茂とか早めに牢人衆を雇っておけばよかったと思う。 急場でここまでやれたのなら統制がもっと取れていれば……。どの藩も牢人は召し抱えていたし、家康が将軍になる前なら文句も言いようがないだろう。 まあ淀に天下布武の野心などなかったとは思うが、方広寺問題から急に軍備増強しても遅すぎたと思う。
立花宗茂は早い段階から本多忠勝から養護受けて取り込まれてましたから結局忠勝の推挙で家康から召し出されて大名復帰してるし
そんなたらればを言うのなら、もっと早く関ヶ原の時に積極的に介入しろよと思うわ
私は家康は夏の陣でお亡くなりになられていると思っています😊この話も信長の最後もすべて歴史の闇の中ですね😅わからない方が良いのかもしれません😊
賤ヶ岳の七本槍の1人加藤嘉明や豊臣秀吉子飼の黒田長政が何故か徳川家康方の軍勢として参戦😅‼️細川忠興は時勢によってコロコロ主君を変える人だったからこの時は徳川家康方の軍勢として参戦していても納得だけど😅‼️
毛利と真田がドイツ機甲師団みたいな挙動してて凄い。圧倒的突破力。電撃戦だ。
絶妙なタイミングでのアップ!!エモすぎです。とても見やすくて分かりやすい。感謝❤
いつも見やすくカッコいい動画有難う御座います。
毛利勝永は武将としての戦術指揮能力がこれを見るだけで突出している事が分かる。宣教師が感嘆したのも当然。その意味で後詰め不在で突出した挙げ句撤収せず玉砕した後藤基次の評価は高過ぎる。
道明寺・誉田合戦………本当に"近場(藤井寺在住です)"じゃないですか………(自宅あたりも映ってました…)。自分の住んでる辺で、かつてそれだけの武将らが集い戦をしていたんだな………と、改めて歴史を感じましたね……。
家康の孫の忠直の抜け駆けで戦が始まったと聞いてます…🤔🤔🤔🤔🤔
大坂方が勝てるとしたらもう数千の兵力か秀頼の出陣で勝てたシーンもあったんですよねーー。秀忠の首は打てずとも将軍旗(所謂牙旗)は取れたろうし、八尾若江の消耗が痛過ぎましたよね。あれで盛親がやる気無くしたのが。
毛利勝永、真田信繁が徳川家康本陣になだれ込んでる時に大野治長隊の後詰め1万でも突撃してればなぁ〜。
毛利勝永主人公で大河ドラマして欲しい
子供だった頃は、家康は豊臣に無茶な事を言って断ったら攻めいる口実を作って何と狡猾なやり口と思っていたけど、秀吉がそもそも徳川に無茶な事を言い続けていたんだと分かったら、徳川の方がまともに見えてきた。
とても見やすいです。
これを見ると豊臣の後詰って何の意味があったのでしょうか?
援軍も出さないし、城まで逃げているし、一部の人間しか戦っていないことが良くわかります。
特に戦いたくもなかったと思われる
柳生宗矩(十兵衛三厳の父)は夏の陣で秀忠本陣に従軍していて、岡山口での戦いで豊臣方の兵7人を瞬く間に斬り伏せたって話が残っているとか。
大野治長は何してた?
後方にいました。基本彼は常に後詰めです。
秀頼から「いつ出陣すればいい?」と呼び出しを食らったので大阪城に戻ると、見方が退却と勘違いして前戦崩壊しています。
どう考えても、毛利勝永の強さが異常すぎる
反包囲の危うき場面でも退却に成功し、最後は主君の介錯まで行ってる。
どう考えても、信繁の前進する活路を構築した
真の豪傑でしょう。
大坂逆の陣
政治的、絶対戦力では完全に劣勢なのに戦闘では善戦している豊臣方。
徳川軍の陣がドミノ倒し状態になってるときに予備兵力を投入できてたら。
この大阪の陣の豊臣陣営のほとんどは、なぜ関ヶ原に参戦しなかったのかが分かりません😥
現代風に言えば
関ヶ原:同じ企業内の派閥争い(先代没時に名指しで指名された元No2vs先代現役時代の執行役員会)
大阪の陣:正社員vs元社長の実子を旗印として「リストラされた元社員と関ヶ原負け組」の連合
なんですよ。
大阪の陣の「豊臣陣営」の半分は関ヶ原の時も大阪方だったし、残りの半分は当時こそ徳川方だったが何かしらワケありでクビになって再就職も出来なければ武士以外の職業で生計を立てられなかった人たち。
本当に豊臣家の命令とあらば我が命を投げ出す気概のあった武士など居ない。居たとしてもそれこそ毛利勝永ぐらいのものでしょう。
@sawaikatyou
そうなんですね,,,,
ありがとうございます。ただ、西軍が
負ければ、次は大阪を狙われる事を
知っていたであろう豊臣方がなぜあまり
参加しなかったのかが不明なんです,,,
例えば、豊臣家臣の大野も参加して
いないですし、浪人ですが後藤又兵衛
などもいない。小早川に豊臣から直に
西軍に付くようお触れを出すなど色々
まだできる事があったはずなのに,,,,
関ヶ原のどの映画やドラマを観ても、
秀吉の遺言や豊臣を直々に守る為に
石田は挙兵したはずなのに、簡単に
言うと豊臣家は上の空というかなんと
言うか,,,,。そう見えてしまう,,,,。
@@fps2426
関ヶ原の戦いの時は家康は豊臣の家臣という名目で参戦しており、豊臣家に忠誠がある武将でも石田三成が嫌いな者は加藤清正や福島正則のように家康につくか、中立を保つたからです。
また秀吉亡き後、五大老で秀頼の守役だった前田利家が関ヶ原の戦いの前年に死去した影響も大きいです。
豊臣家は秀頼亡き後、石田三成派と加藤清正、福島正則派に分かれますが、彼らを纏めていたのは前田利家だったからです。
結果、豊臣家にはトップがいない企業の状態となり、石高が最大な家康が加藤清正達を取り込んでそれに異を唱えて挙兵した石田三成を豊臣家を守るという名目で討ったというのが関ヶ原の戦いです。
しかし家康は中立を保ったものも改易するなど厳しい態度をとり、行き場を失った浪人が最後に大坂城に集まったのが本当です。
関ヶ原の戦いの時は家康がまさか豊臣家を滅ぼすとは思っていなかったあたりが認識が甘かったと言えます。
@@柳田眞一
確かに前田利家の死去は痛手でしたね,,,
はやり、認識の甘さですよね。
関ケ原のあと豊臣は直轄地制圧すら滞るのだから、後藤又兵衛や立花宗茂とか早めに牢人衆を雇っておけばよかったと思う。
急場でここまでやれたのなら統制がもっと取れていれば……。
どの藩も牢人は召し抱えていたし、家康が将軍になる前なら文句も言いようがないだろう。
まあ淀に天下布武の野心などなかったとは思うが、方広寺問題から急に軍備増強しても遅すぎたと思う。
立花宗茂は早い段階から本多忠勝から養護受けて取り込まれてましたから
結局忠勝の推挙で家康から召し出されて大名復帰してるし
そんなたらればを言うのなら、もっと早く関ヶ原の時に積極的に介入しろよと思うわ
私は家康は夏の陣でお亡くなりになられていると思っています😊この話も信長の最後もすべて歴史の闇の中ですね😅わからない方が良いのかもしれません😊
賤ヶ岳の七本槍の1人加藤嘉明や豊臣秀吉子飼の黒田長政が何故か徳川家康方の軍勢として参戦😅‼️細川忠興は時勢によってコロコロ主君を変える人だったからこの時は徳川家康方の軍勢として参戦していても納得だけど😅‼️