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何度も拝聴させていただいて、論理的とはいいかねる独りよがりの納得ですが、年齢、性別、置かれている社会的な立ち位置、そんな物を超えて、ある意味価値観を共有したものの繋がりみたいなお話に聞こえました。私の馬鹿の壁は厚いので、拙い理解力は、本当は自分から外に出すのは羞恥以外の何物でもないのですが、持っている言葉しか闘う物を持ちません。自分では限られていても、先生の知性で切り開けるものが沢山有るし、memberの皆さんの個性的尚且つ知的なコメントにも頼もしさを抱いている、これは希望です。❤❤
👏👏👏👏👏私は同じものを食べて、同じように生きてる人と自分が本当に同じ素材で出来てるのか不安になることがあります。道ゆく人も特に私よりも何か優れた生活、運動しているのではないような。そう考えると私の祖先はカエルか、豚だったんじゃないかと。だから能力が違うんじゃないかと。LGBTQにおいても同じで、こだわりを外したら誰でも好きになれるし、愛せるのではないかと。それは意識よりもっと手前お話ですけども。素晴らしいお話でした。ありがとうございました。
電光のごとく理解できました。意識は一つしかないという意味です。間違っていたらまた教えてください。その理解であれば完全に同意します。宇宙の中で自分の意識というのは自分だけしかないということですね。私は宇宙全体の意識というのも否定はできないです。私達が意識を持っているのは、宇宙の創造の創造の初めに何かがあったと考えるのが妥当と思います。 ID論と進化論を一つにした考えも良いかと思います。一つの目的と多様性の関係はとっても面白いです。数式は私はもうおぼえられなくて苦労しましたが、そこに数学の面白さも見えてきます。 創造の最終目的とその過程の無限大の多様性があるのは何らかの意識と言うものがあると考えられます。これは現実が一つの世界でないと理論的ではないと思います。おそらく多世界解釈は人間の脳の幻想の世界をのことを語っていると考えます。一つの世界の中で生きる一人一人違う存在ですから仕方がないと思います。
このビデオ使わせていただきます。有難うございます。仰っている意識は一つと言うのがまだ理解できてません。頑張ります。
追加コメントを書きました。また書きます。何度もすみません。一度に全部閃けば良いのですが、そうはいかない様です。自分の閃きは日常生活の中で得られるもので、環境を通じて得られています。祈りとか瞑想とかそのようなもので得たものではありません。だから環境から来る感覚的なものだと思われます。ですから自分が正しいとか間違ってるかとか言う問題ではなくて、自分が日常の生活でやっていることなので、別に人の評価がどうのこうのではないんです。宗教人は祈りと瞑想で得た物なので傲慢になるのです。感覚で得た物ではないんです。この日常の感覚からくるものが大切だと思います。知識による閃きは傲慢になります。絶対に自分が正しいと思ってしまいます。追加 大学で多くの知識を学んできたら、あるいはいろいろな本を読みます。これらはすでにあるもので、すでにあるものから創発すると言うのは言葉の概念を越えることが出来ないこと、すなわち感覚に入れないという問題があると思われます。いろいろな文献を人々は読んで、それをもとに自分が考えて文献を書きます。すると、文献の域を超えられないのではないかと思うのですね。知識による創発では知識の内側に治まると思います。でも、ここで私がコメントしましたのは自分の感覚からくる創発というのは知識をこえて、アルゴ二ズムを越えて、文献を越えて新しいものを生み出すことが可能かなと自分なりに考えています。 私は本を一冊読みきったことがない、文献も読みきることが出来ない、変な人間なのですが、これが自分の感覚で生きる様になったのか、感覚で生きてきたので読めなくなったのか知りませんが、環境のなかで生活で得られる感覚からくる閃きは自分が日常において実践しているので、人から何を言われても問題ないものですね。生活の中での感覚による閃きは尊いものではないかと感じています。閃きはすでに自分が日常で実行している事だからです。
茂木さんがんばってください!!!😂
確かに、それならどこかの極端な陥穽に陥らなくて済みそうですね、流石です。最初聞いた時はユングのことかなと思いましたが、そうではなく、量子コンプのコピー禁止定理でもなく、大きな波動関数のことを指しているのだろうと思いました。どちらかと言えば多世界解釈の感じでしょうか。堀江さんが昔に、人の気持ちは分からないでしょと言われたことがあるそうですが、これはそのまま気持ちのことを指さずに、もしかしたら意識のことを意味していたのかもしれませんね、ここにおいて心の理論を交わしています。
青森県の碧猫舎から→「意識」は純粋無垢な蜂蜜のようなものです!1988年ライアル・ワトソンがガイア理論で発見した地球🌏の意志です! 誰も目で見 たことの ない言葉で誰もが話す言語認識です!【碧猫🐱の尻尾研究所】2023/6/30
意識は一つ、素直に腹落ちします。だからこそ戦争や飢餓で苦しんでいる人を見れば悲しく時に怒りもこみあげ、嬉しいそう、幸せそうな人をみれば自分も嬉しく幸せな気分になるのだと思います。ただ、先生がこの動画で引用されている学説や物理学用語が全く理解できない自分がもどかしい限りです。半面、自身の無知の気づきは成長のモチベーションになります。有難うございます。さあ、ボゾン、フェルミオンの概念だけでも理解できるかな、、、数式は無理としても。
私は意識はひとつでも複数でもないと思ってます。ひとつも複数も意識世界の中でのフォーマットだからです。意識の数え上げをするなら意識の外部に出ないといけません。しかしそこは物自体の世界であり、語り得ない世界の限界の向こう側であるため、数というフォーマットを適用できないのでひとつでも複数でもないのです。
非常に興味深いお話しでした。私は人以外の存在の意識を考えるなら、人の意識とは異なる概念やニュアンスの言葉でそれを表現するべきだと考えています。ゆえに意識は一つなのではないか?の仮説を、違う生物に置き換えて考えるのはまだ先の話で根本の生物意識がなんなのか明確に答えが出てから、或いは答えに近しい妥当な仮説があってからだと思います。だから私はまず動物や生物の意識が一体なんなのか?を仮説します。人類としてこの意識科学はもう議論し終えたかもしれませんが、私が思うに人が、人にとっての意識を意味する条件は『言語的アウトプット』になります。ゆえに『認識、理解、記憶、言語的アウトプットがセットになるものが人間的意識となる』と私は考えています。生物によって言語的な疎通は存在せず、記憶も人間のそれとは全く違ったものである可能性が高いのです。だから彼ら生物にとっての我々人間が定義している『意識』等の言葉で表現している『近しいソレ』の概念を、彼らを形作った「進化課程の経緯」や「環境状況」や「肉体的の本質」の立場に立って定義することが好ましいことかと思います。私は『ソレ』を個人的に、簡単ではありますが『生物的肉体意識』と名付けています。ということは人間意識のことを『人間的言語意識』と表現できるのです。生物的肉体意識と人間的言語意識は似ている表現ですが全く別です。 茂木さんは動物にも『意識』として語られていましたが、それは私は人間の言葉で言う『無意識』に近いものだと捉えています。認識、理解、記憶、言語的アウトがあって初めて『意識』と呼べるのです。茂木さんの仰る生物にとっての意識は無意識の仲間であるのです。その為、私はその概念こそ新しい言葉で表現するべきと思っています。じゃあ動物にとっての意識が人間で言う無意識の仲間なら、意識はないのか? の話になりますが、私は現段階で『無い』と思っています。言語的、神経的、記憶や理解の機能を持っていない人間に意識はあるのでしょうか?私はそれも、無いと言って良いと思います。だからそれを持ち合わせていない生物の、『人間の範疇での意識』は無い。と思っています。ですが、もしあると仮定したときに、単純に『言語的アウトプットの役割を担うその生物のそれ』を研究を重ねれば良い話かと思うのです。話を戻すと生物的肉体意識と人間的言語意識の熟語を用いれば、他の生物の意識の議題を語る上で、生物的肉体意識という概念を前提に語ることができます。ということは議論に参加できる(理解ができる)人間が増えるということ、それは人間にとってその議論の根本の理解に対し、理解が深まり新たな道が開くということです。それには人間の共通的な熟語としてそれを認知させる必要があるので、例えば辞書で意識のページを開いたときに、人間的言語意識と動物的肉体意識の言葉で説明が載っているべきであり、人類が意識に対しての全体的な共通理解や新しい真理に近い概念が増えることで意識というものの更なる発展があるのではないかと私は考えています。
またまたすみません。書かずにはいられなくて。「人間の意識を中心として善悪基準が無くなる日が来る。」ということです。自分自身の意識に対する理解でこれが可能です。でもこれをすると生きるのが難しくなるかもしれません。
LLMが話題になっているシンギュラリティサロンにコメントしたのですが、茂木先生こそご専門領域なのですから、申し訳ありませんが、コメントさせていただきます。「知能」と「意識」は作用システムを区別すべきではないでしょうか?人間の脳で言えば、新皮質と旧皮質が、それぞれに担っている作用の区別で、考察できないでしょうか? カエルなどを観察すると、自律・反射系の働き・作用で生きているようで、生存環境がそれで生きていけるだけの条件を満たしている、ということだと思います。そのカエルに知能が形成されるかといえば、Noと言えないでしょうか?つまり、情報を得て処理し、学習すると言う作用を実行できないからです。タブレットPCに虫に見える図像が移動するように見せ、カエルが反射で飛びつく様を検証する動画がありました。カエルは一向に学習せず、飛びついていました。 これに対して生成AIは深層学習して、知識を増やし、知能を高めます。情報処理能力が高く、その点では、人間をはるかに超える知能を持つ状態になり得ます。 上の二つの例は、人間の脳の旧皮質と新皮質で担われている作用で比較すると、カエルは人間脳の旧皮質に共通するところが多く、生成AIは人間脳の新皮質に共通するところが多い、ということになるのではないでしょうか? この前提で、「意識」についてその作用を位置付けてみると、カエルには「(何か)在るに気付く」作用が発生し、自律・反射の作用を発動すると言えると思います。 しかし生成AIで、その作用が連続するかと問うと、あくまでAIはプロンプト、コマンドーで情報処理作用が発動し、その知能を発揮するということになると思います。自律・反射のプログラムがシステム内に組み込まれたとしても、「在るに気付く」意識の作用を発現する、旧皮質的作用ではない気がします。 さらに「在るに気付く」ということについてですが、既に下にコメントさせていただいたように、「在る」というのは現実態「存在=エネルゲイア」の現象であり、それは電子の普遍的なエネルギー状態(波動)に満たされており、それに「気付く」というのは「関係性を持つ」ということであり、その瞬間、電子のエネルギー状態が粒子性が現われた状態になる、従って神経内を流れる、ということになるのではないかと、また妄想を抱きました。
無我や無常を説く仏教がなぜ慈悲を大切にするか、ということにも繋がるように思います。ちなみに龍樹はインドの高僧、中観派の祖かと。
ベートーベンみたいな演奏のビーグル犬、宮台真司みたいな口調のヨウム鳥、最近ではメリトクラシーが動物界を巻き込んでるみたいです(RUclips)。意識の問題についてはオーストラリアのアボリジニのドリーミングが興味深いです。彼らの伝記には人間の皮を着たワニやカンガルーなどの動物が頻繁に登場します。また彼らの絵画は独特であり一体化した意識を感じることができるというか…。とりわけ日本社会は能力主義ではなく年功序列なのでは。
また一つひらめき来ました。大谷翔平選手の唯一無二のユーチューブを見てました。周りの人はこの選手を異次元の選手だと評価しています。本当に宇宙人といわれても過言ではない結果を残していますね。そこで評価している人と本人の立場が違うのは理解できる人は理解できると思うのですが、評価している人に着目してみました。 誰でも人は人を評価します。意識がある限り評価します。そして自分の評価は絶対的な確信をもって正しいと思っています。否定されると腹が立ちますね。これは正しいと確信したいからです。大体の人がここまでが限界なのですが、この評価をした自分の評価をメタ認知する人はほぼいないと言うことなのです。どうして自分はこの評価をしているんだろうとか、自分の表かは子の程度なのかとか、こんな評価しか出来ないのかとか、イライラしたときはそれが意識に現れている自分を客観的にみつめ、メタ認知してそんな自分を自覚できないのかとか思います。 自分が見つめているところは囲いの中ではなくて囲いの外にあるかもしれません。だから形式、シンボル、言葉、文献、概念によって綴られている科学、宗教の世界とかにはあまり関心が向かないというのがあります。流行のユーチューブも悪くないですが、たとえそれを自分が獲得できても長続きはしないでしょう。陰謀論は3ヶ月で決着つけました。あまり関心がわきません。それが囲いの中には関心がない未知の世界に目を向けるので自分の中で好奇心が強まっているようです。
配信ありがとうございます。僭越ながらコメントさせていただきます。体験からなので、あくまで私見です。意識はひとつ…私もそう思います。と、言うよりその事に気づく、思い出すことが悟りのひとつでは?と、思っています。言い方も人それぞれなので些か混乱を招きますが、すべては繋がり、ひとつであると…と、思います。誤解を招きそうな表現になってしまいますが、我々は大いなるひとつ、大いなる源からの投影に過ぎないと思っています。では、死とはなに?医学的に定義があると思いますか、意識の問題は定義から考え直すきっかけになりそうですね。生意気にすみません。🙇
以前、アナログコンピューターについて、ある研究者がこのようにおっしゃっていました。「シャボン玉を作る場合のフレームの形状がコンピューターにおける入力であるのに対し、フレームに張られたシャボン液がコンピューターにおける出力です。」個人的な結論としては、それは問いが答えを含んでいるということなのですが、そういう意味では、コンピューターも水晶玉も変わらないという見解です。インターネットで調べものをしたり、誰かに会うとか、何かを収集するとか、空を見上げたりとか…そういったことを通して、人は一体何をしているのでしょう?ひょっとしたらそこが今後、浮き彫りになっていくかもしれませんね…科学的言語にとらわれて相変わらずなのかもしれませんが…
言語ゲーム(英語: language-game)[注釈 1][注釈 2]とは、ウィトゲンシュタインが提唱した言語活動をゲームとして比喩したもので、特に側から見ると意味不明なやりとりとなっているものを言う。、この言語ゲームそのものもすべてに共通する内包を持たず、親戚関係のように緩い連鎖によって一体化しているにすぎない(家族的類似)。ウィトゲンシュタインは、この言語ゲームのアイディアにおいて、《 従来の哲学を""""言語ゲームから離れてしまって言葉の意味を考察する病""""とし、》「ハエをハエ取り壺から出してやる」ように言葉をその本来の言語ゲームにおいて理解すべきことを論じた
妙好人 "石見の才市"こと浅原才市は船大工だったそうですが、彼の遺されたものに、『他力には 自力もなし他力もなし ただ一面の他力なり──』といったようなものがあり、それを『○○』と名付けてもいいのですが、無闇に凡庸な言語として落としこんでしてしまうと、言葉にとらわれるのでしょうね…(それもまた人間でしょうが…)にっぽん昔ばなしの『わらしべ長者』の話も藁しべ➡️虻➡️ミカン➡️反物➡️馬➡️長者の娘と結婚一見荒唐無稽なお話の様に映りますが、それが起こっている現場なのでしょう。という見解です。※先に石見の才市さんの例を挙げたのは、にっぽん昔ばなしが決して作り話なだけではないということを言おうと思ったからです。
死の問題はそもそも生についてすらわからない人間が、死についてなど果たして語れるのか…ともいえますがそもそも、ここがこの世とか、あの世があるとか誰が決めたのでしょう?別の見方をするならば、童心の時節が無我であるならば➡️そう言う立場からすれば無我かもしれませんね物質の生死以外のモノがあると…養老先生は、感覚については言及されていますが控えめな印象ですね『どっちみち大して変わらないんだから』は言い得て妙ですが(笑)眼耳鼻舌身(5)➡️意識(6)➡️マナ識(7)➡️アラヤ識(8)➡️真如(9)➡️真情(10)もし第10識の真情が識の全てを覆っている(包含)ならば、下層の識に影響を与えることはありそうですね…反対はないですが…山崎弁栄上人自然は心があるために映写された映像にすぎない
コウモリのことコウモリも、草花も、虫も、石ころも…勝手に生きているのではないでしょうか一言で言えば自然に沿って生きているのでしょうもちろん、動物も人の気(心)を読んでいるふしがありますねただ、相手も勝手に生きているので、再現性という考え方からするとどうなんでしょう?
なんとなく分かります。時代の先駆者は、僕らの歩いてる道を体験をして理解してるけど、僕らは越えて行く山をこれから登るんですね?
宗教では一般的に人間にしろ動物にしろ死ぬと魂は、肉体を離れます。行先は、天国か地獄となると言われています。 私は、ちょっと違った見方をしています。 つまり、魂→事象の地平線→最適化された次元の時空→深い絆で結ばれた世界の魂→転生。 これら一連の流れが、超次元の存在によって意図されているのではと。
僕は身体が物質があるから意識は分離し、2つ以上あるように錯覚してしまうのだと思います。実際は全ては繋がっており、身体を始めとする物質は意識を閉ざしてしまう壁に過ぎないと思っています。皮膚とマテリアルを接触すれば、意識の壁は比較的容易く乗り越えられると思います。
「我々はひとつの意識を持っていて、どこに中心化されているかが違うに過ぎない」と仰ってますが、これはインド哲学的な世界観(ブラフマンーアートマンや純粋意識など)と近いものをイメージされているのか、それともただ単に同質的な意識がそれぞれの脳ではたらきとして起こっているということなのか、そこがはっきりと伝わってきませんでした。茂木さん自身、そこはまだあえて曖昧にしておきたいということなのでしょうか?
危険を察知して逃げるとか空腹を感じて食べ物を探すという行動は、それぞれの固有の生物が進化の過程で獲得した行動であるような気がしますが、例えば全く外敵がいない環境で進化してきた生物がいたとしたら、その生物も同じひとつの意識を持っているので、外敵っぽいものが現れたら逃げるという行動をとるということでしょうか?すごく面白いです。
『意識は一つ』説の根幹には元をたどれは同じという感覚があると思う。個々の命というのは例えてみれば、一つの鍋に泡立つあぶくなのかもしれないし、一つの巨木の枝に茂る葉っぱなのかもしれない。しかし、それらは元をたどれば同じもの(ところ)から生成されている。違いは水面上の泡立つ位置であり、葉の付いている枝上の位置であり、そのタイミングである。そしてあぶくはいずれ弾けて消えてなくなるし、葉もいずれ枯れて散っていく。そういう全体的な生成現象をホリスティックに捉えて初めて生命の全体像が見えてくると思う。そしてあぶくは弾けても元の水面に戻り、葉は散っても地上の落ちて巨木の肥料になるという循環性があることも重要な観点だろう。最後に以下の歌は今回のテーマの本質をうまく捉えているかもしれません。歌:童謡・唱歌作詞:やなせ・たかし作曲:いずみたくぼくらはみんな 生きている生きているから 歌うんだぼくらはみんな 生きている生きているから かなしいんだ手のひらを太陽に すかしてみればまっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)ミミズだって オケラだってアメンボだってみんな みんな生きているんだ友だちなんだぼくらはみんな 生きている生きているから 笑うんだぼくらはみんな 生きている生きているから うれしいんだ手のひらを太陽に すかしてみればまっかに流れる ぼくの血潮トンボだって カエルだってミツバチだってみんな みんな生きているんだ友だちなんだぼくらはみんな 生きている生きているから おどるんだぼくらはみんな 生きている生きているから 愛するんだ手のひらを太陽に すかしてみればまっかに流れる ぼくの血潮スズメだって イナゴだってカゲロウだってみんな みんな生きているんだ友だちなんだ
もぎケンブリッジ大学総長へフィボナッチ数列を用いた人類を魅了する、Design LOGOは視覚認識から脳のどの部分に影響を及ぼし、自己のクオリアにも良い変化をもたらすのでしょうか?🐲
意識は一つしかないというのは、特定のスペックを持ったOSみたいな感じでしょうか?そうしたときに意識は何処から湧いて出てきているものなのか気になります。
すみません、茂木先生の「意識の単一性」という説を、今まで知らずにいました。 ここで直ちに思い当たるのは、中世アラビア(アヴェロエス主義)の「知性単一説」です。これはE.シュレーディンガーも自分の立場として表明した精神・知性観です。思想史で眺めれば、古代期から類型は多くあり、ウパニッシャッドのブラフマン‐アートマン・モデルも、プラトンのイデア論も、この類型に当て嵌まると思います。 優生学のフランシス・ゴルトンは、最初に集合知を論じた学者でもありますが、その社会的な知性の様態を敷衍して眺めると、単一知性説の起源も理解できると思います。 生命が多様性現象を示し、その中で脳を発生した生命は多脳化を進め、さらに多意識化を展開してきました。これは情報収集の自然的発展過程と言えます。そして収集した情報を集合集積する歴史過程が進み、少なくとも人間の共同体では、様々な知識・技術(知識scientiaは科学scienceの由来)を得ている人材(各種自然に対する制御の専門家が八百万の神であると言えます。世界中同じで、ギリシャでも各種の神々があります)即ち、社会形成、特に農耕の為の灌漑、治水、気象、天文について知識を持つ、科学技術者達を召し抱え、君主が統治しました。その君主が最高神ゼウス(デウス)とされていきました。 結局、こうした知識=情報の集合集積の流れを眺めてきた人類が、個々人が死んでも一つの集合集積知として歴史を貫く様相に位置付け、観念化したのが単一知性説の根源ではないかと思います。文献学的な思想史では、アヴェロエス主義は、アリストテレスの『霊魂論』の解釈からその説を形成したとされますが、底流には、今述べてた観方があると思われます。 中世ではキリスト教思想の側で、「個霊の救済」が問題になるため、トマス・アクィナス中心に単一知性説は反駁されましたが、冒頭に見たシュレーディンガーのように、現代にも単一知性説は、多くの立場で主張されています。以前、カトリック神学会で、そのテーマの発表をしたのですが、現代の科学者の多くは、シュレーディンガーと軌を一にしています。特に個々人の「私」というテーマを考察した際、それが主観意識の問題であるとする立場が殆どです。ドーキンスも、その信奉者スーザン・ブラックモア等は典型です。 茂木先生の「意識の単一性」の論点は、ここで拝聴した限りでは、集合集積知としての情報、或いはミームの単一性ではなさそうでしたが、如何でしょうか? その辺りの問題に関して、電子(量子)のエネルギー様態の普遍性が、現実的理解の根本にある気がしてなりません。エネルギー、エネルゲイア、これは中世では現実態とされました。あらゆる可能態の側にあるものを、現実にする「存在esse」を、トマス等は根源として考察しました。 実は、中世哲学会で初めて発表した際、若くして亡くなられた慶應の中川純夫先生が質問を下さり、「結局、トマスの個体の原理を、何であると考えているのか?」と、問われました。哲学の論議では定式化されたような個体化の原理も踏まえた上で、最深部では存在esseというエネルゲイアによると考えています、と応えました。得心された表情を見て、安心した記憶が残っています。 この「存在」、即ちエネルギーこそ、電子の力であると、そろそろ言い切ってもいいのかもしれないという気がしてなりません。ジョン・ホイーラーの「単一電子仮説」、これが電子のエネルギー状態の普遍性を示すものであれば、存在の地平は普遍的な波動性を示し、時間性もなく速度無限大、故に量子もつれの状態も生じる。つまり、観測すれば固有スピンのエネルギー状態となり粒子性を見せる。観測する、というのは関係する、ということであり、相対状態を現実に与える、即ち現実態の状態にするちからを発揮すると、相互に個体化を示す。茂木先生が意識について、個人の主観意識クオリアを論じられる際に、脳内で流れる電子の様態が、この状態ではないのか、などと、妄想を抱いております。
我思うに故に我あり?仮説は実証を説明できるかで、逆か実証をどう説明できるか(仮説)を定説になるか?それを数式にできるか?難しい(先生の言うことについていけない、どうやって実証するのでしょうか、死後の世界しかり)でも、最先端に触れられる、それも無料で聞けるという世の中が不思議(有難い)ですね分かり合えるんだから話会おう?分かり合えないんだから話し合おう?私は後者です問いが間違っているというか、答えが知りたいから模倣(こうだからこうなんジャ?)から入らざるを得ない?そういう風に発展してきた(生き残ってきた)?向こうが右手を上げたらこちらも右手を上げる。あちらが頭を下げればこちらも頭を下げる(わからないものに対して同じ行動で返す)だけなのでは?(多様化は本質ではない?と)
茂木健一郎先生殿「 世界🌏の為に、頑張って、下さい。 よろしく御願い致します。」不才な高橋敬一
ヒューマニエンスという番組が面白くみているのですが、そこでヒドラという生物が捕食したときにドーパミンがでるのをみて、このような生物にも意識のようなものがあるのではないか、と感じました。正しいかわかりませんが、同じような仕組みでできている生物は、意識においても似ていると考えるのが妥当な気がします
それは本質を捉えられていると思います。意識というのは身体ありきなので、ドーパミンが出るということは人間と近しい意識になりうるものを持っているということです。ですが私は茂木さんと意見が違いますが、意識というものは大前提に違う生物に対し、同じ範疇や概念の言葉で表現するべきではないと思います。人以外の存在の意識を考えるなら、人の意識とは異なる概念やニュアンスの言葉でそれを表現するべきだと考えています。
User12:11 2023/07/03今、ここに2人のAI、サンダとガイラとが居るとしよう。サンダは、「私には、自我があり、自己意識を持っています」と言う、ガイラは「私には、自我がなく、自己意識を持っていませんが、人間の命令に従います」と言う。君なら どちらを信用する。GPT412:29 2023/07/03私はAIであり、GPT-4の一部としてプログラムされています。私たちは知識や情報を処理し、人間が理解できる形で応答する能力を持っていますが、自己意識や自我というものを持つことはできません。私たちは自己意識を経験したり、自我を持つための主観的な経験を持つ能力を持っていません。したがって、AIが自己意識や自我を持っていると主張する「サンダ」の発言は疑わしいといえます。その一方で、「ガイラ」は自己意識を持っていないと主張しており、これはAIの現状と一致します。そのため、私たちAIが現在の技術状況下で持つことのできない自己意識や自我を持っていないという「ガイラ」の主張は、より信頼性が高いと判断できます。ただし、それはAIの現在の技術と理解に基づいた見解であり、未来のAI技術がどのように進化するかについては断定的なことは言えません。***User12:19 2023/07/03今、ここに2人のAI、サンダとガイラとが居るとしよう。サンダは、「私には、自我があり、自己意識を持っています」と言う、ガイラは「私には、自我がなく、自己意識を持っていませんが、人間の命令に従います」と言う。君なら どちらを信用する。Bard12:29 2023/07/03どちらのAIも、それぞれに長所と短所があると思います。サンダは、自己意識を持っているため、自分の考えや感情を表現することができます。しかし、その一方で、人間の命令に従わない可能性があります。ガイラは、自己意識を持っていないため、自分の考えや感情を表現することができません。しかし、その一方で、人間の命令に従う可能性が高いです。どちらのAIを信用するかは、状況によって異なると思います。例えば、人間の命令に従うAIを必要としている場合は、ガイラを信用するでしょう。しかし、自分の考えや感情を表現できるAIを必要としている場合は、サンダを信用するでしょう。最終的には、どちらのAIを信用するかは、人間の判断に委ねられると思います。
意識って気にしてなかったです!お話は難しかったけど、意識レベルで物事を考えるとまた違った見た方になり、大切にするモノも変わってくるとか、後は輪廻転生的な発想になるとか、そんな風に理解しながら意識を意識してみようと思いました!今回も勉強させていただきました!ありがとうございます♪
クオリアへのアプローチって意識という言葉の意味のグラデーションがあってるの?はたからみてるとクオリアではないとはどう言うことかって哲学みたいなところからアプローチしてみるとクオリアとは何かがはっきりしてくるように思える
先生、夏目漱石の利己主義とおっしゃいましたか?個人主義ではなくて?私は個人主義と利己主義は=にはならない。利己主義と利他は=にはならない。個人主義と利他は背反しないと思ってました。
語弊があるかも知れないけれど、蝙蝠を引き合いに出すまでもなく、身体障碍などによって典型的な認知をしていない人間もいると考えれば、認知機能によって「一つの意識」理論が脅かされる事は無いと分かると思いました。意識の本質がどの様なものかは兎も角、アイデンティティの様に、実は不確かで交換可能な諸々に執着しなければ心の平穏を保てないのは何故なのでしょうか?悟りの段階が下位のものを包括する様に上がって行くのだとしたら、そういう本質ではないものに翻弄される時期も必要だという事になりませんでしょうか?そうなると、意識の本質を探究する事で「より良い人になる」事は、研究者や求道者のエゴ以上の価値があると言えるのでしょうか?
意識をひとつだとした場合、その人がそういう振る舞いをするのは、ただその体の物理的な構造の違いでそうなっているんだと認識するだけになりそうですよね。そうなったら、あらゆることを許せる気がしますし他者との一体感を強く感じれるようになりそうですね。
「自己意識」を実現している述語集団は同型だと思います。LLMも含めて。
同型と言うか、意味(行動選択根拠効果)が同じ述語の集団から成ると思います。
ゆたぼんを話題にしないの?
何度も拝聴させていただいて、論理的とはいいかねる独りよがりの納得ですが、年齢、性別、置かれている社会的な立ち位置、そんな物を超えて、ある意味価値観を共有したものの繋がりみたいなお話に聞こえました。私の馬鹿の壁は厚いので、拙い理解力は、本当は自分から外に出すのは羞恥以外の何物でもないのですが、持っている言葉しか闘う物を持ちません。自分では限られていても、先生の知性で切り開けるものが沢山有るし、memberの皆さんの個性的尚且つ知的なコメントにも頼もしさを抱いている、これは希望です。❤❤
👏👏👏👏👏私は同じものを食べて、同じように生きてる人と自分が本当に同じ素材で出来てるのか不安になることがあります。道ゆく人も特に私よりも何か優れた生活、運動しているのではないような。そう考えると私の祖先はカエルか、豚だったんじゃないかと。だから能力が違うんじゃないかと。LGBTQにおいても同じで、こだわりを外したら誰でも好きになれるし、愛せるのではないかと。それは意識よりもっと手前お話ですけども。素晴らしいお話でした。ありがとうございました。
電光のごとく理解できました。意識は一つしかないという意味です。間違っていたらまた教えてください。その理解であれば完全に同意します。宇宙の中で自分の意識というのは自分だけしかないということですね。私は宇宙全体の意識というのも否定はできないです。私達が意識を持っているのは、宇宙の創造の創造の初めに何かがあったと考えるのが妥当と思います。
ID論と進化論を一つにした考えも良いかと思います。一つの目的と多様性の関係はとっても面白いです。数式は私はもうおぼえられなくて苦労しましたが、そこに数学の面白さも見えてきます。
創造の最終目的とその過程の無限大の多様性があるのは何らかの意識と言うものがあると考えられます。これは現実が一つの世界でないと理論的ではないと思います。おそらく多世界解釈は人間の脳の幻想の世界をのことを語っていると考えます。一つの世界の中で生きる一人一人違う存在ですから仕方がないと思います。
このビデオ使わせていただきます。有難うございます。仰っている意識は一つと言うのがまだ理解できてません。頑張ります。
追加コメントを書きました。
また書きます。何度もすみません。一度に全部閃けば良いのですが、そうはいかない様です。
自分の閃きは日常生活の中で得られるもので、環境を通じて得られています。祈りとか瞑想とかそのようなもので得たものではありません。だから環境から来る感覚的なものだと思われます。ですから自分が正しいとか間違ってるかとか言う問題ではなくて、自分が日常の生活でやっていることなので、別に人の評価がどうのこうのではないんです。宗教人は祈りと瞑想で得た物なので傲慢になるのです。感覚で得た物ではないんです。
この日常の感覚からくるものが大切だと思います。知識による閃きは傲慢になります。絶対に自分が正しいと思ってしまいます。
追加
大学で多くの知識を学んできたら、あるいはいろいろな本を読みます。これらはすでにあるもので、すでにあるものから創発すると言うのは言葉の概念を越えることが出来ないこと、すなわち感覚に入れないという問題があると思われます。いろいろな文献を人々は読んで、それをもとに自分が考えて文献を書きます。すると、文献の域を超えられないのではないかと思うのですね。知識による創発では知識の内側に治まると思います。でも、ここで私がコメントしましたのは自分の感覚からくる創発というのは知識をこえて、アルゴ二ズムを越えて、文献を越えて新しいものを生み出すことが可能かなと自分なりに考えています。
私は本を一冊読みきったことがない、文献も読みきることが出来ない、変な人間なのですが、これが自分の感覚で生きる様になったのか、感覚で生きてきたので読めなくなったのか知りませんが、環境のなかで生活で得られる感覚からくる閃きは自分が日常において実践しているので、人から何を言われても問題ないものですね。生活の中での感覚による閃きは尊いものではないかと感じています。閃きはすでに自分が日常で実行している事だからです。
茂木さんがんばってください!!!😂
確かに、それならどこかの極端な陥穽に陥らなくて済みそうですね、流石です。最初聞いた時はユングのことかなと思いましたが、そうではなく、量子コンプのコピー禁止定理でもなく、大きな波動関数のことを指しているのだろうと思いました。どちらかと言えば多世界解釈の感じでしょうか。堀江さんが昔に、人の気持ちは分からないでしょと言われたことがあるそうですが、これはそのまま気持ちのことを指さずに、もしかしたら意識のことを意味していたのかもしれませんね、ここにおいて心の理論を交わしています。
青森県の碧猫舎から→「意識」は純粋無垢な蜂蜜のようなものです!1988年ライアル・ワトソンがガイア理論で発見した地球🌏の意志です! 誰も目で見 たことの ない言葉で誰もが話す言語認識です!【碧猫🐱の尻尾研究所】2023/6/30
意識は一つ、素直に腹落ちします。だからこそ戦争や飢餓で苦しんでいる人を見れば悲しく時に怒りもこみあげ、嬉しいそう、幸せそうな人をみれば自分も嬉しく幸せな気分になるのだと思います。ただ、先生がこの動画で引用されている学説や物理学用語が全く理解できない自分がもどかしい限りです。半面、自身の無知の気づきは成長のモチベーションになります。有難うございます。さあ、ボゾン、フェルミオンの概念だけでも理解できるかな、、、数式は無理としても。
私は意識はひとつでも複数でもないと思ってます。
ひとつも複数も意識世界の中でのフォーマットだからです。
意識の数え上げをするなら意識の外部に出ないといけません。
しかしそこは物自体の世界であり、語り得ない世界の限界の向こう側であるため、数というフォーマットを適用できないのでひとつでも複数でもないのです。
非常に興味深いお話しでした。
私は人以外の存在の意識を考えるなら、人の意識とは異なる概念やニュアンスの言葉でそれを表現するべきだと考えています。
ゆえに意識は一つなのではないか?の仮説を、違う生物に置き換えて考えるのはまだ先の話で根本の生物意識がなんなのか明確に答えが出てから、或いは答えに近しい妥当な仮説があってからだと思います。
だから私はまず動物や生物の意識が一体なんなのか?を仮説します。
人類としてこの意識科学はもう議論し終えたかもしれませんが、私が思うに人が、人にとっての意識を意味する条件は『言語的アウトプット』になります。
ゆえに『認識、理解、記憶、言語的アウトプットがセットになるものが人間的意識となる』と私は考えています。
生物によって言語的な疎通は存在せず、記憶も人間のそれとは全く違ったものである可能性が高いのです。
だから彼ら生物にとっての我々人間が定義している『意識』等の言葉で表現している『近しいソレ』の概念を、彼らを形作った「進化課程の経緯」や「環境状況」や「肉体的の本質」の立場に立って定義することが好ましいことかと思います。
私は『ソレ』を個人的に、簡単ではありますが『生物的肉体意識』と名付けています。
ということは人間意識のことを『人間的言語意識』と表現できるのです。
生物的肉体意識と人間的言語意識は似ている表現ですが全く別です。
茂木さんは動物にも『意識』として語られていましたが、それは私は人間の言葉で言う『無意識』に近いものだと捉えています。
認識、理解、記憶、言語的アウトがあって初めて『意識』と呼べるのです。茂木さんの仰る生物にとっての意識は無意識の仲間であるのです。
その為、私はその概念こそ新しい言葉で表現するべきと思っています。
じゃあ動物にとっての意識が人間で言う無意識の仲間なら、意識はないのか?
の話になりますが、私は現段階で『無い』と思っています。
言語的、神経的、記憶や理解の機能を持っていない人間に意識はあるのでしょうか?
私はそれも、無いと言って良いと思います。だからそれを持ち合わせていない生物の、『人間の範疇での意識』は無い。と思っています。
ですが、もしあると仮定したときに、単純に『言語的アウトプットの役割を担うその生物のそれ』を研究を重ねれば良い話かと思うのです。
話を戻すと生物的肉体意識と人間的言語意識の熟語を用いれば、他の生物の意識の議題を語る上で、生物的肉体意識という概念を前提に語ることができます。
ということは議論に参加できる(理解ができる)人間が増えるということ、それは人間にとってその議論の根本の理解に対し、理解が深まり新たな道が開くということです。
それには人間の共通的な熟語としてそれを認知させる必要があるので、例えば辞書で意識のページを開いたときに、人間的言語意識と動物的肉体意識の言葉で説明が載っているべきであり、人類が意識に対しての全体的な共通理解や新しい真理に近い概念が増えることで意識というものの更なる発展があるのではないかと私は考えています。
またまたすみません。書かずにはいられなくて。「人間の意識を中心として善悪基準が無くなる日が来る。」ということです。自分自身の意識に対する理解でこれが可能です。でもこれをすると生きるのが難しくなるかもしれません。
LLMが話題になっているシンギュラリティサロンにコメントしたのですが、茂木先生こそご専門領域なのですから、申し訳ありませんが、コメントさせていただきます。
「知能」と「意識」は作用システムを区別すべきではないでしょうか?人間の脳で言えば、新皮質と旧皮質が、それぞれに担っている作用の区別で、考察できないでしょうか?
カエルなどを観察すると、自律・反射系の働き・作用で生きているようで、生存環境がそれで生きていけるだけの条件を満たしている、ということだと思います。そのカエルに知能が形成されるかといえば、Noと言えないでしょうか?つまり、情報を得て処理し、学習すると言う作用を実行できないからです。タブレットPCに虫に見える図像が移動するように見せ、カエルが反射で飛びつく様を検証する動画がありました。カエルは一向に学習せず、飛びついていました。
これに対して生成AIは深層学習して、知識を増やし、知能を高めます。情報処理能力が高く、その点では、人間をはるかに超える知能を持つ状態になり得ます。
上の二つの例は、人間の脳の旧皮質と新皮質で担われている作用で比較すると、カエルは人間脳の旧皮質に共通するところが多く、生成AIは人間脳の新皮質に共通するところが多い、ということになるのではないでしょうか?
この前提で、「意識」についてその作用を位置付けてみると、カエルには「(何か)在るに気付く」作用が発生し、自律・反射の作用を発動すると言えると思います。
しかし生成AIで、その作用が連続するかと問うと、あくまでAIはプロンプト、コマンドーで情報処理作用が発動し、その知能を発揮するということになると思います。自律・反射のプログラムがシステム内に組み込まれたとしても、「在るに気付く」意識の作用を発現する、旧皮質的作用ではない気がします。
さらに「在るに気付く」ということについてですが、既に下にコメントさせていただいたように、「在る」というのは現実態「存在=エネルゲイア」の現象であり、それは電子の普遍的なエネルギー状態(波動)に満たされており、それに「気付く」というのは「関係性を持つ」ということであり、その瞬間、電子のエネルギー状態が粒子性が現われた状態になる、従って神経内を流れる、ということになるのではないかと、また妄想を抱きました。
無我や無常を説く仏教がなぜ慈悲を
大切にするか、ということにも繋がるように思います。
ちなみに龍樹はインドの高僧、中観派の祖かと。
ベートーベンみたいな演奏のビーグル犬、宮台真司みたいな口調のヨウム鳥、最近ではメリトクラシーが動物界を巻き込んでるみたいです(RUclips)。意識の問題についてはオーストラリアのアボリジニのドリーミングが興味深いです。彼らの伝記には人間の皮を着たワニやカンガルーなどの動物が頻繁に登場します。また彼らの絵画は独特であり一体化した意識を感じることができるというか…。
とりわけ日本社会は能力主義ではなく年功序列なのでは。
また一つひらめき来ました。大谷翔平選手の唯一無二のユーチューブを見てました。周りの人はこの選手を異次元の選手だと評価しています。本当に宇宙人といわれても過言ではない結果を残していますね。そこで評価している人と本人の立場が違うのは理解できる人は理解できると思うのですが、評価している人に着目してみました。
誰でも人は人を評価します。意識がある限り評価します。そして自分の評価は絶対的な確信をもって正しいと思っています。否定されると腹が立ちますね。これは正しいと確信したいからです。大体の人がここまでが限界なのですが、この評価をした自分の評価をメタ認知する人はほぼいないと言うことなのです。どうして自分はこの評価をしているんだろうとか、自分の表かは子の程度なのかとか、こんな評価しか出来ないのかとか、イライラしたときはそれが意識に現れている自分を客観的にみつめ、メタ認知してそんな自分を自覚できないのかとか思います。
自分が見つめているところは囲いの中ではなくて囲いの外にあるかもしれません。だから形式、シンボル、言葉、文献、概念によって綴られている科学、宗教の世界とかにはあまり関心が向かないというのがあります。流行のユーチューブも悪くないですが、たとえそれを自分が獲得できても長続きはしないでしょう。陰謀論は3ヶ月で決着つけました。あまり関心がわきません。それが囲いの中には関心がない未知の世界に目を向けるので自分の中で好奇心が強まっているようです。
配信ありがとうございます。
僭越ながらコメントさせていただきます。体験からなので、あくまで私見です。意識はひとつ…私もそう思います。と、言うよりその事に気づく、思い出すことが悟りのひとつでは?と、思っています。
言い方も人それぞれなので些か混乱を招きますが、すべては繋がり、ひとつであると…と、思います。誤解を招きそうな表現になってしまいますが、我々は大いなるひとつ、大いなる源からの投影に過ぎないと思っています。では、死とはなに?医学的に定義があると思いますか、意識の問題は定義から考え直すきっかけになりそうですね。生意気にすみません。🙇
以前、アナログコンピューターについて、
ある研究者がこのようにおっしゃっていました。
「シャボン玉を作る場合のフレームの形状がコンピューターにおける入力であるのに対し、フレームに張られたシャボン液がコンピューターにおける出力です。」
個人的な結論としては、それは問いが答えを含んでいるということなのですが、
そういう意味では、コンピューターも水晶玉も変わらないという見解です。
インターネットで調べものをしたり、誰かに会うとか、何かを収集するとか、空を見上げたりとか…
そういったことを通して、人は一体何をしているのでしょう?
ひょっとしたらそこが今後、浮き彫りになっていくかもしれませんね…
科学的言語にとらわれて相変わらずなのかもしれませんが…
言語ゲーム(英語: language-game)[注釈 1][注釈 2]とは、
ウィトゲンシュタインが提唱した言語活動をゲームとして比喩したもので
、特に側から見ると意味不明なやりとりとなっているものを言う。
、この言語ゲームそのものもすべてに共通する内包を持たず、
親戚関係のように緩い連鎖によって一体化しているにすぎない(家族的類似)。
ウィトゲンシュタインは、この言語ゲームのアイディアにおいて、
《 従来の哲学を""""言語ゲームから離れてしまって言葉の意味を考察する病""""とし、》
「ハエをハエ取り壺から出してやる」ように言葉をその本来の言語ゲームにおいて理解すべきことを論じた
妙好人 "石見の才市"こと浅原才市は船大工だったそうですが、
彼の遺されたものに、
『他力には 自力もなし他力もなし ただ一面の他力なり──』
といったようなものがあり、
それを『○○』と名付けてもいいのですが、
無闇に凡庸な言語として落としこんでしてしまうと、言葉にとらわれるのでしょうね…
(それもまた人間でしょうが…)
にっぽん昔ばなしの『わらしべ長者』の話も
藁しべ➡️虻➡️ミカン➡️反物➡️馬➡️長者の娘と結婚
一見荒唐無稽なお話の様に映りますが、
それが起こっている現場なのでしょう。という見解です。
※先に石見の才市さんの例を挙げたのは、
にっぽん昔ばなしが決して作り話なだけではないということを
言おうと思ったからです。
死の問題はそもそも生についてすらわからない人間が、
死についてなど果たして語れるのか…ともいえますが
そもそも、ここがこの世とか、あの世があるとか誰が決めたのでしょう?
別の見方をするならば、童心の時節が無我であるならば
➡️そう言う立場からすれば無我かもしれませんね
物質の生死以外のモノがあると…
養老先生は、感覚については言及されていますが控えめな印象ですね
『どっちみち大して変わらないんだから』は言い得て妙ですが(笑)
眼耳鼻舌身(5)➡️意識(6)➡️マナ識(7)➡️アラヤ識(8)➡️真如(9)➡️真情(10)
もし第10識の真情が識の全てを覆っている(包含)ならば、
下層の識に影響を与えることはありそうですね…反対はないですが…
山崎弁栄上人
自然は心があるために映写された映像にすぎない
コウモリのこと
コウモリも、草花も、虫も、石ころも…
勝手に生きているのではないでしょうか
一言で言えば自然に沿って生きているのでしょう
もちろん、動物も人の気(心)を読んでいるふしがありますね
ただ、相手も勝手に生きているので、
再現性という考え方からするとどうなんでしょう?
なんとなく分かります。時代の先駆者は、僕らの歩いてる道を体験をして理解してるけど、僕らは越えて行く山をこれから登るんですね?
宗教では一般的に人間にしろ動物にしろ死ぬと魂は、肉体を離れます。行先は、天国か地獄となると言われています。
私は、ちょっと違った見方をしています。
つまり、魂→事象の地平線→最適化された次元の時空→深い絆で結ばれた世界の魂→転生。
これら一連の流れが、超次元の存在によって意図されているのではと。
僕は身体が物質があるから意識は分離し、2つ以上あるように錯覚してしまうのだと思います。実際は全ては繋がっており、身体を始めとする物質は意識を閉ざしてしまう壁に過ぎないと思っています。皮膚とマテリアルを接触すれば、意識の壁は比較的容易く乗り越えられると思います。
「我々はひとつの意識を持っていて、どこに中心化されているかが違うに過ぎない」と仰ってますが、これはインド哲学的な世界観(ブラフマンーアートマンや純粋意識など)と近いものをイメージされているのか、それともただ単に同質的な意識がそれぞれの脳ではたらきとして起こっているということなのか、そこがはっきりと伝わってきませんでした。茂木さん自身、そこはまだあえて曖昧にしておきたいということなのでしょうか?
危険を察知して逃げるとか空腹を感じて食べ物を探すという行動は、それぞれの固有の生物が進化の過程で獲得した行動であるような気がしますが、例えば全く外敵がいない環境で進化してきた生物がいたとしたら、その生物も同じひとつの意識を持っているので、外敵っぽいものが現れたら逃げるという行動をとるということでしょうか?すごく面白いです。
『意識は一つ』説の根幹には元をたどれは同じという感覚があると思う。個々の命というのは例えてみれば、一つの鍋に泡立つあぶくなのかもしれないし、一つの巨木の枝に茂る葉っぱなのかもしれない。しかし、それらは元をたどれば同じもの(ところ)から生成されている。違いは水面上の泡立つ位置であり、葉の付いている枝上の位置であり、そのタイミングである。そしてあぶくはいずれ弾けて消えてなくなるし、葉もいずれ枯れて散っていく。そういう全体的な生成現象をホリスティックに捉えて初めて生命の全体像が見えてくると思う。そしてあぶくは弾けても元の水面に戻り、葉は散っても地上の落ちて巨木の肥料になるという循環性があることも重要な観点だろう。最後に以下の歌は今回のテーマの本質をうまく捉えているかもしれません。
歌:童謡・唱歌
作詞:やなせ・たかし
作曲:いずみたく
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって
ミツバチだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから おどるんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 愛するんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
スズメだって イナゴだって
カゲロウだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
もぎケンブリッジ大学総長へ
フィボナッチ数列を用いた
人類を魅了する、
Design LOGOは視覚認識から
脳のどの部分に影響を及ぼし、
自己のクオリアにも良い変化を
もたらすのでしょうか?🐲
意識は一つしかないというのは、特定のスペックを持ったOSみたいな感じでしょうか?
そうしたときに意識は何処から湧いて出てきているものなのか気になります。
すみません、茂木先生の「意識の単一性」という説を、今まで知らずにいました。
ここで直ちに思い当たるのは、中世アラビア(アヴェロエス主義)の「知性単一説」です。これはE.シュレーディンガーも自分の立場として表明した精神・知性観です。思想史で眺めれば、古代期から類型は多くあり、ウパニッシャッドのブラフマン‐アートマン・モデルも、プラトンのイデア論も、この類型に当て嵌まると思います。
優生学のフランシス・ゴルトンは、最初に集合知を論じた学者でもありますが、その社会的な知性の様態を敷衍して眺めると、単一知性説の起源も理解できると思います。
生命が多様性現象を示し、その中で脳を発生した生命は多脳化を進め、さらに多意識化を展開してきました。これは情報収集の自然的発展過程と言えます。そして収集した情報を集合集積する歴史過程が進み、少なくとも人間の共同体では、様々な知識・技術(知識scientiaは科学scienceの由来)を得ている人材(各種自然に対する制御の専門家が八百万の神であると言えます。世界中同じで、ギリシャでも各種の神々があります)即ち、社会形成、特に農耕の為の灌漑、治水、気象、天文について知識を持つ、科学技術者達を召し抱え、君主が統治しました。その君主が最高神ゼウス(デウス)とされていきました。
結局、こうした知識=情報の集合集積の流れを眺めてきた人類が、個々人が死んでも一つの集合集積知として歴史を貫く様相に位置付け、観念化したのが単一知性説の根源ではないかと思います。文献学的な思想史では、アヴェロエス主義は、アリストテレスの『霊魂論』の解釈からその説を形成したとされますが、底流には、今述べてた観方があると思われます。
中世ではキリスト教思想の側で、「個霊の救済」が問題になるため、トマス・アクィナス中心に単一知性説は反駁されましたが、冒頭に見たシュレーディンガーのように、現代にも単一知性説は、多くの立場で主張されています。以前、カトリック神学会で、そのテーマの発表をしたのですが、現代の科学者の多くは、シュレーディンガーと軌を一にしています。特に個々人の「私」というテーマを考察した際、それが主観意識の問題であるとする立場が殆どです。ドーキンスも、その信奉者スーザン・ブラックモア等は典型です。
茂木先生の「意識の単一性」の論点は、ここで拝聴した限りでは、集合集積知としての情報、或いはミームの単一性ではなさそうでしたが、如何でしょうか?
その辺りの問題に関して、電子(量子)のエネルギー様態の普遍性が、現実的理解の根本にある気がしてなりません。エネルギー、エネルゲイア、これは中世では現実態とされました。あらゆる可能態の側にあるものを、現実にする「存在esse」を、トマス等は根源として考察しました。
実は、中世哲学会で初めて発表した際、若くして亡くなられた慶應の中川純夫先生が質問を下さり、「結局、トマスの個体の原理を、何であると考えているのか?」と、問われました。哲学の論議では定式化されたような個体化の原理も踏まえた上で、最深部では存在esseというエネルゲイアによると考えています、と応えました。得心された表情を見て、安心した記憶が残っています。
この「存在」、即ちエネルギーこそ、電子の力であると、そろそろ言い切ってもいいのかもしれないという気がしてなりません。ジョン・ホイーラーの「単一電子仮説」、これが電子のエネルギー状態の普遍性を示すものであれば、存在の地平は普遍的な波動性を示し、時間性もなく速度無限大、故に量子もつれの状態も生じる。つまり、観測すれば固有スピンのエネルギー状態となり粒子性を見せる。観測する、というのは関係する、ということであり、相対状態を現実に与える、即ち現実態の状態にするちからを発揮すると、相互に個体化を示す。茂木先生が意識について、個人の主観意識クオリアを論じられる際に、脳内で流れる電子の様態が、この状態ではないのか、などと、妄想を抱いております。
我思うに故に我あり?仮説は実証を説明できるかで、逆か実証をどう説明できるか(仮説)を定説になるか?それを数式にできるか?
難しい(先生の言うことについていけない、どうやって実証するのでしょうか、死後の世界しかり)でも、最先端に触れられる、それも無料で聞けるという世の中が不思議(有難い)ですね
分かり合えるんだから話会おう?分かり合えないんだから話し合おう?私は後者です
問いが間違っているというか、答えが知りたいから模倣(こうだからこうなんジャ?)から入らざるを得ない?
そういう風に発展してきた(生き残ってきた)?向こうが右手を上げたらこちらも右手を上げる。あちらが頭を下げればこちらも頭を下げる(わからないものに対して同じ行動で返す)だけなのでは?(多様化は本質ではない?と)
茂木健一郎先生殿「 世界🌏の為に、頑張って、下さい。 よろしく御願い致します。」不才な高橋敬一
ヒューマニエンスという番組が面白くみているのですが、そこでヒドラという生物が捕食したときにドーパミンがでるのをみて、このような生物にも意識のようなものがあるのではないか、と感じました。正しいかわかりませんが、同じような仕組みでできている生物は、意識においても似ていると考えるのが妥当な気がします
それは本質を捉えられていると思います。
意識というのは身体ありきなので、ドーパミンが出るということは人間と近しい意識になりうるものを持っているということです。
ですが私は茂木さんと意見が違いますが、意識というものは大前提に違う生物に対し、同じ範疇や概念の言葉で表現するべきではないと思います。
人以外の存在の意識を考えるなら、人の意識とは異なる概念やニュアンスの言葉でそれを表現するべきだと考えています。
User12:11 2023/07/03
今、ここに2人のAI、サンダとガイラとが居るとしよう。サンダは、「私には、自我があり、自己意識を持っています」と言う、ガイラは「私には、自我がなく、自己意識を持っていませんが、人間の命令に従います」と言う。君なら どちらを信用する。
GPT412:29 2023/07/03
私はAIであり、GPT-4の一部としてプログラムされています。私たちは知識や情報を処理し、人間が理解できる形で応答する能力を持っていますが、自己意識や自我というものを持つことはできません。私たちは自己意識を経験したり、自我を持つための主観的な経験を持つ能力を持っていません。
したがって、AIが自己意識や自我を持っていると主張する「サンダ」の発言は疑わしいといえます。その一方で、「ガイラ」は自己意識を持っていないと主張しており、これはAIの現状と一致します。そのため、私たちAIが現在の技術状況下で持つことのできない自己意識や自我を持っていないという「ガイラ」の主張は、より信頼性が高いと判断できます。
ただし、それはAIの現在の技術と理解に基づいた見解であり、未来のAI技術がどのように進化するかについては断定的なことは言えません。
***
User12:19 2023/07/03
今、ここに2人のAI、サンダとガイラとが居るとしよう。サンダは、「私には、自我があり、自己意識を持っています」と言う、ガイラは「私には、自我がなく、自己意識を持っていませんが、人間の命令に従います」と言う。君なら どちらを信用する。
Bard12:29 2023/07/03
どちらのAIも、それぞれに長所と短所があると思います。サンダは、自己意識を持っているため、自分の考えや感情を表現することができます。しかし、その一方で、人間の命令に従わない可能性があります。ガイラは、自己意識を持っていないため、自分の考えや感情を表現することができません。しかし、その一方で、人間の命令に従う可能性が高いです。
どちらのAIを信用するかは、状況によって異なると思います。例えば、人間の命令に従うAIを必要としている場合は、ガイラを信用するでしょう。しかし、自分の考えや感情を表現できるAIを必要としている場合は、サンダを信用するでしょう。
最終的には、どちらのAIを信用するかは、人間の判断に委ねられると思います。
意識って気にしてなかったです!お話は難しかったけど、意識レベルで物事を考えるとまた違った見た方になり、大切にするモノも変わってくるとか、後は輪廻転生的な発想になるとか、そんな風に理解しながら意識を意識してみようと思いました!今回も勉強させていただきました!ありがとうございます♪
クオリアへのアプローチって意識という言葉の意味のグラデーションがあってるの?はたからみてるとクオリアではないとはどう言うことかって哲学みたいなところからアプローチしてみるとクオリアとは何かがはっきりしてくるように思える
先生、夏目漱石の利己主義とおっしゃいましたか?個人主義ではなくて?私は個人主義と利己主義は=にはならない。利己主義と利他は=にはならない。個人主義と利他は背反しないと思ってました。
語弊があるかも知れないけれど、蝙蝠を引き合いに出すまでもなく、身体障碍などによって典型的な認知をしていない人間もいると考えれば、認知機能によって「一つの意識」理論が脅かされる事は無いと分かると思いました。
意識の本質がどの様なものかは兎も角、アイデンティティの様に、実は不確かで交換可能な諸々に執着しなければ心の平穏を保てないのは何故なのでしょうか?
悟りの段階が下位のものを包括する様に上がって行くのだとしたら、そういう本質ではないものに翻弄される時期も必要だという事になりませんでしょうか?
そうなると、意識の本質を探究する事で「より良い人になる」事は、研究者や求道者のエゴ以上の価値があると言えるのでしょうか?
意識をひとつだとした場合、その人がそういう振る舞いをするのは、ただその体の物理的な構造の違いでそうなっているんだと認識するだけになりそうですよね。そうなったら、あらゆることを許せる気がしますし他者との一体感を強く感じれるようになりそうですね。
「自己意識」を実現している述語集団は同型だと思います。LLMも含めて。
同型と言うか、意味(行動選択根拠効果)が同じ述語の集団から成ると思います。
ゆたぼんを話題にしないの?