【とうてい山古墳】西三河を代表する後期古墳

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  • Опубликовано: 21 дек 2024

Комментарии • 11

  • @SmileNicoNicoChannel
    @SmileNicoNicoChannel 8 месяцев назад

    ありがとうございます😊🙏🌟🌟🌟

    • @koukogaku
      @koukogaku  8 месяцев назад +1

      こちらこそありがとうございます。

  • @丸山康平-l2f
    @丸山康平-l2f 8 месяцев назад

    お、通知嬉しいな。
    仕事おわたら見ます

    • @koukogaku
      @koukogaku  8 месяцев назад +1

      いつもありがとうございます。またご覧くださいね。

  • @金子宏二
    @金子宏二 8 месяцев назад

    とうてい山というのは「とうとい人の山」という意味らしいですね。羨道部から見て玄室の袖部が左右に広がっているものが「両袖型」、右か左どちらか一方へ広がっているものが「片袖型」。写真を見ると「両袖型」なのがよく解りますね。奥壁の巨石が素晴らしい。しかし盗掘犯も几帳面に副葬品の写真を撮っているんですな。意外な感じがします。

    • @koukogaku
      @koukogaku  8 месяцев назад +1

      本当に物知りですね。凄いです。私も前回の写真以外にも盗掘犯が撮影していたことを初めて知りました。結構まめに撮っていたんですね。

    • @金子宏二
      @金子宏二 8 месяцев назад

      @@koukogaku 様 石室の両側に立柱石があると「疑似両袖式」と言われるようですね。6世紀後半の築造ということですと北部九州式から三河式に移った頃なので移行期と言うかどっちつかずの所があるんでしょうね。

  • @護美箱-d3n
    @護美箱-d3n 8 месяцев назад +4

    かなりの権力者のお墓で、壊されてしまったのが、残念です。
    もう一人合葬できそうですが、右側にも石棺があったのでしょうか❔。
    派手な壊し方。
    この中にもう一人分の石棺があるはずです。
    運良く鉄器類があれだけ、鍔、冠頭、鉄剣数振り、馬具類と玉飾り。派手に壊された割には、不幸中の幸いです。
    あの時持ち去られた須恵器には、骨壷が存在した可能性大。
    追葬はよく行いますし、古墳時代でも見かけられます。
    未盗掘だったらと思うと、これは心が痛い。
    朱塗りにする習慣は、九州の古墳には、沢山の事例があります。
    本州の古墳に阿蘇ピンク石を使用したと云うことも聞きました。
    九州の文化を真似てもおかしくはないのです。
    ちなみに、古墳時代は大きな内乱が無かったとも言いますね。
    きっと、エジプトのピラミッド建築の時が、地方の民を救い出しました。
    同じ事を、古墳時代にも有れば、コンビニの数よりも多い古墳を築けないとも思うし、モチベーションアップすれば、人間、なんでもできます✨
    長文失礼します
    (常習犯。(笑)

    • @koukogaku
      @koukogaku  8 месяцев назад +2

      常習犯大歓迎です(笑)。石棺はあるはずなんですが、今のところ未確認のようです。この古墳の近くに中之郷古墳という西三河の初期横穴式石室を持つ古墳があるのですが、この横穴式石室は北部九州の影響を受けているようです。それなりに交流はあったんでしょうね。

  • @上野武彦-o8t
    @上野武彦-o8t 4 месяца назад

    家の亡くなった、祖父は筑波山麓の縄文時代から、続く豪族の出身だったらしいですよ。
    とても血筋を大切にしていて、家の母は、群馬県藤岡市日野集落の山間地の出何ですが、群馬県藤岡市、(古墳時代は多胡郡)吉井町、富岡市、辺りには、古墳時代に中近東から、流れ住み着いた、羊大夫ちとゆう上野山碑有名な、伝説の人物なんですが、母方の祖父はその羊大夫の
    血統らしいですよ。😮

    • @koukogaku
      @koukogaku  3 месяца назад

      凄いですね!