Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
こんばんは。D51は大好きな機関車です。小さい頃に498号機が牽引する列車に乗ってからD51の大ファンになりました。先月、X(旧Twitter)で『D51とC58は中途半端な出来損ない』と言う人がいた時、私はカチンときました。C58はまだしも数々の伝説の走りを残し、C57と9600と共に蒸気機関車の終焉の一役を担ったD51を出来損ない呼ばわりするのがどうしても許せませんでした。この動画を視聴して一部欠点はあったものの、日本の蒸気機関車のエースだった事を証明されました。有難う御座います。
萩野優さん、ご視聴いただきありがとうございます。D51もC58も中途半端ではないですよね。性能が高くて走っている姿をどこでも見かけたので、そういうコメントが出てくるのでしょう。
小学校の時の写生の授業でD51を描きましたが、その機体はナメクジモデルだったのを覚えています
ご視聴頂きありがとうございます。ナメクジを好きになったのは長野の臨時列車の美しく磨かれた2号機で、昭和45年頃だったとおもいます。東京23区最後の蒸気が越中島の21号機のナメクジでしたね。
@@Yukkuri-Lab様、それは確か1972年の事、長野ー黒姫間で運行された「ファミリーD51」です。私は自宅が遠かったので見に行くこともできませんでしたが。
今回も勉強になります。主様ありがとうございます。D52の回で最初に見たSLは御殿場市に保存のD52 72と申し上げましたが、もしかしたら記憶にないだけで昭島市昭和公園のD51 451だったかも知れません。霊夢が挙げたD51の設計ポイントの中では、「美しい貨物機であること」が最も気になっています。
いつもご視聴頂きありがとうございます。ナメクジの設計にあたっては当時流行していた流線形の影響を受けたとされていますが、それ以上にドイツや英国の貨物機のエレガントさを取り入れたのではないかな?と思いました。鉄道省内でも英国派とドイツ派で主導権争いがあったと聞いています。
@@Yukkuri-Lab さん ナメクジの設計にあたっては、島秀雄が保守点検の煩雑さを招かない程度にオシャレ要素を付け加えようとしたのではないか?という推測を耳にしたことがあります。それにしても、スペックにしても「美しさ」にしてもなんやかんや言われながらも、生産数に加えて保存機の多さ、さらにこの動画再生回数の多さ…D51には点数化できない魅力的な何かがあるんでしょうね。
おっしゃる通り、C11とD51そしてC62だけで動画を回せれば、再生回数を稼げますね。英国を始め海外のは全然視聴者様受けせずダメです。でもこれをやったら以前あった「蒸気機関車」誌のように終わってしまいますし、按配が難しいです。
コメントありがとうございます。そのSNSのURLをご教授いただけないでしょうか。ご自身はグレズリー弁をどのように評価されますか?
お手間取らせました。ありがとうございます。これからゆっくり読んでみます。
自分はギースルエジェクタ装備機が好きです!
ご視聴頂きありがとうございます。ギースルは夕張の特集の動画にあげていますので、是非ご覧になってください。前から見ると薄っぺらいのですが横からですと迫力ありますね。
一般の人からD51以外の近代型蒸気機関車のことも「デゴイチ」と呼ばれたり、貨物用だが貨客両用機として扱われたり。そして、SLのシーンや体から湯気が出るシーン(チコちゃんの「ボーッと生きてんじゃねーよ!!」など)などのSEで「ボォー!」という汽笛の音源が使われるのもこの機関車が関係していたかも
ご視聴頂きありがとうございます。D51が蒸気機関車趣味の世界や一般の人に与えた影響は絶大でしたね。山手線の電車のような感覚だったような。現役時代はどこでもいつでも煤けていて、外観もインパクト少なかったのですが、わたしはナメクジは大好きです。それと変形個体を見つけるとかなりエキサイトしました。
D51は大東亜戦争という時代に作られたから、イケイケバンバンで作られたのだと思う。それでも牽引力が足りなかったからD52が作られた。
ご視聴頂きありがとうございます。おっしゃる通りイケイケで多くが製造されましたね。でも動画にもあるよう米国をはじめとする連合国の輸送力、機関車の製造力は桁外れていました。WWII前後は機関車というのは本当に国力を反映するものだとなぁと感心しています。D52が出来た時、これで戦争に勝てると思った人々も多かったのですね。
戦後海を渡ったD51の話をしましたが、それの捕捉の話。沖縄が本土に復帰した年に約70人程の沖縄の小学生が本土に招待され、名所、旧跡、地元の名物料理と歓迎を受けたが一番の記憶は門司機関庫で汽車を初めて見たのが(沖縄には鉄道が無く彼らに汽車の記憶は無い)印象的で後に汽車を沖縄にとの手紙が沢山送られその後D51222号が海を渡って現在那覇市の公園に保存されている。後一つ劇場版「きかんしゃトーマス」に登場する海の先の東の国(日本とは言ってない)から来た機関車HIROは言うまでもなくD51である
芋谷宏さん、ご視聴頂きありがとうございます。沖縄のD51、屋根が無いので現状あまり保存の程度が良くないようですね。まぁ、無理でしょうけど、蒸機が居た頃の国鉄の駅を再現してそこにD51を配置したりすると、見る人もなるほどねぇとなるでしょう。
D51とセキの長大編成大好きです。(セキには「道外禁止」の黄帯)
いつもご視聴とコメントをいただきありがとうございます。九州も石炭列車は多かったですが、北海道は格段に編成が長かった記憶あります。もう今の日本では石炭列車は無いですよね?大体石炭自体見たことが無い人が多いかもしれません。
工場でも鉄道でも暖房にも石炭が不可欠だった時代、その必要な石炭を運ぶのはD51だったからこそできた仕事だったかもしれませんね。60両とかいうセキを引き出せるのですからすごいです。これは他の機関車では真似のできない離業だったかもしれません。
単一の貨車だけの場合、引き出せれば後は楽で長大な編成が可能なのですね。勾配があるとダメでしょうが。
@@Yukkuri-Lab 最初に引き出すのがたいへんなのですね。D 51が単機で引き出していた編成を後継のDD51は重連で引き出していたそうです。
そのような話聞いた記憶有りますね。DD51は統括制御できるから人手は減るでしょうが、だからあんなに大量に製造されたのでしょうね。
九州北部地域はD51は門司機関区に集中配備されておりました。
ご視聴いただきありがとうございます。北九州のD51ですね、門司機関区ですね。C11もいましたよね。D51は鹿児島本線と筑豊本線がメインだったと思います。なかなか都会の中を走る風情が良かったです。
古い話で誠に恐縮ですが半世紀前の鉄道ファンの特集記事に門司機関区のD51が掲載されてましたナメクジ型 標準タイプ門デフ型 戦時型門デフ型1972(昭和47)年 15の時❗
私は昔から蒸気機関車一本で読む雑誌はキネマ旬報の蒸気機関車だけでした。最初の月刊誌の頃は酷かったですよ。でも面白かったです。総合鐡道雑誌はほとんど読んでいません。特にピクトリアルは年一回あるか無いかの蒸気特集の時だけでした。
@@Yukkuri-Lab 殿へいやぁ私なんか2006年の東海道本線電化50周年の特集で鉄道ピクトリアルを初めて読んだ次第です。若い頃(お子ちゃま)は特に地味でお堅い雰囲気が少々苦手でありました。
ピクトリアルは当時SLブームに唯一便乗しない雑誌として孤高の存在でしたね。
ある意味では、100点満点の車両なんてものは存在しないのかもしれない何か問題がある→改善する→それでも改善しきれない問題がある→新技術の投入、という感じで初期のD51形に空転が多かったのはバランスの問題もあるが、逆転機が動力式で細かい微調整ができなかったことも一因とされます
いつも見ていただきコメントも頂きありがとうございます。逆転機手動に変更していますね。カットオフの調整を経験と勘でやる機関士さんはすごいと思いますね。
デザイン的には初期型(ナメクジ)が好きです。記憶が今一つですが初期型で製造されたものが標準型に改造された例はあったのでしょうか?こどもの頃、新鶴見操車場に行くとD51が長大な貨車をハンプで押し上げている姿を見る事ができました。跨線橋はシンダーで真っ黒でした。
こちらも見ていただきありがとうございます。変形なめくじの54号機ですね。イラストのURLです→kitekinet.jp/pen/SL/D51.html昭和45年まで新鶴見はありましたね。C62-3の動画はその時の雰囲気をモチーフにイントロを作りました。
П-2344ではなくЛ-2344ですねЛ型蒸気機関車 愛称はПобеда「勝利」です。4199両生産されました。
ご視聴ご指摘ありがとうございます。キリル文字間違えて申し訳ございません。ソ連はポーランドの工場で製造された機関車多いんですよね。
急行も牽引出来る貨物機。
ご視聴ありがとうございます。急行列車ですか?すみません記憶を辿ってみたのですが思い当たらないのですが、お知らせいただけますか。奥中山の特急貨物をC60と三重蓮というのは知っているのですが。
視聴者様からお聞きして、信越線で急行白山を重連でけん引していたのを思い出しました!
D51の臨時急行牽引、一番大事な急行ニセコを忘れていました。呉線のあきも運用の都合でD51の時もあったようです。臨時だとあれこれ確かにありますね。
山口線の復活SLは最初D51-1の予定でしたが、集煙装置をつけれないのでC57-1になりました。D51-200にすれば良かったのに...。
ご視聴頂きありがとうございます。そのお話聞いたことがあります。わざわざ山口線ではなくて、山陰線ならば1号機を走らせられるし、古巣でしたよね。
@@Yukkuri-Labキネ旬「蒸気機関車」S54頃ろに、「D51 200は、きりの良い番号故保存されたため、好調機ではないので、本線での動態保存には適さない」旨の記事があったように記憶しています。近年200が復活しましたが、故障がちで満足に年間の運用をこなしていないのを見るにつけ、この記事を思い出します。
D51 の製造された数は1,1 07が本当の製造です戦時買収というかたちで恵須取鉄道から864と865胆振縦貫鉄道が950~954日本窒素が1,161計8両を編入して合計1,115両になります。あと青森ではD51 のトップナンバーが昭和46年9月30日に青森~弘前間のSLさようなら列車を牽引しております。
ご視聴いただいてありがとうございます。細かな台数の情報ありがとうございます。タイ向けのミカドはベースがD51だと思います。こちらも島秀雄が関わっていたはずですね。
@@Yukkuri-Labただ設計の要点は汽車会社の髙田隆雄氏が抑えてた印象が
うら~ 汽笛がソ連と同じ音色は何故か?気になってます。もうすぐ本線から蒸気が消えて半世紀 実際に乗務された方の機関士 機関助士 整備の方のお話が聞けなくなる前に経験談等残してほしいですね。
ご視聴頂きありがとうございます。おそらく当時機関助手だった方々で最も若くても現在74,5歳ですよね。また特に蒸気機関車の乗務員は過酷な仕事環境で長寿の方が少ないとも聞いております。昨今常々昭和が遠くなったなと思うと同時に、歴史の生き証人の方々が鬼籍に入られとても悲しい思いです。蒸気機関車が走っていたころ、よく親戚から226事件、大東亜戦争、満州の話を聞かされていましたね。
蒸気機関車EXという雑誌があります。当時機関士や機関助士だった人たちのインタービュー記事が、たくさん載っています。その中で、D51の感想は、貨物1000t列車を単機牽引する時の苦労話とセットです。D50との比較はあまり出てきません。21世紀に生き残っている方の内、D50の乗務経験が豊富な方がほとんど亡くなっているためのようです。あと、メカニカルストーカーの悪口も、たくさん載っています。
コメントありがとうございます。メカニカルストーカー、梅小路のC62は外しているのでしょうか?高崎のC61は外したと聞いた記憶が。延岡で日豊本線の機関士さんから聞いた時はC61のストーカーはほとんど使わないよと言うことでした。
きかんしゃトーマスのヒロの原型機でもありますね。標準軌改軌から螺旋式連結器への換装(C11には紀勢中線対応で存在したがD51では皆無)、トーマスたちと仕様を合わせるため真空ブレーキへの改造とどんだけ魔改造されてんだか。(苦笑)回転式火の粉止めは蒸気機関車研究家の故・臼井茂信氏も「1にパー付き、2に二つ目」と「蒸機の形態悪」と酷評し、著書「蒸気機関車の系譜図」にも「機関車に生あらば見せたくない姿もあろうかと考え」と写真を掲載しなかったくらいでした。(※「二つ目」:ヘッドライトの脇に付けた補助灯)
ご視聴頂きありがとうございます。ヒロは実際にそのようにしたものがあるのですか?私はトーマス全く知らないので。ドラマの中だけのことですよね。ところで、私はお皿の回転火の粉止めとデフの点検穴の開けっ放しがダメです。シールドビームは気にしないようにしています。北海道のデフ切りつめも大丈夫かな。一番許したくないのは、機関車へのゲバ文字ですね。
@@Yukkuri-Lab 様標準軌仕様のD51は大陸に渡る仕様として計画されたそうですが計画のみに終わりましたからドラマの架空の仕様ですね。(台湾,サハリンのD51は共にサブロク)大井川鐡道では千頭駅の9600がヒロのコスプレをしました。
教えて頂きありがとうございます。大井川のヒロはこのチャンネルの動画でアップしています。
そういえば ですが 何歳ですか?こんなに 貴重な 蒸気機関車の写真を撮っているということで驚きました。
ご視聴頂き有難うございます。霊夢は私が慶応元年生まれと言ってますが、実のところ私にも分かりません。でも意識して動力車の写真を撮る様になったのは最近です。ヨンサントウの前後ですね。
D51よりD50 を欲しがった機関区がありますよね?でもどちらを使うかはケースバイケースですよね。ある程度等級の低い線区ではD51(あれっ?空転するなら9600でいいの方がいいのでは?)を使うとか。島技師は何故軸重を軽くしたのにボイラー圧力を上げたのでしょうか?ボイラー圧を上げたなら軸数を増やしたら良かったのに…。4100わ参考にすれば乙線でも入れたでしょうに…。
ご視聴頂き有難う御座います。動画にある仕様書に見えますが、両機ではシリンダーのボアxストロークが異なっていて、圧力アップを調整している様ですね。
@@Yukkuri-Lab tということはD50より速くなるんですね。
簡易的に機関車の最高速を求めるのは、狭軌鉄道の場合、簡略計算ではV=56.5D (Dは動輪直径メートル)ですから、D51もD50も79km/hとなります。機関車の機械部品の抵抗は新しいD51の方が少ないだろうとみれば、D51の方が若干速いかもしれませんが、運転技術によるものとか振動とかもありますので、ハッキリわかりません。WikiにはD51は85km/hとあり、D50は70km/hと明確な違いを示していますが、私は同じだろうと思っています。
コメントありがとうございます。そうですね、線路の半径の制約もありましたね。名古屋港のC50が遅くまで残ったのは、途中の線路の半径の関係で、改修してやっとDL化した記憶あります。
@@Yukkuri-Lab 速さの違いは誤差程度ってこうですか。じゃあD50ももっと復活してほしいです。
D51は四国では戦後の一時期に土讃線で走った以外は四国での走行記録はありません…まぁ鳥越トンネルという断面が小さすぎるトンネルのせいでしょうけど…それで何周年かの記念オレンジカードに当時の写真が掲載されていて驚きました!それにしてもopソ連国歌はワロタ
ご視聴いただきありがとうございます。ご指摘の通り動画に四国は走っていなかった、とコメント入れるべきだったと後で反省しました。四国は無煙化が一番早かったですので出向くチャンスがなかったです。ソ連国歌ですがちゃんとロシア国歌ではなく当時ものを選んで使いました。彼の国の機関車は謎が多いのですが、その台数は凄まじいですね。
スーパーナメクジ!! D51 23or22保存してほしかったなぁ
走行写真は見たことないんですよ。ノーマルのナメクジに戻された?ようですが、極めて短期間だったのでしょうね。
確かに鉄道模型は多いですけど。
レアな形で模型にすると楽しそうです。
D51よりD50の方が性能的に良かったと思う。
スピードが遅くてもデゴマルのほうが空転しにくかったようですね。貨物牽引機としてはその方が良いですね。
ご視聴頂きありがとうございます。そうですね、D50のほうが総合的には上でしょう。入線できる線路や転車台の問題はありますが、本当にD50レベルが必要ならば線路を強化できるでしょう。私は、D51がとってかわったのは新設計もありますが、製造、資材コストが圧倒的に安かったからと思っています。
ご視聴、貴重なコメントをいただきありがとうございます。D51は貨物機として優秀ですよね。同じ時期に新車が両方あったとしたら、スペック上の性能はD50の方が上では無いかと思います。ただしD50は価格が高い、軸重重い。からD51が選択されるでしょうし、現実にはD50は車齢が進んでいましたから選択肢には登らないでしょう。
@@井今智世 D 51は蒸気圧が最初は14k後で15kになり石炭消費も少なくスピードも出るようになりましたのでバランスの良いカマになったのでしょうね。空転に有利と言えばやはり9600かD50なのですが、おっしゃる通り蒸機を扱う国鉄マンもデゴイチの扱いに慣れていったのでしょうね。
@@pupo2298 D50初期型スピードは遅くないです、特急燕の後補機で90キロ以上出していたそうです、D50が制限速度が掛かるのはバネが上バネになってからです、当時の機関士も初期車は乗り心地が良いと言っていたそうです。
満鉄は米国から同じ合成弁装置を持った三気筒機のミカニを輸入して満鉄工場と内地メーカーでコピー生産してるが,川崎・汽車ではC53とミカニが同時に生産されていた.そのミカニは主動輪の軸が折れることがあったが,C53と違って出渋りも無く,無煙化が遅れた中国でのこととはいえ,C53よりもずっと長命を保って1980年代まで使われた.C53は鉄道省独自アレンジを批判されて当然の出来であった.
F M さん、ご視聴いただきありがとうございます。以前のC53動画でミカニを紹介したことがあるのですが、ミカニがあれほど中国で長生きしていたことはかなり衝撃でした。潤滑周りに秀でていました。
空襲とか戦災廃車ありそうな
ご視聴頂きありがとうございます。戦闘機による空襲は良くあって、ボイラーに穴が開くのでトンネルに逃げ込んだという話を聞いたことがあります。でも機関区が直撃で爆撃を受けて機関車が炎上したという話は聞いていませんね。
@@Yukkuri-Lab さん機関区が目標にされたのはないですが、操車場の戦略爆撃は8月14日の麻里布(岩国)操車場から始めてます。(確か戦災廃車となった機関車もいたと記憶)もう少し長引いていたらイギリス軍のランカスターが関門トンネルに10t爆弾グラントスラムを落とす予定だったとか…
95点と言うことは運転席の狭さと発進時に空転しやすい事で減点されたか?癖がなく平坦路線では使いやすかったという。話は逸れますが半世紀余り前の「おおいなる旅路」という番組でD51にC6241と書いたナンバープレートを付けていた。やむを得ないかもしれないけど滑稽だったな
SKTさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。95点ではだめなんでしょうね。島秀雄としては。大いなる旅路は毎週見ていました。「旅は長く遠く、型のに重く・・・」、蒸気も少なくなった昭和47年頃だったでしょうか?NHKの朝の旅路も見ていたのですが。あの頃は無理しなくても、すぐ明治ぐらいのシーンは作れましたね。
何度でも言います。ナメクジどっか動態保存してください。
石井さん、ご視聴いただきありがとうございます。ナメクジと戦時系のD51は好きなのですが、どちらも動態ないですね。津山の2号機そのうち圧縮空気で動くようになるかもしれませんね。
D51、有名でこそあったが設計はお世辞にもいいとは言えなかったって聞いたんですが…
ご視聴コメント頂きありがとうございます。おっしゃる通りですね。動画でも設計には問題があるが、数を多く作った事で乗務員、保守部門が慣れていったと説明しております。95点のD51と言うのは、設計者の言葉のブーメランのつもりです。露骨には批判する事はできません。
実際には失敗作も良いところで平坦線区の貨物列車牽引にしか使えないのが実態まず新製配備された敦賀機関区では試運転で空転事故を多発させ、2年で稲沢のD50と交換され(この時「こんな欠陥機こそ大陸に追放して出征予定の9600回せ」とまで酷評されてます。)その責任を取る形で島秀雄は海外留学と言う形で追放細川技師が改良したものの、燃焼室付にして重心を前に寄せると言う空転問題の切り札を取るフロントデッキに死重搭載する(戦時型)などの抜本対策を怠った為根治には至らず戦後敦賀機関区では集煙装置を取り付けたのはこの空転癖根治も目的です。この為後年、空転癖があるのを熟知していたベテラン機関士が高架区間へのアプローチ部分での停車を躊躇って本線に誤進入させて旅客線から入る電車に衝突すると言う三河島事故の原因も作ってます。設計者の島秀雄が国鉄を解雇され、更に自身が作った鉄道友の会からも追放された挙句新幹線開通式にさえ呼ばれなかったのはこの為ちなみに島秀雄はその後悲惨な状況に同情した糸川英夫技師に拾われてJAXAに入ってます。
ごちらもご視聴いただき有難うございます。D51の評価や島秀雄の評価に様々意見があることは昔から知っております。D50を継続生産しても良かったかもしれないとも考えたこともあります。おそらくD51の方が圧倒的にコストが低かったのでしょうね。島秀雄は私は動画では批判的に述べることが多いのですが、おっしゃる内容を理解してのことです。しかし公開動画ですから一方的に私見を言うのは極力避けています。D51が95点とも思っていません。島秀雄の言質を捉えてそのようにように修飾しているものです。
@@Yukkuri-Lab さんちなみに晩年SLファンからは又D51かと言う声もあったそうです。ちなみに集煙装置をつけたのは運転室に煙が上がって来ないようにする以上に前軸に少しでも軸重をかけて空転を予防するためです。
私はD51だけのところは足がなかなか向かなかったです。フィルム代ももったいなかったですから。今のファンもそうでしょうが、動画でも言っていますが、意外なところで意外な編成で登場することが多かったD51はおもしろかったですね。
こんばんは。D51は大好きな機関車です。
小さい頃に498号機が牽引する列車に乗ってからD51の大ファンになりました。
先月、X(旧Twitter)で『D51とC58は中途半端な出来損ない』と言う人がいた時、私はカチンときました。
C58はまだしも数々の伝説の走りを残し、C57と9600と共に蒸気機関車の終焉の一役を担ったD51を出来損ない呼ばわりするのがどうしても許せませんでした。
この動画を視聴して一部欠点はあったものの、日本の蒸気機関車のエースだった事を証明されました。有難う御座います。
萩野優さん、ご視聴いただきありがとうございます。
D51もC58も中途半端ではないですよね。性能が高くて走っている姿をどこでも見かけたので、そういうコメントが出てくるのでしょう。
小学校の時の写生の授業でD51を描きましたが、その機体はナメクジモデルだったのを覚えています
ご視聴頂きありがとうございます。
ナメクジを好きになったのは長野の臨時列車の美しく磨かれた2号機で、昭和45年頃だったとおもいます。東京23区最後の蒸気が越中島の21号機のナメクジでしたね。
@@Yukkuri-Lab様、それは確か1972年の事、長野ー黒姫間で運行された「ファミリーD51」です。私は自宅が遠かったので見に行くこともできませんでしたが。
今回も勉強になります。主様ありがとうございます。
D52の回で最初に見たSLは御殿場市に保存のD52 72と申し上げましたが、もしかしたら記憶にないだけで昭島市昭和公園のD51 451だったかも知れません。
霊夢が挙げたD51の設計ポイントの中では、「美しい貨物機であること」が最も気になっています。
いつもご視聴頂きありがとうございます。
ナメクジの設計にあたっては当時流行していた流線形の影響を受けたとされていますが、それ以上にドイツや英国の貨物機のエレガントさを取り入れたのではないかな?と思いました。鉄道省内でも英国派とドイツ派で主導権争いがあったと聞いています。
@@Yukkuri-Lab さん ナメクジの設計にあたっては、島秀雄が保守点検の煩雑さを招かない程度にオシャレ要素を付け加えようとしたのではないか?という推測を耳にしたことがあります。それにしても、スペックにしても「美しさ」にしてもなんやかんや言われながらも、生産数に加えて保存機の多さ、さらにこの動画再生回数の多さ…D51には点数化できない魅力的な何かがあるんでしょうね。
おっしゃる通り、C11とD51そしてC62だけで動画を回せれば、再生回数を稼げますね。英国を始め海外のは全然視聴者様受けせずダメです。でもこれをやったら以前あった「蒸気機関車」誌のように終わってしまいますし、按配が難しいです。
コメントありがとうございます。
そのSNSのURLをご教授いただけないでしょうか。
ご自身はグレズリー弁をどのように評価されますか?
お手間取らせました。ありがとうございます。これからゆっくり読んでみます。
自分はギースルエジェクタ装備機が好きです!
ご視聴頂きありがとうございます。ギースルは夕張の特集の動画にあげていますので、是非ご覧になってください。前から見ると薄っぺらいのですが横からですと迫力ありますね。
一般の人からD51以外の近代型蒸気機関車のことも「デゴイチ」と呼ばれたり、貨物用だが貨客両用機として扱われたり。
そして、SLのシーンや体から湯気が出るシーン(チコちゃんの「ボーッと生きてんじゃねーよ!!」など)などのSEで「ボォー!」という汽笛の音源が使われるのもこの機関車が関係していたかも
ご視聴頂きありがとうございます。D51が蒸気機関車趣味の世界や一般の人に与えた影響は絶大でしたね。山手線の電車のような感覚だったような。
現役時代はどこでもいつでも煤けていて、外観もインパクト少なかったのですが、わたしはナメクジは大好きです。それと変形個体を見つけるとかなりエキサイトしました。
D51は大東亜戦争という時代に作られたから、イケイケバンバンで作られたのだと思う。それでも牽引力が足りなかったからD52が作られた。
ご視聴頂きありがとうございます。おっしゃる通りイケイケで多くが製造されましたね。でも動画にもあるよう米国をはじめとする連合国の輸送力、機関車の製造力は桁外れていました。WWII前後は機関車というのは本当に国力を反映するものだとなぁと感心しています。
D52が出来た時、これで戦争に勝てると思った人々も多かったのですね。
戦後海を渡ったD51の話をしましたが、それの捕捉の話。沖縄が本土に復帰した年に約70人程の沖縄の小学生が本土に招待され、名所、旧跡、地元の名物料理と歓迎を受けたが一番の記憶は門司機関庫で汽車を初めて見たのが(沖縄には鉄道が無く彼らに汽車の記憶は無い)印象的で後に汽車を沖縄にとの手紙が沢山送られその後D51222号が海を渡って現在那覇市の公園に保存されている。後一つ劇場版「きかんしゃトーマス」に登場する海の先の東の国(日本とは言ってない)から来た機関車HIROは言うまでもなくD51である
芋谷宏さん、ご視聴頂きありがとうございます。
沖縄のD51、屋根が無いので現状あまり保存の程度が良くないようですね。
まぁ、無理でしょうけど、蒸機が居た頃の国鉄の駅を再現してそこにD51を配置したりすると、見る人もなるほどねぇとなるでしょう。
D51とセキの長大編成大好きです。
(セキには「道外禁止」の黄帯)
いつもご視聴とコメントをいただきありがとうございます。
九州も石炭列車は多かったですが、北海道は格段に編成が長かった記憶あります。
もう今の日本では石炭列車は無いですよね?
大体石炭自体見たことが無い人が多いかもしれません。
工場でも鉄道でも暖房にも石炭が不可欠だった時代、その必要な石炭を運ぶのはD51だったからこそできた仕事だったかもしれませんね。60両とかいうセキを引き出せるのですからすごいです。これは他の機関車では真似のできない離業だったかもしれません。
単一の貨車だけの場合、引き出せれば後は楽で長大な編成が可能なのですね。
勾配があるとダメでしょうが。
@@Yukkuri-Lab 最初に引き出すのがたいへんなのですね。D 51が単機で引き出していた編成を後継のDD51は重連で引き出していたそうです。
そのような話聞いた記憶有りますね。DD51は統括制御できるから人手は減るでしょうが、だからあんなに大量に製造されたのでしょうね。
九州北部地域はD51は
門司機関区に集中配備
されておりました。
ご視聴いただきありがとうございます。北九州のD51ですね、門司機関区ですね。C11もいましたよね。D51は鹿児島本線と筑豊本線がメインだったと思います。なかなか都会の中を走る風情が良かったです。
古い話で誠に恐縮ですが
半世紀前の鉄道ファンの
特集記事に門司機関区の
D51が掲載されてました
ナメクジ型 標準タイプ
門デフ型 戦時型門デフ型
1972(昭和47)年 15の時❗
私は昔から蒸気機関車一本で読む雑誌はキネマ旬報の蒸気機関車だけでした。最初の月刊誌の頃は酷かったですよ。でも面白かったです。
総合鐡道雑誌はほとんど読んでいません。特にピクトリアルは年一回あるか無いかの蒸気特集の時だけでした。
@@Yukkuri-Lab 殿へ
いやぁ私なんか2006年の
東海道本線電化50周年の
特集で鉄道ピクトリアル
を初めて読んだ次第です。
若い頃(お子ちゃま)は特に
地味でお堅い雰囲気が
少々苦手でありました。
ピクトリアルは当時SLブームに唯一便乗しない雑誌として孤高の存在でしたね。
ある意味では、100点満点の車両なんてものは存在しないのかもしれない
何か問題がある→改善する→それでも改善しきれない問題がある→新技術の投入、という感じで
初期のD51形に空転が多かったのはバランスの問題もあるが、逆転機が動力式で細かい微調整ができなかったことも一因とされます
いつも見ていただきコメントも頂きありがとうございます。
逆転機手動に変更していますね。カットオフの調整を経験と勘でやる機関士さんはすごいと思いますね。
デザイン的には初期型(ナメクジ)が好きです。記憶が今一つですが初期型で製造されたものが標準型に改造された例はあったのでしょうか?
こどもの頃、新鶴見操車場に行くとD51が長大な貨車をハンプで押し上げている姿を見る事ができました。跨線橋はシンダーで真っ黒でした。
こちらも見ていただきありがとうございます。変形なめくじの54号機ですね。イラストのURLです→kitekinet.jp/pen/SL/D51.html
昭和45年まで新鶴見はありましたね。C62-3の動画はその時の雰囲気をモチーフにイントロを作りました。
П-2344ではなくЛ-2344ですね
Л型蒸気機関車 愛称はПобеда「勝利」です。
4199両生産されました。
ご視聴ご指摘ありがとうございます。キリル文字間違えて申し訳ございません。
ソ連はポーランドの工場で製造された機関車多いんですよね。
急行も牽引出来る貨物機。
ご視聴ありがとうございます。急行列車ですか?すみません記憶を辿ってみたのですが思い当たらないのですが、お知らせいただけますか。奥中山の特急貨物をC60と三重蓮というのは知っているのですが。
視聴者様からお聞きして、信越線で急行白山を重連でけん引していたのを思い出しました!
D51の臨時急行牽引、一番大事な急行ニセコを忘れていました。呉線のあきも運用の都合でD51の時もあったようです。臨時だとあれこれ確かにありますね。
山口線の復活SLは最初D51-1の予定でしたが、集煙装置をつけれないのでC57-1になりました。D51-200にすれば良かったのに...。
ご視聴頂きありがとうございます。そのお話聞いたことがあります。わざわざ山口線ではなくて、山陰線ならば1号機を走らせられるし、古巣でしたよね。
@@Yukkuri-Labキネ旬「蒸気機関車」S54頃ろに、「D51 200は、きりの良い番号故保存されたため、好調機ではないので、本線での動態保存には適さない」旨の記事があったように記憶しています。近年200が復活しましたが、故障がちで満足に年間の運用をこなしていないのを見るにつけ、この記事を思い出します。
D51 の製造された数は1,1 07が本当の製造です
戦時買収というかたちで
恵須取鉄道から864と865
胆振縦貫鉄道が950~954
日本窒素が1,161
計8両を編入して合計1,115両になります。
あと青森ではD51 のトップナンバーが
昭和46年9月30日に青森~弘前間の
SLさようなら列車を牽引しております。
ご視聴いただいてありがとうございます。
細かな台数の情報ありがとうございます。
タイ向けのミカドはベースがD51だと思います。こちらも島秀雄が関わっていたはずですね。
@@Yukkuri-Lab
ただ設計の要点は汽車会社の髙田隆雄氏が抑えてた印象が
うら~ 汽笛がソ連と同じ音色は何故か?気になってます。
もうすぐ本線から蒸気が消えて半世紀 実際に乗務された方の機関士 機関助士 整備の方のお話が聞けなくなる前に経験談等残してほしいですね。
ご視聴頂きありがとうございます。おそらく当時機関助手だった方々で最も若くても現在74,5歳ですよね。また特に蒸気機関車の乗務員は過酷な仕事環境で長寿の方が少ないとも聞いております。
昨今常々昭和が遠くなったなと思うと同時に、歴史の生き証人の方々が鬼籍に入られとても悲しい思いです。
蒸気機関車が走っていたころ、よく親戚から226事件、大東亜戦争、満州の話を聞かされていましたね。
蒸気機関車EXという雑誌があります。
当時機関士や機関助士だった人たちのインタービュー記事が、たくさん載っています。
その中で、D51の感想は、貨物1000t列車を単機牽引する時の苦労話とセットです。
D50との比較はあまり出てきません。
21世紀に生き残っている方の内、D50の乗務経験が豊富な方がほとんど亡くなっているためのようです。
あと、メカニカルストーカーの悪口も、たくさん載っています。
コメントありがとうございます。メカニカルストーカー、梅小路のC62は外しているのでしょうか?高崎のC61は外したと聞いた記憶が。
延岡で日豊本線の機関士さんから聞いた時はC61のストーカーはほとんど使わないよと言うことでした。
きかんしゃトーマスのヒロの原型機でもありますね。
標準軌改軌から螺旋式連結器への換装(C11には紀勢中線対応で存在したがD51では皆無)、トーマスたちと
仕様を合わせるため真空ブレーキへの改造とどんだけ魔改造されてんだか。(苦笑)
回転式火の粉止めは蒸気機関車研究家の故・臼井茂信氏も「1にパー付き、2に二つ目」と「蒸機の形態悪」と
酷評し、著書「蒸気機関車の系譜図」にも「機関車に生あらば見せたくない姿もあろうかと考え」と
写真を掲載しなかったくらいでした。
(※「二つ目」:ヘッドライトの脇に付けた補助灯)
ご視聴頂きありがとうございます。ヒロは実際にそのようにしたものがあるのですか?私はトーマス全く知らないので。ドラマの中だけのことですよね。
ところで、私はお皿の回転火の粉止めとデフの点検穴の開けっ放しがダメです。シールドビームは気にしないようにしています。北海道のデフ切りつめも大丈夫かな。
一番許したくないのは、機関車へのゲバ文字ですね。
@@Yukkuri-Lab 様
標準軌仕様のD51は大陸に渡る仕様として計画されたそうですが計画のみに終わりましたから
ドラマの架空の仕様ですね。(台湾,サハリンのD51は共にサブロク)
大井川鐡道では千頭駅の9600がヒロのコスプレをしました。
教えて頂きありがとうございます。大井川のヒロはこのチャンネルの動画でアップしています。
そういえば ですが 何歳ですか?こんなに 貴重な 蒸気機関車の写真を撮っているということで驚きました。
ご視聴頂き有難うございます。
霊夢は私が慶応元年生まれと言ってますが、実のところ私にも分かりません。でも意識して動力車の写真を撮る様になったのは最近です。ヨンサントウの前後ですね。
D51よりD50 を欲しがった機関区がありますよね?でもどちらを使うかはケースバイケースですよね。ある程度等級の低い線区ではD51(あれっ?空転するなら9600でいいの方がいいのでは?)を使うとか。
島技師は何故軸重を軽くしたのにボイラー圧力を上げたのでしょうか?ボイラー圧を上げたなら軸数を増やしたら良かったのに…。4100わ参考にすれば乙線でも入れたでしょうに…。
ご視聴頂き有難う御座います。動画にある仕様書に見えますが、両機ではシリンダーのボアxストロークが異なっていて、圧力アップを調整している様ですね。
@@Yukkuri-Lab tということはD50より速くなるんですね。
簡易的に機関車の最高速を求めるのは、狭軌鉄道の場合、簡略計算ではV=56.5D (Dは動輪直径メートル)ですから、D51もD50も79km/hとなります。機関車の機械部品の抵抗は新しいD51の方が少ないだろうとみれば、D51の方が若干速いかもしれませんが、運転技術によるものとか振動とかもありますので、ハッキリわかりません。WikiにはD51は85km/hとあり、D50は70km/hと明確な違いを示していますが、私は同じだろうと思っています。
コメントありがとうございます。そうですね、線路の半径の制約もありましたね。
名古屋港のC50が遅くまで残ったのは、途中の線路の半径の関係で、改修してやっとDL化した記憶あります。
@@Yukkuri-Lab 速さの違いは誤差程度ってこうですか。
じゃあD50ももっと復活してほしいです。
D51は四国では戦後の一時期に土讃線で走った以外は四国での走行記録はありません…
まぁ鳥越トンネルという断面が小さすぎるトンネルのせいでしょうけど…
それで何周年かの記念オレンジカードに当時の写真が掲載されていて驚きました!
それにしてもopソ連国歌はワロタ
ご視聴いただきありがとうございます。ご指摘の通り動画に四国は走っていなかった、とコメント入れるべきだったと後で反省しました。四国は無煙化が一番早かったですので出向くチャンスがなかったです。ソ連国歌ですがちゃんとロシア国歌ではなく当時ものを選んで使いました。
彼の国の機関車は謎が多いのですが、その台数は凄まじいですね。
スーパーナメクジ!! D51 23or22保存してほしかったなぁ
走行写真は見たことないんですよ。
ノーマルのナメクジに戻された?ようですが、極めて短期間だったのでしょうね。
確かに鉄道模型は多いですけど。
レアな形で模型にすると楽しそうです。
D51よりD50の方が性能的に良かったと思う。
スピードが遅くてもデゴマルのほうが空転しにくかったようですね。貨物牽引機としてはその方が良いですね。
ご視聴頂きありがとうございます。そうですね、D50のほうが総合的には上でしょう。入線できる線路や転車台の問題はありますが、本当にD50レベルが必要ならば線路を強化できるでしょう。
私は、D51がとってかわったのは新設計もありますが、製造、資材コストが圧倒的に安かったからと思っています。
ご視聴、貴重なコメントをいただきありがとうございます。D51は貨物機として優秀ですよね。同じ時期に新車が両方あったとしたら、スペック上の性能はD50の方が上では無いかと思います。
ただしD50は価格が高い、軸重重い。からD51が選択されるでしょうし、現実にはD50は車齢が進んでいましたから選択肢には登らないでしょう。
@@井今智世 D 51は蒸気圧が最初は14k後で15kになり石炭消費も少なくスピードも出るようになりましたのでバランスの良いカマになったのでしょうね。空転に有利と言えばやはり9600かD50なのですが、おっしゃる通り蒸機を扱う国鉄マンもデゴイチの扱いに慣れていったのでしょうね。
@@pupo2298 D50初期型スピードは遅くないです、特急燕の後補機で90キロ以上出していたそうです、D50が制限速度が掛かるのはバネが上バネになってからです、当時の機関士も初期車は乗り心地が良いと言っていたそうです。
満鉄は米国から同じ合成弁装置を持った三気筒機のミカニを輸入して満鉄工場と内地メーカーでコピー生産してるが,川崎・汽車ではC53とミカニが同時に生産されていた.そのミカニは主動輪の軸が折れることがあったが,C53と違って出渋りも無く,無煙化が遅れた中国でのこととはいえ,C53よりもずっと長命を保って1980年代まで使われた.C53は鉄道省独自アレンジを批判されて当然の出来であった.
F M さん、ご視聴いただきありがとうございます。以前のC53動画でミカニを紹介したことがあるのですが、ミカニがあれほど中国で長生きしていたことはかなり衝撃でした。潤滑周りに秀でていました。
空襲とか戦災廃車ありそうな
ご視聴頂きありがとうございます。戦闘機による空襲は良くあって、ボイラーに穴が開くのでトンネルに逃げ込んだという話を聞いたことがあります。でも機関区が直撃で爆撃を受けて機関車が炎上したという話は聞いていませんね。
@@Yukkuri-Lab さん
機関区が目標にされたのはないですが、操車場の戦略爆撃は8月14日の麻里布(岩国)操車場から始めてます。
(確か戦災廃車となった機関車もいたと記憶)
もう少し長引いていたらイギリス軍のランカスターが関門トンネルに10t爆弾グラントスラムを落とす予定だったとか…
95点と言うことは運転席の狭さと発進時に空転しやすい事で減点されたか?癖がなく平坦路線では使いやすかったという。話は逸れますが半世紀余り前の「おおいなる旅路」という番組でD51にC6241と書いたナンバープレートを付けていた。やむを得ないかもしれないけど滑稽だったな
SKTさん、いつもご視聴頂きありがとうございます。
95点ではだめなんでしょうね。島秀雄としては。
大いなる旅路は毎週見ていました。「旅は長く遠く、型のに重く・・・」、蒸気も少なくなった昭和47年頃だったでしょうか?NHKの朝の旅路も見ていたのですが。あの頃は無理しなくても、すぐ明治ぐらいのシーンは作れましたね。
何度でも言います。ナメクジどっか動態保存してください。
石井さん、ご視聴いただきありがとうございます。ナメクジと戦時系のD51は好きなのですが、どちらも動態ないですね。津山の2号機そのうち圧縮空気で動くようになるかもしれませんね。
D51、有名でこそあったが設計はお世辞にもいいとは言えなかったって聞いたんですが…
ご視聴コメント頂きありがとうございます。
おっしゃる通りですね。動画でも設計には問題があるが、数を多く作った事で乗務員、保守部門が慣れていったと説明しております。
95点のD51と言うのは、設計者の言葉のブーメランのつもりです。露骨には批判する事はできません。
実際には失敗作も良いところで
平坦線区の貨物列車牽引にしか使えないのが実態
まず新製配備された敦賀機関区では試運転で空転事故を多発させ、2年で稲沢のD50と交換され(この時「こんな欠陥機こそ大陸に追放して出征予定の9600回せ」とまで酷評されてます。)
その責任を取る形で島秀雄は海外留学と言う形で追放
細川技師が改良したものの、
燃焼室付にして重心を前に寄せると言う空転問題の切り札を取る
フロントデッキに死重搭載する(戦時型)
などの抜本対策を怠った為根治には至らず
戦後敦賀機関区では集煙装置を取り付けたのはこの空転癖根治も目的です。
この為後年、空転癖があるのを熟知していたベテラン機関士が高架区間へのアプローチ部分での停車を躊躇って本線に誤進入させて旅客線から入る電車に衝突すると言う
三河島事故の原因も作ってます。
設計者の島秀雄が国鉄を解雇され、更に自身が作った鉄道友の会からも追放された挙句新幹線開通式にさえ呼ばれなかったのはこの為
ちなみに島秀雄はその後
悲惨な状況に同情した糸川英夫技師に拾われてJAXAに入ってます。
ごちらもご視聴いただき有難うございます。D51の評価や島秀雄の評価に様々意見があることは昔から知っております。D50を継続生産しても良かったかもしれないとも考えたこともあります。おそらくD51の方が圧倒的にコストが低かったのでしょうね。
島秀雄は私は動画では批判的に述べることが多いのですが、おっしゃる内容を理解してのことです。しかし公開動画ですから一方的に私見を言うのは極力避けています。
D51が95点とも思っていません。島秀雄の言質を捉えてそのようにように修飾しているものです。
@@Yukkuri-Lab さん
ちなみに晩年SLファンからは
又D51か
と言う声もあったそうです。
ちなみに集煙装置をつけたのは
運転室に煙が上がって来ないようにする以上に
前軸に少しでも軸重をかけて空転を予防するためです。
私はD51だけのところは足がなかなか向かなかったです。フィルム代ももったいなかったですから。今のファンもそうでしょうが、動画でも言っていますが、意外なところで意外な編成で登場することが多かったD51はおもしろかったですね。