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牢屋敷の話は中々ないだけに貴重です。
元々は一般庶民と無宿者を区別せず大牢や二間牢に一括して収容していたけど、犯罪傾向が進んでいる無宿者が一般庶民に悪影響を与えることが多かったため、1755年に「人別帳に記載がある一般庶民は東牢、人別帳に記載が無い無宿者は西牢」と分けて収容するようになった。
新作待ってました、とても分かりやすい解説でいつも楽しみにしています♪
待ってました❗華やかな江戸文化もあれば、その陰の文化もございます😢動画に取り上げてくれてありがとうございます❗
貴重なお話ありがとうございました。火盗改めさんとか激務だったでしょうね。牢名主が誕生して獄中の秩序が保たれるのは、その掟の厳しさは置いておいていいことですね。どんな所でも最大限快適に過ごそうと秩序(法)ができるのが日本人らしいとちょっぴり思いました。
ありがとうございます!
山田浅右衛門の話を聞くとアンリサンソンとの共通点が多いですね
山田家の最大の収入源は、人胆丸という人の肝(胆嚢や肝臓)を干して丸薬に練った薬やこの肝を干したときに滴る油を集めて作った軟膏だったらしいですね、この薬は様々な薬効があり特に結核にも卓効があったとかで、斬首刑が廃止された明治でも山田家に人胆丸の在庫は残っていないかという問い合わせがけっこうあったらしい。
愛知の明治村に外壁が格子になった木造監獄が保存されていますが、吹きさらしも同然で冬など収監されているだけで命に係わるはず。しかしそれでも衛生面に配慮し改良されているそうで、完全に和式だった江戸時代の牢屋となったら想像を絶していそうです…。
江戸時代にタイムスリップしたら初手牢屋にぶち込まれそうだから解説助かるわ
そいつぁちげぇねぇや!( ^∀^ )ガハハ
いつも日本人の心を思い出すようでなぜか癒されてます今回もおもしろいですありがとうございます漫画「銀魂」に登場する池田朝右衛門・夜右衛門というキャラの元ネタを今まで知らなかったのですが、山田浅右衛門なのだと、動画見てて気づきました勉強になりました〜
放火犯は牢屋内での扱いが特に酷くて、結審する前に殆どがタヒんだそうです。
山田浅右衛門も自分の仕事が汚れ仕事という自覚があったのか、寺社仏閣に多額の寄付を定期的にしていたみたいですね。
他にも6代目山田浅右衛門吉昌は斬首した罪人の髷の一部を埋める為の供養塔を建てて、菩提寺の祥雲寺に今でもある。
牢内が過密になりすぎると、「作造り」と呼ぶ恣意的な殺人も行われたからね。
バックの映像、人の流れがほぼ同じ方向にずっと絶えなくて不思議な感じ
「切り放ち」の話は時代劇の大岡越前?で見た記憶があります。ほとんど戻ってくるんだけど最後の一人が急病にかかって動けなくなってしまい、戸板に乗せて運ばれてギリギリ間に合って全員お咎めなし、という内容だったかな?
生死にかかわる事案の決裁は時間がかかる今の時代、死刑執行に時間がかかるのも似てますね
小伝馬町の動画はあちこちでやってるけどここのうp主さんのが一番面白かった
新作だ!ひとつリクエストします江戸時代のあだ討ちをお願いしますなかでも本壊とげるのに40年かかったと聞いた事があります
仕置人・天神のおやびんの手下が中尾彬扮する辻斬りバカ殿にトイレについてきっちり説明しているのに納得
山田浅右衛門はフランスのサンソン家に近い事してたんやな。これで、死体を使って解剖学を学んだり、その解剖学を元に医療行為をしてればまんまサンソン家
今回のネタと似た内容の投稿をを最近観たたことがある様な無い様な......まあそれはともかく。こういった最悪の環境から明治・大正・昭和にかけて「牢獄事情」がどう変わっていったのか?牢獄の中の制度や牢名主はいつ消えたのか?現在でもこういった名残はあるのか?等々、サブチャンネル「ゆっくり近現代」で解説して欲しいですね。『江戸の牢獄はこんなにも地獄でした。牢獄内では「地獄の沙汰も.....」が日常的に行なわれていました。新しく拵えた刀の試し切りに罪人を使いバッタバッタと切り捨ててました。罪人は生きた心地がしないですねー、まさに地獄そのものですね。お終い。』と、これで終わらせてしまってはもしかしたらいわゆる「冤罪」で牢に送られた人もいるわけで....この人達もいわれの無い罪を仕立て上げられ、「私はやっていない」というのは牢獄の中では通用するはずも無く何もしていないのに劣悪な環境、牢獄内のルールなどで何の罪もない人が「あの世」に連れていかれるわけで.....これでは彼らの「いわれの無い獄死」が浮かばれない。だからこそこの「牢獄事情」を仕舞いまで解説する必要があると私は思うのです。
今も昔も悪いことは出来んなあ…… 翻って冤罪がいかに重いか。 今回も面白かったです。ありがとうございました。
大金を盗んだら死刑とか、現代でも採用して欲しいですね
十両で死刑だから、基本今の経済犯罪は全て死刑にできる今は刑法の罰金が帝国憲法引きずってるから安すぎるけど百万で死刑なら解決するんだよね
今の犯罪者の待遇は余りにも良すぎる。
そのお考えはよくわかります。私も一市民として思うところはあります。ただ、「我々は塀の上を歩いているに過ぎない。右に落ちるか、左に落ちるかの違いしかない」という言葉を聞いたこともあります。右に落ちるか左に落ちるか…罪なきものとして生きるか、受刑者として生きるかということです。罪を犯したものを憎むと同時に、その言葉がよぎることもあります‥
犯罪者に住みよい社会にすれば犯罪者は増えます。当然のことです。安全なところにいる学者たちは、間違った実験をやめようとしていない。このままでは明日は私達も被害者、遺族です。
冤罪🥹🥹🥹
アメリカで実験的に砂漠の真ん中に非常に環境が悪く、管理も厳しい刑務所を作ったところ、そこに収監された犯罪者の再犯率は他の刑務所と比べて明らかに少なかったのだとか。
来た来た
拷問は老中を通して将軍の裁可が必要で、勝手にできなかったのではないですか?
江戸の検屍官という漫画でもそう解説していたけど、3巻で与力が容疑者を痛め付けていたのが現代なら拷問なのに漫画の中では拷問では無くて、拷問の許可を老中に申請していた。
町奉行は拷問のために際かが必要でしたが、火盗改め方は命令系統が町奉行とは完全に別なので公儀の裁可なしに拷問が出来たはず
だから拷問したかったら町奉行じゃなくて火盗改め方になったほうがいいですよ
24:47 これは西郷隆盛が幕府を挑発するために江戸で破壊工作や押込み強盗を指示していたから、更に治安が悪化した結果だから自業自得。
薬屋としての山田浅右衛門。
江戸時代は懲役刑という考え方がなく死刑執行を待つ死刑囚と裁判中の未決囚の収容施設でした小伝馬町の牢屋敷は明治に市ヶ谷に移転するまでの270年以上存在した石出家は家格は低いが実入(大名家臣や旗本、御家人を収監すると待遇を向上させと欲しい家族からのツケ届が多かった)が良かったので裕福でした市ヶ谷に移転後も住む人が現れず安田善次郎と大倉喜八郎が土地を買い上げ寺社を建立します今も住宅はなく寺社と中央区の施設しかありません
蛮社の獄で投獄された高野長英の娘は遊郭に売られて、死ぬまで客を取らされたらしいね。16で亡くなったとか、、、田原藩の家老、渡邊華山の日本画は結構好き。
ご存知でしたらお尋ねします。 プリゴジンは、秦剛は、あの···きっちゃんは、無事でしょうか? 姿が見えず寂しい限りで候。あらあらかしこ
徳川幕府全盛期から中期にかけて武家諸法度によって多くの大名家が潰されそれにより多く浪人が溢れ出し結果江戸の治安が乱れる要因になりました
70年代でも留置所の雑居房内にトイレがない署があった。昼間は、房外の水洗トイレに看守に「お願いして」行くのだが、夜間はオマルを使った。眠っている時以外は、正座が基本。飯は、署員が仕出しを取る業者の納入する弁当、落語に出てくるように、規定量詰めてあるようにみせる特殊芸能の詰め方。朝は薄い汁、昼はタクワン2切れ、夜は煮物くらいがわずかに入っていた。総カロリーで、1200くらいだったろう。金さえあれば、同店から高い差入弁当を買えた。鑑別所は普通20日間ほどで、食事の量は増え、2000近くはあり、米だけの飯だが、コクゾウムシが取り切れないほど入っていた。廊下に整列中、脱走を試みた英雄を目撃したがあえなく抑えられた。建物外からなら塀を越えるのはさして困難ではないだろうが、逃げ切るには、外部の支援が必要だったろう。2度経験したが、どちらも検察は起訴できていないので、拘置所の経験はない。60年ころ、市中の刑務所に未決囚を収容していたのだろう、腰縄手錠で歩かされ、裁判所や検察に押送されているのを日常的に見ていた。このムショは、赤レンガが美しい高い塀があり建築物としては嫌いじゃなかった。裁判所や検察、警察署などと1㎞以内の距離で並んでいた。
刑罰の抑止力の面を考えれば、現代と江戸時代でどちらが良かったかと思うことは有る。現行犯逮捕された犯罪者であれば冤罪などありえないのだから、その行為が残虐であれば等しく厳しく罰さなければ、世の中の人間に間違えたメッセージを与えることになる。犯罪者の事情など聞いていたら、事情があれば放火でも殺人でもやって良いことになる。
佐渡帰りのは吉宗の頃か確か炭入れられて三度目に死罪だったか?小笠原は二回目でと言うか、還れない状況だったけど
確か、大名や大商人だと金払って自宅の座敷牢には引き取れなかった?この辺は参考文献無いけど、家の名誉的に牢から死体引き取れないみたいな
半畳を投げるのは基本的に上流階級で半畳を投げるのは意味分かると多分ダメだよな
松蔭の勝因、江戸時代の身分と知識差は普通に今とは違うよな牢名主に便利なら本当に使われるのは空気読めないでなく文字読めないのは致死にと転生賢者でも無理だろうな
コメント多すぎ 〇〇〇〇かお前
@@yakiyakiyasai でしょ君の知識は?
ボクラノムダ知識は、蓄積されているモノなのよそれをキと言うなら、キッチリ否定できるのを提示してね
全く話通じてなくて草人のチャンネルのコメ欄で連投は迷惑だから辞めろって話なんだがご自身のご高説を垂れ流すならUP主みたくチャンネル作るか、文章だけでもnoteがあるからそっちでやればええやん…
仁のあり得ない話は、橘兄もな知ってるのにやれないのは信長の料理人的に無理なの知ってるのを何とかしたい予めしとけみたいな
江戸時代は刑務所には誰も10年間はいなかった。犯罪者もいなかった。牢屋も誰もいなかった。もっと調べてください。
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山田浅右衛門の話を聞くとアンリサンソンとの共通点が多いですね
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勉強になりました〜
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市ヶ谷に移転後も住む人が現れず安田善次郎と大倉喜八郎が土地を買い上げ寺社を建立します
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刑罰の抑止力の面を考えれば、現代と江戸時代でどちらが良かったかと思うことは有る。
現行犯逮捕された犯罪者であれば冤罪などありえないのだから、その行為が残虐であれば等しく厳しく罰さなければ、世の中の人間に間違えたメッセージを与えることになる。
犯罪者の事情など聞いていたら、事情があれば放火でも殺人でもやって良いことになる。
佐渡帰りのは吉宗の頃か
確か炭入れられて三度目に死罪だったか?
小笠原は二回目でと言うか、還れない状況だったけど
確か、大名や大商人だと金払って自宅の座敷牢には引き取れなかった?
この辺は参考文献無いけど、家の名誉的に牢から死体引き取れないみたいな
半畳を投げるのは基本的に上流階級で
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江戸時代は刑務所には誰も10年間はいなかった。
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もっと調べてください。